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2026年8月14日金曜日

聖なる犯罪者('19)   暴力と暴力の狭間に挿入された似非・司祭の「物語」  ヤン・コマサ

 


1  「楽園は遠く離れた場所ではなく、今、ここにある」

 

 

 

実話に基づく映画。

 

看守の目を盗んで、暴力が荒れ狂う少年院。

 

トマシュ神父の説教から開かれる。

 

「ミサを始める前に言っておきたいことがある。私は形式的に祈りに来たのではない。君たちもそうであることを願っている。渋々ここにいるのなら運動場に行けばいい。神は共におられる。この場にいる必要がないのなら。なぜ私たちはここにいるのだろうか?重要なものを思い出し、忘れずにいるためだ。私を含め、君たち1人1人がキリストの代弁者であり、絶えず祈るべきだ。“祈り”とは、すなわち“神との対話”だ。怒りや不安、恐怖などの今の感情を神に打ち明けるんだ。犯した罪についてでもいい。理解を得られる。聖歌でも?ダニエル」

トマシュ神父

神父の話を真剣に聴くダニエル

トマシュ神父の言葉に頷くダニエルが呼ばれて、聖歌を歌う。

 

ダニエルの仮退院の日、トマシュ神父に「もし、僕に神学校の入学資格があれば…」と思いを漏らすと、「犯罪歴があるから無理だ。良い行いをしたいのなら、他にも、たくさん道がある。できることをやれ」と言って激励する神父。


ダニエル小さな田舎町の製材所で働くことになった。

 

聖職者に憧れる彼は田舎町の教会に立ち寄るが、その教会にいた一人の少女マルタに「僕は司祭だ」と嘘をつくダニエル。

 

司祭服は?」と聞かれ、司祭服を見せるのだ。

 

マルタに礼拝所の管理責任者である母リディアを紹介され、トマシュを名乗るダニエルは司祭に歓迎され、ウォッカをストレートで飲み、宿泊も許されるのである。 

リディア(右)

司祭

翌朝、町の司祭の代わりに、告解を引き受けることになる。

 

携帯で“告解の手引き”を参考に、町民の罪の告白を聞き、説教を垂れるのだ。

 

(こっ)(かい)とは、カトリックで信徒が神と司祭の前で罪を告白すること】

 

最初の女性信徒の告解は、タバコを吸う12歳の息子に禁煙させる方途を問われ、「強いタバコを買いなさい。それを吸えば、すぐやめます」と答えるダニエル。


昔、大罪を犯したと悩む町の司祭から、自らの治療のために数日間、代わりをやって欲しいと頼まれ、有無を言わせず、引き受けることになった。

 

ミサの日。

 

辞書を調べて、最後の晩餐を記念し、祈りや聖体(せいたい)拝領(はいりょう)を行うミサを執り行うダニエルに緊張が走る。


【聖体拝領とは、ミサでパンとぶどう酒を受け、キリストの体と血にあずかるカトリックの儀式】

 

「形式的に祈るつもりはない。君らもそうだと思う。神は外におられる。では、なぜ我々はここにいるのか。こういうことだ。我々は教会へ来て…彼(イエス)の姿を見る。とても真似できない。すごく純粋な存在だ。塵にすぎない私たちに、どうして、あなたの代わりが務まるだろうか。では祈りを。心の底から祈るのです。今、神と対話してください。では、聖歌を」


聖歌を歌うダニエル。


斉唱する信徒たち。

 

「楽園は遠く離れた場所ではなく、今、ここにある」

 

ダニエルの説教を耳にして、教会は町民らの拍手と笑いに包まれていた。


聖水を信徒らにかけ、自らも聖水を浴びる。

 

常識を外れたダニエルの振る舞いは、(かえ)って町民らの心を溶かしていくのだ。

 

本来の司祭はアルコール依存症の治療に時間を要するので、ダニエルの滞在期間が延長される。

 

実は町には、去年、発生した悲惨な交通事故が暗い影を落としていた。

 

若者6人が乗る車が中年男スワヴェクの車と衝突し、双方の乗員7人が亡くなったという忌まわしい事故である。

 

町民らは、スワヴェクの飲酒運転が原因だと決め付け、スワヴェクの遺灰を他の犠牲者と共に、町の墓地に埋葬することを拒んでいた。

 

だから、スワヴェクの未亡人は村八分のような状況に置かれていた。

 

そのスワヴェクの家を訪ねるダニエル。


「あなたは死なない」

 

スワヴェクの母の手がダニエルの手に伸ばされ、ダニエルはそう言って慰撫(いぶ)する。

 

事故の犠牲者が眠る献花台。


「目を閉じて、彼らの方に手を伸ばして。私たちの存在や声が届くかもしれない。彼らも私たちのハグを求めているかもしれない。彼らは私たちの心の中にいる。息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。すべてを吐き出します」 


皆、大声を出して繰り返す。 


それを見る少女マルタ。

マルタ(左)

カルトの如きダニエルのパフォーマンスに、ラインを成して動く町民たち。


「なんか恥ずかしいわ」という女性に、「誰に恥じることが?」と答えるダニエル。


この田舎町では、鮮度の高いダニエルのアドリブ全開の説教は極めて効果的だった。

 

 

 

2  「私は人殺しです。聞き間違いではない。過ちによって人を殺しました。自らの行いのせいです」

 

 

 

町長がダニエルの元を訪ねて来た。

 

聖体祭(カトリックで聖体を(たた)える祭日)の前に製材所の新工場の開所式に、司祭の代わりにダニエルの参加を求めてきたので、それを承諾するダニエル。

 

その町長からダニエルに対して、「事件(事故)について嗅ぎ回るのはよせ」と恫喝される。

 

製材所の新工場の開所式が行われ、ダニエルの祝福の祈りも遂行される。

 

事故の犠牲者の遺品が集められ、ダニエルはそれらを焼却処分にすると言う。

 

マルタの兄も事故で亡くなっていたが、スワヴェクの埋葬に賛成するマルタ。

 

実は彼女だけは、兄から届いた遺品のスマホの映像から、若者たちこそ飲酒運転だったことを知っていたのである。

マルタと事故の情報を共有するダニエル

その事実を知ったダニエルの告解の場に、製材所で働き、少年院の仲間だったピンチェルが現れる。

 

以下、教会でのダニエルの告白。

 

「私は人殺しです。聞き間違いではない。過ちによって人を殺しました。自らの行いのせいです。我々の得意なことは?人を見捨て、非難することです。赦しは忘却ではなく、なかったフリはできない。赦しとは愛です。犯した罪とは関係なく、その人を愛することです。全能の父である神が、捧げものを受け入れるよう祈りましょう」

マルタとリディア(中央)


ダニエルはピンチェルに正体をバラすと脅迫されるが、ダニエルは脅迫には応じず、町民を説得し、葬儀ミサを執り行うのだ。

 

ミサの場所でダニエルは思い切ったことを話す。

 

「今日のミサで集めたお金は、まだ埋葬されてないスワヴェクの葬儀に使います。教会の共同墓地で葬儀を行います」


沈黙する町民たち。

 

「葬儀をするのは反対よ」


町民たちの一致した見解に対し、ダニエルは「死者を聖地に埋葬するのが?」と反応するが、「私たちの意見を尊重して」と言われ、折り合えない。

 

母親から家を追い出され、泊まるところを失ったマルタはダニエルに宿泊を頼み、了承したダニエルはマルタと結ばれる。

 

放火されるダニエルの祈りのスポット。


製材所オーナーでもある町長側の恫喝のように思えるが、ダニエルの強い気持ちは変わらず、スワヴェクの埋葬を強行する。


埋葬式が行われる渦中で、町民の多くが憎しみを捨て、弔問に訪れた。

 

そこに本物のトマシュ司祭が現れた。


ピンチェルの密告だった。

 

トマシュ司祭はダニエルを殴り、「他にこのことを知る者は?」と問い詰めた。 


「いない」と答えるダニエル。

「私がミサ(葬儀ミサ)を行うから紹介を。それが終ったら着替えて荷物を準備して待て」

「はい」

「君はここにはいなかったことにする」


司祭服に着替えて、ダニエルに命じるトマシュ司祭。

 

葬儀ミサを待つ町民たち。

 

ダニエルはミサの最中に司祭服を脱ぎ、タトゥーの入った身体を(さら)け出し、自らの正体を明かした後、教会から立ち去った。

 

町のミサは代わった元の司祭によって行われ、そこにスワヴェクの未亡人も出席した。

 

怨念が溶かされたのである。

 

一方、マルタは町を離れ、旅立っていく。

 

そして今、少年院に戻ったダニエルは、冒頭のシーンで紹介されたように、過去に自分が殺した男の兄ボーヌスと殴り合いの喧嘩をして、その場を去っていくのだ。


 

 

3  暴力と暴力の狭間に挿入された似非・司祭の「物語」 


 

 

信仰とは何か。

 

宗教とは何か。

 

宗教による救済とは何か。

 

とは何か。

 

悪とは何か。

 

正義とは何か。

 

罪とは何か。

 

赦しとは何か。

 

権威とは何か。

 

聖職とは何か。

 

教会とは何か。

 

何より、神とは何か。

 

このように、複数のテーマ思考が切に求められる映画である。

 

もっと言えば、(あやま)ちを犯した者は、なぜ聖職者になれないのか。

 

要するに、「人生は何回もやり直せる」という、とびきりの欺瞞は、「人生はいつの世もやり直せない」という現実によって検証されてしまうのである。

 

もとより、脆さを本質的に有する私たち人間とは、一体、何なのか。

 

かくて、一切のテーマは、この一点に収斂されてしまうのである。

 

閑話休題。

 

ここでは、信仰の世界に容易に侵入した、善悪両面を併存するトリックスターの如き主人公の内面をフォローしていきたい。

 

暴力に始まり、暴力で終わる映画の中身は、およそ暴力と無縁な宗教祭事の世界だった。

 

少年院を仮退院したダニエルが目指したのは、一瞥(いちべつ)しただけの製材所ではなく、この田舎町に存する教会であった。

 

そこで出会ったマルタとの短い会話を経由するや、(あらかじ)め司祭服を盗んで用意したように、似非(えせ)・司祭の誕生手ずから必然化していく。

 

ここから開かれる行程もまた、ダニエルの根源的熱量の(ほとん)約束された(こと)の成り行きだった。

 

犯罪を犯しているが故に、憧憬する司祭の職に就けない男にとって、宗教による他者の救済という命題は、男の自我を十分以上に潤す果実だった。

 

私は、ダニエルの救済プログラムの実践的プロセスを、しばしば「メサイアコンプレックス」と呼んでいる。

 

メサイアコンプレックスとは、「犯罪者」といったスティグマ(烙印)・劣等感を抱えている人が、他者を救うことで自らが負の記号を補填(ほてん)しようとする心理のことで、「偽善」・「欺瞞」という使い古された言語で説明している。

 

典型的な例は、「無償の愛」の行き着く先まで描き切った、かの有名なチャップリンの「街の灯」の論評で言及している。

 

「街の灯」より

「ギブ・アンド・ギブ」(多くの場合、その本質は、「ギブ・アンド・テイク・テイク」=「一分の供与」と「自己満足感」+「感射・称賛」という不等価交換)などという言葉を簡単に言語化することで、「善き者」を相手に印象付ける心理操作のトラップを内深く隠し込み、特定的対象人格の中枢に雪崩込んでいく、「無償の愛」という名の欺瞞的言辞の、厄介で、危うい観念を合理的に認知し得る者は、「ギブ・アンド・テイク」の本来的な価値の有効性を決して否定しないだろう。

 

チャップリンはただ、拠って立つ自我が勝手に作った、「純愛譚」に関わる物語の安寧を確保するために、限定的な「互酬性」(物理的供与と情感的返礼という、「物」と「心」の等価交換)の濃度の高い関係性を延長したいだけだった。 


その関係性を延長することで手に入る「プロセスの快楽」こそ、男の得難い至福の時間だったのだ。

 

それが人間である。

 

そこに、何の違和感もないし、欺瞞性の欠片も見られない。

 

ただ単に、観る者が勝手に、「無償の愛」などという「ギブ・アンド・ギブ 」という幻想に酩酊したいだけなのである。

 

―― では、本作のダニエルのケースを、どう読み解けばいいのか。

 

なぜ、彼は似非・聖職者となってまで告解やミサなどにのめり込んでいったのか。

 

町民の反対を押し切ってまでスワヴェクの埋葬を強行したのか。

 

一切は、トマシュ神父からの大きな影響力が(うかが)える

 

「なぜ私たちはここにいるのだろうか?重要なものを思い出し、忘れずにいるためだ。私を含め、君たち1人1人がキリストの代弁者であり、絶えず祈るべきだ。“祈り”とは、すなわち“神との対話”だ。怒りや不安、恐怖などの今の感情を神に打ち明けるんだ」

 

このような説教をするトマシュ神父から得たものは、あまりに大きい。

 

聴く者にダイレクト訴えるトマシュ神父の説教は、似非・司祭になったダニエルの説教を彷彿(ほうふつ)とさせる。

 

相手の内面に直截(ちょくさい)訴えかけるのだ。

 

それが度外れなものであっても、聴く者の心を騒がせていく。

 

いや(むし)度外れなものであるからこそ、聴く者の心を捉えて離さないのだ。

 

ここに既に、「ギブ・アンド・テイク」という関係幻想が生まれている。

 

「言語が中心のパフォーマンス」を贈り、「自己満足感」という見返りを授与されるのである。

 

ここで勘考(かんこう)する。

 

ダニエルは果たして、「感謝・称賛」(「テイク」)という見返りを求めていたのか。

 

彼の場合、「言語が中心のパフォーマンス」を贈ること自身が自己目的化しているようにも見える。

 

「感謝・称賛」を得ることは二次的なものに過ぎないとも言える。

 

彼は単に、「ギブ・アンド・テイク」(贈与自己満足感)のみを目指していたが、結果的にそれが「テイク・テイク」(自己満足感感謝・称賛)を生むことになった。

 

そういうことではないか。

 

そして、本当に「赦しと救済」を望んでいる者に対して、反対を押し切って動いていく。

 

このことは、「赦しと救済」の世界に、手ずからダニエルが踏み込んでいったことを意味する。

 

もはや似非・司祭のカテゴリーを越えていくのだ。

 

正真正銘の司祭になっているのである。


これはチャップリンの「ギブ・アンド・テイク・テイク」=「一分の供与」と「自己満足感」+「感射・称賛」という不等価交換の価値を超えているのである。


だから、「偽善」・「欺瞞」というメサイアコンプレックスのカテゴリーからも逸脱している。

 

そこまで踏み込んでいくなら、一層、本名を名乗って似非・司祭の旅を続けたらどうかなどと考えてしまうのだ。

 

「言語が中心のパフォーマンス」によって十分すぎる快楽を得る。

 

ダニエルの場合、単にそれだけだったのかも知れない。

 

それにしても、暴力と暴力の狭間(はざま)挿入され似非司祭は、あまりに緩やかで内面的光景満ち溢れていたのである

 

人間とは、一体、何なのか。

 

この根源的テーマについて、改めて勘考せざるを得ない映画だった。 

『聖なる犯罪者』撮影中のヤン・コマサ監督


(2026年9月)

2026年8月8日土曜日

ナチュラルウーマン('17)   今は見えなくても雪の下には花がある  セバスティアン・レリオ

 



チリ映画の金字塔。ダニエラ・ヴェガの圧巻の表現力



1  「場所はどこです?そっとお別れを」「来る気なの?」「行く権利はあるわ」

 

 

 

チリの首都サンティエゴ。

 

ナイトクラブの歌姫マリーナは今日も歌っている。

マリーナ

昼はウェイトレスとして働くトランスジェンダーの彼女には、心から愛する初老のパートナーがいる。

 

妻と離婚し、マリーナと深い恋仲である会社経営者のオルランドである。

オルランド

その日はマリーナの誕生日だった。


オルランドは、マリーナのために世界七不思議の滝の1つであるイグアスの滝への旅行というプレゼントを用意したが、航空チケット失くしてしまったため、10日以内に旅行へ連れて行くという約束をした。 


体を寄せ合いながら踊るマリーナとオルランドは、自宅アパートで愛し合う。


オルランドが激しい頭痛に襲われ、ベッドから抜け出て階段から転落して、早急(さっきゅう)病院に向かったのは、その直後だった。


医師から意識が回復せず、動脈(どうみゃく)(りゅう)急逝してしまうオルランド容態知らされ病院の一角で倒れてしまうマリーナ


あまりの衝撃で、化粧室で心を休めるようにするマリーナは、オルランドの弟ガボ(ガブリエル)に電話をかけ、事情を説明する。


事件性を疑った警察の尋問があるが、そこにガボが現れ、マリーナに代わって、二人の関係を警察に説明し、彼女を擁護する。

ガボ(左)

そんな状況下で、仕事に出るマリーナ。

 

そこにオルランドの元妻ソニアから電話が入り、「事務的なことは一緒にやってね」と言われ、承諾するマリーナ。

 

更に、アドリアーナ・コルテス(以下、コルテス)という性犯罪を捜査する女性刑事がマリーナを訪ねて来た


「オネット(オルランド)の体には擦り傷と殴打痕が。両腕、脇腹、首に。頭部に外傷も。どの傷も新しい」

「全部、医者に話した。彼の家族は何て?」

コルテス刑事(右)

「私は現場に出て23年。性犯罪捜査は14年。修士号も持ってる。そういう人たち…失礼。あなたみたいな女性は心得てる。何もかも。あなたを支えたいの。正当防衛とか?」

「逮捕なの?」

「いいえ」

「行くわ」

「ちょっと待って」

「仕事が終わったら電話して。ちゃんと話を」

 

オルランドの車や私物をソニアに戻すことで、彼と共にした自宅で、独り哀しみに暮れるマリーナ。


自宅アパートで、マリーナは理解されない心の痛みを抱え、シャドーボクシングのポーズを取って、腕を振り回すのだ。


【それ以前に、勤務するレストランで、マリーナがパンチングマシンを殴るシーンもあった】

 

そこに、オルランドの息子ブルーノが勝手に上がり込んで来て、彼女にアパートからの転居を求めた。

 

「このアパートを、いつ出る?」とブルーノ。

「何かあれば知らせる」とマリーナ。

「だから、いつだ?」

ブルーノ

「数週間後」

「それじゃダメだ。何日か言え。追い出すぞ」

「出てって」

「お前の家じゃない…信じられん。父は気が狂った。いいか。何も盗むなよ」

 

そう言い捨てて、ブルーノは去っていく。

 

ソニアに車を戻しにいくマリーナ。

 

「この1年、あなたをずっと想像してた。想像と全然、違うわ」とソニア。

ソニア

「そうでしょうね、奥様。生身の人間だし」

「違うの。あの人と一緒の姿を想像できない。“奥様”はやめて」 


マリーナは車の鍵をソニアに戻す。

 

「言いづらいんだけど、アパートは早めに引き渡して」

「ええ。分かりました。ソニア、本当に残念です」

「何が?この昼メロみたいな話?」

「こんなことになって」

「そうね。オルランドとは38歳の時に結婚したの。ごく普通の夫婦で、普通に暮らしてた。そんな彼から、事情を説明された。私は…こう思った。あなたを傷つけたらごめんなさい。でも、こう思ったの。変態だって。ごめんね。目の前のあなたが理解できない。神話の怪物(キマイラ)みたい


「キマイラ…」

「ごめん」

「謝らないで。それが普通よ。気にしないで」

 

そう言って、駐車場を去っていくマリーナ。

 

【キマイラとは、ギリシャ神話に登場する怪物で、異形の獣のこと】

 

帰り際、「今日のお通夜(つや)には7歳の来るソニア

 

「場所はどこです?そっとお別れを」

「来る気なの

「行く権利はあるわ」

「今はもう、私の問題よ。あなたはつらい目に()ったあとは任せてあなたは十分やってくれたどこにも行かず何もせずゆっくり休んで思うようにはしない。お互い納得のいく方法で

「お金は要りません。あなたが警察を?」

「失礼はお詫びする。でも、愛する人を守りたいの」

「オルランドを愛してた」

「通夜も葬儀も来ないで。いい?これ以上は説明できない。ダニエル(マリーナの本名)、葬儀にもどこにも来ないで。私たち家族だけで静かに葬儀をさせて。家族全員、ショックでうちひしがれてる」


そこまで言って、ソニアは帰っていく。

 

その後、コルテス刑事を訪ねたマリーナは、外傷の有無を確かめるために身体検査をすると言われ、マリーナを拘束する。

 

渋々、応じるマリーナは上半身の写真を撮られる。


「下も脱いで。すぐ終わる」と警察医。

 

それに応じるマリーナ。

 

全身を見せる屈辱的な体験だった。

 

【マリーナのようなトランスジェンダーは生物学的な性と、自らが認識する性が一致しない人で、現在、「性同一性障害」と言われるので「性別適合手術」をして、精巣(睾丸)切除、陰茎切除などの外性器の切除、または乳房切除、子宮・卵巣摘出術、膣閉鎖、陰茎形成術など自らが望む性に性転換することが可能になるが、どこまで行うかは本人の自由である。マリーナがホルモン治療で乳房を豊かにしているだろうが、「性別適合手術」をしていないと思われるのは、コルテス刑事の言動などで推量できる】 

性別適合手術

 

 

2  「こんな木陰は 今までなかった とても優しくて 愛おしい 心地よく 甘美な木陰」

 

 

 

ガボから電話が入る。

 

「オルランドを火葬する。本人の望みだ。これから言うことはソニアは知らないことだ。君にも少し譲りたい。足の遺灰を」


「気持ちだけで結構です」

「君は受け取るべきだよ」

「その代わり、参列するな?」

「私は来てほしい」

「今、食事中よ」

「邪魔してすまなかった」

「じゃ、切るわ」

「待ってくれ。まだ話が…」

 

その後、マリーナは癒しを求めて、歌の師匠の元を訪ねる。

 

「なぜ、来たのかしら?」とマリーナ。

「歌いに来た」

「愛を探しに来たのかも」

「愛は探せない」

聖フランシスコみたいに言わないで」

「聖フランシスコは言わん。“愛をくれ。平和をくれ。あれをくれ。これをくれ”とは。彼は言う。“私を君の愛の動機に。私を君の平和の手段に”」

歌の師匠

彼女の歌の師匠は、「聖フランシスコのように、愛は与えるものなのだ」と言っているのだ。

 

愛を失ったマリーナが迷う愛の行方が束の間、癒されて歌唱するのだ。

 

【聖フランシスコとは、生きながらにして聖人視された行為で知られる中世イタリアのカトリック修道士。ハンセン氏病患者に自ら近づき、抱擁してキスしたという伝説が知られる】 

自然を愛し、清貧に生きた聖人〜アッシジの聖フランチェスコ

その直後のシーンは、強風に身を預けたマリーナが、向かい風の只中で前に進もうとする象徴的なシーンだった。


今や、マジョリティという敵に打たれ続けるマリーナの孤立を描いているのである。

 

マジョリティからの攻勢は、帰宅後の光景でネガティブに表現されていた。

 

飼い犬のディアブラまで奪われたばかりか、ドアの外に自分の私物が放り出され、テーブルの上には食べ残りのピザや酒瓶が汚く散らされていた。

 

ブルーノの仕業であることは明白だった。

 

姉夫婦に助けを求め、家を出ることにしたマリーナが取った行動は、オルランドの通夜(神父と共に祈りを捧げる儀式)を行っている教会へ向かったのである。

 

ソニアに追い出されてしまった後、ブルーノらから「他の家族を壊せよ、バケモノ」などと罵られた挙句、車に乗せられ、セロハンテープで顔を醜く巻かれ、追い出されてしまうのだ。


屈辱の感情を晴らすため、クラブに入って行きずりの男とキスし、オーラルセックスに及ぶが、オルランドを幻視するマリーナ。


【この時、男はマリーナを「女」と見ていることが推量される】

 

姉夫婦の家に帰宅したマリーナは、新聞に葬儀の予定が掲載されている事実を知る。

 

レストランの仕事に()そこらが持つオルランドサウナであること判明

 

サウナに行ったたマリーナは、男女別々のため、男性側に入るために髪を後ろに縛り、タオルを胸に巻きなおして入っていく。


ロッカーを開けたが、中は暗く、何も入ってなかったのか、それともイグアスの滝のチケット、或いは、その他のものが入っていたのか一切不分明。

 

サウナから出るとタクシーで葬儀場へ向かうが、その途中でソニアたちを乗せた車と遭遇する。

 

「葬儀は終わったわ。帰って。どっか行って。イカレた男は消えて」とソニア。

「彼女は女性だ」とガボ。


「女じゃない。どけ、オカマ野郎!消えろ!」とブルーーノ。


【このシーンで、「イカレた男」、「オカマ野郎」という言辞を発するソニアとブルーーノが、マリーナを「女性」と見ていないことが判然とする。共にソニアが言う「キマイラ」という侮蔑の記号こそが、マリーナを表象化しているのだろう。明確に言えるのは、マリーナは生物学的な性は「男」だが、自らが認識する性が「女」という「トランス女性」であることだ】

 

直後、マリーナは彼らの車の上に乗り、飛び跳ねるのだ。


「私の・犬を・返せ」

 

大きく4回飛び跳ねた後、マリーナは「オルランドの鍵よ」と言うや、鍵を投げつけて去っていく。

 

その足で葬儀場へ行くが、既に葬儀は終わっていた。

 

諦めて帰路に就くマリーナが、そこで見たのは葬儀場に入っていく一人の男性の姿。

 

その男性を追うマリーナ。

 

建物の地下へ向かった男性はオルランドだった。

 

オルランドはマリーナにキスしようとするが、マリーナは躊躇する。

 

オルランドは他界しているのだ。

 

それでも、オルランドのキスを受け入れるマリーナ。


オルランドが去っていく。

 

マリーナは、その後を追っていく。

 

目の前に現れたのは、火葬寸前のオルランドの遺体だった。


遺体の手を握るマリーナは、涙を流す。

 

愛する人への最後の別れだった。


オルランドとの別離の儀式を終えた今、取り戻した愛犬ディアブラと、ジョギングをするマリーナ。

 

全裸でソファーに横たわるマリーナは、股間に鏡を乗せて、そこに映し出される自分の顔を見ている。


「これが私だ。ナチュラルウーマンだ」

 

そう言っているようだった。

 

【この映画で、鏡のイメージは極めて能動的な意味を与えられているように見える】

 

ディアブラに餌を与えたマリーナは、夜の仕事に出ていく。


ラストシーン。

 

「歌姫」となって、歌の師匠のピアノの旋律に合わせて、「ヘンデルのラルゴ」と呼ばれる「オンブラ・マイ・フ」を熱唱するのだ。


こんな木陰は

今までなかった

とても優しくて 愛おしい

心地よく 甘美な木陰

こんな木陰は

今までなかった

とても優しくて 愛おしい

心地よく 甘美な木陰

 

 

 

3  今は見えなくても雪の下には花がある

 

 

 

「人は一人ひとり皆違う。人間が多様であることを認め合い、受け入れ合えれば、私たちはもっとオープンになれるし、幸せになれる」(「映画「ナチュラルウーマン」主演女優ダニエラ・ヴェガさん独占インタビュー」より) 

ダニエラ・ヴェガ

ダニエラ・ヴェガの言葉である。

 

本作は、この単純だが、その実、厄介な映画を根源的に支え切っている表現だった。

 

そのことを象徴しているシーンがある。

 

強風に身を預けたマリーナが、向かい風の只中で前に進もうとする象徴的なシーンである。

 

「世間」という風圧の(かたく)なさに、マリーナは前へ進むことができないでいた。

 

しかし、それでも押し戻されることなく、踏みとどまっている。

 

「目の前のあなたが理解できない。神話の怪物(キマイラ)みたい

 

オルランドの元妻ソニアの法外の言い回しである。

 

キマイラと蔑称されても、「あるがままの女性」としてのナチュラルウーマンという自分らしさを守るために、「性の多様性」という真実にとうてい届き得ないマジョリティからの攻勢を全身で受けても、(ひる)まない主人公壮絶な葛藤シンボライズさせているのだ。

 

今や、マジョリティという見えない無数の敵に打たれ続けるマリーナの、その絶対的な孤立を際立たせているのである。

 

マジョリティからの攻勢は、歌の師匠宅からの帰宅後の光景でネガティブに表現されていた。

 

「愛を探しに来たのかも」と言って、マリーナの歌の師匠が「愛は探せない」と答えた時の、正鵠(せいこく)()る反応で一時(いっとき)癒し得てい

 

粗筋(あらすじ)でも書いたが彼女の歌の師匠は、「愛は与えるものなのだ」と表現したのだ。

 

ところが、前述したように、帰宅するや、飼い犬のディアブラまで奪われたばかりか、ドアの外に自分の私物が放り出され、テーブルの上には食べ残りのピザや酒瓶が汚く散らされていた。

 

ブルーノの仕業だが、あからさまな存在そのものの否定である。

 

それでもめげないマリーナの魂の強靭さは、セロハンテープの一件がそうであったように、露骨な暴力に対して暴力で返報せずに、且つ闘いを諦めないところにある。

 

「今は見えなくても雪の下には花がある。それを誰が見付けてくれるのか。先を行く人たちが、そこに花があることを知り、踏みにじることなく歩いて行けば、次の世代はそれを受け入れ、共感し、より自由に歩いて行ける。次世代に早く春が来るような足跡を一人ひとりが残すことができたら、社会はきっとよくなると思うのです」

 

これも、この秀作を全面的に受け入れたダニエラ・ヴェガの卓越(たくえつ)した指摘である

 

「今は見えなくても雪の下には花がある」のだ。

 

だから、その花を「踏みにじることなく歩いて行け」。

 

一般大衆というマジョリティを頭一つ抜け出る先人が、「沈黙の螺旋(らせん)打破して問題本質問い差別という障壁問い続け思考の限界を突き抜けていくこと。

 

その問いを皆で共有してゆくことである。

 

メルロー=ポンティ流に言えば、問うことは世界と繋がる手立てなのだ。

 

ここまで突き進んでいくことこそ、何より喫緊(きっきん)の課題なのだ。

 

「雪の下の花」を見付けてくれるのは、時代の先を行く人たちの使命である。

 

【沈黙の螺旋とは、少数派が孤立を恐れて沈黙し、結果的に多数派の意見が強化されていく現象のこと】

 

元より、闘いを諦めないマリーナの心理のコアにあるのは、2点に集約される。

 

1点目は、オルランドとの別れ。

 

彼女は未だ、オルランドとの別れの儀式を遂行していないのだ。

 

だから、心が穏やかになれない。

 

何としても、別離の儀式を遂行せずに日常性を復元できないのだ。

 

自我が宙刷りにされたままでは、時間を手に入れられないのである。

 

常に極限の淵に立たされているマリーナの、それ以外にない「物語」を完結させていくには障壁が堅固すぎる。

 

闘うことだけが彼女の尊厳を守るのである。

 

立ち(ふさ)がる破壊的暴力に立ち向かうだ。

 

反逆するのである。

 

かくて、彼女の打たれ強さが映像総体を通して可視化されたのである。

 

ここでいう尊厳・打たれ強さ(粘り強さ)・反逆の3点が、この映画の骨子にある。

 

実はこのことは、ダニエラ・ヴェガ自身が、来日インタビューの中で以下のように語っている。

 

「監督とも話して、『尊厳・粘り強さ・反逆性』という普遍的な女性性の3つの要素を柱にこの役を構築しました。この3つの要素の上にマリーナのキャラクターを築いていくと決めました」

 

俳優本人のメッセージに耳を傾けることの大切さを痛感する次第である。

 

闘いを諦めないマリーナの心理のコアの2点目は、愛犬ディアブラを取り戻すこと。

 

言うまでもなく、ディアブラこそ、オルランドと自らを繋ぐ大切な天からの贈りものなのだ。

 

ディアブラを奪われたマリーナが、車の上に乗って、「私の・犬を・返せ」と叫んだのは当然のことだった。

 

自らがナチュラルウーマンであることを否定し、キマイラと蔑称する(とが)ったマジョリティ一端(いっぱし)金満家(きんまんか)連中い切ったマリーナ凄みは、価値もないような()まらない連中の度肝を抜き、白旗を上げさせた結果、ディアブラを取り戻すのだ。

 

これで一件落着となって、16〜18世紀のイタリアで、変声期前に去勢され、高音域を保った男性歌手・カストラートのために作られた、ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」を熱唱するマリーナが、そこにいる。

 

だから、いつまでも鏡を見て、髪を後ろで()い、カストラートとなって美しい高音を聴かせてくれるのだ。

 

【余稿】

 

両足の間に丸い鏡を入れる重要なシーンがある。

 

以下、ダニエラ・ヴェガの言葉。

 

「この映画の中で一番象徴的なシーンに仕上がったと思っています。鏡の中にマリーナの顔が見えることで、『その後ろにあるものは関係ない』というのが分かるシーンだから。彼女の顔を見て、瞳で、あそこで分かる。私の好きなシーンのひとつです」(「トランスジェンダーの新星ダニエラ・ヴェガ、主演作『ナチュラルウーマン』で観客に問う「あなたはどの立場から観ていますか」【来日インタビュー】」より) 


まさに、「その後ろにあるものは関係ない」のである。

 

マリーナには、彼女なりの生き方がある。

 

ペニスがついていようが、どうでもいいことなのだ。

 

「一番大事なのは、自身への恐れへの反逆、恐れることを恐れないこと、そして見返りを期待しない愛を持つことだと思います」

 

恐れることを恐れず、見返りを期待しない愛を持つこと。

 

これが、本作の究極のメッセージかも知れない。


【私の好きな「ナチュラルウーマン」に関しては、2022年4月の批評もあるので、良かったら参考にしてください

 

(2026年8月)