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2020年4月2日木曜日

わらの犬('71)   サム・ペキンパー


<「逃走」を拒み、「闘争」に踏み込み、「戦士」を立ち上げた男の「生き延び戦略」―― その壮絶な暴力の戦略的風景の凄み>





1  「僕には研究がある。余計な事に関わりたくなかったんだ」





宇宙数学者デイビッドは、奨学金を受給して、星の内部構造と放射線の関係を研究している。

宇宙数学者デイビッド

暴力が蔓延するアメリカ社会を嫌い、長閑な田舎での研究を切望して、妻エイミーの故郷であるイギリスの実家に引っ越して来た。

エイミーの実家

しかし、古い家の納屋の修理に雇った、エイミーの地元の知人たちとの関係に戸惑い、仕事に専念して家のことに関与しない夫に、エイミーも不満を吐露する。

エイミーに対して、デイビッドは、きっぱりと言い切った。

「僕はトースターの修理や大工仕事をしに、ここに来たんじゃない」
「それじゃ、なぜ?」
「研究に専念するためさ。それがこのザマだ」
「あなたが来たのは、戦う勇気がなかったからよ」
「何のことだ!」

沈黙するエイミー。

「僕には研究がある。余計な事に関わりたくなかったんだ」
「でも本当は…ここに逃げてきたのよ」
「君が来たいと…それで決心したんだ」
「ごめんなさい」

「君が来たいと…それで決心したんだ」
平和主義を標榜するデイビッドと、エイミーの会話の一端である。

そのエイミーには、村の多くの知人の中に、昔の恋人チャーリーがいる。

エイミーとチャーリー
右からクリス、スカット、チャーリー

選りに選って(よりによって)、そのチャーリーと、柄の悪い仲間たちが納屋(車庫)の修理に当たっているのである。

彼らの関心は、色気を漂わせるエイミーのみ。

エイミー
デイビッド
ブラをつけていないエイミー

だから、デイビッドの存在は余所者(よそもの)でしかなかった。

そんな状況下で、エイミーが可愛がっている猫の死体が、寝室のクローゼットに吊り下げられるという事件が発生した。

猫の死体を発見するデイビッド
衝撃を受けるエイミー

明らかに、納屋の修理をしている男たちの仕業であったが、証拠がない。

「あなたを挑発してるのよ」

「あなたを挑発してるのよ」

それを認めながら、デイビッドは我関せずという態度に終始する。

この一件後、どこまでもストレンジャーでしかない若い夫婦の日常性を、狭隘な地域コミュニティの澱んだ視線が囲繞していく。

チャーリーを含む4人組(クリス、スカットら)に狩りに誘われたデイビッドは断ることができず、翌日、狩猟に参加する。

猟場で孤立するデイビッド

猟場に着き、デイビッドは場所を指定され、4人組はそれぞれの狩場へと消えていく。

しかし、それは巧妙に仕組まれた罠だった。

主人なきエイミーの家にチャーリーが現れ、強引にレイプし、諦念したエイミーもセックスに溺れてしまう。

チャーリーにレイプされるエイミー
男の力に抗(あらが)えず、抵抗しなくなるエイミー
性の快楽に溺れていくエイミー
二人に銃口を向けるスカット

銃口をチャーリーに向け、スカットが出現したのは、その時だった。

エイミーを暴力的に陵辱したのである。

狩りで鳥を仕留め、意気揚々と自宅に戻って来たデイビッドを待っていたのは、いつもと様子が違うエイミーの自虐的な態度だった。

初めて撃ち落とした鳥の処理に困惑するデイビッド

デイビッドを臆病者呼ばわりし、自分も同じだと言い放つ。

それを気にするが故に、臆病者という烙印を認めないデイビッドは、自ら納屋の修理をする4人組に解雇通告して、追い出したのだ。

4人組に解雇通告するデイビッド
孤立感が増し、自宅周辺から田舎の風景を見つめるデイビッド

翌日、教会の懇親会に参加した二人は、そこで4人組とも顔を合わせることになる。

教会の懇親会/4人組もいる
トム(中央)と4人組
早々と教会を立ち去るデイビッドとエイミー

陵辱のフラッシュバックに襲われるエイミーの異変に気付き、妻を連れ、デイビッドは早々と教会を立ち去った。

妻エイミーに何が起こったか、デイビッドは知る由もないが、チャーリーとの関係を察知したと思われる。

そんな時だった。

精神障害者のヘンリーが、チャーリーの叔父であるトムの娘ジャニスに連れ出され、納屋に籠(こも)って誘惑され、大事(おおごと)になっていく。

ジャニスに誘惑されるヘンリー

二人の行方が見えなくなったことで、一方的にヘンリーが誘ったと思い込んだトムは、ヘンリーの兄を殴り倒す。

更に、二人の息子にジャニスとヘンリーを捜し出すことを命じるが、兄たちの声に気づいたジャニスは納屋から出て行こうとする。

しかしヘンリーは、いつものように兄に殴られることを怖れ、ジャニスを引き留めた。

ヘンリーが誤って、ジャニスの首を絞めてしまったのはその時だった。

怖ろしくなったヘンリーは、納屋から出て、濃霧の中を必死に彷徨(さまよ)う。

そこへ、デイビッドの運転する車が通りかかり、ヘンリーを撥(は)ねてしまった。

デイビッドはヘンリーを家に連れて帰り、怪我の手当てをし、医者を探すために、トムたちが寄り集まっているバーに電話をかけた。

ヘンリーを介護するデイビッド/医者を探すためにバーに連絡するデイビッド
ヘンリーがデイビッドの家にいると知って、色めき立つトムとと4人組
不安を増すエイミー

ヘンリーがデイビッドの家にいると分ったトムと4人組が、逸(いち)早く、銃を手にデイビッドの家に押しかけて来るのだ。

ここから開かれる映像こそ、本作のコアとなる。





2  「ここは僕の家だ。だから、暴力は許さない」





ヘンリーに手荒く扱う者たちに、デイビッドはヘンリーを引き渡すことを拒絶する。

ヘンリーが殺されると考えたからだ。

いつになく、デイビッドの強面(こわもて)の態度に、スカットが怒りを露わにする。

「あんたに関係ないことだ。引っ込んでろ!」
「しかし、暴力は許さん」

平和主義者デイビッドの真骨頂が発揮される言辞である。

そのデイビッドは、ヘンリーにジャニスの連れ出しの有無を問うが、応答しないヘンリー。

疲弊し切っているのだ。

疲弊し、恐怖に怯えるヘンリー

「無理だ。衰弱し切ってる。ジャニスを探しに行ったほうが、利口だと思うね」
「あんたは医者を捜しに行け」

エイミーをターゲットにするチャーリーの、臆面もない言い回しである。

「妻を残して?」とデイビッド。
「心配か?」とチャーリー。

ここで、デイビッドが言い切った。

「いいか、よく聞け。医者と警察が来るまで、ヘンリーは僕が預かる…ここは僕の家だ」

「平和主義」という仮面で「気さ」を糊塗(こと)する男の変容が、戦闘的言辞のうちに発現されていく。

この戦闘的言辞のリアリティによって、戸外に引き上げる4人組。

しかし、トムは引き下がらない。

怒り狂い、強引にドアを打ち破ぶろうとするのだ。

頑丈な扉は微動だにしない。

だから、腕力に訴えるだけの粗暴な男たちの行動は限定的だった。

窓を割って侵入し、投石する乱暴狼藉な男たち。

当初は投石による攻撃が主だった

この状況下で、レイプトラウマ症候群に罹患し、神経を摩耗しているエイミーだけが極端に弱気になっている。

恐怖に耐えかねるエイミーは、ヘンリーを彼らに渡すよう、デイビッドに懇願する。

「殴り殺されるよ」とデイビッド。
「構わないわ。彼を渡して!」とエイミー。
「本気で言っているのか?」
「本気よ!」
「いや、僕にはできない。ここは僕の家だ。僕自身なんだ。だから、暴力は許さない」

明らかに、前線投入を括ったデイビッドのこの表出は、一人の平和主義者の内側で、「捕食者」に対する防御技術としての暴力の行使が認知されている。

判事のスコット少佐がデイビッド家を訪れ、仲裁に入ったのは、そんな沸騰した状況の只中だった。 

「少佐だけが頼りだ」

スコット少佐

デイビッドの要請に対し、スコットは外に出て、興奮収まらないトムから銃を取り上げ、家に帰るよう命令する。

当然ながら、頑固一徹なトムはそれを聞き入れない。

ここに、「当事者熱量」と「第三者熱量」の決定的な乖離がある。


二人で揉(も)み合いになり、あろうことか、トムはスコットを撃ち殺してしまうのだ。

呆然とするデイビッド夫妻。

もう、破壊的暴力の激発は止まらない。

血が滾(たぎ)る男たちの暴力が、いよいよ、物理的な熾烈(しれつ)を極めていく。

一線を超えてしまい、破壊的暴力の激発が止まらなくなる

「心配するな。そのうち助けが来る」

そんな状況下にあって、デイビッドは冷静だった。 

エイミニーにその一言を放った後、部屋の明かりを消してしまう。

別人のように豹変し、優秀な彼の頭脳は、5人を相手に闘うべく、その戦略を巡ってフル稼働する。

なお、ヘンリーを引き渡そうとするエイミーに対し、冷静に指示を与えていく。

「君は口を出すな。2階へ行って電気をつけろ。奴らの動きが分る」

それでも、夫の指示に従おうとしないエイミニー対し、一喝する。

「行け!」

「行け!」
震え慄くエイミー
その瞬間、激しい投石で窓が割られる。

トイレに身を隠すヘンリー。

怯(おび)えているのだ。

極限状態の渦中で、震え慄(おのの)くエイミーは、遂にチャーリーの引き渡し要求に乗り、それに従おうとする。

「あなたには、ついていけないわ。行かせて」
「行けよ。遠慮するな」

そう言われ、実際に扉を開けようとするエイミーを激しく叩き、命令するデイビッド。

「言う事を聞け。死にたくないだろ」

一部始終を聞いていたチャーリーとトムは、痺(しび)れを切らして銃弾を放ってきた。

「中に入れたら、3人とも殺される。戦うしかない」

デイビッド何とかエイミーを説得した。

まず、窓を割り、鍵を開け、中に入ろうとしたスカットの手首を針金で縛りつける。

スカットの手首を針金で縛りつける

ナイフを頸部(けいぶ)に当て、脅すのだ。

「静かにしろ。首を掻(か)き切るぞ」
「チャーリーが悪いんだ。奴の狙いは、奥さんだよ」

懦弱(だじゃく)さを露わにするスカット。

破壊的暴力の強度が増していく。

家を放火し、乗り込んで来ようとするトムらに、デイビッドは鍋で茹(ゆ)だった油を浴びせ、防戦する。

鍋で茹だった油
その直後、デイビッドは居間に戻り、ボリューム全開で音楽を流す。

訝(いぶか)るチャーリーたち。

そして、他の窓から侵入して来たトムを待ち構えたデイビッドは、彼の銃を思い切り叩き潰すや、発射された銃弾がトムの脚を貫通した。

ここで、空気がダークチェンジする。

粗暴な男たちの心理が暗転するのだ。

浮かれた興奮状態が一気に冷めていく。

戦略を駆使して行動する、頭脳明晰なディビッドへの恐怖心が発出(はっしゅつ)するのである。

次々に侵入する男2人を、デイビッドは火掻き棒(ひかきぼう)で撲殺する。

クリスを火掻き棒で撲殺する
撲殺したクリスを見る
「戦争」はまだ終わらない

「戦争」はまだ終わらない。

銃を持ってチャーリーが入って来たのだ。

しかし、2階の寝室にいるエイミーの部屋にスカットが侵入し、再びレイプしようとする叫び声を聞きつけたチャーリーは、急いで2階へ上がる。

元々、エイミーを巡って対立していたチャーリーとスカットの確執は、前者が後者を撃ち抜いてしまったことで終焉する。

チャーリーがスカットを撃ち殺す/エイミーを捕食する確執はいずれかが死ぬまで続く醜悪さ

「戦争」の渦中で仲間割れが起これば、激発的な破壊的暴力の強度は剥落(はくらく)する。

更に、デイビッドとチャーリーが揉みあい、階段から転げ落ちたチャーリーは、仕掛けた狩猟用の罠に首を挟まれ、絶命した。

チャーリーの死

チャーリーの死にショックを受けるエイミー。

冷たく目を遣るデイビッド。

「やった。全員、始末した」

「戦争」に勝利したデイビッドが、疲れ果てて、ぐったりする精神状態の中で漏らした一言である。

しかし、「戦争」は終わっていなかった。

最初に火掻き棒で一撃された男が生き残り、再びデイビッドを襲う。

躊躇するエイミーに銃で撃つようにデイビッドが命じた。

るか取られるかの命のやり取りは、ハリウッド映画の文法に則って、最後は、「正義」に勝利の笑みを与えるというフラットな展開で終焉する。

震えるエイミーが持つ銃が発射され、5人目の荒くれ者が絶命し、ここにすべてが完結する。

エイミーの銃口が火を噴く

「大丈夫か」

呆然とするエイミーを家に残し、デイビッドはヘンリーを車に乗せ、霧深い夜道を走らせる。

「帰る道が分らない」
「僕もだ」

夫婦の今後の成り行きを仄(ほの)めかすようなデイビッドの言葉が、観る者に提示された。

ラストカットである。





3 捕食者からの「生き延び戦略」として進化した暴力のルーツ





ここでは、本作の根幹に据えられた「暴力」の問題について言及する。

暴力の本質とは何だろうか?

私の定義によれば、暴力とは、「攻撃的エネルギーが、他者に対して身体化される行為」の総称である。

或いは、「特定・非特定他者に対する物理的・精神的な破壊力」の総称である。

「他者を物理的、或いは心理的に、自分の支配下に強制的に置くこと」

狭義に言えば、こういう把握に収斂できる。

従って、レーニン主義の視座で言えば、国家権力こそが最強の「暴力装置」となるということだ。

ウラジーミル・レーニン(ウィキ)

また、「暴力批判論」において、法そのものが暴力であり、暴力なき法は存在しないと説いたのは、ユダヤ系ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンであり、「暴力の独占」こそ主権国家の定義であるとしたのは、ドイツの社会学者マックス・ウェーバー(「職業としての政治」)だった。

ヴァルター・ベンヤミン(ウィキ)
マックス・ウェーバー(ウィキ)

誤解を恐れずに言えば、「主権」(「統治権」、「独立性」、「最終的決定権」)、「領土」、「国民」から成る「国民国家」において、その「国民国家」の最適サイズと矛盾しない限り、「暴力装置」の設置は不可避であり、必要悪であるだろう。

では、暴力のルーツは、どこにあるか。

簡潔に言えば、捕食者からの防御技術として、動物全般に共通する行動形態それ自身にある。

そこには、群れにおける序列競争や、雌をめぐる雄の「性淘汰」も含まれるので、マウス、ラットに見られるライバルの雌に対する妊娠阻害現象=「ブルース効果」や、チンパンジー、ハヌマンラングールの子殺しなどもまた、暴力の範疇に包含される。

ブルース効果


ラット(ウイキ)
ハヌマンラングール(ウイキ)
イリエワニ/世界最大の爬虫類の一つにして頂点捕食者である(ウイキ)
シャチ/ホオジロザメ(「ジョーズ」)を餌にし、海洋系での食物連鎖の頂点に立つ(ウイキ)

これらの暴力の形態は、「生き延び戦略」としての、動物全般にわたる進化の産物であると把握し得るだろう。

ここで、動物の「真空行動」について考えてみる。

「真空行動」とは、反射を作動させる「解発」(様々な因子によって行動が誘発されること)によって惹起する「生得的解発機構」が、刺激されたままの状態で置かれると、必ず同様の行動を発現させるということ。

生得的解発機構
解発
動物の「真空行動」/突発的に爆走したり、大暴れする

例えば、馬を厩舎に閉じ込めた状態で、「移動中枢」を刺激すると、その馬は必ず暴れ出してしまう。

私たちはこれを「本能行動」と呼んでいる。

無論、人間には「真空行動」は存在しない。

「本能的行動」は部分的に残っているが(「睡眠欲」、「食欲」など、「生存」に関わる欲望に限定)、しかしそれは、必ず同様の行動を発現させる「真空行動」とは切れている行動様態である。

本能的行動

されば、暴力は人間の本源的問題であるのか。

有史以来、人間の暴力が消失した時代が存在しないという事実は、それが人間の「本能行動」であることを決して意味せず、ここでは単に、人間が「最も攻撃的で暴力的な存在体」であるという事実の認知に収斂される何かである、と読み解くべきだろう。

人間こそが、最強の捕食者であるからだ。

オーストラリアでは3年ほどの周期でネズミが大量発生する/捕食者がいなくなると、生態系は地獄絵になる
人間こそが、最強の捕食者になった/地球が誕生したのは46億年前であるのに対し、ヒトの属するホモ・サピエンスは40万から25万年前に出現し、大型獣との闘いを経て現在に至るhttp://karapaia.com/archives/52231937.html
今回の「新型コロナウイルス感染症」の発出で分るように、ウイルスこそが、人類の最強の捕食者であり、天敵であるhttps://news.yahoo.co.jp/byline/kutsunasatoshi/20200219-00163784/

【感染症には、細胞を持つ生き物である「細菌」(結核・コレラ・赤痢・百日咳など)に対して、細胞がなく寄生し、生き物であると言えない「ウイルス」(風邪・インフルエンザ・おたふくかぜ・風疹など)は、エボラ出血熱のように、現時点で臨床試験を経てワクチン接種が可能になったが、MERS(中東呼吸器症候群)や、新型コロナウイルス(画像)との関連が指摘されるSARSは未だワクチン接種が実現されていない。感染した細胞(宿主)の中に入り込み、絶対的な寄生体である「ウイルス」との闘いは、文明を進化させている人類史の宿命なのだ】

かくて、捕食=暴力という構図は、捕食者の世界にも、捕食者の捕食に対抗する、防御技術としての暴力が「生き延び戦略」=「生存・適応」の重要な基準と化していることを意味する。

クロスボウ」クロスボウ(右上)とその矢(下)・巻き上げ器(左)/欧米で用いられている弓で、板バネの力で弦によって発射する武器(ウィキ)
重ね板バネ
防御技術としての喧嘩術https://www.youtube.com/watch?v=lkEIHRh1IHg

しかし、防御技術としての暴力の行使はコストが嵩(かさ)むので、どうしても限定的になる。

そのため、「生存・適応」を確保できない状況下においてのみ、発動されざるを得ないのである。

反射を作動させる解発によって惹起する「生得的解発機構」と呼ばれる、「本能行動」という最大の能力を持つ他の動物と異なって、著しくその能力を欠く人間の場合、恐らく、前頭前野に中枢を持つと思われる自我によって、一切の生物学的、社会的行動の代行をしているので、それが人間の生存・適応戦略の羅針盤になっていると、私は考えている。

その自我によって、防御技術としての暴力の行使が、通常、抑制的に統御されている。

しかし、「生存・適応」の切迫した危機に陥った時、私たちに特有の行動が迫られる。

「生存・適応」の危機から守る「闘争・逃走反応」という行動様態である。

一言で要約すれば、差し迫った危機的状況において、「戦うか、逃げるか」という反応だ。

「闘争・逃走反応」とは、身体の健康を維持する生理学的恒常性の機能を「ホメオスタシス」という概念を提示したことで有名な、米の生理学者・ウォルター・キャノンが提唱した仮説であり、簡単に言えば、恐怖に対する動物の本能を説明したものである。

ウォルター・キャノン(ウィキ)
闘争・逃走反応
闘争・逃走反応
闘争・逃走反応

動物と同じように、人間にはこのホルモンが生来的に具備されていて、「特定敵対者」に対する恐怖感情を感受すると、視床下部にある交感神経(心身をリラックスさせる副交感神経と共に自律神経を構成)が心臓の心拍数を高め、血圧を上げ、瞳孔を開かせ、筋肉を刺激し、血糖値を上げることで身体運動を活発にさせていく。

感情の生理反応が、自律神経系(特に交感神経系)の活動によって生み出される事実は、感情の生理過程の問題に収斂されるという人間の体内の本能的構造に依拠している。

この生理過程において、身体の危機を感知したとき、副腎髄質から分泌されるストレスホルモン、即ち、アドレナリン(不安の除去)とノルアドレナリン(恐怖の除去)が放出され、また、副腎皮質からコルチゾールなどが分泌される。

「逃走」を回避し、「闘争」に立ち向かうことで、自らを囲繞する脅威的状況を突破していくのだ。

―― 以下、映画のケースを考えてみよう。





4  「逃走」を拒み、「闘争」に踏み込み、「戦士」を立ち上げた男の「生き延び戦略」―― その壮絶な暴力の戦略的風景の凄み





前述したように、「平和主義」という仮面で「気弱さ」を糊塗(こと)するデイビッドの変容は、精神障害者ヘンリーを、判事のスコット少佐までも銃撃してしまう、アナーキーな荒くれ者たちの破壊的暴力の激発の渦中に放擲(ほうてき)すれば、ほぼ確実に殺されてしまう状況下(時が経つことなく、ジャニスの死体が発見される)にあって、それ以前から惹起していた散発的暴力による被弾や、エイミーがチャーリーとスカットに「捕食」されてしまった事態が示すように、自らの「生存・適応」の基盤が根柢から崩されてしまう危うさを内包していたからである。

この危うさは、エイミーが求めたように、ヘンリーを荒くれ者たちに引き渡せば、一件落着するという事態に軟着できないリスクを意味するのだ。

同時に、ヘンリーの引き渡しは、デイビッドの拠って立つ「平和主義」の理念を呆気なく自壊させる。

それは、彼の自我の重大な危機でもあった。

この意識が、「戦士」として立ち上げたデイビッドの一連の行動のコアにある。

自我の徒(ただ)ならない危機であると同時に、荒くれ者たちの「捕食」の餌食になるダウンサイドリスク(損失を負う可能性の高さ)を増幅させるのだ。

自我の危機と、ダウンサイドリスクの確度の高さ。

これだけは絶対に避けねばならない。

だからデイビッドは、ヘンリーの引き渡しに振れていかなかった。

「戦士」を立ち上げた平和主義者 

しかし、ヘンリーの引き渡しを拒めば、一瞬にして、デイビッドの家は「戦場」になるだろう。

そこまで追い詰められたら、「戦士」に化ける以外にない。

「捕食者」から身を守るには、「戦士」を立ち上げる以外にないのだ。

防御技術としての反撃能力=暴力の要請は、「獲得経済」(狩猟採集経済)の時代から1万年のスパンが経っても、なお残された人間の、リスキーだが、それ以外に容易に手に入れられない「生き延び戦略」の具現化の様態なのである。

かくて、デイビッドの内側に、事態が急迫し、「生存・適応」の危機から守る「闘争・逃走反応」という行動様態が要請される。

スコット少佐の死によって、もう、「逃走」できなくなったのだ。

「逃走」を拒み、「闘争」に踏み込み、「戦士」を立ち上げる以外の方略が瓦解してしまったのである。

因みに「灰色のサイ」という証券用語がある。

本来的な意味で使えば、普段は穏やかな者が、何かのトリガー(契機)が起爆剤となって、突然、狂暴化するという比喩である。

灰色のサイ/イメージ画像

映画の主人公デイビッドこそ、「灰色のサイ」ではなかったか。

しかし、デイビッドの自我は壊されていなかった。

彼は狂暴化したのではない。

火掻き棒で敵を撲殺する

たった一人の「敵」に対して、5人もの敵対者がいながら、破壊的暴力の激発で、組織的に行動を組み立てられない荒くれ者たちの愚昧さが、デイビッドをして、極右テロリスト集団「血盟団」を組織した日蓮宗僧侶、井上日召流の「一人一殺」(いちにんいっさつ)の殺害行為を不可避にしてしまったのである。

廷内で深編笠を被る血盟団事件の被告(ウィキ)
井上日召https://blog.goo.ne.jp/nanshiko1116/e/864a4126385ea72a06295b5363b8a102

その明晰な頭脳を駆使し、ほぼ一貫して、彼は戦略的に戦闘行為を繋ぎ、4人の荒くれ者の息の根を止めたのだ。

思うに、そんなデイビッドが、「灰色のサイもどき」に化けていく起点に隠し込まれていたのは、狩りでの長時間に及ぶ実弾発砲と、最後に仕留めた猟場での快感であったに違いない。

デイビッドにとって、この非日常の体験が、彼の「生き延び戦略」の具現化を準備したと言っていい。

「灰色のサイもどき」に化けていく体験の本質は、「獲得経済」の時代から本能的に具備されてきた、「生き延び戦略」の本源的な感覚の復元である。

それだけが、捕食者の捕食から身を守る唯一の方略なのだ。

デイビッドは、自我の危機と、ダウンサイドリスクの確度の高さを、この本源的な感覚の復元によって守り切ったのである。

これが私の見解である。

―― サム・ペキンパー監督の「わらの犬」。

サム・ペキンパー監督

人間社会における暴力の問題を本気で映画化すれば、こういう作品になるという典型的作品だが、ただ、「正義は勝つ」・「死んだと思たら、最後の逆襲があった」という、如何にもハリウッド的な括りが不満として残ったのも事実。

それでも、暴力に理屈は全く通用しない。

だから、暴力を娯楽作品にする全ての映画は、「暴力」の真の怖さに絶対に届かない。

そのことは、「戦争映画」を本気で作れば、「わらの犬」の延長線上で、ホロコースト辺りにまで行き着く作品になるという意味で、生存のための、或いは、生存競争を勝ち抜くための捕食に限定される動物と異なって、捕食のための「捕食」(暴力)、或いは、快楽を満たすための「捕食」(性暴力)、復讐のための「捕食」(破壊的暴力)、目的遂行のための「捕食」(破壊的暴力)に振れる人間との懸隔(けんかく)は決定的である。

この映画は、以上の「捕食」から身を守る、私たちの「生き延び戦略」=「生存・適応」の極点を描き切り、際限のない暴力の破壊力の凄みを剔抉(てっけつ)した傑作である。

但し、暴力の怖さを、激発的暴力描写なしで描き切った、ミヒャエル・ハネケ監督の「ファニーゲーム」には、遠く及ばないだろう。

ファニーゲーム」より

【参照・引用資料】

拙稿 人生論的映画評論「ミザリー」  人生論的映画評論・続「時計じかけのオレンジ」 

ミザリー」より
時計じかけのオレンジ」より

(2020年4月)

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