検索

2020年8月7日金曜日

ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書('17)   スティーヴン・スピルバーグ


<「古い時代は終わるべきだ。権力を見張らなくてはならない。我々がその任を負わなければ、誰がやる?」>


1  「これが本物なら、我々も“試合復帰”だ」



1966年、ベトナム戦争の真只中で、「大使館の関係者で、戦況を調べている」(米軍兵士の言葉)ダニエル・エルズバーは悲惨な戦場をレポートし、飛行機での帰国の途上、時の国防長官マクナマラに呼ばれた。
ダニエル・エルズバーグ
国防長官マクナマラ

「エルズバーグの報告を読むと、事実とは思えん。コウマー(注1)はジョンソン大統領に“戦況は改善”と報告した。私には悪化したとしか思えない。前線へ行った君の意見を聞きたい。改善か、悪化か?」
「マクナマラ長官、泥沼のままかと思われます」
「私が言った通りだ。10万の兵力を追加して改善せず。それは悪化と同じだ」
コウマーは、そう捲し立てられ、沈黙するしかなかった。
ロバート・ウィリアム・コウマー

マクナマラがタラップから降りると、多くのメディアが待ち構えていた。

戦況について楽観的か、悲観的か問われたマクナマラは、それに答えた。

「この一年の軍事的成果は、我々の期待を上回り、勇気づけられる。飛躍的な進展だ」
ベトナム戦争の事実と裏腹な発言を耳にしながら、エルズバーグは早速、勤務先のランド研究所に保管されているベトナム戦争の最高機密文書を持ち出し、全ページをコピーした。
最高機密文書
最高機密文書を持ち出すエルズバーグ
ランド研究所を出ていくエルズバーグ

かくて、ニクソン政権下の1971年、ニューヨーク・タイムズ(以下、タイムズ紙)の記者ニール・シーハンの署名入りで、「マクナマラ長官への調査報告=ペンタゴンペーパーズ」を大スクープする。

「それは、許しがたい機密保護法違反であり、まさしく激震です」とキッシンジャー長官。
「漏洩した者による反逆的行為だ。厳罰に処さねばならん」とニクソン大統領。
ペンタゴンペーパーズを漏洩したのは、言うまでもなくダニエル・エルズバーグ。

後に、「言論の金字塔」と評価される大スクープだった。

その頃、ワシントンにある、小さな地方紙ワシントン・ポスト(以下、ポスト紙)は、この大スクープに驚愕し、編集主幹のベン・ブラットリー(以下、ベン)は地団駄を踏む。
タイムズ紙のスクープ記事を読むベンらポスト紙の記者
地団駄を踏むベン
ニール・シーハンの行動を、ベンが部下に調べさせていた結果がこれだった。
既に、ポスト紙のオーナーのキャサリン・グラハム(以下、キャサリン)は、友人のマクナマラから、このスクープの情報を聞かされていたが、何も成し得ないのだ。
マクナマラとキャサリン
彼女もまた、自死した夫から社主を引き継ぐが、日々、経営悪化の立て直しに腐心していて、役員らから無能扱いされる始末だった。
経営悪化の立て直しに腐心するキャサリン
それを打開する契機を作り出したのが、取材コストの高さから「海賊」呼ばわりされ、経営陣から疎(うと)まれているベンだった。

以下、苛立つベンが、キャサリンに対し、マクナマラから機密文書を手に入れるよう強く求めた際の会話。
「マクナマラは古い友人よ。今、彼は苦境に立ってる」
「彼があなたに話したのは、ワシントン・ポストの社主だからだ。味方として守ってもらうためだ」
「違うわ。それは私の役目じゃない。彼をどう書こうと構わない。でも、私から彼に言う気はないわ。最高機密文書をあなたに渡せなどと。それは犯罪行為だし、あなたの情報源になることよ」
「我々の情報源だ」
やがて、この「我々の情報源」というベンの言辞が、スクープと無縁な記事を書き繋いできたポスト紙を根柢的に変えていく。

折も折、タイムズ紙の大スクープで、ベトナム反戦運動がアメリカ国内で激しさを増していく。
ベトナム反戦運動
同上

ポスト社に、見知らぬヒッピー風の若い女性によって機密文書が届けられたのは、そんな渦中だった。
ポスト社に機密文書が届けられる
「これが本物なら、我々も“試合復帰”だ」

見る見るうちに、ベンの表情が戦闘モードに変わっていく。

その頃、ポスト紙の編集局次長バグディキアンは、外部から受けた電話を、社外に出てかけ直していた。
バグディキアン

電話の相手は、米国のシンクタンクとして知られるランド研究所の所長だった。

「この手の文書を持ち出す度胸があるのは、道義心と信念を持つ人物だ。そして、自尊心が強い。一人、思い当たるだろ?私と同じくランドにいて、辞めた。誰だか、分かるだろ?タイムズを見て、彼だと思ったはずだ」

バグディキアンの鋭利な指摘である。

かつて、ランド研究所に勤務し、バグディキアンの同僚だったエルズバーグであると特定し、二人の認識は共有されるに至った。

一方、キャサリンは、タイムズ紙の編集局長ローゼンタール夫妻と会食していた。
キャサリンとローゼンタール夫妻
ローゼンタール夫妻
同上

同時に、ポスト紙では、先に入手した機密文書が、既にタイムズ紙に掲載されている事実を知り、落胆の色を隠し切れなかった。
落胆の色を隠し切れないベン

こうしたリークに業を煮やしたホワイトハウスでは、秘密漏洩の罪でタイムズ紙を訴える準備を始める。

その一報が、キャサリンと会食中のローゼンタールにもたらされると、彼は慌ててその場を後にした。

キャサリンは早速、ベンに電話し、大統領がタイムズ紙に差止め命令を求めることになったと伝える。

「そうなったら、試合はすべて終わりよ」
「チャンスをつかむためなら、何だってやる」
「どうぞ、法に触れない限りはね。連邦判事がタイムズに差し止め命令を出せば、うちも掲載できない。文書を入手してもね」
それでもベンは、文書の出所がエルズバーグだという事実をバグディキアンから報告を受けたことで、直ちに彼を探し出し、本人と接触することを促す。
バグディキアン

以下、エルズバーグとの接触に成功したバグディキアンと、エルズバーグとの会話。
エルズバーグ

「文書は47巻ある。数巻ずつ持ち出し、数か月かけてコピー。当時の政府職員たちがまとめた。最高機密だ」
「勇敢だな」
「勇気よりも、罪の意識だ。マクナマラは嘘をつけなかっただが、この内容は予想外だった皆、思った。これが暴露されれば、国民は一転して、ベトナム戦争に反対に。秘密工作、債務保証、不正選挙、すべてある。アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン。ジュネーブ協定違反、議会や国民への嘘。勝てないと知りながら、若者を戦場へ」
同上
「ニクソンは?」
「路線を継承してる。“戦争に負けた大統領”になるのを恐れて。ある時、ある人が言った。負けると知りながら、なぜ続けるか。10%南ベトナム支援。20%共産主義の抑止、70%アメリカ敗北という不名誉を避けるため。戦場へ送った若者の70%は…不名誉を避けるためだけ?衝撃だった」
同上
テーブルに広げられた文書に目を通しながら、エルズバーグの話に衝撃を受けたバグディキアンは反応した。

「連中に追われるぞ、はっきり言って、君を特定するのは簡単だ」
「分かってる」
「刑務所行きだ」
「戦争を止めるためなら、君は?」
「理論的には賛成だ」
「文書を掲載してくれるな?」
「ああ」
「差し止め命令が出ても?」
「掲載する」

エルズバーグの行動のモチーフが理解できる、極めて重要なシーンである。

ここから、何もかも変わっていくからだ。

(注1)ベトナム戦争で、ベトコン(ベトナム民族解放戦線)の暗殺計画「フェニックス作戦」を指揮した政治家ロバート・ウィリアム・コウマーのこと。



2  「古い時代は終わるべきだ。権力を見張らなくてはならない。我々がその任を負わなければ、誰がやる?」



重要な情報の報告を受けたベンは、早速キャサリンの家を訪ねる。

ポスト紙の上場廃止のリスクに憂慮する、社主キャサリンを説得するためだ。
上場廃止のリスクに憂慮するキャサリン
「政治家と親しく、葉巻を吸う日々は去った。古い時代は終わるべきだ。権力を見張らなくてはならない。我々がその任を負わなければ、誰がやる?」
「でも、新聞を失えば、それも不可能よ」
「文書を手に入れたら、あなたは、どうするつもりだ?」
ページがバラバラの400枚以上の最高機密文書を、ベンの自宅へ運んで来たバグディキアン。
「修正第一条(注2)を無視する大統領のおかげで、最高のネタが手に入った。タイムズは上っ面をなぞっただけ」
締め切りまで残り10時間の中で、バラバラになっている文書を部屋いっぱいに広げ、編集スタッフは、それぞれ文書を読み上げ、繋ぎ合わせていく。

この文書を読んだキャサリンは、友人のマクナマラの自宅を訪ね、これまでの嘘を涙ながらに批判する。

「ドミノ理論で、封じ込めや軍事的圧力だけが、ホー・チ・ミンを交渉に引き出せると。政策決定は…」
「間違っていた。あなたの調査報告書が示している」
「そうだ」
「あなたが努力したことは信じているわ。それに、決定を下すことの難しさも分かる」
「君は優しい」
「今から言うことは優しくないわ。これから、とても重要な決定をしなければならない」
一方、クラーク顧問弁護士によると、スパイ活動違反に問われ、重罪になるとベンは指摘される。
クラーク顧問弁護士

且つ、役員らからポスト紙は潰れると反対され、議論は平行線。

編集スタッフと顧問弁護士らが激しく対立する中、取締役会長のフリッツはキャサリンに電話して相談しようとするが、その電話にベンも参入した。
「報道の自由を守るのは報道しかない」とベン。
「私なら掲載しない」とフリッツ。

動揺するキャサリン。

「やりましょう。やらないと。やるのよ、掲載しましょう」

このキャサリンの決断を受け、残り2時間で、ポスト紙のスタッフはフル稼働する。

記者の記事が、次々に印刷に回されていく。

しかし、首脳陣はなお、経営危機回避のためにキャサリンへの説得を続けていた。

クラークによると、情報源がタイムズ紙と同じであれば、共謀罪が成立し、最高刑が死刑の「スパイ活動取締法」、更に、法廷侮辱罪が問われるのだ。

キャサリンも投獄される可能性がある。

それにも拘らず、キャサリンを説得することはできなかった。

輪転機が回り、“米国、ベトナム選挙の延期を画策”と一面トップを飾る、刷りたての新聞が積み上がっていくが、直ちに、司法当局からの圧力が入る。
輪転機が止まらない

「文書の掲載は国家の防衛に致命的な損害を与える。今後の掲載を一切中止するよう求める」

かくて、最高裁で争われるに至る。

以下、株主たちも動揺する中で掲載されたタイムズ紙の記事。

「“タイムズ、差止継続。ポスト、措置を免れる”」

「最高裁判所は、明朝、聴聞会を開催。ペンタゴン文書の公表をめぐり、相反する判断に決断を下すべく、報道の自由対政府で争われます」

これはテレビのニュース。

「明日はタイムズと共に出廷する」とベン。
共闘する正義
同上
同上
クラーク弁護士

エルズバーグも、テレビのインタビューで自らの主張を発信する。

そして、連邦最高裁判所の評決。

6対3で、ポスト紙はタイムズ紙と共に勝利する。
報われる正義
同上

ラストは、ニクソン大統領が部下に強い指示を与えるシーン。

「ワシントン・ポストの記者をホワイトハウスに入れるな。何があろうと、二度と。礼拝も、妻が主催する会もだ。妻に何も言うな。記者を入れてしまう。ワシントン・ポストの記者は二度と出入り禁止だ。カメラマンもだ。二度と誰も入れるな。絶対的命令だ。守れなければクビだ」

この「悪玉」の大統領が、この翌年、民主党本部への盗聴侵入事件・「ウォーターゲート事件」によって、1974年8月に辞任するに至ったという、まさに事件の発端を映し出すことで映画は閉じていく。

因みに、この「ウォーターゲート事件」を暴いたのは、編集主幹のベンの下、ポスト紙の若き社会部記者のボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインだったという強烈なオチがつく。(「ディープ・スロート」で有名な、アラン・パクラ監督の映画「大統領の陰謀」に詳しい)
「大統領の陰謀」より【ボブ・ウッドワード(右・ロバート・レッドフォード)とカール・バーンスタイン(ダスティン・ホフマン)】

(注2)「アメリカ合衆国憲法修正第1条」のこと。
「議会は、国教の樹立を支援する法律を立てることも、宗教の自由行使を禁じることもできない。 表現の自由、あるいは報道の自由を制限することや、人々の平和的集会の権利、政府に苦情救済のために請願する権利を制限することもできない」(Wikipedia



3  ベトナム戦争は、「攻撃性(侵略性)・防衛的大義」が「防衛性・攻撃的大義」に弾き飛ばされた戦争だった



ウォーター事件を暗示するラストシーンで判然とするように、時のニクソン大統領を「悪玉」の象徴的記号に仮構し、巨大な国家権力と戦う地方新聞紙の勝利、即ち、「古い時代は終わるべきだ。権力を見張らなくてはならない」というベンのメッセージに収斂される映画の本質は、ジャーナリズムの正義を強調し、言論の自由を高らかに謳うものだった。
ニクソン大統領(リチャード・ニクソン/ウィキ)
ウォーターゲート事件・情報を記者達に提示・示唆した「ディープ・スロート」=マーク・フェルト
ワシントンD..にあるウォーターゲート・ビル(ウィキ)

特段に異論はないが、社主のキャサリンの苦悩を描く物語を本線とし、彼女の家族や友人たちとの触れ合いや葛藤に揺れ、最後に、法廷外で待っていた女性たちの憧憬と賛美のうちに括られていくように、「正義」・「勇気」・「人道」が何より称賛されるという、ハリウッド映画の基本文法をトレースしたアメリカンヒーロー譚そのものだった。
キャサリンの苦悩
同上
同上
キャサリンの娘は唯一の理解者
マクナマラを信じようとするキャサリン

自由のために権力と戦う人物は何より尊いとされる、ハリウッドの映画文法の心地良さは、「大逆転の爽快さ」を求めて止まない観客のニーズに嵌るから、ハリウッド映画を好む数多の人々のラインが途切れることはないのだろう。
報道の自由対政府
同上
当然、「基本・娯楽」のハリウッド映画を否定する何ものもない。

それが、本作のような「社会派系」の映画で、声高に、「正義」・「勇気」・「人道」を主唱しても一向に構わない。

敢えて違和感を吐露すれば、政府代理人の事務所の女性から、「言うべきではないですが、兄はまだ、ベトナムにいます。勝って下さい」という見え透いたエピソードは、何とかならなかったのだろうか。

スピルバーグ特有のセンチメンタルなシーンの挿入に、私はどうしても馴染めない。
スピルバーグ監督とメリル・ストリープ、トム・ハンクス

私としては、心の奥深くまで、地域のコミュニティに浸透する宗教権力と戦った、「スポットライト 世紀のスクープ」の客観的、且つ、地道に証拠を固めていくジャーナリストたちを描いた作品のほうが、本作より遥かに優れていると評価している。
スポットライト 世紀のスクープ」より

閑話休題。

ここでは、「ベトナム戦争とは何だったのか」という拙稿をベースに、映画の背景にリンクしたいと考えている。
ベトナム戦争

映画の中で、エルズバーグは“戦争に負けた大統領”になるのを恐れて、ベトナム戦争を継続したと語ったが、このこは、アメリカの大統領が敗北を意識していたことを意味する。
ダニエル・エルズバーグ

まさに、そこにこそ、泥沼のベトナム戦争にのめり込んだアメリカの実相が垣間見える。

私はベトナム戦争の本質を、「攻撃性(侵略性)・防衛的大義」が「防衛性・攻撃的大義」に弾き飛ばされた戦争であると考えている。

いずれも、「大義」という概念を説明する際に用いた私の造語だが、こういうことである。

「攻撃性(侵略性)・防衛的大義」とは、形式的には攻撃的(侵略的)だが、拠って立つ堅固な観念体系を防衛するという目的意識のうちに集合する、理念としての「正義」のこと。
爆弾を投下するアメリカ空軍のボーイングB-52戦略爆撃機(ウィキ)
南ベトナム解放戦線の拠点へ投下されたナパーム弾(ウィキ)
ダナンに上陸するアメリカ海兵隊(ウィキ)

一方、「防衛性・攻撃的大義」とは、形式的には防衛的だが、負けたら全てを失う侵略的暴力に対して、国民が一丸となって攻撃的に突破していくという、堅固な意志が集合した観念体系としての「正義」のこと。
戦時下のハノイ(ウィキ)
ベトナム戦争でのゲリラ兵

言うまでもなく、前者がベトナム戦争における「アメリカの戦争」であり、後者が、ベトナム民族による「ベトナムの戦争」である。

後者の本質は、侵略的暴力からの「解放と独立の戦争」であると言っていい。

これは、「赤いナポレオン」と称された、「救国の英雄」ボー・グエン・ザップ将軍が、有名な「ハノイ対話」(1997年6月、米とベトナム間で実施された「ベトナム戦争」討議のこと)の準備会合で、「あれは独立戦争だった」と断言した言葉によって代弁されるだろう。
ボー・グエン・ザップ(ウィキ)

ベトナム戦争を勝利に導いた最高指導者ホー・チ・ミン主導による、ベトミン(ベトナムの独立運動組織)の「解放と独立の戦争」は、ベトナム軍がフランス軍を破った「ディエンビエンフーの戦い」(1954年5月)を画期点にする、1946年から1954年に及んだフランスとの第一次インドシナ戦争を経て、北緯17度線を軍事境界線とするインドシナ戦争の休戦協定「ジュネーブ協定」に収斂されていく。
ディエンビエンフーで勝利し旗を振るベトナム兵(ウィキ)

しかし、ジュネーブ協定によって、南北に分離されたベトナムは、またしても、フランスに代わって、新たな敵を迎えるに至る。

アメリカ合衆国である。

フランス軍の敗北に衝撃を受けたアメリカは、ケネディ政権以降、南ベトナムの傀儡政権への支援のため、軍事顧問団の規模を一気に増大させていく。

ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)を援助する、北ベトナムに手を焼いていたアメリカはトンキン湾事件を捏造(ねつぞう)し、ベトナム戦争を泥沼の「代理戦争」と化す「北爆」を開始した。

SKSカービンを手に、掩体壕(えんたいごう/装備・人員などを敵の攻撃から守るための施設)に身を屈める南ベトナム解放民族戦線の兵士(ウィキ)
トンキン湾事件/北ベトナム魚雷艇が南ベトナム艦艇と間違え、公海において、駆逐艦マドックス(画像)に対し魚雷と機関銃による攻撃を行ったとされるが、後に捏造と判明(ウィキ)
北爆 - YouTube
北爆(ウィキ)
沖縄から北爆に出撃してたB-52

既に、ソ連や中国からの支援を受けた北ベトナムを巻き込む、ベトナム戦争が本格化することで、「防衛性・攻撃的大義」を有する「ベトナムの戦争」と、「攻撃性(侵略性)・防衛的大義」で駆動する「アメリカの戦争」が、もう、一歩も後には退けない「大義」をかけた戦争に踏み込んでしまったのである。

では、「アメリカの戦争」の 「攻撃性(侵略性)・防衛的大義」とは何か。

「アメリカが指導する西側陣営は、封じ込め政策によって、共産主義の膨張から身を守らなければならない」

これは、1947年に、「フォーリン・アフェアーズ」(「X論文」)に発表した、アメリカの外交官・ジョージ・ケナンの見解を要約したものだが、この観念系の基本文脈の一つが、アイゼンハワー大統領とダレス国務長官によって提唱された、「ドミノ理論」という妄想体系のうちに結実化されていく。
ジョージ・ケナン(ウィキ)
ジョン・フォスター・ダレス(ウィキ)
ドミノ理論のイメージ(ウィキ)

言わずもがな、ある国が共産主義化してしまえば、まるでドミノ倒しの如く、その近隣諸国までもが、連鎖反応的に共産主義化するという、極めて観念性の濃度の高い理論である。

これが、マッカーシズムの脅威に怯(おび)えたトラウマを持つアメリカにおける、冷戦時代の外交の基本政策である。

「我々がインドシナを失ったと仮定してみよう。即座に、この地域にぶら下がっている先端のマラヤ半島はほとんど防衛不可能になるだろう。インド全土は包囲されることになる。ビルマは弱体の状況にあり、防衛不可能なことは確実だろう。これらすべてを失えば、自由世界はいかにすれば、インドシナを保持できるのだろうか」

アイゼンハワー大統領の言葉である。
アイゼンハワー大統領(ウィキ)
東南アジアの大陸部(インドシナ半島)
ジョセフ・マッカーシー/共産党員と、共産党員と疑われた者への攻撃的非難行動を繰り返した共和党上院議員(ウィキ)

マッカーシズム(赤狩り)が吹き荒れたことで、「アジア専門家の空白」を作ってしまった事態の決定的瑕疵は、「共産主義」という名の「妖怪」を過剰に怖れる空気を醸成し、これが「ドミノ理論」という、もう一つの副産物を仮構するに至ったのは、以下のダレス国務長官の言葉によって検証されるだろう。

「東南アジアの集団安全保障を組織するのは,結局、インドシナ三国を失った場合,続いて東南アジアの他の地域を自由世界が失うことになるような状況を予防することを狙いとしている。インドシナの喪失が東南アジア防衛問題をいっそう困難にすることは間違いないが、アメリカは東南アジアの防衛を断念しないだろう」

現実主義者でありながら、同時に、「反共十字軍的発想」の持ち主と言われるほど、堅固な反共主義の理論に嵌っていた、この有能な国務長官が仮構した「ドミノ理論」は、その後のケネディ政権に継承されていく。

「ベトナムは、東南アジアでの自由世界の礎石です。わが国の子孫ともいえます。われわれはこの国を放棄することもできないし、その必要も無視することもできないのです」

これは、1956年に、マッカーシズムを支持した民主党上院議員の一人であった、ジョン・F・ ケネディの演説の一部である。

そのケネディ政権で、当時、高名なジャーナリストのデイヴィッド・ハルバースタムによって、「ベスト・ アンド・ブライテスト」と呼称され、ベトナム戦争に最も重要な役割を担ったことで、「マクナマラの戦争」とさえ揶揄されたマクナマラ国防長官が登場する。

デイヴィッド・ハルバースタム(ウィキ)
ジョン・F・ ケネディと、「ベスト・ アンド・ブライテスト」の象徴的存在ロバート・マクナマラ(ウィキ)

以下、あの有名な「マクナマラ回顧録」の一文を紹介する。

「たいていのアメリカ人と同じように、私も共産主義は一枚岩と見ていました。そして、ソ連と中国は自分たちの覇権を拡大しようと努力している、と信じていました。
(略)ニキータ・フルシチョフ(ソ連共産党第一書記、首相)は、第三世界での“民族解放戦争”によって共産主義が勝利すると予測し、西側陣営に『われわれはあなた方を葬り去るだろう』と当時告げています。ソ連が1957年にスプートニク(注3)を打ち上げ、宇宙工学でのリードを見せつけたことで、フルシチョフの脅迫に信頼性が増しました。翌1958年、彼は西ベルリンに強圧を加えてきました。
そしてまもなく、西半球ではカストロがキューバを共産主義の橋頭堡(きょうとうほ)に変えました。われわれは包囲され、脅威にさらされたように感じたのです。アメリカのベトナム介入の底流にはこのような恐怖感があったのでした」

「共産主義」という名の「妖怪」に対する、当時のアメリカ高官たちの異様なまでの恐怖感が、合理的思考を有する抜きん出た能力の主の自我を呪縛し、「ドミノ理論」という妄想体系に縛られていた事実に驚きを禁じ得ないが、しかし、これが、ベトナムが共産化されることで、ミャンマー、タイ、マレーシア、インドネシア、更には、日本、台湾、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドが、徐々に共産勢力の手に渡るものだと主張した、アイゼンハワー大統領の記者会見での言葉を重ねれば、否応なくリアリティを増幅させてしまうのである。

先の、アメリカ海軍の駆逐艦が北ベトナム軍の哨戒艇に魚雷の襲撃を受けたとされる「トンキン湾事件」の捏造については、映画でも判然としたように、「ペンタゴン・ペーパーズ」の執筆者の一人であったダニエル・エルズバーグが、ニューヨーク・タイムズの記者に全文のコピーを手渡した事実によって検証されている。
現在のダニエル・エルズバーグ(ウィキ)

当時のアメリカ高官たちは、本気で「共産主義」という名の「妖怪」を怖れていたのであり、誰一人、「ドミノ理論」の脅威を疑っていなかったのだ。
回顧録の中で、「ドミノ理論」は「強迫観念」、「ものの見方の誤り」だったと認めたマクナマラが、「ハノイ対話」の準備会合の場で、ボー・グエン・ザップ将軍に対して、「トンキン湾で何が起こったか知りたい。4日の第二次攻撃はあったのか」と質問した際に、ザップ将軍は、即座に答えたと言う。

「2日は米艦マドックスが領海に入ったので、小さな魚雷艇が戦った。しかし4日は、ベトナム側から絶対に何もしなかった」

マクナマラは、「トンキン湾事件」が自作自演であった事実を、この時点で確信できていなかったのである。

「これは幻覚、妄想のようなものだ。だが、米国の非常に知的で最も聡明な人たちもまた、ドミノを信じた」

これも、ザップ将軍の言葉。

彼は、「幻覚、妄想」でしかない「ドミノ理論」を、マクナマラを筆頭に、「知的で最も聡明な人たち」が信じた事実に驚嘆するのだ。
画像は1975年4月30日、南ベトナム大統領官邸=現・統一会堂、後ろのビル=に突入した戦車
ロバート・マクナマラ(ウィキ)
南ベトナムを訪問するマクナマラとウィリアム・ウェストモーランド将軍(1965年)(ウィキ)

とりわけ、「知的で最も聡明な」ロバート・マクナマラ は、その「回顧録」の中で、「11の教訓」とともに、新世紀へのメッセージを発していく。

以下、「回顧録」の中の「11の教訓」を抜粋する。

(1)われわれは相手方〔この場合は、北ベトナムとベトコン、これを支援する中国とソ連〕の地政学的意図の判断を当時誤り、彼らの行動がアメリカに及ぼす危険を過大評価しました。

(2)われわれは南ベトナムの国民と指導者を、アメリカ自身の経験に照らして判断しました。彼らの中に自由と民主主義への渇望がある、とわれわれは考えたのです。

(3)われわれは、自分たちの信念と価値観のためには、戦って死ぬほど人々を鼓舞するナショナリズムの力を過小評価し、今日でも世界の多くの場所で引き続きそうしています。

(4)われわれが、敵も味方をも同じように誤解したということは、地域に住む人たちの歴史、文化、政治、さらには指導者たちの人柄や習慣についてのわれわれの深刻な無知を反映しています。

(5)アメリカは、通常のタイプとちがう、きわめて強い動機を持った人民の運動と対決したさい、アメリカの持つ近代的でハイテクを駆使した装備、兵力、それに軍事思想の限界と当時認識していませんでした。

(6)われわれは、東南アジアに対するアメリカの大規模な軍事介入を開始する前に、この是非について全国的で率直な討議や論争、アメリカの議会と国民を引き込むことができませんでした。

(7)行動が開始され、予想外の出来事が起きて、計画したコースから余儀なく外れたあと、われわれは国民の支持をつなぎ止めておくことができませんでした。

(8)アメリカの国民も、その指導者たちも、全知の存在でないことを、われわれは認識していませんでした。

(9)アメリカ自身の安全に対する直接の脅威に反撃する場合を除いて、アメリカの軍事行動は、国際社会が十分に支持する多国籍軍と合同で実施するという原則を、アメリカは守りませんでした。

(10)行政問題では、人生の他の側面と同様、すぐに解決できない問題もあることを、われわれは認めませんでした。

(11)こうした多くの心配の裏には、並はずれて複雑な範囲の政治、軍事の諸問題に効果的に対処できるよう、行政府のトップクラスを組織しなかった事実があります。

―― 以上の「11の教訓」の中で、「地域に住む人たちの歴史、文化、政治、さらには指導者たちの人柄や習慣についてのわれわれの深刻な無知」、「アメリカの国民も、その指導者たちも、全知の存在でないことを、われわれは認識していませんでした」という表現に、正直、驚嘆に値するが、当時のアメリカが、如何に「幻覚、妄想」に呪縛されていたかという事実を再認識させられる思いである。

縷々(るる)、言及してきたように、「アメリカの戦争」の「攻撃性(侵略性)・防衛的大義」とは、前述したように、拠って立つ堅固な観念体系を防衛するという目的意識のうちに集合する、理念としての「正義」のことだが、その内実は、根拠の希薄な「幻覚、妄想」であった。
ディーン・ラスク国務長官(左)とジョンソン大統領(中央)とともに閣議に臨むマクナマラ(1968年)(ウィキ)

相手を知らずして戦った「アメリカの戦争」の脆弱性が、末端の下級将校・下士官・兵士にまで及ぶとき、彼ら自身が、「なぜ、自分たちが、東南アジアのジャングルで、これほど辛い経験をせねばならないのか」という自問に、明瞭に自答できなかったらどうなるのか。

これが、有名な反戦映画「プラトーン」の凄惨な世界になる。
映画「プラトーン」より(主人公・クリス)

負けたら全てを失う侵略的暴力に対して、国民が一丸となって攻撃的に突破していくという、堅固な意志が集合した観念体系としての「正義」に拠って立つ、「敵」との戦争に完璧な勝利を手に入れる前に、「僕たちは自分自身と戦ったんだ」と独言した、「プラトーン」の主人公・クリスのラストモノローグのうちに収斂される外にないのだろう。

ここで私は、「プラトーン」の面々が、「敵」との戦争の完璧な勝利よりも、除隊の日までの残りの日数に希望を託し、「最前線」の異常なエリアで呼吸を繋いでいたことを想起する。

彼らは、「日常性」の継続力の世界への「生還」のみに〈生〉の意味を見出すことで、厄介な「非日常」の日々を耐えることに神経を摩耗させる以外になかった。

彼らは、「ドミノ理論」の脆弱な観念体系で呼吸を繋げなかったが故に、ドラッグに溺れ、一時(いっとき)の賭けごとに享楽を求める。
映画「プラトーン」より(ドラッグに溺れる兵士たち)

当然、「プラトーン」の面々の規範意識は劣化する。

それでなくとも、熱帯性気候下のジャングルの日常に適応し得ず、ひたすら、いかなる時に、いかなる場所で、ベトコンに襲われるかも知れない恐怖の日々の渦中にあっては、自分の命を必死に守ることだけが、彼らの意識を強迫的に捕捉する。

こんな精神状況で、堅固な意志が集合した、観念体系としての「正義」に拠って立つ、「敵」との戦争で勝利を手に入れられる訳がないのだ。
映画「プラトーン」より(バーンズ軍曹)

もう、これは、「約束された敗北の戦争」をトレースするのみなのである。

「人を殺すのはとても簡単だ。悩む暇なんてない。ただ、訓練で撃つのとは全く違う。殺した瞬間、一つの境界を越えて別世界に入らざるを得ない」

これは、あるベトナム帰還兵の言葉である。

まさに、「最前線」の異常なエリアでは、「大義」ではなく、「戦場のリアリズム」だけが推進力になり得るのである。

その度に、「一つの境界を越えて別世界」に入り込んでいく。

これが、「プラトーン」の世界の本質だった。
映画「プラトーン」より(エリアス軍曹)

ここまで書いたところで、「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」(2003年製作)に収められている、痛切な言辞に耳を貸してみよう。

「私は生涯を通じ、戦争の一部だった。人は何度でも同じ過ちを犯す。3度ミスをすれば、4度目には避けられるかも知れないが、核の時代には、その論理は通用しない」

そんな中から得た幾つかの教訓。

「理性は助けにならない」
「目に見えた事実が正しいとは限らない」
「人は善をなさんとして悪をなす」
"決して"とは決して言うな」
 「人間の本質は変えられない」
「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」より

全て自明の理のような印象を拭えないが、既に80歳を越え、現役を引退したロバート・マクナマラにとって、ベトナム戦争の回顧と自己批判・自己弁護(特にケネディの弁護)は、「マクナマラの戦争」と糾弾され続けた屈辱に対して、自分の思いを表現せざるを得なかったのだろう。

「人は何度でも同じ過ちを犯す」という痛切な言辞こそ、「マクナマラの戦争」というラベリングに対する、忌憚(きたん)のない自己批判だったとも言える。
R・マクナマラ氏死去 元米国防長官 ベトナム戦争推進 93歳

1968年のベトナム戦争の軍事支出が819億ドル、軍需産業の雇用者が317万人(就業人口の4.1%。)という数字が示すように、「アメリカの軍需経済と軍事政策」というテーマを置き去りにするつもりはないが、ここでは、ベトナムの底力を見せつけた、先の「ディエンビエンフーの戦い」に象徴されるように、当時のアメリカの高官たちの共産主義に対する恐怖感が膨張した結果、その心理の裏返しの形で、最も粗悪な形で表現されてしまった、「ベトナム戦争」という妖怪の正体が、「幻覚、妄想」でしかない「ドミノ理論」という、異様なまでの「強迫観念」に捕縛された脆弱性それ自身であった事実を確認したい。

「アメリカ」という名の、絶対不沈の帝国的な国民国家が、他の国家と同様の文脈において、その内部に如何に脆弱な体質を抱え込んでいたことが露呈されてしまったからである。

“戦争に負けた大統領”になるのを恐れて、「約束された敗北の戦争」を継続せざるを得なかった「アメリカの戦争」の、その「攻撃性(侵略性)・防衛的大義」が、「防衛性・攻撃的大義」で戦い切った「ベトナムの戦争」に勝つことなど覚束(おぼつか)ないのだ。

ベトナム戦争は、「攻撃性(侵略性)・防衛的大義」が「防衛性・攻撃的大義」に弾き飛ばされた戦争だった所以である。
米大使館前で焼身自殺した、伝説的なベトナムの僧侶・ティック・クアン・ドック(ウィキ)
アメリカが初めて負けた戦争・ベトナム戦争
同上
同上

(注3)ロシア語で人工衛星のことで、当時のアメリカに「スプートニク・ショック」と言われるほどの衝撃を与えた。翌年、アメリカも打ち上げに成功したことで、米ソの宇宙開発競争が開かれていくが、ここに、「共産主義に負けてはならない」というアメリカの根深い観念系が読み取れる。
「スプートニク・ショック」で、1957年のパーソン・オブ・ザ・イヤーに選ばれたソ連の指導者ニキータ・フルシチョフ(ウィキ)

(2020年7月)

0 件のコメント:

コメントを投稿