

1 「修理は初めて?」「ああ」「シャイなのね」「いや、そうでもない」
台湾の首都・台北に暮らす3人を中心にした群像劇。
冒頭、中年男のフォンが車がエンストしてしまって、地下鉄に乗る。
| フォン |
別の地下鉄の中で、同じ集合住宅に暮らしているリー少年が、鳥が入っている箱を持つシューという女性に声をかける。
リーは「箱に入ってるのは鳥だよね?」と聞くが、「違うわ」と否定される。
| リー(左)とシュー |
なお執拗に「そうかな。鳥だよ」と言うリーに「後で教える」と答えるシュー。
「見てもいい?」と聞いても「後でね」
「絶対、鳥だよ。僕も前に飼ってた」
地下鉄から降りたシューは先に行き、その後を追うリー。
帰路が同じだからだ。
そんなシューの携帯に「ジョニーはいる?」という電話がかかってくるが、見覚えがないシューは取り合わない。
リーが気になって近づき、先に帰宅する。
自閉症スペクトラムと思しきリーは、常に母から行動指示のメモをもらっているが、これが気にくわず文句を言うが、「書かないと忘れるでしょ?」と返されるのみ。
またシューの鳥についても話すが、「シューさんは鳥好きみたいね」と一言。
帰宅途中のシューは、フォンから道を聞かれたので教える。
| フォンとシュー |
そのシューも帰宅する。
箱からインコを出して、「新しいお友達」と言って早速、ペットにする。
そこに彼氏から電話が入ってくる。
「月末に台北へ行く。ホテル君の部屋で。台中にも行くが、君も来るか?それと君の部屋へ会うなら頼みが。鳥は箱に閉じ込めてくれ。放し飼いは耐えられない」
インコのケージを準備しながら電話するシューは、「最近、変なことが」と言って、“ジョニーを出せ”という間違い電話が何度もかかってくる一件について話していく。
インコの水浴びさせているシューの所に、リーが母から頼まれたパパイアを送り届けに来て、掃除をすると言うリー。
甲斐甲斐しく鳥を世話をする中、空いた窓からインコが逃げてしまい、鳥のエサ入れを振って、口笛を吹きながら近所を探し回るシューが、ようやく見つけたインコを捕獲するためにリーの家に行く。
梯子を借りて現場に行くのである。
| 梯子を借りに来たシュー |
梯子を持つのは、リー一家を訪ねて来たフォンだった。
「鳳凰の頭の上?」とフォン。
【鳳凰は、中国神話に登場する伝説の霊鳥で、中国文化において最も縁起の良い鳥とされる】
シューが行っていたように、鳥のエサ入れを振ってリーが静かに上っていくが、捕獲できなかった。
| リー |
その後、シューは彼氏と重い話を繋いでいる。
「昔の部屋、空けてある。もしダメなら戻ってこい」
「何なの、それ」
「“もしも”の話だ」
「子供扱いしないで」
「そんなふうに思ってない。心配なんだ」
「私は元気にやってる」
「意地を張るなよ。また昔のように君を援助する。君は一体、何がしたい?」
何も答えられないシュー。
一方、車中生活を送るフォンは薄暗く静かな朝、ペットボトルの水を手に歯磨きした後、ベンチで物思いに耽っている。
何でも屋(便利屋)らしく、集合住宅の窓の修理に苦労しているフォン。
そこにシューが通りかかって、「動けないの?」と声をかける。
「重いから、ケガする」
「どうすれば?」
「誰か呼んできて」
そう言われたシューは人を呼び、手伝ってもらった。
「修理は初めて?」
「ああ」
「シャイなのね」
「いや、そうでもない」
その後も窓の修理を続けるが上手くいかず、シューは人を呼びに行く始末だった。
2 「心配ないさ。人との距離が近すぎると、愛し方も忘れる。だから大丈夫」
リーは池で数を数えて遊んでいた。
自転車で帰る時も、数を数えている。
雨が降ってきて慌てて走っているのだ。
そのあと、高架下の水溜まりの中を自転車で回ったり、歩いて遊ぶリー。
その雨の中、今度は集合住宅の雨漏りの仕事に専念するフォン。
それを見守るシュー。
ゲストハウス(簡易宿泊施設)の受付をしているシューは、手際よく顧客対応をする。
そんなシューだが、彼氏が台中から訪ねて来ても部屋の掃除を止めないのだ。
「何が忙しいんだ。台北で独りでいる君が心配なんだ。ずっと君を応援してきた。ヨガ教室や民宿の援助もしてきた。台北に戻りたいならそれでもいい。これからも援助は続けるつもりだ。君はどうしたい?」
「あなたは?何をさせたいの?」
「台北へ来る前に友人と食事した。君の話が…」
「その友人が見たそうだ。君が男と手をつないで歩いてたのを!」
「あり得ないわ。それで?」
「ラブラブな様子だったと」
「あきれた」
「反論を」
「何を言えって?何を聞きたい?」
「答えろ!」
「君が分からない。今回、妙に冷たい。何を考えてる?俺に不満があるのか?大事にしてるのに。全部、俺の金だろ?説明ぐらい…」
「何を説明するのよ!」
「分かるだろ?」
「何よ」
「新しい男か?君を理解してるのは俺だ。8年前…」
「王志偉。何様なの。私に何をしたか忘れた?愛よりお金を取って、パメラと結婚を。偉そうに」
引き攣った彼氏の顔。
瞬時にシューを押さえようとするが、それを跳ね除けて、外に出て行くシュー。
どうやら、ゲストハウスやヨガ教室の運営資金はシューの彼氏(王志偉)の出費のようである。
途中、フォンの車を見つけて、車内に入るシュー。
そこにフォンが戻って来た。
沈黙の中、車が動き出す。
フォンはシューを随行し、知り合いの家でご馳走になるが、そこで下膳を巡る父子喧嘩に巻き込まれる。
息子に下膳を命じながら動かない父を怒らせて始まった、他愛ない喧嘩を目の当たりにしたフォンはシューに語りかける。
「距離が近すぎると人は衝突する。あのお父さんは俺の高校時代の恩師だ。話が巧みで楽しい授業だった。高校で台北へ来てから実家に帰ってない」
「どうして?」
「子供の頃、両親が離婚したんだ。母が俺を抱きしめた。暑い夏の日で、俺を抱きしめる母の汗の臭いしかしない。母は俺に“そばにいて”って。たぶん心はボロボロだったと思う。それから1週間ほどして、母が“おいで”と。俺は呼ばれて部屋に入った。俺は10歳。“パパかママを選んで”。“ママがいい”としか言えなかった。本心では父だったけれど」
沈黙の間から、今度はシューが身の上話を切り出す。
「実は私には、娘がいるの。香港で小学校に通ってる」
「小学生?」
「7歳よ」
「恋しくなる?」
「時々はね。たまに電話する。当たり障りのない話だけ。“何してる?“学校は楽しい?おばあちゃんやパパは元気?”形だけの会話」
「心配ないさ。人との距離が近すぎると、愛し方も忘れる。だから大丈夫」
「気が滅入るよね」
「ごめんよ」
そう言われ立ち上がったシューは、「一緒に来て」と言ってフォンを誘う。
二人は夜景が眩い台北の橋を疾走する。
走り切った二人は欄干で哄笑するのだ。
一転して、リーの母は息子の未来を案じてか、憂鬱そうな表情でリーの帰宅を待っていた。
帰宅したリーに、「メモを見たの?」と聞く日常に変わりがない。
「見てないでしょ」
「メモは見たくないと言ったろ」
「見ないと何日も帰って来ないでしょ。今日はどこへ?」
「高架下のあの道」
それだけだった。
今やリーにとって、高架下はかけがえのない絶好のスポットだった。
その頃、シューは小学生の娘に電話していた。
「何してた?…あなたは毎日、楽しい?大丈夫?パパに“電話して”と。話があるの。愛してる。またね」
今、シューの肩には、鎖で繋がれたインコがいる。
夕闇の台北。
フォンの車内で、シューはいつもの間違い電話の相手をしている。
「もう知り合い気分。彼の奥さんや同僚がかけてくるから」
「会ったことは?」
「全然、知らない人。ジョニーって誰?」
「昔、ジョニーを名乗ろうかと」
「あなたが?」
「変かな?」
「そうじゃないけど」
「じゃ、何がいい?」
「そうね…ダニー」
「ダニー?カッコいいな」
「ピーター」
「それは却下だ」
「似合わないね」
「トミー」
「それも嫌だ」
ここで車がエンストしてしまう。
人の手を借りて、何とか車を脇に寄せようとする二人。
エンドクレジットの中にリー少年の後日談がインサートされていた。
「翌朝、父は私を急いで送り返した。私の家出が祖父を怒らせると心配し、飛ぶような速さで自転車を走らせた。後で知ったが、その道のりは8キロもあった。10歳の子供には、当然、遠い道のりだ」
そして、日常に戻ったリー少年の素顔がスケッチされていた。
リー少年の家族の実状が窺えるラストカットである。
3 非日常を紡ぎ出した関係の到達点
日常の中に異変が侵入してきて、非日常が生まれる。
非日常とは、通常の生活の中に通常の生活とは違う特別な状況が発現することである。
そこに見知らぬ他者との遭遇があり、その遭遇が通常の生活では見られない観念や行動様態に変化をもたらす何かであれば、広義の意味で非日常と化すとも言える。
取り立てて言うほどの事件が起きず、劇的なことは何もない本作だが、シューを中心に据えた3人の物語の中に3人相応のジレンマや葛藤が拾われていたことだけは事実である。
だから、彼らの日常が淡々とスケッチされた印象が強いが、それは数多のドラマが過剰なほどに刺激的なストーリーで埋め尽くされているから、そう見えるだけなのである。
それをドラマ性の強さと呼ぶなら、確かに本作は、ドラマ性が強い映画とは言えないだろう。
しかし、単なる日常性をスケッチした物語ではない。
大体、「単なる日常性」という表現とは何か。
刺激的なストーリーでなければ映画ではないという発想そのものが実益性を考慮した偏頗な観念ではないのか。
自閉スペクトラム症(ASD)と思われるリーの日々が単調で描くほどではないなどと、誰が言えるのか。
高架下での水溜まりとの出会いは、リーにとって何よりも大きかった。
水溜まりの中を自転車で回ったり、歩いて遊ぶリーの表情を描き出すことはなかったが、その嬉々とした表情は察してあまりある。
だから、日々、通っているのだろう。
観る者は簡単にパスしてしまうシーンだが、観る者がそこにリー少年の至福の世界を見出せるか否か、この一点こそが、この映画が受け入れられるかの試金石になる。
映画の真価が問われるのだ。
そこに非日常と出会ったリー少年の輝きを見るのである。
そして高架下に日々通うことで、「非日常の日常化」になる。
これがリー少年の日常と化していく。
日常とはそういうものである。
だから、特段に刺激的なストーリーなど不要だった。
この映画の生命線は、そこにある。
まして、「実は私には、娘がいるの。香港で小学校に通ってる」という告白から開かれるシューのトラウマの深さは、尋常ではない。
この尋常ではない告白を引き出したのは、出会ってまもないフォンだった。
車中生活者のフォンもまた、シューとの偶発的な出会いがなければ、過去の心的外傷をシューに吐露することがなかったに違いない。
思えば、この二人はインコを逃がしてしまった一件で近接し、窓枠や屋根の修理の事象を通して最近接していった。
それは決して、男と女の関係に変容しなかったからこそ、ありのまま・思いのままの表現交叉が可能だったのだろう。
それ故に、難しい関係に発展することなく、自在な表現交叉を具現化し得たのである。
特にシューの誘いで開かれた疾走シーンこそ、二人の関係の非日常を紡ぎ出したのだ。
これがエンストした車で四苦八苦するラストにまで繋がっていったのである。
二人の偶発的な出会いは、日常生活の延長から始まって、非日常の表現交叉を生んでいく時間をも作り出し、育んでいく善き関係を胚胎させていく。
それだけの関係でありながら、自分の娘への電話に振れるシューの思いのこもった行動に繋がったのである。
それは、非日常を紡ぎ出した二人の関係の一つの到達点だったのだ。
―― 以下、ホアン監督のインタビュー。
「人間というのは日常の循環というのがとても大事で、どういう目にあったとしてもそこに戻ってくる。例えばこの映画のラストで男の子がエンドクレジットの後にまたワンシーン出てきますよね。あのシーンで彼がまた日常の生活に戻り床に横になっているというところ。あれも彼の日常に戻ったということを表現しています」
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| ホァン・シー監督 |
リー少年の、とっておきの非日常の断片だが、最後は日常に戻っていく少年の生活時間を想起する時、もう、そこに加える何もない。

【台湾の首都・台北市はアジア太平洋における交通の要衝であり、また、高度成長している商業や経済貿易、そして、政治、文化、教育など様々な都市インフラが整備された、台湾の政治と経済の中心である。また台北は、歴史と現代が融合した魅力的な都市で、台湾の歴史を象徴する場所「中正紀念堂」や「龍山寺」といった歴史的建造物、高さ約509mを誇る台湾の街のシンボルタワー「台北101」に代表される近代的な高層ビル、美食がそろう活気あふれる「夜市」など、多彩な観光スポットが揃っている。他にも台北定番の観光スポットは世界四大博物館の1つ「国立故宮博物院」、レトロな街並みが残る「迪化街」台湾のベニスと呼ばれる港町「淡水」などが知られる】
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| 「台北101」を臨む台北市 |
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| 映画より |
(2026年4月)
















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