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2020年6月4日木曜日

ワイルドライフ('18)   ポール・ ダノ


左からジョー、母ジャネット、父ジェリー

<14歳の少年の成長譚が、今、ここに胚胎し、時間を溶かしていく>



1  大人の世界のリアリズムの洗礼を浴び続け、指針なき時間に宙摺りにされる少年





旱魃(かんばつ)の深刻化によって、米国西部の山火事による被害が拡大している現実は、大きな社会変動(公民権運動等)が目前に迫っていた米国社会の遷移とは無縁に、1960年代初頭のモンタナ州でも変わりなかった。

山火事の煙に覆われるロッキー山脈
グレイシャー国立公園/セントメリー湖とワイルドグース島(ウィキ)
グレートフォールズの一つ、ブラックイーグルの滝とダム(ウィキ)
グレートフォールズの街の遠望(映画より)

映画の舞台となったグレートフォールズは、ロッキー山脈北部の山々が、山火事の煙に覆われる大自然・グレイシャー国立公園(世界遺産)への起点の街である。

このグレートフォールズの町に、引っ越してきたばかりのブリンソン一家。

引っ越してきたばかりの家の夕景
夫ジェリーに解雇の理由を聞く妻ジャネット
夫を励ますジャネット
両親の話に聞き入るジョー

「また引っ越す?」とジョー。
「父さんは失業しても、必ず仕事を見つけてきた。今回も信じましょ」とジャネット。

これは、レッスンプロ(ゴルフ)の父親ジェリーが、唐突に馘首(かくしゅ)され、その妻ジャネットと14歳の息子ジョーとの短い会話。

職を転々とする夫に従い、連れ添ってきた妻は、思春期の真っ只中にあるジョーを案じて諭(さと)すしかなかった。

夫の失職で、元臨時教師のジャネットは、専業主婦という「利得」を捨て、YMCAのスイミング・インストラクター(指導)の職を得る。

スイミング・インストラクターとして働くジャネット
働くことを吐露する妻に「好きにしろよ」と言うジェリー

ジョーもまた、熱心に打ち込んでいたアメフトを辞め、写真館のバイトに就くことになった。

アメフトの練習を見るジョー
写真館のバイトに就くジョー

『アメリカは強い国だ。だが、もっと強くなれる。1960年という、困難が山積みの年に、もう一度、国を動かそう』

このラジオ放送を聞いたジェリーが山火事の消防士の募集に応募し、本人から何も聞かされていなかったジャネットは怒りを炸裂させる。

バイトから戻ったジョーは、その両親の険悪な場面に遭遇する。

「役に立ちたい」とジェリー。
「報酬は幾ら?」とジャネット。
「時給一ドル」
「バカげてるわ」
「短い間だ」
「死んじゃうかも」
「初雪が降れば帰って来る」
「あなたは逃げてるだけ!」

「時給一ドル」
「死んじゃうかも」
こんな調子だった。

決断したら、行動は速い。

子供っぽさと同居する、男っ気満載の男なのだ。

かくて、危険がつきまとう消防士の仕事に出発する父。

その父を、いつまでも見送る息子。

両親を思い遣る気持ちが強いジョーは、落ち込んで横になっている母に、父の言葉を伝える。

「怒らせる気はなかったって」

父の言葉を伝えるジョー

明らかに、言葉を選んでいる。

「信念は立派だわ。私を捨てる気かしら」
「まさか」
「最近、してなかったし…こんな話イヤ?引っ越すんじゃなかった。こんな寂しい場所に置き去りに…」

思春期スパートの渦中にある我が子に、「セックスレス」の状態を吐露する母親の言辞に戸惑うジョー。

ジョーが父母の確執に心を痛めるのは、両親から愛されていて、ナイーブだが、家計を助けるために、率先して写真館のバイトをする行為に現れているように、自分もまた、「壊れかかった家族」の一員であるという自覚があるからだ。

だから、「父」を欠いた家族の中枢にあって、ジョーは、本来、父母が為すべき家の雑務をも引き受けていく。

バイトで稼いだ金で、壊れたトイレの部品を買い、それを修繕するばかりか、夕食の買い出しをも切り盛りするのだ。

トイレを修繕するジョー
夕食の買い出しをする

山に夫が消えた後、すっかり変身した母は、水泳教室で知り合ったリッチな中年男ミラーと親しくなり、スイミング・インストラクターを辞め、彼の経営する自動車販売店の職を得たと言うのだ。

この辺りから、ジョーの視界に核家族のネガティブな変容が捕捉される。

スイミング・インストラクターを辞め、ミラーに厄介になり化粧が派手になるジャネット
ミラーを自宅に招く
自宅でのジャネット

家族が抱える厄介なシチュエーションに囚われるばかりで、学力が一気に落ちていく。

母の案内で、山火事の現場に随行し、それを間近で凝望 (ぎょうぼう)するジョーは、その烈々たる災害のリアリティを感受して、父の安否を思い遣る。

山火事の現場に着く
山火事の現場を視認する
山火事を視認し、驚きを隠せない
「この炎が彼を駆り立てる。悪いけど理解できない」

「悪いけど理解できない」

凄惨な現場を息子に見せつけることで、こんな仕事に魅了される男こそが異常だと言いたかったのである。

母の変貌は加速的だった。

ジャネットは背中が大きく開いたドレスを纏(まと)い、あえてジョーを連れ、ミラーの家のディナーに出向く。

そのディナーの場で、ジェリーに対する不満を言い立てるジャネット。

14歳の息子の前で、ラテン系のリズムに乗って、チャチャチャを踊って見せる母が、そこにいる。

チャチャチャを踊るジャネット
言葉を失い、立ち竦む息子。

「帰宅するわ」

すっかり酩酊したジャネットの言葉に、泊まることを促すミラー。

「僕が運転する」

「僕が運転する。父さんに習った…大丈夫。ちゃんと帰れる」とジョー。
「いい子ね。いつか大人になって、この町を出られるわ」とジャネット。

「いい子ね」

ジョーの頬に両手を添え、愛おしそうに話す母。

ここで、思いもしない行為が、ジョーの視界に侵入する。

帰宅するジャネットに、自分の上着を羽織らせたミラーが、突然、キスをしたのだ。

思わず、目を逸らすジョー。

振り切って、車に乗り込むジャネット。

上着を代えるために、再び、ミラー宅へ戻るジャネット。

不安になったジョーは車で待っていられず、ミラーの家の前に出向く。

家の窓から視認した現実は、ジョーを震撼させるのに充分過ぎた。

二人が交わすキスの生々しさ。

母ジャネットは、そのためにミラー宅へ戻ったのだ。

そう思ったに違いない。

「意外と楽しかったわ」

顔を紅潮させて、車に戻った母の一言に、絶句する息子。

事態の変容は加速的だった。

日に日に変貌するようだった。

夜中のこと。

ミラーが自宅に密かに訪れ、ジャネットの部屋で過ごした後、二人は車に乗り込んでいく。

それに気づいたジョーは母の寝室に入り、室内の様子を窺う。

下着が散乱し、酒が置かれていた。

そこにジャネットが戻って来た。

瞬時のことだった

反射的に、ジョーの頬を叩くジャネット。

「コソ泥みたいに!」
「そんな気は…奴は何しに?」
「関係ないでしょ」
「愛してるの?父さんのことは?」
「ジェリーは、私とやっていきたい。でも、私はムリかも。死んじゃいたい。他の道があるなら教えて。やってみるから。今よりマシかも」

嗚咽の中から言葉を絞り出すジャネット。

「分からない」

そんな反応しか持ち得ないジョー。

「家族の崩壊」という、手に負えない煩慮(はんりょ)を抱えた少年に、この時、一体、何ができたのか。

人生の分岐点とも言える厄介事に弾かれ、不如意(ふにょい)に翻弄されたのはジャネットのみならず、14歳のジョーも同様だった。

思うに、自我防衛戦略の一環として、「女」をセールスすることで、ただ単に、「喪失感」を癒す時間を漂動するジャネットの「愉楽」が手に入れる「非日常」の軽走感よりも、丸ごと、大人の世界のリアリズムの洗礼を浴び続け、指針なき時間に宙摺りにされ、不安と恐怖だけが累加される渦中で、その主体性が剝(は)ぎ取られたジョーの思春期自我が負う重量感の方が、〈生〉の構築に関わる深甚(しんじん)さにおいて、遥かにシビアであるとも言える。





2  「人は善きことを記録するために写真を撮る。幸せな瞬間を永遠に残そうと」





ジェリーが山から戻って来たのは、晩秋が過ぎ去り、雪が降ってくる初冬の季節だった。


素っ気ない態度のジャネット。

「山火事は収まった?」
「ほぼ消した。あとは雪が。地獄だったよ。気が触れて、炎に飛び込もうとする奴も」

「恐ろしいわ」
「生きて帰れてよかった」
「私たちも嬉しいわ」
「いい知らせだ。森林局の仕事が決まった。ロッキー山脈の東だ。家も用意してくれる」

「また引っ越し?」とジョー。
「そう遠くないし、これから、山はいい季節だ」
「私からも知らせが」
「何だい?」
「アパートを借りたの。自分用に。いつでも移れる。狭いアパートだけど、ジョーの部屋も。驚いた?自分でもヒックリよ」
「気が違った?」
「いいえ、まともよ」
「俺が山に行ったから、怒ってるのか?」
「違うわ。もう怒ってない」
「じゃあ、何だ?」
「色々、整理したいの」
「整理って?男できたか?」

「そうよ。でも、これとは無関係」
「相手は?誰だ!」
「ウォーレン・ミラー」
「奴と暮らすのか?」
「1人でアパートに住むの。川のそばよ」
「クソ!なぜだ!仕事のストレスか?」
「そうじゃない」
「愛が冷めた?」
「そうね」
「なんてこった!たまげた!」

嘲弄(ちょうろう)するように、失笑するジェリー。

「まじめに聞いて。やめて!」
「最低な女だ」
「ホントね」

以下、酒場での父子の会話。

「俺に言えないようなことを、母さんはしたのか?どうだ?2人一緒のところを?」



「見た」

「どこで?」
「家だよ」
「俺らの?」

その話を聞いた瞬間、激昂したジェリーは、矢も盾もたまらずミラーの家に向かい、玄関先にガソリンを撒いて火を放つのだ。


ところが、ジェリーの足に引火し、怒り狂ったミラーは彼に殴りかかってきた。

瞬時、呆気に取られていたジョーは、必死に父親を守ろうとする。

「息子の目の前で、逮捕されたいか!いい恥さらしだ!」

身悶えし、弱々しく、手を貸すよう求めるジェリーに対し、ジョーはそれを拒み、その場から走り去っていく。

既に消防車が来て、消化作業が始まっていた。


夜の道を走って、走って、走り抜いて、辿り着いた先は地元警察署。

どれほどの時間が経過したのか、少年自身も分からない。

少年の疾駆には、言葉にならない感情が埋まっている。

しかし、辿り着いた先に父親はいなかった。

自宅に戻ると、心配そうに両親が待っていた。

結局、ジェリーはミラーと話し合い、誤解があったと合意し、示談になったことで逮捕されることはなかった。

「告訴はされない」とジェリー。
「どうなるの?」とジョー。

「どうなるの?」
「何も起きない」
「違う。僕らの家族だよ…母さん、うちはどうなるの?」
「分からない…最低な母親ね」
「おやすみ」

「最低な母親よね」

時の変化は速い。

2人で住むジェリーとジョー。

ジェリーはセールスマンとして働いていた。

どこか、かつての猪突猛進の男と異なる雰囲気を醸し出していた。

そこに、 ジャネットはいない。

彼女はオレゴン州ポートランドで教師の職を得て、一人で身過ぎ世過ぎを繋いでいた。

そのジャネットが、久し振りに帰って来た。

食卓を囲む、元家族。(トップ画像)

ジョーの成長が際立っていた。

成績も優秀で、写真館のアルバイトも、殆ど「セミプロ」の上達ぶりで、写真撮影も任されていた。

そのジョーが、一計を案じる。


写真館に両親を呼び、両端の椅子に父母を座らせ、その中央にジョーが座り、一枚の大切な写真を撮ったのだ。

気まずそうに座る両親
バイトを始めた頃、写真館の主人に言われた言葉が、このラストのショットで鮮やかに想起される。

「人は善きことを記録するために写真を撮る。幸せな瞬間を永遠に残そうと」

まさに、「善きこと」を記録し、「幸せな瞬間」を永遠に残したのである。

この家族の復元が叶わなくても、今、この時だけは永遠の時間であったのだ。





3  14歳の少年の成長譚が、今、ここに胚胎し、時間を溶かしていく





この映画を観て思い起こしたのは、アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の最高傑作「ラブレス」という、酷薄なる状況に押し込められた少年を描いた作品だった。

アンドレイ・ズビャギンツェフ監督

拙稿・「人生論的映画評論・続」の中で、「『否認』の『トラウマ』が自我の底層に固着し、感情処理の出口が完全に塞がれてしまっていた」というサブタイトルつけたほど、それぞれ愛人を持つ両親から遺棄されたアレクセイ少年は、漏れる嗚咽を必死に押し殺していた。

以下、少し長いが、冒頭の両親の会話を再現する。

「君は例の件、考えた?」
「何を?」
「女親が引き取るべきだ」
「最低な人ね」
「母親が必要だ」
「あの年頃には父親の方が。あなたじゃダメかもね。寄宿舎なんて、サマーキャンプと同じよ。軍隊に入る時の練習だと思えばいい。私に何を期待してたわけ?また、失敗の尻拭いをさせる気だった?もうゴメンよ。前に進ませてもらう」
「責められるぞ」
「あなたがね。でも誰に?」
「ソーシャルワーカーとか児童心理者とか、行政監察官」
「じゃ、自分で引き取れば?」
「母親の方が責められる」
「心配してくれるわけ?優しいこと。ソーシャルワーカーは大喜びでしょうね。子供を救えるんだもの。親がどんなに傷ついていても、お構いなし」
「もう一度、お義母さんに相談を」
「自分の両親の霊に相談すれば?母にはキッパリ断られた。子供を心配していると思った私がバカね。あなたがクビになったら、笑える。子供を施設に送るなんて、キリスト教徒らしからぬ行為。まったく情けない人」
「もう、うんざりだ」
「ムカつく」
「あの子には、いつ?」
「知らないわ。あの子には、あんたが話すの。いつでもどうぞ。今、起こせば?さっさと行って」

―― 以上、離婚を前提にした夫婦の毒気満点の会話である。

両親の言い争い

この会話を、少年自身が立ち聞きしていたのだ。

アレクセイ少年は口を手で押さえて、漏れる嗚咽を必死に押し殺し、自分の部屋に戻り、泣き続けるだけだった。

遣り切れない両親の、遣り切れない会話を立ち聞きしたアレクセイ少年が失踪するのは、殆ど約束済みだった。

遺棄されるアレクセイ少年
市民ボランティアの捜索
「ラブレス」より

映画の展開は、当然の如く、失踪した少年を捜索する流れに振れていく。

映画とは言え、繰り返し観るたびに、アレクセイ少年の嗚咽に胸が張り裂ける思いを抑えられなかった。

―― そして今、私が観た「ワイルドライフ」という、想像以上の秀作に深い感銘を受けたのは、アレクセイ少年の絶望的な哀咽(あいえつ)の物語と切れ、14歳のジョーが被弾した痛みの連射が、アメフトの練習をしている父子のシーンから開かれたように、本作が「ネグレクト」という最も重要な分岐点になる危うい一語と乖離し、むしろ、「家族崩壊」に下降する気息奄々(きそくえんえん)の物語の中枢にあって、青春期へと架橋する思春期自我を確立していく成長譚に収斂させる行程が、説得力のある筆致で描かれていたからである。

アメフトの練習をしている父子

ジョーという名の少年を実質的に主人公にする物語は、同様に、物語の展開と根柢的に関与しつつも、物語それ自身に決定的な影響を与えるアレクセイ少年と、そこだけは乖離し、「分からない」というセリフの多用に見られるように、下降する家族のネガティブな流れに翻弄された経験の累積が、少年の未成熟な自我に滋養を補給し続けたという一点において、それ以外にない成長譚に昇華されていったのである。

ラストシーンで判然とするように、成長譚に収斂されるジョーの気働きの行為が、頼りない両親の精神的和解を具現し、少なくとも、それまでの未成熟な振る舞いを、その最低限の適応能力を発現させる辺りにまで変容させていく。

抜きん出て秀逸なラストシーンのフレームが、「家庭」というミニマムなスポットを劈(つんざ)き、炸裂し、捩(ねじ)れ切って軟着する、この映画の達成点こそ、実り豊かな一個の成長譚をラストの「救済譚」に押し上げたのだ。

もとより、アレクセイ少年の魂を圧(お)し潰した、エンドレスな「負の連鎖」の関係構造と決定的に異なって、ジョー少年は、本人の思いと重なる程度において、父母から「基本・愛情」のアウトリーチのシャワーを被浴したことで、ネグレクトという社会文化的な文脈と無縁であった。

とりわけ、ジョー少年は、野趣あふれた父ジェリーを愛する気持ちが強い。

山に行く父と子の一時(いっとき)の別れ

使命感を抱懐することで、矜持(きょうじ)を自己確認するかのようなジェリーが、山火事の消防士として、グレートフォールズを出発するシーンが印象深かった。

父との一時(いっとき)の別れ
いつまでも父を見送るジョー
トラックの荷台で

いつまでも、父を見送るジョーの後姿から、父の無事を祈る心緒(しんしょ)がひしと伝わってきて、一家の長としての役割を果たすことを念じる思いの強さを感受できる。

プライドの高いジェリーが、馘首(かくしゅ)を取り下げられても、復職を拒んだエピソードは極めて重要である。

レッスンプロの仕事に従事するジェリー
父と子(ゴルフ場で)

一流のプロゴルファーになれなかった無念が、常に、ジェリーの内側に塒(とぐろ)を巻いているが故に、罷(まか)り間違っても、「解雇」という言辞を耳にしただけでアウトになる。


支配人(右)とジェリー/この直後、解雇を言い渡される
支配人とジェリーの話を聞き、不安を覚えるジョー
父に解雇の取り消しを知らせるジョー
拒絶するジェリー
殆ど幻想でしかない、「アメリカン・ドリーム」への挫折のくすみが、このような行為に結ばれるから、職を転々とする生きざまを現出してしまうのだ。

「アメリカン・ドリーム」への挫折のくすみ

ジェリーが引っ越しのリピーターになった心理的背景は、この辺りにあるだろう。

父ジェリーが馘首される現場に居合わせたジョーの、不安げな表情が強く印象づけられたシーンは、この父子の密な関係構造を垣間見せていた。

「善き父」ではなかったが、「親愛なる父」だった。

そういうことだろうか。

一方、母ジャネットに対するジョーの思いは、複層的に絡み合っていた。

教員の資格を持つ母と、学力優秀の息子(序盤のシーン)

14歳の少年の理解の範疇を超えていたからである。

当然ながら、セルフコントロールが乱れ、それを復元できずに、「流れ」に身を任せてしまった母の心理の本質が理解できずとも、「大人の世界」の卑陋(ひろう)な様態に呑み込まれ、「不承知否定」(ネガティブ)の観念を、自らの成長譚にアウフヘーベンし得る能力が足りなかった。

夫の不満をジョーに吐き出すジャネット
ミラーとの関係の深さを、息子の前で見せてしまうジャネット
言葉を失うジョー
自らの行為を恥じ、ジョーの前で嗚咽するジャネット

「最低な母親ね」とまで自嘲し、今、オレゴン州ポートランドで教師の職を得て、自立するジャネットの〈生〉のリアリズムに、ジョーのEQ(心の知能指数)が届いていたか否か不分明である。

【因みに、EQ(心の知能指数)とは、米国の心理学者ダニエル・ゴールマンが提示した概念で、私はそれを、「メタ認知能力」(「自己とは何か」)と「人間洞察力」を併せ持つ、ヒトの独自の形成的能力であると考えている】

ダニエル・ゴールマン
「父親は、アメリカン・ドリームに挫折して、自分を見失う。どうしていいかわからなくなるんだ。でも彼もまた、映画の最後に向かって成熟する。母親は、この時代の母親たちがそうであるように、良い母であろうと頑張っていたのが、現実の困難に直面して躓(つまず)く」(ポール・ダノ監督オフィシャル・インタビューより)

ポール・ダノ監督
プロゴルファーになれなかったトラウマを表現するジェリー
プライドだけは捨てられない男
父の心情を汲み、視認するジョー

ポール・ダノ監督の分かりやすいこのインタビューは、本作の総括であると思えるが、「良い母であろうと頑張っていた」ジャネットの変貌には、複雑な要因が絡み合っていると考えているので、その辺りについて言及したい。

一体、ジャネットの変貌の本質にあるのは何だろうか。

「他道があったら教えて。やってみるから」

ジャネットのこの言葉が、彼女が捕捉された精神状態を代弁しているだろう。

プライドの高いジェリーの心理を、不承不承(ふしょうぶしょう)、理解を示しながら、それでも、妻子を捨てるかのように、山に向かった夫の行動を許せなかった。

なぜ、自分だけが忍従せねばならないのか。

夫の不満をジョーに吐き出すジャネット

ジャネットの、その思いの強さが、画面一杯に噴き上げていた。

【その辺りに、「新しい女性の創造」の出版で男女差別の解消を訴えて、1960年代のウーマンリブ運動をリードした米国のジャーナリスト、ベティ・フリーダンの影響が見て取れる】

ベティ・フリーダン(ウィキ)

ともあれ、専業主婦が家計のために、水泳教室のインストラクターを続けざるを得なかった。

そこで知り合った初老の男と男女関係を持ち、着飾ったドレスを身に纏(まと)い、裕福な雰囲気を存分に味わい、「楽しかったわ」などと、一人息子のジョーに言ってのける。

それは、「ロデオ・クイーン」と呼ばれていた、若き頃の愉楽した時代について、ジョーに吐露することで、「失った時間」を復元しようとするジャネットの内部に巣食う、遣り切れない人生を余儀なくされた切迫感が可視化された心的現象であると言っていい。

「あなたは逃げているだけ!」と叫んで、夫を誹議(ひぎ)するジャネット

だから、特段に魅力を感じないミラーとの情事に走る。

相手が誰であっても、「男」という何ものかに、自分の魅力を発見させることで、自らの「女」としての魅力を確認するのだ。

「世間」というモラルから逸脱したジャネットの行動は、それ以外にない、彼女なりの〈生〉の発現様態なのである。

しかし、ジャネットの行動は、風景を大きく変えていく。

状況が動いてしまうのだ。

何より、そこで惹起した問題のコアは、「家族」という名の「情緒の共同体」を変えてしまう破壊力があった。

その破壊力を認知しつつ、ジャネットは動き、〈私の人生〉を再構築する行為に打って出る。

自らが定めた行動指針を変えるという選択肢は、彼女の胸裏になかった。

確信犯なのである。

それ故にこそと言うべきか、ジャネットは一人息子のジョーに謝罪し、ラストの「救済譚」に感謝する。

かくて、「家族」という名の「情緒の共同体」が自壊しても、〈私の人生〉は延長される。

いつまでも続くのだ。

悔いはない。

再構築された〈私の人生〉に鮮度を見出し、再構築していく。

それ以外にないのだ。

誰が間違っていたか否かは、もう、特段に掘り起こす必要がない。

掘り起こさなくとも、ほぼ正確に理解できている。

それだけで充分である。

何より、「家族崩壊」で最も被弾した14歳の少年の成長譚が、今、ここに胚胎(はいたい)し、時間を溶かしていったからだ。

新たな生活に踏み入れていく元夫婦

(2020・5)

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