

1 「体の中に人間が欲しい…子供が欲しいの。心の支えに」
「のっぽさん」と呼ばれるイーヤは、戦場で負傷して帰還し、軍病院の看護師をしている。
そのイーヤが今、PTSDの発作の耳鳴りで立ち尽くしている。
イーヤ |
意識が現実に戻ると、「イワノヴィチ院長が呼んでる」と声をかけられた。
病室のニコライ・イワノヴィチ院長(以下、ニコライ)の元に行くと、負傷して全身が感覚麻痺のステパンの診察中だった。
「残念だ。英雄なのに」
「ダメですね」
「そのうち誰よりも元気になる」とイーヤ。
イーヤと院長のニコライ |
病室から出たニコライは、「ステパンは治らない」と吐露し、近親者を呼ぶように指示する。
「呼び出したのは他でもない。1名の死者が出た。その分の配給食糧をもらいなさい…坊やのためだ」
イーヤの留守中、愛児パーシュカを預かる仕立て屋の女性が明日は無理だというので、病院へ連れて行くと、入院中の兵士たちが動物の物真似をしてパーシュカを喜ばせる。
パーシュカ |
自宅でイーヤはパーシュカとじゃれ合っていると、パーシュカに覆いかぶさった状態で発作を起こしてしまう。
「ママやめて」と小さな手で押し返そうとするパーシュカの動きが止まった。
息が絶えてしまったのである。
程なく、戦地から帰還した親友のマーシャが訪ねて来たが、イーヤは戸惑う。
パーシュカに会いに来たというマーシャこそ、パーシュカを産んだ実母だった。
マーシャ |
マーシャはたくさんのお土産やパーシュカへのおもちゃをイーヤに見せる。
「あの子は、私に似てる?ママに似てるかな。パパに似て痩せてる?」
「ママ似よ」
「まだ体は小さい?」
「普通よ」
イーヤの反応がおかしいと分かりつつ、マーシャは言葉を重ねていく。
「手紙を書かなくて、ごめん。でも食べ物は送った…パーシュカをあなたに託した。あの子の母親なのに。バカよね。“夫の敵を討つ”なんて。敵は討った…パーシュカに会う」
何も語らないイーヤに、遂にマーシャは「死んだの?」と訊ねると、「そうよ」と答えが返ってくる。
「なんで?」
「眠ったまま…」
「それだけ?」
「責めていい、私のこと」
しかし、マーシャは踊りに行くと言って、間髪(かんはつ)を入れず、イーヤを外に連れ出した。
街路を歩いていると、車に乗った二人の男にナンパされ、最初は無視したが、ダンスホールが休業だったので、マーシャはその誘いを受け車に乗り込む。
片割れの男に散歩に誘われたイーヤは拒むが、マーシャが促し、強引に車からイーヤを追い出し、自ら軍服を脱ぎ、気の弱そうなサーシャと名乗る男を誘導し、セックスに及ぶのだ。
サーシャ |
「ありがとう」と反応したサーシャを、イーヤが車のドアを開けて引き摺り出し、殴りかかった。
イーヤは一緒に散歩に出た男の腕も折っていて、車から出てふらついて歩き、鼻血を出すマーシャを担いで帰って行く。
腕を折られた男(左) |
鼻血を出すマーシャ |
翌日、公衆浴場で、イーヤは「やめればよかった」と言うや、マーシャが応える。
「体の中に人間が欲しい…子供が欲しいの。心の支えに」
そう言い切ったマーシャは、日ならず、軍病院へ行き、ニコライの面接を受ける。
「夫は亡くなって、子供はいません」
「捕虜にはならず、占領地に親戚はいないんだね。では法的には採用になるが、医療訓練を受けてないから、身分は助手だ…イーヤと知り合ったのは?」
「戦友でした。対空砲射撃手です。彼女は脳震盪(のうしんとう)の後遺症で送還。私は残って、ベルリンに行きました」
「坊やが死んだのは?」
「聞きました」
「できれば、慰めてあげてくれ」
「はい」
「子を失う悲しみは分からんだろうが」
「そうですね」
まもなく、ステパンの妻・ターニャが面会にやって来た。
戦死通知が届いたと話すターニャは、3人の子供のうち一人が亡くなったとステパンに伝える。
その時、政府の高官が視察と慰問にやって来た。
戦傷病者たちに声をかける高官はサーシャの母であり、同行して来たサーシャが一人一人にプレゼントを与える。
サーシャの母 |
偶然の再会で、マーシャはサーシャと笑みを交わすが、突然、鼻血が出て眩暈(めまい)がして倒れ込んでしまった。
病院のベットに運ばれ、ニコライが下腹部の傷について訊ねる。
「爆弾の破片で」
「君の状態を見て傷の合併症かと思ったが、極度の疲労だ。元兵士の2人に1人は倒れる。よく生き延びた。安心しろ。栄養をつけて、ヘモグロビン値を上げる。できればビタミン補給も」
「妊娠してるかも」
「手術をしてるだろ?」
「どの手術?」
「君の中に命を生む器官は残ってない。そうだね?」
「奇跡は?」
「ない」
ステパンが簡易の車椅子でターニャに連れられ、院長室へ相談にやって来た。
「じきに家に帰れば、体調もよくなる」
「帰りたくない」
「ずっと入院はできないぞ」
「知ってます…解放してください…もう人間じゃない…俺は重荷になる」
ステパン(右)とターニャ(中央) |
「夫は疲れてる。希望がないの」
「疲れ果てました。もうイヤなんです。終わりだ。もう戦わない」
「助けてください」
「自分でやれ。窒息させろ。枕を顔に押し付ければいい。すぐに死ぬ。私は不要だ」
「苦しいのはダメ。もう、これ以上は」
「分かってほしい。娘が2人いる。親は守る側。逆ではイヤだ」
一方、養子を勧めるイーヤに、マーシャが産んでくれと頼む。
「私のために」
「できないわ」
「私のパーシュカは?」
「それは、気持ちは分かる。だけど怖い」
「私の子を死なせた。新しい子が欲しい」
この言辞を受け、イーヤの発作が始まった。
その夜、ターニャはステパンのベッドの傍らで歌を歌う。
「相変わらず歌が下手だ」
「おバカさん」
「戦争のせいだ。もう行け」
院長がステパンに助けがいると言って、薬をイーヤに渡す。
「もう助けたくありません」
「なぜだ?彼は他の人と違うのか?…本人に頼まれた。これが最後だ」
ニコライ院長とイーヤとの、安楽死に関わる関係の一端が、ここで提示されたのである。
イーヤはステパンの意思を確認した後、首に注射をし、タバコをふかして開いた口の中に吹き込む。
ステパンはそのまま静かに息を引き取った。
その様子を、体調を崩してベッドの横に寝込んでいたマーシャが目撃していた。
子供を諦め切れないマーシャは出産に関する本を読み、イーヤに当局宛の手紙を書かせる。
そんな折、サーシャがプレゼントを持ってマーシャを訪ねて来たが、それを受け取るやドアを閉めてしまった。
少し間を置いてドアを開け、次はフルーツとマッチ、塩を持って来るようにと告げると、サーシャは「了解」と喜んで引き受けるのだ。
新年のパーティーで、マーシャはニコライを誘って踊りながら、亡くなったパーシュカが自分の息子であることを告白する。
「でも大丈夫。また産むから」
「だが君は産むことはできない」
「のっぽが産む。私に償うの。父親は誰だと?」
「私は君に何の借りもない」
「そうかしら」
マーシャはイーヤに書かせた自筆の手紙を渡して、ニコライに問い質す。
「事実は合ってる。だがイーヤも一緒にやったんだ。公表すれば共犯だと話す」
結局、ニコライは断り切れず、嫌がるイーヤはマーシャに懇願してベッド一緒にいてもらい、嗚咽を漏らしながら、気の乗らないニコライとセックスに及ぶのだ。
凄い構図だった。
サーシャが再びプレゼントを持ってマーシャを訪ね、今度は部屋に入れ、二人は追い駆けっこしてじゃれ合っている。
その様子を見て、イーヤは悪阻(つわり)のように嘔吐し、サーシャが来たことを嫌悪する。
程なく、ニコライは体調不良を理由に軍病院を辞職し、新たに女性の院長が赴任した。
イーヤは生理が遅れただけで、妊娠していなかった。
仕立て屋の隣人がやって来て、マーシャにワンピースを着せ、仕立ての手伝いをしてもらう。
マーシャはその緑色のワンピースを着て狂ったように回り続け、最初はイーヤと共に笑いながら楽しそうにしていたが、やがて嗚咽し始める。
イーヤがマーシャの涙を拭い、激しくキスするとマーシャは嫌がるが、イーヤは抵抗するマーシャを強引に押し倒して更にキスすると、発作が始まった。
そこでマーシャは笑い、イーヤをキスして慰めるのである。
二人の関係の濃密さがインサートされる構図だった。
2 「手を貸して。私も2人と一緒にいる。他には誰も要らない」
入り浸りとなったサーシャと3人で食事をしていると、イーヤはサーシャに「もう来ないで」と言い放つ。
「僕が決める」
「来るのをやめて。食べ物も欲しくない」
ここまで言われ、サーシャは食器を片付けて出て行った。
「なぜ突っかかるの?」
「なぜ彼は来るの?犬みたいに、また打ちのめす」
「食べ物をくれる」
「あなたの子によ。私には必要ない」
イーヤは部屋を出て行き、サーシャが戻ってマーシャを誘う。
「明日は出かけよう。2人で。僕の家に行って…両親に会ってほしい」
その話を耳に挟んだイーヤは、外套を着て、ニコライの家を訪ねた。
唐突に自ら服を脱いでいくが、泣き出して手が止まる。
「どうしたんだ?」
「もう一度、子作りをさせて。からっぽなんです。だから、もう一度」
「なぜ、子供を?」
「彼女の主人になりたい。どうしても」
「明日ここを出る。一緒に来るか?」
それだけだったが、そこで何も起こらなことが呑み込める構図だった。
家に戻ると、マーシャが体を洗っている。
「行かない。止めるなら」
「行って。そうした方がいい。子供のためにも。心配しないで。子供はあげる」
イーヤはマーシャのために、緑色のワンピースを借りてくる。
二人は一緒に車で迎えに来たサーシャの元へ行く。
車に乗り込んだマーシャを見送り、満面の笑みを浮かべるイーヤ。
豪邸に到着し、サーシャは玄関先の母親に、マーシャを恋人で、いずれ妻になると紹介する。
「車で花嫁を送り帰しなさい」
それでも、サーシャは家に入り、食事中の父親に同じくマーシャを「僕の恋人だ。妻になる」と紹介する。
怪訝そうにマーシャの顔を見る父。
母は二人を席に着かせ、自ら食事を振舞い、マーシャに質問を浴びせる。
「軍病院に?もう長いの?」
「いいえ。復員後からです」
「戦争に?前線にいたのね。それなら、そういう機会はなかったでしょう…それとも、結婚したことが?」
「一緒に住む人はいました」
そこでマーシャが鼻血を出して、母からナプキンを受け取る。
「お相手がいた。つまり、俗に言う“戦地妻”だったのね。では、あなたは実際の戦闘には参加してなかった。あなたの役割は兵站部隊の支援だった?」
沈黙の後、マーシャは答えていく。
「はい。支援任務でした」
「それも重要なことよ。前線以外にも英雄がいた…それで終戦後は?あなたの配偶者は?元の家庭に帰り、あなたはレニングラードへ?」
「最後の人?」
「何て?」
「最後の夫ですか?覚えきれないので。転任やくら替えもあった。できるだけ、いい男を選んではいましたよ。将校は人気があったけど、女を選び放題だからダメ。私は兵站部隊長がよかった。飢えることがないし、殺されづらい。それが生き延びる術。私は有能だった。2年間カラダで稼いで、パンを得た。新しい軍靴や休暇も。そして無傷で帰還した。あなたじゃ無理」
「どうして?」
「誰にも求められず、パンの皮も手に入らない」
「終戦してよかった」
「だから結婚しようと思った。サーシャはいい人だし、部屋も余ってる。私を愛してる」
「子供を作るの?」
「…ええ…でも私は不妊。何度も中絶した。私の子は戦友が産む。妊娠してる。この家で育てます。子供には普通の家庭が必要よ。母親と父親がね。サーシャは寛大。愛情がある」
「誤解してるわ。何の苦労もない家だと?あなたは、いい子ね。心から気の毒だと思う。だから、息子から救ってあげる。箱入り息子なのよ。あなたで遊んでるだけ。すぐ新しい女を探すでしょ。あなたをゴミのように捨てる。大目に見て、息子は自覚してない」
ここで、サーシャが思い切りテーブルを叩く。
何度も叩いた後、母親を睨み、マーシャを見、席を立って出て行った。
父親が初めて口を開いていく。
「2人とも悪意はないんだろう。出会ったのは分かった。あとは今後、どうなるか次第だ」
「先走ってるわ」
そう言われ、マーシャは退室し、帰途に就く路面電車の中で笑みを零す。
突然、人身事故で電車が停止し、外に出て人だかりの中を進んで行くと、「のっぽの女性よ」との声が耳に入る。
マーシャは車輪に挟まった女性を見、不安に駆られ、走ってアパートへ向かった。
部屋を開けると、荷造り途中で椅子に座ったイーヤの後姿があった。
発作で動けないイーヤが、そこにいる。
「行っちゃうの?」
「私の体の中は、からっぽ」
発作が治まったイーヤの反応だった。
沈黙の後、マーシャが「服に血がついちゃった」と笑いながら話す。
「私は役立たず」
イーヤがそう言うや、マーシャはイーヤの顔を鷲掴(わしづか)むが、イーヤはその手を強く叩いて払いのける。
なおもマーシャは、イーヤを拳で叩くのだ。
「誰も入ってない」とイーヤ。
どこまでも、「産」に拘泥するマーシャへの贖罪に憑かれているようだった。
「ウソなんでしょ」
長い沈黙が流れた後のマーシャの反応には棘(とげ)がなかった。
そして今、マーシャはイーヤの正面に向かい、晴々しい表情を見せて語りかけていく。
「手を貸して。私も2人と一緒にいる。他には誰も要らない。サーシャも来ない。赤ちゃんを産むの。きっと男の子よ。一緒に育てればいい。私は勉強を始めるし、映画を見に行こう。賢い子になる。目はあなたに似て、鼻は私に似る。背は高くなる。子は癒しよ。どう思う?ステキでしょ」
イーヤはこの上ない喜びの笑みを浮かべ、二人は抱き合うのである。
3 「戦争が延長された『戦後』」を描き切った映像の破壊力
戦争によって剥奪された人間性を復元させるために、二人の女性の辛くもシビアな時間を映し出す物語に息を呑む。
自我を破壊する戦争の凄惨さを、戦場を描くことなく映し出すのだ。
第一次世界大戦に使用された「シェルショック」(戦争神経症)という概念も相応しいように思えるが、「重度ストレス反応及び適応障害」(WHOの定義)というのが、PTSDと呼ばれる疾病についてのWHOの定義の方が、イーヤの心身の状態を的確に表現しているだろう。
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発作を起こすイーヤ |
同時に、興奮するとストレスで交感神経が高まって、鼻血が止まらないマーシャもまた、「シェルショック」の後遺症であると考えられる。
―― 物語の本線は、「シェルショック」の後遺症を有する二人の女性の濃密な交叉と、その歪みの実相を描き出していく。
中でも「重度ストレス反応及び適応障害」に起因する発作が痛々しいイーヤの場合、幸福感とポジティブな未来像の喪失が、自我崩壊の危機に捕捉された彼女の時間をフリーズさせていた。
そんなイーヤのフリーズした時間の渦中に、軍用ブーツを履き、軍服姿で身を固めたマーシャが戦場から帰還して来て、物語は、イーヤの陰翳なる風景をより退転させていく。
パーシュカの死を知らされたマーシャが、内に澱む寂寞(せきばく)たる思いを埋めるべく、街路に出て男を漁り、イーヤの性行為の相手の物色に振れるという奇態な行動を身体化したことで、男を寄せ付けないイーヤの自我は裂かれていくのである。
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男を漁るマーシャ |
それでもマーシャを受容するのは、自らが犯した行為に対する贖罪意識と、マーシャへの変わらぬ思いを表現する手立てが他になかったからだ。
あろうことか、自らが勤務する軍病院の院長とのセックスを強いられたイーヤは、マーシャに縋りつくようにして事に及ぶのである。
この異様な構図は、陰翳なる物語の極北だった。
その結果、「空っぽ」であることを嘆くイーヤ。
更なる交接を求めるマーシャ。
一体、この二人の関係の本質は何か。
本篇を通して、このテーマが観る者に突きつけられるのだ。
二人は大体、どこで出会ったのか。
そして、そこで何が起こったのか。
寡黙な映像は、その辺りの事情を仔細に語ることはない。
「戦友」というマーシャの言葉を信じる限り、戦場で関係を密にした只中で、パーシュカという赤子を産んだマーシャが、戦傷して帰還するイーヤにその養育を頼んだこと。
そして、夫の敵を討つために、ベルリン戦線まで打って出たこと。
マーシャがそれを具現化し、自らも負傷した挙句、子供を産めない体になってしまったこと。
こんなところだろうか。
では、二人が出会った戦地とはどこなのか。
ドイツ軍が迫っても300万人の市民の避難を許さず、ソ連市民の死者の大半が餓死であり、食糧輸送列車がやって来るまでの間、100万人以上が犠牲になった「レニングラードの戦い」(1941年9月- 1944年1月)である。
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レニングラードへ食糧を輸送する氷上列車(ウィキ)/上の画像は、レニングラード封鎖中、そりで飢餓で弱くなった夫を運んでいる女性 |
「撤退は祖国の破滅につながる。一歩も引くな。ほんの1メートルだろうとも、血の最後の一滴が流されるまで、断固として守り抜け」
壮絶な戦いを強いられた無産階級の兵士たちに対する、あまりに有名なスターリンの酷薄なる言辞である。
「ウクライナの現在性」と重なり過ぎている状況に絶句する外にない。
ホロドモールがそうだったように、スターリンにとって、どれほど死者が出ようと、胸を引き裂くような悲哀など一切お構いなしなのだ。
「飢饉などという作り話をでっち上げるとは!作家同盟にでも入ったらどうだ。馬鹿どもが読んでくれるさ」 |
「ウクライナ人は殺されたのです。家畜のように死んでいた。ある母親が我が子を一人、斧で殺した。煮て、ほかの子たちに食べさせるために」ホロドモール/「映像の世紀 スターリンとプーチン」より |
ついでに書けば、「ルースキーミール」(ロシアの世界)という観念の化け物としての「箱庭」で被弾するサーシャが、若き日のプーチンをイメージさせるのは、その愚昧さにおいて相貌性のカテゴリーに潜り込ませたアイロニーのように思える。
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同上 |
―― 兎にも角にも、惨鼻(さんび)を極める戦地で二人が狙撃兵として出会い、ここで産んだパーシュカを抱え、負傷したイーヤが先に戦線から離脱し、実母のマーシャが実子のパーシュカのために、余り有る食糧をイーヤに送り続けていたということになる。
犬猫は無論のこと、其処彼処(そこかしこ)で人肉食いも発生した戦線で、一介の女性狙撃兵が食糧調達することが可能であったのか。
ここで想起するのは、サーシャの母の嫌味に対して挑発的に放った、兵站部隊の支援という名の“戦地妻”になって食糧調達したという物言い。
マーシャの挑発的言辞がリアリティを持ってしまうことになるが、それにも拘らず、このエピソードが重要なのは、貴族的階級ゼロのはずの「共産主義社会」の中にあって、人肉食いまで起こる戦地の凄惨さとは全く無縁に、贅沢三昧の日々を送る支配階層への糾弾であって、実際のところ、マーシャが狙撃兵だろうが“戦地妻” だろうが、どうでもいいのだ。
生き延びていくにはどんなことでもせざるを得ない女性が負った心身の裂傷を、「小さな物語」として処理しないという問題意識の共有こそが本篇の最大のテーマであって、それ以外ではないのである。
ここで、イーヤとマーシャの関係の様態を考えてみる。
一つだけはっきり言えるのは、マーシャに対するイーヤの感情が同性愛であることだ。
これは巡り合った時から変わらない感情であったと思われる。
ただ、自分に対するマーシャの感情が不透明だったので動けなかった。
それでも、堪(こら)え切れずに自分の思いを身体化してしまうイーヤ。
その思いが、緑のワンピース(「戦争が終焉した『戦後』」という物理的記号性)を着て狂ったように回り続けるマーシャの嗚咽を目の当たりにし、激しくキスした時、拒絶されてしまう。
ここでも起こったイーヤの発作。
彼女の自我を食い潰す重度なストレス反応の発現がリピートされる。
耳を劈(つんざ)く金属音から解放されないのだ。
そんなイーヤに対して、マーシャの〈性〉は、異性に対して性的な感情を抱くヘテロセクシャルだったのか。
そうではない。
イーヤほどではないが、マーシャにもまた、イーヤの感情を受け入れる〈性〉が存在していたのではないか。
では、バイセクシャル(両性愛)だったのか。
正直、提示された映像のみではよく分からないが、私は、この物語はLGBTQIAの映画であると推量している。
かくて、そんな二人に大きな試練が訪れた。
サーシャとの関係を繋ぐマーシャの〈性〉に不信を持ちながら、マーシャに「子供はあげる」と約束し、関係を変容させようとするイーヤの思いの強さが、とうとう切れてしまうのだ。
サーシャの豪邸に招かれた時のことである。
イーヤはマーシャのために、緑のワンピースを借りて来て、「行って。子供のためにも。子供はあげる」とまで言って、マーシャを送り出すのだ。
マーシャとの関係が実質的に終わったことを皮膚感覚で捉えるイーヤは、その直後、荷造りしてアパートを出ていくつもりだった。
どこへ行くのだろうか。
映画はそれをも映さないので分からないが、「明日ここを出る。一緒に来るか?」と誘ってくれたニコライに同行するのかも知れない。
最初から「女」という観念でイーヤを見ていないからこそ、イーヤはニコライを受け入れたと考える方が正解だろう。
しかし、イーヤは動かなかった。
動けなかったのだ。
発作が出てしまったのである。
またしても、自我を食い潰すような重度なストレス反応が、彼女の内側で出来したのである。
繰り返されるイーヤの発作 |
本当は、マーシャを送り出したくなかった。
マーシャと二人だけの時間を繋いでいたかった。
それができない辛さを抱え、送り出した行為しか選択できなかった辛さが幾重にも重なり、一気に噴き出してしまったのだ。
マーシャの帰還を信じ切れない脆さが痛苦と化し、身体を硬直させ、金属音を耳に響かせる状態を発現させてしまうのである。
鼻血(「戦争が延長された『戦後』」という物理的記号性)を噴き上げ、支配階層を難詰(なんきつ)し、憂さを晴らして帰途に就いたマーシャが事故現場を見せられ、不安がよぎってイーヤのもとに急いで戻って来た時、もう、彼女の脳裏を占有したのはイーヤの安否のみ。
これがラストシーンに繋がっていく。
「私も2人と一緒にいる。他には誰も要らない」
「産」に拘泥しつつも、このマーシャの言葉のコアには「2人」という観念がある。
それを理解できたからこそ、イーヤはマーシャの抱擁を全身で受け留めたのである。
だから、この物語は、必ずしも救いようのないエンディングで閉じたわけではないのだ。
むしろ、そこにしか軟着ではない二人の融和点だった。
女性が負った心身の裂傷を、「小さな物語」として処理せず、そこにこそ、戦争による究極の悲哀を描き出した映画が突きつけてきたテーマの重さを、私たちは真摯に受け止めるべきだろう。
「戦争が延長された『戦後』」」を描き切った映像の破壊力。
文句なく素晴らしかった。
4 「ようやく今になってソビエト連邦は崩壊し、歴史の舞台から去ってゆきつつあるのです」
「戦争と、それを招いたロシア政府の政治的決断に強く反対している。だから私はロシアを去らなければならないと感じた。この戦争は、ただ普通に人生を送りたい何百万という人々にとっての悲劇だ。彼らの多くにとっては、この戦争を乗り越えること、これからの人生を送ることが難しくなるかもしれない。ましてや、不可能になるかもしれない。これは『Beanpole』(原題 「のっぽ」)で描かれていることと一緒だ。戦争より悪は存在しない(略)この映画がみなさんの心と魂に響くことを願います。本作を見てくださること、ウクライナへの思いを寄せてくれることに感謝します。ありがとう。<日本語で> 」
ロシア政府が放映を禁じた本作を演出した、ロシアのカンテミール・バラーゴフ監督の言葉である。
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カンテミール・バラーゴフ監督 |
「本作は、私たちの住むこの世界は完璧ではないけれども、少しでもいい世界にしたいという思いで製作しました。本作を通して、戦争によって一般の人々がどんな経験をしたか、自分では理解できない体験をした人々の人生を疑似体験してもらい、自分の家族、身近な人々だけでなく、他人に対しても思いやる気持ちを持ってほしいと思います。そして、(今回の侵攻後)日本からのウクライナへの多大な支援にお礼を申し上げます。」
私の好きな作品「裁かれるは善人のみ」、「ラブレス」を製作したウクライナ人プロデューサー、アレクサンドル・ロドニャンスキーの言葉である。
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アレクサンドル・ロドニャンスキー |
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「裁かれるは善人のみ」より |
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「ラブレス」より |
「皆さんと同じように、戦争が始まった時、私はショックを味わいました。…最初の数日間は涙にくれました。なぜなら、私は半分ウクライナ人で、ウクライナで過ごした子供時代を覚えており、その地の美しさを覚えているからです。
幸せなことに、ウクライナが倒れない姿を目にし、私たちには、私たち皆の未来を信じるチャンスが与えられました。モルドバにも、リトアニアにも、ポーランドにも脅威がありました。プーチンが勝利したとしたら、その後の世界がどうなるか想像することすら難しいです。しかし、彼は勝てません。いいえ、これは終わりなのではなく、ようやく今になってソビエト連邦は崩壊し、歴史の舞台から去ってゆきつつあるのです」
『戦争は女の顔をしていない』、『チェルノブイリの祈り』の作者であるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの言葉である。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(ウィキ) |
ここに加える言辞の何ものもない。
(2023年3月)
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