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イングマール・ベルイマン |
1 「人生が絶望的でも、戦うことが人間の義務だ」
イングマール・ベルイマン(以下、ベルイマン)は、私にとって特別な存在である。
「人生の師」であると言ってもいい。
「人生が絶望的でも、戦うことが人間の義務だ」
これは、初期の「インド行きの船」(1947年製作)という映画の中でのセリフである。
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「インド行きの船」 |
風景の変わらない閉塞的な世界に閉じこもり、殆ど孤独の極みにあった恋人サリーに対し、その精神世界を復元させるために、主人公のヨハンネスが言い放った強烈な言葉である。
「人生が絶望的でも、戦うことが人間の義務だ。戦わなければ、障害はどんどん大きくなり、あとは窓から身投げだ」
正確に言えば、ヨハンネスは、こう確言したのだ。
烈(はげ)しい言辞である。
常識的に考えれば、戦うことができるなら、未だ「絶望」していないのだ。
神との関係を喪失したことで「真の自己」を失っている状態、即ち、「絶望」とは自己の喪失であり、「死に至る病」であると言い切ったのは、キルケゴールである。
然るに、神との関係とは無縁に、戦うことができない精神状態に搦(から)め捕られている人間に、「絶望的でも、戦え」と説くことが、如何に無謀で非合理的なことか、考えてみれば誰でも分るだろう。
それでも、ヨハンネスは「絶望」している恋人に確言した。
「君はまだ、戦う能力を失っていない。僕と共に戦っていこう」
そう、言いたいのだ。
神など、存在しない。
今の言葉で言えば、「レジリエンス(「心の自然治癒力」)を信じ、とにかく動くんだ」ということか。
ヨハンネスの青春とは、殆ど救いようがない父と子の葛藤の連鎖であり、その葛藤の中で露わになる愛憎と孤独の裸形の様態であった。
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ヨハンネス |
背中に障害を持つ息子ヨハンネスが生まれたことに悩み、充分に愛情を注げない父に対する反発から、既に、思春期前期から反抗的な態度を繰り返す息子。
父に嫌われる原因になったヨハンネスの障害は、「僕の背中は曲がっている」とサリーに吐露することで、年来の劣等感を相対化しようと努めているようにも見えたが、母の言うように、「顔を強張(こわば)らせて、怖い目」を身体表現する歪んだ関係を、実父との間に形成してしまっていた。
青年期に入ったヨハンネスは、父母と共にサルベージの仕事に従事するが、権力的で横暴な父親との関係が円滑に推移する訳がない。
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サルベージ船 |
「自分の父親を殴りたいと思ってる。でも結局、殴らんだろうな。なぜだと思う?こいつには度胸がないんだ。腰抜けさ。父親からの仕返しが怖いんだ」
ここまで愚弄されたヨハンネスは、精一杯の反撃を加えていく。
「この野郎、覚えてろ!女たらしのブタめ!」
「自分の父親に向かって、何て口を聞きやがる!いい加減にしろ」
「くたばっちまえ!」
この一言に切れた父は、息子を殴りつけた。
ナイフを握ったまま、部屋を出て行く父を睨むだけのヨハンネスが、そこに置き去りにされたのである。
父と子の歪んだ関係を延長させるだけの激しい相克が、遂に、決定的な対立を生むに至る。
事の発端は、港町の劇場の踊り子であるサリーとの三角関係。
そのサリーとの関係を知られ、父から殴られたヨハンネスは、思わず、その父に殴り返したのだ。
サリーと睦み合う関係を露わにしたヨハンネスに、愛人を奪われた父の憤怒を惹起させ、あろうことか、息子の命を絶とうとさえしたのである。
潜水夫に代わって海に潜ったヨハンネスに、命を繋ぐエアーポンプを駆動させていた父の手が止まったのだ。
この一件の後、「父さんは病気だよ」と言われても、攪乱した情動が収まらない父は自殺未遂を起こすに至る。
密かに用意された秘密の部屋に閉じこもって、絶望を一身に体現したような初老の男は、その部屋の窓から飛び降りた。
永久に変わり得ないと思わせるような、父子の相克が行きつくところまで行ったとき、この絶望的な閉塞性を克服するために、若者は旅に出る以外の選択肢がなかった。
それも、若者の自我を深々と覆う、くすみ切った風景を浄化し得るような、未知なる世界への大いなる旅に打って出る外になかったのだ。
今や、いずれかの者が物理的に消えない限り、収斂し切れない爛れ切った父と子の歪んだ関係だけが生き残された。
置き去りにされたサリー。
ヨハンネスは、そのサリーを残して、船員としての大いなる旅に打って出る。
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the World (global) Ocean(イメージ画像・ウイキ) |
サリーを捨てたのではない。
自分の帰還を信じて待つことを、世間の印象とは切れた、決してすれっからしではない、純朴な心を持つサリーに求めたのである。
その旅から帰還して来たヨハンネスは、サリーとの愛を復元させようと努めるが、彼女の心は深く傷ついていて、殆ど孤独の極みにあった。
先のヨハンネスの確言は、この時に発せられたものである。
先述したように、確かに、この言辞はアグレッシブな含みがあるが、動かなければ「絶望」の淵から復元できないのだ。
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ヨハンネスとサリー |
生還せよ。
ほんの少しの戦力を駆り出して、いきり立て。
これは、紛れもなく、若きベルイマンのメッセージである。
思うに、ベルイマンの息子ダニエル・ベルイマンが父の幼年期をテーマにした、知られざる秀作「日曜日のピュ」で描かれていたように、厳格な牧師の父エリックは、子供たちの他愛のない悪戯に対して、体罰を持って常に対応した。
子供に対するエリックの罰には、子供の暗い衣裳部屋の中に閉じ込めてしまうという罰があった。
父の子供への折檻は、時と場所を選ばす、殆ど確信的に行われていたのである。
このような幼年期の経験は、相当の恐怖感を覚えるものとして、後々まで、その自我形成に、何某かの影響を及ぼすほどの過剰さを示していたことが容易に推測できる。
このような経験が、ベルイマンをして豊穣な想像力を育て上げ、それが、後世の職業選択に繋がったものと考えられる。
ベルイマンの自我の形成過程において、父の存在は、しばしば決定的なほどの敵対者だったのだ。
「ベルイマンは女友達と半同棲のような生活を始め、何日も家に帰らなかった。それ以前から厳格な父エーリックに対する彼の憎しみは増大し、爆発寸前にまで達していたが、ある日父エーリックに女友達との関係を咎められるや、父と子の間の緊張感は絶頂にまで達した。ベルイマンは父を殴り倒し、家を飛び出て、スヴェン・ハンソンの所に駆けこんだ。それから何年もの間、ベルイマンは父エーリックと会うことはなかった」(「ベルイマン」小松弘著 清水書院刊より)
この一文でも分るように、彼の活発な女性遍歴は有名だが、明らかに、ベルイマンの行状は謹厳な父に対する戦意の渙発(かんぱつ)であると言っていい。
牧師という職業を決して選ばず、ベルイマンが、それとは無縁な演劇や映像の世界に、その身を投じた心理的な風景もまた、父との私的な関係史の中で俯瞰すると了解されるかも知れない。
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『野いちご』撮影中のベルイマン(1957年/ウィキ) |
若きベルイマンは、演劇の世界に入ることを父に拒まれ、その父が最も嫌ったはずの女性関係の縺(もつ)れなどで、積年の反発感情が炸裂した挙句、直接対決の修羅場を作り出してしまう。
「シュトルム・ウント・ドラング」とも言うべき、果敢な青春は、梃子(てこ)でも信念を変えない頑固一徹な父を殴り倒し、家出を敢行した。
そう考える時、疾風怒濤の攻勢で駆け抜けたベルイマンの作品のモチーフが、「神の不在」というテーマのみならず、人間関係が生み出す激しい確執・愛憎をも包括していたのは、彼のいきり立つ人生遍歴の所産でもあった。
因みに、ベルイマンの父エリックも、秀作「愛の風景」(ベルイマンの脚本で、「ペレ」のビレ・アウグストが監督)で描かれていたように、身分と育ちが異なる男女の関係をいかに修復し、その落差を乗り越えていくかという根本的テーマを内包する青春期を送っている。
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「愛の風景」より |
貧しい神学校の学生である青年が、裕福な家庭の娘と恋愛関係に踏み込んだものの、周囲の反対と戦っていく青年の頑固な性格が、常に修復し難いネックになっていて、結局、自分の信念を決して曲げようとしない夫に、妻の心が離反していく悲劇を生み出していったのである。
「愛の風景」で描かれた風景は、まさに、様々な意識の落差を乗り越えられない、あまりに頑固なまでの男の精神世界の風景でもあった。
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「愛の風景」より |
その確執と、膨れ上がった厭悪(えんお)の広がり。
父を否定したのだ。
「感情的な強請(ゆす)りは軽蔑する。自分で悟るべきだ。理解してくれ、許してくれというのなら、相手を間違えている。過去は既に解けない、謎の彼方だ。もういじくり回したくない。友だちではいよう。実際的な問題には手を貸すよ。話し相手にもなる。だが、感情的になるのは止めてくれ」
晩年、妻カーリン(ベルイマンの母)と別居していた、父エリックの孤独なる死の床を前に、ベルイマンが語った言葉である。
「日曜日のピュ」の中で、ベルイマンの息子ダニエル・ベルイマンが、父(ベルイマン)と祖父(エリック)との関係の軋(きし)みと、和解への心的行程の一端を描いた峻厳(しゅんげん)なエピソードだが、どこまでも「映画の嘘」の世界に収斂されるだろう。
実際のところ、人間の複合的要素がデリケートに絡み合っているから、誰も分らない。
しかし、憎悪は、その対象と物理的・心理的距離を保持することで、関係を相対化し、和解する。
「日曜日のピュ」で描かれた、父子の関係濃度の深まりと乖離こそ、いきり立つ映画作家ベルイマンの心象風景であったのかも知れない。
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「日曜日のピュ」より「ピュ」という愛称で呼ばれていた8歳の少年イングマール |
それにしても、「人生が絶望的でも、戦うことが人間の義務だ」という言葉は、私にはあまりに重い。
でも、これが正解だとも思う。
とにかく、「今」、「このとき」の辛さを抜けるには、これしかない。
動くしかない。
呼吸を繋いでいくしかない。
「まだ」、「私は」、「ここ」に生きているのだ。
そう、自らに叱咤していこう。
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エヴァ(リヴ・ウルマン)と母シャルロッテ(イングリット・バーグマン) |
2 母娘の愛憎劇を、その裸形の様相の極限まで描き切った室内劇 ―― 「秋のソナタ」
ベルイマンは、「神の不在」というテーマのみならず、「秋のソナタ」に代表される人間関係の愛憎・確執をテーマにする映画も多く、人生経験豊富なこの映画作家の個人史をトレースする作品に結晶されている。
ベルイマンの映像宇宙こそ、私にとって、若き日の自我の確立運動の一助となる一級の表現営為だった。
―― 以下、選りすぐりのベルイマン作品を、拙稿から加筆し、引用した一文である。
まず、私の最も好きな映画、「秋のソナタ」の拙稿を起こしていく。
母娘の愛憎劇を、その裸形の様相を極限まで描き切った演劇的な室内劇は、或る意味で、母に対する娘の心理的復讐劇であると見ることができる。
この復讐劇の象徴的人格像、それは一人の障害者である。
その名は、ヘレーナ。
一歳のときに母に捨てられ、思春期までに脳性麻痺を発病し、それを悪化させたが故に療養所送りになった娘である。
このヘレーナを、エヴァは施設から牧師館に引き取り、手厚い看護を継続させていた。
そのエヴァは、母のシャルロッテを牧師館に招いたのである。
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牧師館を訪ねるシャルロッテの乗用車 |
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エヴァと牧師である夫のヴィクトール(左) |
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エヴァ |
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国際的に著名なピアニストである母シャルロッテが牧師館に到着し、エヴァと歓談 |
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エヴァに弾かせたショパンが母に酷評され、険悪なムードになっていく |
事情を知らないシャルロッテが牧師館を訪れ、エヴァの案内でヘレーナと対面させられたとき、思わず呟いた。
「不意打ちね」
この言葉に包含されたネガティブな感情は、暗流を潜めながら、本作を通底する含意を読みとることができる。
エヴァが母を呼んだのは、ヘレーナと対面させるためであった。
対面させることで、かつて、自分たち姉妹を捨てて駆け落ちした母のインモラルな行為を指弾し、追い詰めたいのである。
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左からヘレーナ、シャルロッテ、エヴァ |
母が捨てたものの現実のスティグマを象徴する、その人格像を当人の前に晒すことで、7年間も会うことをしなかった母に罪責感を負わせ、娘は決定的な心理的復讐を自己完結したかった。
過去からなお延長させている現実のスティグマを、有無を言わさず、エヴァは母に負荷させたいのだ。
その現実を見ることを拒みながらも、「愛を演技して見せる」(エヴァの言葉)母は平静さを装って見せた。
しかし、心理的復讐劇のピークアウトは、その夜にやって来た。
「ママにとって、私は都合のいいお人形。手に負えないときはメードに任せっきり。ママの練習の邪魔をするのは厳禁だった。ピアノの音が止むと、そっと中へ入った。ママは優しかったけど、いつも上の空。気に入られたかった。私は醜い娘。足は大き過ぎ、泣きたいほど不格好だった。ママは言ったわ。“男の子なら良かったのに”そして優しく笑った。傷ついたわよ。そのうち突然、スーツケースが用意され、ママは外国の言葉を誰かと電話。ママは私に近づいて、体に腕を廻し、キスして抱き締めにっこり笑った。心はもう遠くにあり、眼は私を見ていなかった。そして去った。悲しかったわ。死んでしまうかと。パパの膝で泣いたわ。そして日が過ぎた。二人で孤独に耐えた」
「留守にしても責め、家にいても責める。私だって、あの頃は苦しんでいたのよ。背中を痛めて練習できず、仕事はキャンセル続き。人生に絶望していた。家族と離れ離れの生活にも罪悪感が…」
「愛し合う親子だと思い込んでいたから、ママへの憎しみは歪んだ形で現れたわ。悪夢にうなされ、爪を噛み、髪を引き抜いた。泣き喚きたくても、声を出せなかった!叫び声すら上げられない!恐ろしかったわ!正気を失うかと思った」
殆ど絶叫だった。
ここまで言われて、シャルロッテは表情を歪めて、両手で顔面を覆った。
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両手で顔面を覆うシャルロッテ |
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嗚咽が止まらないシャルロッテ |
ヘレーナが自分のベッドから這い出して来た。
「ママ」と叫ぶヘレーナ。
床を這っている。
その夜の、鋭角的に母娘が尖り切った時間が、こうして閉じていった。
母に対する娘の心理的復讐劇がピークアウトに達したとき、疲弊し切った母は、娘に赦しを乞うたのである。-
罵り合い、怒号が飛び、泣き叫び、へとへとになって、もうそれ以上何も言うことがないという辺りに辿り着いてもなお、娘は枯渇し切れない感情の残滓(ざんし)を、今度はくぐもった声で結んでいく。
最後は、母が嗚咽の中で謝罪し、赦しを乞うた。
「私の間違いを許して。やり直したい。どうすればいいか、教えて頂戴。もう、耐えられない。その憎しみに」
その愛憎劇の中枢に竦(すく)む母を謝罪させたことで、封印していた内側の感情を相対的に濾過できた娘は、最後に、母に謝罪含みの手紙を書いた。
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「私、ひどいことをしたわ。闇雲にママを責めて」 |
「私、ひどいことをしたわ。闇雲にママを責めて。昔の恨みで苦しめてしまった。私が悪かったの。どうか、許して。これを読んでくれるかどうかわかりません。もう、手遅れかも。でも今は、今頃になってようやく気付いたの。許しは存在すると。相手を思いやるのは不可能ではないと。互いに支え合い、労わり合えると。二度とママを失いたくない。たとえ手遅れでも、諦めないわ。私は信じているの。まだ、間に合うと」
帰路の列車の中から、自分が訪れた長閑(のどか)な風景を見遣りつつ、ほんの少し前に謝罪を結んだ母が、「愛憎劇の館」から自分を「救出」してくれた知人の前で、ヘレーナに向けたその一言を洩らしたのだ。
「死ねばいいのに」
凄絶(せい ぜつ)な表現である。
しかし、ベルイマンの映像の凄みは、30代後半に、老教授の心象風景を描き切った「野いちご」(1957年製作)がそうであるように、常にこんな尖り切った表現に心理学的な説得力を与えてしまうのだ。
本作でもまた、人間の変わりにくさを抉(えぐ)り出した、その心象風景の凄惨なイメージは、母娘の愛憎劇が容易に軟着陸できないシビアな現実を検証したものになった。
そんな自己中心的な母でも、娘からの謝罪の手紙を読むラストカットでは、涙交じりに裸形の感情を身体化するのだ。
この振舞いは、この女の徹底したエゴイズムの発現であると見ることも可能だが、しかし、一人の人間の内側に、相手の誠実な対応に対して、率直に同化し得る人間性が同居していることの証左であるとも言える。
エゴイズムと感傷や同情、罪責感による自己嫌悪などの感情が、一個の人格の中で棲み分けることができるのだ。
それが、人間であるということだ。
母の涙は決して〈状況〉合わせの演技ではなかったし、それを指弾する娘の憤怒も、決して計画的な心的現象の逢着点であると決め付けられないのである。
濁った感情が噴き上げて、炸裂したときに形成される〈状況〉の中では、予想外のことが往々にして起こり得ると同時に、想像ラインの正反対の現象も出来し得るのだ。
この夜、母娘の愛憎劇のピークアウトの中で作られた〈状況〉もまた、そのイメージに近い何かだったかも知れない。
〈状況〉から一歩引いて客観視すれば、シャルロッテもまた、懊悩を抱える生身の人間だった。
「私は愛情を知らない。優しさも触れ合いもぬくもりも、何一つ。気持ちを表現する手段は音楽だけだった」
これは、エヴァに吐露したシャルロッテの当時の胸の澱(おり)だが、強(あなが)ち嘘ではないだろう。
牧師の妻となったエヴァにも、母の懊悩が理解できない訳がない。
しかし、エヴァの懊悩の深さが、そんな母への包容力ある対応を一貫して拒絶してしまうのである。
元より、この復讐劇の起動点となったエヴァの喪失感。
これが、本作のドロドロの愛憎劇を最後まで支配し切っていた。
彼女は二重の意味で、深いトラウマを負っていたのである。
愛情を求め、それを受容する権利があることを実感し得る、児童期という難しい時期に、彼女は母から捨てられたのである。
自我のルーツである母から捨てられた子供は、「母から捨てられるしかない価値のない娘」という自己像を結んでしまうのだ。
養育者との親密な関係の継続的維持が不可欠であると説いた「アタッチメント理論」(「愛着理論」)で有名な、英国の精神分析学者ジョン・ボウルビィが言う「母性的養育の剥奪」である。
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ジョン・ボウルビィ |
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愛着理論/子供が愛着行動を行う目的は、対象者への親密さを獲得し維持するためである。対象者は通常は親である(ウィキ) |
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乳児の心の発達 アタッチメント |
この自己像が、芸術家である母との対比による劣等感を決定的に植え付けられ、いつしか、「生きていく価値のない子供」というネガティブな自己像を肥大させ、人生に対するポジティブな関わりを回避していく狭隘な生き方を内的に要請してしまうのである。
そして、もう一つの喪失感。
それは、ようやく安定した家庭を築けたと信じられる只中で、愛児を喪ってしまった由々しき現実。
最も可愛い盛りの4歳のエーリックを喪ってからのエヴァの人生は、PTSDに罹患した者に得てして多い、「感覚鈍磨」の感情傾向を際立たせていった。
「エーリックが死んで、私は何もかも白黒の世界に。しかし彼女の感情には、何の変化もなかったんです」
これは、死んだ愛児のスライドを母に見せながら、ヘレーナの部屋に行ったエヴァを視認しつつ、エヴァの夫のヴィクトールがシャルロッテに語った妻の心的風景である。
エヴァの感情傾向を決定付けた、この「感覚鈍磨」の本質は、「もう、これ以上喪失感を味わいたくない」という自我防衛機構が作動したものである。
自らの感覚を鈍磨させる戦略によってしか、彼女は人生を繋げなくなってしまったのだ。
しかし、そんなエヴァが、どうしても感覚を鈍磨させることができないものがあった。
母に対する憎悪である。
「アンビバレント」という言葉が示すように、切望しても手に入れられなかった愛情は憎悪に変わりやすいのだ。
言葉を換えれば、エヴァは、憎悪に変換した感情のエネルギーを保持し得ていたのである。
この感情のエネルギーだけでも、人間は生きていけるのだ。
何より彼女は、この二つの喪失感の責任の一切を、母という人格総体に帰結させ、押しつけていた。
だから、彼女は母に対する心理的復讐を遂行する必要があったのだろう。
少なくとも、それなしに済まない固着化されたモチベーションが、彼女の内側を不必要なまでに支配していたのである。
「自分の人生の全てを奪った母」という憎悪の「物語」によってギリギリに生き、それを自己完結することで、自分の過重な精神的リスクを少しでも払拭したかったのだ。
ヘレーナの存在は、エヴァにとって、エーリックという愛情対象を喪失した代替人格であったと言っていい。
そして、それ以上に、母娘の憎悪劇の象徴的存在として、彼女の中で特定的に位置付けられた人格像であった。
ヘレーナが生きている限り、母への憎悪は希釈化されないのだ。
なぜなら、ヘレーナの病状悪化の原因もまた、母にあるとエヴァは確信しているからだ。
「駆け落ちしたとき、ヘレーナは、まだ一歳。病状が悪化すると、療養所送り」
「自分が傷ついた腹いせに、私を傷つけた。弱い部分を全て痛めつけ、命あるものを全て殺した・・・私だけじゃない‥・ママは自分を愛さない者を絶対に許さず、私に愛を強制した。自分の愛情を口実にして、“あなたとパパとヘレーナを愛してる”と。そして愛を演技して見せる。ママのような人間は害よ。閉じ込めておくべきなのよ」
返す返すも、凄い表現である。
然るに、自我の中枢を空洞化させたエヴァの、「感覚鈍磨」と、「憎悪に変換した感情エネルギー」の保持を並存する自我防衛戦略は、危うさに充ちていると言えるだろう。
母への炸裂によって、一時(いっとき)、憎悪感情が希釈化されたものの、どこまでもヘレーナが生きている限り、母への憎悪は氷解されないのだ。
ヘレーナの存在は、愛情対象の喪失の代替人格であると同時に、母娘の憎悪劇の象徴的存在なのである。
と言うより、エヴァの憎悪が結晶した人格像こそヘレーナであると言っていい。
ヘレーナとは、エヴァの内面の闇を投影した、ネガティブな象徴的人格像なのだ。
だから簡単に、エヴァの全人格的な復元と再生は予約されないのである。
ベルイマンは、そういう映像を構築してしまった。
いつもながら、途轍もなく壮絶な映像だった。
殆ど心理学の世界だった。
人間の愛憎の極相を精緻に抉り出し、それを二人の登場人物の会話のみで描き切ったベルイマンの映像は、ここでも、殆ど、彼なしには創造し得ない芸術作品の域にまで高め上げていったのである。
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イングマール・ベルイマン監督 |
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モニカ(ハリエット・アンデルセン)https://tetsu-eiga.at.webry.info/201002/article_20.html |
3 自我の未成熟な女の変わらなさを描き切った圧倒的な凄み ―― 「不良少女モニカ」
次は、「秋のソナタ」に次いで大好きな「不良少女モニカ」
ヌーベルバーグを特徴付ける「即興演出」や、ストックホルムの海を中枢に据えた「ロケ中心」の技法が随所に見られる本作が、「フランス映画の墓掘り人」となったフランソワ・トリュフォーなど、カイエ・デュ・シネマの連中の高評価を得た逸話はあまりに有名だが、それもまた、ロベルト・ロッセリーニらの仕事と共通する低予算の制約があったからである。
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トリュフォー(1967年・ウィキ) |
それにしても、ストックホルムの夏の陽光を利用した映像の、眩(まばゆ)いばかりの構図の多用は、本作の鮮度を相当程度高める効果があった。
その鮮度こそ、「非日常の日常下」のボート生活を謳歌する、ティーンエイジャーの二人の青春の瑞々しさでもあったと言える。
ハリーとモニカ |
これこそが、映像の隠れた主役かも知れない。
ストックホルムの夏の海は、若い二人の夢の具現であり、パラダイスの限定的スポットだった。
二人だけが占有したパラダイスには、ストックホルムの町の退屈な日常性と切れた世界が、無尽蔵に広がっているのだ。
少なくとも、若い二人はその夏、その幻想が香(かぐわ)しく眩い時間を手に入れていた。
二人はその限定的スポットで「青春」を謳歌し、〈生〉と〈性〉を愉悦したのである。
以下、非日常の日常下のボート生活を謳歌する二人の会話。
「僕はいつも孤独だった。僕が5歳のとき、母が病気になり、僕が8歳のとき死んだんだ。それで親父は少し変になり、無口になった。僕らは毎晩、椅子にじっと座っているだけで、話をしない」
「僕はいつも孤独だった」 |
「私は違うわ。家族がすごく多くて、チビはうるさいし、物は壊すし、パパは酔って外から帰って来て、大声を上げて絡むの。可笑しな人間なの」
「君も僕も同じだ。僕は夜、詰め込み勉強をしようと考えた。勉強を続ければ、エンジニアになれる。僕はエンジンが好きだ。親父のボートのエンジンを直した」
「技師になるなら、私たちは結婚できるわね」
この会話の流れで、モニカは妊娠したことをハリーに告げ、その喜びを、ハリーはこう結んだ。
「僕はすぐにも家に帰り、働いて準備する。君はまともな食事が必要だ」
「僕はすぐにも家に帰り、働いて準備する」 |
根が真面目なハリーの現実的な反応に対するモニカの答えは、現実から乖離した刹那的なものだった。
「嫌よ。私は帰らないわ。この夏はこうしていたいの。ハリー、あんたのように良い人は初めてよ」
「嫌よ。私は帰らないわ」 |
ここで、ハリーは噛んで含めるように話した。
「モニカ。二人で本当の人生を送ろう。僕らは気が合っている。勉強して働けば、うんと稼げて、僕らは結婚できる。そして、洒落た家に住み、物を揃え、僕たちは生まれてくる子と…」
「モニカ。二人で本当の人生を送ろう」 |
当然のことながら、そんなパラダイスにも生活の臭気が張り付いている。
その生活の中心は、いつの時代もそうであったように、〈食〉の継続性という基本的課題である。〈食〉の絶対的供給源が保証されないボート生活での限定的状況下で、恰もそこだけが特化されたかの如き、件(くだん)のパラダイスの矛盾が露呈されたのは、あまりに必然的な事態であった。
〈食〉の問題を契機とした諍(いさか)いが二人の間で出来したのは、どこまでも自己中心的な発想から抜け出せない、モニカの我がままな性格の発現によってである。
〈食〉の問題を「解決」するための二人のコンフリクトは、窃盗行為の是非を巡ってのものだったが、言うまでもなく、「窃盗賛成派」のモニカと、「窃盗反対派」のハリーの対立という構図だった。
「窃盗賛成派」のモニカの行動 1 |
「窃盗賛成派」のモニカの行動 2 |
「窃盗賛成派」のモニカの行動 3 |
結局、「窃盗賛成派」の強行によって、当のモニカは警察沙汰になるリスクを負った。
何とか警察権力の行使の危機から逃亡したモニカだったが、モニカの行動に同調しなかったハリーは、戻って来たモニカと口論する。
「世間」と接続するときの二人の意識の差は歴然としていたのだ。
「楽しい夏だったよ。だが、何もかも終わった」とハリー。
「また町に帰るなんて…映画の夢を追ったのが、私たちの間違いよ」とモニカ。
「いや、僕らの夢だった」とハリー。
ストックホルムに戻った二人は、早速、ハリーの伯母の世話で結婚することになった。
ハリーとモニカの結婚式 |
工場で働くことになったハリーは、本来の真面目な性格を存分に発揮した。
まもなく、モニカは女の子を産み、若い二人の新生活が開かれていく。
女の子を産んだモニカ |
人生を真剣に考えるハリー |
一人で赤ん坊をあやすハリー |
しかしモニカには、母親としての自覚がなく、相変わらず、煙草を吸いながらの日常性を延長させるばかり。
そんなモニカは貧乏生活には堪えられず、再び、以前の不良と付き合い始めたのだ。
「別れるしかない。僕たちはもうダメだ」
「僕たちはもうダメだ」 |
「それとは別だ」
「あなたは自分のことしかしてないわ」
「そうだとも。僕らの暮らしのためだ」
「お金を貯めるばかりで、何一つ買えないわ!」
「君は服を買った」
「着る物がないからよ。お金は借りたのよ」
「この家も追い出される。もう、どうにでもなれだ」
「あんたの不平は、聞き飽きたわ!」
「だが、家賃は工面しなくてはならん!」
顔を埋めて、モニカは嗚咽するばかり。
それでもハリーは、二人の関係を生産的に考えようと努めた。
「二人でよく話し合おう。なぜ、こうなったのか」
「あんたは自分の勉強しかしていないわ。私は若いうちは楽しく暮らしたいのよ」
「勉強は僕らのためなんだ。きっと、何もかも良くなる」
「言い逃れよ」
「君は?僕が働いている間、男を連れ込んで何をしていた?」
「あんたは下劣よ」
「君は恥ずかしくないのか!」
「愛していたのよ…ぶたないで!」
遂に、ハリーの怒りは身体化した。
「変わらぬ女」を繰り返し叩いたのである。
全てが終わった瞬間だった。
結局、モニカはハリーの元を去るに至った。
殆ど予約されたように、「変わらぬ女」の「青春」だけが延長されてしまったのである。
そんな女に置き去りにされた男は、これも予約されたようにモニカと離婚するに至った。
ハリーは、叔母に預かってもらっていた子供を引き取ったのである。
独力で子供を育てるつもりなのだ。
それは、彼本来の性格の延長線上にある選択的意志でもあった。
観る者の心に深く張り付くような、ラストシーンの印象的な構図がそこにあった。
ハリーは今、鏡に写った父子の姿形をじっと眺めながら、モニカと過ごした夏の海を思い出していた。
―― 思うに、どこまでも、「青春」の甘美な幻想の世界にしか棲めないモニカと、「ストックホルムの町の日常性」を生活の本来的基盤と考えるハリーとの価値観の、その致命的差異を修復し得る何ものもなかた。
「ストックホルムの海の非日常性」と、「ストックホルムの町の日常性」の対比。
これが、映像の主題である。
前者が、そこに潜む矛盾によって自壊したとき、二人は、「ストックホルムの町の日常性」に戻って行かざるを得なかったのだ。
初期ベルイマン映像の切れ味の凄みに圧倒される一篇だった。
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「野いちご」より/イサク(右・ヴィクトル・シェストレム)とサーラ |
4 凝縮された時間が抱え込んだ老境の悲愴性と、その軟着点 ―― 「野いちご」
「野いちご」。
これは絶品である。
幾度か、薄っすらと冷たいラインが私の頬を濡らして、激しく胸を打った。
就中(なかんずく)、あのラストシーンの、完璧なまでの構図には息を呑む。
殆ど言葉を失って、繰り返し観ても、私はその余情に絡み付かれてしまうのである。
改めて、重厚な映像が放つテーマの根源的な問題提起に、真摯な省察を対峙させる態度を立ち上げて、私なりのサイズで構えてしまうのだ。
何人も不可避なる、迫りくる死への恐怖に怯える老境の極みを、中枢的なテーマと脈絡しない余分な描写を確信的に削り取ったばかりか、そこに一切の奇麗事の言辞を拒む頑なな作家的精神によって、ここまで深々と描き切った映像があっただろうか。
老医師イサクが悪夢を見たその日、彼にとって最も栄誉ある名誉博士号の授与式が催される日であった。
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イサクhttp://themovieblog.blog.fc2.com/blog-entry-103.html |
50年の長きに及ぶ医学への貢献に対して、彼は生涯二度とないであろう最大の栄誉を受けることになっている。
人によっては、勲章を受けることで舞い上がる類の世俗性と馴染んでいる分だけ、却って余生を元気づける圧倒的な熱源になる者も多いに違いない。
しかし、イサクの場合は少々違っていた。
彼は元来、社交を好まない人物であり、世俗的会話を享受する性格ではなかった。
それどころか、狷介(けんかい)とも思える振る舞いもあり、自ら人間嫌いを任じるタイプの男でもある。
そして、このような感情の禍々(まがまが)しいまでの出来(しゅったい)は、彼がその日の明け方に見た悪夢に淵源するものであった。
人気のない見知らぬ街で、一人彷徨(さまよ)う男の前に、針のない時計が現れたと思ったら、今度はデスマスクの男が出現し、その肩に触れるや、忽ち死体と化す異様な悪夢の流れ着いた先には、自分が遺体となった棺との対面が待っていたのだ。
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針のない時計 |
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イサクの悪夢https://twitter.com/007bmt216a/status/682949053001281536?lang=ca |
男はこのとき、明瞭に、迫り来る死の恐怖を実感してしまったのである。
死を実感した男はもう、飛行機での式典行きを断念するしかなかった。
男の最も深甚な時間を貫流する一日の幕が、まさに、そこから開かれたのである。
普通に生きていれば、かなりの確率で惹起するだろう程度において、同じように私的問題を内包する息子の嫁とのドライブ行。
その最初の休憩スポットで、その森を散策する男は、まるでそこに誘(いざな)われるようにして、愛らしく赤い実をつける野いちごをその視界に捉えてしまった。
男が立ち寄った先は、男が青春期を過ごした森の中の瀟洒(しょうしゃ)な洋館だった。
男がそこで視認したのは、婚約を約束した一人の少女、サーラ。
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「あなたがどんな男か見せてあげるわ。あなたはまもなく死ぬのよ。私はまだ若いわ。気を悪くしたでしょ」とサーラに言われ、鏡を突きつけられるイサク |
野いちごを摘み取るサーラに、イサクの実弟が言い寄っていく場面が、老人イサクの前で開かれたのである。
奔放な振る舞いの目立つ弟は、サーラが兄の婚約者であると分っていながら、確信的に言い寄って、そして確信的に彼女の心を射止めてしまったのだ。
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サーラとイサクの弟https://blog.goo.ne.jp/wangchai/e/ba85251c84223ecd4cadb89919c7b1df |
弟に恋人を奪われたイサクと、本心では弟を愛しながら、兄のイサクへの贖罪感に煩悶するサーラ。
そのとき、イサクの苦々しい追憶の時間が遮断されることになった。
かつての婚約者であったサーラと、その名が同じであるばかりか、顔も似る見知らぬ少女から声をかけられたからである。
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サーラと似る少女に声をかけられるイサク |
イサクの白昼夢。
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イサクの白昼夢 |
功なり名遂げた一人の老人の一つの旅が、自分の一生の時間の中で、その白昼夢を含む幾つかの象徴的な出来事を通して、 節目となった重要なエピソードを凝縮させるほどの重量感を持ったのは、紛れもなく、息子の嫁であるマリアンヌとの物理的共存を経由する中で、そこに有無を言わさず拾うことになった、内面的時間の甚大な影響力であると言っていいだろう。
この白昼夢からイサクが覚醒したとき、彼は傍らのマリアンヌからの告白を受け止める。
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マリアンヌとイサク |
マリアンヌにとっては、恐らく、その告白を吐き出すための同行であったが故に、覚悟を決めた告白の内実は極めて深刻なものであった。
死を想念して止まない彼の長男の内面世界の孤独の様態が、まさに、その両親の冷え冷えとした関係の産物であることが検証されてしまうのだ。
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マリアンヌ(イングリッド・チューリン)と夫エヴァルド |
然るに、このときイサクは、明らかに自己の内的状況を相対化できていた。
辛い回想から生還した男の心に、同様に辛い現在を抱える者がいる。
この認知は、男の自我を相対化させた分だけ楽にさせた。
そして、ラストシーンに直接的に繋がる、旅を同行した若者たちとの爽やか過ぎるほどの別離の描写は、そこに余分な感傷を排した分だけ、清冽(せいれつ)な感動を印象深く湧出させる名場面になったと言っていい。
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非世俗的な男が、3人の若者たちの前で、その防衛的自我の不必要なまでの武装を解く |
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イサクの旅が軟着していくhttp://blog.worksandlabo.com/?eid=1063641 |
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マリアンヌの旅も軟着していくhttps://blog.goo.ne.jp/wangchai/e/ba85251c84223ecd4cadb89919c7b1df |
この別離の描写が、ラストシーンにおいて、「もう、いちごはないわ」と呼びかけるサーラの、「イサク受容」の回想の場面に繋がっていったのである。
「いちご」とは、イサクの若き日の、恋の裂傷を刻印させるイメージ以外ではなかったということだ。
その「いちご」が、その夜の回想の中で消失し たということの意味は、あまりに様々な事態が出来した最も忘れ難き一日の括りを、一種、自己浄化的で、温和なイメージで包み込む表現性を被せたものだった と言えるだろうか。
サーラはイサクの手を引いて、海が見える高みまで連れて行った。
そこから見えるあまりに長閑で、美しい入江の風景は、一幅の絵画そのものであった。
海岸線が曲線状をなす陸地に、穏やかに入り込んでいる完璧な構図の中に、自然に溶け込む存在の眩さを放つかのようにして、静かに釣糸を垂れる父と、その傍で読書に興じる母がいる。
その光景を穏やかな表情で見つめるイサクが、そこにいた。
このラストシーンの完璧な構図は、ベルイマン芸術の相貌性を垣間見せて、鮮烈なまでに感銘深い描写になっていた。
たった一日の出来事の中に、老年期を迎えた一人の男の中で、印象的に凝縮されたかのような人生があった。
決して幸福であったと言えない時間も多く含まれているが、しかし特段に悲愴的で、哀れむべき人生ではなかった。
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名誉の式典を授与されるイサク |
そのような無難で、それなりに自分の自我と折り合いが付けられた一定の括りを、そこに拾うことができたのである。
恐らく、それ以外にないイメージラインのうちにフェードアウトしていった映像の余情は、そ の物語が抱え込んだテーマのシビアな重量感と、なお一定の緊張感を保持しつつも、どこまでも深く、どこまでも清冽であったと言えるだろう。
とりわけ、そこに不必要なまでの社会的背景を徒に挿入することで、却って希薄化された、ある種のドラマの独善性の罠に拉致されなかった点において、本作は蓋(けだ)し秀逸だった。
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ベルイマンとヴィクトル・シェストレム(ウィキ) |
純粋な人間ドラマで突き抜けたベルイマンの辣腕に脱帽する思いである。
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壮絶な疼痛による「叫び」を残して昇天した、次女アグネス(ハリエット・アンデルセン)を受容する召使アンナ |
5 「感情吸収」による「和解」の文脈のリアリズム ―― 「叫びとささやき」
緩やかな晩秋の陽光が斜めに射し込んだ森の風景は、まるで、一幅の絵画を思わせるような自然美を写し撮っていた。その森の一角に、いかにもブルジョアの風格を矜持する大邸宅が建っていた。
舞台は、19世紀末のスウェーデン。
映像がその直後に写し出した大邸宅の空間は、深紅の壁と絨毯(じゅうたん)に囲繞されたけばけばしい彩りによって、人工的な物理感覚を際立たせていた。
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深紅の壁と絨毯に彩られた大邸宅の空間 |
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左から長女カーリン(イングリッド・チューリン)、アンナ、三女マリア(リヴ・ウルマン) |
その邸宅に長く住む一人の女性、アグネスは今、末期の子宮癌に冒されていて、召使のアンナが献身的な介護を続けていた。
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左から長女カーリン(イングリッド・チューリン)、次女アグネス、三女マリア(リヴ・ウルマン) |
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叫びを上げるアグネス |
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次女アグネスの叫びを吸収する召使アンナhttps://ameblo.jp/irusutyuu/entry-12337417291.html |
物語は、その邸宅における非日常と日常が交差し、そこで展開される人間模様を描いたもの。
観る者の魂を打ち抜くようなこの圧倒的な映像に、ただ打ち震えるだけだ。
特定的に切り取られたこの人工空間には、権力、暴力、権謀術数といった激しく身体的な要素が悉(ことごと)く剥(は)ぎ取られていた。
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三女マリアと医師ヨセフソン |
この人工空間の中で扱われているのは、男たちの非日常の世界を削り取ることで露わにされた、人間の「生と死」や「聖と俗」の問題であり、更に、人間心理の様々に厄介だが、しかし、その本質に関わる普遍的な問題である。
それは、人間の〈死〉の問題に身体的(アグネス)、或いは、心理的に近接した者たち、とりわけ女たち(カーリンとマリーア)の心の深層の問題であるだろう。
それらは具体的には、憎悪、軽蔑、虚栄、偽善、欺瞞、葛藤、欲情、惰性、倦怠、冷淡、孤独、不安、恐怖などの問題であり、それらが肉親の死に近接したことによって、じわじわと、時には直接的に表出されてしまうのである。
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長女カーリン(右)と三女マリア |
「叫びもささやきも、かくして沈黙に帰した」
本作のこの最後のメッセージが意味するものは、「沈黙」を破って憎悪を叫びつつ、「和解」のささやきをクロスさせた姉妹の関係も、結局は非日常の人工空間と切れたとき、怠惰を極めた日常に復元するや否や、今までもそうであったような虚栄と偽善、欺瞞に満ちた「沈黙」の時間に収斂されていくのだろう。
人間の変わりにくさを抉(えぐ)り出した映像は、このようによってしか閉じられない人間の性(さが)を拾ってしまったのである。
人間とは、本来そういう生き物なのだ。
どうしようもないが、変えられない日常世界で、せめて今、自らが生きていける分だけの熱量を保持していくしかないのである。
まさしく、映像が構築した非日常の人工空間の中で、クローズアップの多用によって、皮膚に刻んだ皺(しわ)の孔(あな)まで見透かされる女たちの心の深層が容赦なく、しばしば残酷なまでに剔抉(てっけつ)されていったのだ。
そしてまた映像は、死という「沈黙」に帰っていったアグネスの叫びを全人格で受け止め、形見として自らが求めたアグネスの日記を読んだアンナだけが、「沈黙」という名のフラットな日常性に戻ることなく、屋敷を追われた後の新しい人生に旅立っていくという余韻の内に、本作は閉じられていく。
壮絶な疼痛(とうつう)による「叫び」を残して昇天したアグネスは、姉妹の本音を知って嗚咽するばかり。
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左からアグネス、カーリン、アンナ、マリアhttps://ameblo.jp/irusutyuu/entry-12337417291.html |
「あたしに任せてください…一緒にいるわ」
ここでも、アグネスを受容したのはアンナだった。
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アグネスの叫び |
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カーリンとマリア |
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マリア |
詰まるところ、私たちにはアンナの如き聖女性を求める幻想が根強いだろうが、しかし、人間のエゴイズムや恐怖感情の突沸(とっぷつ)の様態が晒される状況下での、姉妹の反応の中にこそ、人間の根源的な有りようが存在することを認知し、窮屈なモラルの視座に呪縛されないその現実を、きっちりと受容しなければならないという把握もまた簡単に捨てられないのだ。
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召使アンナ |
あまりに無防備な観念の氾濫の延長上に、「復活幻想」に流れゆく私たち人間の怖さ、自我の脆弱性への認知も捨ててはならないのである。
「復活」を受容するそのアンナにしても、3歳で死亡した愛児の記憶に苛まれ、祈りを捧げる日々を重ねてきているのだ。
彼女のこの思いが、アグネスへの深い憐憫の感情を支え切っているとも言えるだろう。
経験の重量感が、それを内側に抱える者の信仰をより強化するのである。
映像が拾い上げた内的風景の中枢で騒いでいたものは、深紅で彩られた非日常の人工空間の只中に、無防備な軽装性を露わにしたまま、自らが拒絶して止まない日常性を持ち込んだ姉妹の内面世界であった。
クローズアップで肉薄するベルイマンの映像は、彼女たちの生身の身体が吐瀉する「叫びとささやき」の、その狂おしいまでの現実を抉(えぐ)り出し、観る者に容赦なく晒して見せたのだ。
観る者の魂を震撼させるほどの映像が、私に与えた基幹的メッセージは、それ例外ではなかった。
アグネスの痛々しい絶叫の破壊力をも稀釈化させるほどの、姉妹の「叫びとささやき」の爛れたリアリティの圧倒的な凄み。
その辺りの描写の内に、非日常と近接する私たちの日常の際(きわ)で、ごく普通に捨てられている人生の現実が横臥(おうが)するということだ。
それが、私の本作の基本的把握である。
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テーレ(左・マックス・フォン・シドー) |
6 「大罪」を背負い切れない者が最後に縋りつくもの ―― 「処女の泉」
独りよがりの観念論を声高に叫んだり、或いは、不毛な神学論争に決して流れたりすることなく、人間の心の奥にあるものを容赦なく暴き立て、キリスト教的で言う、神の主権への背反を意味する、所謂、「原罪」概念に集合する衝迫(しょうはく)で、「邪悪」なる感情世界の破壊的暴力性を、ここまで描き切った映像の鮮烈な表現力に、私はただ震え慄(おのの)くだけである。
無辜(むこ)の罪で殺害される幼気(いたいけ)な少年の凄惨なエピソードに象徴されるように、本作は人間ドラマとしても秀逸なのだ。
また本作には、カトリック信仰の中で言われる「七つの大罪」が全て包含されていて、それぞれの人物が、それぞれの「大罪」を背負って、その「大罪」による「罰」への認知から逃避できない薄皮一枚の危うい心理を、自分の力で支配し切れない運命に流されていく物語の陰惨さは、殆ど類例がないほど抜きん出ていた。
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「七つの大罪」 |
その簡潔な物語は、数行で説明できるだろう。
舞台は、近世を間近にした中世のスウェーデン。
母親のメレータの熱心な督促もあって、信仰深い豪農の娘カーリンが、ローソクの寄進に向かわせる教会への旅程で、親のいない山羊飼いの兄弟たちに凌辱された挙句、撲殺され、その娘の父であるテーレが復讐するというだけの話である。
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テーレとカーリン |
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カーリンの悲劇の起点 |
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復讐が開かれる |
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復讐を遂行したテーレ |
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メレータは殺された少年を胸に抱https://tetsu-eiga.at.webry.info/201503/article_5.htmlく |
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贖罪のために、教会を建てることを神に誓うhttps://tetsu-eiga.at.webry.info/201503/article_5.html |
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カリンをわが連れ帰ろうと抱き起こす両親https://tetsu-eiga.at.webry.info/201503/article_5.html |
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カリンが横たわっていた地から泉が沸き出すhttps://tetsu-eiga.at.webry.info/201503/article_5.html |
ただ映像の最後に、娘の両親が、その亡骸を抱き上げた場所に泉が湧いてくるという、そこだけは、ベルイマン信者による熱心な論議を呼びそうなラストシーンが用意されていた。
深い森の藪の中の悲劇を描いた「羅生門」の模倣ともとれる本作が、「羅生門」と別れるのは、ヒューマニズムを基調とした黒澤の映像世界と異なって、ここでは、明瞭に「キリスト教」という、一神教の在り処を巡る形而上学的なテーマが基調となっているという点にある。
異教徒のインゲリの先導によって、娘の遺体の場所に辿り着いたメレータは、カーリンの亡骸を抱き締めて、いつまでも号泣していた。
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インゲリ(左)とカーリン |
そして、二人から離れたテーレは、大地に平伏(ひれふ)した後、本作の掉尾(とうび)を飾る決定的な言葉を結んだのである。
「神よ、なぜです。見ておられたはずだ。罪なき子の死と、私の復讐を。だが、黙っておられた。なぜなのです。私には分らない。だが、私は赦しを乞います。でないと、私の行いに耐えられない。生きていけない。ここに誓います。我が子の亡骸の上に、神を称える教会を建てます。罪を償うために、必ず建てます。私のこの手で・・・」
ラストシーン。
両親が娘の亡骸を持ち上げたところから、泉が湧いてきて、異教徒であるインゲリが、その聖水で顔を拭う描写を挿入することで、テーマ性の言及が完結するに至ったのである。
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聖水で顔を拭うインゲリ |
しかし、この鮮烈な映像を、このようにも把握できるだろう。
無辜(むこ)の少年を殺害するに至ったテーレが犯した罪が、安易な贖罪によって神の赦しを得るという一連の行為を拒絶する含意を持つ映像であったと見ることも可能である。
ある意味で、「贖罪の拒絶」こそ、「神の沈黙」に向き合い、対峙する作品をは発表し続けて来たベルイマンの真骨頂と言えるからだ。
「我が子の亡骸の上に、神を称える教会を建てます」と誓った男が、神の恩寵を目の当たりにしたという幻想を信じるレベルの精神構造を持つ男の未来には、恐らく、悠久の平和など訪れないであろう。
ベルイマンは、そこまでの含みをラストシーンに持たせたか否か不分明だが、少なくとも、私はそのように読解した次第である。
そうでなければ、「神の安売り」を許容する文化の欺瞞性こそが問われてしまうのだ。
そういう映画ではなかったのか。
「過剰なる復讐の爆発」を許容する宗教の有難さを認知する、突き抜けて厄介な精神的風土に身ぐるみ搦(から)め捕られた状態で、イングマール・ベルイマンという類稀(たぐいまれ)な映画作家が〈神〉との内面的闘争を継続させてきた訳がないからだ。
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牧師トマス(グンナール・ビョルンストランド)と女教師マルタ(イングリッド・チューリン) |
7 「物語」に縋って生きる「職業的牧師」の欺瞞と孤独 ―― 「冬の光」
本作の主題は、拠って立つ自我の安寧の基盤である物語に亀裂が入ってもなお、その「物語」に縋って生きていかねばならない男の欺瞞と孤独である。
「物語」とは、キリスト教への深い信仰の念である。
本作の主人公は、スウェーデンの寒村の教会の牧師。
その名はトマス。
「どうか私を棄てないで」
これは、トマスを真剣に愛する小学校教諭のマルタの訴え。
その愛を受容できない牧師。
トマスは今、最も酷薄な言辞をマルタに吐き出す。
「結婚しないのは、牧師の体面のためだ。しかし正直に言うと、君を求めていないんだ」
牧師とは言え、自分の愛を求める他者を、全人格的に愛する能力を持ち得ない。
当然過ぎることだ。
牧師は「神のメッセンジャー」である前に、一個の人間である以外にない、そんな存在を生きる何者かなのだ。
「愚かな日常から脱出したい。飽きたんだ。君の全てに。君に言わなかったのは、思いやりだ。大事に扱うべき生き物だ。妻が死んで、全く人生に関心がなくなった」
そこまで言い放つ男を諦め切れない女は、トマスの外出に随伴し、その帰りにフロストネス教会に立ち寄った。
そこで用務員をしている、脊柱側湾症(せむし)という疾病を持つ男の相談を受けるためでもあった。
脊柱側湾症の男の相談の内実は、本篇での由々しき問題提起とも言えるものだった。
「キリストが受難で肉体的に苦しんだとは思えないのです。主の苦痛は短い。4時間ほどでしょう。キリストが味わったのは、むしろ心の苦しみです。ゲッセマネの園で、弟子は眠ってしまった。連中は最後の晩餐の意味すら分っていないのです。兵士が来ると弟子は逃げ、主を拒みました。キリストは3年も弟子と暮らし、教えを続けたのに、弟子はまるで理解せず、主を捨てたのです。主は一人きりに。誰も主の苦しみを理解しませんでした。見捨ててしまったのです。大きな苦しみです。それだけじゃない。主は十字架に架けられ、苦しみのあまり叫びました。“我が神、なぜ、私を見捨てるのですか”。大声で、そう叫んだ。父に見捨てられたと思い、教えを疑ったのです。死ぬ直前に恐ろしい疑いを抱きました。それが最大の苦しみでしょう。神の沈黙という苦しみ…」
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「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(わが神、なぜ、私を見捨てるのですか)/アンドレア・マンテーニアの「キリスト磔刑図」より |
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『死せるキリスト』アンドレア・マンテーニャ(ウィキ) |
この「イエスの孤独の叫び」こそ、「神の沈黙」という名の、由々しき問題の根柢に横臥(おうが)しているものだ。
神は沈黙しているのではない。
存在していないのだ、という把握である。
そして、極め付けのラストシーン。
ミサの参会者がいない閑散としたフロストネス教会で、淡々とセレモニーを続けるトマス。
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トマス牧師 |
ファーストシーンとラストシーンの円環的構成によって、この欺瞞的牧師の変わりにくさが検証されたのである。
イエスの生身の人格に宿る苦悩に肉薄しないトマスの欺瞞こそ、ベルイマンが指弾したい何かであったと思われる。
同時に、トマスの孤独は、欺瞞を認知する自己の存在性への疑問に由来すると言えるだろう。
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「職業的牧師」の欺瞞と孤独 1 |
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「職業的牧師」の欺瞞と孤独 2/「堕落した牧師」を強調する相手の心を見透かした漁師ヨナス(マックス・フォン・シドー)は、「帰ります」と一言残して、去って行った |
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「職業的牧師」の欺瞞と孤独 3 |
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「職業的牧師」の欺瞞と孤独 4 |
その意味で言えば、「イエスの孤独の叫び」に収斂される問題は、脊柱側湾症の男の問いに肯くトマスの懊悩に重なるものではないだろう。
本作の主人公の牧師に対するベルイマンの視線には、相当程度厳しいものがあるからだ。
それは恐らく、ビレ・アウグスト監督の「愛の風景」(1992年製作)や、ダニエル・ベルイマン監督(ベルイマンの息子)の「日曜日のピュ」(1994年製作)の中でシビアに描かれていたように、ベルイマンの父であるエーリックと重なるものがある。
牧師=エーリックではないが、ベルイマンにとって一貫して、思想的にも、その生き方においても対立してきた、彼の父の拠って立つ精神世界への深い疑義が、本作に投影されていると見ることが可能である。
なぜなら、この直後の映像に、閑散としたフロストネス教会のオルガン奏者による厳しい指摘があるのだ。
それは、マルタに放たれたものだった。
「彼は亡妻が目当てだった。彼女だけしか目に入らなくなった。彼はこう言った。“神は愛、愛は神だ。愛は神が存在する証である。愛は人間世界の現実だ”くだらん。もう聞き飽きたよ。村を出ろ」
トマスの信仰の根柢を撃ち砕くオルガン奏者の指摘は、本作の主人公の牧師に対する痛罵と言っていい。
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イエス・ゴルゴダの丘 |
「イエスの孤独の叫び」こそ、「神の非在」に震えるイエスの孤独の極点であった。
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エリザベート(リヴ・ウルマン/右)とアルマ(ビビ・アンデルソン) |
8 映画作家の煩悶が集中的に外化し、模索する稀有なアーティストの映画論 ―― 「仮面ペルソナ」
これは、ベルイマン監督の映画論である。
そのことは、当初、本作に「映画」というタイトルをつけようとした事実によっても判然とする。
更にそれは、映写機が起動するフィルムから開かれる冒頭のシーンが、映写機のフィルムが燃え尽きていくショットで閉じていくシーンの挿入によって、より鮮明になるだろう。
だから本作は、「私たちが映画を見ていることを意識させる映画」(「ベルイマン」小松弘著 清水書院刊より)なのである。
ここで、冒頭のシーンを再現してみたい。
甲高くて、こめかみに響く金属音のような不快なBGMが誘導する映像が提示するのは、異常なカットの連射だった。
剥(む)き出しのペニス、蜘蛛、鳥の内臓、眼、羊の解体、釘で打ちつけられる手、今にも死にそうな老婆の顔と、遺体と思わせる少年が目覚ましの音で起き上がる姿、そして、その少年がスクリーンに大きく映し出された女性の顔を、右手でまさぐっている。
この間、オープニング・タイトルが提示されるが、ベトナムの焼身僧や女の顔が映像に挿入される。
そして最後に、少年がまさぐって映し出された女性の顔が、少年の母であるエリザベートである事実を提示する。
この事実は、物語の中で明らかにされる、エリザベートの記憶・妄想の総体である。
焼身自殺するベトナムの僧侶や、少年が手を挙げる「ユダヤ人移送」の例の有名な写真に象徴されるように、エリザベートはテレビ画面に映されたネガティブな映像を見て、恐怖に怯(おび)えているのだ。
この極めつけの構図は、「舞台監督=芸術家=映画作家」としてのベルイマン監督の内面世界の反映である。
「舞台監督=芸術家=映画作家」としてのベルイマンが、自分の内面世界の葛藤を的確に表現する文化フィールドこそ、オリジナリティ溢れる独特の映像世界以外ではない。
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『イングマール・ベルイマン監督作品の音楽』 ローランド・ペンティネン、トゥールレイフ・テデーエン、ステンハンマル四重奏団 |
その内面世界の葛藤が、「映画」というタイトルをつけようとした、この狂おしくも悩ましい〈映像〉のうちに表現されていく。
そこで表現されたプロットの内実は、狭義に言えば、「失語症」にまで至ったトラウマを、エリザベートの真摯な「内的会話」によって克服していく物語であるが、私は本作を、もっと広義な解釈で読み取りたい。
その意味で、「人間の外的側面=ペルソナ」という、ユング心理学の概念と無縁でないが、「アニマ」(男性の中の女性像)・「アニムス」(女性の中の男性像)という著名な概念とは、特段の関連性を持ち得ない。
思うに、「舞台監督=芸術家=映画作家」というベルイマン監督が、社会的ポジションから離れた私的な日常性の渦中に侵入する、社会や世界のネガティブな現実に付き合わされる時間を累加させていくと、どうしてもそこに、ごく「普通の社会人」としての無力感を感受せざるを得なくなるだろう。
この不快な現実の様態を、自分の中で浄化し得る手段として、映画作家は、その本来の芸術家としての相貌性に仮託させ、そのイメージの総体を、映画の嘘の「物語」である事実を認知しつつ、全人格的に表現し切っていく。
この映画では、ベルイマン監督に内在する二つの相貌性、即ち、「芸術家=映画作家としての表の顔」と「社会人としての裸形の人格」を分裂させ、葛藤し、融合しつつ、本来の芸術家としての姿に立ち返っていく自己像を、監督自身の映画論として表現したものと考える。
「映画作家」を排除した、「芸術家としての表の顔」はエリザベートに自己投入し、「社会人としての裸形の人格」はアルマに自己投入させるのである。
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エリザベート(左)とアルマ |
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エリザベート(右)とアルマ |
だから、エリザベートもアルマも、ベルイマン監督に内在する二つの相貌性が分裂的に表現された人格である。
映像表現に行き詰まって、ユング心理学に依拠し、大傑作「81/2」(1963年製作)で表現したフェデリコ・フェリーニのように、「神の沈黙」三部作を撮り終えたベルイマンもまた、最後まで、正確な原因が特定されない「失語症」になったエリザベートのうちに、映画作家としての煩悶を集中的に外化し、模索しているのだ。
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一代の大傑作「81/2」より |
それ故、本作が「映画」であることを敢えて見せるばかりか、「映画」とは何か、自分が創るべき「映画」とは何かという根源的課題を、突き詰めていくように思えてならないのである。
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騎士アントニウス(マックス・フォン・シドー/右)と死神 |
9 虚無の地獄に喰い尽くされた者たちの、その終息点の風景の痛ましさ ―― 「第七の封印」
イングマール・ベルイマン監督の一代の傑作であるこの映画を、私は以下の3点のうちに要約したいと考えている。
1 拠って立つ観念系が穿(うが)たれた者の崩壊現象
2 統治能力を超えた人間が、想像を絶する恐怖を感じた時の「防衛的自己呈示」
3 曇りなき心で見る者の迷いのなさ
まず、1について。
「神の存在」への問いかけであることは自明だが、このテーマでの初作品の狙いが、生に対する肯定的姿勢をもって、牧師の実父の欺瞞性への反発にあると私は見ている。
この反発が、自己像の積極的な呈示として表現された作品であるが故に、極めて凄惨で鮮烈な映像に結ばれていた。
これは、ベルイマンの息子・ダニエル・ベルイマン監督の「日曜日のピュ」(1994年製作/ベルイマンが脚本)という映画を観れば判然とするだろう。
確信的であったはずの自分の人生を悔い、赦しを求めてさえいる重い病床にあるイングマールの父に対峙して、先述したように、ベルイマンはこう言い切ったのだ。
「感情的な強請(ゆす)りは軽蔑する。自分で悟るべきだ。理解してくれ、許してくれというのなら、相手を間違えている。過去は既に解けない謎の彼方だ。もう、いじくり回したくない。友だちではいよう。実際的な問題には手を貸すよ。話し相手にもなる。だが、感情的になるのは止めてくれ」
「映画の嘘」という印象を拭い切れないが、ベルイマンと牧師の実父との確執が、ベルイマン自身の生き方の総体を懸けた深刻なものであったことが、ひしひしと伝わってくる一文である。
無論、アントニウス=ベルイマンではないものの、アントニウスの煩悶は、ベルイマンの父の煩悶を印象づけて、切っ先鋭く、観る者に突き付けてくるのだ。
「でも、いつかは死の淵に立つ。我々は恐怖を偶像化し、それを神と呼ぶのです」
死を宣告する死神に対して、アントニウスがチェスでの対決を申し入れたのは、彼自身が拠って立つ、生まれついての観念系(信仰心)が穿(うが)たれた経験によって、深刻な崩壊現象からの再構築の可能性の有無を確認し、それを切実に希求したからである。
だから、火焙りの刑に遭う女に、「悪魔と会ったのか?」と問いかけるのだが、「あの娘は気づいたんだ。虚無しかないことに」と言い切ったヨンスの言葉に、アントニウスは「違う!」と叫ぶだけだった。
「鏡を覗き込めば、映るのは、その虚無感です。今や、己の幻想の中に生きる囚われ人です。死にたいです」
この懺悔室でのアントニウスの告白が、彼の内面世界の本質を代弁しているのだ。
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教会に入り、懺悔室で神父(実は「死神」)に告白するアントニウス |
虚無しかない現実を突きつけられたアントニウスの、その中枢の崩壊現象が極まった時、死神から得た彼のモラトリアムは終焉するに至る。
今や、彼にとって残された選択肢が、旅芸人一家を救済する行為に結ばれるのは必至だった。
「私は最後に一つ、意義ある行いをしたい」と言う、懺悔室での彼の告白は嘘ではなかったのである。
拠って立つ観念系に支えられた、生まれついての人生観・宗教観の再構築は、あまりに困難であるとしか言いようがないのだ。
思えば、一切の手立てが封じられ、「死の舞踏」に誘導されていったのは、虚無の地獄から逃れ得ない心境に捕捉された者たちだった。
アントニウスらを十字軍に参加させた神学者・ラヴァルに、暴力的復讐を加えたヨンスには、火焙りの刑にされる女の虚無の地獄が理解できていた。
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アントニウスとヨンス(グンナール・ビエンストランド) |
神の名の下に行なわれた十字軍のトラウマが、ヨンスの人生観・宗教観をも喰い尽くしてしまったのである。
ヨンスに助けられた娘が、「終わりなのですね」という言葉を残したのも、神学者が黒死病で逝った者から盗みを働くほど、人の心が荒廃する現実を見て、未来を切り開く意欲など、とうに削り取られてしまっていたのだろう。
鍛冶屋夫妻は心身ともに疲弊し切っていて、熱量の自給も儘(まま)ならないようだった。
そして、「小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった」という有名な言い回しから開かれ(「神のラッパ」)、世界の終末をイメージする、「ヨハネの黙示録第8章」を読み続けるアントニウスの妻もまた、黒死病(ペスト)の蔓延と、神に救いを求めても手に入れられない民衆の惑乱する姿に接したのか、信仰心を失っているように見える。
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ヨハネの黙示録のラッパ吹き/ラッパを与えられた神の御遣い(小羊)。 小羊(最も小さな者)が解く七つの封印の内、最後の七つ目の封印が解かれた時に現れる(ウィキ) |
まさに、虚無の地獄に喰い尽くされた者たちの、その終息点の風景の痛ましさを感受させられるラストシーンだった。
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中央がアントニウスの妻、左が鍛冶屋夫妻 |
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「死の舞踏」 |
3について言えば、簡単に把握できるだろう。
アントニウスの中枢の崩壊現象と、構造的に対極を成していることが明らかであるからだ。
信仰心の厚さの有無とは無縁に、曇りなき心で見るヨフの迷いのなさが、自らに降りかかってくる危険を鋭敏に察知する能力を保持し得ていたのである。
一言で言えば、この映画は、虚無と無縁な旅芸人一家だけが、「ヨハネの黙示録」に記された「ハルマゲドン」の恐怖への誘導に、丸ごと喰い尽くされなかったという物語だったのだ。
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アントニウスと旅芸人一家の妻・ミア |
先の「ベルイマン」の著者・小松弘によれば、旅芸人のリアリストのミア=聖母マリア、その夫のヨフ=神の意思を知る予言者、即ち、母・マリアとイエスの姿を見る啓示能力を持つ予言者で、幼児・ミカエル=イエスというメタファーが内包されていると読んでいるが、当然の如く、こういう解釈もあっていい。
そして同時に、旅芸人=芸術家であるが故に、芸術だけが世界を救うというメッセージであり、ヨフに芸術家・イングマール・ベルイマンの自己像を重ねていると言うのである。
最後に、2について言及したい。
統治能力を超えた人間が、想像を絶する恐怖を感じた時の「防衛的自己呈示」。
これが、私の問題意識のコアにある。
「我々は黒死病に消し去られるのだ」という映画の中の台詞に象徴されるように、「邪教」に感染した人々の「死の舞踏」をイメージさせるシーンが出てくる。
恐怖が広がりを持つことによって、ペストなどの不治の病の特定の対象から、いつしか、「神の天罰」という妄想を生み、本来、そこに心を浄化させ、信仰の対象としての神を怖れる感情を過剰に作り出してしまうのである。
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ペストによって死屍累々となった街を描いたヨーロッパの絵画(ウィキ) |
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ミヒャエル・ヴォルゲムート 『死の舞踏』(ウィキ) |
集団ヒステリーであるこのシーンは、まさに、自分たちの力で何も為し得ない絶望的な状況下で、その恐怖感の塊が、一見、解放的な形で身体化された現象なのだ。
十字架を抱え、自らを鞭打ちながら、ラインを成して進む民衆たちの歌や踊りは、恐怖が駆り立てた、「これ以上、苦しめないでくれ」という、彼らにとって、それ以外にない「防衛的自己呈示」である。
即ち、信仰の対象としての神に「弁解」し、「謝罪」する行為を繋ぐことで、死の恐怖からの束の間の解放感を得る「防衛的自己呈示」なのである。
死の恐怖から逃れられない極限的な不安感情が、脆弱なる人間を、このような行動に駆り立てるのだ。
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『死の勝利』ピーテル・ブリューゲル(ウィキ) |
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『死の勝利』ヤン・ブリューゲル(ウィキ) |
惟(おもん)みれば、人間が前頭葉を持つことによって、豊かな想像力を獲得した。
逞しくし過ぎた想像力は、快感の対象と共に、恐怖の対象を広げていく機能を果たしていく。
これは、扁桃体によって無意識のうちに条件づけられた防衛的反射行動である。
人類が生き延びるための環境への適応プログラムとして発達した感情の本質が、時として、継続的に恐怖の情動刺激に晒されることで、過敏に反応してしまう恐怖を発症する現象に下降していくのである。
以上が、本作に対する私流の解釈である。
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セシリア(イングリッド・チューリン/左)とヨルディス(ビビ・アンデルソン) |
10 凛として、新しい人生を切り開く希望に繋がって ―― 「女はそれを待っている」
産科院という、特殊でありながらも、人間の営為の最も根源的な問題を包括する、非日常の限定空間での、「産む」ことの尊厳性と本質に迫る、ベルイマン的な厳しいヒューマニズムの一篇。
そんな非日常の限定空間であればこそ、そこに入院を余儀なくされた女性には、もう、日常的な臭気への妥協や遠慮が希釈化されて、それぞれの固有の事情を抱えた自我が本来の裸形の様態を曝(さら)け出し、社会的制約を突き抜ける会話が随所に拾われたのである。
無機質のドアの向こうと、此方(こちら)の空間を明確に仕切る世界の内側に、非日常であるが故に裸形の感情を露わにするリアルな人生が記述されるのだ。
その無機質のドアによって仕切られた産科院の一室に、3人の女がそれぞれの事情を抱えて、まさに「産む」ことの尊厳性と本質を抉(えぐ)る会話を繰り広げていた。
その一人。妊娠三カ月の身で流産を余儀なくされた教授夫人、セシーリア。
「最初から異常が…作ったのが間違いね。あの子は望まれない子だった。父親に望まれず、母親は子供を愛するだけの強さがない。だから産まれずに、下水に流されてしまった。私が弱かったせいよ。愛が足りなかったのよ。私には以前から分っていた。私は失格者なのよ。妻としても、母としても。今、それがよく分ったわ」
母体安全の故の流産の事実を知らされて、内側で封印されていた思いの丈を、産科院のナースであるブリタに、嗚咽しながら吐き出す女セシーリア。
時々、高熱に冒されるセシーリアを世話するスティーナの天真爛漫な明るさは、まもなく産まれてくる愛児誕生の歓喜の前のパフォーマンスと切れたものだった。
このスティーナが、二人目の入院患者。
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ヨルディスとスティーナ(右) |
件(くだん)のスティーナもまた、難産を経験してきて、今度ばかりは待望の愛児との対面が叶う喜びに充ちていた。
「お腹の中で食べて、眠っている子。やっとスリムな体に戻れるわ!お前のために」
胎児に語りかけ、限定空間の室内を燥(はしゃ)ぐように、所狭しと踊っているのだ。
陣痛促進のため、ヒマシ油を飲んたことで、そんな彼女の心に死産への不安が走るが、心優しきブリタに励まされ、すぐに元気回復。
まもなく、スティーナの夫が見舞いにやって来た。
「眠れなくて、戸棚に揃えてある小さなシャツやズボンを眺めた。その後は、ぐっすり眠れたよ」
「あなたも、私に負けない親馬鹿ね」
相思相愛の夫婦のこの会話の中に、愛児待望の強い思いが充分に凝縮されていた。
そして、スティーナに陣痛がが始まった。
かつてなく身悶えするスティーナの喘(あえ)ぎが、夜間の産科院の限定空間を切り裂いた。
スティーナが陣痛で苦しんでいる間の、セシーリアとヨルディスの会話。
幼い振る舞いが目立つヨルディスとは、三人目の入院患者だが、他の二人と事情が異なっていた。
厳しい母との同居に耐えられず、無責任な男と故郷を捨てた家出娘のヨルディスには、今や頼るべき男からも見放されていて、その男に孕まされた子の堕胎を願って入院して来たのだ。
さすがに、分娩のシビアな現実に立ち会って、ヨルディスの表情から幼児性が消えていた。
「タバコの味がしない。憎らしい子供のせいね」とヨルディス。
「“憎らしい”なんて子供に罪はないわ」とセシーリア。
「そうね。悪いのは私」
嗚咽するヨルディス。
「夜、眠れないで考えていると、自分に腹が立ってくる。何もかも悪い方へ向いて…それが私にのしかかってくる。もし状況が違っていたら、私だって、こんな風には…」
「“状況が違っていたら”ってどういうこと?」
「私を愛してくれている人がいて、結婚できたら…家があって、家庭を築けたら…私だって妊娠を喜ぶわ。でも、私なりに昔は子供好きだったのよ」
「昔って?」
「両親と一緒に暮らすのが窮屈になって、飛び出したの」
「御両親に相談したら?」
「ママは許してくれないわ。私が家を出るときも、こういうことを恐れていたわ。“子供なんか連れて戻るんじゃないよ!”」
「母親は皆、そう言うわ。でも、娘は可愛いはずよ」
「ウチは違うわ。ウチのママは強くて、厳しいの…」
「赤ん坊の父親は?」
この問いに、ヨルディスは、彼女なりに考えた思いを曝け出していく。
「あんな男なんか…前にも一度、中絶させられたのよ。私は何も分らず、彼の言うなりになって堕ろしたの。でも、もう二度と御免よ!溺れ死ぬ方がマシだわ…今はお腹の中で塊になって、私の血を吸っているわ。でも、あなたの言った通り、子供に罪はない…子供が“産んでくれ”と頼んだ訳じゃない。私はこの子より幸せよ。ちゃんと父親がいたもん。この子は尋ねるわ。“なぜ、僕を産んだの?”と。やはり産まれない方がいいのよ」
真剣に耳を傾けていたセシーリアは、ヨルディスの封印された思いを包み込んでいく。
「お母さんとちゃんと話をするのよ。きっと分って下さるわ。お母さんだって、一度は若かったのよ」
大人であるセシーリアの反応は、まもなく、ヨルディスへの援護射撃になっていったのである。
限定空間での3人の女たちの、切実な振舞いと会話によって成ることで、余分な描写を削り取った90分にも満たない映像世界のインパクトは、妊娠女性の10%以上が流産するというハイリスクを抱えるシビアな現実から逃れられない、「産む」ことの尊厳性と本質に迫る鮮烈な問題提起の一篇でもあった。
そこで結論付けられているのは、結局、「愛情」の強力な支えなしに「産む」ことの尊厳性が保障されないという、極めて常識的な文脈であったが、人間の内面描写の凄みを見せるベルイマンにかかると説得力を持ってしまうのである。
「怖いわ。命が全て。死に絶えたみたい。もう、何も産まれないみたい」
これは、難産の激しい苦しみの中で、またしても死産した現実を受容できず、その明るい性格の欠片(かけら)すら奪われて、「自死」を願っているかのような態度を見せるスティーナを正視できないで、セシーリアの懐に飛び込むヨルディスの言葉。
ヨルディスは、そんな二人を間近に見て、自分の心の動揺を抑え切れず、嗚咽の中で、その思いの丈をセシーリアに吐露していた。
一見、野放図に振る舞う印象を与えるヨルディスだが、彼女もまた、幸福な家庭を築きたいという普通の願望を持ち、それを満たすに足る最適なパートナーとの、穏やかな睦みを感受したいのだ。
その複雑で屈折した感情が、本作のラストシーンに繋がっていく。
ヨルディスは心優しき婦長に頼み、母に電話する金銭を借りた。
「ママと電話している間、手を握らせて」
そんな甘えを見せつつも、彼女にとっては、少なくとも、何事につけても厳しい母親の理解を得たいのである。
「ママ、ヨルディスよ。私も具合が悪くて入院してたの。もう元気よ。ママ、子供が産まれるの。それで病院へ…始末しようと思ったけど・・・ママ、父親はいないけど、私は産みたいの」
ここまで本音を開くヨルディスに対して、電話の向こうの母は好反応を見せた。
「“いいから、早く帰っておいで”と。あの厳しいママが…」
ヨルディスの表情から、心からの歓喜の思いが噴き上げていた。
ラストシーン。
セシーリアとの別れを告げたヨルディスが、スティーナを案じつつ、退院していく。
無論、その行き先は母の元だった。
それは、2度の中絶の絶望感にまで追い詰められていた一人の若い女が、生まれて初めて「産む」ことの尊厳に目覚め、凛として、新しい人生を切り開く希望に繋がった瞬間だった。
要するに、本作は、「産む」という人間の根源的問題に対して、第一義的に拒否する感情を持たない3人の女たちが、その人為的、且つ、運命的な事態を受容しつつ、自分の人生の時間を、扉の向こうの日常性の世界に繋いでいこうとする心理を精緻に描き切った傑作である。
ほぼ、完璧過ぎる映画であった。
さすがに、ベルイマンの映像世界の求心力は絶大だった。
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聖マリアクリニック本院の分娩室(イメージ画像) |
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産科ホームページ 分娩室での様子/北里大学メディカルセンター産科(イメージ画像) |
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「大変なお産から、思い出のお産へ」/みちおかレディースクリニック |
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会陰切開(えいんせっかい)/分娩時に会陰裂傷を予防する目的に会陰部に切開を加える分娩介助方法の一つ |
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出産の大変さ/出産の際に、夫に立ち会ってほしいと思ったか聞いたところ「はい」は66.5% |
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新生児集中治療室(NICU) |
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赤ちゃん誕生 |
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不育症 |
【ベルイマン作品の常連だったスウェーデンの名優マックス・フォン・シドーが、2020年3月8日に逝去した。享年90。この名優の作品の中で、私が最も好きなのは、ビレ・アウグスト監督の「ペレ」(デンマーク映画)である。あまりの感動で、観ていて身震いしたほど。「僕は世界に出て行く」と言い切って、伴侶を得た老父と別れ、自立する少年ペレのラストシーンは忘れられない。そして、「(デンマークに行けば)パンにバターを塗って食べられるぞ」と言って、幼い息子ペレを連れ、スウェーデンからの移民船で出国する際に吐露した、老父ラッセを演じたマックス・フォン・シドーの台詞も忘れられない。この「ペレ」を観て感銘を受けたベルイマンが、ビレ・アウグスト監督に依頼し、父エリックの伝記性を有する名画「愛の風景」の脚本を執筆したエピソードも興味深い】
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「ペレ」より |
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