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2020年5月7日木曜日

エリザのために('16)   クリスティアン・ムンジウ


「自分たちの力で、山は動くと信じたが、実現しなかった。後悔はない。やれることはやった。でも、お前には。別の道を歩んで欲しい」

人間と社会の歪んだ関係のフレームが、人間相互の関係にまで下降していく



1  「お前たちの手で、この国を変えられるなら、残って闘えと言うよ。でも変わるとは思えない」





「どうしたの?」
「石を投げ込まれた」
「誰に?」
「知らん」
「気味悪いわ」
「まったくだ」

突然、投石で窓を割られ、男は外に出て、犯人を捜し回るが、見つけられず家に戻った。

外に出て、犯人を捜し回るロメオ
ロメオ

男の名はロメオ。

警察病院に勤務する50歳の外科医である。

娘の名はエリザ。


「誰に?」と尋ねる娘エリザ

9月にイギリスの大学に行くための奨学金の試験を、明日に控えている女子高生。

図書館員の仕事をする妻のマグダは病気がちで、ロメオが家事も担っている。

マグダ
出勤するロメオ

この日も、エリザの弁当を作っていた。

忌まわしき事件が出来(しゅったい)したのは、ロメオが娘のエリザを学校へ送る途中で降ろした直後だった。

それにしても、時機が悪かった。

ロメオが事件を知ったのは、英語教師の愛人サンドラのアパートで愛し合っている只中だった。

ロメオとサンドラ
サンドラ

因みにサンドラは、かつてエリザの家庭教師であり、発話障害のある子・マティと二人暮らしのシングルマザー。

そのサンドラのアパートにいるロメオの携帯が鳴り、エリザが暴漢に襲われ、ロメオの病院に搬送されたという連絡が入った。

慌てて病院に行くと、妻マグダにエリザを向かいの交差点で降ろしたことを責められる。

「責めるなら後にしてくれ」/ロメオとマグダ
身を守ろうとして腕に怪我をしたエリザを抱くマグダ

父親の多忙を知るエリザが、歩いた方が早いと言って降車したのである。

幸いにして、手首を捻挫しただけの軽傷だったが、性暴力に被弾したショックで、激しい不安に苛まれるエリザ。

そのエリザの精神状態が落ち着くのを、病棟の廊下で待つロメオとマグダ。

距離を取り、向かい合って座っているカットで、夫婦仲が冷めているのが透けて見える。

ロメオとマグダ

ロメオは担当医から意外な事実を知らされる。

精液が検出されなかったことから、犯人は勃起しなかったこと。

そして、エリザに男性経験があること。

前者によって、エリザが被弾した性暴力が未遂事件であった事実が判然とする。

担当医から犯人が勃起しなかったことなどを知らされる

そのエリザは、警察でレイプ犯の写真を見せられるが、該当者がなく、似顔絵を描くことになる。

正式に告訴するため、詳細に事情聴取されるエリザ。

告訴状を書くエリザ
警察署長イヴァノフ
左からエリザ、マグダ、ロメオ

そこで、ロメオは友人の警察署長イヴァノフに、必ず逮捕すると伝えられる。

大学入学の条件である卒業試験を明日に控え、ロメオは是が非でも受けさせようとするが、エリザの動揺は収まらず、夜半になっても嗚咽が止まらなかった。

エリザの嗚咽を耳にて、エリザの部屋に行くロメオ

【ここで軽視できないのは、朝の歩道を歩いていたエリザが、犯人に引き摺り込まれた際に複数の通行人がいたこと。複数の通行人が傍観者であった現実は、38人の察知・目撃者がいながら、一人の女性の殺人事件を防止できなかった「キティ・ジェノヴィーズ事件」によって検証されている。いわゆる、どこの国でも出来する「傍観者効果」(責任分散・多元的無知・聴衆抑制)の心理学で説明可能である】

キティ・ジェノヴィーズ事件:誰にも助けてもらえなかった女性

そして、卒業試験当日、学校へ付き添ったロメオは、試験官に娘の試験の延期を懇願するが、結局、エリザは受験し、合格ラインのスコアが得られなかった。

スコアが得られず、心配するサンドラ
試験に失敗し、落胆する父娘
警察署長イヴァノフにエリザの再試験について相談するロメオ
イヴァノフがドナー提供の話を副市長ブライに連絡する
英語教師サンドラにも試験の延長を頼むほどのロメオだが、生理が遅れていることを伝えられる

そこで、イヴァノフに相談すると、肝硬変でドナーが必要な副市長ブライに電話し、ドナー提供の優先順位を上げる交換条件として、娘の合格を善処するように依頼するのだ。

ブライに会いに行ったロメオが、ブライの病状や手術の話をした後、ロメオの訪問目的の本題について話し出すや、その含意を理解したブライは、罪責感の欠片(かけら)もなく、ダイレクトに答えていく。

「娘さん事なら、気にせんでいい。人の命が助かるなら、1点や2点。さっき、試験委員長に電話したら、快く引き受けてくれたよ。以前、あいつの女房が市役所を解雇されかけてね。産休から戻れるように、手配してやったんだ。それ以来、良くしてくれる…何事も助け合いだ」

試験委員長に電話するブライに「金は要りません」と答えるロメオ
「何事も助け合いだ」とブライ

早速、試験委員長の自宅に訪ねたロメオは、朝の非礼を詫びた後、直截に娘の合格についての話に入る。

「何点あれば、合格できる?」と試験委員長。
「奨学生になるには平均で点」とロメオ。
「ルーマニア語は?」
「よくて8点」
「誰かに話した?」
「いえ、今からでも変えられますか?」
「事後では無理だな。委員会には他校の教員もいる」
「巻き込むのは心苦しいが、できれば何とか」
「よくある事だ。数学の成績は?」
「学内評価の平均が10段階で9.6」
「優秀だな。実力でも満点も取れる」
「普通の状態なら」
「採点者の一人は面識がない。もう一人は話が分る男かだ、双方の同意がいる」

朝一番に委員長が行くか、採点者を知り合いに替えるか、他に方法はないか思案する。

「詳しい話はブライさんから」と試験委員長

「できる事は何でもします。謝礼は?」
「金は要らん。ブライさんには恩がある」
「無理をさせるのに、お礼もなしでは」
「金をもらう気はない」

「金をもらう気はない」と試験委員長

結局、解答用紙の1ページ目の最終行の単語3つを横線で消すという、本人であることの印を娘につけされることで決着する。

「迷いがあるなら今のうちに。信頼がなくては始まらん」
「悪い噂は、お互い命取りだからね」
「秘密は守ります」
「手を貸すのは、あくまで娘さんのためだ。救済すべきだが、他に方法はない」

「手を貸すのは、あくまで娘さんのためだ」と試験委員長

娘のために奔走するロメオは、帰りの途中車を止め、車道脇の暗闇に入り込み、嗚咽する。

誇りを捨て、一線を越えてしまった自分の不正を強く自覚し、自尊感情を傷つけてしまった故の嗚咽である。

家に戻り、エリザの受験について話すとマグダは反対する。

「一度、道を踏み誤れば、戻れなくなる。帳消しにして、出直すなんて無理。心の底では分ってるはずよ。エリザに裏道を歩かせるなんて。きっと後悔する」
「外へ出すために、育ててきたんだ…満足か?今の暮らしに。僕らの二の舞になれと?」
「僕らの二の舞になれと?」とロメオ

「だからと言って、人生の門出に、背負い切れない重荷を?」
「大切なのは、試験の点数じゃない。学校の勉強にしたって、まともな国へ旅立つ手段に過ぎん」
「どんな道を通るかも大切よ」
「どんな道を通るかも大切よ」とマグダ

「白昼の路上で、襲われるような街に、娘を住まわせたいか?」
「不幸な事故よ」
「国が悪いんだ。正しい道を選んだ君は、望んでもない図書館員に。親が決めれば、娘に罪はない」
「私たちの一存で決められることでは」
「君はいつも、ケチをつけるだけで、責任を取ろうとしない…今だって、僕は喜んで信念を捨てる。愛する娘のためならね」

ロメオは、エリザの部屋へ入り、様子を確認しながら、試験の話に話題を変えていく。

「試験で失敗しても怒らないでね」
「今までの努力を、無駄にするんじゃないぞ」

「試験で失敗しても怒らないでね」とエリザ

ロメオは自分の体験を語り、静かに娘を諭す。

「1991年、民主化に期待して母さんと帰国したが、失敗だった。自分たちの力で、山は動くと信じたが、実現しなかった。後悔はない。やれることはやった。でも、お前には。別の道を歩んで欲しい」

そう言って、ロメオは胸ポケットから紙を出し、試験委員長に指示された方法を伝える。

胸ポケットから紙を出すロメオ

「何の話?」
「何も聞かずに線を引けばいい。分ったな?結果を出さないとダメな時がある。誤解するなよ。ズルくなれと言ってるんじゃない。この国で生きるには、しがらみを逆手に取ることも必要だ…向こうに着いたら、自分で判断すればいい」
「何が最善か」
「そうだ。お前たちの手で、この国を変えられるなら、残って闘えと言うよ。でも変わるとは思えない」
「お母さんは?」
「人生に勝ち負けはあるのは理解している」

父に背を向けるエリザ。

娘の進路で悩み、動き続けるロメオと同様に、エリザもまた、追い込まれているのだ。





2  「関係が壊れても、続ける努力をしたのは、お前のためだ」   





翌朝、再び、車に投石の悪戯が起こる。

単なる悪戯とは思えないロメオは、窓を割られた一件との関与を疑えなくなっているが、何もかも不明瞭で、為す術がなかった。

イヴァノフに会いに行き、防犯カメラの映像で犯人を確認するが、有効な情報を得られなかった。

ただ、気になる人物が見つかったのか、イヴァノフに画像の印刷を依頼する。

防犯カメラの映像を見るロメオ

病院に出勤すると、ロメオは入院したブライの病室に向かう。

謝礼金を渡そうとするブライに対し、ロメオは固辞する。

謝礼金を固辞するロメオ

娘の試験の件を聞かれ、率直に答えた。

「これでいいのかと、思うことも」とロメオ。
「紙一重だな。でも、心から誰かを思ってやるなら、迷うことはない」とブライ。

それだけだった。

試験が終わる時間にロメオが学校へ行くと、既に、恋人のマリウスがエリザを待っていた。

そののマリウスに、事件当日の様子を詳細に問い質(ただ)すロメオ。

ロメオとマリウス

ロメオは、待ち合わせ時間に、バスが遅れて遅刻したというマリウスを密かに疑っているのである。

エリザが学校から出て来ると、マリウスと共にバイクで帰り、ロメオはその足で、愛人宅へと向かう。

娘の受験のことで一杯一杯のロメオは、発話障害のあるマテイ(サンドラの息子)の学校の悩みを真剣に聞く耳を持たなかった。

不満を溜め込んでいたサンドラは、ロメオを難詰(なんきつ)するのだ。

「後回しにされる私の身にもなって。このままじゃ困るの。将来の事も考えないと。35歳の女が、先の見えない関係を続けて行けると思う?あなたは逃げてばかりだけど…私たちの気持ち、考えたことある?…これ以上、ズルズルとごまかし続けるのはイヤ」

「後回しにされる私の身にもなって」

そんなサンドラの愚痴を聞いている只中に、突然、エリザが訪ねて来た。

「おばあちゃんが!」

一言、ロメオに伝え、オートバイで去っていく。

父とサンドラの関係を、エリザは知っていたのだ。

急いで自宅へ駆けつけると、エリザと恋人のマリウスがいて、浴室で倒れている祖母を見守っていた。

ロメオの母には心臓の持病があり、失神して脳障害も起きている。

祖母を介護するエリザとロメオ

救急車を呼び、応急処置で、一命を取り留めた祖母。

それでも、ロメオにはエリザの試験の結果だけが、最大の関心事。

「問題は簡単だった」

エリザからの反応は、その一言だった。

「問題は簡単だった」

父に対するエリザの冷たい視線が、今、鋭角的に差し込んできた。

両親の不和に目を瞑っていられなくなったのだ。

「お母さんと話し合って。見なかったフリなんて、絶対に無理」

不公正な試験を強いられたことに不満を吐露するエリザ。

「関係が壊れても、続ける努力をしたのは、お前のためだ」とロメオ。
「イギリスにはいかずに、彼と一緒にいたい」
「それが本心なら、好きにしろ。自分の力で職を探せばいい」

帰宅すると、夫と別れる決意をしていたマグダは言い放つ。

「今夜から、よそで寝てね。あとは、エリザと二人で」
「分った」

「家を借りるわ」とマグダ
「出て行って」と言われるロメオ
家を追い出され、結局、ロメオにはサンドラしかいないのだ

それでもロメオには、エリザの受験の動向のみが気になっている。

翌日、ロメオはエリザの学校へ行くが、試験の最終日に姿を確認できず、病院に出勤する。

そこに待っていたのは、二人の検察官。

回診の直前に警察病院にやって来た検察官

検察官はブライを拘留するために訪れて来たが、瀕死の状態にあるブライへの尋問が不可能であるとロメオに言われ、そのロメオに、検察官はブライとの関係について発問する。

税関時代の職務や、様々な疑惑のため刑事告訴されているブライの実状を聞かされたばかりか、そのブライの電話が傍聴され、記録されているので、ロメオの娘への尋問を匂わせて、ひとまず退散する。

検察官が来た事実を知って、警察署長イヴァノフは「口裏合わせを」と持ちかける
「自宅の窓にも石を投げられた」と話すロメオ

ロメオは、例のエリザのレイプ未遂事件に関与すると疑うマリウスに、捕まった容疑者の面通しを頼むが受け入れられず、彼が共犯であることを追求する。

ロメオとマリウス
「若造のくせに大きな口を」と怒鳴り、マリウスを抑え込む

白を切るマリウスに激昂したロメオは身体を抑えつけるが、逆に押し倒されてしまった。

そして、その夜のマジックミラー越しの容疑者の面通し。

マジックミラー越しの容疑者の面通し

レイプ未遂犯がエリザに吐いた暴言を4人の容疑者に喋らせるが、その声を目の前で再現され、エリザの心は殆どフラッシュバックの状態になる。

「4人とも違います」

それだけ言い捨てて、足早に禁断のスポットを去っていく。

限界だったのだ。

娘を追うロメロ。

「なぜ逃げる?」
「ほっといて」
「頼むから話を聞いてくれ」
「話って何よ」
「落ち着いて」
「なだめたって無駄」
「父さんが悪かった」
「どうかしてるわ。マリウスを責めるなんて」
「他人に振り回されるな」
「彼は他人じゃない。迷惑なの!」
「そこまで言うなら、あとは自分で決めろ」

それでも、エリザの試験結果を気になるロメオは、娘に質す。

「私なりに、最善は尽くしたつもり。後悔はしてない」
「そうか。安心したよ。よくやった」

既にこの時点で、試験委員長から、エリザの答案には線がなかったことをロメロは確認していた。

試験委員長から「解答に印がなかった」と言われるロメオ

妻から見捨てられ、娘からも口出しを拒否されたロメオもまた限界だったのだ。

「自分で決めたなら、それでいい。嬉しいよ」

そう言い残して、娘と別れた。

行く当てのないロメオは、結局、愛人のサンドラの家を訪ねた。

マティのために言語療法士を見つけたことを話し、サンドラを安堵させる。

堕胎のために病院に行くサンドラに頼まれ、翌日、マティを公園へ連れて面倒を見る。

そのマテイが、遊具を待たない子に石を投げつけた行為を保護者から叱られ、謝罪するロメオ。

順番を待たないから投石したというマテイに、ロメオは「ママが教えてくれるさ。でも、おじさんと一緒にいる間は、絶対にやるなよ」と言って納得させる。

マテイとロメオ

いつしか、マテイの継父になるだろうロメオにとって、この辺りが倫理的接点のぎりぎりの行為だったのだろう。

そのマティを連れて病院へ行くと、ブライが心臓発作で亡くなったことを知らされる。

そこに、ロメオを尋問するために、例の2人の検察官が待っていた。

覚悟は、とうにできている。

今は、エリザの決意を確認すること。

それだけである。

病院から戻って来たサンドラにマティを戻し、隣接するエリザの高校の卒業式に列席するロメオ。

マテイ、ロメオとサンドラ

「まだ迷っている」

試験の結果が木曜日に出るというエリザの言葉である。

「まだ、迷ってる」とエリザ。エリザの心境を的確に表現するこの辺りの心理描写は素晴らしい

「試験の最終日ね、私だけ時間を延長してもらったの。試験中に涙が止まらなくて。それで。やましいことは何も」
「そうか」
「私、うまくやれたでしょ?」

「私、うまくやれたでしょ?」とエリザ

ラストシーン。

壇上に整列した卒業生一同が記念撮影をする。

中央のエリザは満面の笑みを湛(たた)えていた。





3  人間と社会の歪んだ関係のフレームが、人間相互の関係にまで下降していく





人間と社会の歪んだ関係のフレームを、人間相互の関係にまで下降して、ここまで構造的に描いた映画に、私は敬意を表する。

その典型例は、ロメオとエリザという父娘の関係である。

試験について話す父娘
ロメオは娘エリザの進路確保の達成のためにのみ、便宜供与の授受に邁進する。

それが違法性を持つと理解した上で邁進するのだ。

元来、誠実で、人畜無害な人柄の優秀な外科医ロメオは、エリザの英国行きのことになると一変する。

将来の伴侶の可能性がある、愛人サンドラの深刻な相談にも真摯に耳を傾けることなく、殆ど虚ろな状態。

エリザの英国行きに邁進するほど、ロメオとエリザの関係が微妙に浮立ち、英国行きに固執しない娘に、「それが本心なら、好きにしろ」と言いながら、ロメオの脳裏を過(よ)ぎるのは、エリザの受験の動向のみ。

愛人を抱えながらも父を慕い、愛着も深いエリザには、真に自分の進路を案じる父と、母マグダの関係の修復を念じているのだ。

エリザにとって、恋人マリウスとの関係を捨てたくないが、父の期待に応えたいという思いも強い。

そこには、奨学金の試験を突破することで、レイプ未遂事件のトラウマを克服するという意志も隠し込まれている。

レイプ未遂事件のトラウマを抱えるエリザ
告訴状を書くエリザ
事件のトラウマが破壊力を持ち、試験に失敗し、途方に暮れる
試験に失敗し、落胆する父娘
心配するサンドラに「だいぶ落ち込んでいる」とロメオ

だから逃げなかった。

しかし、父の目論む不正行為には乗らない。

不正の話をする父と、背を向ける娘

この強い意志が、「私、うまくやれたでしょ?」という勝利宣言に結ばれたのである。

エリザのこの勝利宣言には、二つの意味が内包されている。

艱難(かんなん)な試験の突破と、事件のトラウマの克服である。

そして、何より重要なことは、父が希求する「何一つ自由にならない」母国からの脱出ではなく、自らの意志で英国行きを具現し、そこで学力を向上させ、多様な人間関係を繋ぐことで、自立していく。

まさに、エリザの英国行きの本線に垣間見えるのは、彼女の自我の確立運動の行程のイメージなのだ。

だから、「母国を捨てる」という観念は微塵(みじん)もない。

父娘の価値観の灼然(しゃくぜん)たる相違が、ラストシーンで露わになったのだ。

父ロメオもまた、その現実を言外に匂わせている。

母国に対し、なおネガティブな射程にある父と、ポジティブな視線で受容する娘の価値観の隔(へだ)たり。

そして、作り手は、母国の現状に鮮度の高い価値観でアプローチするだろうエリザに、思いを託している。

「この映画で描かれる社会は、生き延びるためには、お互いに監視するだとか、密告するだとか、あるいは自分の意見にそぐわなくても同調しなければいけないだとか、そういう伝統や習慣があるんです」

クリスティアン・ムンジウ監督の言葉である。

演出中のクリスティアン・ムンジウ監督(左)
クリスティアン・ムンジウ監督

共産党独裁政権にルーツを持つ、「伝統や習慣」における旧来の陋習(ろうしゅう)を穿(うが)ち、新世代の若者たちが打ち砕くことで、新しい息吹をもたらしていく。

ムンジウ監督もまた、「映画文化」という影響力の強いフィールドで、権力の攻勢を怖れることなく、違法中絶という禁忌を誹議(ひぎ)する「4ヶ月、3週と2日」がそうであったように、前線に立ち、ルーマニア社会に蔓延(はびこ)る不公正を糾弾(きゅうだん)する。

4ヶ月、3週と2日」より
4ヶ月、3週と2日」より

そのような熱意の結晶点の一つが、本作であったに違いない。

観る者に対する問題提起である。

そして、新しい息吹の象徴が、ラストシーンでのエリザの笑みであった。

そんなエリザの〈生〉の鼓動と対比するロメオは、明らかにリアリストである。

「僕は喜んで信念を捨てる。愛する娘のためならね」

妻マグダに対し、ロメオは言い切った。

「僕は喜んで信念を捨てる。愛する娘のためならね」とロメオ

「エリザに裏道を歩かせるなんて。きっと後悔する」

これは、マグダの強い反駁(はんばく)。

この夫婦は、今や、社会観・価値観を違(たが)えてしまっている。

1991年民主化に期待して母さんと帰国したが、失敗だった。自分たちの力で、山は動くと信じたが、実現しなかった。後悔はない。やれることはやった。でも、お前には。別の道を歩んで欲しい」

エリザに吐露したロメオの述懐である。

この思いは、最後まで変わらない。

「自分たちの力で、山は動く」

そう信じて、母国に帰国した若い夫婦は、母国の現状に弾かれ、頓挫する。

この現実の只中に押し込まれ、ロメオは現実主義に振れていくが、マグダは母国の現実と一線を画す。

裏道を歩く行動に振れなかった。

だから、望んでもない図書館員になり、「家庭」という限定的なスポットで身過ぎ世過ぎを繋いでいく。

図書館員として働くマグダ
修復不可能な状態にまで行き着いてしまった中年夫婦

マグダの場合、理想主義と言っていいかどうか難しいところだが、中枢となる愛情の懸隔(けんかく)を含めて、少なくとも、夫婦の社会観・価値観の差異が離婚に至るだろう経緯を説明可能にするだろう。

夫婦の別離を的確に表現するシーンが印象深かった。

エリザに求められ、ロメオはマグダと話し合う意志を固めるが、その直前に、マグダの生活風景を外から覗く強烈なシーンがそれである。

もう、既に、「何を話しても無駄だ」とロメオは、瞬時に判断したに違いない。

離婚は必至だったのだ。

若き夫婦の期待を破壊した、母国の風景の救いがたさ。

人間と社会の歪んだ関係のフレームが、濃度の高い人間関係にまで下降していく絡繰(からく)りが、ここに透けて見えていた。
第69回カンヌ国際映画祭にて(ウィキ)
My Last Fight」よりhttp://blog.livedoor.jp/asaodai/archives/52417620.html





4  「コネ社会」が蔓延る極端なネポティズム





「東京新聞」よりhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201912/CK2019122302000126.html
ブカレストでの抗議デモhttps://atarashii-a-chiten.com/2018/02/10/post-115/
勝利に喜ぶ反政府勢力の民衆https://atarashii-a-chiten.com/2018/02/10/post-115/

「ルーマニア革命」という耳触りのいい言葉がある。

1989年のこと。

革命軍が用いた旗。当時のルーマニアの国旗から共産主義を示す国章が切り取られ、穴が空けられた(ウィキ)

共産党政権に対するティミショアラの蜂起が起点となり、24年に及ぶ、ルーマニア共産党による独裁的権力を振るったチャウシェスク政権が崩壊し、国家元首としてのチャウシェスク自身が処刑された一連の「革命」を誇示するような表現である。

現在のティミショアラ・観光都市として有名
妻と共に公開銃殺された大統領・ニコラエ・チャウシェスク
ニコラエ・チャウシェスク(ウィキ)

NATOに対抗し、1955年5月、ソビエト連邦を盟主とした東欧8カ国が結成した軍事同盟、いわゆる「ワルシャワ条約機構」加盟国にあって、過剰な個人崇拝を仮構し、45歳で権力を掌握したニコラエ・チャウシェスクは、東欧革命の嵐の中で、唯一、民衆裁判で処刑された独裁者であるが、その本質が反チャウシェスク派によるクーデター(「ルーマニア政変」)であったことが明らかになっている。

世界各国で、チャウシェスク夫妻の逃亡劇がマスメディアの映像が流されたことで、この流血の「革命」の生々しさは、「自由ルーマニア放送」による「革命」サイドのプロパガンダ(救国戦線側による、脱出後の銃撃戦の捏造)が成功裏に終始した印象を残すに至った。

そして今、孤児で構成された秘密警察「セクリタテア」との武力衝突の終焉によって、全土を制圧した「ルーマニア革命」から約30年が経ち、司法当局に「真相解明」を求める市民団体らの活動によって、革命当時の国家元首イオン・イリエスク元大統領が起訴される事態にまで及んでいる。

救国戦線評議会議長で、革命当時の国家元首イオン・イリエスク元大統領(ウィキ)
救国戦線による政権樹立を発表するイリエスク(ウィキ)

「イリエスク元大統領らによる『革命の乗っ取り』を示唆する同氏元側近の供述が明らかになった」(毎日新聞2019年5月3日)のである。

しかし、死亡した関係者も多い事実もあり、公判での立証は困難を極めるだろう。

既に、2017年に、汚職追放・内閣退陣を求める、終わりの見えない反政府デモが続いている。

これは、「ルーマニア革命」以来となる大規模な市民運動である。

市民運動の根柢には、横領に問われた政治家らの罪を減免する緊急法令を政府が導入したことに対する、ルーマニア国民の憤怒の累積が窺(うかが)える。

ブルガリアと共に、念願のEU加盟(2007年)を果たしてから10年、効果を上げ始めた汚職取り締まりに逆行する政権の動向に、ルーマニア国民は危機感を強めたのである。

EU加盟/ブカレストの広場で民族舞踊を踊って喜びを表すルーマニアの人々

デモの主体は、チャウシェスク政権崩壊後に育った30代から40代の壮年の世代である。

極端なネポティズム(縁故主義=クローニー資本主義)と汚職という、共産時代のレガシーコスト(負の遺産)の残存に辟易(へきえき)するルーマニア国民の憤怒が、反汚職運動に収斂されていくのは必至だったのだ。

この運動の流れが、ルーマニア最高裁判所において、チャウシェスク政権崩壊後、最大の権力を握った政治家である、与党・社会民主党(PSD)党首のリビウ・ドラグネア被告に対し、職権乱用罪で3年6カ月の懲役刑を具現させたとも言える。

収監されたルーマニアのドラグネア氏=AP

ドラグネアこそ、ルーマニア社会を覆う極端なネポティズムの象徴的人物だった。

然るに、即日収監されたドラグネアの命運を左右したのは、司法の独立が脅かされているこの国に対するEUの政治的圧力であると言っていい。

ルーマニアは変わらない。

国営企業の民営化などの経済改革の停滞と汚職の蔓延。

EU加盟によって経済は上向いたが、国外で高収入を求める出稼ぎに歯止めがかからないのだ。

人口の2割近くが流出するという異様な事態は、ルーマニア国家統計局によると、平均手取り月収は約77500円で、一人当たりの国民総所得は、EUで最下位のブルガリアに次いで低く、ドイツの4分の1以下しかない現実によって検証されるだろう。(数字は「東京新聞」参考/2019年12月23日)

ブカレスト北西にあるラカリの街並み/ルーマニア革命30年 人口流出2割 将来に影(「東京新聞」)

映画でのロメオの「ケンブリッジ志向」に象徴されるように、この国で、国外流出が止まらない。且つ、我が国を含めて、他の多くの国と同様に、「コネ社会」が蔓延(はびこ)る極端なネポティズムが生き残されてしまったのだ。

【「人口増加が国力を強める」という発想の下、戦時中の日本がそうであったように、チャウシェスクの「産めよ増やせよ」という、露骨な人口増加政策の負の遺産でもある、「セクリタテア」への育成中の子供たち(「チャウシェスクの子供たち」)の多くは、ストリートチルドレンになったという悲劇を生んだ】

「チャウシェスクの子供たち」の30年と政府の孤児対策
ルーマニアの闇、下水道で暮らす「マンホール・チルドレン」と呼ばれるチャウシェスクの孤児たちhttp://karapaia.com/archives/52165238.html
「マンホール・チルドレン」http://karapaia.com/archives/52165238.html

(2020年4月)

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