<究極なる給仕の美学>
1 「お伽の国」での軽快な映像の色調の、反転的変容
映画の前半は、それ以外にない大人のお伽話だった。
お伽話だから映像の彩りは華やかであり、そこに時代の翳(かげ)りは殆ど見られない。
男は姫を奪ったのではない。
だから前半のテーマは、「お伽の国へ」というフレーズこそ相応しいだろう。
このような軽快な映像の色調が、後半に入って突然変貌する。
少しずつ映像が褪(あ)せてきて、時代の陰翳(陰翳)を写しとっていく。
変わらないのは、姫に対する男の愛情だけである。
2 「希望」と「時間」と「繋がり」を仮構する男の孤軍奮闘
男と愛児は絶滅収容所行きの貨車に乗せられ、男は愛児をガードするだけの余裕しか与えられない。
ユダヤ人でない妻も二人を追い、貨車に跳び乗った。
家族を乗せた貨車が復路のない旅を終え、閉ざされた空間に呑み込まれたとき、「愛する者を守る男の物語」が開かれたのである。
絶滅収容所には生活がなかった。
多くの人々の群れはあったが、当然、そこには「希望」がなく、「時間」がなく、「繋がり」すらなかった。
地獄を遊技場に読み替えて、そこに、「希望」と「時間」と「繋がり」を仮構したのである。
最愛の妻と切り離された男にとって、今はただ、我が子を守ることだけが人生の全てだった。
こうして、男と我が子の薄氷を踏むようなゲームが開かれていく。
男は愛児の自我に、収容所のリアリティを刻印するわけにはいかなかった。
「希望」と「時間」と「繋がり」を仮構するには、収容所のリアリティを、「遊び」の含みを多分に持ちながら、緊張感溢れるゲームに転嫁させる外になかった。
だから男は、一心不乱になって、自らの人生の全てをゲームの継続に懸けたのだ。
男もまた、そこに「時間」を得たのである。
「希望」を得たのである。
房を隔てた舎内にいる妻に、妻の好きな音楽を男が届ける描写は、心に食い入るほど深く胸を打つ。
男は唯、妻に生活の律動を失って欲しくなかっただけである。
地獄の中で、家族の「繋がり」の可能性を一途に確認したかったのである。
男は収容所にあってさえも、家族の時間を継続させずにはいられなかったのだ。
3 絶滅収容所という名の負の極点をカジノに替えた男
男の綱渡りのゲームに、終焉の瞬間(とき)がやって来た。
約束された「物語」の、約束された「旅立ち」だった。
連合軍の進撃によって絶滅収容所の自壊の危機が高まったとき、男は愛する妻を奪回するための挙に打って出る。
しかし、愛児を守りつつ、姫を探すという、男が最後に放ったゲームでの博打(ばくち)は、途轍もない危うさに満ちていた。
男はドイツ兵に捕捉され、呆気なく撃ち殺されてしまったのである。
男によって隠された愛児は、男の死を知らない。
だから、ゲームの終りを知らない。
ドイツ兵の去った収容所の束の間の静寂に、愛児は立った。
静寂を破ったのは戦車の足音だった。
愛児はゲームの終りを確信した。
父は間違っていなかったのだ。
戦車が止まって、米兵が降りて来た。
そして、愛児を抱えて同乗させ、ビクトリーロードを駆け抜けていく。
戦争とゲームの勝利が重なって、夢心地の中で戦車は駆ける。
そして、母との劇的な再会。
ゲームを達成した満足感の中に、未だ不幸なる認知がヒットしてきていないのだ。
父は我が子に、まるで、ゲームに酔う時間を残しておいたと言わんばかりだった。
映像が閉じ、余情が広がった。
愛児をゲームのウィナーにすることによって、この家族の受難劇は完結したのである。
愛児を残すためのゲームの本当のウィナーは、愛児の父だった。
人類史上最も苛酷な経験をステージにした、際どいゲームを突き抜けた映像の覚悟は潔く、印象的なまでに切なかった。
滑稽と哀切の繊細なる振り子の中で、饒舌と諧謔(かいぎゃく)で抜け切った男の生きざまに集合する、「愛する者を守り抜く」という堅固な感情が、一筋の強靭な意志のうちに束ねられて、完璧なシナリオに俳優の超絶的表現力が溶融した一篇の映像は、粛然とする感銘を観る者に残して閉じていった。
男の意志を通して映像が残したイメージを勝手読みすると、極限状態に置かれた子供へのトラウマを回避させることだけが、無力な大人たちの唯一の倫理的義務であると把握できなくもない。
男は愛児の現在を守り、その未来をも救済しようとしたのではないか。
愛児の未来まで網羅した父の、その愛の守備範囲の広さに、私たちは、節榑(ふしくれ)立った時代の航海に向かう男たちの括りのさまを読みとることが可能であるだろう。
4 究極の給仕の美学
守るべきものを持つ男の愛はあまりに深く、まるで、給仕であった男の人生が、愛する妻子を守るためだけに、この世に存在するかのような異様な輝きを放つ。
妻子を守れずして、どこに男のレーゾンデートル(存在価値)があるのか。
ここぞというときに退路を断って、ここぞという何かを、そこに放つ。
男の「給仕人生」は、男の死によって完結した。
これは、「究極の給仕の美学」を描き切った映像でもあったのだ。
それでもスーパーマンを量産して止まない、ハリウッドの過剰なラインの中では、切り口の鮮度を愉しむことができるだろうか。
歴史の重量感に沿(そぐ)わないような、軽快なステップによって犠牲にされたリアリズム。
それが生み残した危うい緊張が、まさに、その不均衡の故に鮮烈な余情を残す。
守るべきものを持つ者の脆さではなく、その強(したた)かさと、健気さを滑稽含みで描き切った覚悟が凄みを生んで、映像的達成を導いたと言えるだろう。
そんな逸品だった。
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