<「台詞なき世界」、「生命線としての音楽」、「死の普遍性」について>
1 「台詞なき世界」について
この映画のキーワードは3つある。
「台詞なき世界」、「生命線としての音楽」、「死の普遍性」である。
まず、「台詞なき世界」について。
「障害者は庇護されるべき特別な存在である」
この命題に異論を唱える勇気ある御仁は少ないだろう。
それ故、この命題から様々なテーマを汲み取って、ヒューマンドラマにする商業戦略の流れが途絶えることはない。
即ち、「障害者をサポートする献身的な介護者」とか、「自力で障害の難題を乗り越えて能動的に生きる障害者」などのテーマで製作されるヒューマンドラマである。
障害者はドラマになりやすいのだ。
厄介なことだが、この国で障害者の問題をテーマにするとき、ヒューマンドラマの「感動譚」に収斂されるような作品が作られやすいという空気がある。
実話をベースにした「名もなく貧しく美しく」(1967年製作)などは、その典型である。
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「名もなく貧しく美しく」より |
ところが、本作の場合は、些(いささ)か風景が違う。
障害者差別の問題とは無縁な物語構成になっているのだ。
確かに、主人公の聾唖者(ろうあしゃ)は清掃業の助手を務め、年上の従業員に職務怠慢で叱責を受けたり、或いは、彼の友人から揶揄(やゆ)されて、投石を受ける描写が挿入されていたが、それらは障害者差別の問題に帰趨(きすう)させる種類とは全く異なっている。
それらはどこまでも、抱えるハンデと共存しながら普通に働き、普通に恋愛をし、そして普通に趣味を見つけ、その趣味を自分の生き甲斐(いきがい)にまでしていくという、普通の物語のカテゴリーを逸脱することがないのだ。
因みに、WHO(世界保健機関)が発表した国際障害分類による、障害の3つのレベルとは、「機能・形態障害」、「能力低下」、「社会的不利」(ハンディキャップ)。
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ICIDHとは「国際障害分類」のこと |
本作の主人公が、物語の中で蒙(こうむ)った障害のレベルは、サーフィン大会の際、聾唖のためアナウンス音が聞きとれず、あえなく失格となってしまったエピソードに象徴されるように、「社会的不利」のレベルの範疇に収斂される何かであって、それ以外ではなかった。
本作の主人公の名は、茂。
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茂と貴子 |
その茂を支える恋人の名は、貴子。
映像では、一度も名前を呼ばれたことはない。
二人とも聾唖者であるが故に、ここでは、「台詞なき世界」が紺碧(こんぺき)の海の風景の只中で開かれていくのだ。
茂と貴子の関係が、濃密な恋人同士の関係であるということは、観る者に容易に想像できる。
長尺のサーフボードのため、バスに乗車できなかった茂が、乗車できた貴子との物理的距離を縮めるために、次のバス停で降りた彼女と、その彼女を追い駆ける茂との全き接触のためのランニングシーン。
長尺のサーフボードのため、バスに乗車できなかった茂が、乗車できた貴子との物理的距離を縮めるために、次のバス停で降りた彼女と、その彼女を追い駆ける茂との全き接触のためのランニングシーン。
些か物語的な臭さが気になるが、印象深いシーンだった。
夜の路上で、ようやく物理的距離を縮めた二人は、じっと見つめ合った後、肩を組んで仲良く帰路に就く。
このシーンに象徴されるように、二人の間には、「性愛」の関係にまで踏み入っていることが容易に想像できるが、一貫して北野武監督は、性愛描写を削り落していた。
「そんなことは想像すれば分るだろう」
そう言うに違いない、作り手の作家精神が伝わってくるようだ。
普通に生き、普通に恋愛し、普通に趣味に興じる二人の聾唖者の物語に、差別の問題が媒介する余地がないとは到底思えないが、それもまた、「想像すれば分るだろう」という一言で片づけられそうだ。
まさに、「台詞なき世界」の映像の立ち上げこそが、その本来的目的であったかのように。
2 「生命線としての音楽」について
この映画を、自宅TVで鑑賞する者は、消音の状態で見れば瞭然(りょうぜん)とするだろう。
主人公の二人は、私たちが消音の状態で蒙る不便さの時間を、まさに、自分たちの「普通の日常性の時間」の中で呼吸を繋いでいるのである。
従って、毎日、茂が通うビーチで拾う心地良い波の音は、健常者の占有特権としてのみ存在する。
波の音が、人の心に如何に心地良さをもたらすかについて、2、3の報告があるので、以下、複数のブログから引用する。
「波は無くとも、波の音でゆっくり癒され充実した休日となりました」
「波の音とブレイクを感じながら過ごすサーフィンライフは、贅沢の極み」
「波の音をBGMにサロンのような落ち着いた静けさ」
「波の音と海の景色が副交感神経に作用して、ストレスを減らし血圧を下げる」等々。
波の音がの心地良さ ―― この答えは、今でも頻繁(ひんぱん)に使用される、気持ちをリラックスさせる「ヒーリング・ミュージック」(「癒し音楽」・好例は、有名なバッハの「G線上のアリア」)に象徴されるように、音楽や自然現象が人の心に「ゆらぎ」を与える「ヒーリング効果」である。
自然現象で言えば、小川のせせらぐ音、虫の音色、小鳥のさえずり、蛍の光り方、イルカの鳴き声など、無数にあるが、言うまでもなく、その中に「波の音」も含まれている。
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小鳥のさえずり。水の音と同じく、癒しの音としてBGMなどにも使われている |
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奥入瀬渓流(青森県十和田市)のせせらぎにはα波(アルファ波)が出る(ウィキ)
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「1/fゆらぎ」の「ゆらぎ」は、電磁波=電気振動の繰り返し現象である周波数と反比例するので、「ピンクノイズ」と呼ばれる、パワーが周波数に反比例する音の中にあるとされる。
そして、「1/fゆらぎ」の音を聴くことで、脳が覚醒していても、静かに休んでいる状態の時の脳波、即ち、周波数が落ち着いている状態にα波(アルファ波)が出るので、私たちの生体が「リラクゼーション効果」に包まれるのである。
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「1/fゆらぎ」(イメージ画像) |
―― 以上、物理学的に説明すれば、ほぼ理解可能だが、しかし、残念ながら、全ての人たちが、この「1/fゆらぎ」の恩恵を受けているわけではない。
ここで、映画の物語に戻すと、聾唖者の茂には、この心地良さを占有できないのだ。
彼はただ、自らの視界に捕捉されるビッグウェーブのみに憑(つ)かれて、毎日欠かすことなく海に向かうのだ。
その様子を、浜辺で見詰める貴子。
ところが、趣味に没我する飽くなき向上心が、いつしか、「素人サーファー」を「セミプロ並みのサーファー」に変容させていく。
それを視認する貴子の相貌から、笑みや欠伸(あくび)が消え、真剣な表情に変容していくのだ。
揶揄した二人組は、まもなくサッカ―から離脱し、「素人サーファー」を立ち上げていくのである。
「台詞なき世界」を埋めるように、映像は繰り返し、同じ構図を提示していく。
サーフボードを抱えて、行き来する聾唖者の二人。
サーフボードを持って、海に向かう茂。
それを、ビーチで座って待つ貴子。
タオルを繰り返し折り畳む動作が、リピートされるのだ。
この映像で、最も重要な役割を果たすのは音楽の導入である。
久石譲の柔和なメロディラインが、本作から導入されていくが、それ以降の作品の役割とは比較にならないくらいに、本作における久石譲の音楽の役割は決定的に重要である。
と言うより、本作は、音楽を初めから挿入させることを前提にして作られた映像であると言っていい。
「台詞なき世界」を、久石譲の柔和な音楽が、しばしば語り過ぎるくらいに語っていく。
音楽なしの「台詞なき世界」の映像を想起すれば、そこで表現されるものの相違は埋めがたい程に決定的である。
音楽と「台詞なき世界」が溶融する映像は、既に、それなしに済まない不即不離(ふそくふり)の関係性を作っていて、総合芸術としての映像表現力の最もピュアな様式を紡いでいるのだ。
ここでの音響効果は、恐らく、「感傷過多」とか、「情動系の推進力」などというレベルのツールとは完全に切れていて、映像構築のジグソーパズルを完成させるに足る、今や、それなしに済まない、最後の断片としての役割を担っているのである。
まさに、音楽こそ本作の生命線であった。
3 「死の普遍性」について
この映像の重要な主題が「死の普遍性」にあることは、物語の終盤で明らかにされていく。 サーフィン大会入賞の後、荒れた天候の中、サーフボードを抱えて、海に行く茂。
そこでカットが切れて、同じ構図の中で、傘を差しながら、貴子が海に行くシーンに繋がった。
彼女は、帰りが遅い恋人の身が心配で、海に迎えに来たのだ。
雨のビーチに立ち竦(すく)むヒロインが、恋人を探す不安な表情が映し出され、まもなく、その視野に捕捉されたのは、砂浜に打ち上げられた茂のサーフボード。
これらのカットによって、主人公の非在が提示され、まもなく、ヒロインによって葬送される、主のいないサーフボードの構図によって、観る者に、「予定不調和」のインパクトを与える効果を生み出すだろう。
それ以後、ヒロインの表情から、幾筋もの液状のラインを確認することはできなかった。
嗚咽や慟哭(どうこく)を映し出さない構図の見えない陰鬱(いんうつ)で、既に、存分に泣き尽くしたヒロインの表情が隠れ潜んでいるのだ。
「死の普遍性」 ―― その認知は、人格としての人間が、幼児期を脱却したことの基本要件の一つになると言っていい。
「死の普遍性」の認知は、児童期にならないと困難なのである。
「死の普遍性」の認知によって、〈死〉への恐怖感が生まれ、一回的な〈生〉の価値を知る。 そのとき、「死の普遍性」の認知は、固有の〈生〉を価値あるものとして、自在に動かしていくことの絶対条件になっていくのだ。
一回的な〈生〉の価値を、サーフボードに託した主人公が逝(い)ったとき、「台詞なき世界」の映像は、「語るべき対象人格」の喪失感を、ヒロインによる葬送のセレモニーの描写のうちに、淡々とした筆致(ひっち)で映し出していく。
対象喪失に因(よ)る「死の普遍性」の、言い知れぬ重量感は、ヒロインの内側にのみ決定的に張り付き、「喪(も)の仕事」=「グリーフワーク」となっていくのだ。
最愛の対象人格を喪ったヒロインは、彼女なりの「グリーフワーク」を経て、新しき〈生〉を繋ぐ時間を開いていくだろう。
ラスト2分間で、その風景を変容させていく回想シーンの明朗なリズムは、そこから開かれるヒロインの、新たな〈生〉の起動点になるというイメージを、観る者に与えるに違いない。
このラスト2分のカット繋ぎは、それまでに提示されていた映像の空白を埋めるに足る貴重な断片と言っていい。
それにも拘らず、本来は、それなしに済むはずの映像であるべきものが、それらの断片の補填によって、突き放された観客の乾いた気分に、相応の潤いを与える心理的効果を添えたであろう。
この心理的効果が、観る者の心に余情を生み出した。
その余情を手に入れることで、物語として、ほんの少し肥大した自己運動を完結させたのである。
それが良かったか、悪かったかについては、観る者一人一人の受容度に委ねられる外にない。
(2019年7月)
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