

1 「友だちのノートを間違えて持ってきちゃった。ノートを返しに行かなきゃ友だちが困るんだ」
イランの村のとある小学校。
ルールに厳しい先生が、宿題をノートではなく紙に書いてきたことでネマツァデ(モハマッド)は叱られている。
モハマッド(右)とアハマッド |
「何度言ったらわかる?3回注意されたら直るのか。それなら先生にも考えがあるぞ」と言うや、ネマツァデの紙を破り捨ててしまう。
紙を破り捨てる先生 |
泣き伏せるネマツァデ。
その直後の先生の訓示。
「先生がノートに書くよう厳しく言う理由は、君たちが規則を守るように…まず決められた規則を守る事を学ぶため。次に書き取りがどんなに進歩したか知るため。これはアハマッドのノートだ」
そう言った後、ネマツァデの隣に座るアハマッドのノートを皆に見せ、模範にするように言うのだ。
反転して、「今度ノートに書かなかったら退学にするぞ」とネマツァデに言い放つ。
モハマッド(ネマツァデの名前)と共に一緒に走って帰るアハマッドが、転んだモハマッドが落としたノートなどを拾って手を貸して帰宅する。
転倒し、散乱したモハマッドのノートを間違えて自分のカバンに入れてしまうアハマッド |
いつものように厳しい母の雑事をこなし、宿題に取り掛かろうとすると、モハマッドのノートを間違えて持ってきてしまったことを知るアハマッド。
慌ててノートを返しに行こうとするアハマッドは、忙しくする母に「友だちのノートを間違えて持ってきちゃった。ノートを返しに行かなきゃ友だちが困るんだ」と繰り返し言っても、母は「宿題が先よ」と答えるばかり。
アハマッドの母 |
押し問答だった。
仕方なく宿題に取り組むアハマッドは、家事を言いつけられるのみ。
母子の長いイタチごっこの如き応酬の繰り返しが終わるや、アハマッドはそれ以外にない行動に振れていく。
ノートを持って、急いでモハマッドが住む隣村のポシュテの村に直行するが、中々、到達できない。
道が分からないからである。
苦労してモハマッドの家に行って、呼びかけても全く反応がない。
結局、間違いだったと知るアハマッドは、モハマッドの従兄の家を知らされ、辿り着くが、従兄は5分前に自分の村であるコケルに行ったと言われ、走って帰村することになる。
コケルに帰村するや、祖父に呼び止められ、「どこへ行ってた」と聞かれ、「パンを買いに」と答えた後、煙草を家から取ってこいと命ぜられる。
祖父(左) |
その間、隣の老人に、煙草を持っているにも拘らず、孫に命じたのは「孫を正しくしつける事なんだ。…親父は、ときに小遣いを忘れることがあっても、殴る事だけは忘れなかったよ」などと話し、殴るのが躾(しつけ)だと言わんばかりだった。
アハマッドが煙草を見つけられず戻って来た。
その場にいた男の一人がアハマッドのノートを「一枚でいいんだよ」と言って、メモ用として勝手に破ってしまう。
男がネマツァデという名を口にしたので、「モハマッド=レザは息子?」と尋ねるが、男は答えもせず、ロバに乗ってポシュテ村のほうへ行ってしまった。
少年の存在など眼中にない男を追うアハマッド。
この男こそ、モハマッドの父親ではないかと考え、どこまでも追い続けるのだ。
しかし、ここでも頓挫してしまう。
男の息子がモハマッドではない現実を見せつけられたからである。
そんな中、アハマッドはモハマッドの家を知っているという木工職人の老人と出会い、お喋りをしながら道案内をしてくれる。
「花をやろう。ノートに挟んでおきなさい」
「もう少し急いでください」
アハマッドの焦りが伝わってくる。
ところが、老人が連れて来てくれた家はロバに乗っていたあの男の家だった。
結局、モハマッドに会えぬまま帰宅したアハマッド。
落胆して食事を受け付けないアハマッド。
「食べなさい。終わったら明かりを消すのよ」と母に言われながら、宿題に取り組むのである。
翌日。
先生が子供たちの宿題をチェックし始めてもアハマッドは現れない。
モハマッドは机に俯(うつぶ)せになっている。
ここでアハマッドが遅刻して教室に入って来た。
咎(とが)められることなく、モハマッドの隣に座り、「宿題やってあるからね」と言うや、ノートを渡す。
モハマッドの宿題を見た先生は「よろしい」と一言。
そのノートには、お喋りだが優しく、昨夜の老人が渡してくれた一輪の花が挟まれていた。
2 そこだけは曲げられない少年の正義
「これがモハマッド=レザので、こっちが僕のだ」
「どういう事?」
「返しに行く」
「明日にしなさい」
「ノートに書かないと先生に退学されるんだ」
「先生のなさる事は正しいよ」
「でも僕のせいだよ」
「不注意だからよ」
「そっくりだもん」
「明日、返せばいいんでしょ」
「今日じゃないと退学になる」
「家は?」
「ポシュテ」
「そんなに遠いの?とても行けないよ」
「大勢の子が、かよってきてるんだよ」
「嘘、言いなさい」
「嘘じゃないよ」
「いいから、さっさと宿題しなさい」
「返しに行くよ」
「宿題がすんだら、パンを買いに行ってきてね」
「返しに行かなくちゃ」
「宿題が先よ!」
「僕のせいだ」
「宿題!」
「先生に叱られる」
そう言い切って、母の家事の隙間を縫ってノートを手に家を抜け出し、アハマッドはポシュテ村まで走っていくのだ。
「従兄の家にノートを忘れました」と答えるモハマッドの肝心のノートを、同クラスの従兄が持っていたと白状する従兄に対して、「ゆうべ一緒だったのか?」と訊くのみで、その詳細を問うことなく、先生はモハマッドのみを追求する。
その直後、「退学」という最強のカードを少年に突き付けるのだ。
あろうことか、ノートの代わりに宿題を書いてきた貴重な紙を、件(くだん)の先生は生徒たちの前で破り捨ててしまったのである。
そんな先生の行為を絶対視するアハマッドの母と同様に、この二人は本作で描かれるパターナリズム=「父権主義」・「権威主義」の象徴的存在だった。
また、殴るのが躾(しつけ)だと決めつける祖父もまた、その例外に漏れない。
この家族に特徴的な「権威主義」に抗う少年の、「そこだけは曲げられない正義」が弱々しくも鮮やかに提示され、アッバス・キアロスタミ監督の母国へのアイロニーを読み取ることができる。
思えば、先の母子の話し合いがそうであるように、物語の総体を通して、「口答えができない子供の言語」と「口答えを許さない大人の言語」は溶け合うことなく進行していく。
描写のリアリズムに無理なシーンがあったが、目的的に動くピュアな少年の身体言語と、その言語を囲繞する大人の意思疎通の不全感によって、意思伝達の有効な手立てが焦がされてしまうのだ。
アハマッド少年の「そこだけは曲げられない正義」は、「口答えを許さない大人の言語」のくすんだ濁りの広がりの中で、悉(ことごと)く弾かれてしまうのである。
その心情が伝わらない負の状況を嫌というほど経験し、帰宅した少年は今、ただ黙々と二人分のノートを前に格闘する。
さすがに、少年の母は我が子を難詰(なんきつ)することはない。
「食べなさい。終わったら明かりを消すのよ」と言葉を添えるのみ。
少年の父も怒ることがない。
夜になっても帰って来ない我が子を心配したのであろう。
もう、そこにはパターナリズムの片鱗が拾えないのだ。
唯一、家族の繋がりが感じられる最終盤のカットには、夜遅くまで友だちを救わんとフル稼働する我が子の、その思いの強さを目の当たりにして見守る家族の情性が広がっていた。
この映画は、友だちを救うためにフルスロットルで動く少年の、たった一日だが、非日常の時間を費消する普遍的なテーマに、作り手の包括力を添えた逸品だった。
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アッバス・キアロスタミ監督 |
(2025年10月)
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