検索

2026年7月12日日曜日

国宝('25)   悪魔と取引した男の最高到達点  李相日

 



1  「あの二人。女型で組ましたらおもろいかもしれんな」

 

 

 

1964年 長崎

 

喜久雄(きくお)少年の歌舞伎演目「(せき)()」の演技を見て、「いやあ、見事なもんや」と驚く上方歌舞伎の名門当主・花井半二郎。 

喜久雄(きくお)

              半二郎(後方左)と権五郎(後方右)、中央は後妻のマツ


喜久雄、よう見とけ。しっかり、そん目で見とけ」と言って、銃丸を浴び、たおれていく権五郎。

喜久雄


花井半二郎によって守られた喜久雄は、幼馴染(おさななじみ)春江と背中に彫り物をする。

 

二人の関係の深さを示唆する描写である。

 

また、父の(かたき)討ちを図るが、頓挫する喜久雄。 


【「関の扉(せきのと)」は、逢坂山(おうさかやま)の関を舞台に小野小町(おののこまち)の伝説と大伴(おおともの)(くろ)(ぬし)の陰謀を描く歌舞伎舞踊の代表的名作。ここで喜久雄が演じたのは遊女・墨染(すみぞめ)である

 

1年後。

 

生みの母・伯父・叔母を原爆症で喪い、天涯孤独となった喜久雄を引き取ったのが先の花井半二郎。

 

そんな喜久雄を半二郎の妻・大垣幸子(さちこ)が迎えるが、極道の息子ということで気乗りがしない。

 

「いきなり困るわ。犬の子、拾うてくるみたいに」

「なんしか、あの墨染(すみぞめ)は今でも、よう覚えてんのや

半次郎と幸子

「せやかて素人やんな」

 

半二郎夫婦の会話である。

 

そこに喜久雄が入って来て、丁寧な挨拶をする。

 

不束者(ふつつかもの)ですが、どうぞよろしくお願いします」

「気楽にやったらええがな」

 

半二郎はそう言って、実子の俊介を紹介する。

俊介

花井東一郎という歌舞伎役者の名前をもらった喜久雄に対して、「俺、半弥やで」と言って、不満を漏らす俊介。

 

「なんで俺が半で、こいつが一やねん」

「あんたはいずれ、三代目・半二郎。二になるやろ」と半二郎。

「せやけど、あれやわ。こんな大きい子の親代わりなんてでけへんし。ずーとうちに暮していくいうのも…なあ?」

「もう、長崎へは帰せへんで。“曽我兄弟”やで。親の仇、討ったんやってな」

「ばってん、しくじったとです」 


連獅子」を舞う半二郎を見て感動する喜久雄。



【連獅子とは、我が子を谷底に蹴落として這い上がる子を育てるという、獅子(ライオン)の教育の厳しさを描く】

 

連日、俊介と共に厳しい稽古に励む喜久雄には、寧ろ、その厳しさを愉悦するのだ。

 

極道の世界で精神的に鍛えられたのだろう。 


俊介と二人でも稽古する二人。


「あの二人。女型で組ましたらおもろいかもしれんな」

「あんたも、そう思うたん?」

「うん…どっちにしても、喜久雄相手やったら、俊ぼんも稽古に身が入るやろ。なんや甘いとこあんやから、あいつ」

 

夫婦の会話である。

 

「あいつ」とは息子の俊介のこと。

 

その俊介と喜久雄は半二郎に随行し、人間国宝の小野川万菊を訪ね、女形である万菊の「鷺娘(さぎむすめ)」を踊る姿を見て驚く。 

人間国宝・万菊に喜久雄を紹介する半次郎


「化けもんや」と喜久雄。

「せやけど、美しい化けもんやで」と俊介。


【鷺娘とは、ウィキによると、鳥である鷺が娘に姿を変じて踊るというもので、歌舞伎および日本舞踊の演目の一つで、現在、3種類あると言われる。坂東玉三郎の鷺娘が有名で、YouTubeで見れる】

 

 

 

2  「俺な、今一番欲しいのは、俊ぼんの血やわ。守ってくれる血が俺にはないねん」

 

 

 

1972年。

 

青年になった喜久雄は化粧に余念がない。

喜久雄

酔っぱらって楽屋に入って来る俊介に、「遊び過ぎちゃうか。もう、幕開くで」と声をかける喜久雄。

 

舞台で、二人は「二人(ににん)藤娘(ふじむすめ)」を舞う。


【二人藤娘」とは、長唄舞踊「藤娘」をもとに、一人で踊る藤の精を二人の藤の精として演じる歌舞伎舞踊の形式で、藤の花の精が恋心や酒に酔う風情を華やかに踊る演目/AI回答】

 

それを見て、「よくやった」と言って、二人を呼ぶ三友(みつとも)の梅木社長。

 

歌舞伎を仕切っている人物である。 

右から梅木・喜久雄・俊介


「ものは試しで、今度の京座(みやこざ)懸けてみようじゃないか」と梅木

「それはありがたい話でっけど、こんな半人前に大舞台、務まりますやろか」と半二郎。

 

梅木の話を聞いて喜ぶ喜久雄と俊介。

 

二人の表情を見て、梅木のブレーン・竹野が嘲笑する。

 

竹野に腹を立てた喜久雄が文句をつけると、竹野は言い切った。

 

「歌舞伎なんてただの世襲だろ。あんたは所詮よそ者。今は一緒に並べてもらってても、最後に悔しい思いして終わるのはあんただぞ」

竹野

この言葉に切れた喜久雄は(いき)り立つが、竹野は同じことを言い放つ。

 

「悔しい思いして人生終えるのは、あんただぞって言ったんだ」


その瞬間、喜久雄は「ノボすんな、わりゃ!」と怒鳴って、竹野の腹を()り上げた。

 

ここで二人は取っ組み合いの喧嘩になり、周囲の者たちに止められるという顛末(てんまつ)だった。。

 

【「のぼすんな」とは、「のぼせるんじゃねえ」という意味の方言】

 

二人の念願が叶い、京座(みやこざ)での大舞台が開かれる。

 

演目は「二人(ににん)(どう)成寺(じょうじ)」。

 

唄方(うたかた)の唄に合わせて二人で踊る趣向の「二人道成寺」。

 

二人の花子が舞い踊る眩いばかりの華やかな世界が披露される。


それを見守る半二郎


観客席には、(とん)がった喜久雄と喧嘩した竹野もいた。

 

【二人道成寺は、歌舞伎舞踊「(むすめ)(どう)成寺(じょうじ)」を二人の(しら)拍子(びょうし)平安末〜鎌倉期に盛行した歌舞を演じた遊女が踊る趣向にした演目で、安珍あんちんきよひめ伝説を題材とし、長唄に乗せて華やかな所作と衣裳替えを見せる舞踊劇。花子とは、道成寺の鐘供養に現れる白拍子であり、その正体は安珍を追って鐘に執着する清姫の怨霊が姿を変えた存在である。二人道成寺では、この花子の役柄を二人の役者が分け合い、時に一体、時に対照的な二つの相として踊り分ける/AI回答】

 

大成功を収める東半コンビ(東一郎と半弥)がインタビューを受け、答える喜久雄。

 

「なんや。見たことがない光景でした」

 

その夜、俊介を中心に春江が働くキャバレーで騒ぐ役者ら。

 

その中に喜久雄もいる。

 

「喜久ちゃんは芸、見てもらえるんが一番うれしいんよ」

 

その夜、春江のアパートの部屋で愛し合う二人。

 

「結婚しよ」と喜久雄。

「あかんか?喜久ちゃんは役者。今が上り坂の大事な時。うち…うんと働いて喜久ちゃんの一番の御贔屓(ごひいき)さんにな楽屋にペルシャ絨毯(じゅうたん)()たろそんで、もっと働いて劇場建てたろ毎月喜久ちゃん主役やお客さん、みんな喜久ちゃんうっとりしっぱなしや春江。

春江

交通事故で入院することになった半二郎は、自分の代役に喜久雄を指名し、妻・幸子は猛反対をする。

 

「泥棒と一緒やないか。人んちに入り込んで、大事なもん盗みくさって。このこそ泥が」 


俊介は喜久雄にここまで言い放ち、喜久雄の胸倉を掴むが、本音全開のジョークで済ますのだ。

 

「“実の息子より部屋子の方が芸は上”言うのが、天下の二代目、花井半二郎なら俺も文句ないわ」

「俺に旦那の代役、務まるんやろか」

「まあ、誰にも務まるわけないわな」

 

まもなく、半二郎の病室で、喜久雄は特訓を受ける。

 

「好きな男に一緒に死ねるかどうか聞いてんねんで!」と半二郎。


題目は「曽根崎心中」。

 

近松門左衛門原作の最も有名な心中物語として知られる名作である。

 

手代(従業員)の徳兵衛と遊女お初の究極の愛が、徳兵衛の友人・九平次の裏切りに()って、心中に至る悲恋の物語である。

 

「残る一つが今生(こんじょう)の、鐘に響きの聞き納め。足で問えば、打ちうなづき、足首取って…

 

半二郎の面前で自らの頬を強打して、心中に至る心境を唄う喜久雄。

 

そして、当日を迎える。

 

化粧に手が震える喜久雄がいる。

 

楽屋に俊介が訪ねて来た。

 

その様子を見た俊介は、「おう、どないした?」と尋ねる。

 

「幕、上がる思うたら震え止まらんねん」

 

代わって俊介が、喜久雄の顔の化粧をする。 


「怒らんで聞いてくれるか?…俺な、今一番欲しいのは、俊ぼんの血やわ。守ってくれる血が俺にはないねん。俊ぼんの血、コップに入れてガブガブ飲みたいわ」

 

化粧されながら、喜久雄は本音を漏らすのだ。

 

いよいよ上演の時がきた。 


「きつう、わしにご執心ゆえ、かねてたくんで徳さまを、深いところへはめたものなるが、証拠なければ理も立たず。この上は徳さまも、死なねばならぬ(しな)なるが、死ぬる覚悟が…聞きたい…いつまで生きても同じこと。死んで恥をすすがいでは



「お初は何、独り言、言わるるぞ。よし、まだ死んだら、その跡は、これ、この九平次がねんごろしてやろう。そなたも(おれ)にほれてじゃけな」(役者

「ハハハハッ。なんじゃ、九平次がねんごろしょう。そりゃ、かたじけなかろうわいな。さりながら、わしとねんごろさあんすとー。そなたも殺すが合点か。徳さまと離れて、片ときも生きていようか。徳さま、死ぬる覚悟、わしも一緒に死ぬるぞいの」

 

【九平次は徳兵衛を罪人にするという嘘をつき、極悪非道な油屋として描かれている】

 

ここまで観ていた俊介は()(たま)れず席を外し、館内の一角で(ふさ)ぎ込んでいた。

 

追って来た春江が「俊ちゃん」と声をかける。

 

「逃げるんとちゃう」と繰り返し答えた後、春江は「分かっとるよ」と答える。


「俺…本物の役者になりたい。なりたいねん」


徳兵衛の手を持ち、心中への道をいくお初を描くラストで閉じる「曽根崎心中」は、盛大な拍手の中で幕が下りてゆく。


片や、俊介もまた、春江の手に引かれて館外に出て行く。


幕が下りた時、周囲には誰もいない静寂の中で、孤独を極める喜久雄の表情の()鮮烈に映し出されて


本作を貫流する「血を持ち得ない者が負う、絶対孤独の宿命」という、そこだけは逃れられない人生の命題である。

 

以下、「曽根崎心中」の簡単な粗筋。

 

【一途な恋ゆえの葛藤から心中へ。太平の繁栄に浮かれる大坂の町で「恋の手本」と謳われた愛の物語!遊女お初と醤油問屋で働く徳兵衛は愛し合うが、徳兵衛にはお初を請け出す金はなかった。その上親友に騙されて無実の罪を着せられる。到底この世では結ばれない二人。お初は徳兵衛に愛の証しの決断を迫る…。元禄時代の大坂で実際に起きた心中事件をもとに、近松門左衛門が創作した名作/「歌舞伎演目案内 曽根崎心中」より】

 

 

 

3  「あんたもあんたや。俊ぼんのもん、平気で奪うて、汚いわ!」

 

 

 

8年後 1980年。

 

芸妓(げいぎ)藤駒との間に綾乃という娘を持ち、芸を極めた役者として大成した喜久雄。

藤駒(左)と綾乃(中央)


その喜久雄に、四代目・花井白虎を襲名する半二郎は、三代目・花井半二郎を継ぐことを求めるが、ここでも反発する幸子。

 

三代目を継ぐはずの俊介が、8年前のあの日から出奔したままなのである。

 

「“半二郎”いう名前は、俊ぼんにとって最後の砦や。この名前があるかないかで、なんもかも違ってくんねん。大事な大事なその名前までくれてやる言うの?」と幸子


「辛抱できんと逃げ出したのは俊ぼんのほうや」

「なんで逃げたか分かってへんの?役者いうもんはホンマに意地汚い生きもんやわ。糖尿でろくに目を見えへんのに、息子の人生、踏み倒して、それでもまだ“白虎”になりたいんやと!」

女将(おかみ)さん」と喜久雄。

「あんたもあんたや。俊ぼんのもん、平気で奪うて、汚いわ!…」

 

ここで「間」ができる。

 

「俊ぼんも俊ぼんや。負けも認めんで…逃げ出すのは…汚いわ」

 

この幸子の言辞に言葉を失い、沈痛な表情を見せる喜久雄。

 

彼の中に罪悪感が忍び寄っているのだろう。

 

まもなく、二人の襲名披露のお練りが催される。 


娘の綾乃が「お父ちゃん」と呼びかけても、無視する喜久雄。 


内縁の妻との子であるからだ。

 

「喜久雄。丹波屋(たんばや)継ぐあんたに1つ言っておかなならんことがあって」

「なんですの、急に」

「この世界、親がないのは首がないのと同じや言うてな。どんなにつらいことあっても、あんたは芸で勝負するんや。ホンマもんの芸は、刀や鉄砲よりも強いねん。あんたはあんたの芸で、いつか(かたき)取ったるんや」

「はい」

「約束やで」

 

そう言って、四代目・花井白虎を襲名した半二郎は喜久雄の頬を(さす)るのだ。


【花井半二郎は、上方歌舞伎の名門・丹波屋の当主である】

 

二人の襲名披露公演が京座(みやこざ)催される。


「思えば15の時、父を亡くした私を師匠は救ってくださいました。それ以来、厳しい修行の道ではございましたが、見るもの・聴くものすべてが楽しく、美しく、あっという間の夢のような年月(としつき)でした。その大恩(たいおん)に報いるよう、また丹波屋の名に恥じぬよう芸道、精進いたす覚悟にござりまする。何とぞ、末永くご贔屓(ひいき)、お引き立てを(たまわ)りまするよう、心よりお願い申し上げ(たてまつ)りまする


素晴らしい口上だった。

 

その瞬間、半二郎(白虎)は吐血し、幕を引くことになった。

 

「俊ぼん…俊ぼん」

 

我が子の名を繰り返す半二郎。

 

その声を聞き、衝撃を受ける喜久雄。


「すんまへん…すんまへん」

 

そんな思いが口に出てしまうのだ。

 

この時、喜久雄を凝視する万菊の視線の厳しさが強烈な印象をもたらす。

 

「白虎を喪ったあなたの未来には地獄が待ってますよ」

 

そう言っているようだった。

 

 

 

4  「結局、この世界、血いやんか。芸なんて関係あらへん。血筋のことになるやんか、てな感じで怒ったほうがおもろいわな」

 

 

 

1982年

 

「喜久ちゃん。色々、おおきに…ホンマにおおきに」

「役者が舞台に穴あけて、どないすんねん」

 

頭を下げる俊介に、喜久雄は言い添えた。

 

「生きててくれてよかったわ」

春江にも()うてくれへんやろか」

 

ここで、「丹波屋復活へ」というテロップが出て、俊介と結ばれ、子を儲けた春江がテレビのインタビューを受ける画面が広がって、俊介一家が紹介される。


「旅館では夫婦そろって釜焚(かまた)きやらせてもろたり、夜は宴会場の余興で踊らせてもろたり、旅回りの一座に入れてもろたり…」と春江。

「その日、その日を必死に勤めておりました」と俊介。

「歌舞伎の世界に戻りたいとは思われませんでしたか」とアナウンサー。

「私は一度、逃げ出した人間です。泣けば誰かが救ってくれると思うような、どうしようもない人間でした。世界一、親不孝な息子やったと思います。なんで自分が丹波屋の跡取りに生まれたのか、歌舞伎役者の家に生まれたのかと、そればかり考えておりました」と俊介。

 

こんな状況下で、個人部屋から追い出された喜久雄の元に竹野が訪ねて来た。

 

「俊ぼん、もう復帰だってよ。ドサ回りで鍛えたとはいえ、10年ブランクあんだぞ。ムチャだよな」竹野

「万菊さんのことや。見極めた上やろ」と喜久雄。

「冷てえよな。同じ丹波屋なのに。先代がこさえた借金、背負ってきたの、あんただろ?もう、俊ぼんに譲れよ」

「旦那の借金は俺の借金。かっこつけさせてえな」

「返せてねえだろう。役どころか、セリフももらえねんだからさ。主役張ったの何年前だよ」

「ふがいないわ」

「先代が死んだら、誰も助けてくれねえし。みんな、あんたが横から半二郎の名跡かっぱらったんだと思ってる」

「今更、名前返すわけにもいかへん」

「邪魔したな」

 

そう言って、竹野は帰っていく。

 

今、俊介は万菊の元で稽古をしている。

 

近々、小野川万菊公演で、俊介が本来の花井半弥の名で出演することが決まっているからである。


「あなたね。性根が入ってないからあら見えるんです。若い娘になり切ってれば、あんな形、恥ずかしくてできゃしないんだからね」と万菊

「はい」と俊介。

 

それを見る喜久雄。

 

再び、踊り出した俊介に対して、厳しい万菊の指摘。

 

「あなた、歌舞伎が憎くて憎くてしかたないんでしょう?でも、それでいいの。それでもやるの。それでも、舞台に立つのが私たち役者なんでしょうよ」

 

それを自分事のように聞き、去っていく喜久雄に覇気がなく、壁にもたれてしまうのだ。 


週刊誌では、「花井半二郎 背に巨大入れ墨 長崎極道一家の一人息子」・「堕ちた大名跡 7歳の隠し子発覚!?」という見出しの記事が、写真入りで踊っていた。


「なんでや」と吐露し、壁を蹴る喜久雄。 

 

直後、喜久雄は吾妻千五郎に、「忠臣蔵」の九段目の小浪(こなみ)の役を譲って欲しいと頼みに行く。

 

「騒がしているうちは、おとなしくしているほうが利口だぜ。なーに、こんなもんな、すぐにみんな忘れちまうんだよ。役者風情が立派なふりしてどうするんだよ、ああ」

 

そんな説教を行った千五郎だが、娘の(あき)に手を出したと言って、喜久雄を蹴飛ばすのだ。

 

「この腐った目見りゃな、俺には分かるんだよ!」

 

「こいつと一緒になるんなら、とっとと家、出ていきやがれ!」と言われた彰子も反発し、「出てく!」と言い放ち、喜久雄を支えながら、狂乱のスポットを離れていく。 

彰子

「丹波屋の名に泥、塗ってしもて」と言って、幸子に謝罪する喜久雄。

 

幸子はそれを受け入れることなく座敷を離れ、俊介と春江の子・(かず)(とよ)に対して、「立派な跡取りになれそうや」と声をかけるのだ。

 

去っていく喜久雄を追って、「一豊のためや」と言って弁明する俊介。

 

「結局、この世界、血いやんか。芸なんて関係あらへん。血筋のことになるやんか、てな感じで怒ったほうがおもろいわな」と喜久雄。


そう言って帰る喜久雄に、俊介は声をかける。

 

「俺が必ず呼び戻したるからな。次は半々コンビで客、沸かそうや」

「笑わせんなや。なんで逃げとったお前の力、借りなあかんねん。ボンボンが偉そうなこと抜かすな。頭くんねん」

「せやかて喜久ちゃんも汚いで」

 

戻って来て、「何がや」と詰め寄る喜久雄。

 

「ホンマに役もらうために彰子ちゃん、だましたんか?なあ。ホンマなんか?」

「なんや、お前、コラ!」

 

これで喧嘩になってしまう。

 

本気で殴った俊介によって、喜久雄の鼻血が止まらない。

 

喜久雄は彰子が待つ車に乗り、「手加減せえや」と漏らすのだ。

 

 

 

5  「あなた、どこにいたんですよ…踊ってごらん…私には分かるんだ」

 

 

 

4年後 1986年

 

彰子と共に、各地の宴席での小さな舞台で踊って見せるだけの喜久雄。


酔った男たちを相手に喧嘩して、袋叩きにされる喜久雄は今や、歌舞伎役者の世界から(はじ)かれた時間の中にいた。


落剝(らくはく)した男は、血染めの顔を夜風に曝し、暗い屋上で踊るのだ。


「もう、止めよう」と言う彰子を無視して、自ら落ちていった時間の只中で笑って見せる男。


冷え切った彰子との関係も終焉するのである。

 

そんな男の前に竹野が現れた。

 

「あんた、歌舞伎、戻る気あるか。万菊さんが会いたいってよ」

 

そう言われ、90を過ぎた万菊に会いにいく喜久雄。

 

喜久雄と会った万菊は床に伏せていた。

 

「美しいもんが1つもないだろう。なんだかホッとするのよ。“もう、いいんだよ”って、やっと誰かに言ってもらったみたいでさ。あなた、どこにいたんですよ…踊ってごらん…私には分かるんだ」


そう言うや、喜久雄に扇子を渡す万菊。

 

喜久雄は踊って見せるのだ。

 

 

 

6  「俺…『曽根崎』のお初やりたい…あのときのおかげで、今の俺があんねん」「そんなら、俺は徳兵衛やるわ」

 

 

 

1989年

 

喜久雄と俊介が今、舞台に立ち、(あで)やかな踊りを見せるのだ。


「半・半コンビついに“復活”」という見出しの新聞が、紙面を飾るのである。

 

しかし、異変が起こる。

 

「二人道成寺」の舞台で、俊介は倒れてしまう。

 

糖尿で足が壊死(えし)して片足切断の状態になってしまうのだ。

 

「一本足でやれる役って、何があんのやろ」

 

そんなことを笑みで吐露すう俊介。

「あかん。あかんわ。足を切るなんてあかん」と喜久雄。

「あかんもなんも、早う切らんと膝下どころや、済まんようになるそうや」

 

項垂(うなだ)れて、考え込む喜久雄。


1995年

 

義足になった俊介は、息子の(かず)(とよ)に芸の稽古をする喜久雄と共に時を過ごす。

 

「どや、一豊は?」と俊介。

「見ての通りや」と喜久雄。

「女形には向いてへんのやろか」

「海のものとも山のものともやな」

「バスケ部やて。ケガしたら舞台に穴あくから辞めろ言うても、ひとっつもきかへんね」

「学校終わったら、飛んで帰って稽古したもんやけどな」

「寄り道すると、お父ちゃんにビンタされたわな」

「棒でぶたれたわ」

「ホンマ、むちゃくちゃやで…俺なあ、もっぺん舞台、立ちたい思てんねん」


「無理は禁物、言うやろ。焦ったらあかん」

「あかんか。こっちの足にも壊死出たら切らなあかん。切らんと死ぬんやて」

 

二人の間の沈黙を破って、俊介は強い思いを吐露した。

 

「俺…『曽根崎』のお初やりたい…ああ、当てつけやないで…あのときのおかげで、今の俺があんねん」

「そんなら、俺は徳兵衛やるわ」


「ホンマか」

「ホンマや」

「ありがとうな」

 

いよいよ、俊介の命を懸けた「曽根崎心中」の幕が上がる。

 

「この上は徳様も、死なねばならぬ(しな)なるが、死ぬる覚悟が聞きたい(お初)


太夫(たゆう)♪独言に ♪なぞらえて ♪足で問えば 打ちうなづき 徳兵衛♪足首取って ♪咽喉のどぶえ、撫で 徳兵衛♪自害するぞと知らせける。 

「徳兵衛♪足首取って」

「徳兵衛♪自害するぞと知らせける」

「そのはず!いつまで生きても同じこと。死んで恥をすすがいでは。徳様と離れて片ときも生きていようか。どうで。徳様、死ぬる覚悟。わしも一緒に死ぬるぞいの」(お初) 

「徳様、死ぬる覚悟。わしも一緒に死ぬるぞいの」(お初)」


太夫(たゆう)♪足にて ♪つけば、縁の下には ♪足を取って推しいただき ♪膝に抱きつき ♪これが泣き 

 

俊介は転倒しながらも、心中に向かうお初を演じ切り、ラストの演技に向かっていくが、身体の苦衷(くちゅう)切迫していた。

 

竹野は救急車を用意させるのだ。

 

「はやはや殺して。殺して!」

 

ラスト。

 

小刀を手に徳兵衛は、お初の命を絶とうとする。


万雷の拍手の中で幕が下りていく。

 

【太夫とは、女郎のうち、最上位に位置する遊女のこと。咽喉笛とは、比喩的に喉から出る笛のような声や音を指す用語/前者は「歌舞伎演目案内」、後者はAI回答】


ついでに、1978年に製作された増村保造監督の「曽根崎心中」が、あまりに素晴らしかっただけに、本作の感懐も映画のイメージをずっと引き摺っていたのは否めなかった。 

梶芽衣子(右)と宇崎竜童

 

 

7  「あなたがここに辿り着くまでに、どれだけの人を犠牲にしたと思うてるん?悪魔はんに感謝やな」

 

 

 

2014年 東京

 

「花井半弥が他界して16年。本日より、いよいよ花井半弥、改め五代目・花井白虎の追善公演が初日を迎えます。苦楽を共にした、いわば盟友との別れから16年たった今年、このタイミングでの人間国宝への選出。そして、その国宝認定後、最初の演目が、三代目・花井半二郎の代名詞である『鷺娘(さぎむすめ)』。今回、異例の早さで人間国宝に認定されました。まさに順風満帆(じゅんぷうまんぱん)。常にスポットライトを浴びてこられた役者人生でしたが、今のお気持ちを、お聞かせください

 

この記者の問いに答える喜久雄。

 

「ただただ、皆さまのおかげです。感謝の言葉しかありません」

「女形を極められた三代目は、この先、どこへ向かわれるのでしょうか?」

「なんや…ずっと探してるものがありまして、景色…なんですけど」


「景色?…どんな

「うまいこと言えまへんわ」

 

会見が終わり、カメラ撮影。

 

「藤駒という女性を覚えてますか?祇園の芸妓です」とカメラマン。


「忘れてへんよ。綾乃…」

 

相手のカメラマンは、娘の綾乃だった。

 

「あなたのこと。父親や思うたこと、いっぺんもありません。自分が舞台で拍手もらうために、どれだけの人が傷ついて泣いてきた思てるん。あなたがここに辿り着くまでに、どれだけの人を犠牲にしたと思うてるん?悪魔はんに感謝やな」


鷺娘を舞う三代目。 


踊りながら、綾乃の声が聞こえてくる。

 

「うち、舞台の花井半二郎を見るたび、なんや、お正月迎えたような、ええこと起こりそうな、なんもかんも忘れて、こっちおいでって誘われるような、見たことないとこ、連れてかれるような、そんな気持ちになって…気いついたら、目いっぱい拍手してた。お父ちゃん。ホンマに日本一の歌舞伎役者にならはったね」 


今や、喜久雄の心を揺さぶる内なる声である。

 

幕が閉じ、喜久雄は静かに起き上がり、光り輝く上空を仰ぐ。

 

「きれいやなあ」 


そう呟いた。

 

喜久雄が求め続けてきた景色が見えたのである。

 

喜久雄だけにしか見えない景色が見えたのである。

 

【鷺娘については、先述した通り、鳥である鷺が娘に姿を変じて踊るというもの】 

人物相関図

 

 

8  悪魔と取引した男の最高到達点

 

 

 

悪魔と取引してたんや。“歌舞伎をもっと、うもうならしてください”て頼んだわ。“日本一の歌舞伎役者にしてください”て。“その代わり、ほかのもんはなーんもいりませんから”て」 


神社でのお参りをする喜久雄が、娘・綾乃に「誰に何をお祈りしたの?」と聞かれた際の返事である。 


喜久雄の、この言葉が本作の初発点であり、根源的テーマである。

 

「あなたのこと。父親や思うたこと、いっぺんもありません。自分が舞台で拍手もらうために、どれだけの人が傷ついて泣いてきた思てるん。あなたがここに辿り着くまでに、どれだけの人を犠牲にしたと思うてるん?悪魔はんに感謝やな」

 

カメラマンとして活躍する娘の綾乃の道徳的な糾弾(きゅうだん)である。

 

日本一の歌舞伎役者にしてくれるなら、一切の欲望を捨てると括った男の意思表明の凄みが本作を貫流しているのだ。

 

だから、襲名披露のお練りという至高のスポットで、内縁の妻との子である綾乃が「お父さん」と呼びかけても、全く振り向くことをしなかった。

 

悪魔との取引は、「至上の芸の獲得」という念願成就のためには、そこに関与しない如何なる人間関係をも障害でしかなく、踏みつけていく何かでしかないのである。

 

然るに、父を想う少女の、踏み(にじ)られた過去を有する綾乃とって、それが心的外傷になったかも知れぬ体験だったにも拘らずお父ちゃん。ホンマに日本一の歌舞伎役者にならはったね吐露するのだ。

 

典型的なアンビバレンツ(二律背反)の心理だが、「自慢の父」がいたから「現在の自分」がいるという「反映過程」の心理学で説明可能である。


要するに、「反映過程」は、他者の成功が自己評価を上げるという心理である。

 

また、「悪魔との取引」で際立つのは、「喜久ちゃんは芸、見てもらえるんが一番うれしいんよ」と言った春江のケース。

 

口先だけでも求婚されても、喜久雄との関係総体において、その心理的距離の乖離(かいり)愈々(いよいよ)埋め難いものになってのでうちうんと働いて喜久ちゃん一番の御贔屓(ごひいき)さんにな楽屋にペルシャ絨毯(じゅうたん)()たろなどと反応してもから愉悦できなかった

 

春江のこの心理が、喜久雄のお初(「曽根崎心中」)を見せつけられて、劇場を出て行く俊介の心に架橋することができたのだ。

 

同様に、喜久雄との芸の距離が離れていくことを存分に感受した俊介が、「逃げるんとちゃう」と繰り返した後、春江が「分かっとるよ」と反応したのは自明の理だった。

 

俊介が春江の手に引かれて館外に出て行くシーンは、そこに相互の心理的距離が最近接したことを意味する。

 

このシーンの直前に、春江のアパートに俊介が訪ねる画がインサートされていたことを想起すれば、二人の関係が深化されていくのは必至だった。

 

俊介に関して言えば、喜久雄との間で生まれた埋め難い距離感が、ここでも、近接する他者の成功が自己評価を下げてしまうという「比較過程」の心理学で説明できるだろう。


「反映過程」と「比較過程」。


モチベーションの心理学の中で極めて重要な心理学の概念である。

 

そして、もう一人。

 

喜久雄の「悪魔との取引」で犠牲になったのが、父に逆らい、駆け落ちしてまで喜久雄に随行していった彰子(あきこ)

 

堕ちるところまで堕ちていった喜久雄のドサ回りには、喜久雄の狂気が暴れ出して救いようがなかった。

 

「もうやめよう」と吐露する彰子の一言が、二人の「愛」の顛末の寒々しさを(あぶ)り出していた。

 

元より、喜久雄には、「血を持ち得ない者が負う、絶対孤独の宿命」という、そこだけは逃れられない人生の命題が張り付いているから、「芸・命」の強い心情を支え切る内的時間の揺動からの解放は、極めて困難であると言う外になかった。

 

「あなた、歌舞伎が憎くて憎くてしかたないんでしょう?でも、それでいいの。それでもやるの。それでも、舞台に立つのが私たち役者なんでしょうよ」

 

この万菊の物言いは、あまりに強烈であり、本質的だった。

 

本作の生命線であるからだ。

 

どれほどの苦境があっても、歌舞伎役者は舞台に立たねばならない。

 

舞台に立たねば、拠って立つ「芸・命」の世界が根柢から崩されゆく。

 

思いどうりにならない状況下に(から)捕られていて、(たま)さか歌舞伎んだとしても、それでもやるという選択肢しかないのだ。

 

それは、全てを失いそうになっても、舞台に立ち続けることでしか生きられない歌舞伎役者の(ごう)である

 

本稿の最後に、喜久雄がラストで見せた、「きれいやなあ」というセリフの意味を考えてみたい。

 

それは、喜久雄が求め続けてきた景色であることに間違いないだろう。

 

(しか)喜久雄だけにしか見えない景色が見えたのである。

 

熟考したが、死のイメージを内包しつつも、正直、最適(さいてき)(かい)見つからなかった

 

最初は、長崎時代の「雪の中の父の死」という、彼の原風景ではないかと推量した。

 

ラストの演目である「鷺娘」がそうだったように、紙吹雪が舞い散る雪が、「雪の中の父の死」にオーバーラップする。

 

ここまでは分かる。

 

しかし、それが喜久雄の原風景であったとしても、恍惚する表情で終わる「鷺娘」と切れて、「雪の中の父の死」の記憶が不安・恐怖と憤怒の表情であり、アマプラで繰り返し観ても、恍惚とは無縁であった。

 

そのことを考えれば、(むし)喜久雄原風景である「雪の中の父の死」が喜久雄の自我に鏤刻(るこく)した復讐頓挫した屈辱とるという観念の領域読み取った方が無難である。

 

いずれにせよ、映画的リアリズムと観念系の文脈が上手に折り合って構成された出色の映像に、只々、脱帽する限りである。

 

ラストで回収される本作は、悪魔と取引した男の最高到達点だったと考えるのが正解なのだろう。


そう思った。

 

以下、参考までに、李相日監督監督のインタビューを掲載しておきたい。

 

「喜久雄という人間の人生を通して見せたかったのは、国宝という権威的、物理的な大切さではなく、そこにたどり着いた人間にしか見えない、ほかのだれにも見えない風景をずっと追い、求め続けることこそがこの上なく大切で、孤高と言われる生き方や思いを貫いた人が、結果〝国宝″たらしめるのではないかということです。ただそれは口で言うほど易しいものではなくて、その過程で失うものや背負うものはとてつもなく大きい。そのすさまじさはたぶんだれにも理解されないし、理解してくれる人はみんな逝ってしまっているという、そういう孤独感もつきまとう。でも、はたから見たら壮絶で不幸だと思われる部分も、本人にとっては、それが生きていく一番の糧であり、生きるためにそこに向かうみたいな感覚なんだと思います。」(李相日監督監督インタビュー) 

李相日監督

「そこにたどり着いた人間にしか見えない、ほかのだれにも見えない風景をずっと追い、求め続けること」は、「その過程で失うものや背負うものはとてつもなく大きい」ので、「壮絶で不幸だと思われる部分も、本人にとっては、それが生きていく一番の糧」となる。

 

それが怖いなら、「孤高と言われる生き方」などに〈美学〉を求めるなかれ。

 

絶対孤独を貫徹するほどに人間は強くないし、そこに〈美学〉を求め続けるほどに、人間の狂気は自己管理能力を持ち得ない。

 

そういうことだろう。 


(2026年7月)