検索

2020年7月29日水曜日

捩れ切った関係交叉の齟齬が生む「もどかしさ」 ―― 映画「よこがお」('19)の訴求力の高さ   深田晃司




1  クラクションを鳴らし続ける女の復讐譚



現在と過去の時間を往還する映画。

ここでは、できる限り時系列を追って書いていく。

まず、「過去のパート」から。

主人公は、訪問看護師として働く平川市子。

大石家の末期癌を患う祖母・塔子(とうこ)を担当している。
市子と大石塔子

その大石家に、市子を慕う基子(もとこ)がいた。

彼女は市子の影響を受け、介護士になるための学習に勤(いそ)しみ、市子のサポートを受けていた。
左から基子、サキ、市子

婚約者の医師・戸塚と共に、大石家に市子がやって来た。
大石家に向かう市子と戸塚

そこで、基子の中学生の妹サキが失踪した事実を、母親の洋子から告げられる。

そのサキの失踪報道をテレビのニュースで見てから、いつものように大石家に着くと、メディア関係者が屯(たむろ)っていた。
サキの失踪報道 1
サキの失踪報道 2
サキの失踪報道をテレビで見る市子と基子

塔子の看護中、サキが見つかった知らせがもたらされる。

保護されたサキが退院するので、迎えに行く準備をする洋子との会話中に、犯人が拘束されたというテレビニュースが流れる。
洋子から犯人の拘束を知らされる市子

あろうことか、その画面には、市子の甥の辰男が映し出されていた。
甥の辰男の顔が画面一杯に映し出される
甥の辰男の顔が画面一杯に映し出される

辰男はサキの失踪の日、喫茶店で勉強していた基子とサキと市子のもとに、本を届けにやって来た若者だった。
辰男

犯人が自分の甥であることを、洋子に告げようとすると、基子がそれを押し止(とど)めた。
市子の告白を押し止(とど)める基子 1
市子の告白を押し止(とど)める基子 

「今のままなら、事件と市子さんの関係は分からないと思います」

基子にそう言われて、市子は心情を表白する。

「やっぱり私、話そうと思うの」
「ダメ、ダメそんなこと」
「だって、嘘つけないし、謝らないと」
「そんな、別に市子さんが悪いわけじゃないじゃないですか。それに…そしたらもう、ウチに来れなくなっちゃう」
「そうだろうね」
「いいの?それで、市子さんは。私は嫌だ」

婚約者にも事実を話せず、葛藤する市子。
戸塚にも告白できない市子

サキは失踪中レイプされたと学校で話題にされ、メディアも押しかけたことも加速し、煩悶しているのだ。
サキ

その事実を知り、市子は再び打ち明けるべきだと吐露するが、基子が頑なに止める。

基子は市子を元気づけようと、二人で動物園へ行く。
動物園で
【動物園のサイの勃起を見て、市子は児童期の辰男の勃起を見て感心し、「いやらしい感情」でなく、ズボンを脱がせた過去の話をする。因みに、辰男の勃起は、男子の第二次性徴で起こり、性的興奮に関係する勃起であると思われるが、性的興奮に関係していない無意識的に起きる、生理現象としての勃起の可能性もある(重要な伏線)】
動物園のサイの勃起

その帰りに、婚約者の戸塚が車で迎えに来たところで、市子と戸塚が婚約中であることを、基子は初めて知らされる。
「決定なんですか?結婚」
「うん、まあ一応」
「そうですか。おめでとうございます」
「ありがとう」

それだけだった。

いつまでも、市子を乗せた戸塚が運転する車を見つめる基子。

明らかに衝撃を受けている。

今、戸塚父子と市子が、仲睦まじくソファで微睡(まどろ)んでいる。

市子に携帯電話がかかってきたのは、その時だった。

相手は、情報提供を受けたという何某かの記者。

件(くだん)の記者から、市子が大事なことを隠していると問い詰められるが、反応する術(すべ)もなく、「違います」と小声で答えて、電話を切った。

「恐怖の看護師?誘拐対象を手引き!?」

こんな刺激的な見出しがついた週刊誌を洋子に突き付けられ、説明を求められる市子

「黙っていたことは、本当に申し訳ありません」
「あなたが手引きしたの?」

それを否定し、弁明する市子。

そこに基子がやって来て、母親の強い口調を制するが、「あなたは黙っていなさい」と一言で片づけられる。

そして、この家と縁を切るような態度を受け、もう為す術(すべ)もなかった。

報道の事実を知った戸塚には、結婚の意志は変わらなかった。

「謝罪の言葉はないんですか」

市子に対するメディアの攻勢が開かれ、彼女の職場でも問題化する。

皆、雑誌の内実を知っているのだ。

そんな中で、市子と基子の交流は続いている。

「市子さん、それなら一緒に住まない?あたしとルームシェア」

この基子の申し入れに対し、市子は戸塚との結婚を理由に、「基ちゃんも、住むんだったら、彼氏と一緒に住んだら?」と答えるのみ。

この市子の一言によって、物語の風景は一気に反転していく。

豹変する市子の態度の意味は、その直後の映像で判然とする。

メディアスクラムが炸裂するのだ。

テレビ画面では、基子と思われる女性が、市子について語っている。

「いい人ですよ、やさしいですし。でも、言っていいのかな。犯人の彼、鈴木辰男が幼い時に、彼女、ズボン降ろしてイタズラしたって。それはちょっと、どうなんだろうと思いました。絶対、犯人の人格に影響しますよね。なのに彼女、結婚するとか言うんですよ。人の家庭壊した人が、幸せになっていいのかなって」

テレビの生放送を、看護ステーションのスタッフと共に見入る市子。

「彼女、嘘ついてる」

弁明する市子に対する仲間のスタッフたちの冷たい視線が放たれ、この小さなスポットが澱んでいた。

かくて、大石家から締め出され、訪問看護ステーションも辞職するに至る。

事もあろうに、市子のマンションに基子が訪ねて来たのだ。

執拗に呼び鈴を鳴らす基子に対し、市子がモニター越しに怒りを抑えて応じた。

「何しに来たの?」
「分かんないんです。何であんなこと言ったのか。市子さん、私を嫌いにならないで。私、試験受けるから。私、市子さんみたいになる。だから、そしたらまた…」

基子の謝罪を振り払うように、市子はモニターを消すのみ。

それでも、執拗に呼び鈴を押し続ける基子。

戸塚との結婚話も破談になった。
ワンカットで見せるこのシーンはとてもいい

戸塚の実家から猛烈な反発を受けたからだと思われる。

大石家のサキが持っていた犯罪被害者を支援するパンフレットを手に、それを主催するNPOを訪ねて相談する市子。

しかし、支援については丁寧に断られる。

「白川さん、お辛い状況はよく分かりました。ただ、残念ながら、私どもの方でお力添いできることは、ほとんどないように思います。ここは、あくまで被害者を支援する団体ですので。申し訳ありませんが」

メディアの報道を鵜吞(うの)みにして、「市子は被害者ではない」という認知が、この非営利団体にはあるのだろう。

全ての拠り所を失った市子の復讐譚は、ここから開かれていく。

「現在のパート」である。

復讐とは、基子の恋人である米田に近づき、肉体関係を結び、その証拠写真を基子に送り付けることだった。(押し入れのシーンは、市子の想念の中で、基子がクラスメートと裸になった話とリンクさせている。だから、この部屋は基子の子供部屋を表現している


その米田に、基子への復讐の話を打ち明ける市子。
市子と米田

その話を淡々と受け入れる米田。

なぜなら、既に、米田は基子と別れていたのである。

「好きな人がいるんだって。ずいぶん前から」

市子に吐露した米田の言葉である。

驚き、笑いが止まらない市子。
この時点で、基子の感情の本質を理解できていない
ここで、自分に対する基子の感情の本質=同性愛を理解する

ここで初めて、基子の感情の本質を理解するのだ。(重要なシーンなので後述する)

基子への復讐は不完全燃焼のまま、ボランティア活動を始めるが、なお、基子の幻影に囚われ、うなされる市子。
基子の幻影
うなされる市子

今や、微分裂した市子の自我は、無意味な復讐と決別するかのように、湖に我が身を預けていく。幻覚のシーンで、市子の内部での「負の自己完結」を象徴

まもなく、出所した辰男の身元引受人となり、東京で一緒に暮らす市子。
市子の妹の逝去で、辰男の身元引受人となる市子
そば屋で働くる市子だが、観念的整理ができても、負の感情だけが残ってしまう

サキに謝りたいという辰男を連れ、市子は大石家を訪ねるが、一家は既に引っ越ししていた。
大石家が引っ越ししていた事実を知らされる

ラストシーン。

辰男を助手席に乗せた車内から、市子は思いがけない情景を視認する。

それは、既に介護資格を取得した基子が、目の前の横断歩道を介護職員として車椅子を押し、落とし物を拾ってしゃがみ込む姿だった。
介護職員になっていた基子
驚愕する市子

立ち去る基子の後ろから、クラクションを鳴らし続ける市子。
クラクションを鳴らす市子の車

振り返る基子は市子の車に視線を向けるが、ドライバーの表情が見えないカットになっているので、基子の表情を見る限り、市子を特定できたとは思えない。鋭敏な基子だから容易に想像可能であるだろう仮に気づたとしても、今や、何ものをも変えられない)

しかし、それだけだった。

市子は車を発進し、軽快な走りの中で、心なしか、吹っ切れた安堵のような表情を浮かべるのだった。
市子の負の感情も整理できたのだろう



2  捩(ねじ)れ切った関係交叉の齟齬(そご)が生む「もどかしさ」 ―― 映画「よこがお」の訴求力の高さ



この映画の展開を支えるのは、基子の行動の特異性(極端な振れ方)である。

それを一言で言えば、「性的指向」。

LGBTの中枢概念である「性的指向」とは、オリエンテーション(方向性)であって、どの性別の人間を性愛の対象とするかという、各個人の〈性〉の傾向のことである。【その意味で、基子の行動の特異性は「行動」に限定するのみで、基子の「性的指向」は異常でも何でもない】
従って、市子に対する基子の感情は同性愛的感情と言うより、同性愛と言っていい。
訪看の仕事を終えて、自転車で帰る市子を見つめる基子
自転車で帰る市子
動物園で

「好きな人がいるんだって。ずいぶん前から」

市子に吐露した米田(基子の恋人)の言葉である。

「好きな人」が市子を指しているのは間違いない。

この時、市子も初めてその事実を認知した。

その認知が遅すぎた嫌いがあると言えるが、相手の感情を正確に推し量ることの難しさを思えば、市子の鈍感さを決して誹議(ひぎ)するには及ばない。

その直後の市子の複雑な反応が、その事実を端的に示していた。

基子の市子への烈しい恋慕。
辰男が市子の甥である事実を知っていた基子は、市子を守ることを考えている
市子への烈しい恋慕
同上

この感情に起因する、市子を失いたくないという激越な独占欲。

これが、本来、在るべき市子の振る舞いを遮絶してしまった。

サキの誘拐事件の真実の隠蔽を誘導しただけではなく、自分の思い通りにいかないと認知した時に、攻撃的、且つ、断罪的にメディアに情報提供するに至ったのだ。

市子の命脈を絶つほどに激甚で、救いようのない決定的な裏切り。
全てを失った市子のディストレスがピークに達する

然るに、自己中心性を全開させる心情はごく普通に起こり得ることであっても、メディアに情報を垂れ流すことで自らが負うリスクを考えれば、相手の人生を一変させるほどのインパクトを出来する現象は自明のことだろう。

それ故に、基子の破壊的行動は破滅的行動と同義になる。

メディアに情報を提供してもなお、戸塚との結婚を諦めない市子に可罰的態度に豹変するという、基子の破壊的行動=破滅的行動のモチーフに伏在しているのは、ただ単に、市子を失いたくないという、その一点のみ。

だから、この衝動によって炸裂した行動総体に対する基子の観念系には、人格的統合性の片鱗も拾えないようだった。

「正・負」の感情が混淆し、アンビバレントの複合的な心理が底層で渦巻いていて、基子自身、正確に認知し得ていないからである。

感情系のベクトルが定まらない、このような人間心理の複雑さこそ、自我に拠って生きる私たちの根源的脆弱性の発現であると言っていい。

コンピュータの計算手法で「解」に導くようなアルゴリズムと切れ、人間の意識・感情は様々な要因が絡み合っていて、単純に推し量れる何かではないのだ。

而(しこう)して、基子の常軌を逸する一連の破壊的行動によって、市子は社会的地位と、現在進行形の幸福(戸塚との結婚)の時間の一切を完膚なきまでに絶たれ、復元不能なほど、彼女の時間は膠着状態に陥ることになる。
事実を知っても、結婚するという戸塚の言葉に安堵する市子

甥の起こした誘拐事件の、予想だにしない事態にインボルブされた市子の災難は、悲運であるとしか説明できない現象だった。

それでは、事件に対する市子の反応に問題がなかったのか。

事件の対応に一瞬の迷いが生じた間に、基子の誘導に乗ってしまったことで、善良な看護師である市子は、嘘つき・不正直者・卑怯者とラベリングされ、その結果、加害者責任を問われることになった。

「無実の加害者」の産出である。

初発点での混迷・逡巡(しゅんじゅん)と判断ミス、そして、基子の行動の特異性に無防備であった関係対応の致命的不備。

その果てに、社会的信用を失墜し、職も結婚話も失い、自らの意図に反して、将来の未来図を放擲(ほうてき)せざるを得なくなった。

この市子の混迷・逡巡に乗じて、いつものように、イエロージャーナリズムが土足で踏み込んで来て、この「無実の加害者」は世間の耳目を集め、誘拐事件の胡散臭(うさんくさ)い「黒幕」に仕立て上げられていく。

言わずもがな、事件の推進力になったのは、基子の悪意による証言。

ここで思うに、市子サイドに立って勘考すれば、イエロージャーナリズムがスクラム組んで、妄動的に侵蝕(しんしょく)して来なければ、自らの初発点でのミスについて大石家に謝罪し、担当を外れる程度で、双方の和解も成し得たであろうし、訪問看護ステーションを辞める必要も、戸塚との結婚の予定を諦めることもせず、下劣な好奇心が集合する不都合な〈状況〉を反転し得る可能性は十分にあったと言える。
怒涛のメディアスクラム
訪看ステーション前で、辞任について語る市子へのメディアスクラム

残念ながら、怒涛のメディアスクラムと、断片的な情報による決めつけがインプットされると、どれほど真実を語っても、誰も聞く耳を持ち得ないのだ。

一切が、基子との微妙な関係交叉の齟齬(そご)によって誘導された行動であるという、際立って人間的な現象に対する理解の圧倒的な艱難(かんなん)さ。
基子の感情を理解できず、戸塚との結婚を伝える市子

取材対象を、「面白さ」の有無で「商品価値性」を定め、物事を単純化し、動いていくメディアにとって、市子と基子の微妙な関係交叉の構造的理解など、歯牙にもかけない末梢的問題なのである。

この辺りの心理の振れ具合が全く情報共有されないという、如何ともしがたい「もどかしさ」。
【二人の関係がピークに達したと信じる動物園の直後だっただけに、戸塚との結婚を知った基子の失意は大きかった。それでも、諦念できない基子は、市子とのルームシェアを求めていく。なお理解できない市子。この辺りの心理の複雑な振れ具合が、映画を貫流する「もどかしさ」を生んでいく】

人間社会に往々にしてあるにも拘らず、この「もどかしさ」こそ、訳知り顔で言い放つコメンテーターらの「正義」の断罪に象徴されるテレビ等の商業放送では、とうてい反映し切れない人間の複雑さ・分かりにくさであり、その辺りを精緻に描き出したことが、この作品の肝であったと私は考える。
「もどかしさ」こそ、この作品の肝である

無論、メディアスクラム批判という、底が知れたテーマの映画では決してない。

どこまでも、二人の女性の、捩(ねじ)れ切った関係交叉の齟齬(そご)が生む「もどかしさ」を細密に描写したことで、人間の孤独を際立たせるという、普遍的で、変わり得ない根源的な風景を炙(あぶ)り出したこと。

これに尽きるのではないか。

近年の邦画に見られない、作家性の高い映像の訴求力は大きかった。

実質、主人公が二人だけの映画に特化したこと。

作品の純度が高くなり、全篇が心理学の世界と化したのだ。

―― ここで、その心理学の視点からも、市子の復讐譚について分析してみたい。

主人公市子は、人間の「防衛・適応戦略」が崩れ、「自我機能」が歪み、その「統合機能」が消耗してしまった。

だから、本来的な「自我機能」を劣化させた状態で、「事件」後の〈現在性〉を呼吸する〈生〉を生きていく。

その風景は、「統合機能」の消耗の渦中で搖動し、不穏な様相を呈していた。

「事件」前と「事件」後における人格変容は、市子とリサの相貌性の変容だった。

人望が厚く、仕事熱心な訪問看護師が反転し、復讐の鬼になる。
「現在のパート」復讐の初発点・美容師の米田の部屋を監視する市子

目的遂行のために、復讐の対象人格・基子の恋人を寝取り、その証拠写真を基子に送り付けた。
復讐のために、美容師の米田に近づく市川
米田と肉体関係を結ぶが、市子にフラッシュバックが起こる。これが「押し入れのシーン」となる

リサの相貌性の変容の社会的背景には、自己基準で爆走するメディアの猛烈なバッシングがある。

それは、メディアスクラムの剝(む)き出しの暴力性そのものだった。

この暴力性に対抗する術がない〈個〉の脆弱性が宙摺りにされて、集中的、且つ、徹底的に苛(さいな)まれる「無実の加害者」市子。

果たして、この暴力性に対峙し得る如何なる方略があると言うのか。

リサの相貌性の変容を生んだ基子の嫉妬感情の振れ具合と、その特異な行動総体に対する市子のリベンジもまた、メディアスクラムの剝き出しの暴力性なしに発現し得なかった。

メディアスクラムを利用した女と、それによって決定的に被弾した女の「その後」は、彼女たちの思惑を遥かに超える〈状況性〉を呈するが、そこにこそ、未知のゾーンに放り込まれた私たち人間の本来的脆弱性が伏在するのだ。

「自我機能」の作業の困難さは、常に、「問う」という現象を必至にすることに起因する。

それは、「世界」への適応戦略の、それ以外にない方略でもあるからだ。

「問いは、世界に適応しようとする仕方なのである」

これは、「見えるものと見えないもの」という代表的著作の中で記された、仏の哲学者メルロ=ポンティの言葉である。
モーリス・メルロ=ポンティ(ウィキ)

問い続けることの困難さから逃亡した時、人間の「防衛・適応戦略」に皹(ひび)が入る危うさが待っている。

それは、人間の負の変容を内包する危うさである。
 
その意味で、人間の負の変容もまた、「防衛・適応戦略」が崩れた時の人間の本来的脆弱性が剥(む)き出しにされた所産なのだ。

「自我機能」が歪み、その「統合機能」が消耗してしまうのである。

ごく普通の様態としての人間の分かりにくさは、このような〈状況性〉に捕捉された時に余す所なく発現されるだろう。

元々、人間の多面性は、「防衛・適応戦略」をコアにする私たち人間の本質的特性である。

自らを囲繞する社会的環境に対する「防衛・適応戦略」を駆使することは、人間の多面性を発現させる現象と同義であると言っていい。

これが、人間の分かりにくさに対する生物学的なレスポンスである。

従って、市子とリサの距離は人間の多面性の範疇にある。

しかし、それは、「取材対象者」に対して、「謝罪の言葉はないんですか」などという暴言を吐くメディアスクラムに起因する極限的な様態であって、ごく普通の様態の範疇を突き抜けていた。

その結果、対他関係において、精神的資源(コントロール能力)を不必要に消耗することで、「自我消耗」が極端になれば、現実と非現実の境界が曖昧になり、ディストレス(抑制困難なストレス状態)が飽和状態になっていく。

人間の精神的資源には限りがあるのだ。

「人はすれ違いの中で生きるしかない。わかり合えるかなんてわからないし、わかり合えていると思い込みながら、孤独な肉体を抱えてゆくしかない。映画をつくることは、人間とは何かを問うことだと思うんです。例えば人物の感情や性格が、あまりに説明的な演技や筋書きで描かれた作品は、古いな、19世紀以前の人間観だなと感じます。そもそも本音を喋っているつもりでも、それが本音かどうかなんて、本人にもわかるわけがない。心とは曖昧なものなのに、それを確かなものであるように描いてしまうのは不自然でしかない。だから自分が現代的な映画をつくろうとすれば、そうした不確かさを孕んだものになります」

深田晃司監督の言葉である。
深田晃司監督

「心とは曖昧なものなのに、それを確かなものであるように描いてしまうのは不自然でしかない」

この発言に大いに共感する。

ここでは、「映画をつくることは、人間とは何かを問うことだと思うんです」という監督の言葉にインスパイアされて、人間の分かりにくさと多面性を描いた映画と離れて、以下、複雑系を重視した生物学的視座で「人間とは何か」という根源的テーマについて言及したい。



3  人間とは自我である



狭義に言ってしまえば、人間とは自我である。

自我こそ、人間の特性なのだ。

批評の冒頭に触れたように、「防衛・適応戦略」の中枢であると同時に、思考・意志・感情等の「統合機能」の結晶点 ―― それが自我である。

しかし、「自我機能」があまりに厄介な代物で、脳内で多岐にわたって複雑に絡み合っているので、この構造性を見えやすくしなければ「解」に到達できない。

フロイトの自我理論で有名な「超自我」(道徳的規範)という概念も、「現実我」(「現実原則」で動く「自我」=「エゴ」)も、全て私たちの自我の営為に収斂されると私は考えている。
自我の部位が前頭連合野(前頭前野)にあると思われるが故に、一切は、脳内で多岐にわたって、複雑に絡み合っている自我の営為の所産なのである。
思うに、人間の自我は特別なものであり、それなしに近代社会での「生き延び」が不可能であると言っていい。

私たちが進化的に手に入れた財産である、怒り・恐れ・嫌悪・驚き・恥・道徳的怒りなどの「複合的感情」は、人類の社会的関係を支えるための極めて重要な役割を持つが、個体間の社会的関係を調整する役割を獲得することで、今度はそれをコントロールする必要が発生し、より複雑な感情状態を作り出すに至った。

「扁桃体」の自動的で鋭敏な情動反応と前頭前野による制御のメカニズムによって、複雑な感情状態を調整しつつ、生物学的、且つ、社会的に適応を果たしている様態は、私たちの感情が、生存戦略のメカニズムとして決定的に機能していることに他ならないということである。
深田監督が言うように、人間は複雑なのだ。

生成の過程で「認知系」と「情動系」が混じり合っていて、これが複雑な感情状態を知覚し、意識=「心の働き」が捉える。人間の複雑さへの理解は、浅薄な思弁的解釈の範疇を越えているのである。

「人間らしさ」

よく使用される言葉だが、この「解」に到達するには、限りなく自我の総体を把握する必要がある。

それが、「人間とは何か」についての有効なアプローチになり得ると、私は考えている。

知覚・判断・思考・記憶など、自我の「自律性」(「一次的自律性」)は、「自己保存本能」と密接にリンクしている。 

しかし、ここで言う「自己保存本能」は、自己の生命維持・発展にのみ収斂されるものではなく、自己の健全な生存・成長=「自己の再構築」という重要な意味合いを持つ。 

外部世界から内部世界に摂取・同化するという「自己形成」と言っていい。 

「一次的自律性」の時間の累加の中で、葛藤の克服という「二次的自律性」に発展させていく。 

内部世界での葛藤の克服を経由している事象がパターン化されれば、内部世界への摂取・同化という、向上的な姿勢を崩さず、能動的な〈生〉の「自己形成」にまで進化していくのである。
 「防衛・適応」の力動的メカニズムの遷移(せんい)の中で、「二次的自律性」を獲得し、外部世界への有効な対処が成就するのだ。 

「自律的・自発的」な働きをする「自我機能」が、このような心的行程を通して、私たち人間の「統合機能」を可能にする。  

AIは「自我機能」を持ち得ない、 解決されるべき、内部世界の矛盾・葛藤を認知でき得ること。 
それこそが、この緩やかな「統合機能」を持ち得た「自我機能」の健全性の証左となる。 

「統合機能」の「緩やかさ」。 

これが重要なのだ。  

「統合機能」の「緩やかさ」=「自我機能」の「緩やかさ」。 

これが、「自我機能」の健全性を支え切るのである。 

だから、内部世界を混乱させる様々な因子があっても、それらが解決されるべきテーマであると捕捉され、その〈現存在性〉から全人格的に逃亡しない限り、あとは、私たちの「自我機能」に委ね、緩やかな「統合機能」をフル稼働させていけばいい。 

この「統合機能」が脆弱になる深刻なトラウマを経験すれば、アイデンティティの危機に直面し、「自我機能」が顕著に劣化し、「多重人格障害」と呼ばれていた精神障害になるリスクを高めてしまうのだ。  

映画「少年は残酷な弓を射る」の少年は「分離・個体化」し得ずに、倒錯的に捩れ切った「自我機能」の脆弱さが、「統合機能」の「緩やかさ」を持ち得なかった 
映画「少年は残酷な弓を射る」より

因みに、現在、「DSM―IV」(精神障害の診断と統計マニュアル・第4版)から「解離性同一性障害」に名称が変更されている。 

「解離性同一性障害」は、過去に負った心のダメージを回避するための防衛本能によって、内部世界に交代人格が現れ、人格の統一感が失われていく深刻な疾病である。  
解離性同一性障害・イメージ画像・一人の人間が複数の解離した人格を持つ状態を表現した絵画(ウィキ)

この事例で分明なように、人間の「統合機能」こそ、私たちの「自我機能」の結晶点なのだ。 

それ故、狭義に言ってしまえば、人間とは自我であると私は考えている。 

それが、「人間とは何か」に対する私の結論になる。 

これまで、自我の様々なファンクション(機能)を「力動的観点」の視座から捉えてきたが、複雑な「自我機能」の一端を理解し、その能力の包括力の凄みに驚きを禁じ得ない。 

その部位が前頭連合野(前頭前野)にあると思われる「自我機能」こそ、人間だけが有する特性なのだ。 
思うに、人間の全ての機能は「自我機能」であり、全方位的に動いているが故に、私たちの心身の安寧(あんねい)が保持されているのである。  

「自我機能」は相互関連で動いているので、心身の安寧を保持するには、内部世界の矛盾・葛藤を処理しておくこと。 

これが絶対的に求められる。 

そのことなしに、外部世界へとの有効なコミュニケーションを具現することは難しいだろう。

 私たちの「精神的資源」には限りがあるのだ。 

だから、この貴重な「精神的資源」を枯渇させない努力を怠ってはならない。 

過度の「ディストレス状態」によって「精神的資源」が枯渇し、その貴重な資源が消耗してしまう「自我消耗」というトラップに嵌らないこと。 
この「自我消耗」というトラップに嵌ることなく、全方位的に動く、私たちの「自我機能」の包括力を日常的に保持すること。 

これに尽きる。  

【参照・引用資料】
心の風景「人間とは何か」より

(2018年8月)

0 件のコメント:

コメントを投稿