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2021年10月24日日曜日

ミナリ('20)   リー・アイザック・チョン

 

                    韓国系移民の家族


 
<多くの目に留まらない、見過ごされているものに価値を見出していく>

 

 

1  「よく育ってる。おばあちゃんのお手柄だ。おいしそうだ」

 

 

 

「ここは?」とモニカ。


「家だよ」とジェイコブ。


「約束が違うじゃない」とモニカ。
 


オープニングシーンとなる夫婦の会話である。。

 

アメリカ南部・アーカンソー州の高原にやって来たのは、韓国人移民の4人家族。 

アーカンソー州(ウィキ)

アーカンソー州の高原


長女アンと弟のデビットは、今まで見たことがないトレーラーハウスを見て、好奇心を抱く。 



納得できないモニカを、ジェイコブが説得する。 

トレーラーハウスの内部を見るモニカ


「この土、色を見ろよ。土がいいから、ここに来たんだ」


「土がいいから?」

「米国で一番、肥えた土だ」

「あきれた」 



今度は、遠くで遊ぶ息子のデビッドに向かって、夢を持たせるようなことを言い放つジェイコブ。

 

「ビッグなガーデンを作る!エデンの園は、これくらい大きい」 



自らの夢を追う夫・ジェイコブに随行しつつも、不満を抱える妻・モニカ。

 

そのモニカは、心臓疾患を持つデビッドを、常に気にかける。 


胸に聴診器を当て、先天性心疾患と思われる心雑音(心臓の異常音)を確かめ、ノートに記録する。 



その翌日のこと。

 

「ヒヨコ鑑定の専門家」と紹介されたジェイコブは、モニカと共に、“ウィルキンソン孵卵場”で働くことになった。 



しかし、カリフォルニアでヒヨコ鑑定士(注1)の職人として、10年間働いても金が貯まらなかったジェイコブは、一獲千金を狙い、50エーカー(注2)の農場主を夢見て、アーカンソー州にやって来たのである。 

ヒヨコ鑑定するジェイコブ

トンネルから排出される煙を尋ねるデビッドに対して、説明する父



(注1)ヒヨコ鑑定とは、雌雄の区別が困難なヒヨコを鑑別することで、鶏卵を産むメスを販売用にして、鶏肉としての利用価値のないオスは殺処分される。 

バケツに積み重ねられていく雛(ウィキ)


(注2)1エーカーが4047㎡なので、50エーカーなら東京ドームが5個以上の広さとなる。

 

夫婦の生活観の軋轢(あつれき)は、なお延長されていくばかりだった。

 

豪雨の中、トルネード警報が出て、トレーラーハウスに危険が迫ったことで、遂にモニカの不満が爆発してしまう。 


激しい夫婦喧嘩が始まるのだ。 



「いい加減にして!」

「つらいのは分かるけど、夢のために犠牲は必要だ!少し辛抱すれば、幸せに暮らせる」

「我慢の限界よ!」

 

両親の夫婦喧嘩を止めるために、姉弟は紙飛行機を作り、それを両親に投げつける。 

紙飛行機を作る姉弟

紙飛行機を飛ばすデビッド


無力な姉弟には、これだけが唯一の手段だったのだろう。

 

奏功(そうこう)しない紙飛行機だったが、言いたいことを出し切って収束する夫婦喧嘩。

 

「これが始まりだ」


「これが始まりなら、希望はない」
 



喧嘩が収まっても、生活観の決定的な不一致は変わらない。

 

家族の安寧を確保するために、ジェイコブはモニカの母を韓国から呼び寄せることにする。

 

農業用水の確保に苦労するジェイコブと、実母を迎える準備に余念がないモニカ。 

我が子に農作業を教える父






「決断力がありますね。皆が避ける土地を買うとは、感心します。最近の農業は、当り外れが大きいですが、レーガン大統領は、農家の幸せを願ってます」 



この土地の売主からの発言から、時代背景が1980年代であることが判然とする。

 

母が来ることで安寧を得た妻の表情を確認し、落ち着く夫は、土地の開墾に勤(いそ)しみ、家族の安寧が守られていく。 

アンとデビッド


スンジャが韓国からやって来た。 

スンジャとモニカ


「韓国の匂い」と言って嫌い、懐かないデビッドに、スンジャは花札をプレゼントする。

 

クッキーも焼けず、料理もしないスンジャのできることと言えば、花札(注3)だけ。 



アンとデビッドを相手に、花札に興じるスンジャ。

 

(注3)朝鮮半島に李氏朝鮮末期に伝えられた花札。韓国では現在でも「3人集まれば必ず花札をする」と言われるほど人気があり、「国民ゲーム」と称されるほどである。

韓国の花札は「花闘」(ファトゥ)と呼ばれ、年齢や階層を問わず幅広く親しまれている

 


姉弟を連れ、草原の奥深くまでやって来たスンジャは、韓国から持って来た「ミナリ」(春の七草の一つであるセリ)の種を、水辺に植えると言い出す。             



友人のいないモニカの孤独を心配し、家族で教会を訪れ、それぞれがアメリカ人たちと交流する。 



祖母らしくないスンジャを嫌うデビッドは、頼まれた“山の雫”(やまのしずく)の代わりに自分の尿を入れ、スンジャに飲ませてしまう。 


“悪ガキ”と叫ぶスンジャ。

 

細い棒を持って来させ、それで叩く韓国流のお仕置きを父から受けるデビッドだが、スンジャが庇ったことで、一件落着する。 



地元のポールを雇い、農作業を手伝ってもらって、作物は順調に生育しているかに見えたが、土が乾き、水が枯渇してしまう。 

地元の変人・ポールを雇う


ジェイコブは必死に掘削作業をするが、生命線である水源を確保できないのだ。 

水源確保に苦労するジェイコブとポール


重労働の農作業で腕が上がらなくなったジェイコブは、モニカに髪を洗ってもらう始末。 


それでも、農作業に拘泥する夫は、妻に「失敗したら、家を出てもいい」とまで言って、覚悟を括る。

 

ダウジング(注4)で水源を捜すポールの助言を無視し、自力で農業用水を確保し、何とか作物の収穫に漕(こ)ぎ着けた。 

農業用水

ナス

黄色いトウガラシ


(注4)古代から現代に至って、棒や振り子を駆使し、地下水や鉱脈などを発見する手法で、水道管の位置を調べるために、日本でも行われている。 

ダウジング(「日本ダウザー協会」より)


ところが、出荷先から断られ、水道代も払えないと苛立つジェイコブ。

 

孵卵場へ出勤するが、気もそぞろで、仕事も頓挫してしまう。

 

そんな渦中でも、子供たちは元気だった。

 

教会から迎えのバスが来たが、ケガをして行けないデビッドは、祖母とミナリの生育する場所に向かい、少しずつ、祖母に親密感を覚えるようになっていく。 




自由奔放な祖母に接して、解放感を得ているようだった。

 

一方、農業用水の枯渇は深刻さを増していく。

 

水道水を畑に使用したため、いよいよ生活用水が出なくなり、食事の支度にも窮し、モニカは働いて家族を養うと言うのだ。 



スンジャが失禁し、病院に入院したのは、そんな折だった。 


脳卒中である。

 

家に戻ったスンジャは、後遺症によって、言葉を尋常に発することもできず、手も不自由になっていた。 



そんな祖母の状態と裏腹に、デビッドの心臓疾患が著しく改善していると医師の説明を受ける家族。 


「とにかく、今の生活を変えないで」 


医師の言葉である。

 

ジェイコブは韓国食品を扱う店に行き、持参した農作物を見せ、納品が決まり、喜びを隠せないが、「今の生活を変えない」選択を強いられたモニカの不満だけが募っていく。

 

スンジャがゴミの焼却した際に、火が農業倉庫に燃え移ってしまったのは、そんな折だった。 



帰宅したジェイコブとモニカは、必死に農作物を運び出すが、煙に巻かれて耐え切れなくなった。 



ショックの大きさで、ふらつきながら歩くスンジャを姉弟が追い駆け、家に連れて帰る。

 

疲れ切って、雑魚寝する4人家族を見つめるスンジャ。 



夜が明け、なお諦めないジェイコブは、全てを失ったこの状況からリスタートしていく。

 

あろうことか、ポールが連れて来たダウジング専門家に水源を探し当ててもらうのだ。 


傍らには、夫と別れず、この地に留まるモニカもいる。

 

ラストシーン。

 

ジェイコブはデビッドに誘われ、スンジャが植えたミナリの水辺に行く。

 

「よく育ってる。おばあちゃんのお手柄だ。おいしそうだ」 



そう言って、ミナリを収穫するジェイコブが、まるで別人になったように、嬉々として弾けている。

 

家族の再生もまた、ここから開かれていくのだ。

 

 

 

2  多くの目に留まらない、見過ごされているものに価値を見出していく

 

 

 

「何かとお金がかかる。深刻な問題よ」

「うまくいくさ…俺が責任、取る。片田舎に来たのも、家族のためだ。ここで失敗したら、好きにしてくれ。家を出てもいい」

 

水源を失った状況にまで追い詰められた、夫婦の会話の初発点である。

 

その生活観の乖離で揉めている夫婦は、終(つい)に、こんな会話を結んでしまった。

 

夫婦は、更に追い詰められていく。

 

以下、デビッドの心臓検査のためにやって来た街の病院の、待合室での会話である。

 

「韓国で生きるのは、つらかった。結婚した時、言ったろ?アメリカで助け合おうって」


「覚えてる」

「助け合うどころか、ケンカしすぎて、病気の子が生まれたのかな」


「あなた、一緒に行かない?あなた無しじゃダメ」


「行きたいのはお前だ」

「ここにいたら破滅よ。カリフォルニアで借金を返せる」


「死ぬまでヒヨコの鑑別だ」


「子どもたちのためにも」

「父親が成功するのを見せたい」


「何のために?一緒にいるのが大事よ」


「お前は向こうで、好きなことをしろよ。俺は全てを失っても、始めたことを終わらせる」 



「アメリカで助け合う」約束をルーツに、「家族のため」に片田舎に来た夫は今、「父親が成功するのを見せたい」思いまで捨て、家族を離反させても、「始めたことを終わらせる」とまで言い切ったのである。

 

夫婦の不和は、もう復元出来ない状態にまできていた。

 

既に子供たちも、どちらの親を選ぶかについて、密(ひそ)かに相談しているのだ。 


夫婦の確執に、終わりが見えないようだった。

 

「分かってないの?さっき病院でも、あなたは家族より農場を選んだ」


「今は状況が違うだろ。全てうまくいった」

「よければ一緒に住んで、悪ければ別れる?」

「これからは金さえ稼げば、何の問題もなく暮らせる」


「あなたの考えは、助け合えなくても、お金は稼げる?でも私は、今がよくても、この先は自信がない。結果が分かってるのに、あなたを信じるなんて。私は疲れ切ってるの。これ以上は無理」
 



「間」(ま)ができた。

 

この「間」の中から、諦念(ていねん)した者の如く、ジェイコブは言葉を結ぶ。

 

「分かった。もういい」 


それだけである。

 

もう、「幸福家族の解体」という、最悪の事態を免れないようだった。 

言葉を紡げない妻

言葉を紡げない夫


「幸福家族の解体」という事態は、何を招来させるのか。

 

二人の子供と祖母を連れて、妻がカリフォルニアにいったら、どうなるか。

 

妻のヒヨコ鑑定の収入だけでは、とうてい覚束(おぼつか)ないだろう。

 

残された夫が、一人で畑作を続けても、生活全般を維持することが可能だろうか。 

水源確保で追い詰められていくジェイコブの煩悶



仮に子供を残していったとしたら、なお困難であるに違いない。

 

我が子を失った妻もまた、祖母の介護を強いられ、精神的に追い詰められていくと思われる。

 

「幸福家族の解体」という事態は、全てを失った人間の悲観的な風景を炙(あぶ)り出してしまうのである。

 

その家族が今、農業倉庫を焼失してしまった。

 

夫にとって、命の倉庫である。

 

呆然と立ち尽くすことなく、燃え広がる火災の只中に身を投げ入れ、作物を運び出す。 


妻も動く。

 

力を合わせて、夫婦が動くのだ。

 

妻を救済するために、必死で動く夫が、そこにいた。 


この夫の行動が、妻の琴線に触れていく。 


しかし、手遅れだった。

 

生命線である農業倉庫の焼失によって、この移民家族は全てを失ってしまうのだ。

 

思うに、人間は全てを失った時、どうするのだろうか。

 

自暴自棄になるのか。

 

心を痛み、言語を封じてしまうのか。

 

或いは、そこに留まり、再起に転じるのか。

 

この3つの選択肢に限定されないだろうが、この映画の主人公、及び家族は、「再起に転じる」という、最も艱難(かんなん)な生き方を選択した。

燃え盛る火の海の中で、妻を救済する夫/これが「家族再生」の起点になっていく
 



物語をフォローしていけば、映画の主人公が、前二者の選択肢に振れないキャラクターであることは自明である。

 

「全てを失っても、始めたことを終わらせる」とまで言い切った男なのだ。 



「始めたことを終わらせる」という性格の主は、少なくとも、物事を合理的に考えず、計画性がなく、「広く浅く」の器用貧乏、且つ、大雑把(おおざっぱ)で、中途半端な人間ではないと言える。

 

物事に対して常に突き詰め、一心不乱に向かっていく性向を有し、時間を切り拓いていく覚悟を括れる意志の強さ。

 

この強さが、男にはある。 


「父親が成功するのを見せたい」


それ故に、当然ながらと言うべきか、「生活合理主義」に振れる妻と衝突するのは不可避だった。 


男は、妻との別離をも覚悟した。

 

しかし、人間は面白い。

 

全てを失った時、男は反転したのだ。

 

あれほどまでに合理的思考の持ち主であったにも拘らず、「非合理の極」とまで嫌悪していたダウジングを受容し、新たな水源を発見していく行為に振れたのである。 


そこで得たのは、義母が育てた、水辺に繁茂するミナリだった。 


「おばあちゃんのお手柄だ」 

おばあちゃんが育てたミナリが繁茂する


思わず、男は叫びを上げた。

 

失火させた義母を恨むことなく、大地と闘って頓挫した男が、大地に寄り添って生き抜く義母への謝念を、この言辞のうちに結ばれたのである。

 

そんな男の傍らには、奇跡の生還を遂げた「我が息子」がいて、遠くには、今や、再起した夫を待つ「最愛の妻」の姿がある。

 

夫婦の確執が溶け、この家族は再生するのだ。

 

それは、全てを失ったからこそ辿り着いた、それ以外にない景色だった。

 

「私は生態学を学んでいた頃から、人は大地に対して様々な接し方ができると考えていました。例えば今作では、父親と祖母では大地へのアプローチが違うんです。父親は、勤勉にとにかく(農場へ)水を引こうとします。しかし祖母は違います。水辺の方へ行こうとするのです。そして、父親は育ちづらく闘いながら育てるような作物を作ろうとしていますが、祖母は水辺で育ちやすいものを植えるのです」(リー・アイザック・チョン監督インタビュー) 

       サンダンス映画祭でのリー・アイザック・チョン監督(右)と、主演のスティーブン・ユァン



「土地を切り開いて何らかの成功を得るというのは、カルチャー的な意味なんですよね。現実では、私たちを生かして、人間性をもたらしてくれているのは、多くの目に留まらない、見過ごされている人々のような気がします。今作のなかでは、それが祖母のキャラクターです。彼女だけが少し違った現実に目を向けていて、それは愛なのです。だからこそ、この作品のタイトルを『ミナリ』にしました。彼女がこの家族に持ち込んで、大切にしたものであり、究極的にはこの家族に生活の糧を与えてくれたものですから」(リー・アイザック・チョン監督インタビュー) 

リー・アイザック・チョン監督(左)と出演者



「多くの目に留まらない、見過ごされている」ものに価値を見出すこと。

 

作り手の言葉だが、このメッセージが本作を貫流している。

 

強靭なまでの合理的思考を観念の推進力として、未知なる大地と闘い、フラッシュクラッシュ(瞬時の急落)に遭遇し、決定的に揺り戻された時、大地に寄り添って生き抜く義母の真価を認知する。 

ポールの「悪魔祓い」の儀式をバカにするジェイコブ

ダウジングを勧めるポールの提案を無視するジェイコブ


セリ(ミナリ/ウィキ)


認知することで手に入れた価値は、認知することを拒み続けて失った価値よりも、遥かに大きかった。

 

男の再生が約束されたからである。

 

この映画は、単に移民の苦労譚ではなく、「家族の再生」の物語だったのだ。 



【余稿】

 

移民の絶対数を制限する「割当移民制度」を採用した「1924年移民法」(通称ジョンソン・リード法)の下で、日本人移民の全面禁止を規定する「排日条項」を盛り込む人種差別主義的な立法であったが、これが完全に廃止されたのは1965年の「移民帰化法」(改正移民法)。

「1924年排日移民法」に抗議するデモ(ウィキ)

 

以降、再び移民が増加していく。

 

とりわけ韓国の場合、ベトナム戦争を契機に米国の同盟国という待遇があり、「移民国籍法」によって年間100人の移民枠が割り当てられていく。

 

更に「移民帰化法」の後押しがあり、米国各地にコリア・タウンが形成されるに至って、映画の時代背景となった1980年代には、約35万人もの韓国人が渡米し、移民と化している。 

                   LA・コリアタウン


(2021年10月)

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