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2024年7月14日日曜日

だれのものでもないチェレ('76)   母の迎えを待つナラティブが壊れゆく  ラースロー・ラノーディ

 



1  「母さん、キリストに伝えて。私にも贈り物を届けてって。誰も私にプレゼントをくれないの

 

 

 

1930年、ホルティ独裁政権下のハンガリー。

 

富農に引き取られた孤児のチェレは服も与えられず、学校へ通わせてもらうことなく、牛追いや荷役をさせられている。

ボリシュを追うチェレ

 

いつものように牛のボリシュを追っていると、近隣に住む前線から戻ったピスタに性的な悪戯されたチェレは、泣きながら足を引きずって養家へ戻る。 

ピスタに性的悪戯されるチェレ

「あの男。ピスタの奴…」

「ピスタか。あいつはケダモノだ。地獄へ落ちろってんだ」

 

養父母の会話だが、チェレを気にかけることはない。

 

ある日、川の泥で部屋の床の塗り替えをしているチェレを、子供たちが母親に言いつけると口喧嘩になるが、「いつだって悪いのはそっちなのに」と強気に反発するチェレ。 


帰って来た母親は、それを見て「誰も頼んでいない」と言い放ち、良かれと思ってやったチェレを叱るのみ。

 

ある時は、スイカを割って食べたチェレが、スイカの半分を帽子として被っていると、子供の一人が欲しがるので、着ている服と交換する。 


今度は服を盗んだと怒り、母親は服を脱がせて娘に着せるのだ。 


夕食の際、母親はチェレが抱えているスイカの帽子を取り上げ、畑で勝手に食べたと知り、「とうとう盗みを働いたよ」と父親に訴える。

 

怒った父親は、「二度と盗みを働かんように、性根をたたき直してやる」と言うや、焼けたコークスを思い切りチェレの手に握らせた。


 

泣きながら焼け爛(ただ)れた掌を見つめるチェレ。

 

父親が出て行くと、母親は「やりすぎだよ」と言って、湿布をチェレの手に巻いて手当てをする。

 

「よくお聞き。盗みは何にも増して重い罪なんだよ。いいこと?この家には、お前の物なんてないの。この家の中にある物は、うちの子たちの物だ。私が産んだ子たちだからね。お前とは違う。この世にお前の物は何ひとつない…お前が持ってる物は、ひとつだけ。その体だけなの」 


それに対し、チェレは「シャツもよ」と答えた。

 

その瞬間、母親は狂ったように怒り出し、チェレを叩く。

 

「何て図々しい…こんな恩知らず、引き取るんじゃなかった!」

「あのシャツは私のよ。スイカと交換したの」

 

どんなに叩かれても泣きながら訴えるチェレ。 


子供たちが通う学校について行こうとするチェレに対し、「シャツが狙いでしょ」、「また手のひらを焼かれちゃうわよ」と、意地悪く言う女児ら。

 

「母さんは私のこと愛してくれてるわ」

「バカ言わないで。母さんの子でもないくせに」

 

子供たちは、「孤児院に帰れ、チェレは親なしっ子」と声を合わせて囃し立てるのだ。

 

「うちに引き取ったのは、(政府から)お金が支給されるから。それだけよ」 


チェレの立ち位置が判然とする嫌味だった。

 

【ホルティ政権下では孤児たちを養育費付きで養子に出し、富農たちは労働力確保のために孤児を引き取っていた/ホルティ・ミクローシュは1919年、ハンガリー革命を弾圧して独裁政治を行い、ナチスドイツと協力するが失脚し、戦後、ポルトガルに亡命した】 

ホルティ・ミクローシュ(ウィキ)


そんなチェレはボリシュを追いながら、学校へ向かう。

 

教室から九九の唱和が聞こえ、チェレはそれを遠くで眺めるだけ。 


「みんな服を持ってる。私以外は。どうして?もうイヤ」 


チェレは掌に巻かれた包帯を外し、ボリシュに別れを告げ、草原を歩き始めるが、ボリシュも付いてくる。 


「来ちゃダメ!二度と戻らないんだから。私は殴られない場所へ行く…まったく…好きなようにすればいいわ。ついて来るのも帰るのも、お前の自由だよ」

 

途中、赤ん坊を抱いた女性が歩く姿に見入るチェレ。

 

暗くなるまでボリシュと歩いて行くと、牛の群れを放つ農家に辿り着く。

 

その家の夫婦がチェレを中に入れ、服と食事を与える。


 

名前はチェレ“と言うと、「本当の名前は?」と聞かれたが答えられない。

 

チェレは母親の名前も、家がどこかも答えられないのである。

 

チェレ“とは、孤児に対する蔑称である】

 

「どうやって、ここまで来たんだ?」

「迷ったの」

「どこで?」

「母さんを探してるうちに」

「母さんはどこへ?」

「森へ。お家を建てに行くって、出ていったの。家ができるまでは、留守番してなさいって」 


明日、町に出て母親を捜してもらうと言われ、小さな笑みを浮かべるチェレ。

 

役所に連れて行かれたチェレは、再び多くの孤児たちに交じり、里親を待っていると、若い夫妻が訪れ、チェレはその女性が気になり、その女性もチェレを選んで抱き上げた。


チェレは嬉しそうにその母親に寄り添うが、かつて孤児院に預けた6歳になる子供を探していたその夫婦は、記録からチェレが7歳になる捨て子だったと分かり、チェレを手放して去って行った。

 

それに代わって金目当ての乱暴な女がチェレを強引にジャバマーリの家へ連れて帰り、馬小屋で寝泊まりすることになった。 


ジャバマーリ

そこには、老いたヤーノシュという下男が寝泊まりしており、焼いたイモを与えようとするが、いらないと断るチェレ。

 

ヤーノシュが寝床につくと、チェレは鍋の中のイモを漁り、家を出ようとして犬が吠え、養家に見つかってしまうが、ヤーノシュが庇ってチェレを寝かしつけた。

 

翌朝早く、ジャバマーリにアヒルを追う仕事を言いつけられるが、粗相(そそう)をして厳しく折檻される。 



ヤーノシュと一緒に庭仕事をして、ヤーノシュの昔話を聞かされた。

 

「村に二階建ての大きな家を持ってた。一階が住居で、二階は作業場だ。地域一帯の紡績糸がわしに届けられた。わしが生涯に作った服の布を合わせれば、教会一つを余裕で覆い尽くすだろう…しかし手が震えては、もう針仕事はできない」

 

チェレは楽しそうに花を摘み、歌いながら踊ってみせる。

 

「上手だ。誰に教わった?」

ヤーノシュ

「母さん、いつも森から合図してくれるの。いつでも声が聞こえる。今建ててる家が完成したら、私を迎えに来てくれるのよ。私を殴った仕返しに、ジャバマーリを懲らしめてくれるって。大きなスリッパでね。母さんの特大のスリッパで、跡形も残らないくらい殴ってもらうの」
 


そのヤーノシュに連れられ、チェレは花を持って教会へ行く。

 

初めて来た教会で、真剣な眼差しで祭儀を見つめるチェレ。 


合唱が始まると、ヤーノシュは具合悪そうに椅子にもたれるのを見て、「おじいさん、大丈夫?」とチェレは心配する。

 

「キリストはどこ?見せてくれる約束よ」

「そうだな。見せよう」

 

ヤーノシュは、聖母マリアに抱かれたキリスト像を前に祈りを捧げる。

 

「我が罪を許したまえ。私が逝っても、この子にご加護を。アーメン」

「キリストなの?」


「そうだ」

 

チェレはキリスト像に近づき、花を供えた。 



二人が帰り道を歩いていると、馬車に乗ったジャバマーリがチェレに向かって大声で怒鳴りつける。

 

「なぜ家にいないの!家畜を餓死させる気?この役立たずが!」

 

馬車が過ぎ、ヤーノシュがチェレを励ます。

 

「なんて汚い言葉だ。だが恐れるな。若さがあれば必ず生き抜いていける。何にでも耐えられる。そして、いいことも必ず起きる」

 

憲兵がヤーノシュに声をかけ、挨拶を交わすのをジャバマーリ夫婦が見ていた。 


「憲兵だ。ウソだろ」と夫。

 

帰宅するとジャバマーリがチェレを捕まえ、憲兵と何を話していたかを詰問する。

 

「私の悪口を言ってたんだろ。正直に言わないと、この手で殺すよ」 


何も答えないチェレを、さっさと仕事しろと突き飛ばし、その後も執拗に問い詰め、まじめに仕事していないと言って、スリッパで頭を叩き続けるのである。

 

「お前なんか地獄へ落ちればいい。いやしい捨て子め」

 

その挙句、ジャバマーリは毒入りのミルクをチェレに持たせるのだ。

 

「渡して。告げ口をしなくなる薬よ」 


チェレは言われた通り、告げ口をしなくなる薬だと言ってヤーノシュに渡す。

 

ヤーノシュは血を流すチェレの頭を手当てし、優しく寝かしつけ、渡されたミルクを飲んで横たわった。 


衰弱がひどくなっていたヤーノシュの、万事心得た上での殆ど約束済みの死だった。

 

翌朝、ジャバマーリにミルクのカップを取りに行かされ、ヤーノシュが死んでいるのを発見する。

 

ジャバマーリはチェレから受け取ったカップを思い切り床に叩きつけた。

 

ヤーノシュの葬儀が行われ、涙を浮かべるチェレ。 



程なくして、憲兵が町役場の依頼でやって来て、ジャバマーリに「この土地に関する書類」を見せるよう指示した。

 

慌てるジャバマーリは憲兵たちを家に入れ、しばらくすると憲兵らは帰って行った。

 

チェレは彼らを追い駆け、自分の母親を探して迎えに来て欲しいと伝え、懇願するのだ。 


憲兵は分かったと言って帰って行った。

 

その様子を見ていたジャバマーリは、何を話していたかが気になり、豚の世話をしているチェレに昼食を届けて聞き出そうとする。

 

美味しそうに食べているチェレは何も答えないが、ジャバマーリは憲兵に告げ口したと邪推する内容を自ら話し始めた。

 

「私が彼の土地を奪ったと?ええ、奪ったわ。でも面倒を見て、汚れた服も洗濯してやったのに…彼は何て言ってた?彼の屋敷に私が放火したと?そう密告したの?」


 

興奮して激昂するジャバマーリは、何も話していないと言うチェレの首を絞めつけ、突き放して帰って行った。 



暗くなって納屋に戻ると、ジャバマーリがヤーノシュの衣類や所持品を燃やしていた。 


その恐ろしい様子を窓から覗くチェレ。

 

「母さん、迎えに来て。一緒にいたいの。母さん、怖いよ。早く来て」と暗がりの中で呟く。

 

ジャバマーリは、昼食のパンと毒入りミルクをチェレに渡し、早く食べるように言った。 


赤ん坊が泣き出したので、チェレは自分のパンにミルクを浸して与えると、それに気づいたジャバマーリは「人殺し!」と叫ぶや、チェレを激しく突き飛ばす。 


「殺そうとしてたわ。毒を盛ったミルクを飲ませて!この子を殺す気だったのよ」 


半狂乱のジャバマーリは赤ん坊を抱きながらチェレを激しく蹴り続けるが、その暴行を家族が止めるに至った。

 

チェレは、「母さん!母さん!」と呼びながら走って逃げて行くと、湖の畔で、死んだ女性が運ばれるのを目撃し、「死んでる?」と恐々と尋ね、「そうだ」と言われる。 



「母さん…」と呟いてチェレは、来た道をまた戻って行った。

 

クリスマスの日、豚を捌(さば)き、皆でお祝いする席に入れてもらえないチェレは、テーブルのパンを盗んで出て行った。



馬小屋に閉じ込められたチェレは、一人で蝋燭の火を枝に灯しながら、クリスマスの願い事を祈る。

 

「母さん、キリストに伝えて。私にも贈り物を届けてって。誰も私にプレゼントをくれないの。母さんが死んでから…父さん、神様、無名の兵士。どうか、あなたの国に、私を迎い入れて…」 


いつしか、部屋は炎に包まれて、馬小屋が火の海になり、やがて全てを燃やし尽くしてしまったのだった。 



【本作の原作は、 投身自殺をしようとした19歳の少女の話を聞いたハンガリーの作家ジグモンド・モーリツが、 その少女の話に沿って小説にしたものである】

 

 

2  何の罪のない子供たちが壊されている

 

 

人生は思うようにならない。

 

常にそう思っている。

 

何もかも思うようになる人生があるとしたら、それはもう人生とは呼ばない。

 

寓話の世界の話である。

 

その寓話の世界と、一時(いっとき)遊ぶことで得られる安寧を時限付きで付き合えばいい。

 

昔、その寓話の世界と無縁な映画を観た時、衝撃を受けながらも深く考えさせられたことを鮮明に覚えている。

 

「だれのものでもないチェレ」である。 



そして今、2010年にニュープリントによるDVDリリースされたこの名作と向き合うことになった。 


21世紀になっても、子供の尊厳が壊されている状況を目の当たりにして、どうしてもブログ投稿せざるを得ないと考えたからである。

 

世界の只中で起こっている、二つの理不尽極まる凄惨なる光景。

 

一つは、イスラエル軍による攻撃でガザ地区での無数の子供の死。 

ガザ地区南側のラファ地域で

ガザ地区北部のザビリア地域で

6月19日には40人の子供の餓死が報じられている。 

慈善団体からの食事を待つガザの子供(ガザ南部ラファ)

ガザ情勢/支援不足ガザ、餓死続出」より


OHCHR(国連人権高等弁務官事務所)の報告によると、イスラエル軍は民間人と戦闘員などを区別せずに攻撃し、国際人道法に違反している可能性について指摘している。

 

支持率が低迷するネタニヤフが起こした政権維持のための戦争犯罪の醜悪なる光景に、世界は止められないのだ。 

ICC(国際刑事裁判所)、イスラエル・ネタニヤフ首相やハマス幹部らの逮捕状請求

もう一つは、プーチンのウクライナ侵略の只中で起こっている子供の連れ去り問題の深い闇。 

  【「ロシア連邦のウクライナに栄光あれ、と言いなさい」 “連れ去り”被害のウクライナの子どもが証言


「(入院先の)医者から『ウクライナに栄光あれ』ではなく、『ロシア連邦のウクライナに栄光あれ』と言いなさい、と言われました」 

同上

マリウポリ出身の11歳のイリヤ君の証言である。

 

「(ロシアにいる子供たちに)『世界に助けを求めて』と伝えたいです。きっと助かる道が開けるから」 

同上

ハルキウ出身の14歳の ベロニカさんの証言である。

 

「保護」という名目でウクライナの子供たちを連れ去って、言語を奪い、徹底的な洗脳教育で、母国を敵にしてロシアの兵士に仕立て上げていく。 

ロシアに“連れ去られた”子どもが収容施設の実態を証言」より


国連の常任理事国の寒気立つ行為に辟易(へきえき)している。

 

あってはならない戦争犯罪が起こっているのだ。

 

何の罪のない子供たちが壊されているのだ。 

戦地へ行くパパに子どもが… 民間人死者拡大 続く徹底抗戦」より


何の罪のない子供たちを守ることこそ、現代に生きる私たちの責務ではないのか。

 

世界はこれを止められない。

 

子供たちの世界の惨状は決してこればかりではないが、少なくとも、ガザ地区とウクライナの子供たちを、二人の愚人・狂人から解放させねばならない。 

報道1930」より


―― 然るに、左翼陣営はガザ地区の問題を声高に誹議(ひぎ)しても、ウクライナの問題に関しては声を上げることに逡巡(しゅんじゅん)しているように見える。 

『反戦』のはずがロシア擁護?“嫌韓”に似るウクライナ批判の左翼」より


反米・反自民というスタンスが幅を利かせているからだろう。

 

イデオロギーという厄介な重石だけは絶対的に削り取れない風景は、いつになっても変わらないようである。

 

問題の本質は、これだけはやってはならない「力による一方的な現状変更」(領土の拡張)を世界が認めていいのかという一点に尽きる。 

読売新聞オンライン」より


それを認めたら、中国が海洋進出を強める東・南シナ海情勢、台湾侵攻をも許してしまうことにもなる。 

領有権争いが続く南シナ海


【中国が、台湾の独立を進める行為に最高で死刑を科すなどと規定した新たな指針を示したことに対し、台湾の頼清徳総統は、「中国に台湾の人々を裁く権利はない」などと反論した】


香港の「一国二制度」を50年保障するという「英中共同声明」(1984年/マーガレット・サッチャーと趙紫陽)を呆気なく反故にし、香港の民主主義を弾圧した習近平の「力による一方的な現状変更」をも是認してしまうことにもなるのだ。 

英中共同声明の署名式/握手するサッチャー首相と趙紫陽首相


プーチンが起こした戦争の本質も、同じこと。

 

主権国家に対する侵略であって、それ以外ではないのだ。

 

もし、それを許していたら、ウクライナという主権国家は滅び、ウクライナの歴史と文化は無化され、ウクライナ語は廃止されたであろう。


なぜなら、プーチンはウクライナという主権国家を、かつて一度も認めたことがないからである。


ついでに書いておく。


和平交渉に語る御仁も多いが、それが不可能である点に触れておきたい。


ここで藤原学思(朝日新聞記者)のポストを引用して、次期EU外相、エストニアのカラス首相が語る「ソ連式交渉術」について書いておく。

藤原学思記者

カラス首相

1.最大限の要求をしろ

2.最後通牒を出せ、脅せ

3.譲歩は一切するな、西側の中には何かをくれる人間が必ずいる

 

そうして結局、要求の1/3、ないし1/2を手に入れる。

 

だからこそ、ウクライナは容易に「交渉」を始めてはならないと。

 

私も同意する。

 

ウクライナという主権国家を守らんとするウクライナ政府と、愛国心の強いウクライナ国民を納得させることなど不可能であることが分かるだろう。


何より、ウクライナの子供たちの未来が奪われていくのだ。

ポーランド南東部ボジャノフで親と離れて共に暮らすウクライナの子供たち

“盗まれた”子どもたちの将来 戦時下で心に傷を負う子どもたち」より

壊されゆく子どもたち


国籍を失い、ロシア人に変えられることで、ウクライナの少年・少女の夢や希望までもが奪われていくのである。

占領の手段としての子供たちに対するロシア化」より

 

それでいいのか。

 

2022年2月、欧米は72時間でキーウは陥落すると、ゼレンスキー大統領に脱出用のヘリコプターを準備していたと言われている。

 

しかし、大統領はこれを拒否、2022年2月25日夜、首都キーウ(キエフ)の市街地から、国民に連帯と抵抗を呼び掛ける動画をフェイスブックに投稿した。

 

以下、その要旨。

 

「みんな、ここにいます。この国の兵士たちも、ここにいます。この国の国民も、私たちもここにいます。私たちは自分たちの独立と自分たちの国を守っています。これからも引き続き守り続けます」 

        【「私たちはここにいる、独立を守る」 首都からウクライナ大統領が政府幹部と



こう言い切って、ゼレンスキー大統領が国力の差が異なる「非対称戦争」に向かったのである。

 

ウクライナという主権国家と国民・文化・言語を守るための戦いを選択したのだ。

 

それは民族の誇りを打ち砕く隷属の否定である。

 

何より、ウクライナ人としての個々の人間の尊厳を安売りするわけにはいかなかったのだ。

 

何の罪のないウクライナの子供たちに、隷属国家の辱(はずかし)めを与えることに忍びなかったのである。

 

それらが、先のゼレンスキー大統領の「みんな、ここにいます」という宣言のうちに集約されているのだ。

 

反米・反自民というスタンスなど、私にとってどうでもいいこと。

 

プーチンの侵略と戦っているウクライナを支援する。 

ウクライナ避難民へのサポート



それだけである。

 

 

 

3  母の迎えを待つナラティブが壊れゆく

 

 

 

思うに、「だれのものでもないチェレ」の批評には覚悟が求められる。 


映画が提起する根源的なテーマが、あまりに重過ぎるからである。 


何度観ても変わらないが、これを「究極の鬱映画」とラベリングして再生回数を稼ぐユーチューバーの諸氏に不満を垂れても始まらないが、鬱病は多くの人が罹患する可能性が高いばかりか、生涯自殺率が15%という数字の高さに驚かされる代表的な精神疾患である。

 

然るに、「究極の鬱映画」であっても、「だれのものでもないチェレ」は生涯に一度は鑑賞すべき名作であることに変わらない。

 

「社会学者の調査によると『だれのものでもないチェレ』を見た人は例外なく、心が浄化されたと語っているそうです。この作品は確かに悲しい映画だけれども、そこにはどんな人間も他人を侮辱してはいけないという、強い抗議があるのです」

 

ハンガリーのラースロー・ラノーディ監督の言葉である。

 

ここに映画のメッセージがあることは観ていて痛感する。

 

人間の尊厳は近代に生れた概念だが、今では「個の尊厳」として「絶対に犯してはならない人間の尊厳」のうちに収斂されている。

 

本来は未だ曖昧な「人間」の定義が成されていないが、「人として生きる権利」という風に解釈しておこう。

 

この映画の力は、まさにこの「人として生きる権利」を奪われた少女の〈生〉の〈現在性〉を、BGMに頼ることなく淡々と、然も凛として描いているという点にある。

 

その名を奪われ(チェレは孤児の蔑称)、住処(すみか/馬小屋生活)・着衣・遊びを奪われ、時には肝心の食をも削り取られたチェレが、なお生きようとするのは、これだけは捨てられないナラティブがあるからだ。

 

「お母さんが私を迎えに来てくれる」というナラティブである。

 

しかし、中々迎えに来てくれない。 


それでも待つ。

 

待ち続けるのだ。

 

悪くないのに叱咤され、着衣を剥(は)ぎ取られても、ひたすら耐えて待ち続けるのである。 


何もかも思うようにならなくとも、〈生〉の〈現在性〉を繋ぐだけだった。

 

着衣を剥ぎ取られて折檻されたにも拘らず、ほんの少し優しい言葉に触れただけでも、「母さんは私のこと愛してくれてるわ」と言い切るチェレ。

 

この時の母は実母ではなく、政府から支給される金目当てで引き取られた養母のこと。

 

その養母の女児たちから、意地悪く言われても「愛してくれてるわ」と言って反発するチェレ。

 

だから、限りなく切ない映画になった。

 

忘れられないシーンがある。

 

赤ん坊を抱いた女性が歩く姿が視野に入った時、それを遠巻きにして眺め、小さな笑みを浮かべるチェレの表情である。 



心打たれる画だった。

 

それが直截に切り取られたカットがあった。

 

孤児を収容する役所に連れて行かれた時のこと。

 

里親を待つチェレの前に若い夫妻が現れ、優しく接するその女性に抱かれ、至福の表情を漏らすのである。 


名を聞かれて「チェレ」と答えた少女の一時(いっとき)の至福。


にも拘らず、自らが求めて止まない「母の迎え」という記号的表現に集約される〈愛〉を手に入れられなかった。

 

そして、ジャバマーリに家屋・財産の全てを奪われ、馬小屋で共生するヤーノシュに語るチェレの思いは、本篇を貫流する力強いマニフェストと化していた。

 

「母さん、いつも森から合図してくれるの。いつでも声が聞こえる。今建ててる家が完成したら、私を迎えに来てくれるのよ。私を殴った仕返しに、ジャバマーリを懲らしめてくれるって。大きなスリッパでね。母さんの特大のスリッパで、跡形も残らないくらい殴ってもらうの」 


残念ながら、絶対不動のナラティブで固めたパワフルな表現は呆気なく崩れ去っていく。

 

チェレの中枢を射抜く出来事が出来するからだ。

 

ジャバマーリがヤーノシュの一切の所持品を燃やす様子を覗くチェレが放った言葉は、絶体絶命の状況に捕捉された少女の叫びだった。

 

「母さん、迎えに来て。一緒にいたいの。母さん、怖いよ。早く来て」

 

この闇の独言は、幼い少女の観念の収束点を示していて、あまりに切な過ぎる。

 

「母さん!母さん!」と叫びながら逃げて行くチェレが出会った、あってはならないネガティブな光景。 


「子供が見るものじゃない」と言われながら見てしまったのは、遺体となった女性が運ばれる様子だった。 


この時、チェレは迎えに来るはずの母の死を感知してしまったのだ。 


何もかも奪われて死を選択したヤーノシュの悲哀が伝染したかのように、禁忌の世界に振れていく。

 

盗みを働いて馬小屋に閉じ込められたチェレが取った行動こそ、「あなたの国」、即ち、まだ見ぬ死の世界に、「私を迎い入れて」と懇望する究極の選択だった。 


それは、この世に蔓延(はびこ)る理不尽なるものへの、それ以外にないプロテストである。 


もう、そこにしか行き着くことがない少女のナラティブの終焉。 

 

母の迎えを待つナラティブが壊れゆく。

 

ここまで必死に繋いできた少女のナラティブが壊れゆくのだ。

 

壊れても、昇天して母に会いに行くのだ。

 

そういう映画だった。

 

―― 以下の画像は、ハンガリーの貧しい家に生れ育った天才的な子役、ジュジャ・ツィノコッツィがスカーレット・ヨハンソン主演の「アメリカン・ラプソディー」という映画(日本未公開)に出演した時のものです。(「ライプツィヒの夏」より) 


(2024年7月)

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