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2019年12月3日火曜日

湯を沸かすほどの熱い愛('16)   中野量太



<「スーパーウーマン」の魔法にかかれば、すべてが変わる>





1  「極論の渦」となって、観る者に押し寄せてくる





左から双葉、安澄(あずみ)、鮎子、一浩

登場人物のすべてが、相当程度の「訳ありの事情」を抱えていて、特化された彼らの「事情」が自己完結的に軟着させるエピソードを、「完成させた地図」を予約するかのように、読解容易なジグソーパズルに嵌め込んで、そこだけが特段に抜きん出た、「スーパーウーマンの死」=「最終到達点」という、「物語」の中枢に収斂させていく。

そのために多くの伏線を張り、その回収のトラップを駆使していく。

「驚かしの技巧」こそ、伏線回収のトラップの武器だった。

この姑息(こそく)な武器が、観る者が赤面するほどに、「不幸」の洪水の連鎖を惜しげもなく繰り出す、「基本・シリアスドラマ」の内実のリアリティの極端な欠如を希釈化する。

「スーパーウーマン」の魔法に仮託された、トリッキーな作り手のナルシズム全開の物語に、最後まで終わりが見えなかった。

中野量太監督

殆ど全ての登場人物を、ヘビーなシチュエーションに押し込んで、「スーパーウーマン」の魔法の吸引力によって、次々に押し寄せていく「不幸」の洪水の連鎖を、カタストロフィーの水際(みずぎわ)で食い止めていくのだ。

かくて、彼らの「純化・再生」が約束されるのである。

本作を極端に要約すれば、私には、こんなアイロニカルな感懐しか持ち得なかった。



―― 私見を言えば、映画の質の生命線は「映像構築力」にあると考えている。

「主題提起力」・「構成力」・「映像表現力」などによって成る「映像構築力」は、それらの均衡ラインの微妙な攻防の中で、完成度の高い、良質な映画が生まれると考えているからである。

その意味で、最近、観た「幼子われらに生まれ」は、度肝を抜かれるほどに完成度の高い、良質な作品だった。

「幼子われらに生まれ」より

「幼子われらに生まれ」と比較することに、どれほどの意味があるか分らないが、両作品とも、「家族」をテーマにした映画なので敢えて書くが、その「映像構築力」において、あまりに落差が目立つのだ。

「スーパーウーマン」のみに支えられて、「主題提起力」を全面に押し出した本作の、その「構成力」・「映像表現力」の信じ難いほどの暴走ぶりに、殆どお手上げだった。

「血縁家族&血縁を超える家族愛」という基本理念をコアに、「地続きなる生と死」という死生観を絡ませて構成されたと思われる「物語」は、観る者の感動を存分に意識させた、エピソード繋ぎの「横滑り」の情態の組成に終始してしまって、全く「深堀り」されていないから、深度を増すことがない。


―― その典型例を、物語の流れに沿って書いていく。

「不幸」という記号の、その不文律の初発点。

それは、言うまでもなく、ヒロイン双葉が決定的に被弾した末期癌の告知である。

この設定それ自身に、記号化された「不幸」の外延(がいえん)が凝縮されている。

末期癌の告知を受ける双葉



膵臓と胃の位置関係/膵臓癌の初期には症状は出にくく、進行してくると、腹痛、食欲不振、腹部膨満感、黄疸(おうだん)、腰や背中の痛みなどを発症するhttps://ganjoho.jp/public/cancer/pancreas/index.html#a5

物語は、ヒロイン双葉の内面に潜り込み、そこに仮託された作り手の理念系が炸裂する。

因みに、「癌の王様」と呼ばれる膵癌(すいがん)のように進行が早く、予後不良な癌に罹患したクランケにとっては、苦痛を和らげるための「緩和ケア」は非常に重要な役割を持つ。

ところが、双葉にとって、「遂行すべき残された仕事」の履行こそが、「緩和ケア」そのものだった。

「少しの延命のために、自分の生きる意味を見失うのは、絶対に嫌だ」

負の記号を最も詰め込んだ夫の一浩に、毅然(きぜん)と言い放った双葉の意思表示である。

驚くような「説明台詞」に引いてしまうが、この作り手には、「映画作家」という自負がないのだろう。

斯(か)くして、「地続きなる生と死」を体現するレッドラインの際(きわ)で、「遂行すべき残された仕事」に挺身(ていしん)していく。

私立探偵に依頼し、1年前に失踪した夫の一浩を連れ戻し、レトロな雰囲気を有する薪焚き銭湯を再開すること。

これは簡単に成就する。

妻の病死を娘に言い出せないで悩む私立探偵



夫の一浩を連れ戻す双葉
薪焚き銭湯の再開の準備に余念がない双葉/ここで、一浩と連れ子の鮎子が加わり、4人家族が誕生する
4人家族

それにしても、オダギリジョー演じる、心理描写を捨てた、一浩という非主体的な男。

失踪し、失踪され、2人の子供だけ(安澄と鮎子)が残されたという、「訳ありの事情」のキングとも言っていい。

2人の娘(安澄、鮎子)の実父でありながら、非主体的な男・一浩

次に、本気で取り組んだのは、苛めで不登校寸前に陥っている安澄(あずみ)を精神的に自立させること。

これは困難を極めた。

苛めで不登校寸前に陥っている安澄(右端)
登校を嫌がる安澄

苛めグループに制服が盗まれて、学校に行き渋る安澄の布団を引き剥(は)がした双葉は、叱りつけるのだ。

「起きなさい、安澄。学校に行くの!」
「やだ、絶対やだ!」
「今日、諦めたら二度と行けなくなる!」
「じゃ、行かない!二度と行かない!」

この当然過ぎる反応に、体を張って学校に行かせようとする双葉。

「逃げちゃダメ!立ち向かわないと!今、自分の力で何とかしないと、この先!」
「何にも分ってない!」
「分ってる!」
「分ってないよ、お母ちゃん!」

沈黙のあと、安澄は嗚咽の中から、言葉を吐き出していく。

「私には、立ち向かう勇気なんてないの。私は最下層の人間だから…お母ちゃんとは全然違うから」

ここまで言われて、言葉を失う双葉が、沈黙の後、静かに語り出す。

「何にも変わらないよ。お母ちゃんと安澄は…」

これ以上、言葉が出てこなかった。

納得し得る絵柄として提示された、双葉の沈黙の重みの構図。

「地続きなる生と死」という死生観を抱懐(ほうかい)する双葉にとって、「遂行すべき残された仕事」の履行なしに、昇天の向こうにある「絶対観念」(〈死〉は絶対的に観念である)のゾーンで安堵できないということなのか。

然るに、母娘の激しいバトルの後に開いたシーンには、驚きを禁じ得なかった。

体育着で学校に現れ、苛めグループの嘲笑を受けたあと、体育着を盗まれた一件を生徒たちの前で問う担任の教諭の前で、体育着をすべて脱ぎ、下着姿になった安澄が、苛めグループを告発する描写である。

特化したスポットと化した教室を占有する、このシーンを見せられて、思わず絶句する。

「制服、返してください」

体育着を着ることを促す担任の言葉に、嗚咽含みで強く反発する安澄。

「嫌です。…今は、体育の授業じゃないから」

この抵抗の結果、安澄が休む保健室の入り口に、制服が放り投げられていた。

明らかに、女子苛めグループの行動である。

このシーンは、完全にアウト。

双葉の人格の内面に潜入して、物語を繋いでいく作り手は、16歳の「思春期中期」(高2)の女子の心理と、苛めの問題の深刻さが分っていないのではないか。

苛めの問題の難易度の高さを客観的に理解できないのか、正直、苛めのシークエンスの描写に頗(すこぶ)る、違和感を抱いてしまった。

「苛められたら、やり返せ」と言う大人が、今でも我が国に多く散見されるが、誰も助けてくれる級友がいないクラスで、やり返すことは殆ど困難である。

―― 以下、「いじめ防止対策推進法」(2013年6月28日公布)より。

「いじめとは、子どもが、ある子どもを心理的、物理的に攻撃することで、いじめられている子の心や体が傷ついたり、被害を受けて苦しんだりすることです」(第2条)

「学校と先生方教職員は、関係者と協力しながら、いじめの防止と早期発見に取り組んで、そしていじめが起きていることがわかったら、すぐに動く責任があります」(第8条)

「自分の子どもがいじめられたときには、親は子どもを保護します」(第9条)

論なく、重要な条文である。

「いじめ防止対策推進法」
苛め問題の対応https://monitor.adish.co.jp/
イメージ画像https://yourbengo.jp/other/1178/
イメージ画像/「ソーシャルアクションラボこどもをまもる『いじめ』編」よりhttps://socialaction.mainichi.jp/cards/1/45
「スクールカースト いじめの温床 「女子は1軍、2軍、3軍に分かれている」」よりhttps://www.nishinippon.co.jp/item/n/413024/
苛めは犯罪である

私の定義によると、苛めとは、身体暴力という表現様態を一つの可能性として含んだ、意志的・継続的な「対自我暴力」のこと。

最悪の苛めは、相手の自我の「否定的自己像」に襲いかかり、「物語」の修復の条件を砕いてしまうことにある。

その心理的な甚振(いたぶ)りは、対象自我の時間の殺害をもって止(とど)めとする。

時間の殺害の中に苛めの犯罪性があると、私は考えている。

まさに、安澄への苛めは、「自分は苛められる弱い人間」という、彼女の「否定的自己像」に襲いかかり、その繊細な自我への継続的暴力性によって、「再生的立ち上げ」の時間を破壊し、「物語」の修復の条件を砕いてしまう風景を曝していた。

問題解決能力の欠片(かけら)を持ち得ない安澄に可能だったのは、「親は子どもを保護」(第9条)するという条文のように、一時(いっとき)、「乳母日傘」(おんばひがさ)に入り込んで、「対自我暴力」から身を守り、親を経由して、「すぐに動く責任」(第8条)を持つ学校関係者に救済を求める以外にない。

それもまた勇気のいる行動だが、敢えて社会問題化しない限り、苛めの被害者の自我を壊すことのない手立てを確保することは難しいだろう。

このような勇気のいる行動への振れ具合が、「自分は苛められる弱い人間」という「否定的自己像」を希釈化し、青年期の最も重要な発達課題としての、自我の確立運動に架橋していくことが可能になると、私は考える。

私たちは、「苛めの犯罪性」を認知すべきである。

このように考えれば、苛めの問題に対応する「スクールソーシャルワーカー」の増員が切実な状況下にあって、双葉の言葉を思い起こしながら、下着姿になる安澄の行為は、作り手の理念系の暴走であると言う外にない。

スクールソーシャルワーカー
スクールソーシャルワーカー

その後、「安澄の下着姿のレジスタンス」が学校中に噂が広まり、「変人」とラベリングされ、忌み嫌われ、「苛められて当然」という暗黙の了解が生じる危険性すらある。

大体、親の叱咤によって、自らの壁を破り、こうした大胆な行動に振れるくらいなら、安澄が恒常的な苛めを被弾する事態にはならなかったであろう。

但し、人間の奇怪な行動の多くがゼロであると言い切れないように、安澄の行動もまた、「殆ど困難」だが、ゼロではない。

そこに極論が生まれる。

これが、人間社会の現実である。

だから、この映画は「極論の渦」となる。

「極論の渦」となって、観る者に押し寄せてくるから厄介だった。

ともあれ、この一件で提示された伏線は、物語展開の中で全く回収されることがなかった。

既に、「制服、返してください」という雄々しき啖呵(たんか)それ自身が、安澄が負う「不幸」という記号の自己完結点だったという訳である。

本篇は、登場人物が抱える記号化された「不幸」が、「スーパーウーマン」の魔法によって、すべてフィードバックされ、その「スーパーウーマン」の懐(ふところ)に収斂されていく。

学校に呼ばれて、担任の教諭と話した後の帰り
制服を取り戻した帰路、心配して、母が待っていた
「お母ちゃんの遺伝子、ちょっとだけあった」

「スーパーウーマン」の昇天が自給した「湯を沸かすほどの熱い愛」によって、それぞれの〈生〉のスポットの生命の滾(たぎ)りの中で「純化・再生」していくのだ。

【後述するが、安澄が負った「不幸」という記号の重大な伏線は、物語の後半に回収されることになる】





2  「スーパーウーマン」の魔法にかかれば、すべてが変わる





記号化された「不幸」を負い、早々と、「スーパーウーマン」の魔法に吸収され、フィードバックして義母の懐に収斂されていく鮎子のエピソードの違和感は、鮎子の不自然なセリフのうちに集中的に表現されていた。

鮎子
父・一浩の連れ子の鮎子は母に捨てられるが、「必ず迎えに来る」という母の言葉が忘れられず、自らの誕生日に、元のアパートの部屋の玄関で待っているのだ。

心配して迎えに来た双葉に諭(さと)されて、帰宅した鮎子は、食事の場で嗚咽しながら吐露していく。

「これからは、もっと、もっと、一生懸命、働きます…どうか、できればで良いのですが…この家にいたいです…でも、でもまだ、ママのこと、好きでいてもいいですか」

鮎子
ここでも、鮎子の「不幸」を、カタストロフィーの水際で食い止める双葉の魔法は健在だった。

だが、どうしても受容できない。

このセリフに対する、消しがたい違和感だ。

敬語を使って思いを吐露する鮎子の涙が、双葉の魔法に吸収されて、安澄と同様に万事解決するが、この描写の設定の違和感は、先述したように、エピソード繋ぎの「横滑り」の情態の組成に起因する。

これ以上の「深堀り」はあっさり捨てられるから、観る者との間に予約された感動をたっぷり贈り届け、自己完結的に終焉する。

【ついでに書けば、映画の感動は、単に、観る者を泣かせることで生まれるのではなく、映像総体の「深堀り」された完成度の高さが、観る者の琴線に触れることで、いつまでも脳裏に焼きついているような心的現象であると、私は考えている。例えば、ミヒャエル・ハネケ監督の映画は、「タイム・オブ・ザ・ウルフ」のラストシーンを除けば、涙腺が緩むことがなかったが、全ての作品に深く感動し、細微に至り、脳裏に深く焼きつき、生涯、忘れることがないだろう。「深堀り」された完成度の高さが、私の琴線に触れるからである】

タイム・オブ・ザ・ウルフ」より

懲(こ)りずに観ていくと、次々に現出する、「不幸」の洪水の連鎖に馴致(じゅんち)していく外になかった。

かくて、二人の娘を随行させた、双葉の「覚悟の旅」が開かれる。

ここで、「覚悟の旅」は、横道に逸(そ)れる

この旅で出会ったヒッチハイカーもまた、「不幸」を背負っていた。

否が応にも、双葉の魔法が求められる。

もう、殆ど約束済みの展開である。

「今の母は3人目で、産みの母は一人目で顔も知りません。腹違いの弟が二人で、父は建設会社の社長で相当な資産家です」

目標のない旅を続ける「最低」(双葉の言葉)の青年を唐突に抱擁し、双葉は件(くだん)のヒッチハイカーに具体的な目標を提示する。

「あなたはこれから、日本の最北端を目指すの。それが、たった今のあなたの目標」

双葉の言葉には、人を魅了するような格段の表現力がある。

仰々(ぎょうぎょう)しく言えば、人生の目標を手に入れられず、冥闇(めいあん)の杜(もり)を漂動(ひょうどう)するヒッチハイカーの青年の心を揺さぶり、振り動かすに足る表現力が双葉に存するのは、青年自身の内側に、それを求める思いが隠し込まれているからである。

双葉の言葉が有効なのは、このような類型を示す対象人格にこそ嵌(はま)るのか。

ヒッチハイカーの青年にとって、双葉の人格が格好のロールモデルであったということ。

そう考える外にないだろう。

ヒッチハイカーの青年と安澄、鮎子
観る者は、この「横滑り」のエピソードが伏線と化し、最後に回収されることを容易に見抜いている。

それが、作り手と観る者との黙契(もっけい)になっているからだ。

そして、「覚悟の旅」の最終到達点が映像提示される。

場所は、タカアシガニで有名な西伊豆戸田(?)。

西伊豆から間近に富士を見る
タカアシガニを食べる安澄と鮎子

ここで、食堂で働く聾唖者(ろうあしゃ)に会いに行った、双葉の異様な行為がワンカットで提示される。

会った瞬間、平手打ちを食らわすのだ。

このシーンの意味も不可解である。

敢えて書けば、「母親に捨てられた子」という、恒久に消えない心的外傷を負う双葉自身の「不幸」が、赤子の鳴き声も聞こえない19歳の聾唖者にとって、愛情を自給できずに、安澄を捨てた不徳の行為にオーバーラップされたと捉えるべきなのか。

「皆さん、お元気でお過ごしでしょうか?今年も良い高足ガニが獲れましたのでお送りします。4月25日、酒巻君江」。

酒巻君江
タカアシガニを贈ることを決まりにする聾唖者・酒巻君江の行為は、それ以外にない、彼女の贖罪意識の発現であった。

この代償的行為の意味を理性的に理解できるが故に、双葉は安澄に手話を習わせたのである。

その安澄に、双葉が安澄の実母ではなく、酒巻君江こそが実母であるという事実を伝えること。

そして、安澄を酒巻君江に会わせること。

これが、双葉の「覚悟の旅」の目的だった。

双葉の告白に驚愕(きょうがく)し、その衝撃が癒えぬ精神状態の渦中で実母と会い、手話で会話を交わす安澄。

双葉の告白に衝撃を受ける安澄
実娘・安澄と会って、号泣する酒巻君江
実母・酒巻君江との関係を経由し、自立していく安澄

この縁を転機に、少しずつ心理的・物理的距離を縮めていく風景が、画面一杯に「救済」の絵柄が占有する。

ここでもまた、「不幸」が削り取られていくのだ。

障害と養育遺棄という、複数の「不幸」を負った酒巻君江の出現は、この映画の作り手が、これでもかとばかりに繰り出してくる、「不幸」の洪水の連鎖の頂点を極めたシーンとなった。

「不幸」を削り取れば、「純化・再生」だけが待機する。

同時にそれは、酒巻君江の「純化・再生」を遂行した、双葉の魔法の終焉のシグナルを意味する。

「遂行すべき残された仕事」を履行した双葉が、いよいよ、膵癌患者の本来的な「緩和ケア」の初発点になっていくのである。

イメージ画像/緩和ケア病棟

しかし、この映画は、最も肝心な問題の解決の不履行の現実を、観る者に突き付けてくる。

双葉を遺棄した実母との再会である。

これは、私立探偵によってもたらされた。

実母の住所が特定され、その中枢点に「緩和ケア」の渦中にある脆弱な身体を運んでいくが、完璧に拒絶されるに至った。

魔法をかける「スーパーマン」の不在。

「絶対存在」にまで昇りつめた特定他者の不在。

だから、子供じみた、一脈(いちみゃく)のリベンジで済ますのが精一杯だった。

その現実を全身で受け止める。

「地続きなる生と死」という死生観を埋め込んだ自我が朦朧(もうろう)と化し、朽ちるまで生き切った身体が天空を舞い、昇天の赤が「小宇宙」を染め抜き、暖気を吹き込んでいく。

「血縁家族&血縁を超える家族愛」という「小宇宙」。

「不幸」を「純化・再生」に反転させた「小宇宙」が、自らの「物語」のサイズを壊すことなく、縦横無尽に旋廻(せんかい)するのだ。

記号化された「不幸」の外延の初発点である双葉こそが、それらを集合させた「不幸」の収束点だった。

だから、その魔法によって、贈り物を届け、「純化・再生」させてきた対象人格から格別の贈り物を受けることになる。

一浩の必死の努力の結果、具現した「人間ピラミッド」。


病室から「人間ピラミッド」を見て、号泣する双葉

そこには、子連れの私立探偵もいる。

思うに、この私立探偵も、妻と死に別れた「不幸」の記号を負っていた。

「あの人のためなら何でもして上げたいって思うっていうか…多分、それって、その何倍もしてもらってるって、思えてるんじゃないかなーって」

彼もまた、子連れの苦労を癒された人物の一人。

そして、日本の最北端にまでヒッチハイクして戻って来た青年も、その輪の中にいる。

「すごい人だな」

ヒッチハイカーの青年のセリフだが、これもアウト。

こんなセリフを放ったら、お涙頂戴のテレビドラマと同質な代物ということになるだろう。

登場人物のすべてが、何某(なにがし)かの「不幸」の残渣(ざんさ)を、「スーパーウーマン」の魔法で濾過(ろか)し、「純化・再生」という時間に繋ぐヒューマンドラマの底なしのナルシズムに、もう、手も足も出ない。

正直、軟着点を確保できずに立ち竦(すく)んでしまうのだ。

てんこ盛りのシナリオ。

引き算ができない構成。

繊細さが欠ける演出。

「横滑り」の映画の宿命である。

だから、俳優の演技によってのみ支えられただけの凡作だった。

四の五の言わせぬ、問答無用の、一遍のファンタジーだった。

或いは、「地続きなる生と死」という死生観を嵌め込んだ感のある、ラストシーンの映像提示だけを拾えば、出来の悪いホラー映画と言ってもいい。

そう考えれば、振り上げた拳の行き場に困ることはないだろう。

「スーパーウーマン」の魔法にかかれば、すべてが変わる。

このサブタイトルこそ、「号泣絵柄」全開の本作に最も相応しい。

母を看取る安澄
酒巻君江に視線を向けながら、母が倒れて不安に怯える2人の実娘を抱く一浩

出棺(霊柩車を運転するのは私立探偵)
双葉の遺体を銭湯に残した行為の是非について会話する一浩と私立探偵

双葉の遺体を焼却する拓海(ヒッチハイカー)

その湯で入浴する安澄と鮎子

中野量太監督
(2019年12月)