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2023年10月12日木曜日

ケイコ 目を澄ませて('22)    魂を込めたボクシング人生を再駆動していく  三宅唱

 


1  「ケイコは目がいいんですよ。じーっと見てる。多少時間はかかりますけどね。それは、苦労なんかじゃないですね」
 

 

 

2020年12月 東京

 

「小河恵子 東京都荒川区生まれ。生まれつきの感音性難聴で、両耳とも聴こえていない。2019年プロボクサーライセンス取得 1R 1分52秒 KO勝利」(字幕)

 

【感音性難聴とは、内耳・中枢神経系に障害がある場合に起こる難聴で、治療が難しい】 

感音性難聴の程度(等級)について/dB(デシベル/音の強さを表す単位)



荒川ボクシングジムで着替えを済ませたケイコは、トレーナーの松本から「コンビネーションミットやろう!」を書いたホワイトボードを見せられ、小さく頷く。

 

リングに上がり、激しいコンビネーションミットの練習の後、ケイコはマシンを使ってウェイトトレーニングをした後、自分がこなした練習をノートに記録する。 

コンビネーションミット/ケイコと松本


【コンビネーションミット(コンビネーション)とは、ミットのトレーナーに対してグローブを嵌めた本人が距離やコンビネーションやリズムを素早く確認する練習のこと】

 

アパートに帰ると、弟の聖司(せいじ)がギター弾いていて、恋人の花がケイコに挨拶をする。 

聖司(左)と花(右)

ケイコが洗濯をしている間に花が帰り、散らかったテーブルを片付づけたケイコが、ヘッドフォンをした聖司に手話で、家賃を要求する。

 

聖司は足りない分は来月払うと手話で返してきた。 



翌朝、目覚ましのスマホのバイブで起きたケイコは、荒川の高架下の河川敷でジムの会長とストレッチをする。 


ケイコのシャドーボクシングを見て、目を細める会長。 

荒川ジムの会長

【シャドーボクシングの目的は、フォームの習得・修正にある】

 

その後、ケイコは勤務先のホテルに出勤し、客室の掃除の仕事に従事する。

 

その頃、会長は病院で聴力と視力の検査を受け、待合室には妻の千春が待っていた。 

千春(左)


ケイコはコンビニで買い物をして、店員から声をかけられても聞き取ることはできず、歩いていても近づく自転車に気づくこともなく、人にぶつかって文句を言われても、耳に入ってこない。

 

そして、ジムで会長とケイコのミット打ちトレーニングを見守る千春。 

千春と林(右)


ケイコはいつものようにウェイトトレーニングをして、トレーナーの松本とコンビネーションミットを終えた後も、帰り際に鏡の前でシャドーボクシングをして動きを確認する。 


【ミット打ちトレーニングは筋肉を強化・持久力の向上が目的】

 

2021年1月15日、プロ2戦目の試合の最終ラウンド。 


追い詰められたケイコは連打を浴び、それを観戦している母の喜代実(きよみ)は、顔を歪めて下を向き、代わって聖司がデジカメを録る。 

右から喜代実と聖司

判定は僅差でケイコが勝った。

 

試合後、控室へ会長に挨拶に来た喜代実と聖司。

 

「なんだか今日はボコボコにやられちゃいましてね。うまいもんでも何か食べさせてやってください」 


カメラマンに「笑顔で!」と写真を撮られるケイコは、うまく笑顔を作れない。 


家に戻ったケイコは、聖司から母・喜代実が食事も喉に通らなかったこと、相手の選手が試合後に病院へ行った事実を知らされる。 



会長の元に、新聞記者が取材に訪れた。

 

日本で現存する最古のジムだという荒川ボクシングジムは、1945年に会長の父が始め、子供がいない会長は自分の代でお終いだと話す。

 

「小河選手との出会いはいつですか?」

「2年くらい前ですかね。まあ、女の子だから、ダイエット目的とか、健康目的とか、そういうことだと思ったんですけどね。まあ、ものすごく熱心でね。それに、ボクシングの基礎みたいなのも、粗削りだけどできてたんですよ。ほぼ毎日通って来るし、男顔負けの練習量だし、だから、もしかしたらプロになりたいのかなって聞いたんですよ。そしたら、“はい”って。それまで声聞いたことなかったんですけどね。初めて」

「耳が聞こえないというのは、ハンデにならないんでしょうか?」

「それりゃぁ、もう、致命的ですよね。レフリーの声もゴングも聞こえない。セコンドの指示も聞こえない。こんな危険なことはないですよ。だから、前にジムで練習試合もさせてもらえなかったって言ってましたからね」


「練習する上で、どういった苦労がありますか?」

「ケイコは目がいいんですよ。じーっと見てる。多少時間はかかりますけどね。それは、苦労なんかじゃないですね」

「目ですか。小河選手がボクシングをする理由は何だと思いますか?」

「それは、なんだろうなぁ。あぁ、子供の頃にいじめられてて、その反動でグレたことがあったって、お母さん、言ってましたね。なんか高校時代は、教師を殴ったりするぐらいの、そんな荒れ方をしてたって。もしかすると、あれかなぁ。ケンカが強くなりたくて、ボクシングを始めたっていう…まっ、それはないかなぁ。いや、ただね。あのボクシングやってる時っていうのは、こう、頭が空っぽになるんですよ。これ、無になるって言うんですけどね。いやぁ、それが気持ちいいのかな。うん」


「小河選手がプロになれたのは、才能や素質があったんでしょうか?」

「才能…は、ないかなぁ。小さいし、リーチはないし、スピードもないし。だけど、なんだろうなぁ。人間としての器量があるんですよ。素直で率直で。うん、すごくいい子ですよ」 



その頃、踏切を待つ間、喜代実が恵子に手話で訊ねる。

 

「いつまで、ボクシングを続けるつもりなの?もう、いいんじゃないの?プロになって、それだけですごいことなんだから。もう十分じゃないの?」 


ケイコは目を逸らし、喜代実はそのままキャリーケースを曳いて、去って行く。

 

仕事場で体調が悪そうなケイコだったが、同僚に試合で勝ったことを手話で祝福され、次の試合を楽しみにしていると肩を叩かれる。 

職場で

折も折、会長は引退を準備していた。

 

会員(練習生)の激減と、自らの健康状態が原因と見られる。

 

体調を崩したままのケイコは、聖司に次の試合はいつかと聞かれる。

 

「2か月後くらい」

「ボクシングの面白さってなに?」

「殴ると気持ちいい」


「怖くないの?」

「怖いに決まってるでしょ」


「なるほど。安心した」

「どういう意味?」

「普通の人間なんだなと思って」

 

前回の試合の録画を見ながら、トレーナーの林がウィークポイントを指摘し、スパーリングをすると、ケイコは鼻血を出してしまう。 



会長は千春と伴い、医師から検査結果を聞き、そこで動脈硬化が進んでおり、視力もかなり落ちていて、10年前の脳梗塞の再発の可能性を指摘された。 



ケイコは、いつものように会社帰りにジムへ行くが、路地裏の階段の手前で引き返し、家で会長宛てに、「一度休みたいです」とノートに書いて、ページを破って折りたたむ。

 

ジムに行くが、会長は留守だった。


帰途、会長と千春とすれ違っても、手紙を渡すことはなかった。

 

会長は練習生たちを集め、ジムの閉鎖を伝えて謝罪し、予定の試合は、2人のトレーナー(林と松本)が最後まで面倒を見る旨を伝えた。 



一方、友人たちと会っていたケイコは、松本からジムの閉鎖の発表があったことをメールで知らされるのだ。 

手話での会話



暗い路上で立ち尽くすケイコ。

 

何かが大きく変容していくようだった。

 

 

 

2  「今日は気持ちが体についていかなかった。でも休むのは怖い」

 

 

 

練習が辛そうなケイコに、帰り際に会長が声をかける。

 

「ボクシングは、闘う気持ちがなきゃ、できない。戦う気持ちがなくなったら、相手にも失礼だし、危ないからな。言ってること分かるか?」 


「はい…」

 

小さな声で答えるケイコ。

 

「ケイコ、ごめんな。ジムの閉鎖。次の試合。やりたくないんだったら、今からでも断ろうか。考えておいで」 



林がスマホでケイコの移籍先のジムを探して何軒も電話をかけるが、全て断られる。

 

やっと見つかった旧知の五島ジムへ、ケイコを随伴した会長は林、松本と共に訪問した。

 

五島(ごとう)は手話を習い始め、ケイコの試合も見て、「是非、うちのジムで面倒見させてください」と話し、松本と林は、「ありがとうございます」と頭を下げる。 

五島ジム会長(左)

しかし、肝心のケイコは家から遠いので難しいと答えると、林は会長が頭を下げてやっと見つけたジムなので、気乗りがしないケイコの態度を詰(なじ)るのだった。 


それでも五島は、「試合が終わったら、ゆっくり考えて」とケイコに伝える。 


ジムを出た3人は、林が食事に誘うが、松本は「がっかりだよ」とケイコに言い捨ててそのまま帰り、ケイコも反対方向へ歩いて帰って行った。

 

ここでケイコは、ノートに挟んであった会長宛ての手紙を取り出す。

 

そこには、「一度お休みしたいです。このままだと、皆さんに迷惑をかけてしまいます。プロになることができて、とても嬉しかったです。ありがとうございました」と書かれていた。 


その手紙をコートのポケットに入れてジムへ行き、ポストに入れようとして手が止まる。

 

中を覗くと、会長がケイコの試合の録画を真剣に見ているのだ。 


その様子を見たケイコは、胸がいっぱいになって堪(たま)らず外に出て、持って来た手紙を握り潰すと、一礼をして中に入り、鏡の前で会長と並んでシャドーボクシングを始めた。 


会長の動きに合わせてシャドーボクシングをするケイコの目から涙が溢れ、それを誤魔化すように笑って見せる。 



ホテルのロッカールームで、会長が倒れて入院したというメールを受け取り、ジムに向かったケイコは、千春の説明を受けても聞こえないが、千春の顔を凝視し続ける。 

夫の病状を説明する千春



千春に、次の試合を楽しみだねと声をかけられ、ケイコは小さく「はい」と答える。

千春の話をメモにしてケイコに見せる松本(右)



ケイコは再び激しいトレーニングを始めた。

 

松本が突然、嗚咽してリングから下り、涙を拭いて照れ臭そうに戻って来ると、ケイコは温かい笑みで迎え、練習を再開する。 



ケイコが家に帰ると、ギターを弾いている聖司の隣に座る花が立ち上がり、聖司に教わった不慣れな手話で挨拶をし、ケイコも笑みで受け止める。 



翌日、病室で眠る会長のベッドの横で、ノートにミットの絵を描くケイコ。

 

入室して来た千春が、そのノートを見せてもらい、日々の練習についての記述を読み上げていく。 


会長が修繕したミットの絵


“12月25日 ロードワーク10キロ、今日はとても川が臭かった。サボればよかったと思ったが、途中からどうでもよくなった。ジムで会長とミット打ち。一度、会長が転んだ。顔がムキになっていた。笑いそうになったが、我慢した。我慢は大事だ。” 

「笑いそうになったが、我慢した」

“12月28日 ロード10キロ、シャドー3ラウンド、サンドバッグ3ラウンド、ロープ2ラウンド。脇が開いてしまう癖がまた出ている。直したはずなのに。” 

「脇が開いてしまう癖がまた出ている。直したはずなのに」


“1月2日 晴れ。ロード10キロ、サンドバッグ2ラウンド、ミット5ラウンド、ロープ2ラウンド、まだ力んでしまう。息をするのも忘れないように。深呼吸すると、リラックスできる。” 

「まだ力んでしまう。息をするのも忘れないように」


“1月7日 晴れ。ロード10キロ、シャドー3ラウンド、サンドバッグ2ラウンド、ミット5ラウンド。腰が痛い。治りが遅い。うまく、まだ体を使えていない。” 

「腰が痛い。治りが遅い。うまく、まだ体を使えていない」


“2月11日 ロード10キロ、シャドー5ラウンド、サンドバッグ3ラウンド、ミット5ラウンド。今日は気持ちが体についていかなかった。でも休むのは怖い。”

 

“3月10日 雨。ロード10キロ、シャドー5ラウンド、サンドバッグ3ラウンド。ずっと、目を開けていると、乾いてきて涙が出そうになる。集中すること。相手を殺す気でやらないと負ける。”

 

“3月17日木曜日 曇り。ロード10キロ、ミット5ラウンド、ロープ2ラウンド、シャドー3ラウンド、ウィービングトレーニング2ラウンド、ガードの特訓。ジムを閉めるなんて、やはり信じられない。受け入れがたい。許せない。”(以上、ノートの記述)


【ウィービングトレーニング(ウィービング)とは、パンチを避ける練習のこと】 


「ジムを閉めるなんて、やはり信じられない。受け入れがたい。許せない」


ノートの記述をトレースするように、16mmフィルムの粗い質感が映し出す回想シーンがリアルに提示されていく。 


自分の帽子をケイコに渡す

帽子を被り直して、笑みを浮かべる

恋人(花)とデートする弟を笑みで送り出す

左からケイコ、花、聖司のシャドーボクシング(この後、花は踊り出す)




2021年3月25日。 



動画配信されるケイコの試合を、バイト中の聖司、自宅で花と上京した喜代実が見守って観戦している。 



対戦相手の大塚を追い詰めていたケイコだったが、大塚に足を踏まれて転倒し、それがダウンと判定されたことに抗議するがレフリーに通じず、試合はそのまま続行する。



これを病院の廊下で会長と千春が観ている。 


【相手の大塚に足を踏まれ転倒され、ダウンと判定されても、レフリーに訴える術がない聴覚障害者が負うハンデが可視化された重要なシーンである】

 

冷静さを失ったケイコは、奪われたポイントを取り返すために、ウォッーと声を発し突進して猛攻するが、ガードが甘くなったところでカウンターを受け、ダウンして立ち上がれず、結局、KO負けしてしまった。 


溜息を漏らす千春と、絶句する会長。 


千春が買い物へ行き、一人残った会長は、拳で膝を叩いて「よし!」と一言呟き、車椅子の車輪を回して、日差しが差す廊下へ力強く移動していく。



ケイコの悔しさが初老の病人の中枢に架橋し、稼働させたのだ。

 

ジムの引っ越し作業をする千春と林、松本。

 

ケイコはホテルで、手間取っている新人にベッドメイクを教えている。 


引っ越し作業を終えた千春たちが記念写真を撮って、ケイコに送る。 


河川敷で画像を受け取ったケイコは、うっすら涙を浮かべて遠くを見ると、対戦相手だった大塚が近くにやって来た。 


「この間の試合の…ありがとうございました」 


そう言って頭を下げる大塚にケイコも頷くが、複雑な感情に表情が歪む。 


ふっと小さな笑みで振り切り、土手を駆け上がると、ケイコは暮れなずむ空の下でストレッチを始めた。 


そして、再びケイコは走り出していくのだ。

 

 

 

3  魂を込めたボクシング人生を再駆動していく

 

 

 

丁寧に描かれた物語に感嘆する。

 

一途にボクシングに励むケイコの日常が丁寧に紡ぎ出されていて、関係性とBGMを不要にし、ヒロインの内的時間への侵入を限りなく削り取って揺動する情性の溜まりの残滓(ざんし)を丁寧に掬(すく)い取った物語は、シンプリズムの逸品に仕上がっていた。

 

「実際にあるけれども我々が普段は目にできない世界、例えば選手が試合に立つまでの過程こそ、カメラを向けるべきことだと思っていました。だから、最初から試合のカタルシスを撮るより、そこに至るまでの日々の積み重ねに興味があったというのが、純粋なぼくの気持ちです」

 

三宅唱監督のインタビューでの言葉である。 

三宅唱監督

これは、ケイコが残したノートに記録されている数々の内的言語のうちに読み取れる。

 

ケイコの内面が凝縮された回想シーンが連射され、彼女の内側で溜まっている思いの束が、ノートというアイテムによって音声に変換されているのだ。

 

ここで明らかになるのは、ハンデを抱えて進軍するケイコの「ボクシング愛」の迸(ほとばし)る熱量と、状況適応を果たし得る気概・性向。

 

そして、会長との間に形成されている信頼関係の揺らぎと、不安の吐露。

 

この二者が絶妙に融合し、ハンデ故に襲い来る様々な事態に対する突破力と、彼女の屈強な腕力の芯になっていることが判然とする。

 

「ジムで会長とミット打ち。一度、会長が転んだ。顔がムキになっていた。笑いそうになったが、我慢した。我慢は大事だ」

「脇が開いてしまう癖がまた出ている。直したはずなのに」


「まだ力んでしまう。息をするのも忘れないように」

「今日は気持ちが体についていかなかった。でも休むのは怖い」


「相手を殺す気でやらないと負ける」

「ジムを閉めるなんて、やはり信じられない。受け入れがたい。許せない」

 

回想シーンで映し出される事例の一部である。

 

就中(なかんずく)、会長との信頼関係の強さのルーツ。 


これは既に、会長のインタビューシーンで明かされていた。

 

「(ハンデのために)前にジムで練習試合もさせてもらえなかったって言ってましたからね」 


唯一、荒川ジムの会長だけが彼女を受け入れてくれたのである。

 

「レフリーの声もゴングも聞こえない。セコンドの指示も聞こえない」というボクサーの致命的なハンデと危険性を認知していても受容し、プロテストを経てデビュー戦を実現させてくれた会長の器量の大きさに全幅の信頼を寄せ、一筋に「ボクシング愛」を全うし、真摯に向かう勤労と日々のハードワークを両立させた変わらぬ日常を繋いでいくケイコの強靭さ。

 

ノンバーバル・コミュニケーション(非言語コミュニケーション/表情や身振り手振り)の手立てのみで理解可能な会長の強力なサポートと、リスペクト・トレーニング(ハラスメント無化のトレーニング)なしに具現できなかった。 

ノンバーバル・コミュニケーションの基本スタンス


「リーチはないし、スピードもない」と知悉(ちしつ)し、且つ「感音性難聴」という致命的ハンデがありながらも、ボクシング年齢を考えれば決して若くないケイコのエンパワメントを引き出した荒川ジム会長。 


深い愛情を持って支え切る会長に対する絶対信頼が、負の状況に囲繞されたボクシング女子の決定的な推進力と化して、万全の適応を果たしていく。

 

ところが、この心地良き風景に暗い影が差し込んできた。

 

「いつまでボクシングを続けるつもりなの?もういいんじゃないの?」 


「女子プロボクサー」という念願の夢を実現したから、辞める時期ではないのかという母の一言(ひとこと)を、娘の前途を案じる母の痛切な「引退勧告」と受け止めてしまう娘の中枢が漂動し、固まってしまうのだ。 


かくて、自分の人生の意味と、約束されない行路について真剣に考え抜くことになるボクシング女子。 


爾来(じらい)、水底(みなそこ)に沈潜し、裂け目の修復を希求する時間を繋いでいくことになり、安寧の日常に復元すべき熟考を重ねていくのだ。 


それでも、期間限定のボクシング人生を貫徹していくのか。

 

音声に結べないが、悩み抜くボクシング女子。 



「仕事のストレスを発散させてるんです」

 

ホテル清掃の先輩に手話で励まされ、そう答えても、ダルそうな足取りで仕事に従事するボクシング女子を穿(うが)つ状況は変わらない。

 

この迷いが、「一度お休みしたいです」という手紙に具象化されても、どうしても届けられない。

 

この期(ご)に及んで、迷いを払拭できないのだ。

 

ボクシング人生を終焉させることへの不安と、その不安を埋める何ものも持ち得ないのではないかという恐怖が、彼女の人格総体を覆い尽くしていて動けないのである。

 

そして、決定的なダメージを被弾する。

 

松本からのメールが届き、反応する術を持ち得ないボクシング女子・ケイコ。

 

ジムの閉鎖の通知だった。 


ジムの練習生の激減のリアルについては、目を澄ませて事態を察知していくケイコの神経系は把握できていたであろうが、衝撃は隠せない。

 

「ボクシング命」のケイコを心配させまいと案じる会長の配慮は、却って不安を煽っていく。

 

しかし、手紙を渡せない。

 

この迷いがケイコの自我を委縮させる。

 

他のジムへの移動にも踏み切れないのも、この迷いの延長上にある。

 

会長のもとから離れられないのだ。 


跳び出す心境に遷移できないのである。

 

そんな迷妄の渦中で、会長が倒れ入院の運びになり、会長の身体の状態を知らされたことで、薄々感じ取っていた閉鎖理由が理解できた。

 

もう、動く外になかった。

 

「プロになることができて、とても嬉しかったです。ありがとうございました」と書かれた手紙を所持し、意を決してジムへ行く。 


そこで反転するケイコの意思表示。

 

驚きだった。

 

ガードの甘さを曝け出した、例の判定勝ちの試合の動画に見入る会長の真剣な眼差し、その変わらなさ。 


弟子の脆弱さのポイントを改善せんと注視する初老の男。

 

これが視野に収まった時、迷いが吹っ切れた。

 

解き放たれたのだ。

 

冥妄(めいもう)の箱庭を巡っていただけだったのか。

 

師弟のシャドーボクシングの構図は、本作を貫流する生命線である。

 

これは、荒川の高架下でのシャドーボクシングの構図と重なるのだ。

 

今や、鬱々とした時間の一切が浄化され、三戦目に臨む決意が揺らぐことがない。

 

魂を込めたケイコのボクシング人生が、ここから駆動していくのである。

 

―― 本稿の最後に、そんなケイコのボクシング人生のルーツと前途について考えてみた。

 

「子供の頃にいじめられてて、その反動でグレたことがあったって、お母さん、言ってましたね。なんか高校時代は、教師を殴ったりするぐらいの、そんな荒れ方をしてたって」 


恐らく、この解釈が正解なのだろう。

 

小さい体の聴覚障害者が被弾した虐めがトラウマと化し、児童期自我に固着して、「暴力信仰」というイメージで表現される思春期を埋め尽くしていった。

 

この「暴力信仰」が「無」の心境で殴り合いして得られる快感に延長されていったのか。

 

「ボクシングやってる時っていうのは、こう、頭が空っぽになるんですよ。これ、無になるって言うんですけどね。いやぁ、それが気持ちいいのかな」

 

これも、インタビューでの会長の言葉。

 

また、弟の聖司との手話会話で、「怖いけど、殴ると気持ちいい」と答えていることでも自明だろう。 


然るに、「怖いけど、殴ると気持ちいい」が反転すれば、「殴られば怖い」ということ。

 

この怖さが払拭できなければ、闘う気持ちが希薄になる。

 

ケイコの諸器官は、これを体感したのだ。

 

「ボクシングは、闘う気持ちがなきゃ、できない。戦う気持ちがなくなったら、相手にも失礼だし、危ないからな。言ってること分かるか?」 


柔和だったが、この会長の言辞は相当に重い。

 

ケイコを知り尽くした者の魂のメッセージである。

 

 この根源的メッセージは、“はい”と答えるボクシング女子の底層(ていそう)に染みつくだろう。 


ジムの閉鎖後のケイコのボクシング人生を再駆動させていくメッセージに昇華しているからである。

 

一度は断った五島ジムに入り、ここから彼女の新たなボクシング人生が拓かれていくのだ。 


(2023年10月)

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