



1 「何も言わずに、皆、いなくなっていくからさ。置き去りにして忘れて行くからさ。勝手だわね」
裸で抱き合う男女。
「世界一周って何?遠洋の船?」
「マジェロ、トラック、ニューカレドニア、サンチャゴ、レシフェ、ケープタウン、ラスパルマス、カディス」
【それぞれ、マジェロ(マーシャル諸島共和国の首都)、トラック(西太平洋・ミクロネシア連邦のチューク諸島)、ニューカレドニア(オーストラリア東方の島)、レシフェ(ブラジル)、ラスパルマス(スペイン・カナリア諸島)、カディス(スペイン南西部の港湾都市)】
目を覚ました若松登美子(以下、登美子)は洗面所で顔を洗う。
外国からのペットボトルなどのゴミが打ち上げられた、誰もいない浜辺を歩く登美子が、緑のシーグラスを拾って見つめる。
マイクロプラスチックが散乱する浜辺を歩く登美子 |
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登美子 |
佐渡の港町に暮らす登美子は、30年前に、突然、失踪した夫の帰りを待ちながら、水産加工場で働いている。
漁から戻った藤倉春男(以下、春男)がレジ袋を持って作業場に来て、黙って登美子の横に置いて出ていく。
仕事の休憩中、仲間の妙子が登美子に話しかける。
「春男さんに言われたんだって?“所帯持ってくれ”とかって。みんな知ってるからさ…断った?」
「返事してない」
「お節介かもしれないけどね。少し考えてみたら?…もう充分待ったんじゃないの?登美ちゃん。春男はイヤか?」
「そういうことにしといてよ」
登美子(左)と妙子 |
軽自動車で実家に寄った登美子は、庭に出て海を見ている母絹代に声をかけた。
「どうしたの?」
「ちょっと、外の様子をね」
登美子の母 |
春男からもらった魚を捌(さば)いてから、海が見える高台の自宅に戻る登美子。
「ただいま」と家の中に呼びかけても誰もいない。
玄関に持たれて遠くの海を見つめる登美子。
看護師の田村奈美(以下、奈美)が、元町長の入江の家を訪ねて来た。
「この島は、昔から行方不明者が多かったんですわ」
奈美と入江 |
奈美は夫が2年前に失踪し、その相談にやって来たのだが、妻が寝たきりとなった今、あまり動けないと話す入江。
そこで入江は、奈美にチラシを配り、夫を懸命に探している登美子の昔のビデオを見せ、彼女なら手伝ってくれるだろうと紹介する。
チラシを配る登美子のビデオ |
早速、奈美は春男の案内で登美子の家に連れて行ってもらう。
壁一面に、失踪に絡む新聞記事や写真などを貼っている登美子の部屋。
「拉致されたのかもって」と奈美。
「どうして、そう思うの?」と登美子。
「私、在日三世なんです。帰化してるんですけど、自分で。だから、夫が韓国語に興味を覚えたのかなって。あの、この島、何度か不審船が漂着したことありますよね?夫が声をかけられて、親しみか何か感じて、連れ去られた可能性もあるのかなって思って」
「最近は、どうでしょうね。特別失踪人とか認定されても、それで状況が変わるとか、あまり期待しない方がいいと思うんだけど」
「理由が欲しいんです。いなくなった理由です。自分の中で何か、決着がつけられればって」
「そう」
奈美は夫の写真を登美子に見せる。
「田村洋司、40歳、中学校教師。2年前の3月24日土曜日の午後、散歩に行くと言って家を出た。帰ってこなかった…」
登美子は自分のノートに書き留めた。
機織りをする春男の母千代が、飲んだくれて帰り、畳の上に寝転んだ春男に毛布をかける。
春男と母・千代 |
「情けねえ」
翌日、加工場で掃除をしている登美子の元に千代がやって来て、春男との結婚を頼み込む。
「あいつと、一緒になってくんねぇか。自分の世話してもらいたいとか、そういうことで言ってんじゃないよ…ただ、あいつのこと考えるとさ、死んでも死にきれないんだよ。このまま一度も結婚もしないで、何の楽しみもなくて、毎日魚捕って、酒飲んで一生終わっちまうんだよ。自分の息子じゃなくても、不憫だと思うんだよ。登美ちゃんは、ずっと旦那さん待ってるかしんないけど、あいつだって、ガキの頃からずっと登美ちゃんのこと、待ってんだ。考えてくんねぇか?」
「おばちゃん、春男ちゃんがどうのこうのっていうよりもね、私、まだ結婚してるの。夫婦なの。何の届け出も出してないのよ」
「何で…だめなの?」
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千代 |
登美子は返事をせず、無言で作業を続ける。
帰宅した登美子が、古いラジカセでカセットテープを再生し、録音された若かりし日の夫の諭(さとし)と自分の声を聴く。
「“何してんのよぉ”」
「“録(と)ってんだよ。こっちこいよ”」
「“今、手ぇ離せないって”」
「“いいからさぁ。声、録ってんだよ。自分の声、聞いたことないだろ”」
「“イヤよ。恥ずかしいわよ…わっ!”」
「“ふふっ、なんだよ、それ。おい、こっち来いって”」
奈美が物憂げな表情で、自宅マンションから外を見ていると、登美子がやって来た。
登美子は理科の教師だった洋司の部屋を見て、浜辺の散歩で拾ったたくさんのシーグラスの一つを手に取った。
子供が産まれたら必要になると買った大きな冷蔵庫を見て、洋司が変なことを言ってたことを思い出すと話す。
「冷蔵庫の中に入っているものって、僕らに食べられるのをビクビクしながら待ってるんだろうなって。夜中に…変な人でしょ」
「田村洋司。失踪当時の年齢、38歳。身長175cm、血液型O型…」(登美子のモノローグ)
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田村洋司 |
二人はマンションを出る。
昨日、洋司がアパートの前にしゃがんでいる夢を見たと奈美が話す。
「声をかけたら、いなくなってしまって。若松さんは見ますか?」
「見ないの。出て来ないの」
奈美にどんな人かと聞かれ、遠洋の船員だったと答えた登美子。
以下、浜辺での会話。
「船に乗ったまま、帰って来ないんですか?」
「帰って来て、いなくなったの…この浜で無理やり船に乗せられたのかなって思ったこともある。だったら、何か落ちているかも…波にさらわれて、どこかでうちあげられてるかもって、探したこともあったな」
「理由が知りたいです」
「どうしていなくなったのか、どこにいるのって、いろいろ考えてしまう。夜中に電話がかかってきたことない?」
「あります。黙ってるんです…“あなた”って言ったら、ブツって切れました」
「何なんだろうね。あとで、本人だったんじゃないかって思いたがってる」
「あの…悲しくないですか?待ってるのって。自分だけ置き去りにされて」
「昔はね、そう思ってた。だから、気持ちは分かると思う」
「今は?」
その後、登美子が奈美を警察署に連れて、身元不明の遺体情報と似顔絵の掲載データをパソコンで閲覧する。
帰り際、登美子は「もう少し調べてみる」と奈美に告げる。
登美子は洋司の同僚だった教師から、話を聞いてノートに取る。
「少なくとも、いなくなる理由があるとは思えないな」
「悩んでいたとか?」
「自分をさらけ出すタイプじゃなかったから…夢の話したな…デジャブって。いつも同じ町が出てくるんだって。知らない街なんだけど、見る度に懐かしい気持ちになるって」
帰り道、酔っ払った春男と遭遇し、歩道に倒れ込む春男は、登美子に「面倒をみさせてくれ」と頼み込み、諭の当時の様子を話す。
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春男 |
「前の日に岬で見かけた時さぁ、どこかへ行くようなそぶり見せてたじゃんか」
「聞いてない」
「言ったさ」
「言ってない!」
登美子は踵(きびす)を返し、走って家に戻る。
登美子は図書館で、洋司が失踪した日の新聞記事や天気を調べ、拉致の可能性が低いことをノートに記す。
座卓で居眠りする登美子は、久し振りに諭(さとし)が夢に出て、追い駆ける。
論 |
実家に行くと、母が登美子に死んだ父のことを話す。
「いろいろ、すまなかったね。謝っておかなきゃ。お父さんのこと。酒飲んで、手ぇ上げて、お前のこと守れなかった…あんな人じゃなかったんだよ。片脚なくして、戦争から戻って来たら、違う人になってて…何かあったんだよ、きっと」
日ならず、漂着船に乗っていた男が捕捉され、病院へ搬送されたと知った登美子は、夜、男に面会しようとして阻止される。
当直の奈美が男の病室へ連れて行くと、登美子は目を覚ました男に、諭の顔写真の行方不明のチラシを見せ、情報を得ようとした。
男が騒ぎ出し、警察沙汰となるが、入江が迎えに来て署から出て来る。
「若松さんは激しいな。昔を思い出しましたよ」
「腹が立ってるんですよ、自分に。あの人のこと、忘れそうになるんです。もう、意識しないと思い出せない」
夜勤明けの奈美を待つ同僚の看護師・大賀(おおが)を、自宅のマンションに連れて行く。
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大賀 |
「旦那さんを、待ってるの?」
「分からない。あの人…夕べの。もう30年くらい待ってるの…」
「奈美さんはどうなの?」
「できないと思う」
登美子が実家へ行くと、母が父の義足を抱いて死んでいた。
葬式で、親族側に一人ポツンと座り、参列者に頭を下げる登美子。
突然、「佐渡おけさ」を皆が歌うので、驚いて見上げる。
荼毘に付した後、妙子から「佐渡おけさ」を歌うことを頼まれていたらしいと聞かされる。
「肝心な事、何も言わないから…何も言わずに、皆、いなくなっていくからさ。置き去りにして忘れて行くからさ。勝手だわね」
火葬にできなかった父の義足だけが残される |
母を喪って、孤独を噛みしめる登美子の思いが伝わってくるようだった。
2 「10秒ごとに気持ちがクルクル変わって。ずっとそんな気持ちで生きていかなきゃならないのよ」
季節が秋になり、登美子が春男の漁師仲間から料亭に呼び出された。
仕事が手につかず、登美子のことで患って、このままでは船を降りるしかなくなると心配した二人が、春男と登美子とを引き合わせようとしたのだ。
漁師仲間が帰り、二人になると、いつものように春男は登美子が心配でしようがないと、自分の思いを一方的に押し付けてくる。
「困ってる時に助けたいと思うのは、そんなに変か?人として当たり前のことだろ。それじゃ、ひねくれすぎてるよ」
「じゃあ、あんたは、人助けのために一緒になろうとか考えてんの?違うでしょ?」
「じゃあ、諭さんはどんな時に言い寄ったんだよ」
「元気な時よ。毎日が楽しくて、私が一番キレイだった時よ!」
「憎いよ。殺したいくらいだ。でもできないから、俺が死んでやるよ」
「ああ、鱈(タラ)の餌にでもなれ!」
夜遅く、船を出した春男は、海の闇に消えて行った。
翌朝、春男がどこにもいないと知らせが入る。
以下、登美子と妙子の会話。
「どうする、どうするってさ、答えを出せって言われてるみたいでさぁ。答えなんてないのに」
「いい加減に、決着をつけろってこと?」
「答え知ってんの、私じゃないもん。あの人なんだから。そういうもんだと思ってさ、暮らしてんのに」
家に帰る石段の下で、千代が登美子を待っている。
「登美ちゃん、もちっと優しくしてくれてもいいだろ」
そう言って、千代は恨めしそうに見つめる。
登美子は目を伏せるばかり。
入江の家に、登美子は奈美と待ち合わせ、登美子が書き上げたレポートを見せ、本部に送ることになった。
「特別失踪人かどうかは、本部の方ででも調査してくれると思います」(ここで言う本部とは、新潟県警察本部のこと)
奈美は家庭裁判所で必要になるかも知れないので、コピーを頂けないかと言うのだ。
「別れようかと思って…事情を分かってくれて、一緒になってもいいっていう人がいて」
「離婚の裁判のために報告書が必要だったということなんですか?」
「それは違います。何か、けじめをつけたいって言うか。夫のために、何かできることはないかと思ったのは確かなんです。それで、若松さんに会って、その、とても待ち続けることができないなって思って。若松さんのように。強くなれないなって」
「強くないわよ」
「私は私で、自分の幸せ考えなきゃならないって思って。子供が欲しいんです。35で産もうって決めました。生きているのか死んでいるのか分からない。生きていたとしても、連絡の一つも寄こさない人のために、時間無駄にできない」
入り江が妻に呼ばれて席を外した。
「軽蔑しますか?別に何か、特別なこと望んでいるわけじゃないんです。一緒にご飯食べたり、休みの日に昼過ぎまで寝坊したり…」
この奈美の話に頷くだけの登美子。
帰宅し、家でカセットテープを聞いていると、テープが切れる音がした。
夫の声が聞こえなくなってしまったのである。
その後、フェリーで新潟に渡り、礼拝堂で、義母の葬儀に出席した義父と会話する登美子。
「登美子さんさ、何か、義理立てしてるんなら、構わないからね。誰も咎(とが)めないよ」
「いえ、もう好きなように暮らしてますから。不幸っていうか、特別に見られるのが悔しいだけです」
「もどかしいねえ。やっぱり、あいつが戻ってきたら、殴り倒すな」
義父 |
義父の思いがひしと伝わってくるシーンだった。
直後、新潟の街を登美子が歩いていると、偶然、洋司を見かけ、声をかけ喫茶店に入る。
「調査を?」
「奈美さんに頼まれました。拉致されたんじゃないかって、心配してましたよ」
「拉致…」
「理由が分からないと、色んなこと思うんでしょ…ずっと、この町にいたの?」
「いいえ。少し前に、帰ろうかどうか、迷って」
「帰ってどうするの?」
「謝らなきゃって…」
「何してたの?」
洋司 |
「船に乗ってました」
「ずっと?」
「はい」
「遠洋のマグロ船かなんか?」
「海洋調査船です」
「どれくらい?」
「10カ月」
「そうして?蒸発?どうして?」
「消えてしまいたいと思って…」
「どうして?」
「理由、ずっと考えてました」
「何か、分かった?」
「もう、自分が終わるんだなって思ってしまって」
「どういう意味?」
「先のことが、全部決められていくような気がして」
「それは、話し合うべきじゃない?」
「はい」
「連絡することだって、できたでしょ」
「はい」
その頃、奈美は、大賀が見守る中、洋司の部屋の荷物を片付けていた。
一方、登美子は洋司に質問しながらノートにメモを取っていく。
報告書を作成するためである。
「何て言って、家を出たの?」
「“ちょっと行ってくる”かな」
「散歩ってこと?」
「多分」
「前から、考えてたんじゃないの?蒸発しようって」
「いえ、浜辺で急に思い立って」
「いなくなられた方(ほう)は、どうするの。気持ち考えたことないの?溺れたんじゃないのか、女ができたんじゃないか、帰りたくても帰れないんじゃないのか、やっぱりもう亡くなったんだ、いや、どっかで生きてるって、10秒ごとに気持ちがクルクル変わって。ずっとそんな気持ちで生きていかなきゃならないのよ。私の夫だったら、殴るわ」
「ごめんなさい。ひどいことをしました」
「謝る相手が違う」
「そうですけども…」
「話してもいい?生きてましたよって。元気ですよって。明日帰るけど、一緒に来るでしょ?」
ホテルの部屋で新聞を読み、千代が春男の行方不明届けを出した記事を見つける。
それを読み、頭を抱える登美子。
佐渡フェリーに乗った洋司が、奈美はどうしているかと登美子に訊ねた。
「最初に聞くことだと思うよ。働いてる、病院で。自分の目で確かめれば?」
「はい」
「怖い?」
「計画、おかしくしてしまったし…彼女に人生のいつまでに赤ちゃん産んで、家をいつ買って、落ち着いたら子供をまた作るとか、そういうのです」
「寄りを戻したいの?」
「僕がもう、決めることじゃないんで」
「変?強引すぎる?無理に連れて来たみたいだし」
「いえ、いつか…」
「私、狂ってるから、ずっと」
マンションに着いて、登美子が帰ろうとすると、一緒に来てもらうように頼む。
洋司がチャイムを鳴らすと、大賀が出て来て、次に奈美がドアを開けた。
無言で洋司を見つめる奈美は、やっと口を開く。
「入って」
登美子が帰ろうとすると、奈美が引き止める。
「いて下さい。どうにかなりそうだから」
「喜ぶと思った?昔の私がいると思った?突然やって来て、時間戻されて、苦しんだり、悲しんだりしたこと、帳消しにできないんだから!」
立ち上がり、クッションで洋司を叩きつけ、泣きながら、頬を何度も平手打ちする。
「私の中じゃねぇ、もう終わってんの!あんたなんて、もういないの!ずっとなんか隠して、分からないように抱えてて、隠れてて!」
「じゃあ、帰りますから」と登美子が玄関に向かう。
「何で、連れて来たんですか!あたしに新しい人がいるって、知ってたでしょ!」
「でも、避けることはできないでしょ」
「若松さんは、夢の中にいるのよ。悪い夢なのか、いい夢なのか知らないけど、あたしは夢で生きていけない!若松さんはどこかでもう、旦那さんが亡くなってるって、分かってるんじゃないですか?だから、ずっと待ってられるんじゃないですか!」
二人の女性の立ち位置が判然として、反応すべき何ものもないように、登美子は部屋から黙って出ていく。
3 「その船って、女の人も乗れるの?だめなの?連れてってよ。お願い。連れてって」
雨の中、傘も差さずに、海の方を見ている千代に、登美子が傘を差し出す。
「待ってるって、つれえもんだね」
部屋で白湯を飲んでいると、洋司が訪ねて来た。
「追い出されました」
「意地悪だったかも知れない。新しい人がいるの知ってたから」
「いいんです。相手がいて救われました」
洋司に求められ、諭の行方不明のチラシを見せる。
「いい男ですね」
「そう?」
「だって、まだ愛されてる」
「そういうことか。なんか悔しいな。帰りたくもあり、帰りたくもなしってことでしょ?帰りたい方の気持ちって、どうなの?」
「独りでいると、思い出にならないっていうか、更新されないっていうか、引き戻されるんです」
「帰りたくない方は?」
「立派な理由もないし、一緒にやっていける自信もなかったから」
「そう、そんなもんか」
「若松さんは、待ってるんですか?」
「分からないのよ、もう」
登美子が見つめる視線の先にラジカセがあり、それに気づいた洋司にテープが壊れた話をする。
洋司がテープをセロハンテープで繋ぎ、再生する。
一緒になった頃の登美子と諭の楽しそうな会話を聴き入り、微笑む洋司。
「幸せそう。泣けそうなぐらい」
「そうなの。幸せだったのよ」
その夜、洋司がまんじりともせずストーブに当たっていると、登美子の呟く声が聞こえてきた。
登美子がベッドに座り、襖(ふすま)に向かって独り言を言っている。
それは、諭と出会った頃の会話の再現だった。
「なんで、声なんかかけたんですか?気になった人なら、誰でも声をかけるんですか?私ね、男の人が嫌いなのよ。変?変なこと言ってる?嫌いっていうか…怖いのよ。緊張するのよ。してますよ」
洋司は登美子の部屋の襖に近づく。
「急に態度が変わるんじゃないかなと思って、ビクビクしちゃうのよ。だから、男の人と話したり、付き合ったりするの初めてなの。本当よ。どうして?うん、父親かな。急によ、急に怒り出すの。手を上げるのよ。理由も何もないの。何があったか知らないけど。本当のこと話してくれないのよ。苦い顔してさ。酒飲んで暴れるの。何か自分だけ苦しそうな顔してさ。暴れるのが当たり前のような顔してさ。みんな大事なことを、話してくれないの。一番知りたいこと、教えてくれない?だから、出て来たのよ…」
ここで洋司が襖を開ける。
「でもね、お母さんが帰って来てくれって言うのよ。困ってるのよ。どうしようかなって思ってるの。戻りたくないのよ。ねえ、その船って、女の人も乗れるの?だめなの?連れてってよ。お願い。連れてって」
登美子が洋司をぼんやり見上げ、無邪気な笑顔が広げる。
洋司が涙に濡れた顔で跪(ひざまづ)く。
「僕は、僕は、してはいけないことをしました」
「帰って来たの?お帰り。教えてよぉ。どこへ行ってたの?」
「小笠原、赤道を越えて、トラック、ニューカレドニア、太平洋渡って西の方へ…リマ、サンチャゴ、レシフェ…」
登美子は洋司の顔に手を伸ばし、頬に触れると洋司の頭を胸に引き寄せる。
そして、嗚咽する洋司の髪を掴み、顔を埋め、掻きむしり、深く匂いを嗅ぐ。
「また、行くの?黙っていなくなっちゃうの?」
登美子は、愛おしさに溜息を洩らしながら、洋司を強く抱き締めるのである。
朝が来て、洋司は登美子の寝室をじっと見てから、家を出る。
登美子がベッドで目を覚ます。
「ちょっと行ってくるよ」と諭の声。
玄関の戸を開け、眼下の誰もいない道を見つめる登美子。
加工場。
「春男が生きてた!」と漁協から知らせを受け、登美子が千代に知らせに走る。
「春男は生きてんのか?」
「生きてるって」
二人は泣きながら抱き合う。
「えかったぁ!ああ…」
春男がお土産を持って、加工場にお詫びの挨拶に来た。
登美子は、春男の胸倉を掴み、平手打ちする。
登美子はそのまま工場を出て行くと、春男が追い駆け、後ろから呼びかける。
「待ってくれよ!少しは心配してくれたのかよ!登美ちゃんの中に、俺はいたかよ!」
登美子は走り出し、西の浜へ出て、海へ入っていく。
春男が止めようとする。
「心配くらいするさ!誰だってするさ!」
「悪かったよ!言うとおりにしたんだよ。死にそうになったんだよ!」
「じゃあ、一緒に死んでやる!」
「生きたいと思ったんだ。登美ちゃんと会えなくなると思ったら、もっと生きたいと思ったんだ!」
春男は、更に沖へと向かう登美子の背中にしがみつき、肩を掴んで向かい合う。
「一緒になろう。一緒に生きていこう。俺じゃ、ダメか?まだ待ってんのか?あいつのこと」
「もう、いいのよ。もう、誰も来ない。何も来ない。このままでいいのよ。今のままでいいの」
春男の手を振りほどいて岸に這い上がり、波打ち際を一人歩いていく登美子。
登美子の後ろ姿が、小さくなっていく。
4 強靭なナラティブを繋ぎ、今日という一日を生きていく
田中裕子、素晴らし過ぎる。
洋司を演じた安藤政信、心に残る演技が胸を打つ。
この二人がラストで抱擁するシーンに涙が潤(うる)み、抑えられなかった。
全て、このシーンに収斂させるまでの物語。
相手が異なるが、「待つ者」と「待たせる者」が、それぞれに抱えてきた思いの束が溶融し、昇華していくシーンが内包する、静かだが、しかし、人の心と心が自らのトラウマのルーツに立ち返り、胸襟(きょうきん)を開く情調の深み。
言葉を失った。
「僕は、僕は、してはいけないことをしました」
「人間関係リセット症候群」(注)と印象づける洋司が涙に濡れた顔で跪(ひざまず)き、登美子に吐露する時、自分を2年間待っていた奈美から追い出されてもなお、「待つ者」の煩悶のリアルに届き得なかった男の胸中が、30年間「待つ者」の深甚なる声を全身で受け、ここに至って初めて、その沈痛な思いが張り裂けるように、胸を掻きむしられるようにして行き着くのだ。
洋司がここまで動いたのは、想いの詰まった登美子の決定的な吐露を耳にしたからである。
「その船って、女の人も乗れるの?ダメなの?連れてってよ」
自らも海洋調査船に乗っていた洋司は、この言葉を全身で受け止めたのである。
登美子もまた、30年間「待つ者」が抱えてきた哀傷の束を、目の前にいる諭(さとし/ここでは洋司)に向かって懇願するように、それ以外にない言語に結ぶ。
「帰って来たの?お帰り。教えてよ。どこへ行ってたの?」
そして、嗚咽する諭の髪を掴み、顔を埋め、掻きむしり、その匂いを嗅ぎながら、それ以上にない言語に結ばれる。
「また、行くの?黙っていなくなっちゃうの?」
「待つ者」が「待たせる者」の想いを問い、「待たせる者」との同行を懇願するのだ。
「待たせる者」の絶対的帰還こそ、「待つ者」の地獄の日々を解き放つ。
だから、帰還を果たした「待たせる者」の再出立への怖れに身を縮める。
絶対的帰還への果てしなき哀願。
「もう、出ていかないで」
この哀願が如何ほどの効力を持つか分からないから、「その船って、女の人も乗れるの?連れてってよ」という他にないのだ。
この哀感が本篇を貫流している。
この想いで、「待つ者」はどこまでも待つ。
殆ど「奇跡の愛」である。
これは、「奇跡の愛」に揺らぎがない女の映画なのである。
正確に書けば、揺らぎを克服せんとするナラティブ(物語)で武装した女の、形成的情性に関わるヒストリーなのだ。
なぜなら、彼女もまた、煩悶の過去を引き摺ってきているからである。
「溺れたんじゃないのか、女ができたんじゃないか、帰りたくても帰れないんじゃないか、やっぱりもう亡くなったんだ、いや、どっかで生きてるって、10秒ごとに気持ちがくるくる変わって。ずっとそんな気持ちで生きていかなきゃならないのよ」
これも洋司への吐露である。
このように襲い掛かる煩悶の束を、現在の〈生〉を落ち着かせるために、彼女が作り出したナラティブこそ、ラストの独話だった。
この独話なしに、彼女の〈生〉の安寧は保証されなかったのである。
(注)明確な定義がないが、ネガティブ思考な人が陥りやすい、SNSで多様される「人間関係リセット症候群」とは、衝動的に人間関係をリセットする感情傾向のことで、洋司の場合、奈美に見初められ結婚したが、彼女自身の人生設計に基づく夫婦関係に対する違和感が膨れ上がって失踪した。連絡できなかったのは、大事なところで本音を隠し込む洋司の性格の弱さに起因すると考えられる。
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人間関係リセット症候群 |
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一人で会いに行けないので登美子に同行を頼む洋司 |
そんな登美子の愛と切れ、2年間待っても帰還しない男との関係を断った奈美の〈生〉は反転し、自立的に発動していく。
これが普通の風景であるに違いない。
かくて、同僚の男性看護師と結ばれ、あっさり離婚手続に振れていく。
この普通の風景を目の当たりにした登美子は、街で偶然出会った洋司を連れ、あえて奈美の元に同行する。
この行為に反発した奈美の怒りは理解できるが、その奈美を許せなかった登美子の行為はもっとよく理解できる。
登美子が奈美をどうしても許せなかったのは、奈美のために奔走した努力が報われなかったこと以上に、「わずか2年」で「待つ人」を断念する程度の「愛」のカタチを認められなかったからである。
「奇跡の愛」に揺らぎがない女に対して、「若松さんは夢の中にいるのよ」と誹議(ひぎ)されたが、反応せずに帰宅する登美子の強さの根っ子には、独話というナラティブが息づいているのである。
「夢の中」というよりも、遥かに強靭なナラティブが息づいているのだ。
考えてみれば、北朝鮮による拉致の可能性がある「特定失踪者」(映画では「特別失踪人」/注)のリストに記録されていた事実が示唆するのは、登美子の夫婦関係が安定していたことを意味する。
彼女は存分に愛されていたのだ。
この思いの継続力が、独話という強靭なナラティブを生み出した。
ラジカセを後生大事に保持し、繰り返し再生する登美子の行為は、彼女のナラティブを補強する絶対的なアイテムだった。
そして、登美子の「千夜」に及ぶだろうナラティブの集積が、遂に成就する。
我が夫・論が帰還してきたのである。
これがラストの独話だった。
ナラティブを繋ぐ「千夜」の集積が、「一夜」のうちに完結したのだ。
そういう映画だったのである。
だから、諄(くど)いほどの描写が気になったが、彼女にとって、春男の執拗なプロポーズを受容し得る何ものもないのは自明の理。
強靭なナラティブを繋ぎ、今日という一日を生きていく。
孤独に苛まれることもない。
切なさを振り切る女の、逞しくも、悲哀を削り取った人生行路は天晴れという外にない。
いい映画だった。
(注)「特定失踪者」とは、拉致問題ホームページ等政府資料によると、民間団体である「特定失踪者問題調査会」が、北朝鮮による拉致かもしれないというご家族の届出等を受けて、独自に調査対象としている失踪者のこと。また政府では、関係省庁・関係機関において調査・捜査を進めている事案が「特定失踪者」の事案に限られないことから、「北朝鮮による拉致の可能性を排除できない人(事案)」との表現を用いている。
(2023年6月)
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