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2026年4月4日土曜日

あの娘は知らない('22)   小さくも、欠くべからざる旅  井樫彩

 


深く心に残る映像センスが(まばゆ)い秀作。感動もひとしおだった。

 

 

1  「どんなに分かり合えた人と出会えたと思っても、誰とも分かり合えない絶対の孤独があるんじゃないですか」

 

 

 

幼くして家族を亡くし、海辺の町にある旅館・中島荘を営む中島奈々以下、奈々)は、休業中の9月上旬、一人の青年・藤井俊太郎(以下、俊太郎)が「どうしても泊まりたくて」と言って訪ねて来る。

奈々

「怪しい者ではないです。大切な人が亡くなりまして。この旅館に泊まってたみたいで。…恋人が…恋人がこの街で死んで、ここに泊まってたようで…」 

俊太郎

共に喪失感を抱える奈々と俊太郎との初めての出会いである。

 

「あのぅ、何か教えてもらえませんか?どこへ行ったとか。どんな話してたとか…何でもいいんです」

「あなたみたいに突然いらして、荷物も殆ど持ってなかったので、不思議な人だなという印象がありました。あとは笑顔…笑顔が印象的でした」


「そうですか…」

 

その夜。

 

一人で海の方に向かう俊太郎と、それを見る奈々。

 

翌日の夜も海に行く俊太郎と、その傍らに座る奈々 


煙草を吸う二人。

 

恋人が死んでから煙草を吸い始めたという俊太郎。

 

その恋人が奈々に、初めて煙草を吸った時の話を聞かされる。

 

唯子(ゆいこ)なんて」と俊太郎。

「口をすっきりさせたくて」と奈々


「知らなかった」

「知らない人の方が言えることってありません?」

 

二人はその後、スナックに入るが、奈々の同期生らが奈々がレズであるという話を聞かされた俊太郎は不快のあまり、奈々を連れて海に向かう。 


「俺ねぇ、唯子がどこに行ったのか、探しに来たの。警察が大体、どこへ行ったかを調べて遺族に教えてくれるものだけど…唯子の親にあまりよく思われてなくて、何も教えてくれてなくて…唯子がさ、この街に来ていること自体、知らなかった…普通に仕事してるのに、連絡も取ってないし…付き合ってても…こんなに好きでも知らないことだらけだ…」


そう言うや、海に向かってずんずん歩いていく俊太郎。

 

そのあとを追う奈々。


海水をかけ合う二人。

 

「しっかりして下さい」と言って、泥酔した俊太郎を抱えるように歩く奈々。

 

路傍に倒れ込んでしまう二人。

 

奈々さん。それ唯子に似てる」

「…あたし、好きでもない男の人としたことあるんですよ。その時、私に好きな人がいて…彼にも好きな人がいて…お互い叶わない恋をしてた…ねぇ…してる時に、私は好きな人のこと考えてて…でも彼も好きな人のこと思ってて…その時、一番愛を感じたんです…お互いが誰かを想う…その想いが二人の中にしっかりあったような気がして…分かります?」 


「…分かる」


奈々は俊太郎に優しく唇を重ねる。

 

翌日、地元に詳しい奈々を随伴し、恋人の足跡を辿る俊太郎のが拓かれる。

 

「俊太郎さんは唯子さんの、どんなところが好きだったんですか?」

「手を離したらどっかへ行っちゃいそうな、掴もうとしても掴めないところが好きだった。変な奴だったんだよ、あいつ」


ロープウェイで頂上に上った二人。

 

「この街を出ようと思ったことは?」

「ないです。逃れられないような気がするの」


「逃れられない安心感というのがあるのかな…」

「俊太郎さんって何を考えてるかよく分からないけど、たまにちゃんとしたこと言いますよね…そういうところが唯子さんが好きだったんですかね

 

その夜、先日のバーに行き、マダムに唯子のことを聞く俊太郎 

「ちょうど1年前くらいかな。その時も奈々ちゃんと一緒に。奈々ちゃんがここに来るのに、誰かと一緒にいるの珍しいから」

「奈々さんも来たんですか?」

「そうよう」

 

夜の雨の中二人。

 

「好きな人と会ったんですよ、昨日…高校の時のこと、謝られて。それから、子供作ったら変わるよって言われました。愛とか恋とか、家族持ったことないから。私には女が分かんないんだよ。笑っちゃいました。やっぱり街なんか出るんじゃなかった。そもそもなんで来たんですか」


「えっ」

「誰かが私の前に現れなければ、静かに一人でいられたのに」

「変わりたいから変わったんじゃないの」

 

湯船に()かっている。

 

「奈々さんいる?俺ねぇ、子供作れない体なの。昔、大きくなった時、うちの親が検査しろって、唯子だけするわけいかないから俺もした。したらさ、こんなことある、どっちも子供持つなんて難しいって…泣かれたよ、養子でもいいじゃん、それでも俺は幸せだよって言っても首を振って泣くだけ、初めて見たんだ…泣くの…4年間も付き合っててさ、初めて見た…奈々さんと別れた後、昨日のスナックに行ったんだ。唯子とこの街、回ってたの?」


「はい…どうして黙ってたのって聞かないんですか?人は知られたい生き物なんですって。本当のことを知って欲しかったのかも…唯子さんも…唯子さんはこの街で死んでません。行きますか、唯子さんが亡くなったところ」
 


以下、漁船の中での奈々の言葉。 

唯子さんが初めて来た時、明るくて、元気で。私とは正反対の人だった。葬式に行った夜に唯子さんがベランダに立っていて、そのまま死んじゃうんじゃないかって顔してて、二人でベランダで煙草吸っていて、次の日から、私が街を案内しました」 



初島という小さな島に漁船が着いた。

 

「唯子さんのこと。言わなくてごめんなさい」

「俺、あんなに知りたかったのに、今、知りたくない気がする」


以下、初木(はつき)神社(じんじゃ)に行き、「初島の伝説」について語っていく奈々。

 

「昔、初木姫という姫がおり、ある時、伊豆沖で遭難してしまい、一人でこの小島に漂着してしまいました。姫は毎日海辺を彷徨って、対岸に人がいるのだろうかと、焚火を焚いて合図したところ、伊豆山伊豆(いず)山彦(やまびこ)という()(がみ)がこれにこたえました。姫はこれに力を得て、橋を作って伊豆へ渡りました。そして二人は出会いました。伊豆山に渡った姫は山に登り、木の中に住む二人の子供を見つけて育てました。その子供が成長し、二人は夫婦となり、やがて子孫は繁栄していきました」

 

【初島とは熱海からフェリーで30分の小島。初木神社がある。初木姫伝説については、「知る ―― 初島の伝説】を参照」】

 

「最後に会った日。養子でもなんでもとって、私は幸せに暮らしていくよ。とても笑顔で。もう少しこの島に残ると。それからは私も知りません…唯子さんが死んだ理由は俊太郎さんとか子供とか、そういうんじゃなくて、別に理由があったんじゃないですか。どんなに分かり合えた人と出会えたと思っても、誰とも分かり合えない絶対の孤独があるんじゃないですか」



明日からの営業開始に向けて従業員が戻って来た。

 

奈々の両親が亡くなった場所で花を供え合掌する二人。

 

ベテラン従業員の横田が俊太郎を手招きして語っていく。

 

「しかし、奈々ちゃんが休みの日にお客さん、泊めちゃうんなんてなぁ。いいや、むしろ良かった。ご両親とお祖母ちゃん亡くしてから、ずーと遊びもせず、一人だったから」

 

その夜。

 

俊太郎の誘いで奈々は浜辺に出向く。

 

「結局さぁ、ここに来て分かったのは、俺は大バカ者ということだよね。唯子のこと、何も知らないで幸せになろうなんて」


「その優しさに唯子さんは救われてたんだね…私だったら幸せだったかも…」

「何だ、それ」

 

そう言って、二人は海に向かって歩いていく。

 

キスする二人。 


次の日の夜。

 

奈々は啜り泣いている。

 

「…本当は…お母さんと…もっと…なんでお祖母ちゃんまで死んじゃったの…お互いがんばって生きようっていったじゃん…唯子さん…なんで(みんな)、置いていくの…」


ここで、懸命に押し殺していた感情が、静かに、しかしそれだけは共有したい思いを止められず、万感の思いを込めて吐き出されてしまうのだ。

 

奈々の手を優しく握る俊太郎。

 

奈々の両親が亡くなった場所で花を供え合掌する二人。 


ラスト。

 

翌日、俊太郎は奈々と別れを告げ、〈祈り〉を花言葉にするサンダーソニアの花を部屋に置いて、帰途に就く。



 

 

 

2  小さくも、欠くべからざる旅

 

 

 

グリーフを抱える二つの苦哀(くあい)なる魂が出会い、寄り添って、存分に吐き出していく。

 

吐き出した分だけ鎮まると信じて吐き出していく。

 

魂が昇華されていくのである。

 

そう信じられる者は、もう、吐き出す相手が誰であろうと魂の昇華を時間に委ねられるだろう。

 

その時間を内的時間と呼ぶが、この内的時間に委ねて昇華できる魂が内包する苦哀の多くは、救われるべくして、そこにいる。

 

内面の成長を促すエンカウンターグループのようなグループセラピーが求められる所以である。

 

グループセラピーの大切さが分からない者は、そこに参加するほどの胆力(恐怖支配力)が不足しているか、レジリエンス(精神的回復力)が特段に秀でているか、或いは、人の心の問題の複雑さに無関心であるかのいずれかであろう。

 

【エンカウンターグループとは、アメリカの臨床心理学者カール・ロジャーズが開発した集団心理療法で、相互に真摯に語り合うことで個人の成長を促していく手法】

 

ところが内的時間をどれほど積み重ねても、そこに容易に届き得ぬ苦哀なる魂は、苦哀の重さに押し潰される危うさを抱え込んでしまっているが故に、世俗の乾いた空気に弾かれて呼吸を繋ぐ余裕を拾えないのだろう。

 

そんな只中で、恋人の死因が分からず、一方的に相談を受ける主人公の奈々にとって、激甚なトラウマを浄化できず、対人視線の恐怖から街への移動を拒み、引きこもり状態の如き日々を送る情態は克服すべき何かだった。

 

唯子との相応の接点があることで逃げられない状況下で、唯子の自死の地・初島を案内し、両親の交通事故死(恐らく)の深淵な場所をも案内する奈々。

 

「誰かが私の前に現れなければ、静かに一人でいられたのに」

 

奈々はそう言ったが、休業中なのに一人で旅館を守る奈々に待つ運命の巡りあわせは、決してネガティブなランドスケープに振れなかった。


にも拘らず、案内をされた俊太郎は、愈々(いよいよ)、途方に暮れる。

 

「俺、あんなに知りたかったのに、今、知りたくない気がする」

 

自分の想像の範疇を越える情報のカオスに打ちのめされて、恐怖支配力の脆さを露わにしてしまう。

 

今や、何事においても知ったつもりになってしまう人間特有のギミック(手品)に逃げられない俊太郎の脆さは、心情的によく分かる。

 

そうでもしないと不安が増幅するだけだからである。

 

内なる不安を払拭するために毎晩、海に出て大自然の(ふところ)(いだ)かれるのだ。

 

恋人のことを何も分かっていなかった自らの愚を責めるのである。

 

「結局さぁ、ここに来て分かったのは、俺は大バカ者ということだよね。唯子のこと、何も知らないで幸せになろうなんて」

 

浜辺での吐露である。

 

「唯子さんが死んだ理由は俊太郎さんとか子供とか、そういうんじゃなくて、別に理由があったんじゃないですか。どんなに分かり合えた人と出会えたと思っても、誰とも分かり合えない絶対の孤独があるんじゃないですか」 

 

これは初島から戻るフェリーでの奈々の言葉。

 

システムを構成する部分的要素が分かっても、システム全体を理解しているとは言えないという考え方がある。

 

一言で言えば、「全体は部分の総和以上のもの」であるということ。

 

「ホーリズム」という社会学の重要な概念である。

 

これを人間の問題に援用すれば、一人の人間の部分的要素を理解し得たと思っても、それは対象化された人格総体を解釈したことにはならないということである。

 

俊太郎が知ると信じる唯子は、彼女の断片であって、その人格総体ではないということ。

 

俊太郎が打ちのめされたのは、彼が知る唯子の断片もまた、正鵠(せいこく)()たものか分からないという峻厳(しゅんげん)たる現実だった。

 

これは正直辛い。

 

この辛さを突き付けられた若者は、唯子に関わる一連の情報を相対化できずに煩悶する。

 

然るに、「誰とも分かり合えない絶対の孤独」という言い回しは決して辛辣な表現ではない。

 

人の感情はあまりに複雑であるのは真実であるからだ。

 

一つの出来事に対して、複数の人間が複数の感情を(いだ)くのは、あまりに当然すぎることなのだ。

 

同時に、一人の人間の感情もまた、自らに関与する状況に困惑し、複層的に入り乱れて整理がつかない様態を示すことも往々に存在する。

 

だから人間の感情の複雑さは、複数の感情が同時に存在したり、感情が時間と共に変容するから起こると言っていい。

 

それは主に「快・不快の原理」を重視し、喜び・怒り・悲しみ・恐怖など、生来的に備わっている「一次感情」で動く子供と異なり、「損・得の原理」・「善・悪の原理」を重視し、一次感情の複合性の所産であったり、価値観や人間関係など社会的・文化的要因が加わることで起こる「二次感情」の場合、大人になっていく過程での形性的感情なので、感情が複雑になっていくのは自明の理なのだ。

 

自らが認知する世界が増えれば、「正・不正」を問わず、隠しごとが多くなり、「自分だけの世界」が自然に生まれるのは不可避なのである。

 

従って、社会システムに従属せねばならない二次感情だけで生きていくのは疲弊する。

 

好きなように生きていると思われる子供の物理的・精神的時間が羨ましいと思ったりするだろうが、子供には子供の規範がある様態を知るのもまた、大人になって気づくことなのである。

 

唯子の「分かりにくさ」を「絶対の孤独」と呼んでもいいが、それは、「唯子の世界」が表現された結果でしかなく、皆、それぞれ〈私の世界〉を生きているのである。

 

ーー ここで本稿を総括する

 

「…本当は…お母さんと…もっと…なんでお祖母ちゃんまで死んじゃったの…お互いがんばって生きようっていったじゃん…唯子さん…なんで(みんな)、置いていくの…」

 

この奈々の嗚咽含みの表出は、ようやく思い切って吐き出した彼女の、それ以外にない表現だった。

 

吐き出した分だけ楽になった。

 

真摯に耳を傾けてくれる者がいたからだ。

 

これを吐き出させた俊太郎も、その思いを素直に受け取って、ベクトルを変えて内的時間をより深めていくだろう。

 

自らに張り付く心的外傷を相対化できたからである。

 

語る者と耳を傾けてくれる者が手を繋ぎ、時間を獲得したのだ。

 

それはいつしか、失った時間より有価値な何かとして彼らの中に息づいているかも知れない。

 

だから、悲観的に解釈する必要性は全くないのだ。

 

奈々の感情表出はまた、いつしか「逃れられない安心感」を脱却するだろう。

 

そこに一筋の希望が垣間見える。

 

俊太郎の「小さくも、欠くべからざる旅」は今、この地で自己完結したのである。 


(2026年3月)

 

2026年3月25日水曜日

道化師の夜(‘53)   自尊心の崩壊と、掻きむしられる屈辱感の行方  イングマール・ベルイマン

 


1  「逃げ出したい。銀行に預金を持ち、尊敬できる妻と暮らしたい。善良な市民として」

 

 

 

アルベルトを団長とする巡業サーカス団(アルベルチ・サーカス)が豪雨に見舞われて、サーカス団はサーカス小屋を作るのに四苦八苦していた。


サーカス団長アルベルト


「給料は支払われず、食い物も底をついた。芸人の多くは着るものがない。あんたがつらいのはわかるが、天気はどうにもならん」


「動物に手をつけるしかない」


「やめて。そんなことしたら、あんたを殺すか、自分が死んだほうがマヒさ」

「どうする気だ、アルベルト。何とか言えよ」

「好きにすればいい。でも後悔することになる。アメリカのサーカス団は各地を巡業し、バンドが演奏、象はラッパを吹く。誰もが笑顔にあふれ、通りに列を作った人々は喝采を送り、がなり声が、その夜の興行を告知する。ワゴンも馬を捨てるな。最高の衣装を着るんだ」


「衣装は置いてきちまった」

「残ってるのを使えばいい。エクバーグが舞台に立ち、アントンは進行役だ」

「悪くないな」と反応するサーカス団員ら。

 

これで、一気に盛り上がるサーカス団員。 


アルベルトのサーカス団が辿り着いた町は、妻のアグダと二人の子供を残して来た懐かしの町だった。


アルベルト帰郷に嫉妬するのは、アルベルトの愛人のアン。

 

若い女曲馬師である。

 

「私を捨てないでね」 

アン

アンの一言に、「心配するな」と答えるアルベルト。 


近くにいるサーカス団長のシェベルイに衣装の借用を頼むアルベルトに対して、「いくら払える?」と問う。

 

「いくらなら?」とアルベルト。

「払えぬほどの額」とシェベルイ

「なぜ侮辱を」

「我々は互いに恥知らずなくず集団。侮辱くらい堪え忍ばねば。我々は芸術を、あなた方は策略を練る。最善を尽くしても、我々はツバで返す。なぜか。あなた方は生活に、我々は誇りに命にかけている」  


そう言いながら、シェベルイはアンを気に入ったからか、「あんたの勝ちだ。衣装は必要なだけ持っていくがいい」と言うのみ。 


そのアンは他の劇団員のフランに言い寄られるが、「ひざまずいて。床に頭を打ちつけて」などと、屈辱的な言葉を浴びせるばかりだった。 

フラン

興行の宣伝で賑わう町。 


「あなたを失ったら私はどうなるの」


愛してるよ」

「いえ、愛してないから奥さんと会うんだわ」

 

繰り返される問答に嫌気が差して、「勝手にしろ!」と言って小屋を出て行ってしまうアルベルト

 

3年ぶりに自宅に戻ったアルベルトに妻のアグダは冷たかった。

 

「あなたは子供を叱り、私はいつも怯えていた。つらい年月だった」

「なぜ黙ってた」

「愛していたから」

「過去のことだ」

「初めは夢中になり愛に変わった。でもあなたがいなくなると、ひと晩ですべてが消えた」


「捨てたのではない。お前は聡明で俺はだらしない…ここは静かだ。変わらない夏も冬も。年が移っても、すべてそのまま」


「私は満たされている」


「俺は空虚なまま」

 

その頃、アンは若きフランを篭絡(ろうらく)しようとするが、逆に手籠(てご)め状態となる。 

 

一方、アグダの家では、アルベルトは自分の思いの全てを、意を決して打ち明ける。

 

「君とやり直したい。年なのでサーカスはムリだ。戻りたくない。ここで静かに暮らし、2人で子供を育てよう…君は黙ったままか」


「何と言えば?」

「一緒に暮らすこと」

「いいえ、それはお断り。自由や平穏な心を奪われるのはごめんだわ」



帰路、アンを見て彼女の不倫を疑うアルベルトは激しい口論となる。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     


フランに脅されて彼と寝たことを告白したアンに対して、アルベルトは突き放つ。

 

「お前は奴に会いに行った。サーカスにも俺にもうんざりしてたからだ。俺たちはおしまいだ。地獄に堕ちるしかない」 


そこに道化師のフロストが、「今夜のショーは評判になるぞ」と言いながら入って来た。

 

そのフロストに向かってアルベルトは吐露する。

 

「振り返ってみたが、誰ひとり憎んじゃいない。アンだって。不貞を働いたが。なのにお前は俺を嫌う。誰よりも自分を嫌ってるが、俺は人間が好きだ。誰にもやさしい。恐れてもいない。サーカスの地方巡業も好きじゃないんだ。逃げ出したい。銀行に預金を持ち、尊敬できる妻と暮らしたい。善良な市民として」


ここまで言った後、アンの顔を見て言い放つアルベルト。

 

「アン。お前はそんな妻にはなれん」


人生に絶望したアルベルトは拳銃を取り出し、自殺しようと図るが無理だった。



そして迎えた巡業の夜。


道化師フロストの滑稽な演技が客席を楽しませるが、その後、出て来たアンの曲馬の演技でフランの声援に気づいたアルベルトがフランを睨みつけ、フランも睨み返した。 

アン
 


【曲馬とは馬を操る芸のこと】 



アルベルトがフランを鞭で彼の帽子を叩(はた)き、その帽子を取りに来たフランと対決の運びとなる。

 

この対決を主導したのは衣装を無料で貸したシェベルイだった。 


2人は取っ組み合いになり、一方的にやられっぱなしのアルベルトが倒されてショーは終焉するに至る。
 


アンがフランに向かっていったのはこの時だった。

 

見知らぬ女性をフランが随伴させていたことへの怒りだろう。

 

打ち拉(ひし)がれたアルベルトと、アルベルトを案じるアン。 


アルベルトは小屋に籠って、拳銃(リボルバー)に1発だけ実弾を装填するロシアンルーレット(1回目で当たる確率は約16.7%)て銃の引き金を引くが、外に向かって発射した3度目で音が出て、思わず銃を手放した。 


直後、心配したフロストが「アルベルト、死んだのか。生きてるんだな。ドアを開けろ」と叫んだ。 


「放っといてくれ」とアルベルト。

 「わかった。知らんぞ」とフロスト。

 

自殺を決行できなくて惨めさを存分に味わったアルベルトは今、劇団員がいる戸外に拳銃を手に持って出て、アルマが可愛がっている熊を射殺した後、馬の厩舎で号泣する。 


アルベルトに寄り添うアンを随伴させ、再び巡業の旅に出る一行。 



 


2  自尊心の崩壊と、掻きむしられる屈辱感の行方

 

 

 

初老のサーカス巡業団長アルベルトは、今や拠って立つ〈生〉の基盤が崩れかかっていた。

 

「君とやり直したい。年なのでサーカスはムリだ。戻りたくない。ここで静かに暮らし、2人で子供を育てよう」 


3年ぶりの帰還によって、ここまで言い切った男に、「いいえ、それはお断り。自由や平穏な心を奪われるのはごめんだわ」と一刀両断で切り返す妻アグダ。 


加えて、「初めは夢中になり愛に変わった。でもあなたがいなくなると、ひと晩ですべてが消えた」と言われたの存在価値は、「ひと晩ですべてが消え」る何ものかでしかなかったのだ。 


決定的な一撃を受け、男には反論の余地がない。

 

男はただ、「ここは静かだ。変わらない夏も冬も。年が移っても、すべてそのまま」の普通の生活を求めたに過ぎないが、「私は満たされている」という一言で処理されてしまう。 


もう、そこに平穏なコミュニケーションが成立しない。

 

「俺は空虚なまま」と漏らす男には何もない。

 

言葉も紡ぎ出せない。

 

私の大好きな「スケアクロウ」のライオンが戻るべき家にいる妻アニーから拒絶され、自我の崩壊を露わにしてしまったように、未来に通じる時間を丸ごと削り取られた悲哀だけが置き去りにされた。 

【「フランシス、子供のことは聞かないの?…死んだわ。死んだのよ…月も満たずに、あのあと、すぐ流産を…生まれもせずに。洗礼もなし。分かっているの?天国へ行けないのよ。あなたは自分の子供を闇から闇に葬った!天国へも行けない!」(「スケアクロウ」より)】

「スケアクロウ」より


ライオンの悲劇の破壊力は、男児か女児か、まだ見ぬ我が子のためにランプスタンドを後生大事(ごしょうだいじ)に抱えて帰還した行為そのものに垣間見える。 

「スケアクロウ」より

アルベルトが陥った悲哀もまた尋常ではなかった。

 

決して寄り道ではないその帰還のみに、自らの近未来のイメージを思い描き、身を賭(と)して恐怖突入した向こうに待っていた時間の苛酷さ。


「俺は空虚なまま」の陰鬱な時間が延長され、自業自得ながらアンにも裏切られ、アンを奪い取ったフランとの「決闘」では健壮感の圧倒的落差によって完膚なきまで粉砕される。 


自殺もできない男の惨めさだけが炙り出される物語はどこまでも暗く、救いもない。

 

自尊心の崩壊と、掻きむしられる屈辱感の行方。

 

アルベルトの裂(さ)かれた自我の重苦しさが描く世界に、一体、何が可能だったのか。

 

どこまでも貧しいサーカス巡業団が向かう時間の果てには、その日、生きる糧をも手に入れられず、パーソナルな躯体(くたい)を抱えて無残に散っていく未来像しか描けないのだ。

 

物語を貫流する自業自得に起因する自尊心の崩壊と屈辱感は、サイレントのようなエピソードで始まる冒頭の15分間の中で、既に充分に映像提示されていた。

 

それを簡単に再現してみる。

 

7年前のこと。

 

軍隊が海岸で射撃していたところに道化師フロストの妻アルマが通りかかり、女王のような振る舞いで、暑さで休む兵士らの注目を浴び、裸になって男たちと海で泳いでいた。

アルマ
 


その話を耳にしたフロストは、取るものもとりあえず海に向かった。
 

フロスト

その光景を見たフロストは兵士らに笑われながら、素足になってアルマを助けに行く。 


アルマを抱いたフロストは一歩一歩陸に上がって来て、焼石を踏みながら進んでいくのだ。 


誰も手を貸さない傍観者らに罵声を浴びせるアルマ。 


倒れて動けなくなったフロストをサーカス小屋の面々が援助に入り運んでいったというエピソードだが、何よりアルマの自業自得だったという結論に落ち着くのである。 


まさに物語総体を通底する自尊心の崩壊と、掻きむしられる屈辱感の行方。

 

その復元に支払う代償の重さが容易ではないことを暗示しているのだ。

 

(2026年3月)