1 「分かってる。私は大丈夫だよ。誰にも迷惑かけないし、お金も何とか自分でできると思う」
林夫妻の間に虚弱児として産まれた、ちひろ。
「未熟児だって。ただただ健康に」(2005年2月13日)
「体温37.1度 脈拍121回 湿疹が手足顔に」
乳児湿疹に罹患するちひろの母が記した、ダイアリーの一節である。
泣き止まぬちひろを前に、父母と幼い姉が座り、母と姉は赤ん坊の泣き声と一緒に泣いている。
「どうしたらいいか分からない」
母の嘆息である。
そんな折に出会ったのは、新興宗教団体の知人が勧める“金星のめぐみ”という万能水。
藁(わら)をも掴む思いで、ちひろの両親は、早速、“金星のめぐみ”を乳児の皮膚に試してみる。
「ミルク7回1回吐いた。おしっこ4回少し黄色 うんち3回 目に見えて赤みが引いてる!」(ちひろの母のダイアリー)
成果が少しずつ現れ始め、両親は、“金星のめぐみ”を販売する新興宗教にのめり込んでいく。
「特別の生命力が宿った水ですからね。いかがですか?私は風邪を、一切引かなくなりました」
“金のめぐみ”で浸したタオルを頭に載せるという儀式を、会社の同僚(?)から教えられる父。
「治った!これは治ったと言える!!」
2005年に始まった「10年ダイアリー」に書き込んだのは、閉じた日記の表紙をポンと叩く母。
教団の通販誌“星々のちから”に紹介された商品を買い、会報誌には、乳児のちひろが病気から救われたという両親の「奇跡の体験談」が掲載される。
かくて、完全に確信的信者となったちひろの両親は、生活と人生そのものを宗教と共に身を投じるに至ったのである。
15年後。
中学3年になったちひろに好きな人ができた。
新任の南先生である。
南先生 |
ちひろ |
「あの先生のどこがいいの」と案じるのは、小学校時代からの親友なべちゃん。
なべちゃん(右) |
なべちゃんの言葉に聞く耳を持たず、ちひろは南先生のプロフィールを集め、授業中に先生の似顔絵を描くことに没頭する。
両親がのめり込むカルト系の新興宗教との関与を除けば、ごく普通の思春期を繋いでいた。
―― ちひろの回想シーン。
家を出た姉まーちゃんの服を着て、姉の言葉を思い出していた。
「元はと言えば、ちーちゃんのせいだよ。病気ばっかりするから」
まーちゃん |
父と喧嘩をして家を出て行った姉のまーちゃんが、久しぶりに戻った際にちひろに吐露した言葉である。
「まーちゃんから生ゴミのにおいがしたから、鼻の息をとめてた」(母のダイアリー)
ちひろ(右)とまーちゃん |
「もう帰りません。バイバイ」
そのまーちゃんが、残した置手紙である。
手紙を読むちひろ |
―― ちひろの回想シーン。
「ゆうぞうおじさんがやさしかった。変なの」(母のダイアリーから受け継いだ、ちひろの日記)
「凝り固まった筋肉を、ほぐしてくれるっていうのかな。長時間外してたり、“金星のめぐみ”自体しばらく飲まないでいると、すぐ分かりますよ。数値に出ますからね」
この父の言葉に、義兄の雄三は、きっぱりと反駁(はんばく)する。
「それ、“金星のめぐみ”じゃぁ、ありませんよ。公園の水道の水ですよ…入れ替えたんだ」
「“金星のめぐみ”は?」と父。
「全部、捨てました…あんたら、2か月間も、公園の水道水飲んで、喜んでただけなんだよ!これで目が覚めただろ、いい加減!」
「嘘言わないで!」と母。
「まーちゃんが協力してくれた」と雄三。
その事実を確かめ、狂乱するように叫ぶ両親。
「帰れ!帰れよ!」
「もう二度と来ないで!」
伯父さんと協力して水道の水を入れ替えたまーちゃんも含めて、ここだけは、家族一丸となって攻勢をかけるのだ。
居丈高(いたけだか)に、本来的に穏やかで優しい両親を糾弾(きゅうだん)されれば、黙視できないのは至極当然のことである。
自らも傷ついてしまうからである。
―― ちひろの回想シーン。
「空も飛ぶようになる」とカイロ。
「気づく時がくるの。気づいた人から、変わっていくの」とショウコ。
ショウコ |
カイロ(左)とショウコ |
子供たちに向けての、教団幹部の話である。
「あんたは騙されているの?」となべちゃん。
「私?騙されてないよ」
放課後の教室での、新聞委員の作業中での会話である。
―― ここで、ちひろの回想シーンは閉じていく。
早く帰るようにと教室にやって来た南が、3人を車で送ることになる。
「あそこに変なのがいる!」
ちひろの家の近くの公園に到着し、車から降りようとしたちひろを、南が制止した。
「2匹いるな…完全に狂ってる」
それは紛れもなく、“金星のめぐみ”の儀式を行う両親の姿だった。
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衝撃を受けるちひろ |
南の言葉に傷ついたちひろは、嗚咽を漏らしながら夜の道を疾走する。
家に戻ると、いつものように、優しい父母が迎えてくれた。
食事を勧めても、「いらない。欲しくない」と言うちひろ。
そう言って、虚脱するちひろを案じる両親は、ちひろの頭にタオルを載せ、“金星のめぐみ”をかけようとする。
「やだ!やだ!」
激しく拒絶するのだ。
察するに余り有る反応である。
翌日、登校し、廊下でちひろとすれ違った時、南は声をかけた。
「何でお前とドライブしたことになってるんだ」
ちひろが南に好意を持っているという情報が、クラス内で共有されていたのである。
苛立つ南に、ちひろは告白する。
「先生、昨日公園にいたのは私の親です…嘘です」
嘲笑するような南の顔を見て、ちひろは走って、その場を去った。
廊下の隅に縮こまり、ここでも嗚咽を漏らす少女。
何かが解凍されたような少女は、親戚の法要に一人で出席した。
ちひろは伯父夫婦と、その息子と4人で、喫茶店で話をしている。
ちひろの将来を心配する伯父の家族は、高校入学を機に家を離れ、伯父宅から高校へ通うよう説得する。
「高校へはウチから通ってみないか?」(伯父) |
「あの…」(ちひろ)「本当なら中学から通ってもらいたかったの」(伯母) |
「私は…今のままでいい」
ちひろの弱々しい反応である。
説得を続ける伯父の家族に対し、ちひろは自分の置かれた境遇について、今度はきっぱりと反応した。
「分かってる。私は大丈夫だよ。誰にも迷惑かけないし、お金も何とか自分でできると思う」
ちひろを両親から引き離し、救い出したいという伯父家族の思いを跳ねのけるのだ。
「考えても同じです」 |
近くの海に出て、思いを巡らすちひろ。
真剣に黙考する少女が、そこにいた。
2 「…分かんない。分かんないけど、お父さんもお母さんも、全然風邪ひかないの」
ホームルームに代行でやってきた南が、話を聞かず、ざわついている生徒たちに怒りをぶちまけた。
南の怒りの矛先は、いつも授業を聞かず、南の似顔絵を描いているちひろに向けられた。
ちひろを名指しし、迷惑だと言い放つのだ。
「その変な水もしまえ!…大体、水で風邪引かないんなら、誰も苦労しないんだよ。両親にも言っておけ!」
決定的に被弾したちひろは、席に座ったまま、泣き崩れてしまう。
なべちゃんが寄り添い、慰めてくれる。
そこにシンムラ君がやって来て、ちひろは正直に吐露する。
「公園で見た怪しい人。ウチの親なんだ」
「え、マジで。俺、知らなかった。あれ、林の父(とう)ちゃんなの?」
「ごめんね」
「俺、河童だと思った」
「バカじゃないの」となべちゃん。
「だって、全身、緑色だったし、頭の上に皿載せているし、隣の奴、水かけてた」
「それ、お母さん。タオルに水かけて頭に皿載せると、悪い気から守れる。ウチの親、そう信じてる」
「そうか。信じてるのか」とシンムラ君。
「あんたは?」となべちゃん。
そう聞かれて、嗚咽の中から言葉を絞り出すちひろ。
「…分かんない。分かんないけど、お父さんもお母さんも、全然風邪ひかないの」
それだけの会話だったが、いかにも中学生らしい遣り取りである。
なべちゃんもシンムラ君も、カルト系の新興宗教に悪意を持たず、疑義を呈する表現に振れないのは、ちひろの人の良さに好感を抱いているからだろう。
思うに、ちひろが「万能水」を学校に持ち込み、それを飲んでいる事実をクラスや保健の先生が知っていても、南先生を除き、普通に考えれば非難される行為(PTAが黙視しないだろう)を誰もがスルーしているように見えるのは、大袈裟な描写の提示を排除する、この極めて映画的な作品の強いメッセージとなっていることを暗示している。
なべちゃんに思いを寄せるシンムラ君と、いつものように3人で下校する頃には、ちひろはすっかり元気になっていた。
思春期の難しい時間を駆け走る少女には、友達の存在が大きな力になることを含意する映像提示である。
ここから、ラストシークエンス。
教団の主催する研修旅行に、両親と共に参加するちひろ。
「悪夢」から、すっかり浄化できていたようだった。
大型バスも部屋も、両親と別々だったちひろは、ちひろを母が探しているという伝言を聞いて、施設内を探し回る。
中々、両親と会えずに部屋に戻ったちひろは、再び探しに出ようとして、同室の友達に止められる。
「待っているほうがいいよ。じゃないと、お互い行ったり来たりで、一生会えないかもよ」
その言葉を聞いたちひろは、不安に襲われながらも反発する。
「何でそんなこと言うの。一生とか、大げさなこと」
「ごめん」
「私もごめん。よく分かんないけど、何かすごく不安で」
「ちーちゃんたち、仲いいもんね」
そのとき、部屋の襖(ふすま)が開いて、母が入って来た。
安堵して笑みを湛えるちひろを、母は散歩に誘う。
星がよく見えるという雪が残る丘に登り、親子3人で、シートを敷いて座り込む。
高校受験の話をしながら、夜空を見上げる親子。
音信不通だったまーちゃんから、「子供が産まれた」という電話を受けた事実を聞かされ、思わず涙を流すちひろ。
ちひろにとって、まーちゃんはどこまでも唯一の姉なのだ。
流れ星を一緒に見ようと、目を凝らす3人。
「あ、流れ星」と父。
「あ、見えた」と母。
「うん」と父。
「ちいちゃんは?」
「見えなかった」とちひろ。
「え、何で?瞬きしちゃ駄目だよ」
「うん」とちひろ。
夜空を仰ぐ3人。
長い沈黙の中から、「帰ろうよ」と促すちひろが声を上げた。
「見えた」
「見えたの?」と母。
「見えたよ」とちひろ。
「本当?」と母。
「本当、本当」とちひろ。
今度は「3人で見よう」という父の言葉で、3人が一緒に夜空を仰ぐ。
「見えない」とちひろ。
「まだ見えないな」と父。
それでも3人は寄り添い、満天の夜空を見続ける。
ラストシーンである。
3 自己運動の底部を崩さず、迷い、煩悶し、考え抜いて掴んでいく
この映画のエッセンスは、以下の大森立嗣監督のインタビューでの言葉に集約されると考えている。
「カルト的な宗教や映画やドラマで描いているのを見ると、少しデフォルメが強すぎるような印象があったので、それはみっともないなと思いながらも、ある程度は存在感として描かなければならないので、そのバランスには気を配りました。
(略)最近は大きい声で正しいことばかり言う人が多くて、僕はそれにも嫌気がさしているので、もう少し小さい声を拾いたいと思いますし、ちひろは、宗教と思春期になった自分、宗教信じている両親について、なかなか明確な答えは出ないけれども、考え続けるんですよね。考え続けるということは、わかりやすい答えを選ばないし、考え続けていれば間違わないと思うんです。何かが起こったとしても、受け止めて考える力があることが一番大事なことだと思います。一般的に正しいこととされるのは、両親をあの宗教からやめさせることになるかもしれませんが、ちひろは正しいことよりも、両親が自分を愛してくれたから宗教を始めたのを知っているので、それを否定できない優しい子なんですね。
(略)この世の中には、分かろうとしたって分からないことはいっぱいあると思うんですよね。ちひろはそれを考え続けているので、それがこの映画の核になっていますし、僕が一番好きなところです」
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大森立嗣監督 |
これらの言葉を裏付けるような映像が提示されていたので、ほぼ全面的に共感し、且つ、同意したい。
以上の説明を、私なりに解釈すれば、こういうことだろう。
その1
カルト系団体・信者を大袈裟に描くスタンスを捨てていること。
ここで、私が思い起こす映画がある。
塩田明彦監督の「カナリア」である。
以下、「人生論的映画評論 カナリア('04)」の拙稿の一文を引用する。
「一応そこに、物語のモデルとなった陰惨な事件があり、この事件に絡んだ者たちの後日談の一環として、児童相談所を脱走して、妹を奪回する少年少女の物語性としての骨格が中枢に座っていて、そこから基本的に逸脱しないラインで、物語をまとめ上げていくというオーソドックスな手法の中に、余分なものが不必要なまでに侵入してしまったり、または、その表現にあまりに稚拙なものが流れ込んでしまったりして、それが表現作品の完成度を著しく貶めてしまっていたのである」
「溢れんばかりの過剰な感傷」と書き添え、相当に手厳しく批判したが、塩田監督のファンには申し訳ないと思っているものの、今でもその考えは変わらない。
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塩田明彦監督 |
どうしても、「現象としてのカルト系」のテーマを大袈裟に描いて、観る者に感動を意識させる映画に対する馴染みにくさを拭えないのである。
その2
ヒロインの内面描写を重視していること。
これは、信仰の世界で迷う、以下の画像で確認できるだろう。
教団から引き離そうとする伯父の家族を話を聞き、突っぱねるが、海に出て黙考する
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同上
研修旅行で現地に着き、両親の後姿を見て考えている |
ショウコさんが催眠術を使っていることに疑問を抱く |
教団スタッフの行動を見て、黙考する |
―― ここで、本作に対する私なりの結論を提示したい。
「受け止めて考える力がある」ちひろの思春期自我は、「正しいことよりも、両親が自分を愛してくれたから宗教を始めたのを知っている」が故に、両親に対する愛情に亀裂が生じることないだろう。
少なくとも、姉のまーちゃんのように、辛うじて、血縁だけで繋がる関係をトレースする事態は考えられないのだ。
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まーちゃん |
但し、「愛すること」と「信じること」が、殆ど同義であったちひろの児童期自我は、「パワーを弱める」というコーヒーを飲むシーンでも分かるように、「愛すること」≒「信じること」という不透明感を内包させながら、緩やかに変じていくと思われる。
ここで想起するのは、教団の女性幹部のちひろへの言葉。
ショウコ(左)さんから呼び止められる |
「ちいちゃん、迷ってるのね。あなたがここにいるのは、自分の意思とは関係ないのよ」
彼女は、ちひろの内面を読み切っていたのである。
それは、即ち、「愛すること」≠「信仰すること」を意味する。
このことは、流れ星を一緒に見ようと、目を凝らす3人の中で、両親が見えて、ちひろだけが見えず、また、ちひろだけが見えた流れ星を親子3人が寄り添い、満天の夜空を見続ける映像提示によって判然とするだろう。
ちひろだけが流れ星が見えた |
「愛すること」から「信仰すること」を切り離したというメタファーが、そこに読み取れる。
これがラストシーンの意味である。
【因みに、ちひろの両親の「教団絶対」という拘泥の心理は、“金星のめぐみ”との出会いが「フラッシュバルブ記憶」(重大な出来事に対する強烈な記憶)と化したことで、偽薬でも効き目があると思い込めば、症状が改善する「プラセボ効果」や、「自己成就的予言」(注)で説明可能である】
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プラセボ効果 |
教団主催の恒例行事を行うホール |
思春期自我に踏み込み、ダッチロールしつつも、深々と思いを巡らすことで、〈現在性〉の状況の只中に適応していく。
決して華やかでも、美しくもないだろうが、この緩やかな流れの地続きの向こうに待つ青春期に架橋し、自己運動を繋いでいくのである。
自我の確立運動という、険しくも、それなしに済まない青春期の海を完泳していくのだ。
目標を設定し、自己基準の適応戦略を駆使する。
「物語」を創り、その「物語」のバックキャスティング(目標の地点を設定し、「今、何ができるか」を考えていくこと)を有し、どこまでも自らのサイズに則したペースで、「物語」の着地点に向かって実践躬行(じっせんきゅうこう)していく。
ちひろ基準で言えば、自分だけが見た流れ星を手放すことなく、迷い、煩悶し、考え抜いて掴むだろう時間の束を、自己運動に必要な分だけ集めて、それを自分の「物語」として立ち上げ、緩やかだが、しかし、運動の底部を崩さないペースで進軍する。
青春期の只中を進軍するのだ。
「分かってる。私は大丈夫だよ。誰にも迷惑かけないし、お金も何とか自分でできると思う」
このちひろの言葉には力があった。
映画の中で、最も重要な台詞である。
「分かってる」と言わせる思考を繋いでいった一人の少女の息遣いが、観る者にひしと伝わってくる。
クレバ―なちひろは、これからも、自己運動の底部を崩さず、迷い、煩悶し、考え抜いて掴んでいくだろう。
いい映画だった。
思春期自我の漂動を瑞々しく描いた秀作である。
(注)この薬が効くと思って信じれば、本当に効くと考え、予言の成就が確信にまで自己膨張したり、自分のスピーチが失敗すると強く思えば思うほど、本当に失敗してしまったり、等々の心理学概念のこと。
(2021年4月)
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