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エビング警察署前に立つミルドレッド |
<「グリーフワーク」という「全身・心の仕事」を軟着させていく>
1 攻撃的言辞を止められない女と、破壊的暴力に振れる男 ―― 〈状況〉が人間を動かし、支配する
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ミズーリ州の位置(ウィキ) |
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ゲートウェイ・アーチ越しに望むセントルイスのダウンタウン・ミズーリ州東部に位置する商工業都市(ウィキ) |
ミズーリ州エビング。架空の田舎町である。
7カ月前に、10代の少女がレイプ後に、焼殺されるという凄惨な事件が発生した。
その名はアンジェラ・ヘイズ。
そのアンジェラの母・ミルドレッドが、広告代理店の経営者・レッドに依頼する。
「なぜ?ウィロビー署長」・「犯人逮捕はまだ?」・「レイプされて死亡」
人通りの少ない道路沿いの、3枚の巨大な看板広告に、これらの文言のみが大きく掲示されていた。
そこは、アンジェラが殺された道路だった。
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ファーストシーン・元の「スリー・ビルボード」 |
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「スリー・ビルボード」 |
この看板を見て、いきり立ったのはディクソン巡査。
レッドの店にやって来て、「看板を外せ!」と怒鳴り、殴りかかろうとしてウィロビー署長に止められる。
一方、ミルドレッドは地元テレビ局にも取り上げられ、「この広告が刺激になればと…警察のやることは分りません」などと、インタビューに答えるのだ。
そのテレビを観て、「ウィロビー署長に責任がある」と名指しで批判されたウィロビーは、「どうやら戦争になりそうだ」と、妻のアンに一言放つ。
「戦争」と言い放ったウィロビー署長は、ミルドレッドを訪問する。
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ウィロビーの訪問 |
「最大限の努力はしています。でも、DNAが前歴者と一致しなかった。全国どこにも該当者がいない」
「8歳以上の男の住民の血液を採取できない?」
全く噛み合わない二人の会話。
明らかに、ミルドレッドが「被害者利得」としての無茶な権利を主張するだけ。
「膵臓がん」を告白するウィロビーに対し、「死んだあとじゃ意味ないでしょ」と言い放つミルドレッドの攻撃的な性格が露呈される。
「ホワイトバックラッシュ」(アファーマティブ・アクション=積極的是正措置に対する白人の反動)の激しい片田舎で、「小男」という「差別語」を平気で吐露するミルドレッドもまた、インディアン部族を含む人種・言語が混在するアメリカ中西部の内陸州の一角で、偏見に満ちた会話を捨てていく。
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「小男」と蔑(さげす)まれるジェームズとミルドレッド |
思えば、黒人青年が白人警察官によって射殺された事件(「マイケル・ブラウン射殺事件」)で暴動を惹起した、架空の田舎町を内包するミズーリ州は、事件の当事者の白人が不起訴になったことで衝撃を与えたように、黒人差別など人種差別に終わりが見えないアメリカの負の歴史を凝縮した殺気が漲(みなぎ)るエリアでもある。
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マイケル・ブラウン射殺事件・米ミズーリ州ファーガソンで黒人青年が警察官に射殺された事件で、デモ隊に向かって警察が発射した催涙ガスを浴び、牛乳で顔を洗い流す女性 |
閑話休題。
母の一件で学校で苛(いじ)めに遭い、母親の行動に反発するミルドレッドの息子・ロビーに依頼され、神父も説得に乗り出すが、本人に全く聞く耳なく、悪意含みの言辞を放ち、拒絶するミルドレッド。
あまりに異様なミルドレッドの行為に、当然、拒否反応を示す田舎町の住人たち。
ミルドレッドの診療に際し、反感を抱(いだ)き、故意にミスした歯科医に対して、件(くだん)の歯科医の親指にドリルで穴を開けるという傷害事件を起こす始末。
アンジェラの事件を見直そうとするウィロビー署長が吐血し、救急車で運ばれていったのは、そんな折だった。
退院後、死期が近いと悟ったウィロビーは、妻と2人の娘を随伴させ、1日を充分に愉悦し、自死するに至る。
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ウィロビーの最後の一日 |
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自死するウィロビー |
この一件によって、ミルドレッドに対する住民たちの風当たりが一層、強くなっていく。
中でも、ウィロビーに心酔していたディクソンの憤怒が収まらず、その情動が、ミルドレッドに広告板を設置させたレッドへの破壊的暴力に振れていく。
その現場を目撃した親署長の怒りを買い、即刻、解雇される憂(う)き目に遭うディクソン。
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重症を負ったレッド |
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ディクソン |
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ディクソン |
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親署長(右) |
自業自得だった。
「スリー・ビルボード」が激しい火炎の屑(くず)と化して、焼却してしまったのは、このくすんだ風景の只中だった。
事態の悪化は止まらない。
「スリー・ビルボード」の放火がエビング警察の犯行と確信したミルドレッドが、警察署に放火したのは、彼女の行動傾向の必然的現象だったと言える。
無人のはずの署内に、ディクソンがいたのだ。
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ウィロビーの手紙を読みながら、警察署内にいたディクソン |
その結果、ハリウッド好みのアクションムービーが開かれる。
ディクソンは大火傷を負い、「小男」と馬鹿にされていたジェームズがディクソンを救助すると同時に、放火犯として誰からも疑われるミルドレッドも救済する。
ミルドレッドに好意も持つジェームズの機転で、一緒にいたと偽証し、ミルドレッドの逮捕は免れるのだ。
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警察署放火事件直後のミルドレッドとジェームズ |
死せしウィロビーから、ミルドレッドのもとに手紙が届く。
そこには、「スリー・ビルボード」を維持するための広告板の費用を、自分が捻出(ねんしゅつ)したという文言があった。
【この辺りに、ウィロビーが町の住民たちから尊敬されている背景が顕在化するが、同時に、街中の誰もが知っているほどに、自分が膵臓癌の末期症状であることを告白する行為を含めて、「尊敬される警察署長」を演じ続けてきた男の偽善性をも見透かされるだろう。「誰にも感情移入させない映画」の仕掛けでもあると思われる】
日ならず、「スリー・ビルボード」を燃やした犯人が分った。
元夫で、元警官、そして今、19歳の恋人と共存するチャーリーが、酔った勢いで燃やしてしまったと告白したのだ。
ショックを受けたミルドレッドは、「形だけのデート」でジェームズを傷つけた後ろめたさがあり、チャーリーを咎(とが)めることなくワインを贈り、その場を去っていく。
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ジェームズとの「形だけのデート」 |
「怒りは怒りを来(きた)す」
チャーリーの19歳の恋人が吐露した引用セリフだが、本篇のメッセージであることを強く印象づける。
その後の展開は、「刑事になるのに必要なのは、“愛”だ」という、ディクソンに送ったウィロビーのダイイングメッセージの問題提起と重なるように、しかし、その難しさを内包しつつ、物語の稜線を広げていく。
アンジェラ事件の犯人が判明したのだ。
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アンジェラとロビー |
唐突だった。
少なくとも、ディクソンは、そう信じた。
その犯人に喧嘩を売ってまで採取したDNAの鑑定結果は、「正真正銘の無罪」。
物語は、ここから意想外の展開を開いていく。
〈状況〉が人間を動かし、支配する。
この映画の根柢にある思想である。
攻撃的言辞を止められない女と、破壊的暴力に振れる男。
言うまでもなく、ミルドレッドとディクソンのこと。
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ミルドレッドとディクソン |
最後まで、物語を引っ張り続けた二人の交叉が、一気にラストシークエンスに流れていく。
その辺りについては、本作の肝なので、批評文として後述する。
2 「グリーフワーク」という「全身・心の仕事」を軟着させていく
犯人逮捕に固執(こしつ)する、主人公ミルドレッドの心理分析なしに批評が成り立たないと考えるので、その視座で書き込んでいきたい。
ミルドレッドの尖(とが)り切った行動の本質を一言で言えば、「コミュニティ心理学」の重要な概念・「グリーフワーク」という一語で説明可能である。
娘アンジェラの死の誘引となった、自らが犯した過(あやま)ちの贖罪によって、「グリーフワーク」を自己完結すること。
これは、ミルドレッドの回想シーンの中にインサートされていた。
あの日、マリファナに手を出すフラッパーのアンジェラは、車での夜外外出を実行しようとした。
それに反対し、歩いて行くことを進める母に、レイプの危険を訴えても、「(レイプ)されればいい」と、冷たく言い放ったミルドレッド。
怒ったアンジェラが、直後に徒歩で出かけたのは、母親に対する強い反発が推進力になっていた。
そして、事件が惹起する。
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アンジェラ |
この忌まわしい事件が、ミルドレッドの自我を打ち砕く。
7カ月間もの間、彼女は深い「悲嘆」の海に沈潜する。
「悲嘆」とは、フロイトが概念提示した「喪の仕事(作業)」のこと。
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悲嘆 |
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悲嘆・イメージ画像 |
即ち、「ショック」⇒「喪失」⇒「閉じこもり」⇒「自己再生」という、「悲嘆」=「喪の作業」の心的プロセスをトレースしていくこと ―― これなしに、ミルドレッドの人生の復元が叶わなかった。
重要なのは、「喪の作業」の心的プロセスは、簡単に省略し、済ますことができない「全身・心の仕事」であるということだ。
だから、個人差があれども、故人への様々な思いが強すぎるために、何年要しても癒えないほど、「悲嘆」が続き、鬱(うつ)や「自殺念慮」(自殺願望)を伴う「複雑性悲嘆」という、通常の悲嘆を超えた精神状態に呪縛される疾病も、この世にある。
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「喪の作業」・イメージ画像 |
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複雑性悲嘆https://slidesplayer.net/slide/14174083/ |
ミルドレッドの「悲嘆」の様態は「複雑性悲嘆」と無縁であったが、7カ月間という時間の長さは、決して軽度な「悲嘆」とは言い切れない。
それは、「スリー・ビルボード」の広告を出し、身体の駆動をフルスロットルさせていった「戦争」に踏み込んでも、時折、提示されたミルドレッドの煩悶描写の挿入のカットにおいて確認できる。
「人生の復元」を約束する時間が根本(ねもと)から削り取られ、空洞化してしまった「時間」を埋める何ものもなかったとき、人は「グリーフワーク」なしに蘇生でき得ないのだ。
繰り返すが、映画「その夜の侍」で典型的に描かれていたように、「グリーフワーク」という「全身・心の仕事」には、その心的プロセスが省略できる余地がないからである。
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人生論的映画評論・続「その夜の侍」より |
ミルドレッドもまた、そこまで追い詰められていたのだ。
それなしに復元できない辺りにまで追い詰められていたミルドレッドが、意を決して立ち上がった。
ミルドレッドの場合、「喪失」⇒「閉じこもり」という心的プロセスの渦中で退路を塞がれ、自己自身に向かう攻撃性が峻険(しゅんけん)さを増幅させていったとき、その攻撃性を特定他者=ウィロビー署長に変換することで、拠って立つ自我の秩序をぎりぎりに確保していく。
だから彼女の攻撃性は、ウィロビー署長に象徴されるエビング警察署への爆轟(ばくごう)的炸裂を身体化する以外になかった。
言ってみれば、彼女にとって至要(しよう)たる本質は、どこまでも「グリーフワーク」の完結であって、「スリー・ビルボード」という究極のパフォーマンスは、その手立てでしかなかった。
「事件の一週間前、娘が泣きついてきた。お前より俺と暮らしたいと。俺は“ママといろ”と言った。そう言わなければ、死なずに済んだ」
だから、自分の娘と変わらぬ年齢の女と共存する警官上がりの元亭主から、これほどの誹議(ひぎ)を浴びて不快感を膨張させても、全人格的に崩れることがなかった。
娘との折り合いが悪く、娘への深い愛情を抱(いだ)くことがなかったとしても、自らの毒言が起因となり、出来(しゅったい)した事件の悍(おぞ)ましさを考える時、内深くから切っ先鋭く立ち上(のぼ)ってきた感情を抑制することなど不可能だった。
その感情を、贖罪感と言っても間違っていないだろう。
元亭主の誹議は、ミルドレッドの贖罪感を払拭(ふっしょく)するどころか、希釈化する心理的効果すらなかった。
折り合いが悪い娘が自分を嫌い、憎んでいたとしても、そんな悪感情のシャワーを浴びた程度で、事件の悍ましさが希釈化するすることなどあり得ない。
被弾した感情のレベルが違い過ぎるのだ。
それが、「ミルドレッドの7カ月間」の内実だった。
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ミルドレッドと息子ロビー、元夫チャーリー(右) |
元々、頑(かたく)なさ、意固地さ、アグレッシブさ、そして、歯に衣着せぬ物言いの辛辣さを有する性格の尖り様(とがりよう)は変容すべくもなく、それらが自分以外の特定他者に向かった時、内側にプールされたネガティブな情動の、そのあらん限りの出力が、より攻撃的に膨れ上がり、最後には、ディクソンに大火傷を負わせるに至る、警察署への「爆弾投下」(火炎瓶)に振れていくのは不可避だったと思われる。
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ミルドレッドの攻撃性 |
「スリー・ビルボード」を破壊されるという行為は、レイプされ、焼殺された娘と、その贖罪を経て、「グリーフワーク」という「全身・心の仕事」を自己完結させんとする自身への「二重殺害」であったからだ。
だから、絶対に許せなかった。
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「娘の化身」である鹿に見入るミルドレッド |
ところが、そこで予想だにしない風景を見せつけられる。
死せしウィロビー署長の手紙で「改心」したディクソンの、異形(いぎょう)とも思える存在性。
明らかに、「人は変われる」という安直なメッセージとは異にするディクソンの「改心」。
この珍奇な風景との出会いは、「ミルドレッドの7カ月間」の内実に大きな影響を与えていく。
ディクソンとミルドレッドの和解。
ディクソンの「改心」の結晶点だが、この男の行動の変移を、一人の男がコントロールしている。
もとより、ウィロビー署長への過剰な思慕に体現されているように、ゲイでレイシストであるが故に、それを隠し込むために暴力的な行動に振れていくディクソンの心理を、死せしウィロビーが動機づけ、揺さ振り、動かし、支配しているのだ。
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マザコンでもあったディクソン |
これが、ディクソンの「改心」の本質であって、別に、「人間革命」に成就したわけではない。
この厄介な男の、別の側面が顕在化しただけなのだ。
人間は〈状況〉に応じて対処・対応する存在であって、その〈状況〉が変化すれば、人間の行動もまた変化するということである。
ただ、それだけのこと。
「人間を一面だけで見てはならない」
このメッセージが、このエクストリーム(過激)満点の映画には、間違いなくある。
―― 話を進める。
ディクソンの「改心」という〈状況〉を作ったのは、一連の「神話的構造」を表層的に借景したに過ぎない、馬小屋で自死したウィロビーだった。
そのウィロビーは、ディクソンに「ダイイングメッセージ」を残していた。
「生前、言えなかったことを今から話す。お前には、いい警官になる素質がある。なぜだと思う?お前は本来、まっとうな人間だからだ。欠点は、キレることだ。親父さんの死後、お前が苦労したのは分る。だが、憎しみを募らせたら、お前が憧れる職業には就けないだろう。刑事だ。刑事になるのに必要なのは、“愛”だ。銃は要らない。もちろん憎しみも。憎しみは邪魔だ。だが、冷静さと思考は役に立つ。試してみろ。もし、ゲイだと言われたら、同性愛差別で逮捕しろ。健闘を祈る。お前はいい人間だ。今まで不遇だった。だが、潮目は変わる。俺には分る」
この手紙でも明らかなように、ウィロビーはディクソンの人格の総体を見抜いていて、自らの影響力を駆使して、この男を「改心」させたのである。
そして、犯人捜査を諦めないウィロビー署長の意思を継ぎ、遂に発見したレイプ犯。
「火傷男」(やけどおとこ)と揶揄(やゆ)されるディクソンは、自らを傷つけてまでレイプ犯のDNAを採取する。
ミルドレッドとディクソンの和解もまた、この一件によって具現した。
不調和な構図だが、元々、二人の尖り切った性向は、「やられたらやりかえす」という思考において共通していた。
思考と行動との心理的距離感も短い。
結論を出したら、必ず行動に振れる。
「クズどもに復讐してやる」
「スリー・ビルボード」が燃やされた時に言い放った、ミルドレッドの攻撃的言辞である。
殺意を抱(いだ)いて、レッドを2階から突き落として、新たに赴任した黒人署長に馘首(かくしゅ)されるに至る、一連のディクソンの行動も、文脈的に同質である。【このエピソードが、単に馘首だけで済まし、殺人未遂事件として扱われないのは、「展開のリアリズム」の軽視以外の何ものでもない】
―― 話を戻す。
DNA鑑定の結果、件(くだん)のレイプ犯のDNAはアンジェラの事件と無関係だった。
落胆するミルドレッドとディクソン。
それでもディクソンは、山岳地帯の州として名を馳(は)せる、アイダホ州に住むレイプ犯に固執する。
この男がレイプ犯である事実。
それだけで充分だった。
「お前には、いい警官になる素質がある。今まで不遇だった。だが、潮目は変わる」
死せしウィロビーの、この鼓舞激励(こぶげきれい)のメッセージが、最後までディクソンを支配しているのだ。
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ウィロビーとディクソン |
だから、アイダホに行く。
ディクソンに求められ、ミルトレッドも同行することになった。
それぞれの残された家族(母と息子)に、それぞれの形式で別れを告げ、アイダホに向かうのだ。
それまでの激しい〈動〉の展開と切れ、減速したエナジーの〈静〉の展開のアゲンストの風を受け、痛烈なまでに印象的なラストシーンが、観る者に提示される。
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アイダホへの旅/ミルドレッドとディクソン |
「本当にいいの?」とディクソン。
「奴を殺すこと?あんまり。そっちは?」とミルドレッド。
「あんまり。道々、決めればいい」
これだけだ。
圧巻のラストシーンである。
この「ラストシーンでの抑制描写」によって、それまでの過度な描写を映像提示した、「殆ど、全身ハリウッド映画」がメッセージ性を内包させることで、ぎりぎりの辺りで救われた一級の娯楽映画に昇華した。
―― ここで、批評を総括する。
「やられたらやりかえす」という、二人の尖り切った性向が、「あんまり」という表現のうちに、二人の「悲嘆」(ウィロビー署長の死に対するディクソンの「悲嘆」と、ミルドレッドの「悲嘆」)が、本質的に完結したことを示唆しているのだ。
「いい警官になる素質がある」というウィロビーの究極のメッセージで、既に「悲嘆」を克服したディクソンと、「スリー・ビルボード」の破壊と、警察署へのその復讐的な「爆弾投下」によって、実質的に、「破壊を経由しての再生」に収斂されるだろう、ミルドレッドの「グリーフワーク」は、ほぼ完結したと言っていい。
もとより、「犯人捜し」を究極の収束点にしなかったミルドレッドの攻撃的言辞・暴力の行動様態は、「スリー・ビルボード」という、明瞭なエビデンスを保持する贖罪の観念系の結晶点であったのだ。
だから、「スリー・ビルボード」に始まり、「スリー・ビルボード」の破壊と、「スリー・ビルボード」を具象化した、物理的存在としての警察署の「爆弾投下」によって、実質的に自己完結する。
それは、「ミルドレッドの7カ月間」が終焉したことを意味すると言っていい。
だから、たとえ新たな「スリー・ビルボード」を作り、嬉々としたとしても、未だ、行動が意識に追いついていないだけで、「事件総体の帰する所」が包含し、統(す)べる形而上学的意味合いは変わらないだろう。
彼女には、もう、やり残した行動がなくなった。
ただ、無人の警察署から、大火傷を負ったディクソンが現われたことで、そこに、新たな罪責感が加わったのも事実である。
これが、二人の和解の推進力になっていく。
この和解は、ミルドレッドの「グリーフワーク」の「帰する所」の速度を加速させる効果を生んでいく。
だから、「スリー・ビルボード」の破壊が元夫によるものと知った時に、怒りを覚えても、基本的に、ミルドレッドの爆轟(ばくごう)は削り取られていた。
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元夫のチャーリー |
もう、事件への強烈なエナジーは、ミルドレッドの内側に深々と張り付いていないのだ。
従って、「あんまり」という表現には、今や、「悲嘆」を昇華した二人が抱えていた負荷が、実質的に払拭された事象を意味するのである。
―― 本稿の最後に、本作の映画手法についてのみ書いておきたい。
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マーティン・マクドナー監督 |
何より本作は、「正義・人道・弱者利得」という、ハリウッドの古典的映画文法の基本理念を希釈させつつも、音楽の多用、コメディー基調の怒涛のようなセリフの洪水、度を越した暴力の直接的描写、「描写のリアリズム」へのシンプルな準拠と、「展開のリアリズム」の軽視、等々、典型的なハリウッド映画の情性を踏襲していた。
これが、本作に対する私の最大の不満だが、「単なる娯楽映画以上の何か」であると決めてかかった私の、ないものねだりなのだろう。
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