<「時間」と「空間」が限定された、一回的に自己完結する心理的共存の切なさ>
1 東京滞在に馴致できない中年男と、年若き女の出会いと別れの物語
パークハイアット東京ホテルに、二人のアメリカ人が宿泊している。
一人は、ウィスキーのCM撮影のために来日したハリウッドスターのボブ。
早速、スタジオで撮影に入るが、日本語が分からないボブは、通訳を介し、CMディレクターから威圧的な態度で「もっとテンションを上げろ」と指示されるが、要求されている内容が理解できず、戸惑うばかり。
ウイスキーのCM撮影 |
そんな状況下で、部屋でテレビを見ても、バーで飲んでいても落ち着かず、早く仕事を終えて帰国することばかり考えている。
もう一人は、カメラマンの夫ジョンに随行して、大都市・東京にやって来たシャーロット。
仕事が忙しく、ジョンに相手にされないシャーロットは、東京の街を一人で寂しく歩いて回るが、彼女もまた言葉が通じず、寺や生け花に接しても、心を動かされることがない。
ホテルの部屋に戻り、友人に電話しても話を聞いてもらえず、孤独感が極まって涙を零してしまうまうのだ。
ジョンの仕事の打ち合わせに同行したシャーロットは、バーに居合わせたボブと目が合い、笑みを交わし、ボブに一杯のお酒をプレゼントする。
ジョンとシャーロット |
不眠に悩むシャーロットとボブは、再びバーで出会い、会話する。
「なぜ東京に?」
「妻から逃れ、息子の誕生日を忘れ、200万ドルのギャラで、ウィスキーのCMに出てる。CMより芝居に出るべきだが。でも酒で気分がいい。君は、なぜ東京に?」
「カメラマンの夫が東京で撮影があって。ヒマだからついてきたの。東京に友人もいるし」
「結婚して、何年?」
「2年よ」
「僕は25年だ」
「あなたは“中年の危機”かも…25年だなんて。すごいわ」
「人生の三分の一は眠ってるから、8年と少し引ける。残りは16年と少し。16歳は、まだ“青春”だ。運転できるけど、事故を起こしやすい。君の仕事は?」
「まだ何も。春に大学を卒業したばかり」
「専攻は?」
「哲学よ」
「そいつは儲かりそうだ」
時に笑いながら、シャーロットは会話を繋いでいく。
「眠れないの」
「僕もだ」
最後の一言は、東京滞在に馴致(じゅんち)できない二人の本音だった。
夫の仕事仲間と飲みに行っても、溶け込めず、いつものように、バーに来ているボブに近づき、声をかけるシャーロット。
「楽しんでる?」
「秘密を守れる?脱獄を計画してる。共犯者が必要だ。このバーを出て、ホテルから逃げ出す。街からも、この国からも。やるか?」
「いいわ。荷物をまとめる。コートも。じゃあね」
そんな冗談めいた短い会話が、本当に遂行された。
ホテルの脱出計画が実行されたのだ。
ジョンが撮影の仕事で福岡へ行く留守の孤独を埋めるために、シャーロットの東京の友人チャーリーと会う約束にボブを誘ったのである。
再会した友人たちと飲み、踊り、街を走り抜け、カラオケを歌い、存分に愉悦する二人。
遊び疲れた二人は、タクシーでホテルに戻る。
ボブはシャーロットを抱え、彼女の部屋のベッドに寝かせるが、何も起きない。
それ以降、二人は遊びに出かけたり、病院へ行ったり、眠れぬ夜は部屋で一緒に酒を飲んだりして、会話が重ねられていく。
例えば、こんな会話もあった。
「なぜ日本人は“RとL”が苦手なの?」
「わざとさ。ふざけてるんだ。間違った発音で、楽しみたいのさ」
「二度と東京には来ない。今回が楽しすぎて」
「そうだな。君の言う通り」
東京で味わった孤立感が、ホテルの脱出計画の実践躬行(じっせんきゅうこう)を契機に、様々な体験の共有によって、「TOKYO」の多様性を感受し、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)することができたのである。
【ついでに書けば、日本では、LとRが音声として存在しないからである】
「君は、絶望的じゃない」と、ボブに言われたシャーロットは、その言葉を推進力に、一人で新幹線に乗り京都へ行く。
初めてシャーロットが能動的に行動し、「不思議の国・JAPAN」と遭遇したのだった。
古い寺社を訪ね、静寂な古都の空気感に自らをゆだねていく。
古式ゆかしき結婚式に見入るシャーロット |
シャーロットとの関係で少し元気が出たボブは、予定を変更してテレビのトーク番組に出演した。
一方、携帯電話に日常生活の些末なことで、逐一、電話をしてくる妻リディアに合わせていたが、そろそろ限界にきていた。
今回は、書斎の絨毯の色の変更についてだった。
「君に任せる。自分を見失った」
「たかが、絨毯よ」
「そのことじゃない」
「じゃ、何なの?」
「分からない。健康になりたい。自分を大切にしたい。まずは食生活を健康に。もうパスタはイヤだ。日本食のような食事がいい」
夜、バーのいつもの席で飲んでいると、専属歌手の女性に誘惑され、朝起きたら、ベッドを共にしたことに気づく。
嫌悪感に襲われたボブは、部屋にシャーロットがスシを食べに行かないかと誘い来るが、今は無理だと断る。
シャーロットも、「取込み中」と察知し、退散する。
その後、二人でしゃぶしゃぶ店に行くが、気まずい雰囲気で会話が弾まない。
世代の違う二人の共有言語が見つかっていないのだ。
その夜、ホテルの火災報知機が鳴り、部屋着のままロビーに集まる客たち。
シャーロットはそこでボブに気づき、立ち話で、明日、出発することを知る。
バーで見つめ合う二人。
「帰りたくない」
「じゃ、私と一緒に残って」
翌朝、出発のロビーで関係者に挨拶をするボブ。
シャーロットが部屋から降りてきて、別れの挨拶を交わすが、心残りのボブは、彼女が去るのを見つめている。
タクシーに乗り、ふと見ると、街中を歩くシャーロットの後ろ姿が目に留まった。
タクシーを降りて、シャーロットの元に行き、そっと抱擁し合う二人。
シャーロットは涙を浮かべ、ボブはその耳元に、何かを囁(ささや)く。
別れ際にキスを交わし、二人はそれぞれの方向へ歩いていく。
2 「時間」と「空間」が限定された、一回的に自己完結する心理的共存の切なさ
映画の中に、印象深い会話があった。
「行き詰っているの。年と共に楽になる?」
「いや…そうだな。楽になるよ」
「ほんと?あなたは違うみたい」
「どうも。自分自身や望みがわかってくれば、余計なことに、振り回されなくなるよ」
「何をやればいいのか、わからないの。物書きになろうとしたけど、私の文章は最悪だし、写真を撮ろうとしても、面白くもない写真ばかり。女の子は誰でも、写真に夢中になるの。馬を好きになるように。自分の足とか、くだらない写真ばかり撮る」
「今に道が見つかるよ。君なら何の心配もない。書き続けろ」
「私、意地悪なの」
「そんなの平気さ」
「結婚も楽になる?」
「それは難しい。昔は楽しかった。リディアもロケ先へついてきたし、毎日、笑ってばかりいた。今は、子供のそばを離れたがらないし…僕を必要としてない。僕がいないと、子供たちは寂しがるけど、子供ができると、結婚は複雑になるよ」
「そうね。怖いわ」
「初めて子供が生まれた日は、恐ろしかった」
「わかる。誰も言わないけど」
「今まで慣れ親しんだ生き方は、もう、おしまい。二度と戻らない。でも子供が歩き、言葉を覚えると、そばに、ついていたくなる。やがて、子供こそ、人生で何より、素晴らしい存在になる」
「ステキだわ」
このように、人生観の深いところに踏み込んだ会話が交わされていくのだ。
それは、短い日々の中で、二人の関係がプライバシーを共有する辺りにまで発展したことを意味する。
しかし、それでも世代の落差を埋めるのは難しい。
ボブの場合、多くの夫婦がそうであるように、25年の結婚生活の初発点では、「昔は楽しかった。リディアもロケ先へついてきたし、毎日、笑ってばかりいた」妻との関係が、今や、「僕を必要としてない。今まで慣れ親しんだ生き方は、もう、おしまい。二度と戻らない」夫婦に変貌する。
大袈裟に言えば、ミッドライフ・クライシス(「中年の危機」)の状態である。
同時に、30歳代後半から頃からテストステロンの低下することによって起こる、LOH症候群(男性更年期障害)の渦中にあったとも想定されるボブにとって、ホテルのバーの専属歌手の強引な誘いに乗っても、セックスで得られる快感などとは無縁であった。
燥(はしゃ)ぐ女を見て自己嫌悪に陥るボブ |
![]() |
LOH症候群(男性更年期障害) |
「子供こそ、人生で何より、素晴らしい存在になる」
ボブには、それだけが生き甲斐だったのだ。
だから、シャーロットと一過的に物理的共存を果たしても、男女関係に発展するイメージが湧きようがなかった。
一方、シャーロットの場合、「何をやればいいのか、わからないの」と吐露するほどに、自らの能力を測定できず、その若き時間のアイデンティティで煩悶する日々を繋いでいた。
だから、何の目的意識もなしに、カメラマンの夫ジョンに随行する。
目的意識もないから、異国の地で疎外感に苛(さいな)まれる。
東京の街を歩いても、全く心を動かされることがない。
言語交通の問題だけではない。
「物書きになろうとしたけど、私の文章は最悪だし、写真を撮ろうとしても、面白くもない写真ばかり」
この言葉で判然とするように、自らの能力に自信を持てないシャーロットの自己肯定感の希薄さが、異国の地での彼女の疎外感を浮き彫りにしてしまうのである。
異国の地の首都・TOKYOの夜の街を俯瞰するシーンの、その空疎な表情が炙り出しているのは、若くして結婚しつつも、基本的に「青春期」の中枢にあって、浮遊する自我の見えない呻(うめ)きの漂動だった。
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東京の夜景(映画にはない) |
哲学を専攻し、物書きを志向しながら、捨てられていく希望が累加する青春の、見えない呻きの漂動。
心の芯が浮遊しているのだ。
だから、ただ彷徨しているのである。
ミッドライフ・クライシスのボブと、自己肯定感の希薄なシャーロット。
そんな二人が、異国の地で偶然に出会った。
「異界」とも思えるような異国の地での、不自由な非日常の生活での疎外感を浄化するために、まさに、それが限定した時間であるが故に、求め合うように胚胎した心理的共存。
心理的共存の象徴的構図
この心理的共存こそが、世代の異なる男女の関係を根柢において支え切っている。
だから、心理的共存をベースにしたこの関係は、「時間」と「空間」が限定された、言わば、その場限りの、一回的に自己完結する関係であった。
別離の前夜の二人 |
別離の朝、TOKYOを俯瞰するボブ |
その現実を共有し合っているからこそ、ラストの別離のシーンが切ないのだ。
シンプルな構成に凝縮させ、心理描写を的確に表現した映画の達成点は、ここにある。
ラストシーン |
―― 本稿の最後に、「不思議の国・JAPAN」との関係について言及したい。
「初めて日本に来たのは大学出たての時だったんだけど、日本は今まで行った場所とは全く違う所だと強く感じたわ。例えばヨーロッパに行くと、同じアルファベットを使う国だから看板とかは読めるわけよね。でも日本は言葉も通じなければ、外見だって違うし、看板すら読めなかった。それから何度も来日するうちに日本が大好きになったわ。だってとてもエキサイティングで刺激的だし、とても美しいんですもの。私が感じた東京の印象は、今までアメリカ映画で描かれてきたものとは違うわ。だから「今まで描かれることのなかった東京を撮りたい」と思って、この映画を作ったのよ」(ソフィア・コッポラ『ロスト・イン・トランスレーション』インタビュー)
これは、公開時に訪日した、ソフィア・コッポラ監督のインタビューでの言葉である。
観る者によって反応が異なるだろうが、この言葉の中に、少なくとも、ガーリー・カルチャー(その個性的なファッションなど、女性の主体的な文化運動)の先駆者と言われるソフィア・コッポラ監督の、日本に対する初発の印象は読み取れるだろう。
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ソフィア・コッポラ監督
思うに、民族とは、文化・言語・宗教・生活様式などを共有する人間集団である。
殆ど、その全てにおいて異なる民族が、明瞭な目的意識を持つことなく、一過的で、金目当てのビジネス、或いは、単なる随行者として異国の首都にやって来たとしたら、そこで何とも言いようのない孤立感・疎外感を覚えるのは避けられないだろう。
「ご時世」という、その時々の空気で動く「日本教」こそ、日本人の「宗教」であるとした山本七平の指摘を例に出すまでもなく、この「日本教」の神髄を共有すべく何ものもないばかりか、世界有数の大都市でありながら、英語を話さない民族との交叉が、一神教を精神的基盤にする「宗教国家」で呼吸を繋ぐ人々の内面で、「ロスト・イン・トランスレーション」が出来するのは必至だったということ。
これに尽きるのではないか。
その意味で、日本語の字幕を削った映画の設定は正解だったということである。
(2020年10月)
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