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2024年5月26日日曜日

希望のかなた('17)   並外れて優しき者たちの利他的行為の結束力  アキ・カウリスマキ

 


1  「戦争のないこの国で暮らしたい。言葉を覚え、仕事をして、妹も呼びたい。ここなら妹の未来がある

 


 

ヘルシンキの港に着いた貨物船のコークスに紛れて密入国したシリア難民のカーリドは、街に出て駅下のシャワーを浴びてから警察へ行き、難民申請をした。 

カーリド/シャワーを浴びた後、警察に行く




一方、ヘルシンキでセールスマンとして働くヴィクストロムは、アルコール依存の妻に鍵と結婚指輪を渡して家を出た後、簡易宿泊所に泊る。 

ヴィクストロムと妻

車に積んだシャツを得意先の店に届けるヴィクストロムは、馴染みの洋品店の女店主に、「商売替えをする。在庫を引き取らないか。半額でいい。シャツ3000枚だ」と話をもちかけた。 


「ムリよ。クリスマスに辞めてメキシコへ。日本酒を飲んでフラを踊るの。毎日が穏やか過ぎて飽きちゃった。どんな商売を考えてるの?」

「レストランをやりたい。表向きはね」

「儲かるわ。不景気だと皆飲むし。好景気なら尚更よ。私がメキシコへ行ったら、お別れね」 

洋品店の女店主/カウリスマキ・ワールドの常連俳優のカティ・オウティネン


収容されたカーリドの入館管理局の面接が、カーリドのアラビア語を通訳しながら始まった。

 

「僕は修理工で、アレッポのはずれの修理工場で働いていた。去年の春の4月6日、仕事から帰ると大変なことが起きていた。大勢の人が集まっていて近づいてみると、家が粉々に破壊されていた。誰のミサイルか、政府軍か反政府勢力か、米国かロシアか、ヒズボラかISか、パンを買いに出た妹のミリアムも戻ってきた。すぐにガレキを掘った。近所の人も手伝ってくれた。朝までに父と母と弟が見つかった。一緒にいたおじ夫婦と子供たちも。その翌朝、ボスに6000ドル借りて埋葬した。僕らはいとこの運転でトルコ国境へ行き、歩いて越えた。幸運にも国境警備兵はいなかった。2週間後、密航業者に3000ドル支払い、船でギリシャへ。歩いてマケドニアからセルビアに入ったが、ハンガリー国境で混乱に巻き込まれ、妹を見失った。国境は封鎖されるところで、見ると妹は反対側に。僕は警官隊をかき分けて戻ろうとしたが、警官につかまれ投げ飛ばされた。手錠をされ留置所へ」


「暴力を受けたことは?」


「ずっとだ。妹は3回もさらわれかけたが…(善意の人に守られた:書記の通訳)」

「なぜボスは大金を貸してくれたのですか?」

「婚約者の父だ」

「今、彼女はどこに?」

「内戦が始まった頃、死んだ」

「留置所のあとは?」

「連中に殴られたが、4日後に解放された…妹は見つからない。難民キャンプを尋ね回ったが手がかりもない。2カ月間、ハンガリーやスロヴェニア、ドイツも回った。妹が僕を探しているかと、セルビアも」


「どうやって国境を?」

「簡単だ。誰も僕らを見たくない。厄介者だから」

「どこかの国で難民申請は?」

「してない。自由に動いて妹を捜したかった。きっと生きてる。ここで感じるんだ」

 

カーリドは手を胸に当て、妹の写真を見せた。

 

審査官はをそれを見て、妹の名前と生年月日を訊ねた。

 

「それと姿形を詳しく。捜査願を出します」

 

倉庫のシャツを売り払ったヴィクストロムは、手に入れた金でポーカーの店へ入ると、年寄りだらけの客がカードを興じていた。

 

ヴィクストロムは朝まで賭けポーカーで勝ち続け、大金を手にした。 


「二度と来ないでくれ」


「心配するな。もう来ない」
 


ヴィクストロムがイカサマ師でないことを知って追い返したというユーモア含みのエピソードだが、その足で不動産屋へ行ったヴィクストロムは、“ゴールデン・パインント”というレストランの物件を買った。

 

ウェイターのカラムニウス、調理人のニュルヒネン、ウェイトレスのミルヤの3人の従業員も契約でそのまま雇うことになる。 

左からミルヤカラムニウス、ニュルヒネン

前の支配人の男は、従業員たちに明日給料を必ず振り込むと約束して店を後にすると、そのまま空港へと向かった。 

前の支配人(右)


店は繁盛しているが、給料を払われていないカラムニウスは、新しい支配人となったヴィクストロムに給料の前払いを申し出る。 


「分かった。ほかの者には内緒だぞ」


「約束します」

 

カラムニウスが小切手を受け取り支配人室から出ると、順番に並んで待っていたミルヤが部屋に入って行き、後ろにはニュルヒネンも待機していた。 



カーリドは収容所で知り合ったイラクの避難民であるマズダックに携帯を借り、いとこに電話をかけたが、ミリアムからの連絡はなかった。 

マズダック(右)


カーリドが飲みに誘うと、マズダックは馴染みの店へカーリドを連れて行き、フィンランド語を上手に駆使して注文する。

 

ギターの演奏が始まるが、中年の男性が弾き語りをしている。 


マズダックは一年もいるのに身動きが取れないと話す。

 

「家族を呼ぶには仕事を3つ掛け持ちしないと。今の俺じゃ、誰一人幸せにできない」

「満足してそうに見えるけど」

「装っているのさ。暗い顔してると真っ先に狙われる。全員送還されたよ。俺は若いんだ。死にたくない…家が襲われた時、街に出てて助かった。その翌朝、俺は荷物をまとめて逃げたんだ」


「俺もニコニコしたりして、楽しそうに見せるべきか?」

「ああ、その方が身を守れる」

 

管理局審査官の面接で宗派を聞かれたが、「好きにしてくれ」とカーリドが言ったので「無宗教」とされた。

 

「なぜフィンランドへ?」

「偶然だ。ポーランドのグダニスクの港のそばで、スキンヘッドのネオナチに襲われた。それで逃げ込んだのが貨物船だ。疲れて眠ってしまい、気づいたら海の上だった。船員の一人に見つかったが見逃してくれた上に、食事も運んでくれた。舟はフィンランド行きだった。彼にどんな国か尋ねたら、誰もが平等でいい国だと。内戦を経験していて、自国の難民も生んだ。国民は決してそれを忘れない。とにかくいい人々のいい国だと」


「どう思った?」

「僕は幸運と」

「今は?」

「戦争のないこの国で暮らしたい。言葉を覚え、仕事をして、妹も呼びたい。ここなら妹の未来がある」

「あなたの未来は?」

「関係ない」


それだけだった。 

【フィンランド内戦とは、ロシアの支配下にあったフィンランド国内で、1917年のロシア革命を機に、1918年、ソビエト・ロシアの支援を受けた赤軍と帝政ドイツの支援を受けた白軍との間に発生した内戦で、白軍が勝利した。その後、ドイツが第一次世界大戦に敗れたことで帝政が崩壊し、フィンランドは共和国としてパリ講和会議で認知されるに至った】

広場に集まった白軍のイェーガー大隊(ウィキ)


まもなく警察に呼び出され、審査の結果を言い渡されるカーリド。

 

「アレッポでは…“重大な害”と言えるほどの危険は発生していない…保護の必要性は認められない。あなたは明日、我が国の費用負担でトルコのアンカラへ移送のこと。トルコ当局がシリア国境へ送る。これから施設へ戻すが、明朝まで外出は禁止とする」 


カーリドは手錠を嵌められ施設に移送された。

 

「国連はシリア情勢を憂慮しています。この24時間でまた、多くの犠牲者が出ました。昨日、政府軍がアレッポの小児病院を空爆したのです。停戦は崩壊の危機です。政府軍と反体制派の戦闘により、この水曜と木曜で61人が死亡。最も壊滅的な被害の出たのが小児病院です。政府軍の無差別空爆で27人が死亡。支援物資の輸送はさらに困難となるでしょう…ロシアの支援により政府軍は、東部の反体制派の支配地域を攻撃。市民には食料も燃料も医薬品も不足しています。少なくとも歴史は、5年に及び殺戮を強く非難するでしょう。現在、民間人への焼夷弾や、特に地中貫通爆弾(バンカバスター)の使用は戦争犯罪とされています…」 


このテレビ放送のニュースを、虚ろな眼差しで見つめるカーリド。 


マズダックに気晴らしに楽器を弾くように言われたカーリドは、シリアウード(弦楽器)を奏で、その美しい音色が聴く者の心を浄化するようだった。 


【シリア内戦の趨勢を決する戦闘と化した「アレッポの戦い」(2012年―2016年)は、アレッポ市内を東西に分断する政府軍と反体制派との激しい軍事衝突だったが、アサド政権を支持するロシア空軍による空爆によって戦況が一変し、政府軍が勝利を収めるに至る。この間、多くのシリア難民を生み出し、最悪の人道危機を招来する。なお化学兵器禁止条約に調印していながら、この戦いでアサドが化学兵器を使用した事実が分かっている】 

シリア・アレッポ空爆再開で小児病院に被害」より


 

 

2  「昔よく、いじめたっけな。お前はヤセっぽちだった」

 

 

 

翌朝、警察が迎えに来ると、カーリドは荷物も持って廊下のドアからスタッフの女性の助けを得て逃げ出した。 


街に出て、“フィンランド解放軍”と書かれたジャケットを身につけた極右の男たちに殺されそうになるが、老人・怪我人・浮浪者らに助けられ、ヴィクストロムの店のゴミ箱に辿り着く。 

“フィンランド解放軍”の男たち(後方)

老人らに助けられるカーリド


ゴミを捨てに来たヴィクストロムに立ち去るように言われたカーリドが、ヴィクストロムの顔面を一発殴ると、体が大きいヴィクストロムに殴り返されるのだ。 


結局、カーリドはスープをご馳走になったばかりか金銭援助を受け、ヴィクストロムの店で働くことになった。 



行政府からの検査が来て、ヴィクストロムに対して「実行」という言葉と共に、スタッフは所定の行動を取り、カーリドは犬と共に女性用トイレに匿われた。 

女性用トイレから出て来るカーリド

検査は無事に終わったが、ヴィクストロムが「偽造でもいい。カーリドに身分証を。かくまうにも限界がある」と言うや、カラムニウスが「天才の甥がいる…あいつならパソコンを使って15分で作りますよ」と申し出る。

 

早速、仲間を連れてやって来た甥が身分証を偽造し、カーリドに手渡して一件落着。


 

カーリドを雇ってはみたものの店の売り上げが下がる一方で、ヴィクストロムはスタッフと相談し、ダンス音楽を流すこと、寿司を出すことなどが話し合われた。

 

レストランの看板は“インペリアル・スシ”(最上級のスシ店)と上書きされ、店の内装もスタッフのコスチュームも日本風にして、日本の歌を流すのだ。 

大盛りのワサビ

立ち所に多くの客が入店してきたが、見よう見まねで寿司を握るヴィクストロムらだが、ワサビをてんこ盛りするなど、出任せな料理を出して約束されたように頓挫する。 


とどのつまり、元の仕様に戻し、バンドの演奏をして客が踊れるようにしたという顛末だった。

 

そこにマズダックが店を訪ねて来て、カーリドに妹が見つかったと知らせるのだ。 


二人は抱き合って喜ぶ。

 

早速、ヴィクストロムにすぐにそのことを伝えた。

 

「妹がリトアニアの難民センターに。いますぐ発つ」


「国境が多い。考えよう」

「でも、急いでる」

「ダテに年は取ってない。電話を入れる」

 

ヴィクストロムは、カーリドを乗せ、顔見知りの運送会社へ連れて行き、リトアニアから妹の移送を依頼した。

 

カーリドは信用を得るために、妹のミリアムに手紙を書く。 


無事、検問を潜り抜け、移送されて来たミリアムとカーリドは再会を果たすのだ。 

ミリアムを港で待つカーリド、ヴィクストロムら

ミリアム

インド料理店で会話する兄妹。

 

「…お前のことばかり考えてた」


「いい人に助けられて…アフガン人夫婦のお世話に」

「家族は全員死んだ。でも耐えて生きてくれ」

「大丈夫。私はママの子よ。死ぬのは簡単。私は生きたい」

「身分証を作る男がいる。あっという間だ。お前も作れ」

「いいえ。私は名前を変えたくない。私は私よ。明日、警察へ行くわ」

「仕方ない。ミルヤに付き添いを頼もう」

「世界一のお兄さん」

「昔よく、いじめたっけな。お前はヤセっぽちだった」 


かくて、ミルヤにミリアムを託したカーリドは倉庫に戻ると、待ち伏せしていた件(くだん)の“フィンランド解放軍”の大男にナイフで腹を刺されてしまうのだ。 


「警告したろ。ユダヤ野郎」

 

倒れて血の噴き出す腹を抑えるカーリド。

 

一方、ヴィクストロムは別れた妻が働く店を訪ね、家へ送って行くと言う。

 

妻はヴィクストロムが出て行ってから、酒を辞め働き始めていた。

 

ヴィクストロムはレストランのフロア長に誘い、妻は指輪をまだ持っていると見せ、二人はよりを戻すことになった。 


ヴィクストロムが車で地下駐車場へ行くと、倉庫のドアが開いており、部屋にはカーリドの姿はなく、数滴の血の跡を発見する。

 

ミリアムはミルヤに警察の前まで送られ、店を開けなくてはならないので、カーリドは不在でも一人で行くように促された。

 

しかし、カーリドは約束通りミリアムを待ち、難民申請を申し出る覚悟で警察に向かうミリアムにアドバイスして、抱き締めて送り出すのだ。 

ミリアムに知られないように痛い腹部を我慢して、妹を抱き締め送り出すカーリド


ラスト。

 

カーリドは腹を抑えながら丘の木にもたれ、忍び寄る死の影を感知しながら、どこか満足そうな表情を湛(たた)えて港の海を見つめていた。


自らに課した使命を遂行し得た男の表情が眩(まばゆ)かった。 

 

 

3  並外れて優しき者たちの利他的行為の結束力

 

 

 

ル・アーヴルの靴みがき」同様に、オフビートな映像構成を崩さないカウリスマキ・ワールド全開の映画。 

ル・アーヴルの靴みがき」より

同上

その特徴的な色彩設計と、情感的なBGMの強力なサポートは変わらない。

 

「自分の映画のキャラクターを愛さずにはいられない」というカウリスマキの思いも変わらない。

 

「この監督なら仕方がない」と思わせるに足るだけの、「巨匠」の域にまで昇り詰めてしまった作り手の映像構成力についての合理的な突っ込みなど、ここでも一切不要となる。

 

それを無化させるほどの独立蜂のパワーの凄みが、カウリスマキ・ワールドを貫流しているのである。

 

「二度と来ないでくれ」


「心配するな。もう来ない」

 

ヴィクストロムが大金を得たポーカールームでの唯一の会話だが、不正行為を監視するための監視カメラを備えていなくとも、ヴィクストロムがイカサマ師でないことを認めたエピソードにシンボライズされるように、次々にインサートしてくるカウリスマキ・ワールドの独立蜂の輝きは全く色褪せていない。

 

然るに、この映画でのカウリスマキ監督の舌鋒はいつになく鋭いのだ。

 

時のフィンランド政権をストレートに誹議(ひぎ)して、激しく攻撃的なのである。

 

「ル・アーヴルの靴みがき」のファンタジー性と切れているのである。

 

そこだけは、堂々とリアリズムで勝負してきたと思わせるほどに、何時(いつ)となく感度が高いのだ。

 

今世紀最悪の人道危機の様相を呈しているシリア難民の問題を、主人公カーリドが口に出して毅然と言語化させていること。

 

「誰のミサイルか、政府軍か反政府勢力か、米国かロシアか、ヒズボラかISか、パンを買いに出た妹のミリアムも戻ってきた。すぐにガレキを掘った。(略)朝までに父と母と弟が見つかった。一緒にいたおじ夫婦と子供たちも。(略)僕らはいとこの運転でトルコ国境へ行き、歩いて越えた。(略)2週間後、密航業者に3000ドル支払い、船でギリシャへ。(略)ハンガリー国境で混乱に巻き込まれ、妹を見失った。国境は封鎖されるところで、見ると妹は反対側に。僕は警官隊をかき分けて戻ろうとしたが、警官につかまれ投げ飛ばされた。手錠をされ留置所へ」 


これには驚いた。

 

言いたいことをセリフにすることの少ないカウリスマキ・ワールドにあって、このシーンをワンカットで見せる意味の大きさは本篇の基軸と成していることで了解可能だった。

 

「臆せずに言えば『希望のかなた』はある意味で、観客の感情を操り、彼らの意見や見解を疑いいもなく感化しようとするいわゆる傾向映画(プロレタリア映画)だ。そんな企みはたいてい失敗に終わるので、その後に残るものがユーモアに彩られた、正直で少しばかりメランコリックな物語であることを願う。一方でこの映画は、今この世界のどこかで生きている人々の現実を描いている」

 

カウリスマキ監督のインタビューでの言辞である。 

アキ・カウリスマキ監督

「私がこの映画で目指したのは、難民のことを哀れな犠牲者か、さもなければ社会に侵入しては仕事や妻や車をかすめ取る、ずうずうしい経済移民だと決めつけるヨーロッパの風潮を打ち砕くことだ」

 

これも同じ文脈である。

 

カウリスマキ監督は「友人に対する思いやりがなければ、誰も存在できない。人間性がなければ、一体、我々は何者なんだろう」とも添える。

 

社会的弱者に対する政治フィールドでの怠慢を嘆き、怒気を強めて糾弾するのだ。

 

「どうやって国境を?」


「簡単だ。誰も僕らを見たくない。厄介者だから」
 


難民審査でのこの遣り取りの途轍もない重さが、全篇を貫流しているのだ。

 

そんなシリア難民のカーリドを、フィンランドで呼吸を繋ぐ無名の市民が我が事のようにサポートし、「希望のかなた」にある風景の一端を見せてくれるのである。

 

「ここに住まわせたら、私の平和はどうなる?究極の少数派か?」などと零(こぼ)しつつも受け入れてしまうヴィクストロムの、持ち前の包容力の大きさは半端ではなかった。 


行政府からの検査が来ても匿い続け、カラムニウスの協力を得て身分証を偽造させてしまうのだ。 


不愛想な連中の真摯な物理的・経済的援助を身に染みながら感受し、いよいよ強くなっていくカーリド。

 

何しろネオナチに襲撃されても心が折れないカーリドの打たれ強さは、コークスの山から這い出して来るトップシーンで織り込み済みだった。 


思えば、ミリアム救済という至上命題を有するという一点において、カーリドの打たれ強さが際立っていただけなのだ。 


この喫緊の課題を遂行した男の打たれ強さが最後まで崩されることがなかったのは、極めつけのラストで閉じる映像総体を通して、理不尽な社会に対する作り手の憤怒を具現化させた人物造形の賜物であるということだろう。 


だから、「希望のかなた」にある風景の輝きが削り取られていたとしても、至上命題を貫徹させた達成感こそ、何よりも増して幸甚(こうじん)の至りだった。

 

艱難な旅を経て、ヤセっぽちのミリアムもまた、自らシリア人として独り立ちして生きるに足るほどにパワーアップしていたのである。 


暴力性に満ちていながらも、その不条理を丸ごと相対化させてしまう、カーリドを囲繞する並外れて優しき者たちの利他的行為の結束力と、そのタフネスぶり。 



これが大きかった。

 

中でも、収容施設で知り合ったイラク難民のマズダックの人の好さが強く印象に残る。

 

カーリドの〈現存在性〉の拠り所だった、生き別れた妹ミリアムとの再会のお膳立てに奔走してくれるマズダックの利他的行為は、身分証明書を持たないが故に、フィンランド語を覚えるほどに長い収容所生活を余儀なくされた状況の、その辛さを昇華させる本来的腕力の発現だったのか。 



映像総体の暴力性を吸収してくれる並外れて明るい老人バンドが、要所要所で眩(まばゆ)く輝いていた。 


音楽が人々の心を溶かし、繋ぎ止めてくれるのである。

 

 

【余稿】  今世紀最悪の人道危機の様相を呈するシリア内戦

 

【ボートで命からがらヨーロッパを目指しましたが失敗し、帰らぬ人となってトルコの海岸に打ち上げられた幼いシリア難民の男の子】



国連UNHCR協会によると、シリア国内で人道援助を必要としている人の数(2024年2月現在)は1670万人。

 

シリア国内避難民は720万人。 

国連UNHCR協会


周辺国に逃れるシリア難民は505万人。

 

2011年、「アラブの春」と呼ばれる民主化運動に端を発したシリア内戦は、それ以前からの2代40年にわたるアサド独裁政権が、抗議デモを武力弾圧したことで反政府勢力との内戦に発展した。 

アサド政権の粘り強さどこから? 独裁父子2代の生存戦略とは」より



アフガニスタン、イエメンで活動する過激派組織ISの台頭で内戦が泥沼化し、一時は劣勢となったアサド政権をロシアの介入(2015年)によって戦況が一変したが、2017年以降、「貧者の核兵器」と称される化学兵器(サリンなど)を使用する事態が明らかになり、今や救いようがない人道危機の様相を呈している。 

アサドとプーチン(2015年10月/ウィキ)


因みに、ロシアの残虐な空爆を指揮していたのは、アレッポを破壊し尽くしたことで「シリアの虐殺者」と呼ばれるドボルニコフ。 

ドボルニコフ


人道支援物資を運ぶ国連機関の車列を爆撃し、北西部イドリブ県において、学校・病院を攻撃したことで悪名を轟(とどろ)かせた男である。 

人命無視のロシア軍 支援物資の車列を攻撃」より


のちにウクライナでの殺戮をも指揮し、殆どサイコパス(ソシオパス)の蛮行だった。

 

シリアは民主化デモの徹底的な武力弾圧によって、アラブ諸国など21ヵ国で構成されるアラブ連盟の参加資格が停止されていたが、アサド政権の軍事的勝利が揺るがない現実を見て、2023年5月、アラブ連盟会議でシリアの復帰を決議するに至った。 

シリアのアサド大統領はアラブ連盟の首脳会議に出席した


アラブ連盟会議でシリアの復帰を決議



その政治的背景に、アサド政権を支援し続けたイランの影響力の拡大を怖れるサウジアラビアなどの思惑があるのは既定の事実。

 

内戦の責任が問われないまま、アラブ諸国がアサド政権に助け舟を出すに至ったのである。

 

アサド政権に抵抗した人たちは、北西部などの反政府勢力の支配地域に逃れ、国連の支援などを受けながら、今なお厳しい生活を余儀なくされていて、シリア難民の問題に象徴されるように今世紀最悪の人道危機の様相を呈している。 

シリア難民


シリア難民


そこにはアメリカの軍事的支援を得たシリア北部のクルド系住民も自立の動きを見せ始めたことも含め、シリア内戦は単なる「民主化」を求めるための争いという範疇を超えているのだ。

 

諸外国(ロシア・イランと反クルドのトルコ)、シーア派民兵やヒズボラ、アルカイダ系武装集団などを含むイスラム諸勢力、民族などそれぞれに異なる目的を持った集団が、各自の利益で争う複合的な内戦へと変貌していったという紛れもない世界の〈現在性〉。 

イスラム教シーア派組織「ヒズボラ」



この歴史的現実を認知せざをを得ないのだ。

 

現在、欧米が支援してきた「民主化」のシンボル的存在「自由シリア軍」は分裂を繰り返し、混乱に乗じて参戦したイスラム原理主義の台頭を生んだことで欧米の影響力の喪失が際立ち、最早、欧米vs. アサド政権という構図は内戦で変質し、体制側と反体制側のプロパガンダの応酬と化している。 

自由シリア軍(ウィキ)


自由シリア軍(ウィキ)


(2024年5月)

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