1 「僕にはこの夏がいつまでも続くような気がした」
函館郊外の書店で働く“僕”は、失業中の静雄とアパートで共同生活をしていた。
アパートで「僕」と共同生活する静雄 |
そんな“僕”は同じ書店で働く佐知子と、男女の関係になる。
彼女は店長の島田とも関係があるようだったが、そんなことを気にもせず、“僕”と静雄が住むアパートにやって来ては一緒に過ごす。
夏の間、3人はともに酒を飲み、クラブへ行き、ビリヤードに興じる。
そんなひと夏が終わるころ、静雄が佐知子とキャンプに出掛け、3人の関係は微妙に変わる。
―― 以上の文面は、WOWOWオンラインの簡単な梗概。
「僕にはこの夏がいつまでも続くような気がした。9月になっても、10月になっても、次の季節はやって来ないように思える」
この文学的な表現は、映画の序盤における一人称のモノローグ。
今回は、詳細な粗筋を省略して、本来の人生論的映画評論の視座で本作を批評していきたい。
2 「青春時代」とは何か
フィリップ・アリエスの「子供の誕生」などの著作に詳しいが、18世紀のブルジョア家庭から子供を可愛いがる風習が生れ、余剰農産物を獲得した余裕から、親にとって子供は情緒的満足の対象となっていく。
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フィリップ・アリエス |
【因みに、「エミール」の著作で名高いルソーは、自分の5人の子供を全て施設に捨てたという公然たる事実があり、「告白」に詳しい。これがフランス革命前のヨーロッパ社会の一般的風景だった】
歴史上初めて、「子供」が普遍的に「発見」されたのである。
「子供」の発見は、同時に、「青年」や「女性」の発見でもあり、「少年期」や「青春時代」の誕生でもあった。
西洋史学者・木村尚三郎(「家族の時代」)によると、「女性」が発見されたのも、この近代社会の過程を通してである。
それまで女性は、「少々力の弱い大人」であり、中世では、夫の代わりに相手貴族と「法廷決闘」する権利を持っていたのである。
近代社会が一切を変容させていく。
近代になって、女性と子供は男により保護されねばならない存在とされ、むしろ、社会から除外されていった。
【1804年に公布されたフランスの民法典・「ナポレオン法典」では女は無能力とされ、夫の家長権が確立する。女性の無能力制度の確立である】
「青年」や「女性」の発見は、同時に、「恋愛」の誕生を告げたとされる。
青春期に愛を育み、遂に結婚に至るという、西欧型の「恋愛物語」が近代の産物ということなのである。
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シュトルムウントドランク(疾風怒濤)の代表作「若きウエルテルの悩み」
―― 以上は、「心の風景 覚悟の一撃 2 ―― 人生論・状況論」という拙稿の一文である。
近代社会において生まれた「青春時代」という概念の中枢に、心理的・社会的文脈において、「モラトリアム」の意味が内包しているのは、既に自明である。
では、「青春時代」とは何か。
私は、思春期初期から青春期後期に及ぶこの特殊な時期を、「自我の確立運動」の最前線であると考えている。
自我とは、簡単に言えば、「快・不快の原理」・「損得の原理」・「善悪の原理」という人間の基本的な行動原理を、如何にコントロールしていくかという〈生〉の根源的テーマを、意識的・且つ、無意識的に引き受け、自らを囲繞する環境に対する、最も有効な「適応・防衛戦略」を強化し、駆動させていく「基本・大脳(前頭葉)」の総合的な司令塔である。
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ところが、この「基本・大脳(前頭葉)」の総合的な司令塔は、人間の生来的な所産でないから厄介な代物なのだ。
最も有効な「適応・防衛戦略」を完成形に拵(こしら)えていく「仕事」の艱難(かんなん)さが、この時期に重くのしかかるからである。
新しい情報の獲得・処理・操作にしていく知能=「流動性知能」が長けても、人生経験で培った判断力・洞察力・知恵=「結晶性知能」が不足しているが故に、「適応・防衛戦略」の完成形を得て、「自我の確立運動」が成功裏に導くことが叶わない。
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これがあるから、「自我の確立運動」の最前線の渦中にあって、「青春時代」の景色が、「思うようにならない現実」を視界に収め、大抵の青春期が「澱み・歪み・濁り」の心理に捕捉され、立ち行かなくなってしまうのだ。
青春期は美しくもないし、清廉でもない。
定点が確保し得ず、浮游する自我を、とりあえず納得させるために、そう思いたいだけである。
「青春の美学」などない。
あるのは、空疎なナルシズムか、リアルなペシミズム。
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カラヴァッジオによって描かれたナルキッソス(ウィキ)
「澱み・歪み・濁り」の心理を隠し込み、心の奥に潜む感情を表現できず、「多弁・寡黙・陽気」を仮構し、アドホックの世界に潜り込む。
「この時の、この時間」の只中を漂動するのだ。
だから、決定的に動かない。
動いて見せるだけで、動かない。
動けないのだ。
それでも、動かねばならない。
どこかで、いつも、そう思っている。
「我が青春の輝き」 ―― 人はそう言いたがる。
そんな大仰で、被写界深度の深さを誇示するかのような表現が苦手な私には、余りにもむず痒い。
その感触が、こそばゆいのだ。
眩(まばゆ)い煌(きらめ)きを放つ、分陰(ふんいん)を惜しむ青春があってもいい。
映画のクラブのシーンがそうであったように、ドーパミンの分泌が活性化され、飲み、踊り、叫び捲る。
一時(いっとき)の青春が弾けるのである。
しかし、「我が青春の輝き」の眩い煌きは、多くの場合、それ以外の選択肢を失った成人後の「記憶の再構成的想起」(過去を組み立て直す自伝的記憶)であると言っていい。
それで、人は満足する。
多分、それでいいのだろう。
紛雑な時代に、自らに関わる人たちに迷惑をかけ続けた私の愚かな青春と異なり、映画の3人は、ごく普通で、ごく普通の青春を、ひと夏に特化した時間の中で、ごく普通に遊び、ごく普通に恋をし、失ったり、成就したりする。
酷薄なラストシーンも、特段に騒ぎ立てるものではない。
これが青春の、ごく普通の風景なのだ。
大袈裟で、情緒満載の娯楽映画と切れ、そんな青春の、ごく普通の景色の断片をリアルに切り取り、決め台詞を捨てた映画の訴求力は抜きん出ていた。
3 武装解除できない青春の壊れやすさ 映画「きみの鳥はうたえる」 ―― その「予定不調和」の秀逸な収斂点
映画における「僕」の〈生〉のスタンドポイントを観る限り、状況や関係対象に対する曖昧さが目立ち、自らに関わる喫緊な現象に真摯に対峙する態度が希薄で、そこで生まれる「澱み・歪み・濁り」の心理が特徴付けられていたように思われる。
だから、定点を確保し得ない浮游する自我を陽気な言動に隠し込み、「思うようにならない現実」を視界に収めながらも、イージーゴーイングな日々を送っている。
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仕事をサボって、店長に注意される「僕」
これは、静雄と佐知子との大きな落差を感じさせていた。
彼らなりに、「適応・防衛戦略」を駆動させる努力を繋いでいるか否か ―― その落差である。
この落差は、いつものように、「体調悪くて、一日中寝てました」などという見え透いた言い訳を常套句にして、勤めている書店をサボった「僕」と、職場の同僚・佐知子の遭遇から開かれる恋物語をフォローしていくと瞭然とする。
二人の遭遇から開かれる恋物語は、ここでも文学的な表現で語られていた。
「そんな風に親しくもない女を待つのは、初めての体験だった。勘違いかも知れないと思ったので、数を数えて120になったら消えようと考えた。こいつは、賭けだと言い聞かせた」(モノローグ)
117を数えたとき、彼女は戻って来た。
「よかった。心が通じたね」
その場で、二人は飲みに行く約束ををするが、「僕」はその約束をすっぽかしてしまう。
「やっぱり、誠実じゃない人なんだね」
佐知子の言葉だが、「やっぱり」という表現が、何事に対してもいい加減に生きている「僕」のキャラを言い当てている。
そんな「僕」のどこに佐知子が好意を持ったのか不分明だが、別段、不思議なことでもないだろう。
男と女の関係は多様であり、複雑極まる世界である。
「僕」と佐知子が男女関係にまで発展したことで生まれたのは、「僕」とルームシェアする静雄の立場の微妙な変容。
察知して、部屋に入らず、出ていく静雄 |
静雄は初対面の佐知子と会話し、打ち解けていく。
二人の会話をじっと見ている「僕」。
男二人と女一人の、微妙関係の始まりである。
「ちょっと、飲みすぎたな。佐知子、呆れてた?」と静雄。
「一緒に映画に行ってもいいかって、聞いてた。自分で誘ったんだろ。行って来いよ」と「僕」。
「うん。何で?何でそういうこと言うの?」
「佐知子が誰と映画に行こうが自由だよ」
「そういうことじゃなくてさ。なんつーか、いや、分かんないけど…」
それだけの会話だったが、明らかに佐知子を意識する二人は、それを口に出さない。
出せないのだ。
男の眇眇(びょうびょう)たる虚栄がそうさせるのである。
この時点で、既に関係を支配しているのは、佐知子であることが判然とする。
ビリアードや卓球、そしてクラブで興じる3人。
酩酊する佐知子は音楽に身を任せ、自在に踊り続け、弾けている。
そこに絡む「僕」と静雄。
払暁(ふつぎょう)まで続くのだ。
アパートに戻った部屋に、静雄はいなかった。
「帰って来ないね」と佐知子。
「あいつなりに、気をつかってるんだろ」と「僕」。
「それって、優しすぎない」
「お互い、干渉しないんだよ。相手の楽しみは邪魔しない」
「何で?」
「友だちだから」
「あなたの人生に、静雄がいてよかったね」
「うん、そう思う」
「あたしたちは、友だち?」
この問いに「僕」は答えられないのだ。
店長との別れ話をする佐知子
「佐知子のことは、大事にしてやってくれよ」
佐知子と別れた店長が「僕」に言い放った言葉だが、ケジメをつけることができる佐知子の〈生〉の向かい方が浮き彫りになる。
その頃、アパートでは、静雄が3人でキャンプに行く計画に話すが、興味がないと言う「僕」。
「じゃ、行ってくるよ、佐知子と」
「うん」
ここもそれだけだが、陰にこもっている「僕」の態度が印象づけられる。
佐知子はカラオケに静雄を呼び出し、歩きながら話をする二人。
「ねえ、どうして二人で暮らそうと思ったの?お金以外の理由で」
「まあ、楽しいからかな」
「それだけ?」
「でもあいつ、なんか、不思議な明るさがあるじゃない。裏表がないし」
「たまに、何考えてるか、分かんないときない?」
「ああ、でもなんか、ほんとに考えてない気もする」
「不思議な明るさ」と「裏表のなさ」 ―― 「楽しさ」にリンクする「僕」に対する静雄の対人感覚の浅さは、「ほんとに考えてない気もする」という反応を希薄化させる心理を露呈し、まさにその辺りに、「僕」との物理的共存を可能にする許容域の広さ=曖昧さを検証するとも言える。
要するに、「もたれ合わない男同士の物理的共存」の気楽さ ―― これである。
それは同時に、容易に定点が確保し得ない青春期特有の、アウトフォーカスの景色を炙り出している。
先述したように、「何考えてるか、分かんない」と言う佐知子の場合、許容域の幅に収斂できない事態を自問自答し、けじめをつけられる理性によって、「適応・防衛戦略」が有効に機能する心的現象が垣間見える。
その後、カラオケ店に入った二人。
「俺、二人のこと、邪魔してないかな」
「何で、そんなつまんないこと聞くの?」
「負の状況」にけじめをつけられる佐知子にとって、静雄の過剰な思いが児戯的に見えるのだ。
それが、郷里の母親の問題を抱えて懊悩する青年が、なお自分に正直に生きる青春と重なり合い、複合しているリアリティに共感を示す佐知子を変えていく大きな契機になっていく。
夜中にアパートに二人が戻ると、「僕」は寝ていた。
翌朝、朝食を食べる3人。
「お前もカラオケに来ればよかったのに」と静雄。
「カラオケって、あんまり好きになれないんだよね」と「僕」。
以下、この直後の佐知子と「僕」の会話。
「さっき、嘘ついたでしょ。夜、あたしと静雄が帰って来た時、本当は起きていた?」
「嫉妬したかどうか、聞きたいの?」
「え?」
「はいはい、嫉妬したよ」
「やめて」
「いや、佐知子が聞いたんでしょ」
バイトに出かけようとする「僕」の茶化した反応を受けた佐知子の内側で、「僕」に対する許容域の幅が収縮していく。
「ねえ、店長、私のこと、なんか言ってた?」
「うん、佐知子の事、大事にしてくれって、言われちゃった」
「なんて答えたの?」
「え、別に何も」
「何で、何も言わないの?」
「何で、そんな顔してるの?ちゃんと、楽しんで!」
だから、こんな会話に振れていくのだ。
母親が倒れたという連絡を受けた静雄。
「罰が当たったんだろうな」
「罰って何?」
「毎日、こうやって遊んでるから」
「そんなこと、考えなくていいよ。遊んだり、飲んだりして、何が悪いの?」
佐知子は、「もっと遊べ」と言っているのではない。
自分と向き合い、変化しようとする静雄の身構えに共感しているのだ。
二人の関係が、内的に深まっていることが確認できる会話である。
この一連の流れが、佐知子と「僕」の、以下の会話に結ばれる。
「聞いて欲しいことがあるの。あのね、私、静雄を恋人として付き合うことにしたよ…ちゃんと言いたくて」
「言われなくても、二人見てれば、分かるよ…どうしたの?」
「色々、不安だったから」
最後まで、武装解除できない「僕」が、そこにいる。
【その頃、静雄は郷里の母を見舞うために病院の一室にいて、「ひと夏」の終わりを実感していた】
「静雄が母親を見舞って帰ってくれば、今度は僕は、あいつを通して、もっと新しく佐知子を感じることができるかも知れない。すると、僕は、率直な気持ちのいい、空気のような男になれそうな気がした」
ここも、文学的な「僕」のモノローグがインサートされた。
そして、「予定不調和」なラストシーン。
「今、色々考えてたんだけど、やっぱり、佐知子が静雄と出会えてよかったよ」
微笑みながら、「僕」の腕を抓(つね)って、佐知子は立ち去っていく。
ファーストシーンに円環していくようだった。
しかし、澱んだ関係の悪循環に対する、佐知子のパンクチュエーション(区切り)の破壊力が、「僕」の中枢を抉(えぐ)り出す。
13まで数えると、居ても立っても居られず、佐知子を追走する「僕」。
恐怖感に憑かれた青春が逆巻(さかま)いていた。
「佐知子!」
振り向く佐知子 |
「何?」
「俺、さっき嘘ついた。全部嘘だ。本当に、静雄と付き合うのか」
「やめて」
「俺は、佐知子のことが…好きだ」
溜息をつく佐知子。
複雑な表情を見せていたが、悪循環を断ち切り、ここでもケジメをつけた女の思いは、もう、変わらない。
ラストカットである。
結局、不毛な虚栄心を最後に解き放ったとしても、事態は変わらない。
変わりようがないのだ。
「見透かされることに対する恐怖感」 ―― これが虚栄心の本質である。
「僕」の脆弱性を隠し込んできた「僕」の強がりこそが、「僕」の「ひと夏の青春」の輝きを削り取ってしまったのである。
佐知子のパンクチュエーションの破壊力。
それに弾かれて終焉する恋愛映画は、「予定不調和」なラストシーンをインサートすることで、秀逸な青春映画に結晶した。
武装解除できない青春の壊れやすさ 映画「きみの鳥はうたえる」 ―― その「予定不調和」の秀逸な収斂点であった。
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三宅唱監督 |
【余稿】 映画「きみの鳥はうたえる」を「バランス理論」で読み解く
余稿として、フリッツ・ハイダー(オーストリア出身の米の心理学者)の「バランス理論」について、簡単に言及していく。
【この稿は、ロベール・アンリコ監督の「冒険者たち」で描かれた男同士の「友情」をベースにしている】
自分が良好の関係を保持する特定他者の親友に対しては、自分も好意を持つという、フリッツ・ハイダーの「バランス理論」を援用すれば、男同士の友情の中に入っていく女性は、異性としての裸形の身体をストレートに投入することのリスクを無視し難いだろう。
「僕」と静雄の「友情」の推進力となった心理的因子が、「もたれ合わない男同士の物理的共存」にあると思えるので、そこに裸形の異性の身体が剥き出しのまま投げ入れられれば、その関係に微妙な歪みを惹起させるだろう。
これは、同じフランス映画である、フランソワ・トリュフォー監督の「突然炎のごとく」(1962年制作)と比較すれば瞭然とする。
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「突然炎のごとく」より |
思うに、「友愛」と「性愛」の決定的相違点は、〈性〉の出し入れが、その関係を壊すに足るほどに露呈されているかという一点にある。
〈性〉の出し入れによって、嫉妬感や独占感情が生まれるのは必至である。
そのことを思うとき、「冒険者たち」の3者の関係様態は、「バランス理論」に即した良好度の高い構築性を作り出していた。
原理的に言えば、こういうことだろう。
「バランス理論」を援用すれば、即ち、「男―1」,「男―2」、「女―3」という3者の関係において、そこで形成される3通りの関係が、「友愛」を決定的に逸脱することがない限りにおいて良好であれば、3通りの関係の積が正になる(正×正×正=正)ので、そのバランス状態には特段の問題を惹起させることがないのである。
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「バランス理論」で考えれば、「きみの鳥はうたえる」の3者の関係の場合、「正×正×正=正」という、その積が正になる理想的なパターンに振れなかった最大の要因が、「冒険者たち」で描かれた Vアラン・ドロンとリノ・ヴァンチュラのブロマンスの強さが根柢にあったことを想起すれば自明であるだろう。
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「冒険者たち」より |
「もたれ合わない男同士の物理的共存」の気楽さが、「僕」と静雄の「友情」の推進力となったとしても、佐知子の出現と受容度によって、その性格の違いが露わになり、常に2者(佐知子と男)を意識し、見つめ合っているという負のスパイラルが生まれてしまった。
だから彼らの関係は、3通りの関係の積が「正×負×正=負」、或いは、「正×正×負=負」の関係になることで、心地良き状態の継続力を確保できず、ひと夏で破綻してしまうのだ。
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【いつまでここに残ることになるのか。今はまだ分からない。病院特有のこの臭いは耐え難かった。3人で過ごした部屋の臭いや町の臭いを思い出そうとした。でも、どうしても思い出すことができないままだった。「ひと夏」の終わりを吐露する、郷里の病院での静雄のモノローグ】 |
「冒険者たち」では、壮大な「夢追い人」であった二人の男の中に、蠱惑的な魅力を放つジョアンナ・シムカスが侵入し、恐怖指数の高い冒険行の渦中で惹起したジョアンナと、若さ故の軽薄さを有するアラン・ドロンを喪失した後、「喪失と破綻」による決定的な深傷を負った中年男リノ・ヴァンチュラは、密かに愛した女への「贖罪と追憶の旅」を実践する。
「青春」を卒業できない中年男の「贖罪と追憶の旅」こそが、「甘くない人生」を存分に省察する映画 ―― それが、ドロドロした三角関係に流れない三人の関係様態を見事に描いた「冒険者たち」だった。
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「冒険者たち」より |
この名画と比較しても何の意味もないが、少なくとも、「もたれ合わない男同士の物理的共存」の気楽さが露呈した負のスパイラルの収束点の甘さは、フリッツ・ハイダーが提示したように、3通りの関係の積が負になるという「バランス理論」を踏襲するものであった。
その理由は、本稿で言及した通りである。
(2020年9月)
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