1 「お前、いい奴だしさ。俺とダチになったほうが、いろいろと楽しいと思うぜ」「ありがとうございます」
東京拘置所に収監中の死刑囚・鏑木慶一(かぶらぎけいいち/以下、鏑木)が、自らを傷つけ血を吐き、偽装して医療刑務所へ救急搬送される途中、刑務官らと激しい格闘の末、振り切って逃走した。
鏑木 |
警視庁捜査一課の刑事・又貫征吾(またぬきせいご/以下、又貫)が、取調室で逃走中の鏑木と接触があった人物から事情聴取する。
又貫 |
「私は、鏑木慶一のことは、何も知りません。名前も経歴も、全部ウソだったんですから。分かるわけがありません」と安藤沙耶香(さやか/以下、沙耶香)。
沙耶香 |
「誰もよく知らなかったんじゃないっすかね。ベンゾーのこと。あ、俺らは、そう呼んでたんです、あいつのこと。なんつーか、俺は好きでした」と野々村和也(以下、和也)。
和也 |
「桜井さんのことは、尊敬してたし、仕事もちゃんとしてて、皆に好かれていたと思います」と坂井舞(以下、舞)。
舞 |
「施設にいた人たちも、気づいてなかったんですね?」
又貫の問いに肯く舞。
「どこにでもいそうな雰囲気だけど、“そういう奴に限って”ってやつっすよね」と宮村勇太。
「最初から怪しいと思ってたんですよ」と金子健介。
「子供も殺したんでしょ?」と宮村。
「恐喝されてるんですよ。金取られてるんですよ」と金子。
「いや、だから、何度も話した通り、何も言うことありません。私は、あの殺人犯を絶対に許しません」と笹原浩子(以下、浩子)。
浩子 |
「私は直接、関わりはありません。しかし、娘は今でも彼を信じてます」
淳二(沙耶香の父) |
沙耶香の父・安藤淳二(以下、淳二)の反応である。
「気づかなかったんですか?彼の正体に」と又貫。
その又貫は、「まったく、やってくれましたね。ありえない失態ですよ…どうにかしてください」と警視庁刑事部長の川田に促され、記者会見場に入る。
川田 |
又貫は、記者からの犯人の逃走経路や逃走手段についての質問を浴びるが、額に汗をかきつつ、「まずは国民の皆様の安全を第一に早期に身柄を確保すべく、最大限の人員を投入した態勢で捜査に当たっています」としか答えられなかった。
又貫 |
「東京拘置所に収監中の死刑囚が脱走し、警察などが行方を追っています。脱走したのは鏑木慶一死刑囚21歳で…18歳だった2019年に…」
長野県在住の坂井舞の高校卒業式の朝、一家は鏑木の脱走を伝えるテレビニュースを観ている。
「こっわ。私の歳で3人殺したってことでしょ?…普通の顔してるのにね」と舞。
舞(左) |
心配する父親が東京行きを考え直した方がいいと言うが、東京で美容師になることを決めている舞は聞く耳を持たず、そそくさと退散して学校へ行った。
逃走から118日目。
ぼさぼさの長髪に分厚い眼鏡で変装した鏑木は、大阪府住之江区の建設現場で作業員として働いている。
鏑木をベンゾーと呼ぶ同僚の和也に、「悪いけど、こっち手伝って」と声をかけられ、鉄パイプを運んでいるベンゾーが振り向いて、「はい」と小さく返事をする。
気のいい和也だが、ヤクザから借金の返済が出来ずに脅されている。
そんな和也が他の作業員を庇って怪我をしてしまい、会社からは治療費が出ないので、仲間たちはカンパしようとするが、皆も苦しいからと言って断った。
何とか会社に出させる方法はないかを問う和也に、「俺らに人権なんか、ねえ」と、老作業員がぼやく。
そこでベンゾーが、会社から労働基準監督署に申請してもらえば、国から支給されると進言し、早速、和也はベンゾーと共に労災保険のパンフを持って上司の金子の元へ行くが、全く相手にされず、松葉杖ごと蹴り飛ばされる。
「おい、ジャンプ。お前が勝手に怪我したんとちゃいますの?何、因縁つけて恐喝しようとしてんねん。コラ…嫌やったら辞めてもらいますか?」
金子 |
ゴミが散乱する部屋に戻った和也は、金子にジャンプと言われる理由について語り出す。
「施設を出てからさ、ギャンブルで借金作って、それ膨れて返せなくて飛んで、捕まって、で、また飛んで捕まって、飛んで…羽折られて、今ここ。俺の人生、たぶん一生こんななんだろうな」
「いくらあれば、和也さんの気持ちが落ち着きますか?」
戸惑う和也が、とりあえず10万と答えると、「わかりました。待っていててください」と伝え、ベンゾー(鏑木の変名)は再び金子の元に行き、法律知識を持ち出して会社と現場責任者の責任を問うのだ。
ベンゾー |
金子は無視して殴りつけるが、ベンゾーは「間違ってますよ、あなたたち」と、鼻血を垂らしながら、金子を鋭い目で射貫(いぬ)く。
鏑木の人間性の一旦が垣間見えるが、現実は甘くない。
部屋で待つ和也は、死刑囚鏑木の逃走事件で、有力情報提供者への懸賞金を300万円に引き上げるというニュースをテレビで見ていた。
「警視庁は、指名手配のポスターの情報を更新し、眉が濃い、左頬にほくろ、背中に火傷のあと、左利き…」
ベンゾーが部屋に戻り、金子から受け取った2万円を和也に渡すと、お前も殴られたからと、1万円をベンゾーに差し出す。
すっかりベンゾーを気に入った和也は、一緒に酒やつまみを買いに行き、早速、店に貼られた鏑木死刑囚の指名手配のポスターを見て、「300万円あったら、人生やり直せんのかな」とぼやく。
21歳のベンゾーは正座をして、生まれて初めて缶ビールを飲む。
友達がいないベンゾーに、「じゃあさ、俺が友達になってやるよ」と和也。
「え?」
「お前、いい奴だしさ。俺とダチになったほうが、いろいろと楽しいと思うぜ」
「ありがとうございます」
和也が記念に自撮りすると、ベンゾーは顔を下に向ける。
「照れんなよ」という和也は、棚に置いてある六法全書に気づき、「弁護士とかに、なりてーの?」と付箋(ふせん)だらけのページを捲(めく)ると、東村山一家殺人事件被害者の名前が書かれたメモと元少年死刑確定の新聞記事の切り抜きが挟まれていた。
ベンゾーが無言で本を取り上げ、後ろの棚に戻した。
この時、初めて和也はベンゾーを疑い始めた。
「わりー、わりー。俺バカだから、わかんねえや。ハハハ」と誤魔化し、広げた総菜を食べようと勧めるが、ベンゾーの右手で使う箸さばきがぎこちない。
「本当は左利きだったりして…」
鏑木が箸を置くと、「冗談だよ」と言いつつ、気まずい雰囲気のまま、眼鏡を取ったらどんな顔をしてるかを聞き、和也はベンゾーの眼鏡を外して、サイドの髪を持ち上げる。
その左頬にはホクロがあり、ここで和也は絶句する。
「普通の顔です」とベンゾー。
「悪いな、俺、小便」と慌てて部屋を出た和也は、トイレで改めてスマホでポスターの顔を確認し、110番に通報するが、ベンゾーがトイレの入り口で立っているのに気づき、通話を切る。
ちょうど大勢の作業員たちが廊下を歩いて来たところで、ベンゾーは姿を消した。
又貫らが到着した頃、鏑木は逃走していた。
2 「なぜ逃げた?」「何を言っても、信じないでしょう」
逃亡から180日。
東京都新宿区の人混みに紛れて歩く、茶髪にニット帽を被った鏑木の後ろ姿。
その頃、東京高等裁判所では、痴漢事件の被告席に立たされ、無実を主張する父・安藤淳二を娘の沙耶香は傍聴席から見守っていた。
父がやっていないと信じる沙耶香は、雑誌記者の突撃取材を振り払い、父・淳二をタクシーに乗せ、励ます。
「でもさ、これだけ多くの人に攻撃されたら、やったって言ってしまう人の気持ちが分かるよ」と吐露し、今や弱り切っている淳二。
淳二は弱い立場の人たちの弁護を引き受ける人権弁護士なのである。
沙耶香は勤務するメディア・トレンダーズ(Webメディア)に遅れて出勤すると、先輩の後藤が今日も記者が張り込みに来ていたと沙耶香を案じる。
「すいません。ご迷惑かけちゃって」
「いや…でも冤罪って、ほんと怖いよ。言いがかりで人生パーだもんな…こいつも意外にそうだったりしてね」
後藤は逃亡して半年の鏑木のニュースを伝えるテレビモニターを指差す。
「殺人犯と一緒にしないでください」と沙耶香。
沙耶香と後藤(右) |
「ごめん、ごめん…いや、でも…調べれば調べるほど動機が見当たらないんだよな」
そう言って、後藤は鏑木の生い立ちについての資料を沙耶香に見せる。
そこには、鏑木が都内の児童養護施設で育ち、施設のイベントでは手料理を振舞い、学生時代は陸上部に所属し、文武両道な優等生だったことなどが書かれていた。
実は、鏑木は今、那須と称するフリーランスのライターとして、沙耶香から仕事の依頼を受けていた。
那須(鏑木) |
警視庁捜査課の又貫は、鏑木の変装パターンを壁に貼って確認している。
「どっかで、整形でもしたんですかね」と井澄(いすみ)。
「人間の印象は主観的であいまいだ。肝心なのは見た目じゃなく、行動パターンと心理状態を推測することだ」と又貫。
又貫らは、鏑木が育った児童養護施設を訪ね、園長の話を聞く。
「こちらへは」
首を横に振る園長。
「優しい子だから迷惑かけると思ってるんでしょ…ねえ、刑事さん、あなたたちは本当に、慶一がやったと思ってるのよね?神に誓ってそう言えるのね?あなたたちは奪ったのよ。慶一のすべてを」
園長 |
硬直する又貫。
沙耶香は那須の文才や言葉のチョイスのセンスを称賛し、締め切りをきちんと守ることも気に入っている。
大雨が降る仕事帰りに、傘も差さずにネットカフェの前で財布を覗いている那須を見つけた沙耶香は、強引に食事に誘う。
初めて食べる焼き鳥の美味さに目を見張る那須。
沙耶香は那須がネカフェで寝泊まりしていることを知っていると言うと、那須の目が泳ぐ。
「人間なんて、皆いろんな事情があるから。那須君は優秀なライターさん。それで私は大丈夫…那須君のことを信じます」
那須は沙耶香を真っすぐ見つめる。
「だから、これからも今まで通り頑張ってね」
那須の目が潤み、涙が零れ落ちそうになる。
「“信じる”って言われたことが嬉しくて…ありがとうございます」
その後、酔った那須は沙耶香のマンションのソファで眠り、事件を巡る一連の出来事の悪夢にうなされ目を覚ますと、沙耶香は置手紙をして出社した後だった。
沙耶香から次の住む所が見つかるまで居ていいと言われた那須は、しばらく沙耶香の家で暮らすことになった。
同時に、沙耶香が口にした会社の専属契約も、那須が願い出て叶えてもらい、ライターの仕事をする傍らで、会社のパソコンにこっそりアクセスし、東村山一家殺人事件を取材した文書をスマホで撮ったり、被害者家族のインタビュー音声を聴き出して情報収集するのだった。
那須が食事を作り、ネットドラマを一緒に観るなど、沙耶香の家では穏やかな時間が流れる一方、逃亡中の鏑木死刑囚の連日の報道で顔写真を目にしている沙耶香は、那須が毎晩何かにうなされ、それに寄り添う中で左頬のホクロを削った跡も目に留まり、那須が鏑木である疑念は拭いようがなくなっていく。
そんな折、淳二は裁判で敗訴してしまうが、沙耶香は「控訴しよう」と呼びかける。
「絶対に間違ってる」
「何で、俺だったんだろうな。実際被害者がいて、今も加害者がいて、今も加害者はのうのうと生きていて…でも、なんで俺だったんだろうな」
「お父さんじゃない」
「俺の声は、もう誰にも届かないんだよ」
「今は届かなくても、諦めなかったら、いつか声は届くから」
自宅マンションに入るところで、兼ねてから淳二の痴漢冤罪事件で絡んでくる「週刊タイムズ」の黒島が声をかけてきてた。
「鏑木慶一なら、先に帰られましたよ」
ハッとして、立ち止まる沙耶香。
「何のことですか?」
「あー、えっ、あれ?気づいてなかったんでしょうか?」
「私は誰とも住んでません」
帰宅した沙耶香の落ち込んだ様子を見て、ハンバーグを作っていた那須が心配して声をかける。
「今日、裁判に負けちゃった。お父さん。痴漢の冤罪で闘ってたんだけど。証拠も勝手にでっち上げられて。世間は“変態弁護士”って、叩くだけ叩いて。家族もバラバラになって…でも、私は、お父さんを信じた」
沙耶香は那須の方を向き、「私は、絶対にやってないって信じてる」と頬に涙を流して訴える。
見つめ返す那須。
「え?」
「逃げて。鏑木君」
そこに玄関のチャイムが鳴り、訪れた又貫と井澄が同居人についての通報があったと、二人がスーパーで買い物をしている写真を見せ、沙耶香は一人暮らしを主張するが、念のためと部屋に上がった。
又貫が家の中を探す見つからず、引き上げたところで、浴室の天井に隠れていた鏑木が降りて来た。
再びチャイム鳴り、今度は強行突入した又貫らは、リビングにいた鏑木を取り押さえようとするが激しく抵抗され、包丁を手にした鏑木に、又貫は拳銃を向ける。
「なぜ逃げた?」
又貫と井澄(いすみ) |
「何を言っても、信じないでしょう」
又貫が引き金に手をかけたところで、沙耶香が飛びつき、「逃げて!」と叫ぶ。
鏑木は振り向き、沙耶香に「ありがとう」と呟き、ベランダから真下の車に背中から飛び降りて一目散で街中を逃走し、橋で警察に追い詰められたところで川に飛び降りた。
放心状態の沙耶香と立ち尽くす又貫。
「なんで撃たなかったんですか?」と井澄刑事。
拳銃を向けるだけで鏑木を撃たなかった又貫のこの行為の伏線は、まもなく回収されることになる。
3 「お願いします、由子さん。僕は本当にやってないんです!」
逃亡1170日前。
東村山一家殺人事件の現場で又貫と鑑識官らが現場検証を行う中、通報した被害者一家の生存者であるの由子(よしこ)はパニック状態で、ガタガタ震えが止まらない。
由子 |
刑事部長室で川田に報告する又貫。
「通報を受け、我々が現着した際、現場に居合わせた高校生は容疑を否認しており、犯人を見たと言っております。しかし、現場にはそれらしき証拠は見当たらず、唯一の生存者であるご遺族は錯乱している状態です」
「他に証拠がないなら、その高校生で決まりでしょ」
もう少し詳しく捜査する必要があると主張する又貫に対し、鏑木の年齢が18歳であるのが「ちょうどいい」と言い切ったのである。
「もうすぐ18歳の重犯罪は、成人と扱いが同じになる。これからの少年犯罪を防ぐ意味でも、その高校生に極刑を与えておくのはいい抑止力になりますよ…さっさと終わらせましょう」
信じ難い刑事部長の言辞を受けた又貫はその指示に、否応なしに従わざるを得なかった。
又貫は、病院でPTSDの治療中で事件の記憶が混乱し、怯(おび)える由子に、目撃した鏑木が犯人であると誘導した証言を得て、それを証拠とすることにした。
誘導されて頷く由子 |
取調室で「僕はやっていない!」と叫ぶ鏑木。
裁判で死刑判決を受け、振り向いて涙目で又貫を見つめる鏑木が夢に出てきたところで、捜査室でハッと目を覚ました又貫。
情報提供懸賞金が1000万円に引き上げられ、街にポスターが次々に貼られる中、鏑木は再び髪を切り黒髪にし、目を一重にして変装し、由子の妹・笹原浩子が勤める宮村水産に、久間(ひさま)と名乗って勤務し始める。
久間(手前/鏑木)と浩子(右) |
逃亡から332日目。
東京都西東京市で東村山一家殺人事件と酷似する一家惨殺事件が起きた。
又貫は現場から、拘束された被疑者・足利清人(あしかがきよと)を取調べると事実関係をそのまま認めた。
「鏑木慶一の事件は知ってるな?」
フッと噴き出し、不気味な笑い声を発した後、「模倣じゃありませんよ」と真顔で答えた足利は、ぼさぼさの頭を左手でかく。
足利清人 |
「刑事さん…ケーキが食べたい」
アパートで日記を書いている鏑木の耳に、西東京市の殺人事件を伝えるニュースが聞こえ、テレビの被疑者が送検される映像を食い入るように見つめる鏑木。
逃亡から334日目。
鏑木は今、桜井と名乗り、長野県諏訪市にある介護施設のケアホーム・アオバに勤務している。
そこは、美容学校を辞めて東京から実家に戻った舞が働く施設でもあり、桜井に憧れる舞は、桜井と同じフロアの仕事に異動になったことを喜んでいた。
早速、少し足を引き摺る桜井は舞を連れ2階へ行くと、東京から内密でやって来て入所している由子の叫ぶ声が聞こえ、桜井は部屋に入り、いつものように優しく背中を擦(さす)り、深呼吸させて由子を落ち着かせるのだった。
舞は思い切って、桜井に地元の案内を申し出ると、意外にも快諾される。
捜査室で又貫は足利清人の個人情報に目を通すと、足利が東村山一家殺人事件の前後に、東村山の建設会社や造園などで就職・退職を繰り返しており、被害者の遺体と凶器に使われた鎌の写真を見て、思わず立ち上がる。
足利清人の個人情報 |
壁に貼られた事件の新聞記事や鏑木の変装写真などを見て、「目的は…」と呟き、由子の写真が目に入ったところで閃き、「証言」と書いた付箋を貼りつけた。
一方、東京では、会社を辞めた沙耶香が、和也を安藤法律事務所に迎い入れ、鏑木慶一の無実を信じる人たちによる活動を模索し始めていた。
沙耶香と和也 |
「今、仲間の弁護士と連携して、事件当時の証拠を集めてもらってます」と淳二。
一面雪景色の氷が張ったお気に入りの場所に桜井を連れて来た舞は、氷の上に立ち、目を閉じ深呼吸をする桜井の姿をさりげなく動画に収める。
舞がズームアップしたところで気づいて、一瞬カメラを見た桜井はすぐに横を向いた。
その動画を舞がインスタにアップして、当直室で東京の友人と職場の先輩の桜井が話題になり、地元を満喫している風を装いながらも、スマホから飲み会の楽しそうな様子が聞こえてきて、複雑な表情になる。
そんな時、由子の叫び声がして、部屋を覗いてみると、桜井が「お願いします」と何かを訊ね、由子が「分からない」と泣いており、その背中を「大丈夫」と言いながらさする桜井と目が合い、舞は慌ててドアを閉める。
メディア・トレンダーズに又貫らがやって来て、後藤に訊ねる。
「鏑木の行方を知ってますね?」
後藤(左)と又貫 |
又貫は後藤から訊き出した宮村水産を訪ね、社長から由子の妹・浩子は秋ごろに記者が来て嫌になって辞めたこと、同じくらいの時期に、夏ごろに入社した久間(ひさま)という青年も辞めたとの情報を得る。
鏑木は由子の妹の浩子に近づき、由子の居場所を聞き出していたのだ。
その記者が鏑木の無実を信じて取材活動をしている後藤であり、その際に久間が鏑木であると気づき、鏑木も「全部終わったら、必ず謝りに行きます」と沙耶香に伝えてくれと後藤に頼んでいたのだった。
ケアホームに東京から由子を訪ねてやって来た浩子が、姉の様子とセキュリティについてスタッフの四方田(よもだ)に訊ねる。
「ここ、本当に大丈夫なんですよね?…私、マスコミや警察にもずっと追い回されてるんです。もう、頭おかしくなりそうで」
四方田(左)と浩子 |
「大丈夫です。こちらは誰にも知られていませんので」
その会話を聞いていた舞は、気になって四方田に訊ねるが答えてもらえなかった。
その時、母親から電話が入り、舞がアップした動画の人物が鏑木ではないかとSNS上に拡散されていることを知る。
舞 |
その情報は瞬く間に拡がり、沙耶香も会社の元同僚から「那須が見つかった」との電話を受け、動画を確認する。
又貫らもその動画を観て、場所が長野県諏訪市のケアホーム・アオバと特定され、車を走らせた。
桜井こと鏑木は、由子の部屋に入り、事件当時のことを思い出すよう懇願する。
「由子さん、お願いします。僕にはもう時間がないんです!」
「思い出せないの」
外から車が近づく音がして、鏑木は覆面パトカーが停まるのを窓から確認する。
そこに由子の部屋に入って来た舞に、鏑木は人質になってもらうことを頼む。
いったん帰宅した浩子がSNSの騒ぎを知り、車でケアホームに戻って来た。
鏑木が舞の首にナイフを突き付けながら庇(ひさし)の先端までやって来ると、又貫が無駄な抵抗は止めるように呼び掛ける。
「あなたは分かっているはずです!本当の犯人が誰なのかを」
無言で見つめる又貫。
鏑木は建物に残る由子に、なんとか真犯人の目撃情報の記憶を呼び起こすことを懇願し、新証言を引き出そうとする様子を、鏑木から「もう、これしか方法がないんです」と頼まれた舞にスマホのSNSで配信させた。
SNSで配信された動画 |
皆、配信される中の様子を固唾を飲んで見つめている中で、車で駆け付けて来た沙耶香も動画を確認する。
「あなたの証言が必要なんです!お願いします」
鏑木に泣きながら頭を下げて懇願された由子は、フラッシュバックで息を震わせながら、由子はあの日の事件を振り返ると、鎌を抜いた少年と真犯人の顔が錯綜するのだった。
由子 |
足利清人 |
「本当の犯人の顔を見たんですよね?」
その日、高校生の鏑木が現場近くを歩いていると、女性の叫び声が聞こえ、開いた玄関から家に入り、部屋の惨劇を目撃する。
鎌が刺さった父親(子供を含む一家3人の父親/唯一の生存者・由子は祖母にあたる)の横に立っていた足利が振り向き、ニタと笑って出て行った。
鎌が刺さっている |
足利清人 |
部屋の入口に由子が腰が抜かして座り込んでおり、恐怖に戦きながら犯人の横顔を見ていたが、背中を刺され虫の息の父親が鎌を取ろうとしているのを見た鏑木が、背中の鎌を抜いた瞬間、返り血を浴びた顔で由子の叫び声で振り返り、そこに由子が通報した警察が到着して、釜を手に持った鏑木が犯人として逮捕されてしまったのだった。
返り血を浴びる高校生・鏑木 |
「犯人は、足利清人なんです。目撃していたはずです」
そのやりとりをスマホで見ていた又貫に、川田から早く突入するよう命じる電話が入る。
「どうすんですか?」(井澄) |
「人質の安全の確保ができていません」
「いいから突入しろ!」
葛藤する又貫だが、突入作戦の決行を指示する。
由子は事件の真相を思い出し、「私のせいで?」と鏑木の頬を手で触れると、鏑木は慟哭する。
一部始終がスマホで見ていた沙耶香たちは、鏑木の行動の意味を理解し、祈るように見守るのだった。
由子は頷き、絞るように「あの日、私は…」と語り出したところで、閃光弾(せんこうだん)が投げ込まれ、強い光と煙が立ち込め、闇の中で特殊部隊が突入して来た。
真っ暗な建物の中、フラッシュライトを当てられ、追い詰められた鏑木はナイフを振り回して必死に逃げようとするが、ここでも又貫が拳銃を向け、二人は対峙する。
鏑木がナイフで向かってきた時、発砲音がして、鏑木は右胸から肩の辺りに銃丸が貫通し、倒れ込む。
撃ったのは又貫ではなく、井澄だった。
倒れた鏑木は涙を流しながら、尚も又貫に向かって手を伸ばして訴えかけようとするが、そこで気を失った。
愕然と鏑木をも見下ろす又貫。
全てが終焉した瞬間だったように見えるが、ここから予測可能な逆転劇が開かれていく。
4 「信じたかったんです。この世界を…正しいことを正しいって主張すれば、信じてくれる人がいるって」
逃亡から361日目。
東京の街の喧騒の中、舞が長距離バスを降りたところで、沙耶香が待っていた。
「鏑木さんと出会った人たちを中心に、賛同者を募ってます」と沙耶香が説明する。
「あの場所で、“真犯人は足利清人だ”と聞きましたよね?」と淳二。
舞は力強く肯き、淳二は足利が余罪を仄(ほの)めかしていて、供述の辻褄が合わないことが出てきていると話す。
「人が人を裁くから間違いが起きる。ただ、間違いは正さなきゃいけない。もう一度、彼に、彼の人生を生きさせてあげたいんです。そして、皆に、彼の本当の姿を分かってもらいたい」
後藤は鏑木の誤認逮捕の可能性を記事にして配信し、それをアパートの一室で読んだ和也は、充実した表情で、何やら付箋を貼った参考書を手にして勉強を始めた。
街頭で沙耶香、父・淳二、和也、舞と、後藤らが、今、鏑木慶一の再審を求めるビラを配り、署名活動をしている。
刑事部長室に又貫が呼ばれた。
「万が一、誤認逮捕となれば警察の立場は失墜するだろう。でも、安心してください。ここまで来たら、君だけの責任ではありません。通常の業務に戻って結構です」
「はい?」
「鏑木の逃走劇は、歴史に残る大失態です。でも、防犯と逃走に対する捜査手法を強化するための礎となるでしょう…東村山一家殺人事件の犯人は鏑木慶一です。つまり、本件においては真実は重要ではないんですよ。君はよくやってくれました。このまま静観です。いいですね?」
又貫が待つ拘置所の面会室に鏑木が入って来て、互いに挨拶をし、沈黙のあと、又貫が訊ねた。
「一つ、まだ、答えを聞けてないことがあった。どうして逃げたんだ?」
「間」をおいて考え込む鏑木。
警視庁会議室。
多くの報道陣が集まる中、記者会見が始まる。
「警視庁捜査一課の又貫です。東村山一家殺人事件の被疑者鏑木慶一に関しては、誤認逮捕の可能性があります。全ての責任は私にあります。再度適正な捜査を行った上、会見を行いたいと思います」
川田は唖然とし、会場内はどよめく。
街中でビラ配りをしている舞が、東村山一家殺人事件の再捜査の発表を知らせる街頭ビジョンに気づき、沙耶香らはそれを見て、歓声をあげる。
逃亡から819日目。
鏑木の再審請求による法廷が開かれ、入廷して来た鏑木は、傍聴席の和也、沙耶香、舞と視線を合わせ頷き、又貫に小さく頭を下げる。
再び面会室。
「信じたかったんです。この世界を…正しいことを正しいって主張すれば、信じてくれる人がいるって…外に出てから、生まれて初めて仕事をして、生まれて初めてお酒を飲んで、友達ができて、人を好きになりました。生きててよかったって思いました。そして、もっと生きたいって思いました」
鏑木に真っすぐ見つめられ、目を瞬(しばたた)かせる又貫。
続いて沙耶香の面会。
「お久しぶりです」
互いに涙が溢れる。
「ごめんなさい」
「謝んないで。終わったら、全部聞くから」
「終わったら?」
沙耶香は、淳二ら皆と鏑木の冤罪を証明しようとしていることを報告する。
次に和也が面会する。
「何だよ、ベンゾー。お前、そんな顔してたのかよ」
「はい」
「俺さ、資格の勉強始めたんだよ。すごくね?なあ、お前、褒めろよ」
「すごいです」
「全部終わったらさ、飲み行こうぜ」
面会室でずっと泣いている舞を優しく見つめる鏑木。
「私、もう逃げないことにしました。自分を周りと、ちゃんと向き合おうって。桜井さんに出会って決めました」
「僕は、逃げてばっかりでしたけど」
二人で笑い合う。
面会の最後に沙耶香が力強く言い切った。
「待ってるよ。鏑木慶一君。君には未来を生きる権利があるんだから」
涙が零れないように上を向き、鏑木は大きく肯き、笑顔で沙耶香を見つめ、「ありがとう」と答えた。
法廷。
「被告人、鏑木慶一に対する、住居侵入、殺人被告事件について判決を言い渡します…主文…」
法廷内は静寂したまま、次の瞬間、歓喜に湧いて手を叩く面々映し出され、次に、嗚咽する鏑木に温かい拍手が沸き起こり、頷き、天を仰ぎ、笑顔と涙の鏑木の表情で幕は閉じる。
5 二つの英雄譚が溶融し、昇華された映画の面白さ
「正体」は、権力の腐敗が冤罪を起こす由々しき事態に大きく関わる類いの、「社会派」的な味付けをした典型的なエンタメ作品だった。
警察組織の欺瞞や隠蔽、権力の乱用によって冤罪犠牲者となり、不当な死刑判決を受けた鏑木慶一が自らを救い、生きるためには、誤った遺族の目撃証言を覆して無実を証明する選択肢しかない状況下で、脱走し、変装して職場を転々としながら情報を集め、そこで出会った者たちとのささやかな交流に支えられながら最後にその目的を果たすというストーリーラインに沿って、数々の偶然性とご都合主義のエンタメ設定がたっぷり盛り込まれて展開する。
最後に待つ「カタルシス効果」によって観る者に安心感を与え、一切を浄化し享受させてくれるのだ。
驚かされるのは、死刑囚の逃亡犯という最悪な立場であるにも拘らず、逃亡中に出会った者たちと積極的に交流し、彼らの事案の解決に無償で助力するのである。
典型的な事例は、鏑木をベンゾーと呼ぶ同僚の和也が仕事中に怪我した一件で、労災保険の申請を求めて会社に直談判する行為。
殴られても「間違ってますよ、あなたたち」と言い放つ死刑囚の正義感がインサートされるエピソードによって、物語の収斂点の印象が観る者に約束されることになる。
既にこの一点によって、本作が完璧にエンタメ作品であることが判然とするのである。
これが、又貫から「どうして逃げたんだ?」と問われた鏑木が、「信じたかったんです。この世界を…正しいことを正しいって主張すれば、信じてくれる人がいるって」と答えた心情吐露の内実である。
不安の束を抱え込む非日常下に置かれている死刑囚が、他者のために持ち前の正義感を心理的推進力にして無償の行為に振れること自体、常識的に考えにくい。
冤罪を強く印象付けるが故に、却って「分かりやすいストーリー」に落とし込み、「共感移入可能なキャラクターの存在」を予約させるエンタメ作品の常道に叶っている証左でもある。
【エンタメ作品の要旨についてに簡単に言及しておく。複数のジャンルにおいて創作される「エンタメ作品」の中枢を支えるのは、狭義に言えば、「分かりやすいストーリー」、「共感移入可能なキャラクターの存在」、「小気味よくスピーディな展開」、「『カタルシス効果』によって観る者に安心感を与え、楽しませてくれること」。この4点であると私は考えている】
冤罪事件に巻き込まれ、真実の声が届くことなく、あまりに理不尽な状況に捕捉された冤罪被害者の葛藤を描きつつも、そうした状況を生み出す国家権力の冥闇(めいあん)なる構造的問題に深く迫ることなく、逆境に折れずに命を賭けて闘う死刑囚の奇跡的英雄譚。
且つ、警察内部の矛盾に呑まれて葛藤しながら、自我消耗する瀬戸際で内部告発する一介の刑事の英雄譚。
この二つの英雄譚が溶融し、昇華された映画の面白さは、エンタメ作品として絶品だった。
予定調和であると分かっても、発信力豊かなシナリオ通りに動きながら、俳優の個性が際立つ「小気味よくスピーディな展開」の訴求力の構築は万全だった。
その1 誤認逮捕後の捜査の不徹底。
その2 目撃者がPTSDにより真犯人を特定できなかったこと。
その3 刑事部長の「もうすぐ18歳の重犯罪は、成人と扱いが同じになる。これからの少年犯罪を防ぐ意味でも、その高校生に極刑を与えておくのはいい抑止力になりますよ…さっさと終わらせましょう」という独断的意思表示=権力の乱用。
その4 担当刑事が上司の命令に従ったこと。
以上の事象の中で3が最も悪質なのは自明である。
3が1と4を生み、2が御座成り(おざなり)になってしまった。
その結果、冤罪被害者自身が肝心要の2の問題を引き受けることになる。
「鏑木の逃走劇は、歴史に残る大失態です。でも、防犯と逃走に対する捜査手法を強化するための礎となるでしょう…東村山一家殺人事件の犯人は鏑木慶一です。つまり、本件においては真実は重要ではないんですよ。君はよくやってくれました。このまま静観です。いいですね?」
この作品が権力の腐敗によって貫流している物語である事実を、最初から見せておく。
ここから観る者に対して、鏑木の逃走劇への感情移入を高めていくことを約束させる展開をなぞっていくことになる。
何でもありのエンタメであっても、理解に苦しむ諸点があるので、ここでは一点に絞って触れておく。
足利清人の異常性から、事件当初から捜査線上に浮かばなかったこと。
このミスリードに尽きる。
又貫が足利清人の個人情報に目を通している時に、凶器に使われた鎌の写真を見て思わず立ち上がるシ-ンを想起したい。
ここで又貫が瞬時に閃いたのは、二つの事件の犯人が同一人物であること。
鏑木の事件が冤罪であることに気づいたのである。
その直後の又貫の行動の早さは、鏑木の逃走先を知り、一刻も早く探しあて、身柄を確保することだった。
最終的に、自らが犯した捜査の誤りを公の場で発表する。
そういう思いが浮かんだとも考えられる。
鏑木の逃走目的が最後に明かされるとは言え、直接的には、唯一、真犯人を知る由子との接近にあり、その居場所に鏑木が潜んでいると確信する又貫。
一方、由子から真犯人が自分ではないことを確認し、メディアに向けて発信させようとする鏑木。
それを理解した又貫だが、それにしても又貫が気づくのが、あまりに遅すぎないか。
鏑木に銃を放った井澄に至っては、足利清人の犯行を「模倣犯」と漏らすほどに、最後までミスリードから解放されない無能の刑事だった。
井澄 |
これが誤認逮捕後の捜査の不徹底さの根柢にある。
何より、同一犯を疑うのが定石ではないか。
又貫と井澄が現場検証していて、足利清人の犯行が東村山の事件と酷似している事実が分かっているにも拘らず、「模倣犯」と吐露する井澄の発想そのものが理解し難い。
繰り返すが、又貫が時間が経ってから足利の個人情報を手にし、足利が犯人と特定するのが遅すぎるのだ。
足利拘束後の最初の取調べの際に、個人情報や殺害現場の写真、殺害方法の情報が又貫らに伝わっていないまま聴取することなどあるわけがない。
私が本作のシナリオに疑問を抱くのは、前述した冤罪事件となった背景にある4点の中で、権力の乱用に走った刑事部長の指示(その3)に従わざるを得なかった又貫の立場が抱え込む苦渋な状況(その4)が、冤罪事件在りきの展開で暴走する物語総体の不具合を生み出したと考えているからである。
上司との権力関係の歪み。
「大川原化工機事件」の理不尽さを見ればよく分かる。
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大川原化工機事件 |
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「がんでも閉じ込められ…無実だった技術者の死」より/相嶋静夫さん |
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大川原化工機事件 |
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記者会見の冒頭で頭を下げる迫田裕治警視総監 |
これが物語総体の不具合を生み出したということだ。
「信じたかったんです。この世界を…正しいことを正しいって主張すれば、信じてくれる人がいるって」
ハイスペック過ぎる主人公・鏑木の吐露である。
本作のメッセージは、この鏑木の思いにあるだろう。
観る者に希望を与え、奪われかかった人生を取り戻した、真面目で正義感が強く、関わった者たちの人生にも影響を与え、知性と好感度の高い青年への共感から、無罪を勝ち取るという報いは約束されたものであれ、主演の演技力と演出の上手さもあって、カタルシスは最高潮に達することになる。
あり得ない設定、あり得ない展開はエンタメ作品を支える要素にもなり、俳優陣の演技力の高さや演出の上手さによって、もっともらしく見せることも可能であり、それが成功すればエンタメ作品の完成度は高まるのである。
「正体」は気になる箇所が縷々(るる)あったが、確実にカタルシスを得られるという意味では、エンタメ作品として高評価が与えられるだろう。
それにしても、冤罪の被害者が今なお出現している現実に言葉を失う。
一生賭けて権力と闘い続けている「袴田事件」と、犠牲者まで出して事件を捏造(ねつぞう)しても、捏造した当の公安幹部の謝罪がないことで翻弄されている、先の「大川原化工機事件」の理不尽さ。
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「袴田事件」の理不尽さ |
にも拘らず、「地の群れ」のような凄惨だが、これを観たら「差別」の問題について安直に語れなくなるような本格的な社会派映画が公開されていない現状に地団駄を踏む思いである。
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「地の群れ」より |
【余稿】 「社会派映画」の衰退と、分かりやすく面白いエンタメ映画の隆盛
この映画を観て改めて勘案したことがある。
「社会派映画」とは何か。
この問題意識である。
我が国でも社会派映画という範疇に入ると思われる作品は存在するが、果たして、リアリズムに徹した本格的な社会派映画がどれほどあるだろうか。
そして、それが大ヒットし、映画史に残るほどに「不朽の名作」と評価される作品がどれほどあるだろうか。
社会派小説のルーツと称される清張のミステリーが、紛れもなく社会派小説と言われる所以は、事件を起こした犯人(小説の主人公になるケースも少なくない)の犯行動機の重視であり、その社会性と心理を深く掘り下げた点にある。
その意味で、事件の謎解きの中枢には、犯行動機へのリサーチがある。
この一点において、「清張以前」(江戸川乱歩・横溝正史など)と「清張以後」に分かれると言っていい。
だから、清張ブームを巻き起こした作品として有名な「点と線」の出現は、「社会派ミステリー」の誕生を告げる画期的な小説だった。
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「点と線」 |
清張の代表作とされる「点と線」(1958年)、「眼の壁」(1958年)、「ゼロの焦点」(1961年/2009年)、「砂の器」(1974年)は全て映画化されている。
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映画「眼の壁」より |
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映画「ゼロの焦点」より |
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映画「砂の器」より |
重要なのは、これらの作品には事件の主犯の内面に肉薄することによって、作り手のメッセージが観る者に伝わるように構成されているということだ。
例えば、社会派映画の多い韓国で、国内の賞を席巻して大ヒットした「1987、戦いの真実」(2017年)は、ソウル大学の学生活動家パク・ジョンチョル拷問死事件に端を発する民主化運動(「6月民主抗争」)を題材にしたエンタメ含みの典型的な社会派映画だった。
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「1987、戦いの真実」より |
「社会派映画」を貫く特徴、即ち、リアリズムを基調とし、弱者に焦点を当てた展開を貫流させ、観る者に深く考えさせることを目指していく。
これが「社会派映画」の真髄である。
国から免許を得ることで初めて放送可能なテレビ局が流す「社会派ドラマ・ドキュメンタリー」が、宿命的に負う制約と切れている所以である。
民放に比べると、この桎梏(しっこく)からぎりぎりに解放されているのはNHKのみである。
ここで想起するのは、日本テレビ報道部プロデューサーの牛山純一が手掛けた「ベトナム海兵大隊戦記」(1965年)が背負った悲哀である。
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牛山純一さん |
南ベトナム(アメリカが南ベトナムに作った傀儡国家)で、スパイの疑いで逮捕された子供らの生首を吊り下げて連行するシーンの残虐さは、後にも先にも、このドキュメンタリーしかない。
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「ベトナム海兵大隊戦記」を伝える新聞 |
テレビ放送での「ドキュメンタリー」の限界を曝した強烈な作品だったが故に、「ベトナム海兵大隊戦記」は、アメリカに忖度したのか、「(時の政権)佐藤内閣の橋本官房長官が日本テレビ社長に〈残酷すぎる〉と電話したので第2部、第3部の放送が中止された」という曰くつきの作品だった。
最も誤った態度を取っていたのは、明らかに政府である。
前述したように、国から免許を得ることで初めて活動ができるテレビ局にとっ
て、政府からの干渉は、今後の活動資格を懸けた事実上の脅迫に他ならない。
近年、菅政権の時、NHK「NW9」に菅首相が出演した際に、日本学術会議の任命拒否問題への質問を禁じていたにも拘らず、有馬キャスターがそれを質問したことで菅首相の逆鱗に触れ、有馬キャスターが降板させられた一件はあまりに有名である。
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映画「NHKキャスターに降板説/「学術会議」質問に菅激怒」より/有馬嘉男さん(左) |
NHKもまた然りなのである。
こういう事態は自民党政権では普通のことなのだ。
こうして、法を守れない政府と、無関心だった視聴者と、忖度に徹したテレビ局の三者によって、ドラマ版「社会派」作品は、小説のそれと比べて確実に抽象的・表層的になっていった。
本格的な「社会派」作品が創れないテレビ局が流すドラマの退屈さは視聴率を落とすばかりで、視聴者がSNSに喰われている現状を誰も止められないのである。
かくて我が国では、「暗い」と決めつけられて、社会の中の弱者に焦点を当てた、リア リズムの作品である「社会派」の作品離れが加速的に進んでいくだろう。
観る者に考えさせる「社会派映画」の衰退は、本作のように、分かりやすく面白いエンタメ映画への隆盛と対比されることになる。
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社会派映画の傑作 映画「PLAN 75」より |
孤独と貧困の地獄を描いた社会派の傑作「あんのこと」より
真っ向勝負の社会派映画の傑作「Winny」より |
(2025年10月)
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