検索

2020年3月4日水曜日

判決、ふたつの希望('17)   ジアド・ドゥエイリ


トニー(右)とヤーセル

<「憎悪の共同体」の破壊力に巻き込まれ、個と個の争いが自壊する悲哀>




1  「謝罪」を求めた法廷闘争が開かれていく  





「シャロンに、抹殺されてればな!」

絶対禁句の言葉を放ってしまった。

男の名はトニー・ハンナ。

自動車修理工場を経営するトニーは、キリスト教マロン派の右派政党「レバノン軍団」に傾倒する男。

レバノンのデイル・エル・カマールにあるマロン典礼カトリック教会の聖堂(ウィキ)
「レバノン軍団」のスピーチを聞くトニー

その絶対禁句の言葉を放たれたのは、ヤーセル・サラーメ。

難民キャンプに住むパレスチナ人である。

現場監督のヤーセル
難民キャンプの粗末な家に戻るヤーセル

建物の修繕事業を請け負う、雇い主・タラール所長の下で働く現場監督である。

その話し方で、ヤーセルがパレスチナ人であることを見抜いたトニー。

補修工事中に、トニーのバルコニーからの水が作業員に降りかかり、その修繕を申し出たが断られ、許可なく配水管の取り付け作業をしていたところ、新しく取り付けられた配水管をトニーが壊してしまった。

バルコニーから作業員に水を降りかけるトニー
ヤーセル(中央)
配水管を壊すトニー
「クズ野郎」と嘲罵するヤーセル

元々、バルコニーは違法建築なのである。

思わず、「クズ野郎」と嘲罵(ちょうば)するヤーセル。

住民とのトラブルを避けようとするタラール所長が、トニーの謝罪要求をヤーセルに求めるが、首を縦に振らないヤーセル。

ヤーセルに対し、トニーの謝罪要求に応じるように求めるタラール所長(右)
トニーの身重の妻シリーンに、チョコレートの贈り物をするタラール所長

トニーと異なって、気が短くないが、自らの補修工事が合法的であることを疑わないヤーセルにとって、違法建築のバルコニーから、意識的に水を垂れ流すトニーに謝罪する行為は間尺に合わなかった。

しかし、次の受注に影響するとタラール所長に言われ、不承不承(ふしょうぶしょう)、トニーの工場へ行くが、トニーから冒頭の暴言を被弾してしまう。

我慢を堪えてトニーに謝罪に行くヤーセル


瞬時だった。

思わず、トニーの腹を思い切り殴り倒してしまうヤーセル。

その結果、トニーは肋骨を2本折られ、2か月間の静養を余儀なくされるに至る。

「シャロンに、抹殺されてればな!」という言辞が内包するのは、パレスチナ人にとって「悪魔」の記号そのものだった。

パレスチナ国家の独立を明言した首相であるにも拘らず、PLOをベイルートから撤退させ、レバノン侵攻を指揮したイスラエル国防相アリエル・シャロンは、タカ派政治家の相貌が際立つが、老獪(ろうかい)なリアリストとして、つとに知られた政治家でもあった。

アリエル・シャロン
第四次中東戦争時のアリエル・シャロン少将(ウィキ)

しかし、国連総会において「ジェノサイド」と非難決議された、マロン派によるパレスチナ人虐殺(「サブラー・シャティーラの虐殺」)に関与(傍観視)した行動などが、シャロンを「悪魔」の記号にしたと考えられる。(後述する)

2019年5月現在、ヨルダン川西岸地区およびガザ地区に住み、国連加盟国137ヶ国が国家として承認(日本を含むG7諸国は未承認)している「パレスチナ国」だが、少なくとも、故郷と家を奪われた「パレスチナ難民」を生んだイスラエルの「負の記号」を象徴する、「シャロン」に対するネガティブな視線は、パレスチナ人が共有する絶対感情であった。

パレスチナの県(灰色の部分は統治外・ウィキ)
パレスチナを国家承認している国(ウィキ)
2国家共存は夢なのか イスラエルとパレスチナの25年

だから、「シャロン」という言辞を放たれたヤーセルの暴力は、トニーの暴言に対する憤怒の極限点だった。

かくて、暴言を諫(いさ)める実父や身重の妻の忠告を無視し、トニーは警察に訴えるが、パレスチナ人との諍(いさか)いを怖れる警察は重い腰を上げない。

暴言を諫(いさ)める実父や身重の妻シリーン
「俺には、まともに思えない。お前と住む世界が違うのかも」

「俺には、まともに思えない。お前と住む世界が違うのかも」

パレスチナ人への露骨な差別を公言する夫に対し、「あなたは変化を嫌う頑固者よ」と突き放す妻シリーン。

遂に、ヤーセルに対して訴訟を起こすトニー。

「あの街は、地区によって政治や宗教の考え方が異なります」

裁判長の言葉である。

共に弁護士をつけない裁判において、裁判長に訊かれても、二人は、暴言の内容について沈黙を守る。

この時点で、ヤーセルの暴力が配水管が原因ではないことが判然とする。

暴言の言辞の破壊力が、法廷内にいる者たちに既に共有されているのだ。

結局、証拠不十分で、告訴は棄却され、ヤーセルは釈放される。

ヤーセル
裁判長に対する罵詈雑言を置き去りにして、法廷を去っていくトニー。



フラッシュバックに襲われるトニー
その後、作業中のトニーが仕事場で倒れ、身重の妻シリーンが夫の体を仕事場の外に運ぶが、このときの身体的・精神的負荷によって、シリーンは予定日を待たずして出産するに至った。

産まれた子はNICU(新生児集中治療室)に運ばれ、人工呼吸器に繋がれる。

一切はヤーセルに起因すると考えたトニーは、再審に踏み込んでいく。

かくて、双方が弁護士をつけた法廷闘争が開かれていく。
ベイルートの街





2  残酷なスポットと化した「法廷」の、それ以外にない軟着点





無料で引き受けたトニー側の弁護士は、レバノンで著名なワジュディー・ワハビー。

トニーの暴言をヘイト・クライムと断定したヤーセル側の女性弁護士は、パレスチナ難民の人権を重視し、彼女もまた、自ら買って出たナディーン。

ワジュディー・ワハビー弁護士
ナディーン・ワハビー弁護士

のちに、二人の弁護士が、父娘の関係だった事実が、マンスール裁判長から明らかにされる。

裁判長と2人の裁判官

考え方の異なる父娘の、法廷内での丁々発止(ちょうちょうはっし)のやり取りは、さながら、己が信念を貫かんとする者たちの「思想戦」の様相を呈していく。







入廷するトニーとシリーン

だから、公判当初から双方が激突し、傍聴席にいるパレスチナ人も、初老のワジュディーを「ユダヤの犬」と罵って騒然となる。

マスコミは連日報道し、いつしか、国を揺るがす騒動と化すのだ。

一方、NICUに入っている赤ちゃんの容体のみに神経をすり減らすシリーンにとって、ヤーセルの謝罪に拘泥し、再審を起こしたトニーの行為に苛立つのみだった。

「バカげたことに夢中になって」
「俺は最後までやる」
「勝てば、彼は刑務所ね。その先は?」
「知るか」
「娘には?娘がどうしたいか、聞いた?」
「娘のためだ。お前のため、家族のためだ」
「自分のためでしょ。何もかもメチャクチャ。とにかく、勝てるといいわね」

最後は突き放して、その場を離れていく。

この間、ヤーセルは、雇い主のタラール所長から解雇され、その悔しさと怒りで体を震わせ、机を激しく叩くのだ。

怒りで体を震わせるヤーセル
ヤーセルの失職の背景にあるのは、雇用利権で動く政治家にとって、ヤーセルが被告人であることのリスク回避の手立てであったこと。

雇用利権で動く政治家とタラール所長、中央はヤーセル

それを知るヤーセルの怒りの矛先が、自分では手に負えない権力である以上、「暴言」に起因する「暴力」によって刑事事件の被告人になった自己に向かう以外になかったのだろう。

父娘がシビアに対峙する法廷も、いよいよ「思想戦」の様相を呈す。

「ユダヤ人が殺せば犯罪。アラブ同士ならモメない」

ワジュディーのこの言葉で、法廷は収拾がつかなくなった。



「極右が難民の話をするな!」、「裏切者!ユダヤに手を貸すか!」、「ユダヤの犬!」等々。

傍聴席から怒号や罵声が飛び交い、騒然となる。

ワジュディーの言葉は、トニーをも刺激する。

「なぜ、ユダヤ人と?」とトニー。
「君の言葉のせいだ」とワジュディー
「味方と誤解されてる」
「発端は君だぞ」
「私を守れ」
「何から?公園を歩きたいか?法廷は戦場だぞ。君は私に一任しただろ」
「政治を絡めるな!」
「私の事務所で、望みを聞かれた君は、“シャロン以上の悪党と言われたい”と。訴訟を取り下げたいのか?」



ワジュディーの言う通りだった。

「ヤーセルの心からの謝罪」が目的だったトニーが、それを具現するために起こした再審の渦中に、「政治」が侵入してくるのは必至だったのだ。

感情に任せた曲々(まがまが)しい行動は、かなりの確率で自分に跳ね返ってくる。

トニーは、それを体験する

暴漢に襲われたのだ。

脅迫電話がかかり、相次ぐ嫌がらせ。

ガレージには、「ダビデの星」(ユダヤ民族を象徴する印)の落書き。

オートバイの二人組を追うが、そのバイクが車に激突し、大怪我を負う。

これらは、トニーがそうだったように、感情に任せた行動の忌まわしき結果である。

「負の歴史」象徴する「レバノン内戦」(1975年から1990年までに起こった断続的な内戦)が甦生(そせい)したようだった。

遂に、大統領も乗り出す始末。

「今こそ新たな時代を迎え、共存するんだ」

大統領のこの言葉に、トニーは反発する。

今やもう、個と個の争いが空洞化しているのだ。

大統領に呼ばれた二人

大統領に呼ばれた二人は、以前の闘争意欲も失せ、帰路に就くが、ヤーセルの車がエンストしているのに気づき、トニーは引き返し、修理して立ち去っていく。

エンストを起こしたヤーセルの車を、トニーが修繕する

ヤーセルに笑みが生まれる。

ヤーセル・サラーメと妻マナール・サラーメ

本来の、個と個の争いの軟着点が、どこにあるのかという構図が映像提示されたのである。

〈状況〉が人間を変えていく。

人間を変える〈状況〉が、別次元の〈状況〉を創り出していくのだ。

人間が、いかに感情で動くかという現象を、観る者をインボルブし、登場人物たちの行動変容の只中で検証しているのである。

ナディーン・ワハビー弁護士とヤーセル
ヤーセル
ワハビー弁護士とトニー
ワハビー弁護士
そして、隠し込んでいたトニーのトラウマが法廷で明らかにされる。

トニーが「ダムール虐殺事件」の被害者であった事実である。

この辺りが、残酷なスポットと化した「法廷」の、不可避な趨向性(すうこうせい)の、不可避な現象の相貌でもある。

6歳の幼児のときに、パレスチナの過激派によって、キリスト教徒の村であるダムールが襲撃を受け、父親に背負われ、首の皮一枚で逃げ延びたという深刻な心的外傷体験。

ワジュディーの要請で、「ダムール虐殺事件」の映像を、法廷で映し出す
これが、今なお、フラッシュバックの発現に悩まされるトニーの〈現在性〉でもあった。

あまりの衝撃に、トニーは父を気遣い、父を庇いながら退廷してしまった。

父を庇いながら退廷するトニー

ヤーセルがトニーのガレージに訪れたのは、その夜だった。

「お前の欠点は、しゃべりすぎること。そのおしゃべりが周囲の人をたき付けた。口輪でも、はめておけ。豪華な海辺の別荘で、祖国防衛を語る。観光客気分だ。買い物はパリ。スキーはスイス。スシを食い、フランス語を話す。あの村に落ちた爆弾の半分は不発弾。お前が“苦悩”だと?泣き虫なだけだ」

ヤーセルは、あえて挑発的な言辞を放って、トニーを怒らせ、腹を殴らせるのだ。

「謝るよ」

そう言い残して、その場を立ち去るヤーセル。

この重大な一件があって、トニーはベイルートから僅か20分のところにあるダムールを、40年ぶりに訪れた。

ダムールの村
40年ぶりに訪れたダムールの村で寛(くつろ)ぐトニー

子供の頃の思い出を回想する

〈状況〉が人間を変えていく。

ここでは、人間を変える〈状況〉が、本来の、そこにしかあり得ない〈状況〉を創り出したのだ。

かくて、シリーンとの間に生まれた赤ちゃんがNICUから出られることになり、無事に両親の元に戻るや、母親の腕にしっかりと抱かれていた。





以下、ナディーンの最終陳述。

「40年前のダムール虐殺は、憎むべきものです。多くの家族が離散。トニー・ハンナ氏は生き残りの一人です。真相は分らず、加害者は自由の身。正義も結末も何もなし。あの暴言を発した理由は理解できます。復讐心でした…つらい時代でした。トニーやヤーセルのように、我々は感情に流されがちです。ヤーセルは、自らの民族と歴史を貶(おとし)められ、殴ってしまった。過激な言葉を投げつければ、人は反発します。普通の反応です。必然的な。それが人間です」


最後は、ワジュディーの最終陳述。

「…相手への敬意を示しつつ、問題点を考え、謝罪を弱さではなく、礼儀だと考える事です。ハンナ氏が求めたのも、謝罪だけでした。ごく普通の謝罪です。代理人は、あの言葉が、被告の民族やその歴史を標的にした言葉だと主張します。被告が難民ならば、原告も難民でしょう。それも祖国の中でです。傷ついた人生の苦痛や悲劇は同じです。違いは、我々が彼らに同情を示すどころか、沈黙を強い、排斥(はいせき)したことだ。パレスチナへの対応と真逆です…この裁判をきっかけに、他の傷も考慮して受け入れるべきでしょう。真実や重要なことは語られねばなりません。全員が傷を負っているのです。誰もが」

そして、控訴審の判決。

「多数決の結果、2対1で、当法廷では被告は無罪とします」

この結果を受け、トニーはヤーセルと目を合わせ、小さな笑みを交換した。

ラストシーンである。


ヤーセル・サラーメと妻マナール・サラーメ
健闘を称え合う父と娘



3  「憎悪の共同体」の破壊力に巻き込まれ、個と個の争いが自壊する悲哀





譬(たと)え、そこにイデオロギーが入っていたとしても、個と個の争いは当事者熱量の出力が限定的なので、自己防衛戦略が機能して、ソフトランディングの余地を残しやすい。

ところが、個と個の争いに集団の力学が大きく関与すると、当事者熱量の出力が膨張し、イデオロギーの介在によってソフトランディングの余地を残しにくくなる。

個と個の争いが、別の次元の争いを呼び起こしてしまうのである。

集団の力学が本来的に内包するイデオロギーの濃度の高さが、個と個の争いを吸収し、しばしば「憎悪の共同体」を立ち上げてしまうので、最も厄介な状況を作り出す。

集団に入ると節度を守れず、大胆で危険な行動に振れやすくなる「リスキーシフト」の怖さ
「集団思考」(グループシンク)の罠の怖さhttps://kaigolab.com/psychology/20755
「集団思考」の研究で有名な心理学者アーヴィング・ジャニス

思うに、人は自分が嫌っている者に対して、他の者も一緒に嫌ってくれることを切望して止まない厄介な側面を、多かれ少なかれ持っている。

自分がある人間を嫌うには、当然の如く、嫌うに足る充分な根拠があると確信し、その確信を他者と共有することで、特定他者に対する意識の包囲網を形成せずにはいられないようだ。

この意識の包囲網を、私は「憎悪の共同体」と呼ぶ。

人々の憎悪が集合することは、個人の確信を一段と強化させるから、仮想敵に対する攻撃のリアリティを増幅させていく。

集合した憎悪は何倍ものエネルギーとなって、大挙して仮想敵に襲いかかるのだ。

そこに快楽が生まれる。

この快楽が共同体を支え切る。

だから、この負の展開に終わりが来ないのである。

敵を作ることによって「同志」が生まれ、その同志の連帯の強化は、強大なる敵の実在感によって果たされる。

この実在感は、我々が憎悪し、警戒し、身構えるという期待された反応を示すことで、敵の意識の中で集中的に高まっていく。

共同体の同盟性の推進力は、仮想敵の反応を作り出してしまうのである。

Führer(一つの民族、一つの国、一人の指導者)のスローガンが掲示されたナチ党の集会/政治・社会の総体を「均質化」するという「強制的同一化」こそ、ナチス・ドイツの根源的思想(ウィキ)
「強制的同一化」/宣伝省制作によるユダヤ人排斥の映画『永遠のユダヤ人』の上映館(ウィキ)
ヒトラーユーゲント
「バスに乗り遅れるな」/「大政翼賛の歌」発表の式典(ウィキ)
「バスに乗り遅れるな」/「大政翼賛会」のポスター(ウィキ)
「バスに乗り遅れるな」/大政翼賛会本部(ウィキ)
「バスに乗り遅れるな」/映画「226」より
「バスに乗り遅れるな」/叛乱軍の中心人物・栗原安秀陸軍歩兵中尉(ウィキ)

敵は憎悪の根拠になった文脈を認知し、それを懺悔し、しばしば許しを請う。

この関係を映画の中で見れば、「暴言」⇒「暴力」⇒「謝罪要請」⇒「謝罪」⇒「許し」⇒「和解」という感情の流れが成立し得るが、「憎悪の共同体」にまで集団が膨れ上がってしまうと、このような感情の流れが胚胎(はいたい)しにくくなるのだ。

「謝罪」⇒「許し」⇒「和解」という関係性のルールが生まれないのである。

「敵は殺せ」という辺りにまでイデオロギーが強化され、それが集団の力学によって個と個の争いを吸収・支配してしまえば、「謝罪」⇒「許し」⇒「和解」という、それ以外にないソフトランディングに収まらなくなってしまうだろう。

極端に言えば、そこまでの「儀式」を要請し、それを確認しない限り、「憎悪の共同体」は自己完結を果たせないのである。

優劣関係の成立という指標によってのみ、攻撃者たちの共同体的、個別的自我は負の循環を終焉することになる。

これを私は、「負の自己完結」と呼んでいる。

ところが、関係に顕著な優劣性が生じるや、そこに新たな展開が開かれる。

劣者に対する優者の、陰湿な暴力的攻勢が常態化するのである。

「総括」という名の「負の自己完結」/映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」より

そして、「負の自己完結」は、度々、私たちの歴史を蹂躙する虐殺事件を惹起する。

レバノン内戦に限定しただけで、以下のような虐殺事件が出来(しゅったい)している現実を、私たちは軽視してはならない。

【1976年1月20日、レバノンのキリスト教徒の民兵組織がベイルート東部のカランティナ地区を制圧し、パレスチナ人とイスラーム教徒を殺害した「カランティナの虐殺」(1976年1月18日)の報復として、ダムールの村のキリスト教徒の民間人150~582人を殺害した事件。これが、トニーのトラウマと化した「ダムールの虐殺」。また、1976年8月12日に起こった「テルザアタルの虐殺」は、キリスト教徒の民兵がテルザアタルの難民キャンプに侵入し、1500~3000人を殺害した事件。そして、1982年9月16日–18日に起こった「サブラー・シャティーラの虐殺」は、レバノンの親イスラエル政党「ファランヘ党」などで構成される民兵組織「レバノン軍団」による、パレスチナ難民の大量虐殺事件で、虐殺は2日間に及び、犠牲者数は762人から3500人と言われている。この事件は、当時、イスラエルの国防相として、1982年のレバノン侵攻を指揮し、最高責任者の地位にあったアリエル・シャロンが辞任するに至る。従って、「シャロンに、抹殺されてればな!」という暴言は、絶対禁句の言辞だった。国連総会は、この事件を「ジェノサイド」として非難する決議を、反対なしの123か国の賛成多数で可決した】

サブラー・シャティーラ事件の記念碑/親イスラエル政党「ファランヘ党」などで構成される民兵組織「レバノン軍団」によるパレスチナ難民の大量虐殺事件のことである(ウィキ)
1982年「サブラ・シャティーラの虐殺」、今も国際社会の無策を問い続ける
「サブラー・シャティーラ事件」から34年経って
「サブラー・シャティーラ事件」の悲惨さ

これは際限ない過剰な展開の日常化であり、「負の自己未完結」の世界の始まりである。

人間には、ここまで腐ることができる能力がある。

だから決して、「負の自己完結」の行程を開かないことである。

憎悪を簡単に集合させないことである。

憎悪に駆られることは仕方ない。

憎悪の感情を無理に抑圧しようとすることの方が、かえって自我を歪めることにもなる。

しかし、憎悪という個人的感情を、他者の類似した感情と繋いでいこうとは決して考えてはならない。

感情を束ねていくことが、最も危険なことなのだ。

憎悪を組織した集団が一番厄介なのである。

―― ここで、映画の二人の主人公の感情の流れを考えてみる。

トニーとヤーセル
アリエル・シャロン(APによる写真)

何より言えるのは、最初の法廷で明らかになったが、トニーもヤーセルも、「シャロンに、抹殺されてればな!」という絶対禁句の言辞の破壊力を認識できていた。

だから、その言辞を公言することに、二人は最後まで沈黙を守った。

その言辞を吐いたトニーは、「言い過ぎた」行為を認知し、その言辞を吐かれたヤーセルも、自らの暴力の「有罪意識」を認知していた。

だから、時の経過と、途絶えることのないヤーセルの「謝罪」と、何某(なにがし)かの援助行動の思いを延長していれば、トニーの怪我の治癒と社会復帰が具現すれば、「和解」というソフトランディングを可能にしたとも考えられる。







しかし、トニーとヤーセルの個と個の争いが、別の次元の争いを呼び起こしてしまうことで、「和解」というソフトランディングを困難にしてしまった。

集団の力学が本来的に内包するイデオロギーが、ここぞとばかりに、個と個の争いの中枢に侵入してきたからだ。

事態の解決が最も困難な厄介な〈状況〉が、そこに生み出されてしまったのである。

このイデオロギーの内実は、「パレスチナ・正義」⇔「キリスト教マロン派(ローマ=カトリック教会系)・正義」という構図。

パレスチナ難民
マロン典礼カトリック教会
キリスト教マロン派の合同結婚式(レバノン)

前者は、パレスチナ解放を目的とする反イスラエル系のPLOに代表され、後者は、キリスト教系の右派「レバノン軍団」・「ファランヘ党」に代表される親イスラエル政党である。

この両者が、個と個の争いの延長線上にある法廷闘争の渦中で惹起する。

いずれも、絶対に引けない法廷闘争が、トニーとヤーセルによる個と個の争いを変容させていく。

ワジュディー・ワハビー弁護士とトニー
ナディーン・ワハビー弁護士とヤーセル

そこで、何が起こったか。

「暴言」⇒「暴力」⇒「謝罪要請」⇒「謝罪」⇒「許し」⇒「和解」という、些か歪(いびつ)だが、双方の感情の自然の流れで決着したはずの個と個の争いが自壊し、否が応でも、集団の力学の推進力と化すイデオロギーの声高なフィールドでの、「勝つか負けるか」という、組織の拠って立つ絶対基盤の命運を懸けた「思想戦」にインボルブされていくのである。

「憎悪の共同体」にまで膨れ上がった集団双方の感情がレバノン国内で惹起し、まるで、その風景は、15年間に及ぶ内戦の悪夢を想起させるキナ臭い臭気に満ちていた。



このネガティブな行程で、トニーが40年前に負った「ダムールのトラウマ」が炙(あぶ)り出され、パレスチナキャンプ地に居住するヤーセルもまた、失職を招来するに至る。

この二人が負う心理的債務は、ただ単に、「暴言」⇒「暴力」⇒「謝罪要請」⇒「謝罪」の行程によって自己完結するだけの行為の遷移が、裁判を通して大きく変容し、止め処(とめど)なく増幅してしまった。

幸いに、「暴言」と「暴力」に対する二人の認知に、決定的な乖離が見られなかったことで、法廷外で歩み寄る態度が身体化し、「謝罪」への行程が開かれた。

ここに、ストーリー重視のアプローチを試みた本作の狙いが功を奏したと言える。

だからこれは、「法廷劇」の衣裳を纏(まと)っているが、「法廷劇」を借景にした二人の男の、その心理的近接の様態を描いた人間ドラマであると言っていい。

ラストシーンの二人
その心理的近接の様態の描写が、「憎悪の共同体」を今なお延長させている、レバノンの〈現在性〉を深々と浮き上がらせてしまったのである。

それによって、「憎悪の共同体」の非生産性と、そこに蝟集(いしゅう)する者たちの偏頗(へんぱ)な感情の歪みを抉(えぐ)り出したこと。

現在のアラブ諸国では、とうてい受容し得ないだろうドラマを構築したジアド・ドゥエイリ監督の勇気に感服する。

ジアド・ドゥエイリ監督

―― 但し、これだけは書いておきたい。

1947年11月、「国連決議181」(パレスチナ分割決議=イスラエル建国)において、イスラエルは念願の建国を果たしたが、当然、アラブ側は認知しなかった。

国連決議181

【元々は、英国がパレスチナ国家建設を認めた「バルフォア宣言」(1917年11月)に起因し、パレスチナのユダヤ人は歓迎するが、アラブ連盟(エジプト、イラク、シリア、レバノンなど)は反発する歴史的経緯がある。これは、中東のアラブ独立を保障した「フサイン=マクマホン協定」(1915年10月)と大きく矛盾し、「英国の三枚舌外交」として歴史に汚点を残している。アラブ連盟の反発は至極当然の結果であり、「パレスチナ戦争」の出来は必至であった】

「バルフォア宣言」で知られるアーサー・バルフォア(ウィキ)
フサイン・イブン・アリー「フサイン=マクマホン協定」の当事者で、オスマン帝国からのアラブ独立運動の指導者(ウィキ)
ヘンリー・マクマホン/「フサイン=マクマホン協定」の当事者で、英国の外交官(ウィキ)

かくて、「国連決議181」の採択の結果、「パレスチナ戦争」(第一次中東戦争)が勃発するに至るが、英米軍の支援を受けていたイスラエル軍が圧勝したことで、実質的に、イスラエル建国が既成事実化されていく。

その意味で、「第五次中東戦争」と呼ばれるほどに、国家の脆弱性の典型例とも言える、イスラエル侵攻によるレバノン南部の占領、更に、イスラエルが犯し続けた、パレスチナ難民と多数のレバノン人の殺害という人道犯罪についての描き方が、少なからず、等閑(なおざり)に付された印象は否めない。

「国連パレスチナ難民救済事業機関」(UNRWA)が運営するレバノンのカブリ学校で学ぶパレスチナの生徒たち(2018年9月5日撮影)

元より、現在、「国連パレスチナ難民救済事業機関」の管理下に置かれ、老朽化した難民キャンプで暮らす、世界最大級の難民グループ・パレスチナ難民を生んだのは、イスラエル建国(1948年)と、そこに纏(まつ)わる人道犯罪、例えば、第一次中東戦争直前の1948年4月9日に、パレスチナのデイル・ヤシーン村の住民を虐殺した「デイル・ヤシーン事件」や、その後の数次にわたる中東戦争を起点にする歴史的事実を無視できないのである。

イスラエル独立宣言
「ハダサー医療従事者虐殺事件」/非武装のユダヤ人医師、看護婦、教授らがが虐殺された事件で、「デイル・ヤシーン事件」の報復だった。事件直後の様子。ハイム・ヤスキー博士は左の救急車で死亡していた(ウィキ)
デイル・ヤシーン事件の生存者https://blog.goo.ne.jp/aya-fs710/e/c6a0847b4532eca69cd51979c55fc73f

―― ここで、極めて複雑な「レバノン内戦」について、簡単に要約しておきたい。

ベイルートの街並み(ウィキ)
20世紀前半のベイルート(ウィキ)
レバノン議会(ウィキ)

「中東のパリ」、「中東のビジネスセンター」と呼ばれる首都ベイルートを中枢都市として、1943年にフランス委任統治領から独立したレバノンには、4度に及ぶ中東戦争によって、現在のパレスチナ自治政府の母体となっているPLO(パレスチナ解放機構)が組織的に流入する。

このPLOの流入は、「モザイク国家」レバノン国内の宗派間のバランスを瓦解する。

2001年の「世界経済フォーラム」(ダボス会議)で演説するヤーセル・アラファトPLO議長(ウィキ)
マフムード・アッバス/パレスチナ自治政府第2代大統領で、アラブ系パレスチナ人の政治・軍事組織「ファタハ」の議長(ウィキ)
パレスチナ解放機構(PLO)の穏健派ファタハ内の少年兵

親西欧の立場をとるマロン派キリスト教徒が大統領職を占有し、イスラム教スンニ派が首相の地位、更に、イスラム教シーア派が国会議長という権力分有を具現していたが、どこまでも、マロン派キリスト教徒優位の政治制度は変わらなかった。

キリスト教マロン派の合同結婚式、レバノン

ところが、PLOを主力とした大量のパレスチナ人・パレスチナ・ゲリラ組織が、ヨルダン政府軍によるパレスチナ・ゲリラの弾圧によって流入し、イスラム教徒が国民の過半数を超えるに至ったことで、マロン派キリスト教徒とイスラム教徒の力の均衡が破綻し、1975年に、両者の間で発生した衝突が引き金となって、内戦が勃発した。

キリスト教徒右派・マロン派民兵組織のファランヘ党のパレスチナ人襲撃事件がきっかけだった。

示威行動するファランヘ党員(ウィキ)
ベイルートにおけるファタハ民兵(1979年・ウィキ)
1975年のこと。

その後、隣国シリア軍の進駐、イスラエル軍の介入(PLOの対イスラエル武装闘争が展開し、前述したように、「第五次中東戦争」とも呼称)があって収拾のつかない状態に陥った。

レバノンを親イスラエル国家として転換させることが目的で、南レバノンに侵入したイスラエル軍(1982年・ウィキ)
ハッサン・ナスラッラ/レバノンのシーア派イスラム主義組織ヒズボラの最高指導者

1980年代後半からは、イスラーム教シーア派の武装民兵組織ヒズボラ(神の党)が台頭し、独自政権を樹立し、内戦状態を延長させていく。

1990年、レバノンと緊密な関係を伝統的に保持してきて、長い影響下にある隣国シリアが、反シリア派を一掃することで内戦が終焉するが、レバノンはシリアの実質的支配下に置かれているのが現状である。

いずれにせよ、約15年にわたる内戦の傷痕は深く、国土は著しく荒廃し、ベイルートは「中東のパリ」の賑わいを失った。

ベイルートに設けられたグリーン・ライン(東西の境界線)(1982年・ウィキ)
内戦によって破壊されたベイルート(1978年・ウィキ)
キリスト教右派「国民自由党」の民兵(1978年・ウィキ)
ベイルートの殉教者広場(1982年・ウィキ)
砲撃を行う戦艦ニュージャージー(アメリカ海軍の戦艦)(1984年・ウィキ)
内戦終結から10年以上経過しても破壊されたままのベイルートの建物(2004年・ウィキ)

勝者もなく、敗者もなく、戦犯として裁かれた者もいなかった「レバノン内戦」は、10万人以上が命を落とした泥沼の戦闘だった。

因みに、外務省の「レバノン共和国基礎データ」によると、レバノンの民族はアラブ人(95%)、アルメニア人(4%)で、言語はアラビア語、そして、宗教はキリスト教(マロン派、ギリシャ正教、ギリシャ・カトリック、ローマ・カトリック、アルメニア正教)、イスラム教(シーア派、スンニ派、ドルーズ派)等18宗派で成っている複合国家である。

パレスチナ自治区ガザ地区南部ラファで、イスラエル軍の空爆を受けて立ち上る煙(2014年7月8日撮影)
ICC(国際刑事裁判所)が「戦争犯罪」正式捜査へ/パレスチナ「歴史的な日」と歓迎 イスラエルのネタニヤフ首相は「不条理な」決定と非難し、猛反発しているhttps://vpoint.jp/world/me/149953.html

―― 本稿の最後に、ジアド・ドゥエイリ監督のインタビューを掲載する。

「母国レバノンを含むアラブ連盟全22カ国・機構で上映が禁じられた。イスラエルの役者を起用してテルアビブで撮影したのが理由だ。イスラエルをめぐっては、パレスチナ占領に抗議する形で、イスラエル製品・サービスのボイコットや投資の撤収、経済制裁を呼びかける『BDS運動』があるが、ドゥエイリ監督によると、この運動の対象となって猛然と抗議されたという」(GLOBE.asahi.com/article/「揺れる政治の中に一瞬の機会」より)

ジアド・ドゥエイリ監督


【参考・引用資料】

拙稿・心の風景「憎悪の共同体

(2020年3月)


0 件のコメント:

コメントを投稿