「19世紀 ベトナム 14歳のメイは、裕福な大地主の第三夫人となる。事実に基づく物語」(冒頭のキャプション)
二艘(いっそう)の小舟。
先頭の一艘に、花嫁となる少女が乗り、渓流を上っていく。
少女を迎えたのは、養蚕業を営む大地主・ハン一家。
花嫁の名はメイ。
ハンの第三夫人として嫁いできたのである。
結婚式が華やかに執り行われ、第二夫人のスアンの歌が披露されている。
美しいスアンに見入るメイ。
幼さを残した表情には、緊張感が解(ほぐ)れていないのが透けて見える。
盛大な結婚式が執り行われたら、初夜の儀式が待っていた。
生卵の黄身をハンが口に含み、それをメイの体に這わせて、交接に及ぶのだ。
翌朝、枝にかけられた血の付いたシーツが花瓶に差され、その横にメイは佇んでいる。
メイ(中央) |
処女の初夜を証明する習わしなのだろう。
「いつも村の医者がハ奥様に作ってた。奥様の妊娠中は毎日、私も祈りました。男の赤ちゃんの元気な鳴き声を聞いて、うれしかったわ」
「私も男の子を」
「そうですよ。スアンさんは、“奥様”とは言えない。旦那様の息子を産んでないからです」
ラオ(右) |
筆頭使用人のラオとの会話である。
ラオが言う「ハ奥様」とは、第一夫人ハのこと。
家主ハンと第一夫人ハ |
そのハ夫人には、年頃の息子・ソンがいる。
ハ夫人 |
ソン |
唯一の男児を儲けたことで、ハ夫人=「ハ奥様」と呼称され、三人の女児を儲けた第二夫人スアンと一線を画すのである。
第二夫人スアン |
スアン夫人の二人の女児の名は、リエンとニャン。
初潮を迎えた時のリエン(左)とメイ |
ニャン |
三人目の子は、まだ幼児で、その名の映像提示はない。
ニャンと三人目の子(左) |
一線を画す両夫人だが、二人には確執の欠片(かけら)も拾えない。
絹で編んだと思われる美しいアオザイ(ベトナムの民族衣装)を身に纏(まと)い、弱い立場に置かれた者同士の「女性共同体」が、そこにある。
その「女性共同体」の中枢に、メイが吸収されていく。
「あの時はとても痛いの」とメイ。
「演技をすれば、旦那様も喜ぶわ。いつか、それが本当になる。ハ夫人は、荒々しくされるのが好き」とスアン。
「荒々しく?」とメイ。
「笑えばいいわ。そのうち分かるから。子供を産むと体が変わる」とハ。
装身具を磨きながら、ハとスアンが、不安含みのメイに、家主ハンからの愛され方を教授するのだ。
そんな折、スアンの長女リエンが初潮を迎えた。
喜ぶ母スアン。
![]() |
リエン(右) |
リエンの妹のニャンは、メイとの花摘みの家路の途中、「黄色い花には毒がある」とメイに言い伝える。
「女性共同体」の暮らしに溶け込んでいくメイ。
そして、待ち望まれていたメイの妊娠。
「メイを甘やかさないで」
メイを可愛がる祖父に対して、ハが一言、添えた。
「心配しなくていい。あの子はまだ子供だ。野心などない。結局のところ、人は仏の陰に積もる塵に過ぎない」
「野心」という言葉に驚かされるが、ハの言葉には毒がない。
悪阻(つわり)で苦しみ、夜中に目覚めたメイが、寝床を抜け出したスアンのあとを追い、そこで見たのは、第一夫人の息子ソンとスアンの交接の現場だった。
メイの回想シーン・興奮を高めていく |
興奮する少女は「性」に目覚めたのだ。
スアンに対する想いも強化されていく。
そのスアンに優しく体を拭いてもらったり、髪を梳(す)いてもらって、愉悦するメイ。
その直後に提示された映像は、密通が発覚した使用人がハンに鞭打たれる描写。
女は剃髪(ていはつ)されて寺に引き取られ、男には罰が待っている、とスアンに聞かされた。
剃髪された女 |
その夜、スアンは三人目の幼児を抱き、自分の部屋の前でリエン、ニャンと共に蒸し暑いひと時を過ごしている。
子守歌を歌うスアンと3人の女児 |
スアンの子守歌に聴き入っているメイ。
メイがベッドに入って来たハンを拒んだのは、この直後だった。
ハンを拒絶するメイ |
今や、メイには、スアンのことしか頭にない。
日々、スアンのことばかり考え、彼女なりのセクシュアリティーを感じてしまうので、ハンの性愛を受容し得なくなっているのだ。
まもなく、メイから乗り換えられたかの如く、ハ夫人が妊娠した。
日夜、メイと枕を共にするハンはハ夫人に乗り換え、夫人は妊娠に至る |
ハ夫人のよがり声を聞くメイ。
小正月などの飾り物として、養蚕によって絹を作る繭玉(まゆだま)が映し出された。
今、三夫人が広い庭で寛(くつろ)いでいる。
向こうに見えるのは、スアンの三人の女児たち。
ラオが三人目の幼児を抱いているのが見える。
一幅の印象派絵画のような構図である。
ハ夫人の妊娠を祝う御馳走が振る舞われ、その様子を見ているメイには対抗心が湧いていた。
ハ夫人と第二夫人スアン(左) |
「どうか、私に息子を授けてください。この家で最後の男の子を」
まもなく、ソンの結婚が決まるが、乗り気ではないソンは刃物を振り回して拒絶する。
「知らない女となんか結婚できない」
ソンを抱きながら慰めるハ。
「私も相手を知らなかった。式の日に初めて会ったの」
そんな折、ニャンが可愛がっていた牛が病気になり、黄色い花で毒殺するハ。
烈しく拒絶するニャンは、スアンが無理やり食事を採らせようとするが、頑として拒否する。
「どうして毒草を?」とメイ。
「結婚式の日に死なれたら困る」とハ夫人。
朝方、当の本人のソンは諦め切れずに、スアンの元に行くが、スアンに拒まれてしまう。
「俺達には、子供も生まれたのに」
「あなたの娘じゃない。旦那様の子よ」
「何だって?嘘をつくな」
「いえ、本当よ。アザミ茶を飲んで、あなたのは流していた。分かったら、もう諦めて。もう行って…」
「僕を、愛してなかったのか?」
スアンも辛い。
しかし、それ以外の選択肢がないのだ。
部屋に戻ったソンは、ラオに慰められる。
ラオもまた、好きな人と一緒になれなかった話をして、一時(いっとき)、ソンの気持ちを和らげる。
ハが流産した。
メイは自分が息子を欲しいと祈ったから天罰が下る、と泣いてスアンに訴える。
「リエンを妊娠中に、息子が欲しいと祈った。ニャンの時もそうよ。でも3回目は祈るのをやめた。運命は変えられない」
スアンはそう話して、メイを慰めた。
かくて迎えた、ソンの結婚式の初夜。
あどけない花嫁・トゥエットが待っている部屋に、ソンは酩酊状態で入って来た。
トゥエット |
少女が服を脱ごうとすると、「やめろ!」と叫ぶソン。
祝福すべき儀式が終焉した瞬間である。
一方、スアンに大きなお腹のマッサージをしてもらうメイは、愈々(いよいよ)、スアンへの「愛」を隠し切れなくなった。
メイはスアンにキスをし、スアンも応じるが、途中で止めさせた。
「こんなこと許されない」
「あなたを好きなの」
「ダメよ。天罰が下る」
「でも、愛してる」
「できないわ」
「どうして?」
「あなたは、もうすぐ子供を産む。きっと、自分でも混乱してるのよ。今の気持ちは、本物じゃない」
メイは、嗚咽しながらスアンを睨む。
「私を嫌いなのね」
「愛してるわ。でも、娘のように思ってるの」
もう、これ以上、先に進めなかった。
メイの「愛」も、終焉を迎えるに至る。
2 凛とした少女が映像総体を括っていく
ソンは、トゥエットをどうしても嫁にできないと、ハに泣いて訴える。
トゥエットは、その叫びを家の外で聞き、立ち竦むばかり。
「息子はお嬢さんに、手を触れていません。ご了解いただけるなら、お返しして、持参金の3倍の額を支払います。それから、村の長老と仲人たちにも公式に発表する。他の男と結婚できるように」
「触れてない?よくも家名に泥を塗ったな。唯一の役目も果たせないのか?」
ハンの話を聞いたトゥエットの父は、トゥエットの方に向いて、そう言い放った。
涙ぐむトゥエット。
「息子が破談にしたいと。慣習に反するのは分かってます」とハン。
「だが、連れて帰れない。神々への誓いと血の契りで、2人は結ばれた。破談にはできません」
この否定的言辞を残し、トゥエットの父は「絹の里」を去っていく。
突然、破水したメイの陣痛が始まり、烈しい苦痛の中、スアンとハに守られながら、女の子を産み落とした。
トゥエットが首吊り自殺をしたのは、人間の感情が複雑に交叉する、その只中であった。
トゥエットの自死 |
この状況下で炙り出されるのは、複層的に絡み合った個々の感情の、隠し切れない差異性。
祝福と不幸。
喜びと失望。
不安と絶望。
恐怖と懇願。
それらが、限定スポットで混在する。
「お願いです。お父さん。助けてください」
答える術(すべ)をない家長。
人間の脆弱性が突沸(とっぷつ)する。
少女と男系家長の落胆と、決して言語化しない二夫人の安堵。
悪意がないが、こういう時、人間は防衛的に振れていく。
それが、渓谷の「絹の里」=「桃源郷」の中枢を、十重二十重(とえはたえ)に囲繞しているのだ。
少女の死の葬儀で、皆が庭に集まり、祈りを捧げている。
赤ちゃんを抱いたメイは、スアンを初め、各自の様子を見つめている。
棺を乗せた小舟が、川を下り、洞窟の中を進んでいく。
抱いている赤ちゃんが泣き叫び、手を拱(こまね)くスアンは涙ぐんでしまう。
図らずも、目に付いた有毒の黄色い花を折って手に取り、赤ん坊の口の傍(そば)に持ってくる。
これ以上、語らない映画のラストシーン。
ニャンが今、自分の長髪をハサミで切り、川に流す。
カメラを真っ直(まっす)ぐ見つめ、恐れ知らずの笑みを浮かべるニャン。
凛とした少女が、映像総体を括ったのである。
3 「愛」があって「性」がある関係にのめり込んでいった少女の「愛の風景」
男女平等の否定=男尊女卑的な思想に対する明瞭なメッセージを提示した映画で、主題提起力・構成力が驚くほど高く、優れた芸術性を有し、極めて構築的に仕上がった現代の名画である。
人間の複雑な感情の交叉を、ほぼ、映像のみで提示した映画の完成度の高さに、正直、驚きを隠せない。
ここでは、実話とは無縁な、二つの勁烈(けいれつ)なエピソードを物語から拾ってみたい。
その一つ。
トゥエットの自死である。
結婚式の初夜で被弾した、酷薄なるソンの誹謗。
ソンの、救いがたい劣弱さの伏流にある「スアンの拒絶」。
これを無視し得ないが、それと同程度において隠し込めずに表層化したのは、「自分以外の男系後継者」が存在しないという、関係構図の心理的圧力という負の記号性である。
視界狭隘なランドスケープの、その憫然(びんぜん)たる様相。
この男もまた、「男系絶対」の「絹の里」の「犠牲者」と言えるが、それでも、家長に対する「懇願言辞」を有していた。
父に助けを乞う男 |
救済を渇望し、罪の浄化を懇願する言辞を持ち得ていたのだ。
罪の浄化⇒仏教的救済を自己完結すれば、それで「昇華」されてしまう理不尽さは、この村の男系特権である。
然るに、「女系特権」を奪われた女性たちは、「男系絶対」の「絹の里」で諦念し、沈黙するのみ。
熱(いき)り立つ何ものもない、トゥエットの自死のバックグラウンドに、このオーバーハング(頭上に突き出た岩壁)が寝そべっている。
「連れて帰れない」
トゥエットの父からの決定的な被弾は、「死の宣告」と同義である。
「他の男と結婚できるように」とハンは言うが、「連れて帰れない」と父に見限られた少女に、未来がない。
空間を剥奪(はくだつ)された少女には、〈生〉を繋いでいく時間もないのだ。
人格総体の否定であると言っていい。
だから、少女の自死は約束されてしまったのである。
これが、最も悲哀を極めるトゥエットの「渓流上り」の全てだった。
少女は、それ以外にない選択を強いられ、それ以外にない行為に振れていったのである。
勁烈(けいれつ)なエピソードの二つ目。
言うまでもなく、メイの「嬰児殺し」(私の主観)である。
「嬰児殺し」の根柢にあるのは、男児を産めなかったこと。
祈ってまで固執した男児の分娩に成就できないばかりか、母乳育児の不手際への苛立ち。
現代的な視線で言えば、乳児と一緒に泣いてしまう母は、未だ、成熟し得ない思春期の少女でもあった。
それでも、「次がある」と考えられない精神的余裕の欠損。
そこに、同年代のトゥエットの自死の衝撃が関与していないと言い切れないのだ。
そして何より、メイの精神的余裕の欠損のベースに、第二夫人スアンとの「愛」の自壊感覚。
これは、思春期の少女の自我を相当程度、追い詰めていた。
男児の分娩の未成就と、限定スポットで、成人化した女性の「愛」の自壊感覚。
全てを失ったと考えたに違いない。
ここで、第二夫人スアンに対するメイの「同性愛」感情のエピソードに言及したい。
これについて、アッシュ・メイフェア監督も説明している。
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アッシュ・メイフェア監督 |
「第二夫人だけがメイに凄く親切にしてくれて、やがて彼女の思春期の目覚めみたいなものが相まって惹かれていき、それが欲望になっていったのかな」(インタビューより)
思春期の只中に、自らの意思と無縁に結婚させられ、「女」にさせられても、「女」になり切れないメイの内側に溜め込まれた思春期の心と体が揺動してしまう。
第一夫人・第二夫人から「教え」を受け、それを「実践」しつつも、メイの「思春期揺動」が発現してしまうのだ。
第二夫人への「愛」が身体化されてしまうのである。
「性的指向」としての、レズビアンと言うのではない。
大人の「女」に成熟する前の一人の「少女」が、成熟した同性に対して強い憧憬の念を抱き、「恋」するに至った。
確かに、メイは「性」に目覚めた。
自慰行為にまで振れたのである。
しかし、それはスアンに対する欲動だった。
だから、あの時、ハンを拒絶した。
そこまで、メイの「性」は自発的に駆動する。
そんな少女の「性」を、スアンは拒絶する。
ハンとの関係がそうであったように、防衛的に振れたと同時に、少女の「性」を受容するほどに、スアンの「性」は駆動していないのだ。
「性」があって「愛」がない関係よりも、「愛」があって「性」がある関係にのめり込んでいったメイの「愛の風景」は、決定的に頓挫する。
それだけのことだが、このエピソードがインサートされることで、理不尽な環境に押し込められたメイの人格が負った発達の歪みの様態を、私たちは思い知らされるのである。
「これは女の子の成長物語」と語り、解釈自在の「嬰児殺し」を否定するようなアッシュ・メイフェア監督のメッセージは、少なくとも、このエピソードの含意を観る者に了解させるに充分だった。
―― 本稿を括るのは、トゥエットとメイのトラジディー(悲劇)を反転させた女児。
その見事な振る舞いを体現した女児の名は、スアンの二女・ニャン。
メイに髪を梳(す)いてもらうニャン(左) |
このフラッパー(おてんば娘)は、「自由なる行動的児童」だった。
「私は大人になったら、男になる。そして大勢の奥さんを持つの」
寝室で眠りにつけずに、初潮の発達行程を経て、姉のリエンに吐露した、ニャンの素朴な言葉である。
物事を恐れず、行動半径が限定的なスポットで、大人たちの「囲い込み」を振り切って動く少女の自己運動の一つの極点は、ハンスト紛いの反抗だった。
「(一人息子ソンの)結婚式の日に死なれたら困る」(ハ夫人)という理由で、大切な牛を黄色い花で毒殺されたからである。
食事を受け付けないのだ。
そんな少女が、あろうことか、「髪飾り」を無化してしまうのだ。
思うに、「The Third Wife」という原題に、「髪飾り」という邦訳を付与したのは、まさに映画の本質を衝き、言い得て妙の表現であった。
これは、「女らしさ」の象徴として、富豪のもとに嫁いでくる「処女の少女」に強いられた、「長髪・絶対」の物理的記号であるからだ。
だからこそ、「髪飾り」を無化するニャンの、笑みを湛(たた)えるラストカットが決定的な意味を有するのである。
「自由なる行動的児童」の合理性を有する、完璧な伏線回収だったというわけだ。
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少女によって無化される「絹の里」 |
途轍もなく完成度の高い映画の、それ以外にない圧倒的なメッセージだった。
(2021年5月)
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