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2021年6月1日火曜日

毒気なき「絶対反戦」のメッセージを異化する映画「小さいおうち」('14) ―― その異様に放つ「切なさ」 山田洋次

 

時子とタキ

晩年期のタキと健史


 

1  「坂の上の小さいおうちの恋愛事件が幕を閉じました」

 

 

 

いつものように、毒気のない反戦メッセージが随所にインサートされているが、思いの外、「基本・ラブストーリー」の映画の感動は大きかった。

 

同時に、残酷な映画でもあった。

 

―― 物語の基本ラインをフォローしていく。

 

赤い瓦屋根の「小さいおうち」で起こった恋愛事件。 



それを「事件」と把握しているのは、おもちゃ会社の常務をする平井家(「小さいおうち」)で、女中として奉公するタキのみ。 



「事件」を起こしたのは、平井の妻・時子。 



相手は、おもちゃ会社に入ったばかりの板倉。 



日中戦争や米国の動向など、戦況に無関心で、芸術を愛する板倉と価値観を共有する時子が、有能な独身青年に惹かれていくのは是非もなかった。 


演奏会での二人


戦況の悪化で、中国での販路拡大にブレーキが掛かり、おもちゃ会社の再建に白羽の矢が立てられた若い板倉に、早々と所帯を持たせんとする会社の意向で、平井は時子に板倉の縁談話を、「業務命令」として指図する。 

板倉の下宿を訪ねる時子とタキ


既に、相思相愛の関係に発展しつつあった板倉が、時子経由の縁談話を拒絶するのは自明のこと。 

「まだ、その気はありませんよ」(板倉)


それにも拘らず、この縁談話は、時子にとって好機となった。

 

板倉との逢瀬(おうせ)を具現できるからである。

 

和服を着て、その板倉の下宿に通う時子。

 

「奥様の帯が解かれるのが、その日、初めてではないのではないかと思うと、私の心臓は妙な打ち方をした。それから二度、奥様は出かけた。二度とも洋装だった」(タキの晩年期の回想シーン/以降、「回想シーン」) 

自叙伝を書く晩年期のタキ

「一本独鈷 (いっぽんどっこ)の 帯の筋が今朝とは逆になっていた」(「回想シーン」)


同時に、その事態は、「小さいおうち・絶対」の女の心を、激しく揺動させる。

 

タキである。

 

下宿に通う時子を見て、「小さいおうち」の破綻を案じるのだ。

 

「私、どうしたらいいか、分からないんです」 

睦子

そう言って、時子の女学生時代の同級生・睦子に対して、嗚咽しながら吐露するのだ。 


秘密の情報を共有する二人が、「小さいおうち」の一角にいる。 



解決不能な状況下で懊悩するタキの自我が、小刻みに震えていた。

 

何より、タキにとって、建てられて間もない赤い瓦屋根の「小さいおうち」こそ、小児まひに罹患した一人息子・恭一の不自由な脚を、日々のマッサージで治癒する彼女の「女中人生」の全てだった。 

恭一(中央)の小児まひが治癒されていく


「私、お嫁になんか行かなくていいんです。一生、この家に暮らして、奥様や坊ちゃんのお世話をしたいと思っています」

 

年の離れた初老の男との縁談を嫌がるタキが、その思いを受容する時子に吐露した際の言葉である。 



だから、「奥様」時子のラブアフェア(情事)をスルーするわけにはいかなかった。

 

しかし、「奥様」時子のラブアフェアに、愈々(いよいよ)、歯止めが効かなくなる。

 

「そして、遂にあの日がきた」(回想シーン)

 

太平洋戦争末期、板倉に召集令状が届いた日である。

 

灯火管制(とうかかんせい)のシビアな状況下、「嵐の夜」(ラブアフェアの初発点)を思い出す時子に、召集令状を見せる板倉。

「嵐の夜」

 
「嵐の夜」


丙種合格で徴用はないと思われていたが、召集令状が来る日が近いことを知らせに来る板倉

驚く平井夫婦

時子に召集令状を見せる板倉



「似合わないわ、兵隊なんて…」と反応する時子に、動揺を隠す何ものもない。

 

「ダメです。死んじゃいけません!」

 

死を覚悟して帰路に就く板倉に向かって、叫ぶタキ。

 

もう、時間がなかった。

 

雨が止んだ翌日のこと。

 

板倉と会うために、「ちょっと出かける」と言って、忙しなく出かけて行こうとする時子の前にタキは、立ち開(はだ)かった。

「どちらへ?」「ちょっとね」

                            

「奥様、およしになった方がよろしゅうございます」

「何のことを言ってるの?」


「板倉さんとお会いになるの、およしになった方が…」

「お餞別(せんべつ)を、お渡しするだけよ」

「それなら、私が参ります」

「今日のタキちゃんは、意地悪だわ。どいて頂戴」

「どきません」


「タキちゃん、私に指図するの。いつ、そんなに偉くなったの」

 

そう言うや、時子は玄関から出て行こうとする。

 

後方から、言葉を投げかけるタキ。

 

「こうしましょう。お手紙、お書き下さいまし。今すぐ、私が届けに参ります。今日のお昼過ぎ、お会いしたいので、お出かけ下さい。そう、お書き下さいまし」


「どうして、そんなことしなくちゃいけないの」

「板倉さんの下宿のご主人は、酒屋のおじさんの囲碁仲間なのです。酒屋さんは、奥様の姿を板倉さんの下宿で見かけたことがあると言うんです。このことが、旦那様や坊ちゃんに知られたりしたら、大変なことになります。…そう、なすって下さいまし。お願いです」 



思いを込めた言葉を放つタキを振り払って、そのまま、足早に家内に戻り、手紙を書き、それをタキに渡し、時子は、「私、お待ちしてますからって、そう申し上げて」と言い添えた。 


「私、お待ちしてますからって、そう申し上げて」


「しかし、板倉さんは、その日、お出でになりませんでした。日の暮れまで待ち続ける奥様のために、私は声をかけようもありませんでした。そして、坂の上の小さいおうちの恋愛事件が幕を閉じました」(回想シーン) 


タキの又甥(またおい)・健史(たけし/大学生)に強く勧められ、ここまで自伝を書いて、閣筆(かくひつ)する晩年のタキの涙が、大学ノートに滴(したた)り落ちる。 



そこに、健史が入って来て、大叔母を見て、柔和な言葉を投げ入れる。

 

「何で泣いてるの?…」


「私…長く生き過ぎたの…」
 



晩年のタキの涙が乾かない中で、回想シーンが繋がっていく。

 

「その日から暫く、奥様は生気を失ったようにぼんやりされていました。戦争は益々厳しくなり、女中を置くという贅沢は許されなくなってきて、私は山形の田舎に帰ることになりました」(回想シーン) 



「待ってるわ」

 

元気を取り戻したような時子の言葉を受け止めて、嗚咽を漏らしながら、タキは帰郷するに至る。 



それは、「小さいおうち」でのタキの、かけがえのない至福の日々の終焉を意味した。

 

 

 

2  「タキちゃん。そんなに苦しまなくていいんだよ」

 

 

 

「昭和20年5月25日に、東京山の手に大空襲があったことを、田舎で知りましたが、奥様一家の消息を知る手立てもなく、私はひたすら、ご無事を祈り続けました。(略)お寺のラジオで玉音放送を聞きました。『始まったものは、いつかは終わるわよ』という奥様の言葉通り、ようやく戦争は終わったのです。その年の暮、伝手(つて)を頼って、やっとの思いで手に入れた切符で東京に出た私は、あの赤い屋根のおうちは燃えてしまって、お庭の防空壕の中で、奥様と旦那様が抱き合った姿で…お亡くなりになっていたということを…」 


【1941年11月、「改正防空法」によって、空襲危害の防止のために、「消防」について退去(逃亡)の禁止が規定され、12月7日(太平洋戦争開戦の前日)には、内務大臣が発した通牒が発令されて、国民に消火義務を負わせることになった。かくて、「逃げるな、火を消せ!」という標語に結ばれる。平井夫婦が焼け死んだ背景には、この「改正防空法」の縛りがあったからである。言うまでもなく、山形に帰郷していたタキが存命だったのは、「改正防空法」の縛りがなかったこと。また、1943末には、学童を地方都市に移住させた「学童疎開」が実施された。奇しくも、この「学童疎開」によって恭一は救われ、家族を喪った。因みに、「内務省」は現在、総務省・警察庁・国土交通省・厚生労働省に後継されている】

『空襲から絶対逃げるな』トンデモ防空法が絶望的惨状をもたらした」より


学童疎開(ウィキ)



晩年のタキの涙が溢れ出て、この自伝を読む健史のナレーションがインサートされる。

 

「おばあちゃんの自叙伝は、そこで終わっている」

 

時子、タキ、恭一(坊ちゃん)の古い写真が映像提示され、健史は、封が切っていない封筒を、逝去したタキの形見として受け取るが、封は切らないで、そのままにしておく。 



バージニア・リー・バートンの有名な絵本「ちいさいおうち」を、書店で、恋人(ユキ)から誕生プレゼントされる健史。 


バージニア・リー・バートン/「ヴァージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』ー 時代を超えて生き続けるメッセージ 」より



「イタクラ ショージ 原画展」

 

書店内に貼られたポスターを目にして、大叔母タキが残した自叙伝に出てくる「板倉」との関係を想起するが、「出征」したから生きているわけがないと一蹴する健史。 



以下、ユキがスマホで調べた情報。

 

板倉は1944年出征、ニューギニアで敗戦、1946年帰国し、出身地が「青森」ということ。

 

板倉の生存が判明したのである。

 

「イタクラ ショージ記念館」(練馬区/架空)に足を運ぶ二人。

 

「思い出の小さいおうち」と題する絵画に見入る健史。 

「思い出の小さいおうち」


以下、学芸員から得た情報。

 

板倉が生涯独身だったこと、平井家の息子「坊ちゃん」(恭一)が生きていて、石川県の海の見える家に引っ越していること。 



恭一を訪ねた健史は、北陸の地で未開封の封筒を手渡すのだ。

 

既に視力を失った恭一は、健史に読んでもらうことになる。 

恭一と健史

「今日のお昼過ぎ一時ごろにお訪ねくださいませ。どうしてもどうしてもお会いしたく思います。必ずお訪ねくださいませ」 



ここで、時子から頼まれた板倉宛ての手紙を、タキが届けなかった事情が判然とする。

 

「おばあちゃんは届けなかったんだ」

 

度肝を抜かれたように驚き、慌てる健史。

 

慌てた理由は、見せてはいけないものを読んでしまったという気まずさである。

 

もっと驚いたのは恭一。

 

「この歳になって…母親の不倫の証拠を、まざまざと見るとはな…もう、とっくに時効だけどね」 


そう言って、涙を拭(ぬぐ)う恭一。

 

謝罪する健史。

 

「彼女が、なぜ、板倉さんに手紙を届けなかったのか。そのことで、どれほど苦しみ抜いたのだろうか。そういう話をしながら、平井さんは何度も涙を拭(ふ)いた」(健史のナレーション)

 

車椅子に乗った恭一の案内で、海辺に出る健史とユキ。



タキが生涯、結婚しなかった事実を知り、感極まった恭一は、鬼籍に入ったタキの心情を汲み取り、万感の思いを込めて語りかけるのだ。

 

「タキちゃん。そんなに苦しまなくていいんだよ。君の小さな小さな罪は、もうとっくに許されているんだろうね」


 

その言葉を耳にして、涙ぐむ健史。 


「それを聞いたら、おばあちゃん。泣いただろうな。きっと、大声上げて…」 


「今度は、僕が涙を拭く番だった」(健史のナレーション)

 

ラストシーンである。 


 

 

3  毒気なき「絶対反戦」のメッセージを異化する映画の、異様に放つ「切なさ」

 

 

 

心理学的な視座で読み解くと、本作には、二つの基軸が措定できる。

 

一つは、ヒロイン・時子の葛藤と、その克服の艱難(かんなん)さ。

 

もう一つは、女中・タキのトラウマと、その昇華への心的過程。

 

まず、前者から。

 

物語の中で注目したい描写がある。

 

殆ど、独言のような時子の心の葛藤。

 

「ダメよ、もうダメ。こんなことをしてたって、埒(らち)が明かないもの。いけないわ、絶対にいけないわ。もう、これきりにしましょうって、私、言ったの。もう、二度と参りませんって、そう言ってきたのよ」 



既に、時子のラブアフェアを知る睦子に、「板倉の縁談話の不具合」の問題にすり替えて、抑制力が劣化した自己を、時子はこんな風に表現した。

 

「どうして、こんなお湯でお茶を入れるの!入れ直して!」

 

抑制力劣化の状態を延長させている時子は、お茶を入れて来たタキに、怒りの矛先(ほこさき)を炸裂させてしまうのだ。

 

嗚咽するタキの思いを無化する時子の、その心の葛藤描写の典型例である。

 

これは、エドワード・トーリー・ヒギンズ(コロンビア大学の心理学教授)が提示した、「セルフ・ディスクレパンシー理論」によって説明可能である。(拙稿 人生論的映画評論・続「キツツキと雨」を参照されたし)

 

即ち、「現実自己」と「理想自己」の乖離が苦しみや哀しみを生み、「現実自己」と「義務自己」の乖離が不安・恐怖を生む、という現代心理学の興味深い仮説である。

 

「善き妻・母」という時子の「理想自己」が、「女である」という時子の「現実自己」に弾かれ、危うい情態下で宙刷りになってしまっている。 




姉の貞子に繰り返し忠告されても、「義務自己」による自己統制尺度が脆弱になり、不安・恐怖を生み、「理想自己」が剥(は)がされていく。 

貞子(左)



ドーパミンジャンキーが暴走し、「快楽の踏み車」(悦楽の拡大再生産のジレンマ)にまで、誓って嵌っているわけではないが、それでも止(や)められない「現実自己」の様態。 

板倉の下宿を訪ね、部屋から引き寄せられる時子


だから、葛藤する。

 

要するに、葛藤することで、自我の安寧を保持するのだ。

 

「葛藤し、煩悶する自己」を、もう一人の自己が認知し、赦しを与える。

 

赦しを与えれば、気が楽になる。

 

気が楽になれば、抑えがたい情動を解いてしまうのだ。

 

自我の安寧を保持することで、自己の行為を認知し、赦してしまうのである。

 

恐らく、この辺りが、脆弱なる私たち人間の、自我の安寧を確保せんとする適応戦略の在りようであろう。

 

心の葛藤を表現することで、それを耳にする第三者(睦子)を介入させるのだ。

 

第三者を介入させることで、自己を相対化するのである。

 

しかし、もう遅い。

 

「女である」という「現実自己」を、もう止(と)められない。 


時子の「現実自己」の対象人格が徴兵されてしまえば、永久(とわ)の別れになってしまうのだ。

 

抑えがたい情動が一気に炸裂する。

 

歯止めが効かなくなった。

 

だから、和服に着替えた。

 

そこに、タキが立ち開(はだ)かった。

 

決定的な言辞を浴び、動けなくなった。 



それでも、会いたい想いを文字に変換し、ひたすら待機する。

 

待機すれども、砕かれた想い。

 

果たして、この想いが集合する情動の矛先(ほこさき)を、一体、誰に向けられたのか。

 

映像は、最後まで、それを提示しなかった。

 

今や、帰らぬ人になった時子の人生は、心の葛藤と、その克服の艱難さを示唆しただけで閉じていったのである。


 


かくて、時子の人生の悲哀なる在りようを、タキの心が継いでいくことになった。

 

それは、生涯にわたって彼女を苦しめたトラウマと化す。 



縁者(えんじゃ)に過去の話をしても、「奥様や旦那様が焼け死んだというところで…おばあちゃん、ワーワー泣いちゃうから、いつも、そこで終わるの」(健史の姉・康子の言葉)という説明のみで、深い事情を話すことはなかった。 

「おばあちゃん、ワーワー泣いちゃうから、いつも、そこで終わるの」


だから、タキの自叙伝も、それ以上の言及がない。 


彼女は、死ぬまで、「奥様」(時子)のラブアフェアの破綻について語ることがなかったのである。

 

「時子の手紙」を届けなかった自らの行為が、東京大空襲で犠牲になった時子の死によって、癒しがたいトラウマと化し、「あの日」の自分の判断を「罪」として捉えてしまうのだ。 



「あの日」、タキは迷いに迷っていた。

 

「奥様が為さろうとしていたことが、あの時、瞬時に分かった。私の頭は混乱した。私の中に、二人の私がいた。一人は、『会わせてはいけない。何が起きるか分からないからいけない』と言う。もう一人の私は、『もう、これきり会えないのだから、何が起きようと会わせて差し上げたい』と言う。私は、迷いに迷った」(回想シーン) 



タキもまた、激しく葛藤していたのだ。

 

その結果、前者を選択する。

 

前者の選択の結果、愛し合う男と女は、二度と再会することが叶わなかった。

 

これが、タキの心的外傷と化す。

 

「なぜ、奥様を会わせてやらなかったのか」

 

その痛恨の念が、生涯にわたって彼女を苦しめてしまうのだ。

 

「時子の手紙」を届けなかったことで、時子は脱け殻のような日々を送ることになる。

 

なぜなら、手紙を出したのに、板倉は訪ねて来なかった。

 

板倉は、時子との関係に終止符を打ってしまった。

 

時子はもう、板倉にとって「過去の存在」になったのか。

 

時子の脱け殻のような日々には、この観念が張り付いている。

 

一方、板倉もまた、時子の訪問を望んでいたはずである。

 

しかし、時子は訪ねて来なかった。

 

板倉にも、時子にとって、「過去の存在」になったのかという思いが生まれる。

 

その哀しみが、二人に焼き付いている。

 

「もし、僕が死ぬとしたら、タキちゃんと奥さんを守るためだからね」

 

タキに残した板倉の別離の言葉である。

 

かくて、板倉は戦死した。

 

以上の認知が、タキの苦悩の日々の根柢にある。

 

だから、老いても消えないタキの心的外傷の破壊力。

 

「自分だけが幸せになること」への罪深さが、タキの人生を支配してしまったのだろうか。

 

では、なぜタキは、「時子の手紙」を届けなかったのか。

 

「奥様と坊ちゃんが住む小さいおうち」を守りたかった。 



【「小さいおうち」に対する思いの強さは、自叙伝を書く老年期のタキの部屋に、絵画が飾られていたことで自明である】 



そう考えるのが自然だが、それ以上に、「奥様」に対する独占感情への拘泥が、タキの内側に隠し込まれていた。

 

タキの「奥様」に対する独占感情が、迷いに迷った行為の心理的推進力になっていたのだと思われる。 




その感情が、晩年期のタキの中で、澱(おり)のように溜まっていて、より自罰的に振れていったのではないか。

 

かくて、タキの心的外傷を昇華し得るには、せめて、自叙伝に向かい、起筆していく以外になかったのだろう。 



いつものように、肝心なところで中断してしまったにせよ、その心的過程だけが、決して封印し得ない過去と向き合うタキの時間の束を、掬い取ってくれる何かになっていく。

 

思い切り、涙を振り絞る。

 

振り絞り、振り絞り、吐き出していくのだ。

 

中途で終わるタキの自叙伝には、それだけの重量感がある。

 

タキの逝去は、この重量感が詰まった人生の最終章の風景だった。



ここで、タキのトラウマを心理学的アプローチで総括してみたい。

 

タキが負った心的外傷の重さは、自らが犯した行為を誰にも話すことなく、内深くに隠蔽してしまったことで、罪悪感を増幅させてしまったという一点にある。

 

その罪悪感の増幅が絶望感にまで押し込まれていって、もう、何ものも浄化できなくなった。

 

贖罪不能の情況と化し、自らの復元可能性を断ち切ってしまったのである。

 

これが、「人を愛し、結婚する資格がない」という、タキを生涯にわたって縛る自己像を固着させてしまうのだ。

 

しかし、人間はそれほど強くない。

 

くどいようだが、三度(みたび)、言及する。

 

「おばあちゃん、ワーワー泣いちゃうから、いつも、そこで終わるの」

 

この健史の姉・康子の言葉が意味するのは、泣くことによって、「少しでも楽になりたい」というタキの適応戦略である。

 

タキの内深くに貯留され、隠蔽してしきた辛さを軽減させる適応戦略であると言える。

 

そして、その本質は、ある種の自己憐憫である。

 

ここで、看過できないテーマが表面化する。

 

では、なぜタキは、「止められても断念し得ず、人生を懸けてまで書いた『奥様』の手紙」を焼却しなかったのか。

 

これこそ、作り手の理解の範疇を超えていたかも知れない、この映画がに提示した最強のジグソーパズルだった。

 

私は、こう考える。

 

タキが「『奥様』の手紙」を焼却しなかったのは、健史に「形見」として残すことで、「自分もまた被害者だった事実を理解して欲しい」(自己憐憫)という気持ちを届けること ―― この心情が隠し込まれているのではないか。

 

「『奥様』が『板倉さん』に会いに行こうとしなければ、何も起こらなかった」

 

そう考えることによって、自らが負った罪悪感を少しでも希釈する。

 

この思いを伝えることで、殆ど無意識的に「取引」する。

 

即ち、自らが負った罪悪感と、「人を愛し、結婚する資格がない」という、タキの自己像の固着化との「取引」である。

 

断じて書くが、これはタキの反道徳的な行為でも何でもない。

 

そうでなければ、生きていけるわけがないのだ。

 

それが人間だからである。

 

人間の感情は、あまりにも複合的なのである。

 

ほぼ、本能を失った私たちが、様々に駆使して、「私の〈生〉」を、それぞれの多様なる〈物語のサイズ〉で生きていく外にないという峻厳(しゅんげん)なリアリティ ―― これが人間の脆弱性の様態であると、私は考察している。

 

かくて、映画を観る者が、物語と付き合っていて、最も辛い描写に結ばれたのである】

 

―― 以上の分析が、私のスタンドポイント(視点)になるが、いずれにせよ、この映画が異様に放つ「切なさ」こそ、毒気なき「絶対反戦」のメッセージを異化するほどの強度を有していた。

 

異様に放つ「切なさ」が、この映画のコアにあったということである。 




(2021年6月)

 



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