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主要登場人物 |
「怒り」の閾値を超えていく少年 |
1 三つのエリアで呼吸を繋ぐ人々 その1
八王子で起こった夫婦殺害事件(以降、「事件」)の現場には、「怒」という血文字が壁に残されていた。
テレビを見る「事件」を担当した二人の刑事 |
容疑者の女装した合成写真も公開される。
山神の住んでいたアパートの部屋に捜査に入ると、日常で目に付いた他人の行動のストレスを、一々、細(こま)かに紙に書き、窓一面に張り付けてあった。
事件当時、山神の部屋にあった文字の張り紙 |
「思い立ったら、書かずにいられねぇってか」
この刑事の言葉から、デイリーハッスル(些細な苛立ち)に反応しやすい犯人の性向が透けて見える。
【千葉編】
3か月前に家出した娘・愛子を、風俗店から連れて帰る父・洋平。
風俗嬢だった娘・愛子 |
愛子(右)を連れて帰る父・洋平(左) |
漁協の市場では、2か月ほど前に転がり込んで来た、素性の知れない田代という男をアルバイトで雇っていた。
真面目に働く寡黙な田代に、愛子は徐々に魅かれていく。
田代(右)と愛子 |
「俺、知ってます。愛子ちゃんが家出してたこと。その間、どんなところにいたか。この町に住んでいたら、そういう話、耳に入りますから」
「…町じゅうで娘のこと、バカにされて、陰口叩かれて、それでも、じっと黙って何にもしねぇ親父が、情けねぇと思ってんだろ!…あいつ、ちょっと人と違うところがあるんだ。お前だって、分かってんだろ」
「あの、俺、愛子ちゃんと一緒にいると、ほっとするんです。なんて言うか、自然と色々、話したくなって」
その田代とアパートを借りて、一緒に住みたいと言い出す愛子。
「そんなに田代が好きか」
黙って頷く愛子。
愛子を心配する洋平は、田代が以前勤めていた軽井沢のペンションに行き、そこで偽名を使っていたことを知る。
その事情を愛子に話すと、愛子は啼泣(ていきゅう)しながら反駁(はんばく)する。
「田代君、悪いことして逃げてるんじゃないの。嘘の名前使っているのも、理由があるの。田代君が大学生の頃、田代君のお父さんが仕事で借金して、最初はちゃんと返してたんだけど、そのうち返せなくなったら、そのお金貸した人がヤクザにその権利売っちゃって、田代君のお父さんとお母さん、自殺したら、田代君が返す必要なんてないのに、許してもらえないんだって。警察にも相談したけど、ダメなんだって。だから田代君、逃げるしかなかったって。どこに行っても見つかるって。本名使うのが怖いって。お父ちゃん、助けてあげて!お父ちゃんだったら、助けてあげられるでしょ。見つかったら、ほんとに怖いんだよ。逃げられなくなるんだよ。私、分かるもん。誰も助けてくれないよ」
「分かった、分かったよ…」
「あたしなんか、普通の人と幸せになれるわけないの。でも、田代君みたいな人だったら、ずっと私なんかの傍にいてくれるかも知れない…」
愛娘にここまで言われて閉口してしまう父と、嘘をつけず、本音をダイレクトに吐露する娘が、閉鎖系の漁港の一角で呼吸を繋いでいた。
こうして、愛子と田代はアパートに引っ越していく。
【東京編】
ゲイパーティーで盛り上がる優馬だったが、友人たちの誘いを断り、母のいるホスピス病棟を訪れる。
優馬 |
優馬と母(左) |
優馬はゲイの出会い系スポット・「発展場」(はってんば)で、気に入った男を誘い、自宅に呼び、共存するようになる。
優馬と直人(右) |
男の名は直人(なおと)。
28歳の直人は住む家も決まっておらず、「千葉編」の田代と同様に、身元を明かそうとしない。
互いに求め合う二人は、心を通じ合わせ、直人は優馬の母に会い、話し相手をするようになる。
その母が逝去した。
肝心の葬式に、直人を呼ばなかったことを謝罪する優馬。
「こないだ、悪かったな。葬式来ないでくれって…」(優馬)
「分かろうとしない人にはさ、いくら説明したって、伝わらないから」と直人。
「お前も一緒に墓に入るか」と優馬。
「別に、いいけど」
「冗談だよ」
「分かってるよ」
「俺は、それでもいいけど」
「分かってるよ」
そんなある日、直人がカフェで、若い女性と楽しそうに話しているところを目撃する優馬。
「マジかよ」(優馬) |
友人二人に同じ手口の空き巣が入ったという話を、耳にしたばかりだったから始末が悪かった。
「案外、皆の共通の知り合いだったりして」
この友人の言葉が反響音と化し、優馬の内側に、直人に対する疑念が生まれていくのだ。
帰宅するや、カマをかけながら、直人に昨日の行動を聞き出そうとする優馬。
「俺見たんだよ、たまたま。昨日、中目のカフェで一緒だった女、あれ、誰?」
「…言いたくない…なんで、そんなにカマかけるんだよ」
ここで優馬は、直截(ちょくさい)に切り出す。
「根本的なところで、俺のこと、裏切っているっていうかさ。まあさ、お前がどう答えたとしても、それをどう受け取るかは、結局さ、俺次第ってことなんだよな」
この言葉を受け、心理的ダメージを受けている直人の表情が炙り出されていた。
【沖縄編】
高校生の泉は友人の辰哉(たつや)に頼み、無人島まで連れて行ってもらい、そこで一人のバックパッカーと出会う。
泉 |
バックパッカーの男性 |
帰り際、荒れ果てて、廃墟と化した民家に住む男は、この島にいることを黙っていて欲しいと頼み、泉は黙って頷く。
食べ物の心配をしたのか、再び、島を訪れる泉。
無人島に行く泉と辰哉(左) |
ここで男は、自分に興味を示す泉に対して、田中と名乗り、会話を繋ぎ、二人の心理的距離が縮まっていく。
その後も、泉は田中に会うために、度々、島を訪れるのだ。
いつも、島に小型エンジン付きボートで連れて行ってくれる役割を担うのは、辰哉だった。
泉に好意を持つ彼は、泉を映画に誘う。
「那覇に映画見に行こうと思って…」(辰哉)
「あんなことして、本当に変えられるのかな」
辰哉は、家の旅館業を放り出してまで、基地建設反対運動に参加する父に疑問を呈している。
アーケードで、田中が歩いているのを見つけたのは、そんな時だった。
泉が声をかけたことで、「流れ」が決まった。
居酒屋へ行く3人。
そこで、泉が吐露したのは、男にだらしない母親が、問題を起こして那覇にやって来たという不面目(ふめんぼく)なルーツ。
店を出て、那覇に残るという田中と別れ、二人はフェリーで帰ろうとしたが、泡盛で酔っ払った辰哉が見えなくなった。
泉は必死に辰哉を探して、街を走り回るが、基地の米兵が屯(たむろ)するエリアに迷い込んでしまう。
二人の米兵に公園で泉がレイプされたのは、その直後だった。
それを目の当たりにした辰哉は、水飲み場の陰で蹲(うずくま)るだけで、何も為し得なかった。
米兵が逃げ去ったあと、泉に近寄った辰哉は、携帯で通報しようとする。
「誰にも言わないで…」
「誰か!誰か!」
辰哉は叫ぶだけだった。
「辰哉君、言ったよね!あんなことして、何が変わるのかって。あたしがどんなに怖かったか!いくら、泣いたって、怒ったって、誰も分かってくれないんでしょ!訴えたって、どうにもならないんでしょ!悔しい思いをするだけなんでしょ?無理だよ、あたし、そんなに強くないもん…」
海辺での、辰哉に対する泉の叫喚(きょうかん)である。
誹議(ひぎ)され、何も答えられず謝罪するばかりの辰哉 |
何も為し得なかったことを謝る辰哉に、怒号を放つ外にない泉の孤独が虚しく曝されている。
引き籠ってしまう泉 |
その辰哉は今、田中が居場所にする島を、一人で訪ねていく。
田中は辰哉にコーヒーを振舞い、柔和に対応する。
まもなく、辰哉の旅館で働き始める田中が、そこにいた。
辰哉は部屋にやって来た田中に、泉が被弾した事件の話を、クラスの友達の妹が米兵にレイプされたこととして切り出し、相談するのである。
「沖縄で米兵が女の子にひどいことするさぁ…ああいうの、何とかできないのかなって…」(辰哉)
「辰哉さ、俺、沖縄の味方になるとか、そんな立派なことは言えないけど、お前の味方だったら、いつだって、なるからな」
一人の大人が放つ言辞が、少年の中枢に深々と入り込んできた。
2 三つのエリアで呼吸を繋ぐ人々 その2
ここから「事件」の新たな展開が開かれ、三つのエリアで呼吸を繋ぐ人々を大きく変えていく。
八王子殺人事件後、9月に新潟市内で整形手術を受けた際の、防犯カメラの映像と、整形後の山神容疑者の顔写真が公開され、テレビに映し出された。
更に身体的特徴として、左利き、やや猫背で歩く、頬に3つ縦に並んだホクロがあるなど、幾つかの資料が提示される。
【千葉編】
テレビを見た洋平は、容疑者の顔が田代に似ていることに反応して、愛子のアパートを覗き、田代が左利きであることを確認する。
逃亡犯の写真の張り紙を見ていた愛子が、「似てないよね」と言うのみ。
しかし、そんな愛子が大雨の中、傘もささずに、ずぶ濡れになって洋平の家にやって来て、泣きながら警察に通報したと言うのだ。
愛子のアパートに警察がやって来た。
鑑識の結果を待つ間、愛子は父・洋平に田代とのことを吐露していく。
「あたしね。警察に電話する前、田代君に電話をしたの。田代君、人殺して逃げてるのって聞いたの。そうじゃないなら、お昼までに帰って来てって。あたし、待ってるからって。田代君、帰って来なかった。電話も通じなくなって…あたしね、お金入れた。田代君のバッグに。田代君が出かける前に、こっそり40万円。愛子が貯めていたお金、全部」
そこに、刑事が訪ねて来た。
指紋鑑定の結果、田代が「事件」とは無関係である事実を報告に来たのだ。
「彼の名前は、ヤナギモトコウヘイ。ヤナギモトの指紋と今回の指紋が一致しました。彼は身元が明らかなため、山神一也でないという結論です。ご協力、ありがとうございました」
安堵のあまり、思わず、膝を落とす洋平。
自らの行為を恥じ、泣き叫ぶ愛子。
洋平は号泣する愛子を抱き締める。
そんな折、山神容疑者が沖縄で殺害されたニュースをテレビで知る洋平。
「警察の取り調べに対し、容疑者の少年は、殺害した男が、山上容疑者とは知らなかったと話し、事件から一週間が経過した今もなお、『信じていたから、許せなかった』と、繰り返し供述しているとのことです」(TV放送)
愛子の携帯に、東京にいる田代から連絡が入った。
アパートに来た洋平に、電話を替わる。
「田代、田代か!」(洋平) |
繰り返し、謝罪する田代。
「連絡するつもりなかったんですけど、これ以上も迷惑かけるつもりもありません。すみません」
「お前、悪くねえよ。借金取りだか、やくざだか知らねえが、一人で抱え込むことないだろ。お前、よくやったよ。一人で何年も、良く戦ったよ。俺にできることは何でもするから。頼むから戻ってこい」
今度は愛子が、懸命に田代に訴える。
「あたし、今度こそ、田代君のこと守るから、ちゃんと守るから。今から、迎えに行く!」
田代の嗚咽が止まらない。
東京に着いた愛子から、洋平に連絡が入った。
「田代君も一緒にいる。これから一緒に帰る…お父ちゃん、田代君、連れて帰るよ」
これで、素性の知らぬ、一人の従業員・恋人に対する猜疑心で迷走した父娘に関わる、事態の一切が収斂されていくのである。
【東京編】
そのニュースを見ていた優馬が、殺人犯の顔写真を見て直人を思い、頬の3つのホクロで犯人の疑いを深める。
「事件」に関する新たな情報の報道をテレビで見て、直人を疑うようになる優馬 |
3つのホクロがある直人 |
直人に携帯をかけるが、全く応答がない。
インターネットで事件について調べていると、携帯の電話が鳴った。
警察の刑事課からで、大西直人を知っているかを聞かれた優馬は、咄嗟に知らないと答える。
電話を切るや、優馬は家中の直人の使った箸や歯ブラシ、衣服を処分する。
優馬は以前、直人を見かけたカフェに行き、直人が話していた女性に声をかける。
優馬は直人を探していることを話すと、女性は直人について話し始める。
「直人も私も、施設で育ったんですよ。だから、血は繋がってないんですけど、今でも兄妹だと思っています。直人、昔から心臓が悪くて、手術でどうにかなる問題ではなくて、薬で騙し騙しやってたんですけど、もう…公園の茂みに倒れてたみたいで。直人らしいなっていうか」
「え?え?」
直人の死を聞かされ、絶句する優馬。(ここで、警察からの電話が直人の身元確認であったことが判然とする)
「ここで会ったときに、直人、ものすごく嬉しそうに、優馬さんの話していて。ずっと隠れて生きていくしかないと思っていたけど、優馬さんは堂々としてる。優馬さんと一緒にいると、何か自分も、強くなれたような気になれる」
首を横に振りながら、話を聞く優馬。
「俺、逃げたんです。あいつを、直人のこと、信じてやれなかった…」
「あたしも、直人に言われたんですよ。お前は、大切なものが多すぎる。本当に大切なものは、増えるんじゃなくて、減っていくんだ。俺も、優馬に出会って、やっとそのことに気づいた」
嗚咽が止まらない優馬。
優馬を見て、もらい泣きする直人の「妹」 |
「何で、俺なんか…俺みたいな…」
そう吐き出すや、店を出て、街を彷徨しながら、直人の言葉を想い起こし、号哭(ごうこく)するのだ。
「一緒は無理でも、隣ならいいよな」(直人) |
悲哀を極める収束点だった。
【沖縄編】
旅館の手伝いをする田中は、運んでいた客の荷物を、全て庭に放り投げてしまう。
辰哉は怒り、その荷物を拾い、車に運ぶ。
「俺さ、知ってんだよ。泉ちゃんのこと…あの晩、那覇で別れた後、そのまま宿に戻るつもりだったんだよ。で、たまたま公園の前に通りがかったら、あの米兵の奴らが泉ちゃんと押さえつけてるところで、何とかしなきゃ、助けなきゃって思ったんだけど、もう、膝が震えてるわ、腰は抜けてるかなんか、全然身動きが取れなくて、そんなこんなしている間に、あいつらが…」
米兵が基地に逃げ込み、タクシーで追った田中が公園に戻ると、泉が「誰にも言わないで…」と繰り返していたことを話すのである。
話を聞きながら、「誰にも言わないで…」と呟く辰哉 |
辰哉はその話を聞き、泣きながら自分を責める。
「俺、何もできなかった。泉ちゃん、助けてあげられんかった」
辰哉の吐露を聞き、田中は涙を流しながら、慰める。
「お前のせいじゃないよ」
「だったら、泉ちゃんのために、何をしてあげられるの、ねえ?教えてよ…」
泣き伏す辰哉に、田中は答える。
「考えよう。俺たちのできることを」
そんな男が豹変した。
凄まじい勢いで、旅館の食堂の機材や水槽をフライパンで破壊していくのだ。
豹変する田中を見て、呆然とする辰哉(左は辰哉の母) |
散々、暴挙を働いて、田中はそのまま走り去ってしまう。
置き去りにされ、当惑する辰哉は、田中のいる島に向かった。
田中が寝泊まりする廃屋に入ると、石の壁に刻まれた「怒」という文字が、視界に捕捉される。
その字を凝視し、呆然と佇立(ちょりつ)する辰哉。
外では、田中が鏡に向かって、右頬の黒子(ほくろ)をナイフで削っていた。
辰哉に気づいた田中は、いつもの調子で、フレンドリーに声をかけてきた。
辰哉に気づき、声をかける田中(右頬から血が出ている) |
しかし、ここで様相は一変する。
「お前、俺の何を知っていて、端(はな)から信じられるわけ?」
「味方になるって、言ったろ」
暗い沈黙の中から、辰哉は声を搾(しぼ)り出した。
「あぁ、俺さ、アメ公の奴ら、泉ちゃんのことつけ狙ってるとこ、結構、最初の方から見てたんだよね。なのにさ、どっかのオヤジが、ポリース!ポリース!とか叫んで、それで終了だよ。逃げねえで、最後までやれよ!あのアメ公、根性がねぇんだよ!」
呆然とする辰哉。
「ウソだろ。何で、そんなウソつくんだよ」
「嘘なんかじゃないよ。だって俺、波留間(はるま)に渡ってから、何回も泉ちゃんの様子、見に行ってるもね。だって、自殺とかされちゃったらさ…そしたら、そしたら受けんじゃん。お前だって、ビビッて、ただ見てただけだろ」
嘲笑しつつ、男は、ここまで言い放ったのだ。
「ウケる…お前、マジ、ウケるわ」
なおも、哄笑(こうしょう)する田中。
「ウソだろ。ウソって、言ってよ!」
泣きながら訴える辰哉に、笑いが止まらない田中は、壁の「怒」という文字を、更に、力強く削り始める。
「同情するフリなんてな、いらねぇんだよ…辰哉、俺はお前の味方だからさ」
そう言うや、辰哉の首を絞め、今度は泣きながら抱き締めてから払い飛ばし、寝床で逆立ちする田中の異形(いぎょう)の様相が、例えようのない画(え)になっていた。
いつものように、逆立ちを始める男 |
極限状態に陥る辰哉。
脳裏に浮かぶのは、泉の「誰にも言わないで…」という、破壊力を有する言辞。
荒々しい呼吸をしながら、這うようにして鋏(はさみ)を手にし、全身の力を込めて、田中の腹を突き刺した。
田中は腹を抑えて、海の方へ歩いて行く。
壁に刻まれた文字を読む辰哉。
「米兵にヤラれてる女を見た 知ってる女だった 女 気絶 ウケる」
辰哉は泣きながら、その文字を石で削り取っていく。
息絶え絶えになり、倒れる田中。
辰哉からのメールを受け取り、引き籠っていた日々を脱し、泉は動き出していく。
自力でボートのエンジンをかけ、無人島に向かうのだ。
泉はそこで、辰哉が懸命に削り取った後の文字を読み取り、辰哉の思いの全てを理解する。
「辰哉…」 |
そして、壁に刻まれた「怒」の文字の前に立つ泉。
砂浜を走り、海に向かって、力の限り叫ぶ泉が、そこにいた。
ラストシーンである。
3 「怒り」の閾値を超えていく少年の爆裂の行方
映画を総括したい。
洋平・愛子の父子の煩悶と、哲也の受容に至る葛藤が、自らの全貯金を差し出す愛子の真情の深さのうちに軟着する「千葉編」。
自己保身のためにゲイパートナーを裏切る、優馬の慙愧(ざんき)に振れる「東京編」。
「信頼することの難しさと大切さ」について李相日監督は語っていたが、映画を観れば、そのことを感受するだろう。
これは、「東京編」における優馬と直人との会話の中で拾われていた。
「もしさ、体調が悪いんだったら、昼間もここにいていいぞ。ただ、俺、お前のこと全然信用してないから。先に言っとくけど。この部屋のもの盗んで逃げたら、遠慮なく通報するし、ゲイがバレんの怖くて、泣き寝入りする奴、多いんだろうけど、そういうの、全然平気だから…何か、言えよ」
「何かって?」
「何か、あんだろ。お前のこと、疑ってんだぞ」
「疑ってんじゃなくて、信じてんだろ」
「ん?」
「分かったよ。何か、言えばいいんだよな。信じてくれて、ありがとう」
直人の感性は、自らを求める優馬の心緒(しんしょ)を見抜いている。
だから、心臓疾患という「約束された死」を前に、束の間の安寧に浸る時間を大切にする。
「一緒の墓に入るかって、この前、俺に聞いたろ…一緒は無理でも、隣ならいいよな」
そこまで吐露するパートナーを疑い、否定した男が真実を知ったことで、自己を追い詰め、啼泣するシーンは、観る者の胸を突く。
更に、「東京編」における洋平と愛子の父娘関係でも、同様だった。
「何で、そんなこと調べに行ったの?」(愛子/田代の身元を調べに行った父を責める) |
テレビに映し出された容疑者の顔が、田代に似ていることに反応し、激しく揺動する父。
そして娘。
「あたしね。警察に電話する前、田代君に電話をしたの。田代君、人殺して逃げてるのって聞いたの。そうじゃないなら、お昼までに帰って来てって。あたし、待ってるからって。田代君、帰って来なかった。電話も通じなくなって…あたしね、お金入れた。田代君のバッグに。田代君が出かける前に、こっそり40万円。愛子が貯めていたお金、全部」
三つのエリアの中で、唯一、軟着するストーリーだったが、そこに至る父娘の中枢を揺り動かす心的行程は、そこで費消したネガティブな情動の脆弱性を炙り出すのに充分過ぎるものだった。
それが、私たちの、至極普通の心的現象であるからこそ、余計、痛々しいのである。
そして何より、「沖縄編」。
レイプに被弾した泉を救えず、自己を責め続ける辰哉を嘲弄(ちょうろう)し、レイプの「観劇」を愉悦する田中に対して、全人格的に「怒り」を炸裂させる「沖縄編」。
「考えよう。俺たちのできることを」
「嘘なんかじゃないよ。だって、波留間(はるま)に渡ってから、何回も泉ちゃんの様子、見に行ってるもんね。だって、自殺とかされちゃったらさ、そしたら、ウケんじゃん…お前だって、ただ、ビビッて見てただけだろ」
いずれも、人を信じる能力を普通に持つ、純朴な少年に対して言い放った、男の矛盾した言辞である。
厄介なのは、この矛盾に対して、男は自家撞着(じかどうちゃく)であることを知悉(ちしつ)しながら、平然と言ってのける精神病質の性向を有していること。
サイコパスである。
頻用される概念だが、サイコパスは、淡然として嘘をつき、その饒舌さで人を惹きつける魅力もあり、社会適応を容易に果たすから、統合失調症などの「精神病」とは一線を画している。
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「サイコパス」(先天的な病質)と「ソシオパシー」(後天的な病質) |
ほぼ確定的なのは、顕著な共感感情の欠如が見られるということ。
ミラーニューロンという神経細胞との関与が指摘されているが、ここでは論を避ける。
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「物まね細胞」とも言われる「ミラーニューロン」 |
「沖縄編」が持て余すのは、「低自己統制尺度」に問題を抱える、サイコパスによって痛撃されたストーリーであるが故に、事態を極点にまで惹起させたという一点に尽きるだろう。
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「低自己統制尺度」 |
疑心・不安・葛藤・恐怖から受容、或いは、慙愧に収束する都市圏に住む登場人物と決定的に切れ、沖縄少年の瞋恚の炎(しんいのほむら)だけが映画のコアとなって、本土に呼吸を繋ぐ人々の脆弱性を衝いていく。
移住して来た沖縄で、無人島への観光で気晴らしする少女・泉が、本土の人身御供(ひとみごくう)にされた沖縄で頻発する、米兵によるレイプ事件に決定的に被弾し、その青春が一瞬にして破壊されるのだ。
この被弾によって男の臭気を拒絶する泉が、煩悶する辰哉をも排除し、孤立・孤独を極めるが、サイコパス・田中の隠れ家(が)の廃墟に赴き、田中が刻んだレイプを愉悦する文字を辰哉が消した跡を視認し、少女の内的時間が動いていく。
「米兵にヤラれてる女を見た 知ってる女だった 女 気絶 ウケる」
「思い立ったら、書かずにいられない」ほどに、ディリーハッスルを身体化する男の性向の、その一端を垣間見せたに過ぎない嗤笑(ししょう)である。
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ディリーハッスル |
ここまでコケにされれば、「怒り」の閾値(いきち)を超えても、全く不思議ではない。
泉に伝わらない自分の思い、即ち、自分もまた、泉を凌辱・嘲弄した者に対する「怒り」を、泉自身との共有を希求する辰哉の情動に触れたのである。
然るに、極限状態に陥っている時、人は何もできない。
無思考状態になり、自我が消耗し、何をしていいか分からなくなるからである。
所謂、「凍りつき症候群」である。
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「凍りつき症候群」 |
この無為の状態に陥った少年の中枢に、「誰にも言わないで…」という少女の言葉が侵入してきた。
少年の自我は消耗し切っていなかったのである。
動き出したのだ。
セルフネグレクト(自己遺棄)の地獄に嵌っている、想いを寄せる少女の、今にも破裂しそうな心痛が迫り来て、少年の身体が爆轟(ばくごう)する。
沖縄の少年少女を愚弄した男に躙(にじ)り寄り、男を刺殺する。
それはもう、「怒り」を超えていた。
「爆裂」だった。
沖縄の少年少女を愚弄した男の最期 |
泉への嘲弄に対する爆裂だった。
同時に、少年の爆轟は、泉を救えなかった贖罪でもあった。
かくて、命を懸けた少年の爆裂の意を読み取り、少女も動き出したのだ。
【辰哉から届いたメールを読み、向かいに見える無人島に目をやり、動き出していく泉。それは、泉の引きこもりの終焉だった】 |
これが、絶叫することで、自らが負った心的外傷の破壊力を無化し、〈生〉の再構築に向かう意志を発現させるラストシーンの意味である。
ラストカット |
まさに、「怒り」の閾値を超えていく少年の、それ以外にない身体現象としての突沸(とっぷつ)こそ、本篇の最終的収束点と化したのである。
セルフネグレクトした娘を父が救済するファーストシーンを起点にする物語は、少年のアウトリーチに支えられたとは言え、自力で立ち上がり、時間を動かしていく沖縄の少女が「再生」を視野に入れ、叫喚(きょうかん)するラストシーンで括れられていったのだ。
素晴らしい映画だった。
―― 見事な編集技術に感嘆すること頻りだった。
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李相日監督 |
(2021年10月)
「見事な編集技術」という評価に私も共感します。
返信削除どの時点でどこまで見せるかによって、観客は監督に操られていると言っていいと思いますが、この映画は「どのように見せるか」にも凝られていて、観客を最後まで振り回してくれていた気がします。
作品の内容もさることながら、映画的な映画として一級品だったと思います。
実はここ数年の邦画で一番記憶に残っている作品です。マルチェロヤンニ
読んでもらっているだけで、励みになります。
返信削除この映画で最も強烈に印象に残っているのは、宮崎あおいです。
渡辺謙との母子関係の濃密さに感動して、その余韻に浸ること、頻りでした。