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2026年6月22日月曜日

山の郵便配達('99)   「美しきもの」と「善きもの」の紐帯のうちに包摂されていく  フォ・ジェンチイ

 



以下、Wikipediaからの梗概を引用しておく。

 

【1980年代初期の、湖南省西部の山岳地域。その地域に向けて若い男が、郵便配達人として初めての旅に出る。彼の父はベテランの郵便配達人だったが、膝を痛め仕事を引退せざるを得なくなった。父は相棒であり誠実な家族でもある犬「次男坊」と一緒に、2泊3日で息子に同行する。父にとっては最後の、息子にとっては最初の郵便配達だ。父は息子に仕事の真髄を丹念に教え、息子は郵便配達人の仕事が単に手紙を送り届けるだけにとどまらないのだと理解する。息子は父と村民たちの深い交流を目の当たりにし、トン族の結婚式の祝宴にも加わる。息子は山の娘とは結婚しないという。母がいつも故郷を恋しがっていたからだ。母さんは元は山の娘で、ケガをしたのを父が助けたのがきっかけで結ばれたのだという。いくつかの思い出がフラッシュバックし、息子のトランジスタラジオからは多くのポップ・ミュージックも流れる。最後に一人で配達に出かける息子を「次男坊」が追っていく。】

 

 

 

1  「全身山里人」と「半身山里人」

 

 

 

本作は、「半身山里人(やまざとびと)」が、「全身山里人」との、2泊3日の「公務員としての山の郵便配達」の濃密な共有経験を介して、「全身山里人」としての「職業」を選択することで、山里への「定着」を決意していくまでの物語。

 

言うまでもなく、「半身山里人」とは「息子」であり、「全身山里人」とは「父」である。

 

「私の郵便配達の仕事が、その朝から始まった。目が覚めると、昨夜、整理した郵便物を父が揃え直している。私に任せるのが不安なのだろう。今日が最初の配達だ。私も不安だったが、すぐに慣れるだろう。いつも見てたから分かっている」(モノローグ)

 

ファーストシーンである。

 

ここで「全身山里人」のテキパキした作業を、トウモロコシを食べながら見る「半身山里人」が映し出されていく。




如何いかんせん、車中で2泊して、3日間で120キロ近い距離を歩く旅程なのだ。

 

父が日課にしていた郵便配達の仕事の大変さを軽視して、「郵便配達は公務員だ。普通の仕事よりいい。幹部にもなれる」と(つぶや)息子。


郵便配達の仕事を、未だ「我が仕事」にしていない息子は、そう言い放った。

 

今や、退職した夫が付き添うことがないので、我が子を手伝う夫との共同作業を見つめる母。

 

不安が募っているのだろう。

 

息子の出発を前にして、「次男坊」(一人っ子政策へのアイロニー)と呼ばれる愛犬(シェパードの)が父から離れようとしないので、息子は単身で出かけようとする。


結局、「次男坊」を同行させるために、父も随行することになった。


早々と疲弊し、一休みして笑みを漏らす息子。


大して歩かないのに、老化を感じてしまう父。


そんな父と「何を話していいか分からない。小さい時から、いつも父はいなかった。叱られたことはないのに、なぜか怖かった…だから“父さん”と呼んだことはない」(モノローグ)

 

最初に手紙を受けに来た家は留守だった。

 

ゆっくりと待つ父。

 

そういう時は、「次男坊」が吠えれば、家の者が帰って来るという習慣がある。

 

その通りになって、(くつろ)ぐ3人。


父子が届ける手紙をもらいに外に出ると、多くの村人が集まっていた。


「お前を見に来たんだ」と父に言われ、赤面する息子。


手紙を受け入れ、村を離れていく父子に、村人は送ってくれ、手を振る息子。

 

「村人はいつまでも見送ってくれた。彼らは父に別れを惜しんでいたのだ。だが父は、一度も振り返らなかった。父は何も求めてはいなかった」(モノローグ)

 

その「半身山里人」が、「全身山里人」を「父」と呼ぶクライマックスシーンにこそ、本作の基幹テーマが凝縮されているので、そのシークエンスを再現してみよう。


「郵便物より軽いね」


これは、父を背負って、河を渡り終えたときの息子の一言。

 

その後、飼い犬である「次男坊」(一人っ子政策へのアイロニー)が集めた(まき)、暖を取る父と息子。

 

「首筋に傷痕(きずあと)あるな」


昔、自分が息子を背負っていた父は、今や、その息子に背負われながら、息子の傷に初めて気づいたのだ。

 

「昔のことだ」と息子。


「知らなかった。何の傷だ?」と父。

「15歳のときだった。(すき)(かつ)いで帰るとき、滑って切ったんだ」

「母さんから聞かなかったな」

「俺が、そう頼んだんだ」

 

そこに、一瞬の「間」ができた。

 

父は、息子に初めて、息子が産まれたときのエピソードを語っていく。

 

と言うより、息子に吐露する、父の思い出話の一切が初めてのものなのである。

 

思春期以降の父子の関係とは、大抵そういうものだ。

 

「お前が産まれた頃、転勤で3カ月に一度しか帰れなかった。産まれた日に、母さんが手紙をくれた。配達員をしていて、自分宛の手紙は初めてだった。長い間に、たった一度だけもらった手紙だ。嬉しくて、有り金はたいて酒を買い、皆に振舞ったよ」 


息子は、この話を聞いて、父の表情をまじまじと見詰めている。

 

「父さんに嫌われている・・・そう言うと、母は怒った。祭りのときにも帰らない。珍しく帰ったときに、爆竹を買って来た。やはり、父も辛かったのだ」(モノローグ)

若き日の母

この直後、母の辛さを思い()る息子は、「父さん、もう行こう」と、初めて「父さん」と呼んだのである。

 

「あんた」が、「父さん」に変わった決定的瞬間である。


父子の心が溶融していくのだ。

 

その溶融は、父を背負う息子の河渡りの行為が開いた、関係の最近接の瞬間でもあった。

 

それは、「半身山里人」としての息子が、「全身山里人」としての父の真情への最近接を意味すると同時に、父の強靭な「職業意識」への最近接でもあったと言える。

 

このシークエンスが、本作の基幹テーマを凝縮させているのは、父と息子の初めての共有経験を介して、「山の郵便配達」という「職業意識」のうちに収斂されていく二人の「男」の心的プロセスが、一つの決定的な折り合いを表現し得たからである。

 

それは、「過去」をノスタルジックに回想するだけの父の「軌跡」と、回想すべきノスタルジックな「過去」を持ち得ない息子との間に、形成的に累加された距離感が、二人の関係の中枢に介在する「不在」なる「母」の存在性を際立たせることで、そこに山里での「定着」を保証し、「家族」の継続力を更新し得たからでもあった。

 

 

 

2  価値観の相違の問題を相対化した、最初にして最後の同行の旅程

 

 

 

河渡りののシークエンスは、映像前半で特定的に拾われた、「盲目の老婆」のエピソードが重要な伏線になっていた。

 

「10日か半月に一度は、婆さんに会って、手紙らしく読んでやれ」

 

息子に語る父。

 

これは、大学に合格し、都市に出て行った可愛い孫と会えない寂しさや、重なる不幸で盲目になった老婆への配慮によって、孫からの手紙と称して、何も書いていない紙を手紙らしく読む行為のこと。 

盲目の老婆に手紙らしく読む父


それを息子が、父に代わって代読するのだ。

代読した紙を老婆に渡す息子

「父は何も求めていなかった。だが、村人の心を得た。彼らは決して父を忘れないだろう」(モノローグ)

 

父の最後の郵便配達で知った、「盲目の老婆」の孫の代役まで引き受けるという、「職業意識」の範疇を超えたその親切心に、息子は、村人の心を得た父の存在感の大きさを目の当たりにしたのである。

 

そんな悲哀のエピソードがあっても、「半身山里人」としての息子と、「全身山里人」としての父との意識の落差は顕著だった。

 

「人家もない道を歩く必要はあるの?」と息子。

「でも、歩くしかないのだ。不正確なバスより、足の方が正確だ」と父。

 

「半身山里人」は、「全身山里人」の非合理の世界に入れない。

 

「軌跡」の重量感が決定的に違うからだ。

 

最初にして最後の同行の旅程の中で、そればかりは共有経験し得ないのである。

 

しかし、「言っておくが、愚痴はこぼすな」と語る「父」の強靭な「職業意識」に最近接することで、形成的に累加された距離感を縮めることは可能であった。

 

山里での「定着」を保証し、「家族」の継続力を更新することは可能なのだ。

 

それだけで充分なのだ。

 

同行の旅程を終えて、疲労ですっかり熟睡する息子を慮(おもんばか)って交される、ラストシーンの父母の会話。

 

「支局長は、あんたの達(たっ)ての願いを聞いて、息子さんを入れたけど、あんな辛い仕事をさせるのは忍びないと言ってたわ」

「他に誰がやると言うんだ。息子なら、安心してできるからな」


「息子なら、安心してできる」という父の言葉は、世代間に横臥(おうが)する価値観の相違による確執の問題が、如何に末梢的であるかということを如実に示している。

 

それは、父と子の、最初にして最後の同行の旅程が、この言葉のうちに収斂される成果を得たことを意味するだろう。

 

そして日が変わり、父と子の同行の旅程で経験した教訓を内化した息子が、父母が見守る中、今、「次男坊」の先導の下、鮮度溢れる旅に独りで打って出るのである。


これがラストシーンとなった。

 

 

 

3  「美しきもの」と「善きもの」の紐帯のうちに包摂されていく

 

 

 

まず、この映画で眼を瞠(みは)るのは、抜きん出た映像の美しさである。

 

美し過ぎると言っていい。 


この美しさは、「全身山里人」が定着するに相応しい生活拠点としての自然情景を、その最も美しい季節の、「美しきもの」のみを特定的に切り取って、それをまるで誇示するかの如く提示して見せるのだ。

 

「美し過ぎる映像」は、そこに()者の「善きもの」と濃密に睦み合って、物語の「美しさ」のうちに昇華されていくのである。

 

そこには、「美しきもの」と「善きもの」との不即(ふそく)不離(ふり)紐帯(ちゅうたい)、さらりと映し出す工夫が施されているので、取り立てて大きな事件・事故を「映画の嘘」の中に拾い上げることなく、それらの「虚構性」を確信的に削り取っていく。

 

確信的に(けず)取った物語構成の「自然さ」を、決して声高に叫ぶことなしに、敢えてさりげなく強調する表現の中で、「美しきもの」と「善きもの」が柔和に溶融していく印象が強いので、殆ど目立たないメッセージに包摂(ほうせつ)された「至高の価値」を、観る者は素直に受容することになるだろう。

 

本作の作り手であるフォ・ジェンチィ監督は、作品の基本モチーフを、以下のように語っていた。 

フォ・ジェンチィ監督

「この映画の筋は人間の誰しもが持っている人間の善良な気持ち、感情を基本にして物語が進行していきます。ですから、この映画を通じて人々が人間の『善良な気持ち』というものを思い起こしていただけるなら私の一番の幸せだと思います」(公式HP)

 

本作は、この作り手の意図が完璧に成就した作品となっているかについては、意見の分れるところだが、少なくとも、「美しきもの」と「善きもの」との濃密な紐帯によって表現された価値を、観る者に静かに訴える思いだけは伝わってきたことは事実である。

 

「盲目の老婆」のエピソードに象徴されるように、このメッセージによって、「都市生活の荒廃感」を、(いささ)強調含みで提示する効果だけは、否が応でも認めざるを得ないだろう。

 

それ故、物語構成の中で、「盲目の老婆」のエピソードが内包する意味は大きかった。

 

それは、「盲目の老婆」の心にピタリと寄り添う、「全身山里人」の「善さ」を強調するばかりでなく、「都市生活の荒廃感」をも(あぶ)出したのである。

 

―― 以上が、私が把握する物語の構造であるが、「善きもの」との濃密な紐帯の表現への拘泥(こうでい)に象徴されるように、瑞々(みずみず)しい自然情景の「美しきもの」のみを、敢えて特定的に切り取っていく映像美の連射の過剰さを除けば、物語の内実は決して粗悪なものではなく、敢えて押し付けがましい印象も見られない。

 

それ故、「奇蹟譚」と「感動譚」を怒涛のように垂れ流していく、昨今の映像文化の有りようのように、ツボを得た落とし所で「一気の勝負」を賭ける、ハリウッド的な過剰な演出によるパワフルさが不足していたのは事実だが、寧ろ、特段に飾り気のないこの種の映像のうちにこそ、キラーコンテンツとしての映像文化が()ぎ落とした何かを拾い上げることで、再確認させられる価値の鮮度の高さを感受する人たちも多いに違いない。

 

そのような受容の有りようも、当然、あっていい。

 

 

 

4  異なった国の、異なった文化の、異なった環境に生きる人々の物語

 

 

 

登場人物が限定的な本作の物語の中で、私が最も印象に残っているのは、物語の父子の関係の精緻(せいち)クロスの中で描かれた心理的緊張感である。

 

父子の間に生まれる緊張感の描写がいいのだ。

 

この緊張感を作っているものは何か。


それは、直截な対話を避けてきた父子の関係に張り付く、言語交通のよどみであると言っていい。

 

そして、それ以上に重要な因子は、「全身山里人」としての父にとって、単に「日常」であった「山の郵便配達」の時間と、未だ「半身山里人」である息子にとって、「非日常」の領域にある未知のゾーンへの自己投入への時間が微妙にクロスし、声高(こわだか)にならない程度で確執(かくしつ)を生むときの緊張感であるだろう。

 

この父子の緊張感は、少数民族であるトン族の娘との出会いと、その祭礼によって浄化されながらも、「仕事」としての旅程を繋いでいく。

トン族の女性

以下、トン族の祭礼

郵便配達の息子も踊っている


【「トン族」は中国政府が認定する55の少数民族の一つで、中国南部の諸州に居住し、独自の言語(中国語も併用)を有しながら、祭礼や婚礼で歌や踊りが重要な役割を果たしていると言われる少数民族(と言っても、250〜300万人も存在)である】

                      トン族の人々(ウィキ)




そして、この旅程を繋ぐ「日常」、且つ「非日常」の時間の向こうに待機する河渡りのクライマックスシーン。

 

このシークエンスの中で、「半身山里人」としての息子が、「全身山里人」としての父を背負うことで、父から息子へ世代の継承と命のリレーを、高らかに結んで見せたのである。

 

これが、ラストシーンにおける、息子の「自立行」の最も重要な伏線となって、このような山里では今までもそうであったように、連綿と歴史を繋いでいくというメッセージが、余情のうちに語られるのだ。

 

【心が洗われるような完璧な映画だが、一つだけ余計なことを書いておく。

 

この映画の趣旨が、父から息子への継承の物語であると重々承知しているが、それでも敢えて書く。私は、このような文句のつけようのない映画を観るとき、常に、「これは、異なった国の、異なった文化の、異なった環境に生きる人々の物語である」という風に、限りなく相対化するように努めている。「運動靴と赤い金魚」(1997年製作)の映画評論でも書いたが、その国の文化・経済的条件・地理的条件・教育観・家族観・私権意識・民度・相対主義の浸透度・自由の達成度と、その実感度など、指摘すれば切りがない程の、様々な落差が存在する現実を無視して、このようなヒューマンな感銘譚を「普遍的価値」の、それ以外にないモジュールとして受容する愚だけは避けたいからだ。文明の恩恵に浴しながら、それに感謝する気持ちを蹴飛(けと)ばして、安直な文明批判にのめり込む欺瞞性だけは御免(ごめん)(こうむ)りたいものである】

 

【本稿は、2011年5月に投稿した批評文を、より詳細に最編集した拙稿です】

 

(2026年6月)

2026年6月12日金曜日

94歳のゲイ('23)  それ以外にない〈性〉を生きていく  吉川元基

 


【面食らうような衝撃を受けた。ドキュメントを起こす中で、涙を抑えられなかった。これほど感動した経験も稀有である。強い映画なのだ。魂を揺さぶる映画との出会いに感謝して止まない】

 


1  「ものすごく生きづらかったよ。人と話をすることができへんも」

 

 

「何という人か、分からんが、この人。どこの人か。年格好は分かるがいな。だけど、この顔が一番好きやねん」 


長谷忠(はせただし)さん

「この顔が一番好きやねん」

「新聞紙からくり抜いて。かっこええなあとか。この人の体はどんなやろかなとか。この人と一緒にいたら、どんなんやったやろうとか。写真をくり抜いとんねん。これで自分の満足感を得ているわけよ」  



「セックスは一回もやったことはない。結婚もせえへんし。そんなあれやからな。(みんな)とはちょっと違う違う生涯を歩いてきたからな不思議言われるけど(みんな)理解せえへんやろな 

「セックスは一回もやったことはない」


長谷(はせ)(ただし)さんは、12万円の年金で独り暮らしています時間があると(したた)める短歌や俳句実は過去に詩集自身の半生描いた小説出版していますナレーション


「10代から詩を書き始め、34歳で大きなチャンスを掴みます。康雄は創作活動の時に使う名前。詩の新人賞で最も歴史のある賞を受賞したのです」(ナレーション)


「“おれのみじめな境遇の個人主義の猫はしっぽをなくしてどこを歩いているのだろう 雲や白樺や その広い野原のどこかに おれは壊れた家を建直さなければならない 台風がこなくても手風琴(てふうきん)のようになる 階段かけ上る家 魚の骨のや (めし)(しる)ついているひげをしごくいる 愛すべきごむまりのいる家 出ていない家 ひっかきキズのある (ふすま)カタカタになっている家 のない

 

【手風琴とはアコーディオンのこと】

 

「僕の場合はやっぱり、文学に惹かれてしまったことが大きかったよ。独りの詩人になりたいっていうのは僕の驕りだったからね。そうでないと、いままであんた93歳まで生きてきて。ほいでずーと独りではおられへんかったから…」 

 

「4時間以上は寝たことないよ」という長谷さんは、2018年、ドヤ街のあいりん地区があることで知られる大阪市西成(にしなり)区に引っ越して来た。

 

あいりん地区の名物看板「居酒屋で覚醒剤を売るな!」という駐車場の看板、「なにわの隅の片隅で小便をしないでください」という張り紙があり、不謹慎だが笑ってしまった。 


「子供の街やから。ほいでお爺さんの街やから」

「どんな人が好みなんですか?」とスタッフ。

「頭の禿()げた好きなんや。その方がええんね

 

そこに清掃の人たちが通っていき、関心を寄せる長谷さん。 


「喋りかけたりしないんですか?」とスタッフ。

「しない。そこまでいったら大変やね」

 

スーパーで黒飴をどっさり買って、免許不要のシニアカー(電動車椅子の発展型)で帰途に就く長谷さん。

シニアカーで移動する長谷さん

飲み物は「特濃牛乳」(生乳に脱脂粉乳やクリームなどを加えた加工乳)のみで、「甘い」と声を上げる。

 

同性愛の研究している新ケ江章友(しんがえあきとも・大学教授)さんが、長谷さんを訪ねて来た。

新ケ江教授


「新ケ江教授は、『同性愛は治療可能』と言われた時代や、1980年代にエイズの流行で偏見に満ちた時代を経てきた長谷さんの存在が貴重だと言います」(ナレーション)

 

「自分と同じような同性愛の人が他にいるかどうかというのも、全然、分かんなかったということですよね」と教授。

「ほとんど分からなかったね。言葉に出されんかった。昔はね。自分ではおかしいということは自覚してたけど、他人にはもらさんかったね。他の人ももらさんかったと思う。言わなかったと思うよ。(存在したのは)確実やろうけどな」

 

「同性愛者への差別や偏見が広がったきっかけは、100年以上前に(さかのぼ)ります同性愛医学的に研究したドイツの精神科医クラフトエビング論文が191日本で翻訳されましたタイトルは変態性慾心理』。その中で同性愛は一種の病気だとされます。『変態性慾心理』出版の2年後、今度は日本の研究者が『変態性慾論』を発表。その中で同性愛は精神疾患の一つとされます。更に同性愛は一種の伝染病であり、蔓延すれば、社会を破壊すると論じました。著書には治療法も記されています。有望な手立てとして示されたのは次の3つ。適度な運動を行い、食事を摂る摂養法。催眠術をかける催眠法。そして異性と結婚する結婚法です。新ケ江教授は、1920年代に同性愛が病気だという認識が、国民の間で確立されたと言います」(ナレーション) 


「同性間で性的関係を持つ人は、自分が病気なんじゃないかっていうようなことで悩み始める同性愛者が出て来たというのが、1920年代だと言われています。自分が同性を好きだという感情に気づいたにしても、じゃどういう風にその感情と向き合いながら生きていけばいいのかということが、分からないわけですよね。その中で一番問題になっているのは、異性愛者として結婚して子供を産むというのはモデルがあるわけなので、そのモデルに乗っていくしかなかったわけですよね」(新ケ江教授)

 

「同性愛が病気だと認識された頃、長谷さんは香川県で生まれました。1929年のことで、医師だった父には妻がいて、所謂、愛人の子でした。初恋は小学校の男性教諭でした」(ナレーション)

 

「告白とかされたんですか」(スタッフ)

「しない。告白なんて一切してない。一度もしてない」(長谷さん)

「それは何でですか?」

「そういうことできへんね、その頃は。男が女を好きになるのは簡単にできるけど、男が男に向かって、僕らの10代頃には『あんた好きや』とか、『あんた親友やね』というところまでは、ひょっとしたら言えるかも分からんけどもな」

 

「14歳の時、独り旧満州に渡ります。戦時中に同性愛者であると告白できるわけもなく、通信使や少年軍属として働き、終戦を迎えました。そして1年後、本土の土を踏みます。戦後は大阪に移り住み、原本配達やビルの清掃員など、11もの仕事を転々としました。身の上話になり、『なぜ結婚しないのか』と聞かれるのが嫌で、仕事仲間と親密になるのを避けてきたそうです。職場で好きな男性ができた時もありました。けれど、その想いは、いつも心に秘めたまま。同性愛者であるという自分が近くにいると迷惑になると思い、母や兄弟とは次第に疎遠になりました」(ナレーション)

若き日の長谷さん

「ものすごく生きづらかったよ。人と話をすることができへんも。もしかしたら他人が同性愛者やで、同性愛者ぎみの人間やなて言うたら、『違います』という時代や。人の言葉(さえぎ)ってなそういうニセの言葉隠しくるわけよ


「本当の自分を(さら)け出すことができたのは、の名で書いたや小説でした1960年代のらを描写した小説には、次のような一節があります。たちに誘われてストリップショーを見に行っても少しも楽しくなかった男子部員の手前もあって興奮した顔をよほど覚悟がなければ生き通すことがきない通しての自分に対する一生の恨みつらみであり、運命への憎しみであるナレーション

長谷さん(中央)


梅田政宏さん(56)。 

梅田さん

「でもちょと人とは違う。それが一番、辛いんじゃないでしょうかね」

 

「梅田さんは大学卒業後、福祉関係の仕事に就きました。週末はいつもゲイバーに通うように。そしてついに、20代半ばで、初めて同性の恋人ができます。ようやく夢は叶いましたが、家族や職場には黙ったままでした。上司にお見合いを勧められた時は、好きな女性がいると断りました。同性愛者だと公表できないことに苦しみ、12年前には鬱病を発症します。やがて、置かれた状況に耐えられなくなり、48歳の時、カミングアウトすることに。けれどそれ以降、職場で孤立し、退職。ケアマネージャーの道に進みました。今は10歳年下の同性のパートナーと暮らし、14年になります。LGBTの理解を深める活動をしている」(ナレーション) 

若き日の梅田さん(中央)


以下、「第52回釜ヶ崎越冬闘争」での梅田さんのスピーチ。

 

「私、ゲイをオープンにして、地域でケアマネージャーをさせてもらっています。変な奴と思うかもしれませんが、変な奴で結構です。変な奴のまま死んでいく。でもこれが、私たちの今の日本の社会で置かれている立場なんです。ここで言うんだということを、もう少し可視化をさせてもらって、ちょっと少しは幸せになってもバチはあたらんかなと思ってます。私たちの権利も人間の権利。LGBTも人間の権利です。皆さんと同じです。これから頑張って活動していこうと思ってます。ありがとうございました」

「第52回釜ヶ崎越冬闘争」での梅田さん

【釜ヶ崎越冬闘争とは、追い出される人々の命を守ると同時に、差別的な社会構造への抗議・変革を掲げて、大阪・釜ヶ崎(あいりん地区)で1970年から続く、年末年始に日雇い労働者や野宿者の餓死・凍死を出さないことを目的とした炊き出し・集団野営・医療パトロールなどの取り組みを伴う生活防衛運動のこと】 

「第52回釜ヶ崎越冬闘争」


「1971年。流れを大きく変える雑誌が登場しました。日本初となるゲイの商業雑誌『薔薇族』です。一般の書店にも並び、いよいよ可視化しました。編集長の伊藤文学さんは創刊号で、こう宣言します。『この人たちは病気ではないかも知れない。しかし、世間の人からのつめたい偏見にさいなまれている人たちです。社会からはみだしている人たちです。ぼくは黙っていられないのだ』(略)創刊号は大きな反響を呼びます。第2号では読者の手紙を紹介することに。ある読者は“病気ではないこと”“仲間がたくさんいることを知り勇気を得ました”と読みました。偏見に満ちた時代に発行し続けた理由。それは『弱い者にペンを向けるという気持ちは、僕にもあったんじゃないかと思うんですよね。じゃなきゃ、女好きの僕がゲイの人のことを知ったからと言って、そういう気持ちにならなかったと思うんですけど…創刊2号でちょっと毛が見えただけで、警視庁に呼ばれて始末書を取られた。始末書を取られただけでも20何回かな。発行禁止処分が4回かな。だから「桜田門(警視庁)まで定期券を買え」って言われたことがあった。でもそんなこと怖れていたら出せないもんね』。現在94歳の伊藤文学さんの言葉である。特に人気を集めたのは文通欄です。掲載された数十ものメッセージを読み、気に入った相手に手紙を送るという当時は、言うまでもなく、気軽に出会える場所は相当ありません。文通欄は出会いを提供するとても大切な存在となりました。『ぼくはいま、冷たい部屋の中で孤独にあえいでいる。だれかぼくと友だちになってくれないかな?』『23歳の今日まで、ひとり心の中でじっと押さえてきたことが悔やまれます』。投稿は号を重ねるごとに増え、多い時には全てのページの半分を使って、千人以上掲載することも」(ナレーション)


伊藤文学さん

【薔薇族という名の由来は、男性同士の愛の場所は、薔薇の木の下だったというギリシャ神話から着想を得たということ】

 

「自分はこういう世界におるんやなあ。こういう人たちと違うんやなあ。本屋が出してくれるんやったら、それを読む人びともおるんやなあ。読むだけ読んで納得しとくだけ。薔薇族があってありがたかったわ。ほんまありがたかった」


薔薇族の出現を喜ぶ長谷さんの言葉である。

 

「ゲイが可視化されたとは言え、まだ偏見に満ちた時代に哀しい出来事が起きます。1983年、薔薇族を万引きしたある男子高校生が自殺したのです」(ナレーション)

 

「巡査に連れて行かれて、親に売られちゃったんだ。そしたら万引きしたことよりも、親にゲイだと知られることが怖ろしかったんじゃない。それで、トイレ行かせてくれって言って、階段を駆け上って屋上から飛び降りてしまった。それは辛かったね」(伊藤文学さん)


「男子高校生の死を知った伊藤さんは強い衝撃を受けます。早速、特集を組み、読者に向かってこう訴えました。『本当に今はこの少年に何もしてあげられない。でも、僕はこの少年の死を、ぜったいに無駄にはしない。必ず、やる。今に、世間の偏見をなくしてやる。みんなの心の中に巣食う後ろめたさを、自分の力で追い出さなければいけないのだ。男を愛することがいけないのだという意識をなくさねば…。』」(ナレーション)


薔薇族は1990年代には毎月3万部を発行。インターネットの台頭で部数減少。2004年、廃刊。

 

「その頃の薔薇族を読んでた人は、随分、心の支えになったんじゃないかと思うけどね。今でも感謝されてるからね。異常でも変態でもないと言い続けたわけだからね。今はだいぶ世の中変わったから良くなってきたけど、ここまで来るのは大変だった」(伊藤文学さん)

 

一冊の雑誌の刊行が、世の中を変える推進力の一つになっていったのである。

 

 

 

2  「僕にとってまるで奇蹟やな。奇蹟な出来事や。僕は元気で良かったわ。それでなきゃ、こんな目にあえんよ。これが最後の写真になるかも分からん」

 

 

 

「長らく日本では同性愛について『異常性欲の一種』とされてきました。けれど1991年になって、ようやく辞書から、その文言が消えます。1994年には、同性愛を精神疾患に分類してきた当時の厚生省も動きました。WHOの基準変更を受け、精神疾患から削除した時、街では、性的マイノリティの権利を求めるパレードが開かれるようになった。性的指向や性自認を公にする人も増えました。人々の意識が変化する中で、同性愛者であることを隠してきた長谷さんにも変化が…」(ナレーション)


【「性的指向」とは自分の性愛の対象となる〈性〉のことで、「性自認」とは自分の脳(心)が認知する自らの〈性〉のこと】

 

「黙ってもゲイできたのは寂しいなあと思って、いっぺんやってみようと思って、御堂筋でパレードやったわけよな」

前列右が長谷さん

長谷さんはゲイの権利向上を目指すグループに入り、同性愛者に理解を求めるデモに参加します。けれど周りは20代や30代の人たちばかり。既に59歳になっていた長谷さんにとって、あまり居心地がいい場所ではありませんでした」(ナレーション)

 

「今、このLGBT、日本の中でも性的マイノリティの存在が、社会の中で大きくクローズアップされて、少しづつ理解が進んできていると思います。ただ、それは一気にそうなったわけじゃないんですよね。その背景には、ここに至る沢山の人たちが闘ってきているんですよ。それは社会運動として闘ってきていることではなくて、自分の存在を賭けて闘ってきてる、自分がどういう風に生きていたいのかということを、一人ひとりが闘ってきて、今の社会があるんですよ。それはどういうことかって言うと、例えば自分が同性愛者かも知れないということで、結婚をして子供を産むような形として、異性愛者として生きてきた人たちもいる。でも、その人たちは色んな悩みみたいなものを、薔薇族のような雑誌の中で語っているわけですよね。そのことが読者の人たちに、辛い生き方を共有しているということです。そういう人たちがいる一方で、社会の中で自分たちの存在を認めて欲しいということで、例えばパレードを行ったりだとか、声を上げて闘っていた人たちがいる。そういう一つ一つの運動が今と繋がっているわけですよね。だから、そこのことに気づいて欲しいということです」 

新ケ江教授

ゲイバーが林立するゲイタウンが紹介される。

ゲイバー


西日本最大のゲイ・タウンとして知られる、大阪・堂山町(どうやまちょう)と思われる。 

人気のゲイバーが林立する堂山町


その夜、体の震えが止まらず、発熱し、新型コロナに感染してしまった長谷さん。

 

救急車で運ばれ入院し、1ヵ月が経つ。


スタッフを笑顔で迎える長谷さん。

 

幸いにも重症化しなかったのである。

 

ケアマネの梅田さんが迎えに来て、退院するに至った。


2022年5月。

 

後遺症もなく、外出できるまでに回復した長谷さんは、「LGBTを考える勉強会」に参加する。

 

長谷さんに参加を呼び掛けたのは、この会の主催者で、「第52回釜ヶ崎越冬闘争」で熱弁を振るったケアマネの梅田さんである。

挨拶する梅田さん

「この日の参加者は、長谷さんとは世代が大きく違う人たちばかり。それでもいいと、会場に足を運びました」(ナレーション) 

 

「ここにいる皆さんは、自分が同性愛者であると言えるかどうか、聞きたいわけです」


反応があった。

 

「私、今のパートナーと20年暮らしているんですよ」

 

この間、長谷さんも「一緒に住んでんの?」と聞き返し、会話が成立する。

 

ここで梅田さんが近寄り、長谷さんにマイクを渡すので話して欲しいと耳打ちされる。 


「ものすごく頼もしく思いました。僕の若い時は秘密やったんです。黙ってね。それで薔薇族とかね…」(長谷さん)

 

「世代の大きく違う人ちとの触れ合い、性の多様性がおおらかに語られるようになった時代を実感し、幸せに満たされた気がする。梅田さんとの出会いが開いてくれた新たな扉。孤独の中で生きてきた長谷さんにとって、梅田さんはかけがえのない人になっていました」(ナレーション)

 

約1ヵ月後。

 

梅田さんが路上で倒れ死亡。

 

死因は急性心不全だった。

 

「毎朝、毎朝、薬飲んでるか~って言って、電話かけてくれたん。その晩、死によったん。56歳で死にはったん。そりゃショックや。物言われへん。わしのほうが先、()かなきゃいかん

 

2022年10月。

 

「梅田さんを(しの)出席した長谷さんは今、遺書を書いている。 

今は亡き梅田さん

「遺書 長谷忠 私は無を目指してきた。長年独身だったから、一生結婚しなかった。結婚しなかったから家も家族もなかった。独身だったから死後のことなど関心もない。関係もない。独りで生きてきた。その私が遺書を書くなんて、人を頼るなんて考えもしない出来事だった。うさ晴らしだった。笑っておくれ人の弱みを…そうすると、私も人間だったのだ。遺書というものに頼るなんて、考えてもみなかった。無は寂しい独りの生き方だった。ものに頼るなんて、遺書に頼るなんて、恥ずかしい」


まもなく東京から、ボーン・クロイドという63歳のハーフの男性が、東京へ一度も行ったことのないという長谷さんを訪ねて来た。

 

ゲイをカムアウトした男性で、長谷さんから「男前」と言われ、意気投合する二人のゲイ。

 

「長谷さんは生き方として参考になる」というボーンさん。

ボーンさん


障害者の就労支援施設を運営するボーンさんが、再び訪ねて来た。

 

その日、二人は銭湯に入る。

 

(ふんどし)を締める長谷さんはボーンさんにも勧めるが、「恥ずかしい」と言って遠慮するボーンさん。


「人に背中触ってもらうのは初めて」と照れる長谷さん。


別れて募る寂しさか、ボーンさんに、「あなたに逢うのが楽しみ ではまたね」と手紙を書いて、投函する。 

ボーンさんへの手紙

「うれしかったです。このような手紙を頂けるとは本当に思っていなかったし、梅田さんのように関わることはできませんけれども、友だちとして永く付き合うことができたら僕もうれしいと思います」


思いも寄らない手紙を読んで、感極まるボーンさんは、「ゲイ友として」という手紙を(したた)める。

 

一方、長谷さんは逝去した梅田さんが立ち上げた集会に、月に一度通っている。。

 

当会に参加した短期大学の助教は、自らの授業の中で受けた感想を率直に紹介する。

 

「この前、私、自分の授業の中で、長谷さんのドキュメントを看護学生に見てもらいました。そこで色んな感想があって、ちょっと紹介しますね。『今でも同性愛やLGBTへの理解があまりされていないことの現状だけど、もっと昔から、そんな悩みを抱えながら生きている人がいると知って衝撃を受けた。今よりも当たり前に理解がない中で、カミングアウトもできず、(カミングアウトを)しても、退職しなければ、自分が生きづらい状況にまで追い込まれる現状に、とても胸が痛くなった』」 


その度に頷く長谷さん。

 

また、高齢者のLGBTはいないと思っていたという意見も多かったと、説明を受けるのだ。

 

「普通と違う生き方をしてもいいんだな、と思えた。そういう意味で格好いいな」と語るゲイの男性。

「私にとってスーパースターですよね。光だと思います。未来が暗闇だったのを、スーといくの。一筋の光が」と語る女性。

 

「今の時代に長谷さんが生まれてはったら、自分の生き方って、どう変わってはったらと思います?」とスタッフ。

「それは、好きな男がおったら結婚するわよ。結婚して周囲が認めなくても、二人の生活があったらええやんか。楽しいやんか。同性愛者もいるんやなという世の中にならないとダメ。絶対、いるんやから同性愛者が。多いことはないかも知れんが、それは数えてみんと分からへんや。同性愛者(を)異性愛者の人がどのように認めていくかっていうことをね、世の中変わっていくと思うよ。それはこれからの日本でも、そういう風に段々なっていくと思うよ」


ボーンさんから手紙が届いた。

 

「活き活きと過ごされているのを聞いて、安心しました。春までには、また大阪に行こうと思っています。それまでは元気でいてくださいね。これからはゲイの友だちとして、お付き合いください」

 

「梅田さんが亡くなって、二度とゲイの人と友だちと逢うことはないやろなと思ってたんや。できたんや、この人と。東京で離れとるけど…ゲイ同士やもん。とても考えられません。僕にとってまるで奇蹟やな。奇蹟な出来事や。僕は元気で良かったわ。それでなきゃ、こんな目にあえんよ。これが最後の写真になるかも分からん」




印象的なラストである。

 

 

 

3  それ以外にない〈性〉を生きていく

 

                                                                                             

 

面食らうような衝撃を受けた。

 

ドキュメントを起こす中で、涙を抑えられなかった。

 

これほど感動した経験も稀有である。

 

強い映画なのだ。

 

魂を揺さぶる映画との出会いに感謝して止まない。

 

冒頭の文面である。

 

余韻に浸っている。

 

強い映画と出会った喜びが後を引いているのだ。

 

「私も人間だったのだ。遺書というものに頼るなんて、考えてもみなかった。無は寂しい独りの生き方だった。ものに頼るなんて、遺書に頼るなんて、恥ずかしい」

 

ケアマネでもあった梅田さんの急逝による、あまりに強烈な痛み。

 

この痛みが孤高を貫いてきたかのような長谷さんをして、遺書を書かせるに至った。

 

「無」を人生訓にしてきた長谷さんにとって、「寂しい独りの生き方」の中枢を衝くのだ。

 

この遺書は、観る者の心の琴線に触れるインパクトを与えるのに十分過ぎる。

 

孤高を貫いてきたと言っても、本人にすれば最愛のパートナーと出会えなかっただけで、「好きな男がおったら結婚するわよ。結婚して周囲が認めなくても、二人の生活があったらええやんか」と言い切った。

 

それでも、俗世間から距離を取って生きてきた長谷さんの孤独は、俗世間の臭気に自我を合わせることができなかった生きざまに変わりがない。

 

自らゲイパートナーを求めた形跡も拾えない。

 

それを私は、長谷さんの弱さの産物であるとは思わない。

 

俗世間に適応するために、自己の総体をセルフカモフラージュさせる行為を恥じた男の生きざまを、私はそこに見る。

 

自閉症スペクトラムの人が、周囲に合わせてセルフカモフラージュする辛さは、本人にしか分からない、強いられた適応戦略かも知れない。

 

だから、セルフカモフラージュによって疲弊する人生を背負って生きていく。

 

累加された精神的疲弊感は自我にダメージを与えるだろう。

 

それ以外にないと括って生きる〈生〉は、それを浄化する何かを持っていないと続かない。

 

映像を観る限り、長谷さんの場合、孤独を貫流させる以外に、自らの〈生〉を立ち上げられなかったのだ。

 

セルフカモフラージュを持続させて生きるには、若き日の長谷忠(本名)さんの自我は強いられた適応戦略を受容しなかった。

 

()くして、表現の世界を(ひら)そこで存分に自己を開示していく。 


「長谷康雄」というペンネームで時間を動かした詩作の世界こそ、長谷忠さんの唯一の生きざまだったのである。 


そこに私は、長谷さんの強さを感じる。

 

本作が「強い映画」であった所以(ゆえん)である。

 

「私が、94歳の長谷忠さんと出会ったとき、私自身が90代のゲイという存在を聞いたことがなくて、非常に驚いたんですね。ただ、それは非常に間違った考え方で、昔も今も変わらずに、ゲイの人たちはたくさんいたわけで、その存在さえもなかったことにされているのではないかと思いました。そこに光をあてたいと考えて、この映画を作りました」(インタビュー)

 

吉川元基監督の言葉である。

 

毎日放送(MBS)のドキュメンタリーディレクターである(きっ)川元(かわげん)()監督は、「失礼で恥ずかしいけど、90代でゲイの人がいるなんて驚いた」と振り返るが、今まで高齢者のゲイについての記事を見たことがないから、私も同じ。 

吉川元基監督


普通に考えれば、高齢者のゲイの存在は当たり前のこと。

 

高齢化すれば、ゲイを卒業するなんてあり得るわけがないのだ。

 

吉川監督の、「昔からいるはずなのに、いないことにされてきたのではないか」との認識は正解である。

 

存在を知らなかった自分のような視聴者に伝えたいと考えた。

 

性的マイノリティーをテーマに取材をするのは、その吉川監督は、「性的マイノリティーを取材していたつもりが、ひとりの人間の生き様を追いかけていた」と語っている。

 

「どんなに苦しくても長生きしていたら、光が見えることもある」と勇気をもらったと言うのである。

 

だから、一貫して、優しい視線で長谷さんの生きざまを描き切った。

 

この作品は、ドキュメンタリー ディレクターとしての吉川監督の優しくも、曇りのない視線を自己開示する映画になった。

 

とりわけ、ボーン・クロイドさんとの出会いを、「奇蹟な出来事や。僕は元気で良かったわ。それでなきゃ、こんな目にあえんよ」と吐露した言葉で終わるラストの感銘が、いつまでも余韻の残る映像に結晶したのである。

 

そこに、映像の(ちから)(わざ)感じるのだ。

 

絶対推薦の秀作である。


長谷忠さん。


2024年11月10日に逝く。               

 

95歳だった。

 

哀悼の意を表します。

 

 

 

4  〈性〉の多様性

 

 

 

〈性〉については繰り返し書いてきているので(注)、ここではゲイの生と死を描いて散った映画「ハーヴェイ・ミルク」等々から、簡便に参照・引用する。

 

同性愛であるゲイは、女性の同性愛であるレズビアンと同様に、「性的指向」である。

 

ついでに書けば、近年、よく言われる「LGBTIQA」とは、L=レズビアン(女性の同性愛者・「レズ」とは言わない)・G=ゲイ(男性の同性愛者)・B=バイセクシュアル(両性愛)・T=トランスジェンダー(生物学的性と性自認が一致していない人)・I=インターセクシュアル(「性分化疾患」)・Q=クエスチョニング(自らの性自認・性指向に迷いがあり、それを探している状態の人々)・A=アセクシュアル・Xジェンダー(エイセクシュアル・男女のいずれにも「性自認」を持たない「無性愛」)のこと。

 

中でも「LGB」は典型的な「性的指向」である。

 

ここで「性分化」には4つの険しい関門がある事実を押さえておきたい。

 

ヒトの性が、XとYの性染色体によって規定される事実が瞭然(りょうぜん)としたのは、20世紀半ばに性染色体が発見されたからである。

 

この発見は、Y染色体の有無が性を決定し、Y染色体を持つ個体が男性であり、Y染色体を持たない個体が女性になる事実が判然とする。

 

では、「男と女の体は、どのようにして作られるか」。

 

「男性化・女性化」という、性分化の機序は極めて複雑であり、幾多の険しい関門を突破していくということである。

 

そして、その突破すべき険しい関門は、たった一つの段階においてさえ十全に機能しなければ、異常を起こし得るリスクを抱えているが故に、ヒトの性は、常に想定される状態に性分化し、発達するとは限らないということだ。 

 

ヒトの性分化への道程は、幾多の険しい関門突破なしに済まないのである。

 

以下、性分化の突破すべき険しい4つの関門に言及したい。

 

生殖器決定の第1のプロセスは、「遺伝的な性」としての、性染色体による性の決定である。  

性染色体


受精における卵を有するX染色体に対して、XまたはY染色体を有し、精子の持つ性染色体によって性が規定されるのである。 

 

要するに、Y染色体を有する個体は男性に分化し、男性生殖器を持つべく運命づけられるのだ。

 

これを「精巣決定遺伝子」と言うが、通常、脊椎動物で初めて発見された性決定遺伝子・「SRY遺伝子」と呼ばれている。 

SRY遺伝子

ヒトの性分化の4つの険しい関門の第2のプロセスは、雄では精巣・雌では卵巣になる「生殖腺の性」、次に、身体の生理学的な性に分化する「身体的な性」であり、最後に、細胞・シナプス(刺激を他の細胞に伝達する神経細胞)の数・領域の形や大きさなど、「アンドロゲン」(性欲の発達に関与し、精巣から分泌される雄性ホルモン)が作用しない雌と異なり、「アンドロゲン」が作用し、構造や機能に性差が生じる「脳の性」の分化が続くということ。

 

簡単にまとめれば、こういうことである。

 

     「遺伝的な性」 ―― 「染色体の性」(XY=男性、XX=女性)

 

     「生殖腺の性」 ―― 精巣と卵巣

 

     「身体的な性」 ―― 「内部生殖器」と「外部生殖器」

 

     「脳の性」 ―― 内分泌調節・行動・心理

 

ここで重要なのは、「脳の性」に至るまでに、何より「遺伝的な性」が性分化の起点になるということである。

 

だから、性的指向の遺伝子の存在を否定できないということだ。

 

では、ゲイの遺伝子は、一体どこにあるのか。

 

現在、その「性的指向」の遺伝子の研究が存在し、確証を得られていないながらも、私が最も関心を持つのが「前視床下部間質核」(ぜんししょうかぶかんしつかく)。 

前視床下部間質核


塚原伸治(埼玉大学大学院理工学研究科生命科学部門准教授)氏によると、性的指向を左右しているのは、脳の「前視床下部間質核」という場所だと指摘している。 

塚原伸治さん

「前視床下部間質核」こそが「性的指向」の遺伝子であるということではないか。

 

「性的指向」の遺伝子であれば、本人の意思で自由に替えられる問題ではないのだ。

 

本人の意思とは、「脳の性」という最終プロセスの所産であり、ヒトの性分化が「遺伝的な性」⇒「生殖腺の性」⇒「身体的な性」という様態を発現するしている限り、私たちが「普通の性」と考えるヘテロセクシャル(異性愛)から見れば、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルを異常者としか把握できないだろう。

 

ヘテロセクシャルもまた、多様な〈性〉の中の、一つの〈性〉でしかないのである。

 

私自身もまた、自らの性愛の対象が自分とは異なる性別の人に向くヘテロセクシャルでしかないのだ。

 

どの〈性〉がマジョリティーであったにしても、世の中には多数の〈性〉が存在し、それぞれの〈性〉を受け入れ、〈性〉の多様性の中で、様々な形で呼吸を繋いでいるのである。 

「性の多様性」(イメージ画像)

 

(注)心の風景同性愛者は存在するだけの理由がある」  心の風景「人はどのように男になり、女になっていくのか」  心の風景「LGBTという、押し込められた負の記号を突き抜ける肯定的な自己表現」  心の風景「公権力の行使にとって、LGBTの知識がないことは許されない」  心の風景「『多様性』の揺らぎの海に生きる」  時代の風景「同性愛者を許さない ―― 究極の残酷刑・石打ち刑で罰する

 

(2026年6月)