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2026年10月12日月曜日

旅と日々('25)   軽快な帰路を約束させた作家の雪国への旅  三宅唱

 


1  「私は言葉の檻に中にいる。旅とは言葉から離れようとすることかもしれない」

 

 

 

「シーン1 夏 浜辺」

 

脚本家の李が、ハングル文字を鉛筆の手書きで書いたシナリオの冒頭文である。


その後が続かず、悩む李が着想を得て、すらすらと文章を書いていく。




「行きどまりに一台の車。後部座席に女が目を覚ます」

 

ここから、彼女のシナリオが映画化された世界が表現されていく。

 

映画のタイトルは「海辺の叙景」。

 

連れの男が運転する、後部座席に横になっていた旅の女・渚は、海岸近くの森や岩場を散策して浜に出たら、一人の男性・夏男と出会う。

夏男

「こんにちわ。地元の方ですか?」

渚(左)

「あ、いえ。親戚の家がこっちにあって。いつ来たんですか?」

「4日前」

「ああ…じゃあ、死ぬほど退屈じゃないですか?一人で来るところじゃないですよ」


「でも、なんだろう。何もしたくなくて…」

「どうしてですか?」

「うーん。何て言えばいいかな…」

「あ、やっぱりいいです。すいません。余計なこと言うなって、よく怒られるんです」

「でもいいところ。こんなところがあるなんて知らなかった」


「ええ。僕も来てみてよかったです。薄暗いアパートでじっとしていたら、想像もできないくらいいい気分です」

「本当に生き返っていう感じです」

「あぁ、確かに。こんな気持ちがいつまでも続けばいいんですけど」

 

二人はその場を離れ、岩場を散策し、夏男は「ちょっと怖い話なんですけど、大丈夫ですか?」と断って話していく。


「昔、あの岬の向こうで、漁船の網に、いわゆる土(ど)左(さ)衛門(えもん)が引っかかったんですね。」

「土(ど)左(さ)衛門(えもん)?」

「死体です。それで、僕も見に行ったら真っ白になっていました。鼻の穴や口にびっしり藻(も)が詰まっていて…」

「漁師さん?」

「いえ、女の人だったんです。子供を抱いていて、怖かったなぁ。子供はもう半分、骨になっていて。丁度、あの岬の下がタコの巣になっていて、無数のタコに襲われると、すぐ骨になってしまうらしいです」

「怖い話というより、悲しい話だと思う」

「確かに」

 

二人は場所を変えて、夜の港の一角で話を続ける。


「僕はなにをやってもうまくいかないばっかりなんです。僕より運の悪い人は会ったことがありません」

「自分より不幸な人はいないって思う?」

「まぁ、自分の知ってる範囲では」

「じゃあさ、浮気ってしたことある?」

「なんですか、急に」

「いや、ただの冗談」

「浮気の定義によりますけど…」

「一人でこういうところに来て、ぼうっとしてたら、全部、どうでもよくなって、楽になるかなって思ったんだけどね」

「あぁ」

「あの、母親が昔、“退屈は想像力を育(はぐく)む”って言ってたんですね。僕はそういう考えが間違いだと思ってて、人間は暇になると色んなことを考えすぎちゃって、それで病むんです」

「うーん、そうかも」

「じゃあ、どうすればいいか考えてみたんだけど、何も考えられないくらい、忙しく生きるっていうのはどうですかね」

「忙しく病むよ。それが理由で」

「あぁ、確かに」

「どうすればいいんですかね」

「おいしいもの、食べるとか?」

「うーん」

「それか、こうやって旅に出たまま帰らないで、全然、別のところで、別の人のふりしてやり直すとか?」

「あぁ」

「それが生まれ変わって、全然別の人になるとか?そんな真剣に考えないで」

「別に。今のままでいいと思いますよ」

「え?」

「別の人にならなくても、今のままが素敵だと思います」

「いい人だね」

「あぁ、そうだ…あ…そうだ。ここから、あの水平線の先まで何キロあるか知っていますか?」

「ごめん。その答え知ってる。4キロちょっとでしょ?」

「あ、知ってましたか」

「でも4キロなんてウソみたい」

「まあ、身長によって変わると思うんですけどね」

「そんなの誤差なんだってさ」

「でも4キロなら泳いで辿り着けそうじゃないですか」

「泳げるの?」

「もちろん」

「帰る?」

「そうですね」

「明日も海に行く?」

「多分。昼過ぎに」

 

帰路に就く二人。

 

台風が近づく予報が流れる。

 

翌日、二人は約束した通り、豪雨の浜辺で会う。


夏男は持って来たみつ豆を渚に食べさせて、「うちの伯母、もう60にもなるのに、まだ海に潜っている」と話す。

 

「海女(あま)さんなの?」

「うん。時々、天草(てんぐさ)を採って来て、ところてんをこさえるらしい」

「そっか。海で採れるんだ」

「うん。天草をグツグツ煮て、冷やして固めるんだって」

「ふーん」

「あ、包帯取ってる」


「取ってみた」

「どうしたの?」

「ミシンで」

「痛そう」

「少し、泳ごうかな」


「え?寒いんじゃないかな」



「うん。でも明日帰ることにしたから」


「え、もう帰るの?」

 

二人で大荒れの海の只中に入って泳ぐ渚。

 

「泳ぎ、上手いんだね!」

「中学の時、1級だったから!」

「魚、見えた?」

「全然、分かんなかった」

「大丈夫?唇、青くなってる」


「君の唇も」

 

早めに上がって、みつ豆を食べる渚。


大きな魚を見たと言って、もっと遠くの方に泳いでいく夏男。

 

「いい感じよ」と言って、夏男に声をかける渚。


ここで、大学の授業で上映されていた「海辺の叙景」という映画が閉じ、監督、脚本家を招いての質疑応答の時間に入っていく。


「頭を使うというよりも、五感を刺激されるような、体全体で感じられるような映画で、非常にセクシーであると言えばいいんですかね。何かエロチックな官能的な映画であると感じました」

 

最初に感想を求められた大学教授の魚沼の反応である。

 魚沼教授

ここから、学生の質疑応答。

 

脚本を勉強をしている学生は、「この映画を初めて観た時、どのように感じたか」を、脚本家の李に問う。

李(右)と監督

「初めて観た時は…大雨のシーンは撮影がたいへんだったろうなぁというのと…私にはあまり才能がないなと思いました」 


次に、二人目の学生との質疑応答。

 

「この映画は、結構、暗い雰囲気とかあって、正直、分かりませんでした。どうして、こういう内容にしたのか教えてほしいです」

 

今度は監督が答えるが、途中から監督の声が消え、李が韓国語で答えていく。

 

「僕は小さい島出身なんですが、故郷(ふるさと)があまり好きじゃないというか、居場所がないように感じて東京に出て来てきまして…(ここから李の母国語による説明)監督の依頼でつげ義春の漫画『海辺の叙景』を原作に脚本を書いた。書いてから数年経ったが、いまだに旅について考えている。故郷(ふるさと)を離れて以来、私はずっと旅の途中にいるようだ」


次は、監督志望の学生。

 

「僕は、人々が分かり合えないことを描いた話だと受け止めたので、すごく刺さりました。僕は自分の映画で孤独を撮りたいと思っていて、何かヒントがあれば監督にお聞きしたいです」

 

監督は即答する。

 

「孤独じゃないという人はいないので、あまりそれを撮ろうと、僕は考えたことはないんですが、自分としたら“純粋”という言葉について考えていました」

 

そして授業後、「今は何か新しいものを考えてるんですか?」という魚沼教授の問いに対する、李の反応。

 

「はい。でもあんまりうまくいってない」

「どんな話なんですか?」

「えー忍者の話です」


「あぁーそれは大変そうだ」

「はい。色々」

「最近は、体調の方はいかがですか」

「少し、マシにはなりました」

「それはよかった」

「はあ…でも仕事には集中できないですね」

「いいんですよ、仕事なんて。気晴らしに旅行にでも行くといいですよ」

 

李と別れた魚沼教授が、激しく咳(せ)き込んだのは、その直後だった。

 

その魚沼教授は、呆気なく逝ってしまうのだ。

 

「生きていると、うまく言葉にならない出来事がある。驚きや戸惑いが、私を遠くへ吹き飛ばす。言葉から遠いところで、そのままずっと佇(たたず)んでいたい。しかし、いつも必ず言葉につかまってしまう。日常とは、周囲のモノや感情に名前を与え、馴(な)れ合うことだ。はじめて日本に来たときは、周囲が謎や恐怖に満ちていたが、新鮮だったモノや感情も、今は言葉に追いつかれてしまった。私は言葉の檻に中にいる。旅とは言葉から離れようとすることかもしれない」(韓国語で表現する李の言葉)


 

 

2  「この雪の中で、私たちは結局、何をしたんですかね。いやーでも、なかなか面白かったです。久しぶりに楽しいと思いました」

 

 

 

逝去した魚沼の双子の兄から、魚沼が生前に収集していたフィルムカメラを譲り受け、そのカメラを持って、李は雪深い新潟方面へ旅に出た。



どこのホテルも満室になっていて、宿泊先が見つからない状況下で、山の向こうにある一軒宿なら泊まれるかもしれないと教えられ、礼を言う李。


そして辿り着いたのは、古びた一軒宿だが、幾ら挨拶しても全く反応がない。


山奥の宿の名は「べんぞうや」。

 

その宿の主人・べん造が出て来て、李を泊めることになる。

 

どうやら久しぶりの客のようだ。

 

暗い囲炉裏を囲んで、「こちらは、いつからあるんですか?」とべん造に聞いたら、「昔からだ」と答えるので、李が「昔というのは…」と聞き返しても、「分がんねえ」という反応のみ。


「お宅(だく)さま、仕事は?」とべん造。

「一応、脚本を書いてます。映画とかドラマの」


「んだが?…ほう…どんな物語を書いてんなぁ?テーマは?」


答えられない李に、「やっぱりユーモアのあるドラマが見てぇの」と話すべん造。

 

「ユーモアは私も好きです」と李。

「でも笑いばかりでも面白くねぇの。いい作品だば、どんだけ人間の哀しさが描けでるかだと思うなやの…じゃ適当に寝で。電気はあそこさあっがら」

 

そう言って、一人で眠りに就くべん造。

 

客室もないから、べん造と同じ部屋で床を取るらしい。

 

雪国の山麓に朝がきた。


起床する李。


炊事をするべん造。


「今日はどうする予定だや」

 

食事する李に、べん造が問いかける。

 

「特に決めていません」と李。

「もし仕事するなら、これ(机)使っていいがらの」とべん造。

 

机で仕事する李。


その李にべん造が話しかける。

 

「ちょっと考えてみだんども、おらいどごを題材にするってどうだや?」


「あぁ、なるほど」

「おだぐさまの仕事で話題さなったら、遠ぐから、お客さん、いっぺ来てくれるがの」

「では、いつかお聞きしてよろしいですか」

「おぉ、お」

「ではまず、ウサギの名前なんですが、あれはどなたがつけた名前なんですか。あれは子供がつけるような名前だと思うんです。こういう宿屋は、普通、家族でやってるって聞きますので。お一人なのは、少し不思議だなと」


「別に大した理由はねぇ」

「では、向こうの襖(ふすま)の絵。あれはどなたが描いたものかも気になります。その辺りが分かると、きっとストーリーが浮き上がってくると思うんです」


「おめは他人(ひと)の家のごど、じろじろど見るのぉ」

「そういうつもりでは」

「話せば長(なん)げぐなったけど…みんな、いねぐなったの」

「はい?というのは、つまりどういうことでしょうか?」

「どうもこうも、もう、いねぇってごどだ」

「すいません。立ち入ったことを聞いてしまいました。こちらを題材にして書くのはやめます」

「まぁ、気楽にの、うん」

 

その後も会話は繋ぐ。

 

「私はもう、ダメかもしれません」

「幸せな気分さなる話はどうだや」

「幸せって、例えばなんですか」

「そりゃあ、あれだの。いいごどが突然起ごる」

「あぁ、突然ですか」

「突然、金持ちさなるどが」

「それは不吉ですね。そういう時は、そのあとよくないことが起こります。ほかに何かないですか」

「うーん」

「このまま、この宿を続けるんですか?」

「ほかさ、やるごどもねぇしの」

「あたらしく錦鯉の養殖を始めるのはどうですか?裏の池を使って」

「あんな小(ち)っちぇ池ではどもならね」

「こうやって寝ているよりはいいと思うんです」


「大(お)っき田んぼど池どご持ってるどごさは、かなわねの」

「でも、やってみたら分かりませんよ」

「どうもならねごどは、どうもならねの」

「さようでございますか」

「よし、そんげしつごぐ言うなら、今から行ぐが」

「どこにですか?」

「隣村さ、大(お)っき池があって、そこにいっぺい錦鯉がいるがら」

「今からですか?」

「こげなどごで寝ででも、憂鬱(ゆううつ)になるだけだからの。おだぐさまはここで待ってるが?」

 

出かけていくべん造に声をかける李。

 

二人で行くつもりなのだ。

 

「ちょっと待ってください!」

「危ねえがら、ゆっくりの」

「はい。ありがとうございます」

「大丈夫がぁ?」

「大丈夫です」

「大丈夫か?」

「大丈夫だ」

 

僧侶が題目を唱える声が聞こえてくる。

 

「すごい池だろ。これでしこたま儲けでいるやつがいるなやの。ここで見張っどいでくれの」

「え?盗むってことですか?」

「んだ」

「ちょっと…ダメですよ。犯罪ですよ」


「一匹ぐれ分がらね」

「やめてください。勘弁してください」


ここで「お父ちゃん」と呼ぶ子供の声が聞こえる。

 

べん造の娘である。

 

「こげな時間に外さいだら、風邪ひいてしまうぞ。ちょっと背のびたの。会っだごどは母ちゃんには秘密だぞ。約束できっか?」

「うん」

「よし。いい子だ。抱っこすっが?ん、おぉ、んだば、まだな」

べん造と娘(右)

「うん。ばいばい」

 

帰宅後、李が口を挟む。

 

「もしかして、あのお屋敷はご実家かなんかですか?」

「前の嫁さんの家だ。商売がうまぐいってんのも、信心のおかげなんだど。“おめもちゃんと信心したら、宿ももっと儲かる”って。まじめに考えて生活してる人間のごとバカにして。頭おかしいんだ」

「ちょっと戻ってもいいですか?カメラをどこかに落としました」

「そげなもの、春まで見つからね」

 

鯉を盗んだべん造に対して、李は尋ねる。

 

「どうするんですか、その鯉?」

「あぁ、春まで、そごの池さ放り込んでおぐなや」

「あー、食べないんですね」


「は?」

「食べるもんだと思ってました」

「バカでねぇか、おめ」

「こいつは観賞用だの。金(きん)兜(かぶと)って海外さ輸出したら、一匹、何百万円もする。見てみっが?すんごくきれいだぜぇ」

 

【金兜とは、 錦鯉の品種で、頭部の左右が金色に光り輝く模様を有しているもの】

 

二人で錦鯉を見る。


錦鯉は凍結し、死んでしまったのだ。(この鯉は、焼かれて食べられることになる)

 

「かちこちですね…この雪の中で、私たちは結局、何をしたんですかね。いやーでも、なかなか面白かったです。久しぶりに楽しいと思いました。私たちが雪の中を歩いている景色を、遠くから見たら、どんな趣(おもむき)なんでしょう。ねぇ。何百万円もする鯉は、どんな味ですかね?」


「おめいはべらべらと、よく、しゃべるの」


錦鯉を盗まれたことを知った元妻の家では、カメラが落ちていることを見て、べん造を疑い、警察に連絡し、2人の巡査がべん造の宿にやって来て、アリバイを求められ、寝ていたと抗弁し、李も頷く。

 

「なして、こんなところに来たの?」と男性巡査。

「ただ、なんとなく」と李。

「なんとなくと言うのは?」

「旅行が好きなんです」

「じゃあ、あっちの温泉さは行ったの?」

「いいえ」


「じゃあ美術館は?結構、人気あっけど」

「いえ。行ってません」

「じゃ、どこさ行ったの」

「まあ、川を眺めたり」

「あ、そう」

 

「あんたんとこも、色々面倒くせぇの。お子さん、いぐつさなった」と女性巡査。


「うるせぇ。おめさ関係ねぇ。何?」

 

巡査はべん造の額(ひたい)に手を当てる。

 

「すごい熱でねぇか」

「ちょすな」

「病院、連れてぐ?」

「行がね。そんなどご」

「駄々こぐなぁ。子供でねんだから」

 

べん造は病院に行くことになり、パトカーに連れて行ってもらう。 


李に手を振るべん造。

 

残された李は、その様子をじっと見ている。


【「ちょすな」とは「触るな」という東北弁である】

 

「宿に戻ったあと、少し横になった。いつのまにか、私は眠っていた。本当に長い夢だった。目が覚めるとすごく疲れていた。しかし時計を見ると、時間はあまり経っていなかった。夢の記憶はすぐに消える。断片だけでも記録したかったが、顔を洗う水があまりに冷たくて、すべて忘れてしまった。電車は一日に二本。次は夕方にやって来る。それまでに、宿の主が戻って来るかは分からない。もう少ししたら、ここを出発しよう」(韓国語)


ラストシーン。

 

駅に向かって、雪の中を足取り軽く歩いていく李のカット。 


「私にはあまり才能がないなと思いました」

 

「海辺の叙景」の上映の授業から始まる、李の心の旅が何某かの結実に繋がったことを深く印象づける映像だった。

 

 

 

3  軽快な帰路を約束させた作家の雪国への旅

 

 

 

「夏の映画」と「冬の映画」。

 

前者の舞台は海であり、後者の舞台は雪。

 

異なる季節と異なる背景。

 

重なるのは男と女。

 

そこで何が起こったか。

 

特段に何も起こらない。

 

二つの物語を動かす二組の男女の距離は、それを縮める何かがあったにしても、等間隔の現状は崩れない。

 

「大丈夫?唇、青くなってる」

「君の唇も」

 

渚と夏男の、緊張感を内包する会話だが、二人の距離が最近接した瞬間である。

 

台風接近の影響で波高く荒れ模様の海という背景設定が、二人の感情を昂(たかぶ)らせているのだ。

 

しかし、渚が見た魚を追う夏男の意地だけが曝(さら)され、等間隔の現状を崩せないで、緊張感を内包する会話を残して、「海辺の叙景」の上映は終わる。

 

その一点において、「海辺の叙景」の脚本は駄作ではないと思えるが、李は監督志望の学生に対して、「私にはあまり才能がないなと思いました」と答えたのである。

 

「五感を刺激されるような、体全体で感じられるような映画で、非常にセクシーであると言えばいいんですかね」

 

この魚沼教授の反応の方が、私には腑(ふ)に落ちる。

 

「僕は、人々が分かり合えないことを描いた話だと受け止めたので、すごく刺さりました。僕は自分の映画で孤独を撮りたいと思っていて、何かヒントがあれば監督にお聞きしたいです」

 

これは、別の学生の発問である。

 

監督は即答する。

 

「孤独じゃないという人はいないので、あまりそれを撮ろうと、僕は考えたことはないんですが、自分としたら“純粋”という言葉について考えていました」

 

この反応は極めて的確だ。

 

孤独をテーマにしても、人間は皆、孤独なので、それを描いたにしても、観る者の心情に共振した分だけ感銘を与えるだろうが、そこに深い形而上学的思考を残すことは難しい。

 

簡単に自己完結して内部処理できる類(たぐい)の哲学的テーマは、人間が負う様々な問題を分かった気にさせる分だけ、却(かえ)って厄介になる負荷を随伴させるだろう。

 

その点、“純粋”という言葉を定義するのは容易ではない。

 

私は今の所、“自我を虐(いじ)め過ぎさせないような心的行程”と考えている。

 

生存・適応・感情コントロールの司令塔。

 

これが自我であると考えているので、この自我を虐(いじ)め過ぎれば、それが内包する内部抑制機能を必要以上に傷つけてしまうのだ。

 

とりわけ、感情コントロールの安定した状態を傷つけてしまえば、認知の歪み(白黒思考、マイナス化思考、すべき思考、感情的決めつけ、レッテル貼りなど)を過剰に作り出し、正常な認知機能の均衡を崩してしまいやすくなり、最終的に自我機能を不安定化させるのだ。

 

感情コントロールの司令塔である自我機能の安寧な状態を傷つけてしまわない限り、感情が落ち着き、その心的行程に不必要なまでの打算や邪念が入り込み、それらが自己運動する負の循環を抑えられるのである。

 

“自我を虐(いじ)め過ぎさせないような心的行程”。

 

それが“純粋”という言葉の肝ではないか、と私は考えている。

 

まさに、「私にはあまり才能がないなと思いました」と言い切る勇気を示した、本作の主人公・李こそ“純粋”さのイメージに相応しい。

 

だから「言葉の檻の中にいる」状況を脱却するため、即ち、日常の窮屈さから自己を解放するために旅に出たのである。

 

―― ここで、話題を映画批評のポイントに戻す。

 

「日常とは、周囲のモノや感情に名前を与え、馴(な)れ合うことだ。はじめて日本に来たときは、周囲が謎や恐怖に満ちていたが、新鮮だったモノや感情も、今は言葉に追いつかれてしまった。私は言葉の檻に中にいる。旅とは言葉から離れようとすることかもしれない」

 

かくて、旅に出た李。 


李にとって、旅とは、日常の窮屈さから離れることで、自らの人生に新鮮な潤いをもたらすことである。

 

そんな李が男性巡査に聞かれた時の会話が面白い。

 

「なして、こんなところに来たの?」

 

この問いに、李が誠実に反応しても、相手を納得させる答えを提示できないのだ。

 

「ただ、なんとなく」

「旅行が好きなんです」

「いえ。行ってません」

「まあ、川を眺めたり」

 

そんな答えに納得できない巡査は、結局、「あ、そう」という外になかった。

 

「ただ、なんとなく」では、彼(か)の人の疑問に対する答えにならないのである。

 

かくて、「旅とは何か」についての異なったイメージを抱(いだ)く者同士の、その会話の不毛性が露わにされるだけだった。

 

「~とは何か」について、共通する言語を持ち得ないと、偶(たま)さか親和感情の成立が生まれることがあっても、基本的に多くの会話は時を無駄にするのみである。

 

それぞれ内に抱え、背負っているものは皆、違うのだから、それはそれでしょうがないのだ。

 

多くの人は、日常に依拠した、曖昧さの入らない言語を多用するが、ここで重要なのは、不確実さや曖昧さを受け入れる能力である。

 

分からないものは分からない。

 

だからと言って、その分からなさを否定し、分かったつもりになって、少なくない人々が使っている簡便な言語に縋(すが)りついていく必要はないのだ。

 

人々が陰謀論に嵌(はま)ってしまう欺瞞は、そこから始まる。

 

分かったつもりになることの弊害は、そこから始まるのである。

 

だから、分からなさ・不確実さ・曖昧さを受け入れる能力こそ大切なのだ。

 

これをネガティブケイパビリティーと呼ぶ。

 

ネガティブケイパビリティーこそ、分からなさを克服するための第一歩でなければならない。

 

曖昧な状況に耐えながら、思考を続けること。

 

常に前提を疑うスタンスからスタートせねばならないのである。

 

思えば、李の内側にこそ、分からなさ・不確実さ・曖昧さが詰まっていた。


経験に依存しない無数の言語を詰め込み過ぎたからだ。

 

そんな日常を異国の都会の片隅で抱えていた李が、旅という非日常なる手段を駆使した根柢にあったのは、分からなさ・不確実さ・曖昧さと共存しつつ、それを自分なりに浄化・昇華したいという感情であった。

 

旅に出たのは、殆ど必然的だったということである。

 

魚沼教授に背中を押されたことが契機だったが、実際は旅に打って出るという選択肢しかない内的状況が、彼女の中で煮詰まっていたのである。

 

旅先はどこでもよかったが、できるなら、薄暗い宿屋がある雪深いエリアがいい。

 

だから、庄内地方への「冬の旅」を選択した。

 

豪華なホテルではなく、べん造との出会いは、李にとって、ある意味でお誂(あつら)え向きの設定だったかも知れぬ。

 

まさに、日本家屋の象徴のような薄暗い宿屋こそ、日本家屋の美学とも言える「陰翳礼讃」の風景美を映し出していた。

 

但し、旅館の体(てい)を成していないべん造の家は、宿泊者が全く寄り付かない宿屋だったから、泊まり心地が言い訳はない。

 

しかし、李だけは違った。

 

李の内面を受容するには、もってこいの家屋だった。

 

鼾(いびき)をかいて我先に寝てしまうべん造と同じ部屋で、自分で布団を出して寝る宿泊者・李には、ちょうどいい宿屋であったように思われる。

 

残念ながら、べん造との正攻法のコミュニケーションは成り立ちにくかったが、却って李には、それが正解だったように思われる。

 

自分を救済してくれるメサイアを探しに来た旅ではなかったからである。

 

その旅を通して、自己の人生を決定的に変わる何かを手に入れる訳ではなかった。

 

喪失するためでもなかった。

 

「かちこちですね…この雪の中で、私たちは結局、何をしたんですかね。いやー、でもなかなか面白かったです。久しぶりに楽しいと思いました。私たちが雪の中を歩いている景色を、遠くから見たら、どんな趣(おもむき)なんでしょう。ねぇ。何百万円もする鯉は、どんな味ですかね?」

 

自らの心情を、言語を通して正直に表現したのである。

 

言語に頼る李の思いの発現だが、嘘偽りのない自己開示に振れる李は、ここで言語に追いつかれ、囚われているというラビリンスに潜り込んでいる訳では決してない。

 

それは自らの職業で迷妄(めいもう)している脆弱性(ぜいじゃくせい)と切れているのだ。

 

こういう自らの体験を自然に表現できるようなら、彼女の鬱屈(うっくつ)は生まれなかったはずなのだ。

 

「おめいはべらべらと、よく、しゃべるの」

 

そんな彼女に放ったべん造の一言は、蓋(けだ)し強烈だった。

 

この男は、不必要な言葉を発することはない。

 

李の心情吐露は、基本的に寡黙なべん造にとって、どうでもいいことを「しゃべること」でしかない。

 

そこに垣根が生じるが、李にはそれでもよかった。

 

彼女の表現が「しゃべること」と思われても、それでもよかったのだ。

 

彼女にはべん造を啓発する思いも、べん造から啓発される思いの欠片(かけら)もない。

 

自らが踏み込んだ非日常の時間を、理屈抜きに愉悦しているのだ。

 

その李が、べん造に言い切った。

 

「私はもう、ダメかもしれません」

 

この吐露は、貧弱な会話に繋がった。

 

「幸せな気分さなる話はどうだや」

「幸せって、例えばなんですか」

「そりゃあ、あれだの。いいごどが突然起ごる」

「あぁ、突然ですか」

「突然、金持ちさなるどが」

 

この会話の延長に、錦鯉の盗みの問題が出てくるので、二人の行動展開が物語を拗(こじ)らせてしまうのである。

 

錦鯉の盗みの背景には、自分を捨てた元妻に対する一撃があるので、「喪失」と「悲嘆」を抱える男の人生が炙(あぶ)り出されてしまうのだ。

 

その事実を知る李が、べん造という男が単に自分勝手な男ではないという認識を持つに至る。

 

孤独の辛さは誰にでもあり、人生が多様であると知らしめられることになるのである。

 

この経験は、李の心の中枢に刺さってきたであろう。

 

だから、自らの懊悩を相対化することになり、先の心情吐露を含めて、これらの経験がラストシーンの李の軽快な帰路を約束したのである。

 

そういう映画だったというのが、私の総括。 



【この映画はとても気に入っている。「リアリズムの宿」と「無能の人」は映画で観ていて、特に前者は、監督の力量もあって、最高に面白かった】 

「リアリズムの宿」より


(2026年10月)