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2020年2月26日水曜日

ラブレス('17)   アンドレイ・ズビャギンツェフ


<「否認」の「トラウマ」が自我の底層に固着し、感情処理の出口が完全に塞がれてしまっていた>





1  漏れる嗚咽を必死に押し殺す少年





ズビャギンツェフ監督の最高傑作。

英当局によって特定された「在英ロシア人元スパイ毒殺未遂事件」(2018年/有毒な神経剤「ノビチョク」による毒殺未遂)に象徴される、現代ロシアのきな臭い政治状況の心理圧にめげず、これほどの映像を構築する映画作家が存在することに救われる思いを持つ。

外交官23人の国外追放について説明するメイ英首相

ハネケ監督と共に、次回作を最も待望して止まない映画作家である。

この監督の映画を観たら、邦画を観る気が完全に失せる。

感傷過多の邦画界は、何とかならないのだろうか。

―― 以下、梗概。

離婚を前提にした夫婦の毒気満点の会話から起こしていく。

「君は例の件、考えた?」
「何を?」
「女親が引き取るべきだ」
「最低な人ね」
「母親が必要だ」
「あの年頃には父親の方が。あなたじゃダメかもね。寄宿舎なんて、サマーキャンプと同じよ。軍隊に入る時の練習だと思えばいい。私に何を期待してたわけ?また、失敗の尻拭いをさせる気だった?もうゴメンよ。前に進ませてもらう」
「責められるぞ」
「あなたがね。でも誰に?」
「ソーシャルワーカーとか児童心理者とか、行政監察官」
「じゃ、自分で引き取れば?」
「母親の方が責められる」
「心配してくれるわけ?優しいこと。ソーシャルワーカーは大喜びでしょうね。子供を救えるんだもの。親がどんなに傷ついていても、お構いなし」
「もう一度、お義母さんに相談を」
「自分の両親の霊に相談すれば?母にはキッパリ断られた。子供を心配していると思った私がバカね。あなたがクビになったら、笑える。子供を施設に送るなんて、キリスト教徒らしからぬ行為。まったく情けない人」
「もう、うんざりだ」
「ムカつく」
「あの子には、いつ?」
「知らないわ。あの子には、あんたが話すの。いつでもどうぞ。今、起こせば?さっさと行って」

妻ジェーニャは夫ボリスを置き去りにし、その部屋を去っていく。

夫と言い争うジェーニャ。スマホを手放さない
妻と言い争うボリス

トイレに行き、「話はもう終わりよ」と言い放つ。

あろうことか、リビングの外の扉の陰に隠れ忍んで、両親の言い争いを、一人息子アレクセイが耳に入れてしまった。

口を手で押さえて、漏れる嗚咽を必死に押し殺すアレクセイ少年。

トイレから戻って来ても、両親の激しい言い争いが続く。

「何も言わないで。顔も見たくない!今すぐ、出て行って!邪魔なのよ!」
「俺の家でもある!」
「売れたら、半分あげるわよ!」
ジェーニャ

遣り切れない映画の、遣り切れない夫婦の、遣り切れない会話の一部始終である。

この遣り切れなさは、この会話を耳にした一人息子・アレクセイの〈生〉を決定づけることで、ピークに達する。

その夜、アレクセイはモスクワ郊外のマンションにある自分の部屋に戻り、泣き続けるだけだった。

この夫婦の会話で判然とするように、二人には愛人がいて、既に、売りに出している自宅マンションに帰宅しない日々を繋いでいた。

夫ボリスの愛人の名は、妊娠中のマーシャ。

妻ジェーニャには、留学中の娘を持つ47歳の恋人アントン。

ボリスとマーシャ
ジェーニャとアントン

今や、アレクセイの養育義務を、夫婦のどちらが負うかというテーマだけが喫緊の課題だった。

翌朝、母が作った朝食を、もう食べられないというアレクセイ。

「残りは捨てろとでも?何よ、具合悪いの?」
「違うけど…」
「まあ、いいわ。“ごちそうさま”は?」

この間、母親ジェーニャは、ずっとスマホをいじり続けている。

母親ジェーニャとアレクセイ

ノモフォビア(スマホ依存症)を印象づけるほど、スマホを手離せないのだ。

無言で着替え、家を出て、何ものも視界に収めることを拒絶するかのように、階段を走り去っていくアレクセイ。

2012年10月10日の出来事である。
アレクセイの最後の姿





2  何かが変わり、何かが希薄になっていく





「配偶者との別れは、死別以外、認められない」という会社に勤務するボリス。

社長が熱烈なロシア正教会の教徒なのだ。

自分の離婚を知られないように、同僚から会社の離婚状況を聞き出す。

「離婚しても、すぐ再婚すれば、バレない」

同僚から会社の離婚状況を聞き出すボリス
ボリスの職場の食堂

この同僚の言葉を聞いて、どうやら、ボリスには、馘首(かくしゅ)されないための「離婚・即再婚」という、唯一の戦略の駆使にのみ思考が集中しているようだった。

一方、美容サロンのマネージメントに従事するジェーニャは、47歳の恋人アントンに、自分の思いの丈(たけ)を吐露していた。

「夫は愛してなかった。初めての男よ。うっかり妊娠して…彼は大喜びでプロポーズ。“僕らはうまくいく”って。でも、私は嫌だった。怖かったの。堕ろすのも、産むのも怖かった。子供なんて欲しくなかった。お産の時、あのまま死ぬかと思ったわ。子供を連れて来られた時、見たいとも思わなかった。ゾッとしたの。お乳も出なかった。でも、そのうち日常生活が始まった。何となく」
「愛のない日常。そんなの続けられない」
「今でも、あの子を見ると思うの。“何ていう失敗をしたのか”と。あの子と自分を責める。幸せになりたい。私はモンスター?」
「間違いなく」

そんな冗談が通用しない出来事が起こった。

アレクセイの不登校(2日間)の事実を担任教諭から知らされたジェーニャは、勤務中のボリスに電話をかけるが、当然、知る由もない。

アレクセイの行方をボリスに尋ねる
アレクセイの行方を尋ねられ、「分らない」と答える

警察に通報するジェーニャ。

「犯罪性はない」

家宅捜索後の警察の、呆気ない対応である。

我が子についての情報の欠如が露わにされ、結局、アレクセイは「家出人」扱いで処理されることになる。

警察の管轄外の仕事であると、あっさり一蹴されたのだ。

「市民の捜索隊に依頼したらどうか」

かくて、警察のこの助言を頼りに動く「家出少年捜し」が、民間ボランティアを中心にした物語が展開していく。

市民ボランティアのリーダーのイワンに、アレクセイの捜索を依頼する夫婦

市民ボランティアのリーダーの名はイワン。

このイワンの指揮下に置かれた団体の、組織立った活動は、観る者の想像を超えていく。

市民ボランティアという「プロ集団」の合理的活動は、友人関係、メール、SNSは勿論のこと、自宅周辺や近辺の森など、考えられる居場所を虱潰し(しらみつぶし)で捜索に及び、あらゆる手立てを駆使していくが、それでも埒(らち)が明かなかった。

両親がいないボリスと異なり、ジェーニャの実母を訪ねることになったのは、考えられる縁者がジェーニャの実母以外に存在しなかったらである。

しかし、実母との関係が悪く、今や全く交流のない、ジェーニャの母の家屋は鉄壁の「城砦」を作り、真夜中の複数の来客に腹を立て、怒鳴り散らすばかりだった。

「子供が消えたなんて嘘だろ。同情を引くための。おあいにくさま。その手には乗らない。離婚するから、子供を押しつける気だね?ゴメンだよ。子守をするつもりはない。妊娠した時、“冷静になれ”と言ったら、お前は“くたばれ”と答えた。“後で泣きついても遅い”と言ったはずだ。こうなったのも自業自得。思い知るがいい」

不愉快な対応するジェーニャの実母

以下、ジェーニャの実母の家からの、帰りの車内での夫婦の会話。

「あなたを愛してなかった。母から逃げたかっただけ。出口を探してたら、あなたが現れたの。あなたを利用したと思ってたけど、家庭を求めるあなたに利用されたのよ。あなたでなくても、よかった。誰かと暮らせたら、それで…妊娠さえしなければ…でも、それが失敗だった。中絶すればよかった」
「そうだな。皆のためにも」とボリス。
「あなたは結局、同じことをしてるじゃない。他の女を妊娠させて、不幸に陥れたあなたのお陰で、人生台無し。私自身を愛してくれる人と巡り合えたからいいけど…」

相も変わらず、全てをボリスのせいにするジェーニャの物言いに立腹したボリスは、「この、アバズレ!」と怒鳴り、ジェーニャを車外に追い出した。

「失せろ、アバズレ!」と怒鳴って、ジェーニャを車外に放り出す

堪忍袋の緒が切れたボリスの言辞は、ジェーニャの実母の悪口雑言をトレースするものだった。

そして、肝心のアレクセイ。

ボランティアを増員し、ローラー作戦による捜索活動が本格化しても、アレクセイの居場所が特定できない。

自宅周辺の監視カメラにも映っていないのだ。

かくて、アレクセイの友人に聞き込みを実施する。

アレクセイの友達
アレクセイの友達に「秘密基地」の場所を聞き出すイワン

そこで得たのは、「秘密基地」が存在するという貴重な情報。

森の中に潜む、廃墟ビルの地下室。

これが、一縷(いちる)の望みを残す「秘密基地」。

「秘密基地」の入り口
ボリスは「秘密基地」でアレクセイの上着を発見する
 市民ボランティアの捜索 
市民ボランティアの捜索 
「アレクセイ」と呼びかける捜索隊/右はボリス

アレクセイの上着が発見されたが、ここでも手がかりすら見つけ出せず、一縷の望みも破綻する。

市内の病院を巡ったジェーニャは、警察に捕まって留置されていた少年を確認するが、その少年もまたアレクセイではなかった。

ここで、組織を取り仕切るイワンの指示が飛ぶ。

「捜索に進展がない中、天候の悪化が懸念されるため、次の段階に移ろうと思う。地元民への呼びかけに全力を尽くし、できる限り、多くのチラシを貼り出そう。バス停や地下道。アパート、電柱、ベンチ、掲示板、フェンス。店舗に貼る時は、必ず許可を取ること。5人ずつ2チームで、アパートの階段も捜せ」

「医療行為は医師に任せること」と仲間に指示する
「次の段階に移ろうと思う」という指示を出すイワン

驚くほど合理的で、倫理的な統制が取れている市民ボランティアの活動の内実に、深い感銘を受ける。

警察との職域を分け、自らの目的意識を明確に抱懐し、ボランティア活動に従事する市民たちの行動を、全面に映し出す映画の提起力こそ、一つの身勝手な夫婦の行動の文脈との対比効果を鮮明にするものだった。

5人ずつ2チームの編成で、貼り紙を町中に貼っていくボランティア。

張り紙を各地に貼っていく市民ボランティア

雪が降ってきた。

季節の変化は速い。

身重のマーシャのベッドで眠ってしまうボリス。

捜索活動で疲弊し切ったボリスと、それを案じるマーシャ。この辺りから、「アレクセイの失踪」を自分の問題として初めて考えていくようになるボリスとジェーニャ

物理的・精神的に疲弊し切っているのだ。

「会社・絶対」のボリスに、変化が読み取れる。

今や、アレクセイの行方のことしか、念頭に置いていないように見える。

ジェーニャも同様だった。

アレクセイの捜索で疲弊するジェーニャ。それを案じるアントン

何かが変わり、何かが希薄になっていく

警察から連絡が入ったのは、そんな折だった。

不審な死を遂げた者が、解剖前に置かれている遺体安置所。

そこに、ボリスとジェーニャが呼ばれたのである。





3  晩秋の森の中で少年が放ち、枝に引っかかったままのテープがなびいていた





「辛いですよ」とイワン。
「覚悟はできてる」

イワン
「覚悟はあります」と答えるジェーニャ 

そう言い切ったジェーニャだが、原型を留めない遺体を視界に収めた瞬間、思わず顔を手で埋め、声を上げた。

「そんな!」

遺体を見た瞬間、衝撃で、思わず嗚咽するジェーニャ

遺体を見ること自体、衝撃的だったのだろう。

暫時、間を取って、今度はきっぱり言い切った。

「違うわ。アレクセイには胸にホクロがある」
「違う」

ボリスも同調する。

「確かですか?」とイワン。
「あの子じゃない。手も指も髪も違う…もう片付けて…もういいから」
「念のために、DNA鑑定をした方が」とイワン。
「必要ない。別人だ」とボリス。
「信じたくないだけの場合も…」とイワン。
「何度言わせるの?」とジェーニャ。
「お願いします。このままでは、捜索も行き詰って…」
「あの子じゃないって、言ってるでしょ!どうして分らないの!あんたも何とか言いなさいよ!なぜ言わないの!」

抑制系の効かないジェーニャは、一転して、反応が弱いボリスを叩き続けるのだ。

「あの子を手放すつもりはなかった!誰にも渡すつもりはなかった!何があっても!」

泣き叫ぶジェーニャ。

理性を失ったジェーニャの気性の激しさと、しゃがみ込み、号泣するボリスの対比が際立っていた。

号泣するジェーニャ

このシーンで、ほぼ確信的に言えること。

遺体がアレクセイであったか否かは定かではないが、少なくとも、ボリスとジェーニャが、「遺体がアレクセイである」という、「見てはならない現実」を「見てしまった」ことである。

「見てはならない現実」を「見てしまった」こと。

これが、この「闇の世界」で「体験」してしまったのである。

だから、他人の遺体を見ただけで、ボリスの号泣は止まらない。

号泣するボリス

アレクセイでなかったら安堵するのが、普通の人間的な振る舞いであるにも拘らず、かくまでも、狂ったように暴れるジェーニャ。

この行動は、無論、演技ではない。

アレクセイの死を認めないで、「喪った我が子」を嘆き、母性を強調する類の演技ではない。

或いは、自分の責任を咎(とが)められる事態を糊塗(こと)する演技ではないのだ。

寧ろ、喪ったことで、初めて自分の責任を感じる「母」の「悔い」の感情が全開したのである。

「あの子を手放すつもりはなかった!」と喚き散らすジェーニャの言動は、「悔い」の感情の反転的態度の表出だった。

DNA鑑定を拒否したのは、もう、これ以上、この「闇の世界」に長居したくないという感情の発現である。

離婚と養育保護の義務で激しく揺れる、ネグレクトの最前線からの脱出を試み、自死に振れた可能性の高いアレクセイの内面の一端にようやく届き得た両親の心情が、それぞれの感情表出に現れたのである。

本篇のコアとなるメッセージが、ここにある。

【仮に遺体がアレクセイであったら、恐らく、「秘密基地」で上着を脱ぎ、警察の職域にあり、ボリスがじっと見ていた川に飛び込み、自死に及んだのだろう】

マンションをリフォームした窓から見える初冬の風景

―― 事件から2年が経過した2014年。

東ウクライナでの内戦勃発のニュースが、テレビで流されている。

テレビ中継を漫然と見るボリス。

室内で幼児が遊んでいる。

テレビを見るボリスの目の前で騒ぐ赤ちゃんに不快感を持ち、ベビーベッドに放り込む
泣きじゃくる赤ちゃん

ボリスは、マーシャとの間に産まれたその幼児をベビーベッドに放り込む。

そこに捨てられた幼児の泣き声。

笑みを失ったかのようなボリス。

彼の日常の一端が映し出されていた。

一方、相変わらず、スマホを手放せないジェーニャ。

ここにも、全く笑みを拾えない。

再婚相手のアントンは、血生臭い泥沼の内戦と化す、「ウクライナ東部紛争」を伝えるテレビ中継を見ている。

「2014年ウクライナ騒乱」のテレビ画面を見るアントンと、スマホをいじるジェーニャ
「ポロシェンコ(ウクライナの大統領)と政府閣僚と、その家族と、孫と曾孫と母親が、この恐怖を半年間、味わえばいい!私たちは何のために死ぬの?罪もない労働者が、どうして苦しまなきゃいけないの?」

中年女性の叫びが、画面を通して伝わってくる。

テレビ中継に無関心なジェーニャは、まもなく、ランニングマシンに乗り、走り続ける。

ランニングマシンで運動するジェーニャ
運動を終えたジェーニャ
運動を終えて、彼女の向こうに見えた風景は「アレクセイの失踪」を伝える張り紙
走り終えた向こうに見えたのは、「“アレクセイ・スレプツォフ 2000年生まれ 2012年10月10日 失踪”」という貼り紙。

元夫婦ともに、「アレクセイ失踪」のトラウマから解放されていないのだ。

ラストシーン。

厳冬の森を映し出したファーストシーンに繋がっていく。



晩秋の森の中で、アレクセイが放ち、枝に引っかかったままのテープがなびいていた。

一人の少年が支配していた映画が、誰にも気づかれることがなかったテープの残像を置き去りにして閉じていく。

言葉を失うラストカットに、この作り手の並々ならぬ創作意図が伝わってくる。

比肩すべき何ものもない強い映画だった。





4  「否認」の「トラウマ」が自我の底層に固着し、感情処理の出口が完全に塞がれてしまっていた





張り裂くようなピアノの響きが、突として、観る者の緊張感を触発する。

雪が堆積する「厳冬の森」の、無彩色の木々と川のせせらぎ。

鳥が囀(さえず)り、遠くで走る列車音を、フィックス(固定撮影)で撮ったカメラが拾ってくる。

コントラストの季節の風景を効果的に提示するオープニングシーンの鋭利な構図が、全篇を貫流するトラジックな響きをシンボライズしているようだった。





映像は、晩秋の2012年10月10日に焦点を当てる。

【その年は、クレムリンで行われた就任式典を経て、ロシア共産党のジュガーノフ委員長の批判を浴びつつも、メドベージェフ大統領と交代する形で、圧倒的な人気を誇るプーチン首相が大統領に返り咲いた年である。2012年5月7日のこと。また、2014年は、「2014年ウクライナ騒乱」以降、ロシアは、ウクライナなど3国の領土保全と安全保障を確認した「ブダペスト覚書」に違反する、ウクライナ南部クリミア半島を軍事行動で併合した。このロシアの侵略行為によって、1万3千人もの犠牲者を出したウクライナ東部の紛争が惹起した。明らかに、本作には、母国ロシアの歪んだ政治状況への痛烈なアイロニーが隠し込まれている】

2014年ウクライナ騒乱/キエフの独立広場にて、政府軍と抗議者との争乱(ウィキ)
2014年ウクライナ騒乱/キエフの独立広場で行われる大きな集会に集う抗議者たち(ウィキ)
レンガや火炎瓶を警察に投げつける抗議者
2014年ウクライナ騒乱/抗議者と国内軍の衝突(ウィキ)
プーチン首相が大統領に返り咲く(2012年5月7日)https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-23334720110925

2012年10月の9日から10日にかけて惹起した、途轍もなく酷薄な風景。

否が応でも、観る者の心胆を寒からしめるのに充分過ぎた。

10月9日。

そこから開かれる、一人の少年の下校風景。

一人の友人と別れた赤い上着を纏(まと)ったアレクセイを、カメラがフォローする。

「じゃあね」と言って、友人と分かれるアレクセイ
晩秋の森の中を畝(うね)りながら帰路に就くアレクセイ。

木に絡まっていた長いテープを拾い、それを投げ、枯れた樹木の枝に包(くる)まり、誰とも交叉しないで、マンションの自室から無機質な外界の風景を見つめている。

一貫して笑みを失ったアレクセイの孤独の様態、ワンカットで見せる重要な描写である。

内覧でマンションを見学に来た家族を、母ジェーニャが案内する。

慌てて勉強をするアレクセイの子供部屋を見学する家族が入って来て、挨拶をしないアレクセイの頭を叩き、ジェーニャは必死で家をアピールする。

内覧でのアレクセイ

居心地の悪いアレクセイは、その場を急いで抜けていく。

12歳の少年には、自宅で共存していない生活を常態化しているが故に、両親の離婚の状況の変化が読み取れている。

だから、苦痛だった。

そして、決定的な事態に直面する。

親権を争う話ではなく、自分の養育義務を押し付け合う両親の話を耳にして、「必要とされない子供」の烙印を押されるアレクセイ。



もう、限界だった。

アレクセイの失踪は不可避だったのだ。

この一連の流れで露呈する、ネガティブの極点とも言えるシークエンスの酷薄さ。

本質的に、遺棄される運命を担うネグレクトの風景である。

「アレクセイが家から出て以降、絶対に彼の容姿を見せてはいけないと、シナリオの段階で決めていました。それは、アレクセイの顔や声、そして彼がどういった子供だったかを、もう一度確認したいという観客の気持ちを呼び起こすためでもあります。監督によっては、例えばバス停でアレクセイが身を隠しているような様子を映していたかもしれませんが、私は絶対にそういうことはしません。観客が最後に彼の姿を目にするのは、階段を駆け下りていくシーンで、彼がいなくなった後も階段の手すりを映しています。あれは彼との別れのシーンであって、彼が最後に触れたものを見せているというわけなのです」

アンドレイ・ズビャギンツェフ監督のインタビューでの言葉である。

とてもよく理解できる。

思春期初期に踏み込もうとする、一人息子への無関心・愛着欠如・情性劣化。

あってはならない、この無関心・愛着欠如のネグレクトの連射で打ち砕かれたアレクセイの自我は、その日、根っこから遺棄され、抵抗不能なほど壊されてしまった。

抵抗不能なほど壊されたアレクセイの自我が、本来、そうであらねばならないような機能を果たし得なかったら、一体、どうなるか。

ここで、私なりに自我を定義しておきたい。

行動と意識の主体であり、「現実原則」に従って機能する生命の羅針盤であると同時に、社会的適応を果たす「自我」(フロイトの言う「超自我」を内包)は、それなしに〈生〉の総体的営為を遂行し得ない、人間存在の最高中枢を担う脳科学的概念。

これが、自我という、誤解されやすい脳科学的概念に対する私の定義である。

私は、フロイトの言う「超自我」(道徳観)も、自我の中に含むと考える

だから私は、最もよく発達した脳部位「前頭前野」こそが、自我の物理的基盤であると考えている。

前頭前野
前頭前野
大脳皮質の構造https://healthcare.hankyu-hanshin.co.jp/welltokk/backnumber/vol04/wellness/

母に代表される大人が、子供の自我を作る。

自我の成熟度が、当人の人格形成を決定づけるので、劣化した養育環境の中で、未成熟な自我を延長してしまうと、程度の差こそあれ、何某(なにがし)かの負荷を負うことにもなる。

生命・適応の羅針盤となる自我なしに、私たちは生きていけないのである。

大人が子供の自我を作る(イメージ画像)

自我の確立運動の初発点に踏み込んだアレクセイは、生命・適応の羅針盤としての自我を完膚なきまでに叩きのめされてしまった。

思春期・青春期は自我の確立運動の重要な時期である

そうすると、何が起こるか。

ここで、ネグレクトの克服課題について書いておきたい。

「暗数」(現実の犯罪の中で犯罪統計に現れなかった犯罪数)の問題があるので、必ずしも、統計数値を絶対化できない

「女スターリン」とボリスから揶揄され、自らを守るために鉄壁な「城砦」を構え、他者を排除する異様な性格傾向を有する母から、「ネグレクトのチェーン現象」を被弾したと思われるジェーニャの抑制系の欠如が、ナイーブなアレクセイの中枢を無頓着に襲いかかっていく。

この「否認」の連鎖の累加の、内的過程で胚胎(はいたい)したネガティブな情景が極点に達した時、アレクセイの中枢に息衝(いきづ)く「絶対禁忌」の世界に入り込んでしまっていた。

母ジェーニャの無関心・愛着欠如・情性劣化の「否認」の表出の、常軌を逸した鈍感さが、アレクセイの息の根を止めてしまったのである。

「トラウマ」・「愛情」・「尊厳」。

これが、ネグレクトの克服課題の内実である。

発達障害の実際

アレクセイの自我は、ネグレクトを克服し、昇華していくレベルの、全てのテーマにおいて瓦解してしまっている。

「否認」の「トラウマ」が自我の底層に固着したことで、「愛される自己像」を寸分も持ち得ず、セルフネグレクト(自己遺棄)の情態だけが執拗に張り付き、感情処理の出口が完全に塞がれてしまったのだ。

オーストリアの心理学ハインツ・コフートが言う、「健全な自己愛」を推進力にした「尊厳」に微塵も届くことなく、自死に振れたアレクセイの人格総体は、自我の瓦解によって解体する。

ハインツ・コフート

そこに、何も残らない。

葬送儀礼すらない。

行政解剖されるだけだ。

しかし、アレクセイの自死(?)は、少年が密かに望んでいたであろう、「意趣晴らし」という置き土産を残すに至る。

無関心・愛着欠如・情性劣化を露わにして、我が子の引き取りを拒み、あれほどまでに、「自己の幸福」に拘泥した両親の2年後に待機していたのは、アレクセイの「失踪」に起因する「トラウマ」だった。

それは、「我が子に対する無関心」=「他者に対する無関心」によって惹起し、「健全な自己愛」とは無縁な両親の自我の底層に固着した、心的外傷の破壊力それ自身であった。

もう、彼らも戻れない。

戻るべきスポットを失った彼らの拠って立つ基盤の、危ういまでの搖動感。

人間と人間の関係構築の難しさ。

人間社会の只中で〈人生〉を繋いでいく時、避けられない他者との関係性と、その処理の難しさが横たわっていても、私たちは逃げられない。

逃げてはならないのである。

逃げた分だけ、何かを失うだろう。

私たちは、もっと身近な他者の不幸に関心を持たねばならない。

身近な他者の不幸への関心は、身近な異国に呼吸を繋ぐ他者の不幸への関心に架橋し得る。

そういう社会を作らねばならない。

ズビャギンツェフ監督は、そう言っているのだ。

アンドレイ・ズビャギンツェフ監督

綺麗事のように聞こえるが、ロシア政府から補助金を受け取ることなしに、覚悟を括って創ったズビャギンツェフ監督の強靭な意志が垣間見えて、観る者の共感を喚起させる。

こんな強い映画を世に出したズビャギンツェフ監督の構築力の凄み。

この監督の作品だけは、これからも観続けるつもりだ。



(2020年月)

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