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2020年9月26日土曜日

SOMEWHERE ('10)   ソフィア・コッポラ

  



<ハリウッドスターの光と陰 ―― その特化された日々を切り取った世界を映し出す>

 

 

 

1  父と娘が共有する時間の濃密度の高さが、男を変えていく

 

 

 

男は、ロスにある観光拠点ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームハリウッドスターらの名が刻まれた通りに近い、シャトー・マーモント・ホテルで暮らしている。 


男の名は、ジョニー・マルコ(以下、ジョニー)。

 

著名なハリウッドスターである。 

              飲み過ぎで階段から落ちる直前のジョニー


飲み過ぎで階段から落ち、怪我をしたジョニーは、ホテルの自室に、ポールアクロバットダンサー(ポールダンサー)を呼ぶが、それを見て、さして愉悦することもない。 


この空虚感が男の内側を支配している。

 

そんなある日、別れた妻レイラから、11歳の娘クレオのフィギュアスケートの送迎を頼まれ、一時(いっとき)、娘との触れ合いで心が満たされるようだった。 

レイラ

父と会って喜ぶクレオ


クレオのスケートに釘付けになるジョニー


しかし、時を移さず、いつものようにパーティーで知り合った女性を情事に誘うが、コトが始まるところで、寝入ってしまうほどに、ジョニーにとって、女との日常茶飯事の情事は惰性に過ぎなかった。 


そのまま寝入ってしまって、朝を迎える


されども、漫然とだらだらと続く無為な日々に、終わりが見えないのだ。

 

翌朝、マネージャーから電話が入り、写真撮影と記者会見に出席することになる。



更にジョニーは、特殊メイクの型取りで、頭部全体に石膏を塗りたくられ、40分も待たされる。 

特殊メイクの型取り

【この長回しのシーンには笑わされる。他にも長回しのカットが散りばれられていて、そのリアルな演出は観ていて飽きることがない】

 

出来上がったのは、ジョニーの面影も拾えない完璧な老人の相貌。 


ホテルに戻り、呼んだマッサージ師は、いつもの女の子とは違う見知らぬ男性だった。

 

ところが、マッサージ師が相手と一体感になるために、全裸で施す姿を目の当たりにして、ゲイと勘違いし、マッサージに早々と帰ってもらうというエピソードがインサートされる。 


ホテル在住の女からの誘いが絶えないジョニーのところへ、再び、娘クレオがやって来た。

 

テレビゲームで興じ、楽しいひと時を過ごした夜、別れた妻・レイラから電話が入る。

 

「しばらく家を空けるわ。クレオは2週間キャンプよ。送り届けて。あなたの実家の近く」

「いつ戻る?」

「分からない。少し時間がいるの」


「俺は新作の公開で、イタリアに行くんだ」

「とにかく10日までに、ベルモントに連れてって」

 

それだけだった。

 

突然、娘クレアと過ごすことになったジョニーは、クレオを随行させ、ミラノに向かう。

 

ホテルのプール付きのスイートルームを案内され、ミラノ市長からの表彰や会食、映画祭での授賞式などの仕事の合間に、父娘(ちちこ)水入らずの時を過ごす。 

映画祭で


ロスに戻り、短い間の父娘の暮らしは続く。

 

クレオが朝食を作り、ジョニーの友人と3人で食事を供にする。 



更に、二人で卓球に興じ、プールに入り、プールサイドのチェアで並んで日光浴する父と娘。 



その間、ジョニーに様々な女が言い寄って来ても、特段の関心を持たず、父娘の時間を最優先して、何より愉悦するのだ。

 

そして、愛娘(まなむすめ)のクレオを、キャンプに車で送り届ける日がやって来た。

 

その車中で、突然、クレオが泣き出した。 


「クレオ、どうした?なぜ泣く?」

「ママは、いつ戻るんだろ。“しばらく家を空ける”って、それしか聞いてない。パパは忙しいし」


「おいで、ほら、泣くな」

 

クレオを抱き寄せ、車を走らせる父ジョニー。 


ラスベガスに立ち寄り、カジノで遊んで、クレオを存分に楽しませるのだ。



翌日、キャンプへと向かう乗り継ぎ場所まで、ヘリコプターに乗り込む。

 

「じゃ、キャンプを楽しめよ。迎えに行く」 


父娘は抱擁し合い、クレオはキャンプに向かうタクシーに乗り、ジョニーはヘリに向かう。


 

振り返ると、クレオが父を見つめている。 


ジョニーも、思わず声をかける。

 

「クレオ!傍にいなくて、ごめん!」 


ヘリのエンジン音に掻き消されながら、ジョニーは思いの丈を声にした。

 

帰りのヘリの中で、涙を拭うジョニー。

 

ホテルの自室に戻ると、元の怠惰な生活が待っていた。 


しかし、ジョニーは今、「快楽の園」での日常に振れることがない。

 

レイラに電話をかけるジョニー。

 

「どうかした?」

「俺は、空っぽの男だ。何者でもない」


「ボランティアでもしたら?」

「どうすりゃいい?俺の望みは、ただ…今から来られないか?こっちに」

「それはムリよ」

「そうか、それじゃ」

「あなたなら、大丈夫よ」

 

ここで電話は切れるが、ジョニーの嗚咽は止まらない。 


一人、プールに入り、パスタを茹でて食べ、夜の街灯りを眺めるハリウッドスターが、そこにいる。 


意を決したのか、ジョニーはホテルをチェックアウトすることにした。

 

フェラーリに乗り、高速を走らせる。

 

郊外の道路脇に愛車を止め、一人で、力強く歩き出すのだ。 


そこには、吹っ切れたような笑顔があった。


 

父と娘が共有する時間の濃密度の高さが、男を変えていくのだろうか。

 

そう、思わせる括りだった。

 

 

 

2  ハリウッドスターの光と陰 ―― その特化された日々を切り取った世界を映し出す

 

 

 

黒いフェラーリに乗り、繰り返し周回するハリウッドスターのジョニー。 



この長回しのオープニングシーンが、この映画の本質を言い当てている。

 

常に自分に擦り寄って来る女たちとのセックスに飽き続けながらも、それを止められない日常性に搦(から)め捕られたジョニーの生活風景の味気なさは、本人自身が感じ取っていた。

ジョニーに色目を使う女たち

女たちを見つめるジョニー

その日常性の情趣のなさ。 


今や、視床下部に位置する「満腹中枢」(摂食行動の抑制)が十全に機能しなくなり、それが自己膨張すれば、却ってストレスフルな情況を作り出し、自身を客観的に認知する「メタ認知能力」が空洞化していくようだった。

 

善人のイメージが強いが、逸脱行動をコントロールする「自己統制尺度」が脆弱になり、辺(あた)り構わず、「快楽の園」の一角を占有する。 

別のホテルで車を止め、女との情事に耽る

オープニングシーンが提示したのは、この男の日常性の情趣の欠落感の身体的なエクスプレッション(表現)そのものだった。

 

「あのシーンがこの映画を表している」

 

インタビューでのソフィア・コッポラ監督の言葉が、この視座を裏付けている。 

                  ソフィア・コッポラ監督


そんな男が、「快楽の園」での自己膨張感の増幅によって累加されたストレスフルな情況に対して、空虚な観念が広がっていくのは必至だった。

 

低密度な〈生〉の有りように充足感を手に入れられない現実の、どうしようもないもどかしさ・苛立ち。

 

クレオの出現は、そんな男の中枢を射抜いていく。 


クレオの自堕落な日常が、クレオとの非日常の時間の中で、高いレベルの鮮度を保持しつつ解凍する技巧を得て、溶かされていくのだ。 

ミラノのホテルのプールで泳ぐ父と娘
ミラノのホテルのスイートルーム

特化した時間のリミテーション(制約)が、この父娘の関係を濃密にしていく。 


ところが、父と共有する時間の中で愉悦するクレオが、嗚咽を漏らした。

 

クレオの涙を誘因したのは、母の不在に起因する家庭内での孤独の不安。

 

心身が未だに大人になっていないが、児童期段階を克服しようとする思春期初期の少女の複雑な感情が露呈されたのである。

 

そんな娘の唐突の反応を吸収する父ができるのは、温かく抱擁すること。

 

かくて、娘を楽しませるために、カジノで存分に遊ばせることだった。

 

ハリウッドスターには、こういう発想しか思いつかないのだろう。

 

それでもクレオは、カジノで存分に愉悦する。 


日ならずして、特化した時間のリミテーションが尽きてきた。

 

父娘の別れのシーンは、本作の核心的描写である。

 

別れを惜しむ父娘は、いつまでも見つめ合う。 


まるで、恋人同士の別れのようだった。

 

「クレオ!傍にいなくて、ごめん!」 


ヘリのエンジン音に掻き消されながら放った父の言葉は、観る者の情動を揺さぶるのに十分過ぎた。

 

ヘリに乗り込んだジョニーの涙の切なさ。 


娘との別れが、ハリウッドスターの心奥に突き刺さり、男に行動変容をもたらす。 

無力感に覆われるジョニー

前妻レイラに電話し、「俺は、空っぽの男だ。何者でもない」とまで言ってのけるのだ。

 

レイラから励まされても、ジョニーの嗚咽は止まらない。

 

かくて、意を決したジョニーは、ホテルをチェックアウトし、愛車のフェラーリに乗り、高速を走らせ、車を止め、歩き出す。 


これがラストカットになるが、「快楽の園」での日常に振れることがないと思わせるハリウッドスターが、そこにいた。 


まさに、この映画は、ハリウッドスターの光と陰 ―― その特化された日々を切り取った世界を映し出していた。 

 

「この作品には、大惨事に巻き込まれたり、誘拐事件の人質になったりっていう出来過ぎたドラマチックな展開はないわ。そういったことではなく、日々の生活のささいなことの積み重ねこそが人生を変えてくれると思うの。わたしもそうだし、映画でもそんなことを描きたかったのよ」

 

これも、インタビューでのソフィア・コッポラ監督の言葉。

                  ソフィア・コッポラ監督


 
ジム・ジャームッシュ監督に典型的に象徴されるように、インディーズ系の映画作家を好む私にとって、何某(なにがし)かの原作を、「基本・オリジナル」な作風に脚色した作品を世に出すソフィア・コッポラ監督の小宇宙の映像を大いに受容する。

 

とりわけ、「異常な女性たちの狂気を描いたサスペンス・スリラー」(Allcinema ONLINE)として紹介された、「白い肌の異常な夜」をリメイクした最新作の「The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ」は、女性たちの視点から物語を再構築していて、「異常な女性たちの狂気」という視座を相当程度、希釈化し、観ていて圧巻だった。 

             「The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ」より


演出力の勝利である。

 

(2020年9月)




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