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2020年1月29日水曜日

裁かれるは善人のみ('14)   アンドレイ・ズビャンギンツェフ


義母リリアを許せず、家を飛び出し、クジラの白骨の残骸が打ち上げられた波打ち際で、嗚咽するロマ

<「聖」と「俗」が共生すれば最強の「正義」になり、頑固な抵抗者を完全解体する>





1  途轍もなく、観る者に迫ってくる映像の峻厳さ





バレンツ海
バレンツ海

寒風吹きすさぶ、バレンツ海に面する、ロシア北部の入り江のある小さな港町。

自動車修理工場を営むコーリャは、若い妻リリア、亡妻との間に生まれた息子ロマと共に、住み慣れた家で質素に暮らしている。

コーリャと妻リリア

一方、年後に選挙を控えた権力的な市長ヴァディムは、大規模な土地開発計画のため、自らが掌握する力を誇示し、ごり押し手法で、コーリャの土地を廉価(れんか)で買収しようと画策し、プレッシャーをかけていく。

ヴァディム

「自分の人生のすべてだ」

そう吐露し、土地買収のための取り壊しを厳(げん)として拒絶する、コーリャの中枢にある感情の強さは、祖父の代から継いでいる住処(すみか)が、都市での生活を望むリリアと切れて、彼のアイデンティティそのものだったからである。

そんなコーリャが、行政に対する強硬な態度に抵抗し、軍人時代の後輩・ディーマを頼り、モスクワから呼び寄せる。

裁判に持ち込むための援助行動に踏み入っていくディーマの存在は、法的抵抗力を持ち得ないコーリャ一家にとって、誰よりも頼り甲斐がある男だった。

コーリャとディーマ

ディーマの戦略は、過去に犯した市長の悪事の情報を世論に公開するという、古典的な恫喝手法。

この恫喝に怯(おび)え切ったヴァディム市長が全人格的に頼るのは、ロシア正教会の司祭のみ。

この関係は、行政(権力)と宗教(権威)の癒着(ゆちゃく)の構図を端的に示している。

モスクワにある生神女マリヤのイコン「全ての哀しむ者達の慶(よろこ)び」聖堂で聖体礼儀を執り行ったボロコラムスク府主教イラリオン(写真:ロシア正教会渉外局)(イメージ・本作の司祭とは無関係)

これが巨大なパワーに膨張するモメンタムは、法的抵抗力を持ち得ない弱者にとって、威圧的なモンスター以外ではなかった。

だから、このモンスターとの闘いの澱んだ風景は、絶望的に振れていくネガティブな情態を露わにするばかり。

人間の脆弱性・非力さ・邪知深さ・そこに依拠するしかない「聖なるもの」の不在、そして、生きとし生けるものを威圧するほどに映像提示された、圧倒的な自然の凄み。

それらを、ここまで描き切った映画の根源的メッセージに触れ、脱帽した。

撮影中のアンドレイ・ズビャギンツェフ監督

肥大化した権力と闘う圧倒的弱者・コーリャと、その家族・友人らの運命の苛酷さ。

全知全能の唯一神によって、峻烈(しゅんれつ)な試練を被弾し続けて復元したヨブのように、映画の主人公もまた、サタンに唆(そそのか)されて、未知のゾーンに放擲(ほうてき)され、課せられた「試練」に如何に向き合い、膨れ上がった煩悶を解き放つことが、どこまで可能であったか。

「忍耐強いヨブ」ジェラルド・ゼーガース画(ウィキ)

途轍もなく、観る者に迫ってくる映像の峻厳(しゅんげん)さ。

言葉を失うほどだ。





2  「聖」と「俗」が共生すれば最強の「正義」になり、頑固な抵抗者を完全解体する





畏怖の念を起こさせるような殺伐とした、ロシア北部の丘陵地帯。

荒れ狂う海の峻厳(しゅんげん)さ。

クジラの白骨の残骸が打ち上げられた、波打ち際の寂寞(せきばく)たる風景。

此処彼処(ここかしこ)に朽ちた船・棲家(すみか)・教会跡地。

教会跡地でタバコを吸う少年たち/ロマも仲間の中にいる


終末の風景の表徴のような暗晦(あんかい)さが、観る者に鮮烈に鏤刻(るこく)されるのだ。

何をやっても救われない男の絶望を描く映画は、まるでドストエフスキーの冥闇(めいあん)な世界を彷彿とさせるようだった。(そのドストエフスキーと思しき男が、ラストでのミサのシーンに現出していたのには驚かされた)

ドストエフスキー(ウィキ)

それは、腐敗した国民国家の象徴の如く、負の記号としての「リバイアサン」(レビヤタン)の相貌性そのものである。

「万人の万人に対する闘争」

17世紀・英国の哲学者トマス・ホッブズの主著「リバイアサン」で言及された重要な表現である。

トマス・ホッブズの肖像(ウィキ)


Abraham Bosseによる『リヴァイアサン』の表紙。上部に描かれた巨大な支配者の身体は多数の人間から構成されている(ウィキ)
ヨブに襲い掛かるサタン(ウィリアム・ブレイク

「リバイアサン」とは、旧約聖書「ヨブ記」に出てくる海獣で、教会権力から解放された「国家」を意味する。

思弁的形而上学を排し、神学と哲学の分離を説き、「経験論」に依拠した政治思想家のホッブズは、「リバイアサン」で「在るべき国家論」を説く。

その内実は、生来的に平等である(「自然権」)が故に、人間が自然状態に解き放たれたら、冒頭の表現のような、アナーキーな闘争(戦争)を必至にするという把握が根柢にあり、従って、この状態を脱するには、理性によって「自然権」を制限し、「社会契約」によって成立する国家の有りようが切望される。

近代思想に大きな影響を及ぼしたホッブズの政治哲学が、「レビヤタン」(「リバイアサン」)=「国家」を原題にする本作で描かれた地方自治政府では、理性による「社会契約」の理念が崩壊していた。

そこでは、ソ連崩壊後、その圧力から解放され、復活し、今ではロシア人の精神的拠点と化しているロシア正教と、再選を目指す地方自治政府の市長が権力を共有している。

ロシア正教会・ソ連崩壊後に再建された救世主ハリストス大聖堂の夜景(ウィキ)

その権力共有のセリフを象徴する重要な会話が、本篇にある。

来年に控えた市長選挙に不安を抱くヴァディムに、ロシア正教会の司祭が語ったセリフが、それである。

「何度も言うが、あまり気を揉(も)むな。権力は神がもたらす。神が望む限り、心配は無用だ」

この言葉をヴァディムに放った後、ヴァディムは司祭に訊ねる。

「神は俺をお望みか?他の誰に聞けばいい。司祭だろう?」

声高に問う市長に、司祭は明瞭に言い切った。

「望んでおられるとも」

その一言で、ヴァディムは安堵する。

ヴァディムと司祭

しかし、モスクワからコーリャの裁判をサポートしに来た、軍隊時代の後輩の弁護士・ディーマが、過去に犯したヴァディムの悪事の資料を本人に見せる際、モスクワの著名な弁護士・コストロフの名を出したことで、ヴァディムは激しく動揺し、再び、ロシア正教の司祭に相談するシーンがある。

ディーマとヴァディム
ディーマ
ヴァディム
不安に怯え、喚き散らすヴァディム

「ゴッドファーザー」のマフィアがそうであったように、悪徳に手を染める者にとって、神は最強の「免罪符」であるから、「困った時の神頼み」に終わりが見えないのだ。

以下、その時の司祭の言葉。

「心配も程々にしろ。自分のことや他人のことを気に病みすぎる。全ては神の意志なのだ。信仰が揺らいだか?聖餐(せいさん)式は?懺悔(さんげ)は?」

この問いに、「忙しくて、なかなか難しいが、(教会に)毎週、行くように心掛けている」と答えたヴァディムに、司祭は問う。

「誰に懺悔している?」
「あなたが紹介してくれた地元の司祭だ」

その名を聞き、安堵する司祭は、ここでも明瞭に言い切った。

「憂うことはない。神の望む私事をしているのだ。良い行いは、楽しく易々(やすやす)と為されるものだ。だが、忘れるな。敵は眠らん。いつでも襲ってくる。互いに同じ大義のため尽くしていたとしても、それぞれの領分は異なるのだ。権力は神がもたらし、力と共にある。自分の領分で権力を握っているなら、問題は自分の力で解決するのだ。誰かに助けを求めれば、敵に弱みを晒すぞ。まるで、子供に諭(さと)しているようだ」

凄いことを言い放つシーンに、思わず身が竦(すく)む。

斯(か)くして、司祭のこの言葉で全てが決まった。

に弱みを晒す前に、権力をもって敵を倒せと、「子供」相手に説諭しているのだ。

ここには、「聖」(宗教)と「俗」(政治)が共生すれば最強の「正義」になり、頑固な抵抗者を完全解体することが可能であるという含みがある。

「子供」は、これで開き直る。

気弱な気分に落ち込んでいたヴァディムは、目的遂行のために態度を豹変させ、「敵」に対する暴力的な攻勢をかけていく。

徹底的に調べたディーマに関する情報をもとに、逆にディーマを追い込み、彼の闘争能力を無能化し,モスクワに追い払ってしまうのだ。

脅されて無能化されたディーマ
リリアとの情事

既に、リリアとの情事が知られてしまった男には、弁護士としての活動を無化され、コーリャへの援助行動も破綻するに至った。

人間の脆弱性を、これほど呈示する映画も滅多にない。

「俗」の世に呼吸を繋ぐ者たちの人間観察力の凄みに圧倒される。

「俗」の世ばかりではない。

偉そうに振る舞う「聖」の住人も、同じこと。

ソ連時代に、「共産党独裁」の絶対権力に平伏(ひれふ)していたのは、貴方たち、「ロシア正教会」ではなかったのか。

ロシア正教会の悲劇・1931年、ソ連政府の宗教弾圧の一環として、爆破され崩れゆく救世主ハリストス大聖堂(ウィキ)
モスクワ川の架橋から望む救世主ハリストス大聖堂(ウィキ)

組織的抵抗力が無能化され、70年にわたる「ソビエト無神論時代」に、聖堂が各地で破壊され、「共産党独裁」の絶対権力に対し、献身的で、忠実なソ連市民になる屈辱を味わった「聖」の住人たちもまた、人間の脆弱性を晒していたのである。

ロシア正教会・ウラジーミル・プーチン大統領と会見するロシア連邦の三宗教の代表者達(ウィキ)
在外ロシア正教会のラウルス府主教(向って左)と、ロシア正教会のアレクシイ世総主教(向って右)(ウィキ)

人間の弱さを晒した「ロシア正教会」を、誰も責められない。

人間は、自らを囲繞する時代の風圧の渦中にあって、ただ、適応することだけが求められる。

皆、自分の能力を遥かに凌駕(りょうが)する巨大な力(「リバイアサン」)の前では、個々の単位では何も為し得ないし、その異質な空気への適応のみが要請されるのだ。

このことを考えれば、映画の「悲劇のヒロイン」・リリアの心奥に巣食う諦念と絶望が、私にはとてもよく理解できる。

あの苛酷な状況下で、リリアに、一体、何ができたのか。

あれほど理性的、且つ、強気だったディーマの態度の変化に当惑するリリアにとって、「モスクワ逃避行」という唯一の希望を断たれ、もう、一縷(いちる)の選択肢すらも自壊する。

リリア(左)とアンジェラ
リリア
リリア
リリア

一方、ディーマを失ったコーリャには、3世代続いた土地を守るべき術(すべ)がない。

そればかりではない。

絶望の底に沈むリリアをも喪ってしまうのである。

ピクニック

ピクニックで、ディーマと抱き合っている現場を視認したロマが、ディーマと共にモスクワに行かず、コーリャのもとに戻ったリリアを厳しく罵倒する。

「あんたが全部、ぶち壊したんだ!大嫌いだ!こんな家、もう嫌だ!うんざりだ!」

そこに父が入って来るが、今度は父の懐(ふところ)に顔を埋め、「追い出して!出ていけ!」と怒号する。

義母リリアを罵倒するロマ

ここまで軽侮され、嗚咽するリリア。

元々、辺鄙(へんぴ)な土地での生活に倦怠感を抱いているリリアが家出し、激しく波立つ海に身を投げたのは、勤めに出る払暁(ふつぎょう)だった。

リリア
リリア

既に、この時点で、市が提示した低額の立退料(補償額)の裁判判決が下されていた。

「ヨブ記」のヨブのように、一方的に“正義の被害者”(アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の言葉)となるコーリャ。

そこだけはヨブと切れて、殆ど無信仰のコーリャだが、今や、ウォッカを手放せない、酒浸りの日々を過ごすコーリャの、その心の空洞感を埋める何ものもなかった。

失われゆく者・コーリャ

そんな男が、地元のヴァシリー神父(司祭と同じ)に助けを求める。

「“レビヤタン(海の怪物)を釣り上げ、縄で舌を縛られるのか?それは哀れを請い、優しく語りかけたりするだろうか?それは地上に比類なき誇り高き獣らの王である”」

これは、ヨブ記40章24から41章にかけて記された言葉である。

「知恵文学」の代表的な一書である「ヨブ記」は、その犠牲になったのは信仰心厚きヨブを試すために、サタンが神を唆(そそのか)して、次々に、絶望的な不幸を与える旧約聖書の重要な一書である。

ヨブ
ヨブhttps://www.pinterest.jp/pin/564779609502193725/

その「ヨブ記」の一節を語るヴァシリー神父に対し、「俺は普通に話をしているのに、謎かけか?何のために?」と問うコーリャ。

「ヨブという男をご存じか?彼も人生の意味ばかり問い続けた。“なぜ、私だけが”と。病でカサブタだらけのヨブに、妻は道理を押しつけようとし、友は神を怒らせぬよう諭(さと)した。しかし、ヨブはもがき、耐え続けた。すると神は態度を和らげ、嵐の姿で彼の前に現れると、全てをはっきり説明された。彼は運命を受け入れ、140歳まで生きた。子や孫を4世代、見届け、老いて満ち足りた死を迎えた」

「おとぎ話か?」と問うコーリャに対し、「聖書に書いてある」と言い添えて、去っていくヴァシリー神父。

信仰薄きコーリャ=ヨブではないが、コーリャが負った絶望的な不幸をヨブに擬(ぎ)しているのは間違いない。

ヨブの試練をトレースするように、次々と襲ってくる心理的・物理的圧力の連射に被弾し、希望の欠片(かけら)も拾えないコーリャ。

とうとう、殺人犯として逮捕されるに至るのだ。

リリアの自殺が、「遺体に打撲痕がある」として、殺人事件と断定されたからである。

この打撲痕は、先のピクニックで、リリアの不義が発覚した際に、コーリャに殴られた時の損傷が残っていたものだった。

更に、リリアと共に魚加工の工場で働くアンジェラと、その夫・パーシャ(コーリャの友人の警官)、そして、そのピクニックを企画した交通警察中佐のイヴァン・ステパニッチの証言が、有力な状況証拠として採用されていく。

当然、コーリャは否定するが、ロマを家に残して、そのまま拘留される。

一人残されたロマを、アンジェラとパーシャの夫婦が引き取るという話を持ち掛けていく。

思春期のロマを、施設送りにするのに忍びなかったからである。

かくて、ブルドーザーで破壊されるコーリャの住処。

破壊されたコーリャの住処

そして、殺人事件に対する、判事の出した判決は、懲役15年。

「身の程を思い知ったろう」

コーリャの刑期を知った時に放った、ヴァディムの言辞である。

ヴァディム

殺人事件を捏造(ねつぞう)し、コーリャの財を全て破壊した小狡(こずる)い男には、罪悪感の痛みなど端(はな)からないから、「勝利者」の気分を充分に堪能できるのだ。

ラストシーン。

完全解体されたコーリャの家。

その跡地に建てられたのはロシア正教会の教会

コーリャが言うところの「宮殿」である。

その「宮殿」で今、ミサ(聖体礼儀)が執り行われている。

板絵のイコン(聖画像)が居並ぶ眩(まばゆ)い「宮殿」の中枢で、「神の代理人」としての司祭の説教が開かれている。

「蝋画法」(働きバチの巣の蝋を構成する蜜蝋を溶融し、表面に焼き付ける技法)によるイエス・キリストのイコン(ウィキ)
モザイクイコンによるキリスト(ウィキ)
聖大ワシリイのモザイクイコン(ウィキ)

「恐らく、まだ気づいてさえいないだろうが、我々は、再びロシア国民の魂を呼び覚まそうとしている。

(略)我々は力ではなく愛で、狡猾さではなく主の知恵で、怒りや憎悪ではなく勇気で、信仰や母国を脅かす敵に打ち勝ってきた。だが今日、最も重要なのは、正教の教えを守り、いかなる時も、真実を語ることである。真実は神の遺産である。真実は世界を歪めず、ありのままに映し出すが、神の真実を理解しなければ見出すことはできない。神の真実とはキリスト自身である。

(略)キリストを魂に迎え入れた時、初めて真実を手に入れることができる。即ち、出来事を深く見つめ、本当の意味を理解し、善悪を見分けられるようになる。それこそが真実の本質なのだ。(略)倫理の根幹を壊す者に、どうして自由を説くことができようか。自由とは、神の真実を見出すこと。

(略)今日の世界、善悪の基準は目まぐるしく変化する。本当の価値は、偽物に取って代わられている。しかし、そんな世界にあってなお、我々の道は、キリストへと続いている。教会は我々を守り、導いてくれるが、教会を形作るのは我々だ。神は共にあり、真実と主の愛も共にある。

(略)真実を照らし、即座に嘘を見破った。そのようにして我々も、教会と神の言葉の導きを受け、正教を守り続けるのだ」

凛として、簡明直截(かんめいちょくせつ)に説教を続ける司祭のメンタリティが、寒々しく、閉鎖的な土地の人々の心を結ぶコミュニティの結節点を構築する。

そのコミュニティは、「聖」なる「ロシア正教会」と、「俗」なる「行政機構」の共生によって成り、この共生関係の強度がコミュニティの生命線である。

このコミュニティの生命線は、「キリストへと続」く「我々の道」であり、その中枢に「正教」の「教会」がある。

斯(か)くして、「教会を形作るのは我々だ」というコミュニティの結節点の強化に収斂されていくのだ。

ミサが終わって、教会から帰って行くヴァディムたち

その結節点には、「キリストを魂に迎え入れた時、初めて真実を手に入れることができる」という「倫理の根幹」がある。

そこに、「善悪」の分岐点が存する。

「倫理の根幹を壊す者」は「悪」となる。

だから、秩序への抵抗は絶対に許さない。

この秩序に抵抗する者は、「聖」と「俗」の共生によって成る、最強の「正義」の「敵」となるのである。

「正義」の「敵」は、完全解体されねばならない。

それが、「正義」の「敵」の不可避な運命なのだ。

それが、「キリストを魂に迎え入れ」ない者が負う、逃れられない人生なのである。

この逃れられない人生の悲哀を生き、何もかも失い、破壊され、解体された弱き者。

絶望的な人生を生きた男、コーリャである。







「コーリャは独裁的な権力に対抗しているわけではなく、家族が代々暮らしてきた土地を守りたいだけなのです。土地を失うことは、自分のアイデンティティが失われることを意味します。彼は英雄ではなく、永遠で、美しく、無関心な自然の前ではちっぽけな人間に過ぎません。『ヨブ記』でいうところの“正義の被害者”であり、とある実験の被験体ともいえます」

アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の言葉である。

コーリャこそ、“正義の被害者”だったのだ。





アンドレイ・ズビャギンツェフ監督
アンドレイ・ズビャギンツェフ監督
(2020年1月)


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