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2024年9月1日日曜日

ほかげ('23)   戦争後遺症という疲労破壊が押し寄せてくる  塚本晋也

 



1  「いい?坊やとはこれまでよ。すぐに出てって」
 

 

 

焼け残った居酒屋で、女が独り布団で横になっている。 


突然、闇市の男が店に入って来て、箸立てを倒し、荒々しく物色するが女に睨まれ、そのまま出ていく。 



誰もいなくなったにも拘らず、カリカリと何か食べる音がするので、女がカウンターの方を見ると、男から逃げて来た戦争孤児の少年が生のカボチャを齧(かじ)り、女の目を気にしながら横切ったと思ったら、スライスしたサツマイモを掴んで走り去った。 


続いて、酒を持った中年男が入って来て、空の瓶と交換する。

 

女から金を受け取ると、男は女の体を貪り、虚ろな目の女も俎上之肉(そじょうのにく/なすがまま)となる。 



夜、灯もない店に復員兵が店に来たので、女はコップに酒を注ぐ。 


「じゃ、それ飲んだら上がってください」

 

酒を飲み、リュックを降ろして座敷に上がった復員兵は、先に金を払い、また酒を飲むと睡魔に襲われ、そのまま朝まで寝てしまった。

 

「すみません」と起きた復員兵が帰ろうとすると、女は「朝ごはんありますよ」と汁気だらけの雑炊を差し出す。 


「今日の夜も、来ていいですか?」

「お金ないんでしょ」

「作ってきます」

「…どうぞ」

 

雑炊を掻(か)き込んだ復員兵は、「ごちそうさまでした」と頭を下げ、勢いよく店を出て行った。

 

女が着替えを済ませたところに、また少年が店を覗くので、追い駆けようとすると、少年は冬瓜(とうがん/ウリ)を抱えて入って来て、カウンターに置いた。 


「お金より価値あるんだろ?やるよ。そしたら俺も客だろ」

「ここは、あんたの来るところじゃないんだよ。これ持って出て行きな」

 

しかし、少年が冬瓜を抱えたまま動こうとしない。

 

すると、先程の復員兵が戻って来て、「来ていいと言われている」と少年に話しかける。

 

「お金、作れませんでした。明日こそ、今日の分と合わせて作ってきます…僕もいさせてください」 


復員兵が冬瓜を調理し、少年と女に振舞う。

 

元教師だったという復員兵は教科書を取り出し、少年に算数を教える。

 

その様子を見つめる女の目に涙が滲む。

 

少年の汚い体を拭いてあげる女と、それを微笑ましく見つめる復員兵。

 

少年が襖の奥に入ろうとすると、女はダメだと厳しく叱る。

 

3人は川の字で横になって眠るのである。 


朝、復員兵は金を作ってくると言って出て行った。

 

しかし、その日も金は作れず、復員兵は「明日は絶対」と言って、自分の冬瓜を少年に食べさせる。

 

また3人で川の字で寝ていると、少年がうなされ、唸り声をあげるのを心配して、女と復員兵は懸命に宥(なだ)める。 


少年は静かに眠り始め、復員兵は女に話し始めた。

 

「全部燃えちまってたからな。よく、こいつは生き残ったよ…外地から帰って来たら、俺んちも燃えてました。親父もお袋も、みんないなくなっちゃってた。どっかに逃げたならいいんだけど…焼野原をふらふらしてたら、優しそうなおっさんが、ここに来れば優しくしてくれる人がいるって。優しいって、どういう優しさかと思ったけど、いや、大体察しはついてたけど…ここで、久しぶりに眠れました。ぐっすり、もう、ほんとぐっすり…ほんとに久しぶりで…」 


鼻を啜(すす)りながら語る復員兵。

 

翌朝、「じゃあ今日こそ、行ってきます」と復員兵がお辞儀をし、「よし!」と少年が元気よく出かけていく。

 

「私も、ぼちぼち働かないとね。あの子の持って来るものだけじゃあ…」と女が復員兵を見つめる。 


夕方、少年が「ただいま!」と卵を2つ持って帰って来た。

 

「あのおじさん…あの人、仕事探してないよ。出かけたあと、あの人見た。さっき帰りに通ったら、同じところにじっとしてたよ。じっとしていて、全然動いてなかったよ」 


暗がりの玄関口で復員兵が、うな垂れて立っている。

 

復員兵はまた少年と遊び、女も戸惑いながらそこに加わる。

 

突然、闇市の方から銃声がして、復員兵は慄(おのの)いて耳を塞ぎ、脂汗をかいて目を見開く。 


夜中、復員兵は酒を飲み、胡坐(あぐら)をかいてブツブツ呟いているのに気づいた女に向かって、喋り始める。

 

「僕にここを教えてくれた人は、あれは誰ですか?あんたも外で体売ってたんですか?…あのおっさんともやったんですか?」

「明日、朝起きたら、すぐ出て行け。金は日数分、作って持ってこい。そしたら二度と来るな」 


女はそっぽを向き、復員兵はまたブツブツ言っているが、外でまた銃声がすると悲鳴をあげ蹲(うずくま)り、落ち着くと、今度は女に襲いかかり、女が抵抗すると顔を殴るのだ。

 

鼻から血を出した女の顔を見た復員兵は、「何で、こんなとこにいんだよ」と言いながら後ずさりし、何もない腰から銃剣を出そうとする。 


立っている少年に気づいた復員兵が、「何だよ、その目は!うああああ!」と叫んで少年を掴む。

 

女が「やめて!」と絶叫するが、その瞬間、復員兵は少年を窓から放り投げ、激しいガラスの破砕音が響いた。

 

復員兵が振り向き、今度は女の首を絞めるが、抵抗され土間に転がり、更に襲い掛かる復員兵の頭に、後ろからガラス瓶が振り下ろされた。

 

頭を抱える復員兵の後頭部に、少年が隠し持っていた銃を突き付けたまま、復員兵を這わせ、外の瓦礫へと追いやるのだ。 


倒れ込んでそのまま眠ってしまった女が朝起きると、ガラスの破片が散乱する床に、傷を負った少年が眠っていた。 


女が起こし、「あいつは?」と訊ねると、少年は「ずっとあっちで、座り込んで動かなくなった」と答える。


 

女は少年の銃を無理やり取り上げ、棚の空き缶の中に入れた。 



夜、うなされて、唸り声をあげる少年に、「大丈夫よ、大丈夫よ」と声をかけながら胸をさする女。

 

朝、酒瓶を持って来た中年男に、「少しの間、休ませてください」と懇願し、散乱したガラスを片付け、怪我をした少年の手当てをする。 

「少しの間、休ませてください」


回復した少年が、座り込んだ女に水を汲んで差し出す。

 

「坊や、少しの間、ここにいる?用心棒になってくれる? 


笑顔で頷く少年は、女が取り上げて缶の中に入れた銃を取り出し、銃を持って女にすり寄る。

 

「一緒にいてくれるだけで、いいんだよ…稼ぐのは、それぞれでやろう。でも、盗みはダメだよ。いい?店を手伝うんだよ。手が足りてないんだから」

 

女は再び銃を取り上げ、「簡単に触るな」と言って缶に戻す。

 

「今日から私は、昼働く。夜は、私と坊やの時間だよ」 


きゅうりとトマトを持ってきた少年に、盗んだものではなく、働いて得たものかを執拗に問うが、その度に少年は首を縦に振る。

 

夜、女は少年に算数を教え、取れそうなボタンを付けるために奥の部屋に呼ぶ。 


部屋の中を見回す少年は、机の上に兵隊の写真と、白米が盛られた大小2つの茶碗が備えられているのを発見する。 


女は大きなシャツを少年のために仕立て直し、出来上がったシャツを着せ、少年を笑顔で見送る。 


うっすらと涙を浮かべた女が、いっとき手に入れた幸福感を噛み締め、至福の表情を浮かべる。 



帰りが遅いのを心配して待っていた女が、少年が帰って来るや、怒りながら近づくと頭から血を流しているのを見て、まだ盗みをしてるのかと問い詰めるが、少年は「ちゃんと働いた」と否定する。 


列車で検査を逃れるために放り出された荷物を拾って店に運ぶ際に、「おっかないお兄さんに横取りされ、ぶたれた」と弁明するのだ。

 

「そんな危ないことを…お店じゃ盗んでばっかりだったから、どこでも働かせてくれないんでしょう?」

 

女は離れたところで靴磨きでもするかと聞くと、少年はおっかないお兄さんを追い払ってくれたおじさんがいい仕事があると、拳銃を持って来なと言われ、行くことにしたと話す。

 

「そんなの、いい仕事のわけないでしょう!…拳銃取られて、撃たれて、はい、それでお終いかも知れないじゃないの!」

「違うよ。そんな人じゃないよ」

「なんで分かるのよ…なんでそんなことが言えるのよ」

 

女は激昂したあと、泣きながら少年を引き止める。

 

「…危ないことはやめて欲しい。ずっと一緒にいてくれるって言ったよね?」


「1週間くらい行くだけだよ。帰って来るよ」

「1週間…そんなに…イヤだよ!バカバカバカ!」

 

女は少年を抱き締める。

 

「約束したから行かないと、その人、困るよ」

「じゃ、今すぐ断って来て。すぐに断って安心させて!」

 

目を見開き、激しい調子で少年を促すと、すごすごと少年は出て行った。

 

その時、女は口に手を当て、唇の爛(ただ)れに気づき、奥の部屋の化粧鏡で自分の顔を確認する。 


玄関から酒瓶を持った中年男が入って来て、反応がないので上がり込み、鏡の前に座る女を発見し、キスしようと顔を近づけ、異変に気付く。

 

「え?あんた、まさか…」

 

焼け焦げ、爛れた壁、畳、町の退色した風景が冷然と広がる。 



帰って来た少年に、襖(ふすま)の奥から女が声をかける。

 

「断ってきた?断ったの?」

「うん」

「そう、それならよかった…来ないで!」 


畳に上がって来た少年を強く拒絶し、少し襖を開けた隙間から話しかける。

 

「いい?坊やとはこれまでよ。すぐに出てって…嫌いになったの!坊やのこと、もう好きじゃないのよ。私の本当の子共は、いい子だったのよ。その子のお父さんも外国の戦争から帰って来なかった。みんな、とっても優しくて、頭が良くて落ち着いてて…あんたみたいじゃなかったのよ!」

 

そこまで言って、襖をぴしゃりと閉める女。

 

目に涙を潤(うる)ませ襖を見つめていた少年は踵(きびす)を返し、カウンターの缶から銃を取り出してカバンに入れ、外界に出て行くのだ。 


 

 

2  「こないだは、ごめんね。あなたのこと、嫌いになったなんて言っちゃったけど、嘘だからね。嫌いになんかならないよ」

 

 

 

外界の明るさが映像提示されていく。

 

汽笛を鳴らして列車が通り過ぎる鉄橋下で、並んで立ち小便をするテキ屋の男と少年。 


拳銃を持って来たかと聞かれた少年がカバンから出そうとすると、「見つからないようにしまっとけ」と止める。

 

夜、少年がトウモロコシ畑で見張りをし、テキ屋が動かない右手を使わず、左手だけでトウモロコシを捥(も)いでいく。

 

川で同じく左手で魚を掴んで、それを焼いて食べる。 


「あの、どこへ行くんですか?」 


男は少年の顔を見つめ、何も答えない。

 

馬小屋で寝ている少年が唸り声をあげ、テキ屋の男はそれに気づくが背中を向け眠る。

 

少年は男と距離を置いて歩きながら、どこへ行くのか分からず、不安に駆られて後ろを振り向く。 


夜、少年は男が眠っているので立ち去ろうとするが、男の漏れ出る嗚咽の声を聞いて足を止め、男を見つめるのみ。

 

日中、テキ屋の後を歩いていて、家の塀から男の呻(うめ)き声が聞こえてきたので、少年が敷地に入ると、座敷牢に閉じ込められた男の顔が垣間見えた。

 

座敷牢の男は、呻き声を上げながら頭を叩き、食事を持ってきた母の手を掴むや、屋根の上に子供たちが沢山いて、屋根が落ちると泣きながら訴えるのだ。 


凝視していた少年の後ろにいたテキ屋が、座敷牢の男に何やら話しかけると落ち着き、頭を手を置いた。 


戻って来たテキ屋に、「知っている人?」と少年が聞くと、「いや」と一言。

 

夜、焚火をしながら、テキ屋が、「さっきみたいな奴が、たっくさんいたんだよ、俺の周りに。さっきの奴によ、俺がこれからやりにいくことを教えてやったんだ…みんな、おもろい奴らばっかりだったなあ…」と言って、笑い転げる。 


テキ屋が銃を出せと言うので、少年がカバンから出して見せると、どうやって手に入れたかを聞かれた。

 

「人が倒れてて、その手にくっついてた。水たまりに倒れてた」

「使ったことはあるのか?」

 

テキ屋はその銃を自分のこめかみに当て、しばらく動かない。 


「死んだら、何もなくなっちゃうんでしょ」

「そうなのかなあ、やっぱし」

 

銃を返された少年は、「銃で何すんですか?どこまで行くんですか?」と聞くと、テキ屋は(目的地の)近くまで来ていて、同じところをぐるぐる回っていたと漏らすのだ。

 

「すまん、なかなか決心がつかなくてよ。今日、やろう。夜になったら」 


心配そうにテキ屋の顔を覗く少年に、「大丈夫。どっちにしたって人生お先真っ暗だ!」と言って笑い飛ばす。

 

道の途中でまた銃を出すように言われた少年は、今度はカバンから出そうとせず、テキ屋に凄まれ出すが、差し出した銃から手を離さないので、テキ屋は無理やり引き抜き、弾倉に4発弾が残っているのを確認する。 


目的の屋敷の門から離れた大きな岩に二人は身を隠し、テキ屋は戸が半分開いて見える茶の間の様子を伺う。 


しばらく待っていると、女性が食事を運んで食卓を用意し、その後から着物姿の男が出て来て庭を眺めた後、食卓に着く。

 

一瞬、身を屈(かが)めたテキ屋は顔を上げ、屋敷の二人が仲睦まじく談笑する和やかな食卓風景を見つめながら、震えて笑い泣きするのだった。 



下見を終えたテキ屋は、一旦引き上げ、夜になったら少年が先ほどの屋敷の男を呼び出し、「アキモトシュウジ」と言うように指示する。 


夜、少年が屋敷の男をテキ屋の元に連れて来た。

 

「おお、アキモト、久しぶりだな」

「は、ご無沙汰しております」

「どうした。驚いたぜ、こんな夜に」

「近くまで来たので、」

「腕は残念だったな」

「いえ、なんとか…どうしても、これまでお世話になったお礼とお詫びを申し上げたく…」


「なんだ、礼と詫びって。世話になったのはお互い様だ」

 

二人は星空を見つめ、語り合う。

 

「私は、どうしても自分のしてしまったことで許せないことがございます。そのことの償いをしに参りました」


「俺たちがいたのは戦地だ。自分を追い詰めるな」

「いえ、貴兄の前で私がしてしまったそのことを償いたく、ご覧いただきたく思います」

 

テキ屋は少年を振り返り、銃を出せと小声で言うがカバンを抱えて出そうとしないので、無理やり取り上げると、いきなり屋敷の男の右足を撃った。

 

「タナカヒデオの分です。あなたに命令されて、捕虜を突き殺した後、鬼になり、さんざん人を殺した挙句、最後は…ニイジマタダノブの分です。あなたに命令されて捕虜を突き殺した後、戦地では敵兵だけではなく、女、子供にまで暴行を加え…」 


左右の足を撃たれた屋敷の男は、「待て、アキモト!あれは、戦地でのことだ…」と声を振り絞る。 


「はい、そうですね」と銃を下ろすテキ屋は、「あなたも被害者なのかも知れませんね」と言うや、今度は右腕を撃った。

 

「ナカダシゲキの分です。捕虜を殺せず、あなたの命令で俺が射殺した…俺の一番の親友です」

 

最後に、テキ屋は屋敷の男の額に銃口を当てる。

 

「これが、俺の分です。あなたから力を頂いて、何十人も殺しました。今でも毎日恐ろしい夢を見て、もう気が変になりそうです!それでも、のうのうと生きてます…ありがとうございます。俺と、銃剣で突き殺された捕虜たちの分です」 


しばらく銃を突き付けていたテキ屋は、今度は自分のこめかみに銃を当て、空を見上げて荒い呼吸を繰り返した後、屋敷の男を殴り、自分も倒れ込む。

 

その一部始終を見ていた少年は、起き上がったテキ屋に銃を返されると、虫の息の屋敷の男に近づき、胸の辺りに銃口を向ける。 


「もう、そいつには使うな。次、地獄で会ったら、今度は即ぶっ殺してやるからな。それまでずっと、痛みを抱えて生きろ」 


ここでテキ屋は、仕事の謝礼として少年に紙幣を渡そうとするが、少年は後ずさりする。

 

帰りの汽車賃だと言われると、一枚だけ紙幣を抜き取った。

 

「これでお別れだ。感謝するぜ」

 

少年は、テキ屋に「屋敷の男がここにいることを家の人に知らせ、消えろ」と指示され、「行け!」と怒鳴られ走り出すが、立ち止まって振り返る。

 

テキ屋は髪を解(ほど)き、夜空に向かって左手を掲げている。

 

「終わった…戦争が終わった…」 



少年は居酒屋へ戻った。

 

足音で少年と分かり、女が襖の奥から声をかける。 


「坊や?近づかないで、近づかないでね…私、病気になっちゃったのよ。感染(うつ)ったら大変よ。来ないでね。顔、見られたくないの…こないだは、ごめんね。あなたのこと、嫌いになったなんて言っちゃったけど、嘘だからね。嫌いになんかならないよ。兵隊さんは怖かったけど、神様が旦那と子供を戻してくれたのかと思ってたんだよ。短い時間だったけど、姉(ねえ)さんにとったら一生だよ。ありがとね…ありがとう」


「戻って来れなかった兵隊さんは、怖い人になれなかったんだよ」

「そうね…坊や、そうね…さあ、もう行きなさい。私は大丈夫。助けてくれる人がいるから。それから、あの危ないもの、あれは置いていきなさい…あなたは、そんなものを持たないで生きていくの…」

 

少年は言われた通り、銃を棚の上の缶に入れる。


 

「坊や…しっかり生きてね!危険なことしないで…ちゃんと自分で働いて、ご飯を食べるのよ!約束よ!」 


少年は戸口に立って襖を見、戸を開けて出て行った。

 

闇市に向かった少年は、繁盛している闇市の男の残飯シチューの店で足を留め、溜まった皿を勝手に洗い始める。

 

少年に気づいた闇市の男は、「ああ~この野郎!遂に出て来やがったな!」と叫ぶや、少年を掴んで投げ飛ばす。 


「帰れ!馬鹿野郎!」

 

しかし、少年は表情を変えずに、皿洗いをしようと戻り、また男に突き飛ばされるが、何度突き飛ばされても、皿洗いを止めないのだ。 


「いい加減にしろ!」と怒鳴られ、遠くに投げ飛ばされ、鼻血を出しても戻り、黙々と皿洗いする少年に根負けした店の男は、それ以上手を出すことはなかった。

 

夕方になり、店の男が黙って残飯シチューを一皿と箸を少年に差し出す。 


その皿を見つめ、中に入ったうどんを掬って口にする少年。 


更に、男は丸まった僅かな紙幣を机に置いた。

 

仕事を終えた少年は、帰還兵が屯(たむろ)するガード下に行き、闇の奥の朦朧(もうろう)とした呟きや呻(うめ)き声を上げる廃人と化した男たちの群れの中に、表情なく蹲(うずくま)っている若い復員兵を見つけ、小学算術の本をその場に置いた。 

復員兵


闇市に戻った少年は、僅かな紙幣で病人に食べさせる焼き肉を買おうとするが足りず、今度は服屋でブラウスを買おうとする。 


世話になった女へのプレゼントのためである。

 

その時、一発の銃声が遠くから聞こえ、少年はそちらの方を見る。 


闇市に集う人々は驚きつつ視線を向け、寸時、押し寄せる雑踏の騒音が消えるが、束の間だった。

 

雑踏の騒音が戻る只中にあって、少年だけは居酒屋の方を凝視しながら立ち竦むのだ。

 

女の自死を認知したであろう少年は手にしたブラウスを戻し、ゆっくりと歩き、雑踏に紛れ消えていった。 


 

 

3  戦争後遺症という疲労破壊が押し寄せてくる

 

 

                          

尺の短い映画ながら詳細にフォローした梗概を読めば分かるように、映像の構築力が出色で高く評価できる作品である。

 

いつもながら俳優は素晴らしい。

 

オールラウンダーの森山未來は常に安定感がある。


 

少年の表情の自然な演技には驚かされた。

 

とりわけ、趣里の表現力は抜きん出ていた。

 

説明セリフ・モノローグなしの傑作朝ドラ「ブギウギ」では、圧巻の歌唱とコメディエンヌの才能をフル稼働させ、驚きの連続だった。 

ブギウギ」より

打って変わって、固有名詞を削り取ることで般化された憂いに沈む女を演じて見せ、憑依するのだ。 


何より、冒頭のクレジットで紹介される登場人物全員が戦争後遺症を抱え、その一点にのみ特化して作られた映画。

 

だから、「絶対反戦」という主題提起の力技で全篇を通して爆走するから、最初から作為性が高い「為にする映画」になった。

 

これをどう評価するのか。

 

そこには、どうしてもスルーできないイシューがある。

 

以下、整理していく。

 

中年男が持ってきた酒で、「居酒屋」という振れ込みで客を集めて売春する。 


夫と我が子を喪って物憂(ものう)い時間を繋ぐ女。 


この倦(う)み疲れて気怠(けだる)げな女の非日常の日常で開かれ、件(くだん)の女の自死で閉じる物語。

 

その中心に、戦争孤児の少年がいる。 


児童期中期をイメージさせる逆境にめげない逞しさを具備した少年と、息詰まるスポットで何とか命脈を保持する女のクロスを軸に、シェルショックで神経を冒され、状況忌避という処方て時間に喰(くら)いつくだけの基本・アパシーな復員兵が転がり込んで来て、束の間の平穏を捥(も)ぎ取るが、シェルショックのフラッシュバックに覆い尽くされた時、抑え込んでいた情動が激しく噴き上げて、そこにのみ依拠してきた疑似家族を手ずから打ち壊してしまうのだ。 


「僕もいさせてください」

「久しぶりに眠れました。ぐっすり、もう、ほんとぐっすり」 


本音を吐露した復員兵の言葉が切な過ぎる。

 

「ずっとあっちで、座り込んで動かなくなった」 


これは少年が女に伝える、疑似家族を自壊させた直後の復員兵の悲哀なる情態。

 

憂鬱な気分に終わりが見えないのだ。

 

基本・アパシーな復員兵を襲うPTSDの破壊力の激甚さが透けて見え、その喪失感・寂寥感(せきりょうかん)が只者でないことが分かる。



疑似家族の崩壊後、一転して、映像は日差しが照りつける外界を映し出していく。

 

同様に、激甚な戦争後遺症を病むテキ屋の復讐譚が描かれていく。 


その中心にいるのは、ここでも戦争後遺症によって、ほぼ毎夜、うなされる戦争孤児の少年。

 

大人たちが負う戦争トラウマの実相を少年に見せつけていくのだ。



この時、自らも負う戦争トラウマの視認者となる。


 

戦争後遺症という疲労破壊が雪崩のように押し寄せてきて、何もかも喰い潰されるようだった。

 

思えば、この景色の転換には、疑似家族の崩壊後に一時(いっとき)生れた疑似母子の関係の崩壊があった。

 

「いい?坊やとはこれまでよ。すぐに出てって…嫌いになったの!坊やのこと、もう好きじゃないのよ」

 

少年との物理的・心理的交流に止(とど)めを刺す女の不自然な通告の契機になったのは、表向きには外界での少年の不良行為にあるが、この不自然な通告のフラグ(伏線)はラストで回収されることになる。

 

梅毒に罹患した女は、愛する少年への感染を避けたかったからである。 

腫れ物に気づき鏡を見にいく

【女の病気が梅毒であったことは、キスを止めた中年男の行為で判然とする。梅毒とは、性感染症の一つで梅毒トレポネーマという細菌が粘膜から感染することによって起こる病気で、性器や肛門、口唇などに腫れ物ができるのが初期症状。感染者と皮膚や粘膜で接触することで、細菌が侵入して感染する。またキスで感染する可能性もあると言われる。そして今、2024年段階で、他の病気との判別が難しいので「偽装の達人」とも呼ばれる梅毒の患者数が、年間1万人を超えで高止まりしている。感染経路が性風俗産業とは限らないが故に厄介なのだ。現代では致死的な疾病ではなく、戦後の闇市の時代状況下と異なり、抗生剤の服用で完治する。妊婦が感染すると流産・死産のリスクが高まるので、行政には、その旨の注意喚起が求められる 

梅毒

梅毒感染、10代妊婦の「200人に1人」 胎児感染は近年で最多に」より



灯火に照らされてできる影のように暗い火影(ほかげ)の世界から、日差しが照りつける外界を映し出す映像遷移の風景は、かくて、「戦争が終わった…」というテキ屋の言辞に象徴されるように、戦争後遺症を抱える者たちの悲哀に満ちた物語が閉じていくが、この構成には説得力があり、主題提起力を前面に押し出した映像総体の構築力が担保されていた。

 

だから、作為性が高い「為にする映画」ながら高く評価される映画であると捉えている。

 

 

 

4  自衛権の放棄は主権の放棄であり、築き上げてきた文化の放棄である

 

 

 

以上、本作を簡便に整理してみたが、前述したように、どうしてもスルーできないイシューがある。

 

「野火」⇒「斬、」⇒「ほかげ」と続く三作に共通しているのは、「絶対反戦」・「反暴力」と思われる塚本流の主張である。 

「戦争が人間性を破壊する」というテーマで描いた「野火」より

やられても、やり返さない「正義」をテーマに「反暴力」の思想を押し出した「斬、」より


その塚本監督が本作のプロジェクトの転換点となったのが、「ロシアによるウクライナ侵攻」だと吐露し、インタビューで以下の持論を展開する。 

「ロシアによるウクライナ侵攻」


「世界がきな臭くなっている中、周りが押し寄せてきたらどうする、戦争もしょうがないと考える人が相当数いる。それでも、弱虫と言われても、踏みとどまって戦争は絶対にしないという立場を守らないとまずい」

塚本晋也監督

『やるときはやらなきゃいけない』『攻めてきたらやり返す。そのために準備が必要だ』と」いう発想を非難する塚本晋也監督


ここで言う「絶対反戦」とは、「如何なる戦争も認めない」ということ。

 

要するに、戦争を悪と見做(みな)し、戦争それ自身を絶対的に禁じるという主張である。

 

戦争を悪と見做すが故に、「ロシアによるウクライナ侵攻」に異議を唱え、即時停戦を求めることになるだろう。

 

ここで私は疑義を呈したい。

 

「ロシアによるウクライナ侵攻」の本質を問いたいのだ。

 

単なる隣国同士の武力衝突でないことは瞭然としている

 

主権国家に対する主権国家の一方的侵略であり、「力による一方的な現状変更」であるということ。

 

これが「ロシアによるウクライナ侵攻」の本質であり、それ以外ではない。

 

大体、塚本監督が言う「やられたらやり返せ」という発想を否定する言辞が内包するのは、国連憲章(51条)で定められたウクライナの個別的自衛権をも是認されないということ。 

国連憲章(51条)


では、ロシアに一方的な侵略を受けたウクライナは自衛権を放棄して、国家主権をロシアに譲り渡せばいいということか。

 

信じ難いことだが、論法としてはそういうことになる。

 

それならアメリカによるベトナム侵略においても、ベトナムの自衛権の放棄を求めることにも結びつく。


自衛権を行使して、アメリカと戦うベトナムを支援する反戦デモは間違っていたのか。

ベトナム侵略

それでよかったのか。 


ベトナム戦争で大きな役割を果たしたマクナマラ国防長官は、両軍の「ボディ・カウント」(戦死者数)の違いによって戦争の推移を見極め、300万人近くの犠牲者を出したにも拘らず、ベトナムが和平協定に応じなかったことに疑問を持ち、戦後、ボー・グエン・ザップ将軍に会いに行き、「100年経っても戦う」と言われて面食らい、最後までベトナム人の強靭な愛国心を理解できなかったとも言われている。 

マクナマラとケネディ(ウィキ)

1995年11月、ベトナムのハノイでマクナマラ元米国防長官(右)と会見したボー・グエン・ザップ将軍


所謂、数字で戦争を遂行することの誤り=「マクナマラの誤謬」である。 

マクナマラの誤謬

これはウクライナでも同様。

 

ウクライナ人の愛国心の強さを理解できなかったプーチンの誤謬は、侵略当初から露呈されていた。

 

ベトナムと同様に他国の援助を受けつつも、ウクライナは巨大なロシア軍の攻勢に対して自衛権を放棄しなかったのである。

 

自衛権の放棄は主権の放棄であり、築き上げてきた文化の放棄である。

 

やられたらやり返さなかったら、全てを失うことになるのだ。


だから「反戦」ではなく、「反侵略」というスタンスこそ正解なのである。

 

自衛権の放棄すらも否定するかのような言辞を放つ塚本監督は、そこまで考察して「ロシアによるウクライナ侵攻」を契機に本作を作ったのか。

 

思えば侵攻初期、少なくない文化人・政治家らは即時停戦論を主張していた。

 

ここで想起するのは、ウクライナに対するロシアの一方的侵略に対して、「ロシアの言い分聞くべき」と言い切り、一貫してロシア側の立場に依拠し、「350年以上、今のロシアとウクライナが1つの国であったものが、2つに分かれた」(所謂、ウクライナ語を含むウクライナの独自の文化を否定する「兄弟喧嘩論」)だけで、「アメリカの新しい戦争」と決めつけたばかりか、即時停戦を主張し、9条を有する日本・中国・インドが仲介となるべきなどと言い放った和田春樹。 

和田春樹/「今こそ停戦を!」のグループによる記者会見


彼に代表される、苔の生えた左翼文化人の相も変らぬスタンス。

 

そのコアにあるのは、「反戦」・「反米」・「護憲」という戦後左翼の三大命題。

 

塚本監督が左翼文化人のスタンスの血脈を継いでいるように思えるのに特段驚くことはないが、ここまで明瞭に言及されれば看過できないので書いておきたい。

 

国連憲章(2条)を破って一方的に主権国家を侵略し、ジェノサイド・電力インフラ攻撃・ダブルタップ攻撃(負傷者救助の現場の救急隊員などを狙った攻撃)・ザポロジエ原発への放火などの原発占拠・子供の連れ去り・民間施設への攻撃・性犯罪等々、戦争犯罪の限りを尽くしているロシアにウクライナからの撤退を求めるならともかく、それが具現化していない状況下にあって、ウクライナに即時停戦を要請することに無理があるとは思えないのか。

ザポロジエ原発への放火

国際刑事裁判所がプーチン大統領に逮捕状を出す事態にまでなった、ロシアによるウクライナの子どもたちの“連れ去り”


「ウクライナ領内から撤退する」


プーチンのこの一言で全て終わるのだ。

 

「現状はよくなるどころか、むしろかなり戦争に近づいてしまっている」という表現の含意と共に、塚本監督には具体的に答えてもらいたいものだ。

 

―― 本稿の最後に、左派系の戦場ジャーナリストによるハッシュタグの付いた一文を目にしたので、それを転載しておきたい。

 

#ウクライナ を踏み台に『平和』を語るリベラル知識人の貧困」(志葉玲)

 

【ウクライナ侵攻が始まって以来、いわゆるリベラル/左派とされる知識人やメディアの中から、過剰にロシアを擁護したり、侵攻による被害国であるウクライナを批判したり、一刻も早い停戦のためウクライナ側に妥協を求めたりというようなことが、幾度か主張されてきた。これらの主張の欺瞞とも言える部分は、ウクライナを語りつつ、結局は米国の外交・安全保障政策を批判したいだけであったり、防衛費を大幅増額し改憲も目論むという岸田政権への批判だけであったり、国際社会の分断による日本への影響を懸念したりしているだけであることだ。今、正に戦争の惨禍に苦しむ人々に対し、ただただ「即時停戦」という妥協を強いるだけで、いかに平和的な手段によってロシア側にウクライナ侵攻をやめさせるかという課題に向き合うことすらしていない。筆者も、リベラルであり護憲派であることを自認しているが、だからこそ、ウクライナを踏み台に「平和」を語るリベラル知識人の姿勢には、疑問を呈したい。そのような姿勢は、日本国憲法の精神に反するからだ】

 

本稿を閣筆(かくひつ)するに当たって、これだけは書いておきたい。

 

ウクライナがロシアと同様に、汚職に塗(まみ)れた問題を抱える国家であったとしても、それはどこまでもウクライナの内政問題であって、ロシアのウクライナ侵略を正当化することにはならないのである。

 

(2024年8月)

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