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2020年11月20日金曜日

形容し難いほどのラストシーンの遣る瀬なさが、観る者の中枢を射抜く ―― 映画「帰れない二人」('18)  ジャ・ジャンクー

 


車椅子生活を余儀なくされた「渡世を生きる男」ビンと、彼を引き取ってリハビリを援助するチャオ


1  「ピストルは右手で撃った。私は左利きじゃない。忘れているのね」

 

 

 

山西省・大同(ダートン)、2001年4月2日。 

山西省・大同市(ウィキ)

雀荘・クラブを仕切り、裏社会で生きるビンが麻雀中に、「絶対に裏切らない」忠君・ 至誠の神・関羽像を持ち出し、借金取りの立てで揉める仲間の仲裁に入り、見事解決するオープニングシーン。

ビン(左)とチャオ(右)

借金を認めるジャア

三国志の英雄・関羽は裏社会のみならず、後年の人々によって神格化され、関羽像として華僑たちの心の拠り所となっている

渡世で生きるビンにピッタリと寄り添い、隣に座るのは恋人のチャオ。 

チャオ

仲間が一堂に会し、兄弟の誓いの酒を酌み交わす。


 

「隠し事はなしだぞ!」

 

父の住む宏安炭鉱(大同)に戻ったチャオは、石炭価格の暴落で立ち行かなくなった炭鉱労働者に向かい、幹部の不正を放送でアジテートする父を家に連れて帰る。

父のアジを聞くチャオ

 

既に、当局が新疆への移転を決め込む噂が流れ、人々には諦めムードが広がっていた。

 

「父さん、生活が大事よ。炭鉱のことは心配しないで」 


そう言って、麻雀に行くと言う父に小遣いを渡し、再びビンの元に戻って来るチャオ。

 

YMCAで踊る若者たちで賑わうビンの店に、彼の後ろ盾である実業家のアーヨンがやって来た。

ビン(左)とチャオ(右)

 

「あなたは善人だ」とビン。

                    アーヨンとビン

「老いたのさ。大同はお前次第」とアーヨン。


「あなたに学ばないと」

 

そして、アーヨンの別荘開発事業を妨害する輩を排除する約束をするビン。 


あろうことか、そのアーヨンが半グレの如き何者かに刺殺されてしまうのだ。

 

警察がやって来て、犯人を特定しようとするが、明確な情報は得られなかった。 

ビンと裏社会担当(日本のマル暴)の刑事(左)

そんな折、ビン自身が突然、若者に脚を殴打され、怪我を負ってしまう。 


その若者は捕まるが、「人違いだった」と主張し、ビンは彼らを解放する。

 

ビンを愛しつつも、裏社会に生きるつもりがないチャオは、ビンに銃を手放すことを促す。

 

しかし、裏社会で生きることの厳しさを実感するビンは、銃を手放せない。

 

「警察が取り締まってる。早く捨てて。銃に頼るなんて。闘争より、警察の逮捕が先だわ」

「きっと誰かに狙われる。俺達みたいな人間は、いつか殺される」


「私たちのこと?」

「渡世人だよ」

「私は違う」 


そのチャオに、ビンは銃を手渡す。

 

「お前も今、俗世を渡ってる」

「ヤクザ映画の見過ぎでしょ?あんた、いつの時代に生きてるつもり?」


「人のいる場所には渡世がある」

 

そう言うと、チャオの手を取り、銃を撃ち放つ。 


仲間に慕われ、羽振りのいいビンだったが、車で移動中に渡世とは無縁な半グレ集団に襲われ、激しい立ち回りの末、力尽き、命の危険に晒されるほど追い詰められた。 


それを救ったのは、チャオの威嚇発砲だった。 


しかし、その結果、チャオは銃の不法所持で警察に逮捕されてしまう。

 

拳銃の所持者と入手経路を尋問されたチャオは、銃は自分のもので、拾ったと答えるのみ。


 

その罪の重さを説かれ、正直に話すよう促されるが、チャオは主張を曲げることがなかった。

 

かくて、女子刑務所に服役するチャオ。 


そんな折、チャオの友人が面会に訪れた。

 

刑務所が引っ越すと聞き及び、遠くなるからやって来たと言う。

 

ここで、軽微な刑で入所していたビンが、既に出所したことを知らされることになる。 


出所しながら、ビンがチャオの面会に来ることはなかった。

 

5年の刑を終え、チャオは出所する。

 

今、長江客船に乗船し、三峡から湖北省巴東(はとう)へ向かう船上にいる。 





【長江の洪水の抑制を目的にした三峡ダムの工事は、発電所等を含めた全プロジェクトが2009年に完成し、2012年7月には発電所が全面稼働するが、住民の強制移住・文化財の水没、地滑りの問題の発生、更に洪水の危機の不安を惹起した世界最大級の大工事であった】 

三峡ダム(ウィキ)
三峡ダムの崩壊リスク

映画より(船内放送)


ビンを探すチャオは、友人で実業家として成功しているリン・ジャードンのオフィスを訪ねた。

 

「ビンは?」  

リン・ジャードン(中央)とジャーイエン(右)

「奉節(フォンジェ/重慶市)にいるはずだ。ビンには伝言しておいたけど」

「連絡なしよ。会社では?」

「うちの会社ではビンさんを養えない。ビンさんは大きな商売で忙しいのさ」


「企業も渡世のうちかしら?」


「発電関係の仕事らしいよ」

「発電プラント?…どこにあるの?」

「俺にもよくわからない」 


そう言うや、会議を理由にリンは出て行った。

 

その会話の一部始終を、ビンは別室で聞いていた。 


以下、リンの妹ジャーイエンとチャオの会話。

 

「人間の感情は変わって当然。自分の感情は自分で解決しないとね」


「何が言いたいの?」

「この土地で、ビンさんは恋人がいるの。だから彼はあなたに会えない」

「驚かないわ。でも彼の口から直接聞かないと。伝言は無用よ」

「ビンは今、私の彼氏よ」

「そうなのね…私は直接彼に聞く。私と彼の問題だから」 


チャオは奉節の街を彷徨(さまよ)った挙句、何とか発電所にいるビンと再会する。

 

「どこに住んでるの?」

「住まいは遠いんだ」

「あんたの家に行くわ」


「定まった家はない。サウナ、カラオケ。毎日、違う場所だ」

「じゃあ、部屋を借りる?」

「すぐに出張がある」

「私もついて行く」

「それはできない」

「できないのね」

「奉節にはいつまで?」

「いつまででも。あんたが決めて」 


宿屋に着いて、二人の会話は続く。

 

「はっきりさせたい」

「言えよ」

「私は今もあんたの恋人?」

「どう思う?」

「私が尋ねてるの」


「俺はもう昔の俺じゃない。別人なんだ」

「渡世人は、遠回しな話し方を好む」

「もう渡世人でもない」


「今の私は渡世人。そしてあんたを探した」

「奉節まで来て、そんな話をしたいのか?」


「いいえ」

「何が言いたい?」

「あんたのために服役して、あんたは4年前に出所。出所したら迎えに来てると思ったら、あんたは来なかった」


「俺は重要か?」

「あんたは何が大事なの?」

 

俯(うつむ)き、「間」の中から思いを吐き出すビン。

 

「わかるか?男が一人、全くの文無しで、どんな気持ちか。出所したその瞬間、一人も迎えはいなかった。俺の運転手が、今や外車を乗り回している。意気揚々とね」


「それがあんたの大事なこと?じゃあ、私は?ビン、一緒に帰ろう」


「今の状態で、俺は帰れない…奴らに見せてやる。川の流れも30年で変わるってことを」


「なら、私一人で故郷へ戻る」

「話すことがある。俺は…」

「知ってる。リン・ジャーイエンから聞いた…今から、私たちは何の関係もない。でしょ?」


 

それには答えず、チャオの手を取るビン。

 

「この手が俺の命を救った」


「ピストルは右手で撃った。私は左利きじゃない。忘れているのね」
 


涙声だった。

 

背後で嗚咽を漏らすチャオの情感を受け止め、ビンも涙声で吐露する。

 

「…俺が悪い。お前が出所した日、俺は迎えに行くべきだった。まだ遅くない」 


そう言うや、厄払いに盥(たらい)に新聞を燃やし、その上を跨(また)ぐチャオ。

 

手を握り合う二人の別れ。 


女の涙を受け止め、男は雨の中を帰って行った。

 

その後、チャオは故郷の大同に向かう列車に座っていた。

 

列車の中で、前に席に座った男に仕事の勧誘をされ、新疆へとついて行くチャオ。

 

ウルムチ(新疆ウイグル自治区の中心都市)行きの列車に乗り継ぐが、新疆で観光開発をし、UFOの旅行ツアーを計画しているという男の話は、真っ赤な嘘で、実は雑貨店をしていると、チャオに告げる。


 

「いいじゃない」

 

そうチャオは答え、男の抱擁に身を委ねる。 


「君は?」

「私は囚われた人間」


「どういう意味?」

「刑期を終えたばかり」

 

その話を聞くや、男は反応しなくなり、チャオは男を残して途中下車する。 


一時(いっとき)の孤独を癒しても、チャオの復元力は健在だったのだ。

 

夜空にUFOが飛翔するシーンがインサートされ、それに見入るチャオがそこにいる。

 

 

 

2  「なぜ俺がお前を頼ったと思う?お前だけが俺を笑わないからだ」

 

 

 

2017年、大同 雲中(ユンチョン)駅。


 

新幹線を降りた車椅子のビンが、携帯電話をかける。 


そこにチャオがやって来た。 


ビンが車の荷台から見る大同の街は、高層の集合住宅が林立し、すっかり変わっていた。 


チャオは雀荘の女主人となり、ビンを引き取ったのである。

 

かつての運転手のリーもチャオの店で働いていた。

リー(右)

 

ビンは彼から、かつての仲間の近況を聞く。

 

羽振りがいい者もいれば、重刑に服する者もいる。

 

「男は?」

「何のことです?」

「チャオの男」


「チャオさんは未婚です」

 

その直後、食事が運ばれた。

 

「先に主食で後におかずだ!行儀の悪い奴め!親から教わらなかったのか?」


そう怒鳴るや、ビンは食器をすべて払い落してしまった。

 

「人の親まで侮辱しやがって、何様だよ!」


 

リーが仲介に入る。

 

「口に気をつけろ!俺のアニキだぞ!」


「アニキだと?この落ちぶれが?」

 

渡世の気風に馴染まない舎弟を追い払ったリーは、どこまでも「アニキ」であるビンに寄り添うのだ。

 

「ビンさん、落ち着いてください」

「以前はお前のアニキで、今は?」


「いつまでも、俺のアニキですよ」

 

そこでチャオがやって来た。

 

「何で揉め事を起こすの?」

「奴らが悪いんだ」

「誰の話?」

「お前だよ」

「何の因縁かしら?出て行って!」


「出て行くさ」

 

一人で車椅子に乗ろうともがくが、思うように体が動かない。 


「もういいから!」 


ビンの体を起こし、尋ねるチャオ。

 

「何て体がこんなことに?」

「飲み過ぎて、脳内出血したんだ」

「奥さんや子供はどうしてるの?」


「妻だと?まだ母親の腹の中だろ」

「町で野たれ死ねば?」

「なぜ、俺を救ったんだ?いっそ、あの時死ねばよかった」


「私のせいで、あんたが苦しんだわけ?」


「なぜ結婚しなかった?」
 


この根源的な問いに対し、何も答えないチャオ。

 

そのチャオはビンの脳画像を別の医者に見せ、歩けるようになるか尋ねる。 


その医者が言うには、「焦らないこと。時間がかかる」ので、二人三脚で治療に当たらねばならないということ。 


【因みに日本では、「脳卒中再生医療」によって、自己再生力での歩行が可能になっている。ニューロン回路の処理効率を高めることで、脳の可塑性による機能回復を有効にするのである】 

再生医療の時代の到来

そして今、雀荘に集まるかつての舎弟たちとビンが対面する。

 

その威光に与(あずか)っているが、ジャアだけは因縁をつけて、賭けで勝ってビンの車椅子を奪おうと脅す。 

ジャアの復讐(映画の冒頭で、ビンから借金の返済を認めさせられた男)


車椅子から降りるビン


やり過ぎのジャアに対し、チャオはティーポットを頭に叩き付けて割ってしまうのだ。


「チャオ、何で暴力を振るうんだ」

「うるさい!」 


これで一件落着する。

 

「なぜ俺がお前を頼ったと思う?お前だけが俺を笑わないからだ」


「誰もバカにしてない。考え過ぎよ」

「何で俺に尋ねない?リン・ジャーイエンのことだ」 


少し「間」をおいて、チャオは答える。

 

「私には関係ない」


「恨んでいるか?」

 

再び、「間」を置くチャオ。

 

「なんの感情もない。だから恨まない」


「俺に感情がなくて、なぜ俺を引き取った?」


「渡世に義理はつきもの…渡世を捨てたあんたは理解できない」
 


そんな会話を交わしながら、チャオはビンを車椅子で診療所へ連れて行き、その帰路、かつて銃の射ち方を教えられた丘に立ち寄る二人。

 

車椅子から降りたビンの歩行の訓練をサポートするチャオ。 


チャオの店に監視カメラが取り付けられる


2018年の元日、ビンは何とか杖なしで歩けるようになっていた。 

チャオの部屋に視線を向け、 別れを告げるビン

チャオの携帯に留守電が入る。

 

「出て行くよ」 


突然、一人残されたチャオは、怒り、苛立ちながらドアを蹴り、街路に立って行き先を凝視する。 


苛立ちながらドアを蹴るチャオ

店に戻り、壁に持たれて佇む姿がモニターに映し出される。 


明らかに、2億台以上ものカメラが其処彼処(そこかしこ)に設置されている、監視社会・中国の負の産物へのアイロニーである。

 

 

 

3  形容し難いほどのラストシーンの遣る瀬なさが、観る者の中枢を射抜く

 

 

 

長江客船内で身分証明書と金を奪われたチャオが奉節に着いた時は、完全に文無しだった。

 

文無しのチャオがビンに会うために取った行動は、逞しさに満ち満ちていた。

 

まず、見知らぬ者の結婚式に潜り込み、存分に腹を満たす。 


その直後、身分証と金を盗んだ女が男たちに絡まれているところを目視したチャオは、男たちを追い払うや否や、その女から身分証と金を取り戻す腕力を見せる。 


もっと愉快なエピソードがある。

 

レストランの個室に入室する裕福な男を見るや、チャオは、いきなり脅すのだ。

 

「妹は流産したわ。あなたに隠してた。妹は思慮深いけど、あなたは無情ね。あなたたち家族で楽しそうね」 


狼狽(うろた)える男は、「知らなかった。俺は無責任じゃない」と言って、持ち金をチャオに渡すのである。 


不倫する金持ちの男から、金を巻き上げても道徳的に許される。 


そんな思いが、チャオにはあるのだろう。

 

だから、「俺としないか?」などと言い放ち、強姦紛いにチャオに迫るタクシーバイクの男の商売道具のバイクを奪ったばかりか、管掌外の警察にバイクを戻し、助平男を強姦未遂で訴えるのだ。 


女を下半身の処理としか考えないこういう手合いも、チャオにとって許し難い男なのだろう。

 

且つ、信仰心を糊塗(こと)した女から身分証と金を盗られても、独力で取り返す。 

                   信仰心を糊塗(こと)した女


縷々(るる)、チャオの行動の一端を拾って見たが、このような彼女の身体を駆動させたコアを占有するのは、ただ一つ。

 

「恋人を訪ねて」

 

助平男のバイクを戻した際に、件(くだん)の警察に言い切ったチャオの一言に尽きる。


 

ビンを庇って5年の服役中に、たった1年で出所したにも拘らず、1度も面会に来なかった男に会って、事情を聞き出すこと。(ビンの住所を聞き出したのも、この警察だった)

 

これ以外ではなかった。

 

およそ想像の範疇にあったが、それを本人から直接確かめる。

 

どんなことでも、自らが納得するまで自己完結させない。

 

これが女の強さの供給源になっている。

 

「そうなのね…私は直接彼に聞く。私と彼の問題だから」 


これは、「自分の感情は自分で解決しないとね」などと、ジャーイエンから上から目線で放たれた差別言辞に対するチャオの強烈な一撃である。 


かくて、男と再会したチャオは、「私は今もあんたの恋人?」と直截に問い詰めるのだ。 


「どう思う?」と逃げる男に、「私が尋ねてるの」と一気に畳み掛けていく女の強さは際立っている。

 

「もう渡世人でもない」とまで言い逃れて、立ち位置を後退させた男に対し、「今の私は渡世人。そしてあんたを探した」と切り返した女は、存分に恨み節を投げつける。 


その直後、立ち位置を後退させた男が放ったのは、「今の状態で、俺は帰れない…奴らに見せてやる」などという自家撞着(じかどうちゃく)の物言い。

 

男がジャーイエンとの関係を告白しても、もう、疾(と)うに見透かされている。

 

そして極めつけの会話の収束点は、以下の遣り取り。

 

「この手が俺の命を救った」

「ピストルは右手で撃った。私は左利きじゃない。忘れているのね」 

右手で威嚇射撃をするチャオ

これで男は、もうダメになった。

 

嗚咽の応酬。

 

女はここで、きっちりとケジメをつけたのだ。 

ケジメをつけたチャオは男から去っていく

女の人生の再出発は、殆ど約束済みだった。

 

時代の風景の変容が派手(はで)やかな大同に帰郷し、かつての雀荘の主人として仕切る女の人生の中枢に横臥(おうが)するのは、「渡世人」と化して男を探し、会い、別離を括った半生の時間を総括した心の風景である。

 

しかし、女は忘れていなかった。

 

忘れていなかったが、ケジメをつけた以上、もう会うわけにはいかない。

 

これが、誰よりもタフな女の「渡世」の論理である。

 

そんな情深き女のもとに届いた由々しき情報。

 

男が車椅子生活を余儀なくされているという看過できない現実。

 

衝撃的だったに違いない。

 

見過ごせない情態であるが故に、動かざるを得なかった。

 

同時にそれは、男との三度(みたび)の再会を果たすことにもなる。

 

だから、如何なる事態が待っているか分からないが、覚悟を括って男を引き取った。

 

そんなところではないだろうか。

 

を引き取った場所こそ、渡世に生きた男が帰るべき場所だった。

 

然るに、男が帰るべき場所には、渡世に集合した昔の気風が失われていた。 


障害を負ったの粗野な振る舞いに対し、大同の一角を仕切っていた男の極道気質を知らない舎弟から侮蔑の視線が放たれ、憤怒を剥(む)き出しにする男の屈折が露わになる。

 

就中(なかんずく)、ジャアとの確執のシーンは、立場が変わった男同士の関係の醜悪な相貌性を抉(えぐ)り出すのに十分過ぎた。

 

ここで、再び女の出番になる。

 

男の屈折を見透かし、澱み切った空気を一変させた女こそ、「渡世」のコアを体現するのだ。

 

既に、女が未婚である事実を知らされていた男は、「お前だけが俺を笑わないから、お前を頼った」などと吐露し、意地を見せつつも、ジャーイエンとの関係を尋ねない女に反問する。

 

「私には関係ない。だから、なんの感情もない」と強がる女の援助行為の総体に対し、執拗に突っ込んでいく男。

 

無論、十分な「間」を取って、「渡世の義理」という一言で処理した女に、男への特別な感情を持ち得ないわけがない。

 

好きなばかりに本音を言えない女の内的風景は、あまりに切な過ぎる。

 

ジャーイエンを「母親の腹の中」と表現したことでも分明なように、車椅子生活を余儀なくされた男をジャーイエンが受容できないことを察知したが故に、男は自ら妻との共存を捨てたと思われる。

 

そんな気質が容易に遷移するわけがないのだ。

 

従って、遣り切れないほどの脆弱性を隠し込む男の意地の強さが、生涯、寄り添って生きる選択をしたはずの女を裏切る行為に振れていくのは必至だった。

 

だからこそ、女の手を握って別れのメッセージを印象づけカットの挿入から開かれる、形容し難いほどのラストシーンの遣る瀬なさが、観る者の中枢を射抜く決定力を持ってしまったのだ。 


にべもない言い方だが、結局、この映画は、女を思う男の情愛よりも、男を思う女の情愛の方がいつでも上回ってしまっていたという「感情の落差」の問題に、「渡世の義理」などという余分な名分・人倫が張り付いていたと解釈するのが正解に近いと思われるのである。

ビンを失って衝撃を受けるチャオ

 
同上

―― 最後に、本作に寄せたジャ・ジャンクー監督の言葉を、インタビューから抜粋して引用しておきたい。

 

「人間を発見し、人間を描写するということ。それが今の私にとって一番重要なことですね」

「『帰れない二人』では、人間の感情の変化を正確に描こうと思っていた。本作が2001年から始まるのには理由があるんだ。2001年というのは新世紀を迎えた年であり、中国でも北京オリンピック開催、WTO加入、大規模な高速道路の建設、インターネット社会への突入とあらゆることが起こった、激動の時だった。本作の主人公であるビンとチャオは2001年という、古い時代と新しい時代のちょうど狭間を経験している人物なんだ」 

中国の変貌・北京オリンピック開会式( 2008年)

中国の変貌・WTO加盟(2001年)

中国の変貌・大規模な高速道路の建設(2016年)

中国の変貌・インターネット社会

「『お金が欲しい』『成功したい』という、さっき言ったような『金と権力』が男にとっての基準で、女性は愛と家庭に重きを置いて生きている。『金と権力』を求めるという男の弱点をチャオは知っていたからこそ、騙せたんだ。僕は男性の監督として、男の弱点をきちんと見つめて女性の強さを描いたつもりだよ」
 

ジャ・ジャンクー監督

「主人公ふたりの青春時代は、古い中国人が持っていた情感の世界を生きていました。しかし中年に至った彼らは時代の変化に適応した、新しい情感の表現をもっている。以前の中国ではほとんどの人が限られた区域を出ず生活を完結させていました。今は誰もが移動していく、流れていく。過去の情感の世界が捨て去られ、壊れていく。中年に至った男ビンにより傷つけられたにも関わらず不具となった彼をチャオは介護します。その理由をチャオ自身は渡世人の義理と解釈しているが、そこにはもちろん情があります」 

ジャ・ジャンクー監督

(2020年12月)

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