1 「止めて欲しいように見えた…あんなところで働かせるような奴に渡したくない」
娘が産まれたばかりの若い夫婦、たすくとことねの会話。
たすく(右)とことね |
「ちゃんとしようよ。このままじゃ、無理だと思う」
「なーんも、考えていないっしょ」
「凪(なぎ)、産まれたばっかで、俺たち、ケンカしってしょうがないでしょ」
「凪(を)、言い訳しないでよ」
「それは、本当にごめん。でも、父親はいた方がいいでしょ」
「当たり前でしょ」
たすくは、男鹿半島の伝統行事・ナマハゲ(ユネスコの無形文化遺産)の人手が足りないと頼まれ、出て行こうとする。
「やんないって、約束したよね?」
酒を飲まずに途中で抜け出すと、ことねと約束したが、ナマハゲ保存会の集まりに顔を出すと、会長の夏井に第一子誕生の祝儀を受けとり、最後まで引き受けざるを得なくなった。
夏井(左) |
大晦日に恒例のナマハゲ行事が佳境に入り、各家で酒を振舞われて、親友の志波(しば)にも飲まされ、たすくは泥酔してしまう。
テレビ中継でインタビューを受ける夏井。
「ナマハゲですね、ただ泣かすためだけの鬼じゃないんですよ。悪いことをしないで、正しく生きる、そういう人としての道徳を教えてくれる神様なんですな。そのナマハゲから、父親は子供を守る。守られた子供たちも、いつかは、父親となって守る立場になっていくと。ナマハゲは、男たちにね、そうやって、父親としての責任を与えてきたんですね。ナマハゲは、新しい年を迎える前に、今一度、家族の絆を見つめ合うっていう、大切な行事なんですな」
その中継中に、ナマハゲの面をつけ全裸となって叫び、町を彷徨(さまよ)うたすくの姿がテレビに映し出されてしまった。
中継会場は混乱し、凪を抱いたことねはテレビでその様子を見る。
放送事故でテレビは中断する。
なおも叫びながら走るたすくは、夜の浜辺に出て、寝転んでしまった。
2年後。
地元にいられなくなったたすくは東京へ行くが、仕事場でも浮いて適応できないでいる。
そんな折、志波が訪ねて来た。
店で、2年ぶりに行われたナマハゲ保存会のテレビ中継での夏井のインタビューを観る二人。
志波(左) |
その志波から、離婚したことねの父が亡くなり、ことねがキャバクラで働いていると知らされる。
「お前、父親だろ」
「お前に関係ねぇから。お前、他人だろ」
たすくは一人で帰ろうとすると、客とぶつかり喧嘩となり、結局、朝まで志波と時間をつぶし、東京の町を眺めながら、意味のない会話をする。
「楽しいよ、こっちは」
そう話すたすくだったが、その直後、母と兄の住む男鹿の実家に帰っていく。
「突然帰って来て、なした?皆にチンコ見られてな。お前はいいな、好き勝手生きれて」
「許してもらうまで謝るしかないと思ってます」
「少なくとも、もう誰も、おめぇに謝って欲しいと思ってねぇよ。皆、忘れようとしてくれてんのに、おめぇが余計なことして、どうすんのや…要は、帰って来てみただけなんだべ。許してくれると思って」
「違う」
「いやいや、違うとかじゃなくて、傍から見たら、そうなの」
孤立無援のたすくの居場所が、故郷に持ち得ない現実を実感せざるを得なかった。
たすくは志波に会い、「ことねに会いたい」と漏らす。
志波と共に夜のネオン街へ行き、ことねが勤める店を探すが、見つからない。
たすくは、アイスクリーム売りの母と仲間の送迎の運転手をして日銭を得ることになる。
志波から、ことねが勤める店を知らされ、早速訪ねると、ちょうど店の前で吐瀉していることねがいた。
「大丈夫?」
「何しに来たの?」
「お父さんのこと、聞いた。志波から」
その言葉を無視して、帰ろうとすることね。
「ことねと凪の力になりたい」
「じゃ払える?養育費とか慰謝料とか」
「こんなん、一番、嫌がってたじゃん。酒だって、めっちゃ弱いのに」
「あなたみたいに、バカなことしない」
「ごめん。本当に、ごめん」
「もう、いい?」
歩き出すことねに縋って、言い放つ。
「金稼ぐ。払う。許してもらうまで、俺…」
「私、再婚するの」
呆然と立ち竦むたすく。
たすくは、志波に自分の思いを語る。
「止めて欲しいように見えた…あんなところで働かせるような奴に渡したくない」
まもなく、たすくと志波はサザエの密猟をして、金を稼ぐのだ。
サザエの密猟に出かける二人(たすくは見張り役になる) |
見張りのサインを送る |
危ないと思ったたすくは、ハローワークで就職先の相談をしていると、夏井に首を掴まれ、引き摺られていった。
夏井は2年半分の苦情の手紙を、たすくに突き付ける。
「おめぇのおかげでなぇ、ナマハゲ終わるところだぁ。俺たち、ボランティアでねぇんだよ。命だ、命!」
「申し訳ありませんでした」
「おめぇのオヤジさんが、どういう思いで、あの面一つ一つ彫ったか、分かってんのかぁ?知らねぇのかって!」
「すいません、すいません」
謝罪するばかりの男は、その後もサザエの密猟を続け、少しずつお金を貯めていく。
たすくの脳裏を駆け巡るのは、ことねのことばかりなのだ。
2 「凪!泣く子はいねぇが!凪!」
ことねの店を訪ねると既に辞めていた。
そんな折、母がパチンコ屋で、ことねと出会い、外に出た二人は言葉を交わす。
「元気?元気だったがぁ?」
「はい…お義母さん、あたし…」
「大丈夫だぁ」
見送る義母を何度も振り返り、手を振ることね。
母は何もかも知っていて、それを受容していたのである。
たすくだけが、「止めて欲しいように見えた」と妄想し、動いている。
そんな男が、母のアイスクリーム売りを手伝っていた時だった。
たすくがカートで遊んで目を離していた際、開店準備をしていた母が倒れ、病院へ運ばれた。
兄がたすくに、何があったかを問い詰めた。
言い訳じみた答えしかできないたすくに、兄は言い放つ。
「製材所売ることにした。お前、出てってくれ。もう、干渉しねぇから」
相変わらず子供っぽくて、出口なしの状況に追い込まれた男には、ろくなことが起こらない。
密猟の通報で、志波が警官に捕まり、たすくは一人で逃げて行くばかり。
ことねを「救済」するための収入源が途絶えてしまうのだ。
母は病院で回復し、仕事仲間たちと歓談していた。
それを見るたすくだが、表情は冴えない。
そこに、ことねがお見舞いにやって来た。
たすくはことねを車に乗せ、海岸に出て、車内で会話を繋ぐ。
「凪は元気?」
「うん。最近は、劇の練習とか…浦島太郎。今度、発表会でやんの」
「もう、そんなことができんのか」
「うん」
「東京は、男鹿と全然違うスピードで…色んなこと、忘れられるんだけど…忘れられなくて」
「うん」
「バカでした。間違ってました」
「決めたの。君じゃないって」
「その、君って止めてよ」
「だから、会うのこれで最後」
「もう一回だけ…」
「忘れて欲しい」
「チャンスが欲しいです」
「もう、生きてける」
これが、長い「間」の中から言葉を引き出し、繋ぐ会話の収束点だった。
ことねは車を降り、去って行く。
置き去りにされた元夫=父親は、保育園の劇の発表会に向かった。
舞台の凪を探すが特定できない。
集まる父母たちを見回すと、ことねが再婚相手と仲睦まじく、凪のビデオを撮っている。
ビデオの先を見ても、自分の娘がどこにいるか分からないのだ。
たすくは涙ぐみながら必死に探すが、絶望的な表情を浮かべるのみ。
これが、男の空白の時間がもたらした負の連鎖の事跡だった。
製材所を売り払うため、引っ越しの片づけをしていると、母から父が残したナマハゲのお面を譲り受ける。
大晦日の夜。
志波にナマハゲの支度を手伝ってもらい、二人は出かけると、夏井に呼び止められた。
「おめえたち、何やってんがや。何考えてんだって!」
無視して行こうとすると、夏井は二人を捕まえるが、たすくは夏井の手を振り払い、叫ぶのだ。
「今日だけはお願いします!お願いします!」
揉み合いになり、志波が夏井を抑えつけ、たすくに「行け」と促す。
「また裏切る気か!」
「申し訳ありませんでした!」
深々と頭を下げ、たすくは一人、夜道を走っていく。
向かった先は、ことねと凪がいる再婚相手の家だった。
家の前で呼吸を整え、意を決してナマハゲの面をつけ、大声で叫びながら戸を叩く。
奥からことねがやって来て、たすくだと分かると、「あー!」と叫び続けるたすくを見つめ、ガラス戸の前に立ちはだかるが、なおも叫ぶたすくを家に入れた。
大勢の親族が集まる奥の部屋の戸を開けると、ナマハゲがやって来たと手を叩き、盛り上がる。
「泣く子はいねぇが!」
たすくは一番奥の席に、再婚相手の膝に座る凪を見つけ、近寄る。
嫌だと怖がる凪に向かい、ナマハゲ姿のたすくは、思わず娘の名を叫ぶ。
「凪!泣く子はいねぇが!凪!」
強烈な余韻が残るラストシーンである。
3 破綻から再生までの途方もない旅路


観終わった後、言葉に結べないほど異様な感動を受けた。
太賀の独壇場の映画空間だった。
作家性が強く、説明描写を限りなく削り取った映画に完全に嵌ったとは言い難いが、主人公の内面が分かり過ぎるから、ラストシーンの設定は容易に想像できる。
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佐藤快磨監督 |
要するに、ラストシーンに持っていくまでの映画だったということ。
だから物語は、主人公の破綻から再生までの途方もない旅路を描き出す。
私は物語の流れを、「破綻⇒執行猶予⇒拒絶⇒喪失⇒再生」という風に捉えている。
第一ステージの「破綻」が、居場所を失った主人公たすくの東京行きだったことは自明である。
郷土自慢の伝統行事を壊したたすくの行為が、「複雑酩酊」(注)の産物であるばかりか、たすく自身の脆弱さに起因することは、序盤における夫婦の会話において明らかにされている。
(注)【酩酊には、「単純酩酊」と「異常酩酊」があり、後者には、飲んだら人が変わるような「複雑酩酊」と、幻覚・妄想などが起こる深刻な「病的酩酊」がある】
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酩酊 |
殆ど離婚を迫るような妻ことねの真剣な物言いに対して、へらへらしているたすくの態度を見る限り、修復不能な夫婦の関係の深刻さが窺えて、たすくの自我の脆弱さを露呈する何某かの事態が出来すれば、関係の破綻を回避できないことは想定済み。
関係の破綻は予約済みだったのだ。
予約済みの行為に振れ、予約済みの破綻に振れていった。
それだけのことだが、それだけのことをトレースする男の半端な人生だけが受け止められず、いつまでも浮遊するのである。
精神の確かな地盤を持ち得ない男の脆弱さが、映像総体を浮遊する物語を貫流するのだ。
では、父性欠如・男性性(男らしさ)欠如・成人性(大人らしさ)欠如を炙り出す主人公たすくの脆弱性のルーツは、どこにあったのか。
1961年から1963年において行われた、カナダの心理学者として著名なアルバート・バンデューラの「ボボ人形実験」(注)による「モデリング理論」が想起される。
バンデューラの「モデリング理論」は、自らの経験ではなく、子供は周囲にいる大人をモデルにして学習(自我の形成)していくことを明らかにしたが、物語の主人公のたすくの場合、父親を早く失ったために自我形成のモデルにできなかった。
従って、たすくの自我形成に大きく関与したのは、彼の母親以外に考えられない。
だから、母親の育て方に起因するとも思えるのだ。
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アルバート・バンデューラ(ウィキ) |
一言で言えば、真面目に育った兄と異なって、甘やかしたのではないか。
一切は不明であるから、これ以上、語れない。
然るに、脆弱な自我を曝し続ける男の行動様態は、「破綻」以降にも繋がってしまうから厄介だった。
(注)【子供たちを実験群と対照群の2つのグループに分け、実験群の子供たちにはおもちゃの部屋で1人の大人が風船のように膨らませた「ボボ人形」に乱暴しているのを見せる。対照群の子供たちには普通に大人が遊んでいるのを見せる。その後、各グループの子供たちを1人ずつおもちゃの部屋の中に入れ、その様子をフィルムで撮影する。結果、実験群の子供たちは対照群の子供たちに比べて目に見えて攻撃的だった。この実験からこどもは明らかな強化を与えなくてもモデルの行動を自発的に模倣することが分かった。(Wikipedia)】
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ボボ人形実験(ウィキ) |
物語の流れは、「破綻」後の東京での生活に変化が見られたことを否定すべき何ものもない。
東京での生活のトップ画像に見られるように、そのスピードについていけなくとも、真面目に働き、真面目な生活を繋いでいた。
しかし、郷土に残した妻子のことが頭から離れない。
この思いが、親友の志波からことねの近況を知らされたことで、恐怖の帰郷を果たすのである。
「キャバクラ嬢になったことねを救済する」
これが、たすくの恐怖の帰郷の決定的な推進力となった。
だから、自らが犯した「罪」と彼なりに向き合い、断酒する行為に振れた彼の東京生活は、再度罪を犯さないことで、罰を消滅させる努力を繋ぐ「執行猶予」と捉えていいのではないか。
この「執行猶予」があっさり終焉し、帰郷したたすくを待つのは、次男を受容する母と志波を除けば、隙間風が吹き込むのみ。
とりわけ、たすくを弾劾する夏井の逆鱗は半端ではなかった。
ひたすら、謝罪するたすく。
厄介なのは、謝罪しても深々と内省しない。
誰に対しても謝罪するばかりで、客観的に自己を見つめ、建設的に自己を再構築する行為に振れないのだ。
そんな男が帰郷し、キャバクラ嬢になった元妻に会いに行っても拒絶されるのみ。
ところが、この拒絶を「止めて欲しいように見えた」と捉えてしまう。
連れ添った妻の心情を理解できないのだ。
だから、いい加減、愛想を尽かされたのだろう。
母親もまた、次男の脆弱さを理解できていた。
「凪ちゃんの父親には、おめぇ以外でもなれるんがや」
実母から、ここまで言われてしまう男の脆弱さは、「父親」であることを認知してもなお、大人になり切れない児戯牲と同居しているから始末に負えなかった。
母を手伝うことなく、いつもカートで遊んでいる |
その妄想だけが突っ走る。
かくて、「拒絶」の行程を経て、決定的な「喪失」にまで向かっていく。
「バカでした。間違ってました」
ここでも、元妻に対して、謝罪をリピートするのみ。
それでも受容されなかった男は、保育園の劇の発表会で、再婚相手と仲睦まじく、娘のビデオを撮っていることねを視認する。
この時、ことねが「元妻」である現実を認知せざるを得なかった。
「破綻」の状況に陥った時がそうであったように、東京で酒を断ち、本来的に真面目な生活を繋いでいたように、出口なしの状況に追い込まれれば、この男は変わる。
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酔った同僚を家に泊めるが、何もしないので、童貞と勘違いされる |
思えば、映画の中で、たすくは三度大きな謝罪をしている。
一度目の謝罪は、先の夏井に対する謝罪。
二度目は、元妻ことねへの車内での謝罪。
「バカでした。間違ってました」 |
しかし、三度目の謝罪だけは、それまでのものと違っていた。
「申し訳ありませんでした!」
志波によって押さえつけられた夏井に対して、深々と頭を下げ、たすくは謝罪する。
それは、今や、失うものが何もない絶対状況に追い込まれた男の、その魂の呻吟(しんぎん)だった。
どうしても、これだけは遂行せねばならなかった。
これを遂行しなければ、一歩も前に進めないのだ。
自らが負った負の時間が凍りつき、自縄自縳(じじょうじばく)の状態で、身動きが取れなくなってしまうのだ。
まさに、出口なしの状況の冥闇(めいあん)の森で震え続けるばかりになる。
だから、突っ走った。
行き先は一つ。
我が娘・凪。
来訪神・ナマハゲと化し、我が娘を守る「父親」となって「幸福」を授けなければならない。
その一念で突っ走った。
「元妻」の前に立ち、叫び続ける。
「凪!」という叫びを耳にした「元妻」は、静かに「元夫」を座敷に入れた。
なぜ、入れたのか。
恐らく初めて、「元夫」の本気を感じ取ったからである。
本気で叫び、来訪神となって再婚相手の家の座敷の奥に踏み込み、初めて見る娘の前に立ち、「凪!」と叫ぶのだ。
出口を塞がれた男が、それ以外にない小さな出口を自らの手で抉(こ)じ開けたのである。
それが明日に繋がるかどうか、分からない。
しかし、もうそれ以外になかった。
それは、男の途方もない旅路の収束点だった。
男の「再生」は、そこからしか開かれないのだ。

(2022年8月)
「それが明日に繋がるかどうか、分からない。」
返信削除重たい言葉です。
人の人生は映画の様ではありますが、映画のようには2時間では終わらないし、何より座って見ているだけでは変化してくれない。自分で動くしかないのですが、2時間で終わらない人生のその先を考えると、動けなくなるのでしょうか。映画の様に誰かがストーリーを進めてくれたら良いのにと、他力本願の様に自分の人生を生きていきたくなるのは良くないと思いながらも、そんな事を考えてしまいました。
素晴らしいストーリーでした。見てみたいです。マルチェロヤンニ
こういう映画が大好きです。
削除自分で動かなかったら、何も始まらない。
拓くことができない。
自分で動かないことで、待つであろう現実をも引き受けず、四の五の言うのも自由だが、そういう類の自由で世俗を漂流することを是とする否か、これが全てです。
いつも、そう考えています。
コメントありがとうございます。