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2020年10月3日土曜日

「バカンス」を軟着させた青春の息づかい ―― 映画「ほとりの朔子」(’13)の素晴らしさ 深田晃司



1  囲繞する大人社会のリアリティの「観察者」

 

 

 

8月26日 日曜日。

 

浪人中の朔子(さくこ)が、叔母の海希江(みきえ)と共に、外国旅行に出かける海希江の姉・水帆(みずほ)の家を訪れる。 


水帆が留守の間、二人が夏の終わりを過ごすのである。 

海希江(右)と水帆


旅支度を終えた水帆を車で送るのは、海希江の幼馴染の兎吉(うきち)。 

兎吉

その娘・辰子(たつこ)を紹介され、朔子をヒロインとする「バカンス映画」の一日が開かれていく。 

辰子

8月27日。

 

一人で海に入る朔子の二日目は、夏の海の波音の響きが構図に融和していた。


 

8月28日。

 

インドネシア語の研究をする海希江は、翻訳の小説に出てくる花、川辺に咲くフシグロセンノウの存在を、水帆の知人の敏江から聞き知り、それを見に朔子と徒歩で出かける。 

敏江

途中、自転車に乗り、甥の孝史(たかし)を連れた兎吉と出会い、二人はそれぞれの自転車の荷台に乗り、川辺まで別の道を行く。 

左から孝史、兎吉、海希江、朔子

孝史の自転車の荷台に乗る朔子


先に着いた孝史と朔子、叔母たちを待つことになるが、いつまで経っても海希江らはやって来ない。 

川原で遊ぶ朔子と孝史


かくて、中期青春期の渦中にある、朔子と孝史は自然に会話を交わすことになる。

 

孝史は高校に行かず、兎吉のホテルで働いていると言う。

 

程なく到着した海希江は、早速、フシグロセンノウの写真を撮り、それに見入る朔子。 


フシグロセンノウ(日本の固有種で、本州・四国・九州の山地の林下などに自生する/ウィキ)


朔子は今、「ほとり」(大人と子どもの中間で、そのどちらでもないという意味=監督の言葉)にいて、たおやかに佇んでいた。

 

8月29日。

 

兎吉が河原に忘れた麦わら帽子を届けるために、辰子がバイトする喫茶店に行く朔子。

 

闊達(かったつ)そうな大学生の辰子は、詩を自費出版したと言う。

 

帰り際に麦わら帽子を辰子に渡そうとすると、父と一緒に住んでいないというので、兎吉が経営するホテルへ届けに行く。 

父を敬遠する話をする辰子

兎吉の偽装ラブホテルに麦わら帽子を届けに行く


ホテルと言っても、その内実は、風営法で規制されている偽装ラブホテル。

 

その偽装ラブホテルで働く孝史と再会した朔子は、その孝史から意外な話を耳にする。

 

過去に、兎吉と海希江が付き合っていて、結婚寸前まで行ったがダメになったという話である。 

海希江と兎吉についての過去の話を聞く朔子


そんな話を含めて、二人の会話がプライバシーにも及び、その関係に一定の近接感が生まれていく。

 

朔子が家に戻ると、大学の非常勤講師である西田と、敏江とその友人たちが、海希江の元に集まっていた。

西田と海希江

 

そこでも朔子は、兎吉と孝史についての噂話を聞かされる。

 

兎吉がチンピラであり、その甥の孝史は福島原発事故の避難民で、両親は仮設住宅に住み、孝史は疎開し、今、兎吉のところに住んでいるということ。

 

「変な仕事も手伝わされているみたいだし、あんな男に預けるなんて、よっぽど追い詰められていたんでしょうね、ご両親」

 

その話に聞き入る朔子だが、席を外して二階に上がる。 


大人たちの溢れ出る世間話に囲繞され、何も起きない朔子の一日が閉じていく。

 

8月30日。

 

西田と共に、海岸に行く朔子と海希江。

 

泳ぎが苦手な西田は、砂浜で、二人が海で遊んでいるのを眺めている。

 

兎吉の娘・辰子が西田に声をかけたの、そんな時だった。


大学の講師である西田を知っていて、著作も読んでいたので、それを話題にして話す二人。

 

そこに孝史もやって来て、朔子と海岸沿いを歩いていると、同級生の数人とすれ違い、卑猥な言葉を投げかけられ、孝史は冷やかされる。

 

朔子と孝史のもとに、同級生の一人・知佳(ちか)が戻って来て、彼らの冷やかしを謝り、その連作先を教える。

 

少しずつ、朔子のバカンスの日常が忙しなくなってきた。 


8月31日

 

大学の西田の授業に出席する辰子。 


授業終了後、辰子は西田に声をかけ、車で送ってもらうことになる。


 

その車内で、辰子は自分の身の上話を始める。

 

チンピラだった父親が母の死を機に、辰子を大学へ行かせるため、ラブホテルの支配人となったが、その大学では偽装大学追放のキャンペーンをしているのだ。 


それが、辰子が父親を倦厭(けんえん)する理由だった。

 

妻子持ちの西田と海希江との関係を責め、父親のラブホテルを使えばいいと冗談を言う辰子。

 

その西田は辰子を誘い、関係を持つに至る。

 

一方、朔子は約束通り、孝史をランチに誘ったが、注文した直後に知佳から電話がかかり、この喫茶店に呼ぶように朔子は言い添えて、自分は店を出てしまった。 


その直後、朔子は海岸へと足を運び、砂浜を走り、迷い歩く。 


朔子の内面が、緩(ゆる)やかに漂動していた。

 

9月1日

 

兎吉と辰子

辰子の誕生日の自宅での食事に、兎吉から呼ばれた海希江と朔子は、海希江の愛人である西田を連れ、兎吉の自宅を訪ねる。


 

辰子と関係を持った西田は、当然ながら乗り気でなかったが、兎吉が女性の好みや学生との関係について、執拗に聞いてくる卑猥な話題に嫌気が差し、席を外しまう。

 

海希江が心配していくと、西田は台所で不満を垂れる。

 

「正直言って、うんざりだ。お前のために、ここまで来たのに」

「ちょっと、私、来てくれなんて言った?」

「それが、勝手だって言うんだよ。汲み取れよ、僕の気持ちを」


「あのね、私はここに、仕事をしに来ているの」

「それが、どうだってんだよ。僕だって仕事があるのに」

「だから、仕事と恋愛は分けたいの。言ってるよね、前から」 


なおも続く、世俗の臭気全開の諍(いさか)い。

 

「来なければ良かったよ。それにあのチンピラ、最低だよ。親も娘も。何だって君は、あんなのとつきあってんだ」

「古い馴染みなの、親友を悪く言わないで」

「親友以上なんじゃないか」

「そうよ、ばっか、そんな訳ないでしょ」

 

「汲み取れよ」という西田の言辞には、その思い入れの強度において「男性社会の象徴」(監督の言葉)でもある。

 

それが、直後のシーンで炙り出されることになる。

 

兎吉親娘がカラオケをしている部屋に戻り、東京に戻ることを西田が告げると、辰子がいきなり頬を叩いた。


 

「面白くねえよ!エロ親爺!」

 

それを止める父親をも叩いた気強い辰子にとって、男社会の異臭への倦厭を身体化せざるを得なかったのだろう。

 

笑み含みで、大人社会の現実を視界に収める朔子は、外に出て花火をしていると、孝史がデートから帰って来た。 


孝史はデートではないというが、知佳にイベントに誘われた話をすると、朔子は頑張れと励ます。

 

朔子を囲繞する大人社会のリアリティは、いよいよ増幅していくようだった。

 

 

 

2  「家出」を共有する青春が、大人社会の中枢で鼓動していた

 

 

 

9月2日 日曜日。

 

孝史が誘われたイベントとは、反原発集会であった。

 

その主催者と共に活動している知佳は、あくまで原発避難者としての孝史に興味を持ち、スピーチさせる目的で近づいてきただけだった。

右から孝史、知佳、知佳の恋人で反原発集会の主催者

 

以下、突然、登壇させられての孝史のスピーチ。

 

「親父も原発の下請けみたいなところで働いていて、原発ずっと動かして、活かされていたわけで、どっかで、あの、自業自得かなと思ってるとこがあって、それに、俺、親も家も大嫌いで、ガキんときも。おふくろにも親父にも殴られてて、地元も貧乏くさくて大嫌いで、こんなとこ、さっさと逃げ出したいなと思ってて、一人でこっちに来ることになって、ほんと、せいせいしてるんです。違うんです、あの。戻りたいと思ってる奴もたくさんいて、原発もひどいと思うけど…俺、あんなとこに戻りたくなくて、オヤジもさっさと逃げ出せばいいと思ってて…だから、ほんと、こんなとこで、話せるようなあれじゃないんです、すみません」


 

そう話すや、孝史は、一目散に会場から走り去っていった。

 

その孝史のスピーチを、ネットライブ配信で一部始終を見ていた朔子は、カバンを抱え、慌てて家を出て行った。 

ネットライブ配信


一方、ホテルの戻って来た孝史は、代わる代わる若い女性を連れて来る常連客の初老の男が、中学生と思しき女の子と待ち合わせている状景を目撃する。

 

孝史は、その一件で、初めて叔父に違法性を訴えるが、叔父は別の仕事を探すと言い切って、その場で孝史を解雇する。

兎吉を批判し、解雇の憂き目に遭う孝史

 

この孝史の行動の推進力となったのは、知佳に振られたことと、違法性の高い「ビジネス」に利用されたことへの怒りである。

 

この怒りは解雇されたことで、炸裂する。

 

首になった孝は、怒りを抑えられず、その常連客が来た際に必ずかける曲を、「こんにちは、赤ちゃん」に替え、大音量で流すのだ。 

「こんにちは、赤ちゃん」を大音量で流す孝史

調子が狂った男は、相手の中学生を抱くことができず、逆に大笑いされる始末。 


このシーンは、金欲しさに援交する中学生の脆弱性を払拭して、圧巻だった。 

炸裂する孝史もまた、青春の屈折を抱え込んでいた

一方、ホテルから逃げ出した孝史の前に、朔子が立っていた。 



走り去っていく孝史を、追い駆ける朔子。 


追いついた朔子に、孝史は「家出する」と言い、朔子も付き合うと言う。

 

かくて、二人は線路伝いに歩きながら、遠くへ行きたいと、多くの国や地域について言い合っている。


 
「でもさ、私達が遠いってのと、例えば、叔母さんみたいに世界中と回っている人の遠いってのと、違うんだろうね」

「同じだよ、どこ行っても」

「同じかな」

「同じだよ」

 

夜になり、二人はカフェに入った。

 

その店では、不思議なパントマイムのパフォーマンスが始まった。 


それに見入る二人。

 

「家出」を共有する青春が、大人社会の中枢で鼓動していた。 


9月3日。

 

駅のホームで休む二人。

 

明け方、海希江と兎吉は、家で朔子と孝史の帰りを待っていた。

 

「辰子ちゃん、可愛い?」

「ああ、変な奴だけどな」

「大事にしろよ、絶対。とにかく、産んだんだから…産んだんだから」 


この会話によって、海希江と兎吉の関係が明らかにされた。

 

気強い辰子は、同時に気強い海希江の実娘だったのである。

 

そして、「家出」を共有した二人。

 

朝になり、目を覚ました孝史は、そのまま家に帰ると言う。 


「おじさんに、謝らないと」

 

孝史の人柄が、こんな一語にも現れている。

 

二股に分かれた道で、別れ際、朔子は孝史の頬に軽くキスをして、それぞれの家路に就く。 


家に戻ると、海希江は朔子を咎めることもなく、受け入れた。

 

責任を意識し、心配する感情の強さは、姪の帰宅が具現した安堵感の中に収斂されるのだ。

 

翻訳の仕事も書き上がったことを告げ、「おめでとう」と朔子は自然に返す。 


まもなく、海岸を歩く朔子と海希江が、そこにいた。 


海希江の研究の話題に振れ、自分の意見を言う朔子。(後述)

 

話題は変わる。

 

「叔母さん、兎吉さんのこと、好きなの?」 


4人で自転車で川に行った翌日、朔子は兎吉と海希江が選んだ道の方が、ずっと短かかったことを確かめたのだった。 

遅れて川原にやって来た海希江と兎吉

「秘密、秘密!」 


そう言って、海希江は誤魔化すのだった。 


この会話を置き土産にして、朔子のバカンスは終焉を迎えていく。

 

月4日。

 

実家から電話が入り、予備校が始まることを知らされ、東京へ戻る朔子。

 

兎吉の運転で駅に向かう途中、辰子が路上で待ち受け、朔子に一枚の写真をプレゼントした。


 

それは、辰子の母親の遺品から出てきたという、子供時代の朔子と孝史と辰子、朔子の母親と海希江と水帆、兎吉の海岸での集合写真だった。

 

走り出した電車の中で、その写真に見入る朔子。

 

線路際で見送る兎吉と海希江に手を振る。 





こうして、朔子のひと夏は終わりを告げた。

 

 

 

3  「バカンス」を軟着させた青春の息づかい

 

 

 

「やりたいことがあるって、いいと思う」

 

大学生の辰子の自費出版の話を聞いた時の、朔子の言葉である。 


この言葉が、浪人生・朔子の〈現在性〉を明瞭に表現している。

 

これは、ラブホテルで働く孝史と再会した際の会話の中で、具体的に明らかにされている。

 

「驚いたでしょ、あんなとこで」

「ううん、大人に混じって働いて凄いと思う」


「凄くないっすよ」

「あたし、がり勉だったから、バイトしたことないし」

「がり勉のほうが、ずっと難しいと思う」

「でも、がり勉のくせに、大学全部落ちたら?すべり止めも全部。あるんだよね、そんなことが。今も落ち着いたけど、ちょっとあれ、パニックになったの。なんていうか、大学落ちてみたら、あたし、空っぽだなって気が付いたの、何にも知らないし、したいことないし」


「じゃ、大学受かったら、空っぽじゃないんですか?」

「どうだろ、違うかな」

「早いうち気が付いて、よかったじゃないですか」

「そうかもね。でもあたし、気が付かないままの一生でも、よかったけど…とにかく、先のことは何も分からなくて、心配だってことですね」

「俺も、先のこと、分かんないっす」

 

自分の〈現在性〉を「空っぽ」と表現し、「先のことは何も分からなくて、心配」と吐露する朔子の正直な思いには、そのディリーハッスル(日常的な苛立ち)の状態から、一時(いっとき)の解放を求めて、伯母・水帆の家にやって来たことを窺わせるのに充分過ぎる心情が読み取れる。

 

だから、本来的にバカンスの愉悦という気分での「旅」ではなかった。 

朔子の「旅」を描くオープニングシーン


「こんな人生でいいのだろうか」という心理を抱えている内的状況下にあって、朔子の行動は「自分探しの旅」という文脈で説明可能かも知れないが、少なくとも、あるがままの自己を受け入れるセルフ・コンパッションの低下への焦燥感・不安感が漂動しているのは、疑いの余地がないだろう。

 

青春期の根源的課題に直面しているのだ。

 

青春期の根源的課題とは「自我の確立」である。

 

思春期初期から青春期後期に及ぶこの特殊な時期は、「自我の確立運動」の最前線であると言える。

 

以下、映画「きみの鳥はうたえる」で書いた一文を転載しながら、批評していきたい。

映画「きみの鳥はうたえる」より

 

自我とは、簡単に言えば、「快・不快の原理」・「損得の原理」・「善悪の原理」という人間の基本的な行動原理を、如何にコントロールしていくかという〈生〉の根源的テーマを、意識的・且つ、無意識的に引き受け、自らを囲繞する環境に対する、最も有効な「適応・防衛戦略」を強化し、駆動させていく「基本・大脳(前頭葉)」の総合的な司令塔である。

 

自我の総合的な司令塔「前頭前野」


ところが、この「基本・大脳(前頭葉)」の総合的な司令塔は、人間の生来的な所産でないから厄介な代物なのだ。

 

最も有効な「適応・防衛戦略」を完成形に拵(こしら)えていく「仕事」の艱難(かんなん)さが、この時期に重くのしかかるからである。

 

新しい情報の獲得・処理・操作にしていく知能=「流動性知能」が長けても、人生経験で培った判断力・洞察力・知恵=「結晶性知能」が不足しているが故に、「適応・防衛戦略」の完成形を得て、「自我の確立運動」が成功裏に導くことが叶わない。 

流動性知能と結晶性知能


これがあるから、「自我の確立運動」の最前線の渦中にあって、「青春時代」の景色が、「思うようにならない現実」を視界に収め、大抵の青春期が「澱み・歪み・濁り」の心理に捕捉され、立ち行かなくなってしまうのだ。

 

ましてや、朔子の場合、大学受験に悉(ことごと)く失敗した浪人生で、中期青春期の渦中にある。 


自分の〈現在性〉を「空っぽ」と表現したのは、ある意味で当然である。

 

明るく装っていても、「思うようにならない現実」に押し込まれ、その息苦しさからの解放を求めて「旅」に出たのは、朔子にとって、それ以外の方略がなかったからであるとも言える。 


「気晴らし」もまた、重要な方略なのである。

 

そこには、単なる「気晴らし」に収束できないモチーフが隠し込まれていたと思われるが、それが自覚的ではなかったのも自明であるだろう。  

「旅」の初日・砂浜を歩く朔子と海希江


だから朔子は「観察者」に徹していた。 


色事で大騒ぎする大人社会の現実を視界に収めることで、朔子は、大人社会が完成形に拵(こしら)えていない情態をリアルに感受する。 

辰子が西田の頬を叩く場を目の当たりにする「観察者・朔子」

とりわけ、「何者か」である海希江の情態は、「何者」でもない自己に嫌気が差していた朔子に、「何者か」であることの難しさを気付かせるに充分だった。

 

この二人の印象深い会話がある。

 

朔子は海希江の研究について、矢継ぎ早に質問した際の会話である。

 

「最初は外国に行きたくて、留学しただけなんだけど、行けばそこに友達ができるでしょ。友達ができると、その国で紛争や災害があると、やっぱり気になるのよね、日本にいても。その度に行っているうちに、自然と仕事になっていったの」

「でも、日本にも困ってる人、いっぱいいるよ。それに、結局、叔母さんはどんなに外国に住んで、研究して、言葉ができても、そこでは外国人でしかないわけだよね。だから、それじゃあ、叔母さんがどんなに頑張っても、その国の人にはなれないっていうか、その国のことはその国の人が研究して、助けたりした方が深くなるっていうか、上手くいくんじゃないの」

「そうかもしれないね」

「じゃあ、叔母さんがやってることの意味って何なの?」 


「じゃあ聞くけど、さっちゃんは、自分のことは自分が一番していると思う?」


分かんない

「自分のことだからこそ分からないことって、あるんじゃないかな。他人の方が、実は自分の魅力や欠点が見えてるってこと、あると思うのよね」

 

研究者としての海希江に、その研究の意味を問う浪人生。

 

「何者」でもない青春が、「何者か」である職業的研究者に、「何者か」であることの中枢的意味を問うのだ。

 

しかし、この叔母は誠実だった。

 

姪の生意気な発問に誠実に反応し、且つ、その姪に問い返すのである。

 

この問い返しこそが、何より根源的だった。

 

「観察者」に徹していた朔子の、曖昧な立ち位置を反転させていくからだ。

 

「分かんない」と答える朔子に、「分かんない」という状態が担保するモラトリアムの脆弱性を自覚させ、その実体的な突き抜けを根柢から要請するのである。

 

「他人の方が、自分の魅力や欠点が見えてる」という海希江の指摘は、主観で自分を決めつけることの愚を戒めている。

 

この指摘は、自分の〈現在性〉を「空っぽ」と決めつける朔子に、相対思考の大切さを教える意味を与えたであろう。

 

そして、この相対思考は、もう一人の重要な人物との出会いによって、既に手に入れることができていた。

 

言うまでもなく、重要な人物とは孝史。

 

反原発集会で登壇させられた時の孝史の「スピーチ」を、ネットライブ配信で、その一部始終を見ていた朔子が自分の思いを正直に吐露した。

 

「あのデモのやつさ、ネットで見てたよ。なんか、皆に可哀想、可哀想って見られている孝史君が居心地悪そうでさ、泣いてんのか、笑ってるのか分からない顔していて、可哀想だった…ごめん」

 

肝心の孝史は、「可哀想」という物言いへの不満もあったのか、自らが起こしたラブホの「事件」での情動炸裂の行動が後を引いて、その場を走り去っていく。

 

そして、「家出」の共有となる。 


二人の一連の交叉と、「家出」の「共有」というハードランディングによって、朔子は同世代で、かくも苦労している青春を目の当たりにして、「辛いのは自分だけではない」という思いを強く持ち、自己を相対化することに成就したのである。 


これが、先の海希江との会話を通して強化されていくのだ。

 

以下、東京に戻る当日における、朔子と海希江の短い会話。

 

「やりたいこと、決まった?将来」と海希江。

「うん、何となく」と朔子。

「何?」

「秘密…秘密、秘密」 


かくて、この一語を土産にした、朔子の「バカンス」は軟着したのである。

 

「バカンス」を軟着させた青春の息づかい ―― この一語に尽きる。 


本稿の最後に、観る者に忘れ難い印象を残した、反原発集会での孝史の「スピーチ」について、深田晃司監督のインタビューでの言葉を転載しておきたい。

 

「僕個人は反原発の立場でデモにも参加しています。でも自分の立場を直接反映させるだけでなく、信じているものに疑いの目を向けてみるのも、映画の豊かさだと思います。被災された方々にもいろんな考えの人間がいるのは当然であり、多様性に組することで、埋もれてしまった声を掬いとりたいと思ったのです」 

深田晃司監督

この「多様性」こそ、稀有な映画作家・深田晃司監督の作品総体を通底する生命線である。

 

全面的に同意する。

 

以下、深田晃司監督のインタビューでの印象的な言葉である。

 

「大仰な葛藤も世界を単純に見せるエキセントリックな悪意も暴力もいらない。ただ、人が歩き、話し、誰かとすれ違っていく。そのすれ違った後に残された景色に、何か見る者の記憶に触れるような余韻を残せればと思う」

 

「登場人物の出し入れ————誰と誰がいつどこで出会い、話し、別れていくか———を洗練させて、何かを伝えたい。その思いに変わりはないにせよ、『ほとりの朔子』ではこれまでよりも、生身の人間の息づかいを尊重しようと心懸けました」 


監督のこの思いが、本篇で完璧に再現されていた。

 

いい映画だった。

 

(2020年10月) 

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