ジャファル・パナヒ監督とオミド(乗客の一人) |
1 「乗合いタクシー」に乗り込む人々の多様な人生模様
イランの首都テヘラン。
テヘランの街並み |
黄色いタクシーを運転するのは、映画監督ジャハル・パナヒ。
そのタクシーのダッシュボードにはカメラが設置されていて、それがイランの街や通行人を映し出していく。
一人の男の乗客を乗せ、少し走ると、スカーフを巻いた女性客が乗り込んで来た。
大都市テヘランの渋滞のひどさが、このような「乗合い」を必至にしている。
「防犯装置?」と男。
「そんなところです」と運転手。
カメラに気づいたのである。
その男は、従弟が車のタイヤを盗まれた話をして、自分が大統領なら、その泥棒を見せしめに絞首刑にすると言うのだ。
すると、後部座席の女性が反応する。
「絞首刑?人の命を奪うことを、簡単に考え過ぎよ。貧しい人が思い余って盗んだのかも知れない…お金に困ってとか」
「それなら、運転手さんの方が切実だ。もちろん俺だって。そんなもの、何の言い訳にもならない」
「すぐ死刑というのが問題なの。問題の原因を探るのが先決なのに…泥棒は作られるのよ…追い詰められた状況で犯罪が起きるの。なのに、タイヤのために死刑?歪んだ理屈だわ」
「この間、もっと軽い罪で2人死刑になったばかりだ。タイヤ泥棒もそうすればいい」
「イランの死刑執行数は、中国に次いで多いの」
平行線の議論の挙句(あげく)、女が男の職業を尋ね、まず、女性が教師であることを明かす。
そして男は、タクシーを降りる際に自分の職業を明かすのだ。
「俺は路上強盗だ」
「信じられない」
既に、乗車していた3人目の男性客が、貸し切りを求めた後、運転手のパナヒに唐突に尋ねた。
「パナヒさんですよね?」
映画通らしい男はパナヒの許可を得て、助手席に座り直す。
「映画を撮ってるんですね。さっき乗っていた2人は役者でしょう?彼の最後のセリフが、カフェのシーンと似てましたよね」
オミドと名乗るその男は、レンタルビデオの店員。
「息子さんの注文を受け、よくお宅に配達を」
そんな会話中に、突然、車を止た。
バイク事故で血だらけになった夫と共に妻が乗車し、病院への緊急搬送を求める。
遺言を書くための紙を要求する夫。
「遺言を書かないと、妻は何も相続できない」
妻がホームレスになることを案じ、オミドが撮影するパナヒの携帯のカメラを前に、遺言を語り出す。
「兄弟たちは妻の相続に口を出さぬこと。訴えてはならない。妻にすべてを相続する」
容体が悪化し、泣き喚く妻。
病院に到着し、夫は担架で運ばれて行った。
「運転手さん、さっきの遺言の映像をください」
この妻の要請に、今は無理だから後で送ると言って、名刺を渡すパナヒ。
再び車を走らせると、その妻から確認の電話がかかってきた。
「全部、映画なんでしょう。僕には分かってますよ」
オミドはにやけながら、パナヒに言い切るのだ。
オミドの言い分に、否定も肯定もしないタクシー運転手パナヒ |
まもなく、オミドの客の家に着き、海賊版のDVDを売るために、タクシーの後部座席で、客の大学生に映画を選ばせる。
パナヒをオミドの仲間だと勘違いするその大学生は、商業映画が好きではなく、パナヒにどれがいいかを選んでもらうのだ。
「大学の課題で短編を撮るんですが…本を読み、映画を観て題材を探してますが、これというのが見つからなくて」
この大学生は、芸術大学で監督を専攻していると言う。
「いいかい。映画はすでに撮られ、本は書かれてる。他を探すんだ。題材はどこかに存在してる…自分で見つけるんだ」
本作のメッセージの一つである。
まもなく、オミドを乗せてタクシーを出そうとすると、金魚鉢を持った二人の老女が乗り込んで来た。
「アリの泉」まで連れて行ってくれと懇談され、慌だしく同乗する。
反対方向のオミドは、途中下車するが、その際、「パナヒを自分の仲間」だと大学生に言ったことを謝罪する。
その方が海賊版のDVDが高く売れるからだ。
一方、正午まで絶対に金魚を届けなければならないと命に関わると、老女らは声高に訴えるが、渋滞のために約束できないと答えるパナヒ。
そんな折、急停止して、金魚鉢が割れてしまい、パナヒはビニール袋に金魚を移し替える。
「2匹を泉から連れてきた日は、私たちの5年違いの誕生日。2人とも正午に生まれた。だから、正午までに2匹を泉に戻して、新しい金魚と交換しないと、私たちは死ぬの」
これが、謝罪するパナヒに対する、イスラム教の熱心な信奉者の老女らの言い分だった。
このエピソードにも、メッセージが内包されていると考えるのは、別段、誤っていないだろう。
しかし、パナヒは姪を迎えに行かなければならず、老女らを他のタクシーに乗り換えさせるに至った。
かくて、急いで姪のハナを迎えに行くと、待たされたことの不満をパナヒにぶつけるのだ。
「賢くて教養のあるレディーに会う時は、まずお店に入って、フラッペとかアイスとかを頼むの」
そんな小賢(こざか)しい口をきくハナは、映画の授業で短編を一本撮ることになり、題材を探していると言う。
「この間、おばあちゃんが来た日に、近所で叫び声がしたの。娘に求婚しに来た人を追い返したんだって。娘さんの恋人は、アフガニスタン人で、お父さんは求婚に来るまで知らなかったの。お父さんは娘さんを家に閉じ込めたけど、その恋人は家の近くで娘さんを待ち続けてた。息子たちが何度追い払っても、その度に戻って来た。私、全部撮影したの」
「もう撮ったのに、なぜ題材が必要なんだ」
「そこなの。監督なら分かるでしょ。上映許可が出ない」
学校の文化祭で、映画を上映すると言うハナ。
これが、小学生のカメラ好きのハナの言葉だった。
叔父に不平不満を言うハナ |
ここから、映画は根源的な問題提起をする展開に踏み込んでいく。
2 「現実を撮りなさいと言っといて、本当の現実や、暗くてイヤな現実は、見せちゃダメって。私には違いが、全然、分からない」
ハナを乗せたパナヒのタクシーは、6,7年ぶりに会うという幼馴染との待ち合わせ場所に到着する。
その幼馴染は、ハナをフラッペの店に誘い出し、その間、パナヒにパソコンの動画を見せる。
そこには、彼が強盗に襲われた防犯カメラの映像が映されていた。
襲ったのは、彼の知り合いの夫婦だった。
「強盗が死刑になったとニュースでやってて、警察に届け出る気になれなかったんだ…彼らが経済的に苦しんでいたと知った…君に話せば、気が楽になると思ったんだ。君は映画は撮れないが、いつか他の監督の役に立つかも知れない」
車中で話す二人の元に、カフェの店員がジュースを運んで来た。
「今の男だ。強盗の男」
「もっと早く言え。顔を見たかったな」「何のために?」
「強盗がどんな顔をしてるか、興味がある」
「僕や君と変わらないよ。どこにでもいる普通の顔だ」
幼馴染に別れを告げ、ハナが戻って来た。
ハナは中断された話の続きを、ノートに書いたメモを読み上げながら進めていく。
「上映可能な映画には、ルールがあるんだって。“女性はスカーフを被り、男女は触れ合わない。俗悪なリアリズムや暴力を避ける。善人の男性にはネクタイをさせない。善人の男性にはイラン名を使わず、代わりにイスラム教の聖人の聖なる名前を使う”」
ここで、パナヒは幼馴染について話題を向ける。
「さっき会った彼を、どっちと思えばいい?ルールに則れば悪人だ。イラン名でネクタイをしていた」
「それは現実の話でしょ。これは映画のルールだもの」
ハナは、ルールに則った映画を撮ろうと思っているのだ。
そのハナは今、パナヒが用事で車を降りた際に、結婚式を終えた新郎新婦が車に乗るところをデジカメで撮っていた。
ハナの被写体となっていた新郎新婦 |
ところが、そこにペットボトルを回収する少年が現れるや、新郎が落とした金を少年が拾った映像が映されてしまった。
ハナはその少年を呼びつけ、その金を返すシーンで、ルール違反の映像を撮り直したいと少年に要請する。
「課題で映画を撮っているの。あんたがお金を盗んだせいで、上映できない映画になっちゃったのよ」
話をつけ、何とか少年を車のところへ行かせるが、少年は新郎新婦を撮影しているカメラマンに追い払われ、結局、拾った金を返すシーンは撮れなかった。
ルールに則った映画を撮ろうとしたハナの「ヤラセの作品」は、ここでもまた頓挫してしまったのである。
本作で最も核心的なエピソードである。
パナヒが戻ると、ハナは意気消沈していた。
その直後、街を行くバラの花束を持った女性と、偶然出会う。
彼女の名は、ナスリン・ソトゥーデ。
ナスリン・ソトゥーデ |
人権活動を称える者に与える「サハロフ賞」を受賞した、イランの著名な人権弁護士である。
その彼女を助手席に乗せ、彼女の話を聞く知るパナヒ。【パナヒ監督も、2012年に「サハロフ賞」を受賞している】
「ゴンチェ・ギャワミさんが拘禁されてるの。バレーボールの試合を観に行って、一緒だった女性全員逮捕された。みんな釈放されたのに、彼女だけ拘禁され、108日目」
【イランでは、1979年のイスラム革命以降、痴漢や暴力防止の措置という理由で、女性のスポーツ観戦は禁じられているが、法制化されていない。近年、男装して入ろうとしたところを見つかって、拘束された女性の焼身自殺する事件も起きたこともあり、国際サッカー連盟(FIFA)などからの批判が相次ぎ、2018年、ロウハニ政権下で、女性のサッカー観戦が認められるようになった。(以上、朝日新聞デジタル2019年10月3日「女性のサッカー観戦、認める イラン副大統領が単独会見」参照)】
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テヘランのスタジアムで2018年10月、当局から許可を得てイラン対ボリビアのサッカー親善試合を観戦するイランの女性たち=AP |
観る前に逮捕されたというゴンチェ・ギャワミは、ハンストを始めて10日目になると言う。
ナスリンは、ハンストを辞めるよう説得し、彼女を支持するメッセージを伝えた。
「でも、あなたも私も経験したけど、ハンストは抵抗する者の、最後の手段よ。彼女も今、そうやって闘ってるの。母親が食料持参で説得に行った時の話だけど、娘さんを説得してくれと言われ、カメラのある部屋に通された。“娘はハンストをしていないと言え”と。母親は烈火のごとく怒って、“面会は結構”と言い放つと、部屋を飛び出したの。実は、ゴンチェさんも、ハンストしていないと紙に書くように迫られてた。彼女は面会を断り、紙を破り捨てそうよ。そんなわけで彼らに会いに行くの…昨日の時点では、水も断ってたの」
ナスリンの話に聞き入るパナヒ
【後述するが、ナスリンもまた、「2009年グリーンムーブメント」の活動で拘束され、「抵抗する者の、最後の手段」としてのハンストを繰り返したばかりか、イラン弁護士連合会と対立し、活動停止を余儀なくされ、国家権力と闘い続けた人権弁護士だった。当然ながら、「人生タクシー」に賛同し、その支持を惜しまなかった】
二人の話を静かに聞いていたハナが、老女の落とした財布を見つけ、「アリの泉」に向かうことになった。
「このバラをすべての映画人に。映画に関わる人たちは、信頼できるから」
そう言って、バラの花を一輪、ダッシュボードに置き、ナスリンはパナヒとの最後の会話を続ける。
「彼らは時々、意図的に監視を意識させるための事を起こす。見え透いた戦略よ。最初はスパイ容疑。モサド、CIA、M16、次に、倫理上の罪を付け足すの。人生は地獄に変わる。ようやく釈放されても、外の世界は巨大な独房よ。彼らは親友すら、最大の敵に変える。あとはもう、この国から逃げるしかなくなるか、牢獄に戻りたくなるか、どちらかよ。だから思うの。考えない方がいい。私の言葉は編集でカットして。俗悪なリアリズムの罪で、今より厄介なことになる」
そう言い残して、ナスリンは車を降りた。
助手席に戻ったハナが、「俗悪なリアリズム」について疑問を投げかける。
「現実を撮りなさいと言っといて、本当の現実や、暗くてイヤな現実は、見せちゃダメって。私には違いが、全然、分からない。本当とか、本当じゃないとかって何?」
「都合の悪い現実は、隠したいんだろう」
「見せたくないことをしてるのは、自分たちなのに。何それ。分かんない」
「アリの泉」に到着した二人は、車を降りて老女のところへ向かう。
カメラの視点は一貫して、タクシーから離れない。
そのタクシーに、路上荒らしの男たちが乗り込み、強盗するシーンが映され、強盗で始まり、強盗で終わる映画は閉じていく。
以下、最後のキャプション。
「上映可能かどうかは、イスラム文化指導省の判断による。願い虚しく、本作に上映許可は出なかった。本作がここに存在するのは、支援者のおかげである」
3 「俗悪なリアリズム」という、イラン映画の絶対的禁忌 ―― 映画「人生タクシー」の根源的問題提起
「チャドルと生きる」という、イラン女性たちが捕捉されている厳しい現実を描いた映画を観た時、これが、アッバス・キアロスタミ監督の脚本で知られる「白い風船」で、金魚好きの少女を描いた映画を世に出した映画監督の作品だったのかと、正直、戸惑いを禁じ得なかったが、その後のパナヒ監督の映画製作の経緯をフォローしていくと、最新作である「人生タクシー」を非イスラム圏の観客に向けて、世に問うた意味が充分に諒解できた。
「チャドルと生きる」より
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「白い風船」より
パナヒ監督が運転するタクシーに、次々に乗車してくる乗客との交叉を描いた「人生タクシー」は、未見だが、「これは映画ではない」というタイトルで世に出したドキュメンタリーと重なって、明らかに「映画」だった。
だから本作は、「基本・フィクション」のドキュメンタリー風の表現方法=「モキュメンタリー」であると言っていい。
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「モキュメンタリー」とも言えるウディ・アレン監督の「カメレオンマン」
「この映画で話される一つ一つの言葉は全て監督が言いたいこと」
「小さな撮影機材でも映画は撮れるし、タクシーで移動しているから、見つかっても逃げることができた」
これは、「人生タクシー」の女性プロデューサーであるショーレ・ゴルパリアン(以下、全て敬称略)の言葉。
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そしてショーレ・ゴルパリアンは、こうも説明している。
「人生タクシー」が2015年にベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した際に、出席できない監督に代わり、本作にも出演している監督の姪がトロフィーを受け取ったが、「プロの役者が彼の映画に出れば、ほかの映画に出られなくなるので参加しない」(ゴルパリアン)ことから、監督本人のほか親類・知人だけで撮った作品であるとのこと。(以上、2017年4月29日付の産経ニュース【映画製作が禁じられたイラン監督の新作「人生タクシー」 2度の逮捕にハンスト…製作者が聞いた「映画を作らないと死ぬ」という本音】からの部分的引用)。
以上で分明なように、「映画を作らないと死ぬ」と言い切り、「映画が撮れないのは一番苦しい罰だ」とまで吐露するジャファル・パナヒ監督が、知り合いの素人俳優を集めて撮った映画 ―― それが「人生タクシー」だった。
イランから出られない状況下にあって、8年間で3本も撮っているパナヒ監督の「人生タクシー」が、典型的な「モキュメンタリー」である事実が、以上の文面で明瞭である。
だから、「人生タクシー」には、パナヒ監督が訴えたいメッセージが凝縮されている。
80分程度の短い尺の映画ながら、全てのエピソードにメッセージが満載されているから、批評する者としては、迂闊(うかつ)にも目を離し、見落とすことが許されなくなった。
そのお陰で、多くの「台詞」を抜き書きし、吟味することができた。
かくて、先に紹介した、「この映画で話される一つ一つの言葉は全て監督が言いたいこと」が、自らの皮膚感覚で感じ入り、受容し得た次第である。
些か語弊があるが、正直、途轍もなく面白かった。
それ以上に、2度の逮捕と自宅軟禁を被弾しても、一貫して権力に屈しないパナヒ監督の思いがひしひしと伝わってきて、身に染みるようだった。
2015年のベルリン映画祭で金熊賞を受賞した「 人生タクシー」に言及し、「この作品は映画へのラブレターだ」と絶賛したと言われる、「レスラー」や「ブラック・スワン」で有名な審査員長のダーレン・アロノフスキー監督の言葉こそ、本作を評価するにあたって、まさに言い得て妙の表現であるだろう。
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「レスラー」より
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「ブラック・スワン」より
思うに、「映画を作らないと死ぬ」とまで言い切るパナヒ監督は、「映画を作れない映画監督」として、イランではつとに有名である。
イランの元首相で、改革派の政治家ミール・ホセインを、2009年の大統領選挙で支持し、アフマディネジャド大統領による人権無視の政権と対立したことで逮捕され、拘束されることになった。
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ミール・ホセイン(ウィキ)
イラン政府による流血の弾圧と化した、非暴力の抗議行動として知られる「2009年グリーンムーブメント」(イスラム民主化運動/因みに、緑は改革派のシンボルカラー)に加担したからである。
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これが最初の受難である。
自宅を強制捜査した際に、パナヒ監督のみならず、彼の家族・友人らを拘束し、自宅からは私物やパソコンなども押収されたと、監督の息子はメディアに証言している。
それでもめげないパナヒ監督は、反体制的な集会へ参加し、プロパガンダ活動を行ったとして逮捕・起訴され、86日間拘留された。
2度目の逮捕・拘留である。
2010年3月1日のこと。
これも、最高指導者ハメネイ師の支持を得て、アーティストらへの厳しい検閲を断行し、宗教的強硬派の立場を取るアフマディネジャド政権の真っ只中の時。
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アフマディネジャド大統領(2009年/ウィキ) |
2度目の逮捕・拘留は、彼の弁護士が、世界最強の大学新聞と評価される「イラン学生通信」(ISNA/イラン全土に30支部が存在し、600人のスタッフを擁し、4カ国語で発信する通信社)に語ったことで判明したもの。
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「イラン学生通信」の国際部。検閲の国でぶれない報道で人気がある
そればかりではない。
今後20年間、映画制作・脚本執筆・国内外メディアのインタビューへの対応・海外渡航を禁じられたのだ。
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違反すれば、禁錮6年の懲役が科されるという、文化活動者への人権侵害の極みの風景が、そこに垣間見える。
また、パナヒ監督と共に映画を制作していたモハマド・ラスロフ監督に対しても、禁錮6年の判決が下された。(AFP通信 2010年12月21日付け「『反体制的』、イラン映画監督パナヒ氏に禁錮6年」参照)
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それでもなお、挫(くじ)けないパナヒ監督が、拘留の只中で取った行動 ―― それはハンガー・ストライキだった。
本篇にインサートされたエピソードだが、人権弁護士ナスリン・ソトゥーデが救済しようと活動していた、スポーツ観戦で拘禁されたゴンチェ・ギャワミがそうであったように、ハンストへの恐怖突入は、「抵抗する者の最後の手段」なのだ。【ガンディーの「非暴力抵抗運動」の有効な方略だったハンストは、今も時代の枠を超えて継承されている】
先のAFP通信によると、パナヒ監督が拘束された際、スティーブン・スピルバーグ、マーティン・スコセッシ、アン・リー、オリヴァー・ストーンら著名監督たちは抗議し、カンヌ国際映画祭とフランス政府も拘束を非難し、フランス人女優ジュリエット・ビノシュに至っては、抗議のハンストのニュースを聞き知った時、涙を流したと言われている。
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ジュリエット・ビノシュ(2015年/ウィキ) |
ここで、姪のハナが映画を作る際に、禁忌とされたルールを想起したい。
「女性はスカーフを被り、男女は触れ合わない」
「俗悪なリアリズムや暴力を避ける」
「善人の男性にはネクタイをさせない」
「善人の男性にはイラン名を使わず、代わりにイスラム教の聖人の聖なる名前を使う」
「政治や経済に触れない」
このルールの中で興味深いのは、「善人の男性にはネクタイをさせない」という一項。
「さっき会った彼を、どっちと思えばいい?ルールに則れば悪人だ。イラン名でネクタイをしていた」
パナヒの幼馴染は、ルールに則れば悪人になる |
これは、ルールを読み上げた姪のハナに、「方向音痴で運転も下手」((金魚鉢の老女の「台詞」))で、金を受け取らない素人運転手パナヒ監督が問うたもの。
粗筋で言及したが、「さっき会った彼」とは、強盗に襲われても、相手が貧困層だったので訴えられないストレスを、パナヒに会って、せめて話を聞いてもらうことで遣り切れない気持ちを浄化させたパナヒの幼馴染のこと。
パナヒの幼馴染 |
「それは現実の話でしょ。これは映画のルールだもの」
その時のハナの反応である。
当然ながら、小学生の少女には、「現実の話」を受け止める能力に欠けるから、映画のルールに則れば、財布を拾った少年に金を払ってでも、「演技」をさせる行為に何の躊躇(ためら)いもなかった。
少年に文句を言って、「演技」を強いるハナ |
だから、財布を金持ちの持ち主に返すことなく、貧しい境遇にある自分の物にしてしまう少年の「現実の話」を、ルールに沿った映画に変更させればいいだけのこと。
少年に金を払ってでも「演技」をさせる行為に頓挫するハナ |
パナヒの幼馴染の話と、財布を持ち主に返さなかったという二つのエピソードは、「貧困層は善・ネクタイを結ぶ富裕層・中流階級は悪」という、イラン映画の短絡的、且つ教条主義的な検閲の本質を的確に表現していて圧巻だった。
姪のハナやナスリン・ソトゥーデの「台詞」にあったように、イラン政府にとって、「イランのネガティブな現実」を描く作品は、「俗悪なリアリズム」というラベリングのもとに刑罰OKの、イラン映画の絶対的禁忌なのだ。
まさに本作は、「俗悪なリアリズム」という、イラン映画の絶対的禁忌 ―― 映画「人生タクシー」の根源的問題提起であった。
(2020年9月)
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