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2026年10月2日金曜日

追憶('15)   地獄の戦場・ペリリュー  小栗謙一

 


1  「私の師団は虐殺されました。私の後ろにいた50人全員が、日本兵にやられました」

 

 


「美しい海に浮かぶ島々。この海の南にペリリューという名前の小さな島があります。この島で、太平洋戦争の末期に、日本軍とアメリカ軍の凄まじい戦いがありました。そして、約1万人を超える兵士たちが大切な命を失くしてしまいました。この島は、そのことをはっきりと記憶しています。ここパラオ諸島は、第一次世界大戦までドイツの植民地でした。その後、ベルサイユ条約によって日本の統治領になった地域です。南洋庁が設けられ、幾つかの陸海軍の基地も作られ、戦争が始まる頃には島民の数より多い日本人が、これらの島々に住むようになっていたのです」 (ナレーション)

ペリリュー島

日本軍の基地跡


ベルサイユ条約


「小さい時に何もないから自由に遊んだり、学校行ったり…ある時はどっかで泳ぎに行きました。何も仕事ないからね。それで良かった。もう、戦争が始まる前に、日本人は大勢ペリリューに来ました。そこでよく遊んだり、夜はそこでダンスなどやりました。日本人と一緒に」(
島民の回想)


「土田喜代(つちだきよ)一(かず)さんは、生死の殆どが玉砕したペリリュー島です。戦争を生き抜き、奇跡的な生還を果たした一人です。戦争中は海軍の見張りを任務とした上等兵でした。しかし、太平洋戦争が終わって、なお一年半余、ペリリュー島の洞窟に身を隠し続けていたのです。何ということでしょう。昭和22年の春、既に戦争は終わっているという噂話は、実は本当なのではないだろうかと思い、意を決して、アメリカ軍の前に飛び出してみたそうです。戦争は終わっていました。そして30余名の仲間と共に日本へ戻って来たのです」(ナレーション)

旧日本兵

「ジャングルの奥深く、小さな穴を見つけて、辺りに気配を悟られないように、さっと滑り込み、岩で穴を塞ぎながら奥の奥のほうへ入っていくのです。サンゴ礁でできたこの島の洞窟は鍾乳洞でした。沼地の水は塩水なので、飲み水用で雨水を確保できる場所を見つけてありました。時々、表に出ては存在を捨てるように、生活の証拠となる全てを海に流し、体を洗い、臭いすらも隠すように、岩で幾重にも閉じて元の洞窟に潜むのです。聴覚・触覚を張りめぐらせて、それでもアメリカ兵は時々、近くまで迫ってきました」(ナレーション)

 

ペリリュー島守備隊長・中川州(くに)男(お)大佐之墓に参る土田喜代(つちだきよ)一(かず)さん。


「この島で戦った兵士の誰もが、残忍な島だったと言います。地獄のように暑く、腐敗臭で息が詰まるような沼地。体に突き刺ささるような剥き出しのサンゴ礁の岩肌。血で染まった海岸水。その全てを今は想像するしかありません。ここは日本の海軍司令部でした。昼夜を徹して会議が行われたのでしょう。必死の形相で、兵士たちが上り下りした階段。身を潜め、銃を撃ち合った洞窟。忙しく走り回った戦車。偉そうな音を立てて敵を威嚇した砲台。その全てが今、残骸となり、置き去りにされた時間の中で、雑草たちの棲家(すみか)となっています。草木が作る豊かなジャングルには今、銃声はなく、鳥たちの声が聞こえます。何がこの島で起きていたのでしょうか」(ナレーション)

日本の海軍司令部跡


「1941年12月8日の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、次第にアメリカ軍の攻勢に転じた。1943年2月には、アメリカ軍はソロモン諸島のガダルカナルを占拠。次いで、南洋群島のギルバート諸島のマキン島、タラワ島奪還のため、両島への上陸作戦を開始した。翌1944年2月2日、ブラウン、ルオット、クェゼリンといった南洋群島、マーシャル諸島にそれぞれ2万を超える兵力で上陸作戦を展開。日本の守備隊は壊滅し、玉砕した。遂に1944年9月15日をパラオ初頭のペリリュー島に上陸決行の日、所謂、Dデイと決めたのである。アメリカ軍は、この作戦が2、3日と考えていた。ペリリュー島はパラオ諸島の南にあり、東西3キロ、南北9キロの小さな島。島の南には、当時、東洋一と謳われた日本海軍の飛行場があった。アメリカの陸軍元帥ダグラス・マッカーサーは、太平洋戦争初期に日本軍に奪われたアメリカ領フィリピンの奪還を悲願としていた。一方、太平洋艦隊総司令官チェスター・ニミッツ海軍元帥もガダルカナル、アッツ島を制圧した後は、陸軍のフィリピン奪還を有利に展開するため、南太平洋に点在する日本の守備隊を壊滅する作戦だった。日本の大本営作戦本部は、満州にいる第14師団に西部ニューギニア方面への派遣命令を下した。“乗船待機訓練地である地区に集結せよ”。直ちに、第14師団への各部隊は師団長・井上貞(さだ)衛(え)中将のもと、旅順港に集結した。ところがこの時、派遣先が急遽、サイパンに変更された。1944年3月28日、第14師団は大連の港を出港、サイパンへと向かった。ところが数日後、派遣先はパラオ諸島へと変更された。然(しか)も船は、パラオ諸島へと向かわず、4月4日、横浜港に寄港した。3泊4日の停泊。兵士たちは久しぶりに家族と会えると思ったが、船外に出ることは厳重に禁止された。下船したのは師団長だけ。東条英機参謀総長より参謀本部から出頭を命ぜられていたからである。外出を禁じられた事実を裏付ける手紙が残っている」(ナレーション)

第14師団

チェスター・ニミッツ元帥


外出を禁じられた事実を裏付ける手紙


【第14師団は、宇都宮を衛戍地(えいじゅち)(恒久駐屯地)とする師団である。1943年9月に策定された絶対国防圏を防衛するために、満洲のチチハルからパラオ諸島に派遣された。1944年4月にパラオ本島へ上陸して以降、各島の防衛にあたる】

 

「戦局判断で、対米戦略上の重要拠点・パラオ諸島との命令を受け、船団は予定通り、4月4日、パラオに向けて出港した。船上では井上師団長を中心に、連日、作戦会議が繰り返され、最も重要な任務となるペリリュー地区の守備隊陣地が行われた。そして守備の主力は歩兵第2連隊1588名、守備隊長には中川州(くに)男(お)大佐が決まった。4月26日。中川州(くに)男(お)大佐率いる第2連隊がペリリュー島に上陸した。早速、島の状況を視察し、入念な作戦準備が開始された。島の中央部は標高90メートルの高地で、鬱蒼(うっそう)としたジャングル、渓谷、絶壁が多く、自然動物も豊富な地。鍾乳洞があり、奥深い洞窟が数百もある。そして島の南には遠浅の海岸が東西から島を包むように広がっていた」(ナレーション)

中川州男大佐


遠浅の海岸


「アメリカ軍が島の南にある飛行場を確保するために、どの地点から上陸を仕掛けてくるのか、中川大佐にとって、それが最大の問題でした。しかし、その答えはすぐに出たのでした。飛行場に近い南西2キロの遠浅の海岸。ここから大軍が上陸してくることは明白でした。しかも莫大な物量で押し寄せてくるのです。そこで全島をトーチカ要塞とし、米軍の砲火から身を守る堅牢な洞窟陣地を考えたのです。そして鍾乳洞を改造して、水の確保もできる絶好の陣地を数か月で完成させていったのです」(ナレーション)

 

【トーチカ要塞とは、鉄筋コンクリート製の小さな防御陣地のこと。ペリリューでは洞窟陣地で身を守ることにした】

ペリリューのトーチカ要塞

「中川大佐の読みは的中した。それを裏付けるように、7月22付けの米軍の作戦資料には、ペリリュー島南西の海岸ホワイトビーチ、オレンジビーチからの上陸計画が記されている」(ナレーション)

 

6月15日。米軍66779名、サイパン島へ上陸開始。

7月9日。日本守備隊は死者30000人を出し、玉砕。

 

「中川大佐がペリリュー島に着任して三月(みつき)が経った頃、戦局は急を告げていました。この頃、大佐は妻に手紙を書いています」

中川大佐夫妻

以下、妻ミツエに対する中川大佐の手紙。

 

「拝復(返信の文の書き出し)。5月22付け手紙。落手(らくしゅ=手紙が手元に届くこと)仕り(つかまつり)候(そうろう)。無事、熊本でオガタ様方でお暮しの由、何よりと存じ候。当方、その後、元気にて、第一線勤務に従事。将兵一同愉快に不自由なく暮らしおり候ゆえ、御放念(ごほうねん=心配しないで)くだされたく候。敵の空襲も、最近、多少どうか構え(つかまえ)ども、大したことなく候。近々、状況も切迫致し候。手紙も船の運航のため、あまり着かないようになるともして、御心配なくお暮し願いあれ候。丁度、東京行きの幸便(こうびん=好都合に)あり。これ候ゆえ、お頼み致し候。各位(皆様)にも、その後、失礼致し候。宜しくお伝え願い上げ候。タカセもオガタ様もミチユキ様にも御元気のことと存じ候。宜しく御願いあげ候。まずは用件のみ取り急ぎ、草々(そうそう)。貴(き)御健康ミツエ殿。中川州男」(氏名の漢字は分からず、全てカタカナに)


「為すべきことをやり遂げた充足感と、軍人の覚悟を淡々と綴った別れの手紙でした。妻のミツエさんは十分に分かっていました。ですから、中川大佐が南の海に旅立つ朝、最高の晴れやかな笑顔で夫を見送っていました」(ナレーション)

 

8月11日。グアム島守備隊は死傷者18500人を出し、玉砕。

 

「大本営からは、主抵抗線を水際より適宜後退して守る要求が出された。つまり今後は長期持久戦を念頭に戦うことを意味していた。既に、ペリリュー島は司令本部の堅牢さ。そこから主要陣地に縦横に通じる通路、洞窟陣地など理想的に構築され、アメリカ軍上陸に向けて、周到に用意された要塞となっていた。そして海岸線に沿ってモミ、イシマツ、イワママツ、クロマツ、アヤメ、レンゲと名付けられた6つの陣地が構築されていた。陸軍5332名、海軍3646名、合計8978名の守備隊を敷いていた」(ナレーション)


「戦争が始まった時に、日本の人が私たちにね、ここにいたら危ないから、どっかに行ってくださいと言うから、私たちはロックアイランドに行った。そこで女の子がヤシの芽を拾って、爆弾の破片が当たったから、子供が死んだ。それにいたら危ないから、日本人が早くどっか行ってくださいって言って、バベルダオブ島へ連れていかれた」(島民の回想) 


【ロックアイランドは、パラオ共和国にある200~300の島々、バベルダオブ島は、パラオ共和国で最大の島であり首都が置かれている島】 

バベルダオブ島

「9月2日。これまでにないアメリカ軍の空爆が開始された。その数は200機。その時、既に日本側には立ち向かえる飛行機はなかった。9月4日。アメリカ太平洋艦隊第1海兵師団を主力とする17000の機動部隊を乗せた輸送船が、ガダルカナルを出発した。9月12日。敵輸送船の暗号電文がペリリュー島守備隊作戦司令部の洞窟陣地に届いた。中川大佐は、“直ちに決戦体制に入れ”と命令を下した。その時、既に、島の沖合13キロには輸送船50隻、戦艦3隻、空母11隻、巡洋艦20隻、駆逐艦20隻、水雷艇100隻、掃海艇数十隻からなる大船団があり、島に向かって猛烈な艦砲射撃を開始した。島は見る見るうちにジャングルが消え、焼け爛(ただ)れたサンゴの岩山が姿を現し、人影はなくなっていた」(ナレーション)

艦砲射撃

そして9月15日。

 

朝日が水平線に上り始める頃、島の日本兵は陣地に立てこもり、鳴りを潜めて満を持した。

 

午前8時半、米軍の上陸作戦が開始された。

 

「人は人を殺したことがないのが、当たり前です。ですから、死体や人間の破片で覆われている戦場の大地にいる時、兵士たちは自分を騙(だま)すしかないのです。自分の手から発した弾が人を殺すのではなく、人は無関係に死んでいくのだと。そうでなければ、死は自分に襲いかかるのです」(ナレーション)


「ブラズウェル・ディーン。1925年生まれ。90歳。アメリカ第一海兵隊の一等兵だった」(ナレーション)

ブラズウェル・ディーン一等兵

以下、インタビュー。

 

「ペリリュー攻撃の態勢に入ったのは、1944年9月15日です。その日の朝食は、ステーキと卵という豪華版でした。我々は船底に行きました。アムトラックという水陸両用車です。母船の前方が開き、25人~26人ずつ乗っていました。アムトラックとは武装車で、海上に出ると、船の中より空気が新鮮でした。およそ1時間で、海一面がアムトラックで一杯になりました。1隊に13人いて2隊で編成され、一緒に行動するよう命令されました。90メートルほど走ると、私の部隊は2人しかいませんでした。他の25人~30人は、どうなったか判りません。我々が先陣を切って上陸したとき、その時、両側の艇が攻撃されました。そして、日本軍は一斉に攻撃してきました。我々も反撃しました。17~18歳の少年だったので、恐怖で呆然としていましたが、戦い方は学んでいました。我々は恐怖に震えました。2人だけになり、ヤシの木に日本兵がいたので、木を攻撃しました。海兵隊史上、最も賞を貰ったチェスディ・プラーは、我々の指揮官でした。彼は戦闘は2~3日で終わると考えていました。日本兵は全滅した。爆撃し、艦砲射撃もしたからと言いました。しかし、幾層にもなっている洞窟の事を知らなかったので、日本兵がいた事に愕然としました。日本兵はいなくなったと思っていたからです。私の師団は虐殺されました。私の後ろにいた50人全員が、日本兵にやられました」(米軍兵士の回想)


【LVT(略称アムトラック)は、第二次世界大戦中にアメリカ海軍と同海軍海兵隊が運用した水陸両用トラクター】

LVT(ウィキ)

9月16日。

 

「最も堅い守りを固めた西海岸の守備隊長が戦死した。海岸陣地からは、海軍も含め、日本軍は中央山岳に後退。主力と合流した。海軍基地には、既に戦闘能力のある飛行機は1機もなく、大谷龍蔵(りゅうぞう)中佐率いる海軍部隊も、飛行場付近の地下から観測山に後退した」(ナレーション)



9月17日

 

「開戦3日目。島はアメリカ軍の制圧下に置かれた。日本軍は、島を縦断する山並みにある地下陣地を中心に、大小500にも及ぶ地下壕に立てこもり、反撃を続けた。しかし、米軍の攻撃は激しさを増し、前線の日本軍は為す術を失っていた。死闘は夜になっても続いた。日本兵の斬り込み隊が闇に乗じて、ジャングルから飛び出して来る。米兵は怯(おび)えた」(ナレーション)

 

ビル・カンバ。1921年生まれ。94歳。アメリカ第一海兵師団の少尉だった。

ビル・カンバ少尉

「私の第2大隊は予備隊だったので、上陸決行日は船上にいました。上陸準備を整えて、最も被害を受けた部隊の支援に行く事になっていました。船上から第1陣が上陸するのを見ていました。日本軍は、ペリリューに暫(しばら)く前にいたので、上陸艇が、どの経路から上陸するのか知り尽くしていました。距離も正確に把握していたので、第1陣は直撃されました。我々は2日目に、やっと上陸できました。日本兵は洞窟の中にいたので1人づつ片付けなければなりませんでした。だから、手榴弾や火炎放射器を使いました。上陸前の空爆や艦砲射撃は殆ど効果がなかったからです。暫(しばら)くして、戦車の近づく音が聞こえました。戦車が来る前から、日本兵はタコ壺に潜み、戦車が近づくなり、飛び出てきました。胸に爆弾を付けていて、戦車に飛び乗り、ピコを引き抜きました。爆弾が爆発し、戦車を破壊しました。本人も死にましたが戦車も動かなくなりました。攻撃を仕掛けてくる日本兵に戦車で攻撃し、75ミリ迫撃砲を発射しました。数秒後に日本兵が穴から湧き出てきました。出たと同時に部下がライフルで撃ち、逃げ惑う日本兵に戦車のマシンガンが火を噴いた」(米軍将校の回想)


「徹底した日本軍の抵抗に、米軍の損傷は予想外に大きかった。ニミッツ元帥がのちに書き残した『太平洋戦史』には、“北東にのびる稜線を利用した、要塞の背後に布陣した砲兵が、陣地から浴びせてくる激しい砲火によって、上陸用艇の損害は生じた”と書かれている。山の中に潜む日本軍は、500個を越える洞窟の中で、反撃の好機をじっと待っていた。中川大佐は、決して無益なバンザイ突撃を許さず、一人ひとりの命を、“相手にできるだけ高く買わせるように”と命じていたのだ」(ナレーション)

 

9月22日。

 

「パラオ本島の部隊からの援軍が、夜をついてペリリュー島に逆上陸を開始した。アメリカ軍の激しい砲弾の中、死傷者を次々に出しながらも、日本軍は北の海岸に辿り着き、逆上陸を成功させた。アメリカ軍上陸決行のDデイから一週間が経った頃、アメリカ兵の死傷者は3916名を数えていた。特に西地区正面に上陸した第1連隊は死傷率40パーセントとなり、戦闘能力の喪失と判断され、ペリリュー島を去っていった。入れ替わるように、精鋭の陸軍・第81師団を主力としたアメリカ陸軍が、艦砲射撃と空爆に支援されながら、大型戦車を先頭に浜街道を北上し始めた」(ナレーション)


 

 

2  「地獄の底まで戦い続け、勤めを果たすには、まずまず鬼にならんといかん。自分の方から仏さんになっていくにはまだ早い」

 

 

 

9月26日

 

「日本軍は海岸から後退。地下洞窟陣地に結集した。大谷龍蔵中佐指揮下の海軍も、それに倣(なら)った」(ナレーション)

大谷龍蔵中佐

9月27日。

 

「米軍は占拠した飛行場に星条旗を掲げ、次々に着陸。ルパータス少将はペリリュー島占拠を発表した。大谷中佐は第4の兵力を結集して斬り込み攻撃を決意した。信頼する部下の坂梨及び、嫌がる戦線離脱を説得。司令本部へ守備隊の最後の戦いの姿を書き記した手紙を託した。そして、そっと自らの愛用の万年筆を渡し、夫妻の息子に“よく勉強するように”と伝えて欲しいと頼んだ。坂梨が戦後に書き残した日誌に、その記録が残っている」(ナレーション)

ルパータス少将

大谷中佐と坂梨

大谷中佐の家族


以下、坂梨の日誌が読み上げられるが、聞き取りが難しいので、その断片を記す。

 

「戦闘行動に入り、或いは弾薬、食糧の輸送、通信等の破損の修復・復旧に死力を尽くし、その間…斬り込み隊奇襲戦に参加、7割の兵力喪失。残員は…夜半、パラオ本島に向け、…海岸徒歩、或いは遊泳、約50キロのパラオ本島へ転進する」(日誌より/判読困難)

坂梨夫妻

「その万年筆は、昭和21年、坂梨さんが大谷大佐の妻、二人の息子を訪ねて手渡されたのです」(ナレーション)

大谷大佐は殉死したことで昇格


「最早、中川大佐が立てこもる中心に、日本兵はいなくなっていました。それでも、山の中から反撃は止みません。肉体的にも精神的にも限界がきていたアメリカ軍は、山の中に立てこもる日本兵に向けて、次のような呼びかけをしたのです」

 

以下、米軍の呼びかけ文書の大半である。


「“勇敢なる帝国の将兵、去る13日間、陸海並びに航空軍は色々な方法を取りて此(こ)の島を増援せんとした。然し米軍の大力(たいりき)機の為、其(そ)の大部分は海底に沈没さした。米軍は既に並びに此の島の大部分並に飛行場を占領し今に残った兵力の全滅を開始せんとする所である。之(これ)にも拘らず戦闘を勇した模範的に続けて居る君達には感心した。帝国の将兵、之は君達一生の最大なる判決問題である。美事(みごと)に戦死するは誠に勇し。併し此の戦争が終った後再びと日本を建て上げるは君達の義務亦(また)責任ではないか。武士的とは云え無駄な戦死をするより。今から日本を建てかえると思う希望者があれば米軍は其の機会をあたえる”」

 

【誤字、不明漢字があったが、正真正銘の米軍が作成した文書に驚きを禁じ得ない。上から目線の文面でもあるが、「勇敢なる帝国の将兵」・「美事(みごと)に戦死するは誠に勇し」など、日本人の矜持(きょうじ)を衝く表現は、「日本研究」に優れた心理学者が存在する国家である事実を見せつけられた思いである/筆者】

 

「10月に入っても、戦争は死別を極めていました。中川大佐のもとにいる兵力も1000人ほどになっていたのです。砲撃と空爆は容赦なく続き、山肌は容赦なく毟(むし)り取られ、草木は焼き付くされる。ペリリュー島はまるで地獄絵のような姿になっていました。激しい抵抗線を挑んでくる日本軍に、アメリカの司令官は思い余ったのでしょう。中川大佐に宛てた手紙は山の中に置いたのです」(ナレーション)



以下、米軍の司令官が、中川大佐に宛てた手紙の全文を画像で示す。

中川大佐

「米軍の兵力が多数に圧倒しても大和魂を持ち得る勇敢な勇士は矛盾なく抵抗して最後の突撃を行い勇敢に戦死を遂げているではないか」

 

【この文面の基調は、先の文書と同義であるが、米軍将兵の精神的疲労を読み取ることが分かる/筆者】

 

「この手紙は、果たして中川大佐のもとに届いていたのでしょうか。山に立てこもった見えない日本兵の抵抗は、一向に止む気配はありませんでした」(ナレーション)

 

「不眠不休で戦う日本兵は、11月5日には軽傷者を含め350名となっていた。通信は寸断され、弾薬も糧食も尽きた中での死闘は続いていた」(ナレーション)

 

「じっと耐え続ける日本の守備隊に対し、灼熱の闘魂に拍手し、苦難を突破せんことを期すべしと告げてきました。遂に堪りかねた根本大尉が中川大佐に、こう進言したのです。“武器も弾薬も尽き、電子網が絶たれている今、斬り込んで玉砕するしかない”と。中川大佐は首を振り、皆に向かって、こう言いました」(ナレーション)



以下、中川大佐の言葉。

 

「“我々軍人は戦うのが務めだ。最後まで務めを果たさねばならん。玉砕攻撃するよりも、最後の一兵になるまで戦い抜かねばならん。私はそう思う。地獄の底まで戦い続け、勤めを果たすには、まずまず鬼にならんといかん。自分の方から仏さんになっていくにはまだ早い。最後の務めを続けようじゃないか”」

 

11月22日 朝7時。

 

「米軍の猛烈な砲火と火炎放射器が一斉に火を噴き、中川大佐のいる陣地への総攻撃が開始された。作戦司令部洞窟に両側の山から攻撃を集中、更に火炎攻撃が嵐のように続いた」(ナレーション)


11月24日。

 

「中川大佐はパラオ本島の集団司令部に宛てて、最後の電文を発したのです」


以下、電文の全容。

 

「通信断絶の顧慮(こりょ)大(だい)となるを以(も)って最後の電文は左(さ)の如く致度(いたしたく)承知(しょうじ)相(あい)成(なり)度(たく)」


一 軍旗を完全に処理し奉(たてまつ)り

二 機密書類は異常なく処理せり

 

右の場合

  「サクラ」を連想するにつき報告相成度

 




その直後、自決する中川大佐の画がインサートされる。

 

「アメリカ軍が上陸してから70日目でした。中川大佐の遺書はなく、遺書めいたものもありません」(最後のナレーション)

 

「ペリリューは、もう変わってる。何にもない。木も何にもない。平らな地面のように、何もなくなってしまって、何にもない。戦争が終わったから、もう何にもない。アメリカ人は食べ物、持って来てくれた。何だか、日本人が帰った時には悲しかった。友だちだったからね、帰った時に、私たちは寂しかった。友だちだったから、とても悲しかった」(島民の回想)


2015年4月9日。

 

上皇上皇后両陛下が、パラオ・ペリリュー(現在のパラオ共和国)の南の海に向かって慰霊する画像が挿入される。


ラストカットである。

 

【ペリリュー島では7648名の遺骨が、これまでに収集されたが、未だ2557名が発見されず、残されたままである】(2015年9月現在)

 

 

 

3  地獄の戦場・ペリリュー

 

 

 

1944年9月15日、午前8時半。4万を超える将兵を投入した米軍が、ペリリューへの上陸を開始した日である。

 

「朝日が水平線に上り始める頃、島の日本兵は陣地に立てこもり、鳴りを潜めて満を持した」

 

米軍の上陸作戦が開始された。

 

対する日本の守備隊はおよそ11000人。

 

準備万端だった。

 

しかし、米軍との戦力差は歴然としていて、陸軍軍人・中川州男(くにお)大佐司令官のもと、日本軍は島じゅうに張り巡らせた洞窟を陣地とし抗戦し続け、1万人以上の戦傷者(戦死者1600人以上)を出し、アメリカ海兵隊史上最も激しい戦いの一つとなり、まさに地獄の戦場と化したのである。

 

中川大佐自決までの70日近く続く戦闘の中で、米軍と同様に、日本軍も1万人以上の戦傷者を出すが、その大半は戦死するに至った。

 

極めつけは、山間部にこもって、終戦後も戦い続けた兵士もいて、完全に武装解除された時点で、生き残っていた日本兵は34人だった。

 

「“我々軍人は戦うのが務めだ。最後まで務めを果たさねばならん。玉砕攻撃するよりも、最後の一兵になるまで戦い抜かねばならん。私はそう思う。地獄の底まで戦い続け、勤めを果たすには、まずまず鬼にならんといかん。自分の方から仏さんになっていくにはまだ早い。最後の務めを続けようじゃないか”」

 

「持久戦を完遂せよ」という命令を出していた大本営の意向に準じて、玉砕を否定した中川大佐の言葉が、この激戦の根柢にあった。

 

簡単に攻略されてはならない戦いだったからだ。

 

何よりパラオ諸島のペリリュー島(カロリン諸島)は、1943年9月、御前会議(天皇の臨席)の場で、本土防衛と戦争継続のために死守すべき防衛圏域、即ち、最重要な戦略防衛ライン=「絶対国防圏」だったので、サイパン(マリアナ諸島)、ニューギニア、硫黄島(小笠原諸島)らと共に、苛酷な沖縄戦までの「最後の砦」だったのである。

 

特にサイパンと硫黄島は、B29爆撃機の本土空襲に直結する要衝だったから、「絶対国防圏の要」とされていた。

 

就中(なかんづく)、サイパンは1944年6~7月、4万3千の日本軍守備隊が全滅するに至ったばかりか、2万人の民間人に対して、参謀本部は捕虜を禁じていたこと(自決の指示=「バンザイクリフ」からの1万人の身投げ)で、膨大な市民が犠牲となった戦いであった。

 

【米軍の投降勧告に応じず、80メートル下の海に身を投じて自決した事実は、無謀な太平洋戦争が生んだ最大の悲劇であると言っていい】

 

洞窟陣地などを利用したゲリラ戦で徹底抗戦したことで、日米両軍に大きな戦傷者を出したペリリューの戦い。

 

猛烈な艦砲射撃と爆撃を加えた後に上陸するという、いつもの米軍の作戦に対して、重火器による砲撃が加えられ、上陸後も日本軍の組織的攻撃は「地獄の戦場」にならざるを得なかった。

 

「地獄の戦場」。

 

それは、日本軍のゲリラ戦に苦しめられ、追い詰められた米軍が、最終的に火炎放射器を搭載した戦車を投入し、洞窟を丸ごと焼き尽くすという作戦に出たからである。

 

ペリリュー島の戦いは、その後の硫黄島や沖縄の戦いで、米軍は自軍の損害を抑え敵を徹底的に殲滅するために、火炎放射器やナパーム弾等の兵器を大量に投入する契機となったこと。

 

何でもありの戦場のリアリズムが、そこにある。

 

「10月に入っても、戦争は死別を極めていました。中川大佐のもとにいる兵力も1000人ほどになっていたのです。砲撃と空爆は容赦なく続き、山肌は容赦なく毟(むし)り取られ、草木は焼き付くされる。ペリリュー島はまるで地獄絵のような姿になっていました。激しい抵抗線を挑んでくる日本軍に、アメリカの司令官は思い余ったのでしょう。中川大佐に宛てた手紙は山の中に置いたのです」

 

そんな手紙が有効だと思わないで書き捲(まく)っても、日本兵の戦いは変わらない。

 

「不眠不休で戦う日本兵は、11月5日には軽傷者を含め350名となっていた。通信は寸断され、弾薬も糧食も尽きた中での死闘は続いていた」

 

このナレーションに尽きる。

 

かくて、ペリリューの戦いは、第2次大戦で最も苛酷な戦場と化していったのだ。

 

「人は人を殺したことがないのが、当たり前です。ですから、死体や人間の破片で覆われている戦場の大地にいる時、兵士たちは自分を騙(だま)すしかないのです。自分の手から発した弾が人を殺すのではなく、人は無関係に死んでいくのだと。そうでなければ、死は自分に襲いかかるのです」

 

この美輪明宏のナレーションはあまりに重い。

 

重すぎるのだ。

 

最後に、映画の作り手・小栗謙一監督インタビューの一部を紹介する。 

                        小栗謙一監督



【小栗 普通、こういった記録映像って、いつどこで撮ったものなのかよくわからないのですが、この資料映像には撮影日や場所、カメラマン名など、すごく正確にペリリュー島の戦いが記録されていたんです。映像に加えて、当時ペリリューで実際に戦ったアメリカ兵士が生存していて、彼らの話も聞くことができました。撮影を進めていく中で僕自身が1つ1つ発見していったように、この映画を観て下さる人にも同じような発見があるんじゃないかと。戦争というのがどのように始まるのか、どのように人は死んでいくのか。そして戦争というものは、誰かが得をしたとかいうものではなく、すべてが無くなってしまうものなのだと。今回ペリリュー島の現地の人であるローズ・テロイ・シレスさんにお話を聞けたのですが、彼女が言った「戦争が終わったら、もう何もない」という言葉は、本当にそうだったと思います。自分たちの家も、耕した畑も、飼っていた動物も何もなくなった。何もないどころか死体だらけだった。そして今まで親しくしていた日本人の代わりにアメリカ人がやってきた。自分の人生って何なんだろう?と思いますよね】

 

【小栗 単に「戦争はよくない」って言葉で言っても流れてしまうだけで、表層的にしか残らない。だからそういう言葉は使わなかった。それは映像から感じて欲しい。第二次大戦に突き進んだのもそうですが、日本人って誰か優秀な人が筋書きを書いて、みんながその通りに進めていくことが得意なんだと思うんです。選択肢をなくして1つの答えに誘導することを日本はずっとやって来たんですね。受験勉強なんかはその最たるものです。でも「この美しい景色は」と言われて、ああそうだなって思う人もいれば、その景色を怖いと思う人がいるかもしれない。今の時代はすべての人が違う考えを持っていて、それを1つ1つ丁寧に考えていくことが大事なんだと思います】

 

【小栗 戦争には何の益もないですから。ペリリュー島は一見美しい島ですけど、実際今でも不発弾だらけでとても戦前のような暮らしができる場所ではありません。そして、日本はその加害者なんだと。今の人にとって、いくら自分がやったことではないとしても、それを関係ないと言えるのか。僕はそういうことを言いたいんです。でも映画の中でそれを言ったら誰も観てくれないですから(笑)。パラオに泳ぎに行って「あ、そういえばここ映画で観た所だ」って、そう思ってくれる人が一人でも二人でも増えればいいなって思います】

 

(2026年10月)