


宮城県の小さな港町の造船所で働く五十嵐陽介は耳が聞こえない。
| 陽介 |
漁船の塗装作業をしている陽介に、親方が腕時計を指して、帰宅するよう促す。
「よかったな陽介。赤ちゃん、おめでとう」と手の仕草と共にお祝いを言われた陽介は、思わず笑みを零(こぼ)しながら、急ぎ自転車を走らせ自宅に向かう。
陽介の妻・明子も耳の聞こえないろう者で、二人は明子の実家の父・康雄(やすお)、母・広子の元で暮らしており、この日は、生まれた長男・大(だい)のお祝いに親類縁者も集まっていた。
| 陽介と明子 |
| 大 |
大は聴覚に異常はなく、あやしていた広子と茶飲み友達に替わって、帰って来た陽介が大をあやす。
食卓の賑やかな会話が、当然ながら、陽介と明子には全く聞こえず、陽介は大と明子の写真を撮り続ける。
「これでやってけんのかな?」と伯母の佐知子。
「本人たちが、やるっつってんだから」と広子。
| 広子(中央)と佐知子(左) |
「お母さん、頼むね」と佐知子。
広子が買い物から帰る自宅沿いの道で、外にまで大の泣き声が聞こえるので、慌てて帰って寝ている大を抱き上げ、キッチンで調理をしている明子の元へ連れて行く。
明子が大を抱くと、今度は鍋が吹き零れるが、いずれも明子には聞こえない。
明子は、大が物をひっくり返しても、夜泣きをしても、音も声も聞こえないので、なかなか気づいてあげられないのだ。
| 幼児前期の大 |
4歳になった大は、静かな食卓ながら、盛んに手話で会話する両親を見、自分でも手話で話すことができるようになっている。
しかし、明子の祖母の広子は一向に手話を覚えようせず、黙って雑誌を読んで食事をしている。
そこに麻雀で負けて飲んだくれて帰って来た康雄が暴れ、新興宗教に嵌っている広子に怒りをぶつけ、叩く。
| 康雄 |
肌けた上半身には入れ墨があり、それを見つめる大を明子はひしと抱き締めるのだった。
それでも、釣りをする陽介と大の写真を撮り、内職をする傍らで文字を書いて遊ぶ大と、手話で会話する明子の表情は幸福に満ち溢れていた。
大は、明子と買い物に行く際には、後ろから来た車のクラクションに気づかない明子の手を引き寄せたり、魚屋の代金を通訳して知らせ、店主に褒められるなどして、小さいながらろう者である両親のハンディを助けるのだった。
そんな大が小学校3年生になり、自宅にクラスメイトの祐樹(ゆうき)を連れて来た。
大は、玄関を上がった部屋の電灯を点滅させ帰宅したことを明子に知らせ、明子と手話で会話をする様子を不思議そうに見ている祐樹。
自室二人がで漫画を読んでいるところへ、おやつを持って来た明子が、祐樹に食べるよう促して出て行った。
「ねえ、なんかさ、お前んちの母ちゃん、しゃべり方おかしくない?」
| 祐樹(左) |
「え?」
「なんかさ、しゃべり方さ、変っていうか」
「そうかな」
市場で、「“大ちゃん、これ食べる?”」と呼びかけてきた明子を見て、軽く横に首を振っただけで、手話の返事もしないで去って行く。
大は康雄に、明子が日本語を話せない理由を尋ねた。
「教育が悪かったんだよ、教育が。治ると思ったんだよな、耳。だから、ろう学校でなくて、普通の学校さ入れたんだよ。それによ。手真似ばっかりしてると、一生しゃべれねぇべ?でもよ、きこえねぇんだからよ。授業もちんぷんかんむんなんだわ。はははっ!友達もできねぇし…」
その後、明子は中2の夏からろう学校へ行くようになり、それからだんだん明るくなったかも知れないと、笑いながら話す康雄。
その後、大は学校で受け取った授業参観の案内を破り捨ててしまう。
参観日から帰ると、明子に問い質された。
「“今日、授業参観だったでしょ?何で言わないの?”」
「“お母さんに、来て欲しくなかったから。耳が聞こえないから”」
夜、川の字の真ん中でぐっすり寝ている大を挟んで、陽介と明子が話し合う。
「“俺から話そうか?”」
「“何を?”」
「“お母さんを悲しませるなって”」
喫茶店でいちごパフェを美味しそうに食べる大を優しく見つめる明子。
「“お母さんのこと、恥ずかしい?…お母さんは、耳がきこえないから、手話が必要なの。大ちゃんにとっての日本語と同じ。手話がないと、誰ともおしゃべりできなくなるの。大ちゃんとも話せなくなっちゃうの。すごく大切なものなの。お父さんとお母さんが、きこえないことで、大ちゃんがいやな思いをしてるのも、知ってる”」
「“わかってるよ”」
そこに、カウンター席にいる男女が、手話で話している大を子供なのにすごいとひそひそ噂する声が聞こえてくる。
大は、「聞こえてます」と静かに言い返した。
学校の休み時間に、数人のクラスメイトの前で大が手話を披露して、祐樹がすごいと言って、更に手話をせがまれる。
「好き・嫌い」の手話を教えると、皆も珍しがって楽しそうに真似をするが、一人の生徒が大袈裟に茶化すことで、その場がシラケてしまった。
チャイムが鳴って、教師に促され皆教室へ戻るが、大はその仲間に入って行けない。
学校からの帰り道、近所の家の塀から落とされたプランターが散乱しているのを、顔見知りの女性が大に声をかけて見させると、いきなり大がやっただろうと決めつける。
「なんで?」
「だって、この辺にこんなことする子、いないでしょ」
「やってないよ!」
「やってねぇって証拠は?」
黙っていると、その女性は花を荒らされた家に、謝りに連れて行こうとする。
女性が手を引っ張り、抵抗している大の間に、明子が割って入って来た。
「ちょうどいがった。一人の時に言えて。お母さんさ話してもね、あれだから、分かんねぇから」
何をするのかと抗議する明子に、事情を話す女性。
大は「“絶対にやっていない!”」と明子に訴える。
「“私の耳が聞こえないから、息子をいじめるの?”」
必死で明子は手話で訴えるが、「何言ってんだか、さっぱり分かんねぇから」と相手にされない。
大は堪らず、その場から走って去って行った。
夕暮れ時になり、悔し涙を手で拭いながら歩く大は、「あーぁ!」と叫びながら走り出すのだ。
2 「“俺、こんな家、生まれてきたくなかったよ。全部、お母さんのせいだよ!障害者の家に生まれて、こんな苦労して、バカみたいだよ!“」
自転車に乗った中学3年生になった大は、買い物から帰る明子の姿を認めるが、顔をしかめてUターンして去る。
自宅では康雄が介護ベッドで零したお茶を、広子が拭いて世話をしている。
大は、いつものように電灯を点滅させ、帰宅したことを知らせ、弁当箱を乱暴にキッチンに置く。
「“なんて?”」
「なんで俺が何回も話さなきゃなんねぇんだよ。なんで俺が、そっち側に譲歩しなきゃなんねぇんだよ」
「手話で話せば、ええんでねぇの?」と思わず広子が声をかける。
「おめぇが言うな」と康雄。
手話で話すことを学ぶことをしなかった広子への強烈なアイロニーだった。
学校から帰って来た大を捉まえ、20万円で買った補聴器を試すため、何か話すように求める明子。
大は何度も言い直すが聞こえず、手話で値段を聞いて驚く大に、「“だって、大ちゃんの声がきこえるから”」と明子は屈託なく返す。
高校受験で忙しくなる前に、大を旅行に連れて行きたい陽介と明子だが、大は行かないと言い切った。
三者面談にも広子に来てもらうことにしているのに、明子は自分が行くと主張する。
「“だって、大切な話でしょ?大ちゃんの将来の話なんだから”」
「“来てもわからないでしょ。俺の進路の話なんて、なんにも知らないくせに”」
突然、「その顔!やめて。うざいんだよ」と口話で声を荒げ、棚を叩き、自室から出ていく大。
溜息をつく明子は補聴器を外す。
そして、担任の教師との3者面談。
担任は、数学を頑張れば、釜校へ行けると話すが、大は西高でいいと言う。
大は塾へ行きたいと明子に話すと、明子は応援すると励ます。
塾へ通い始め、自宅でも夜遅くまで受験勉強を頑張ってはみたが、合格発表の掲示板には大の番号はなかった。
自宅に戻った大は、玄関先で俯(うつぶ)せになっている。
その姿を見た明子は近づけず見つめると、起き上がった大は、「“落ちた”」と告げる。
「“一生懸命やったんだから、いいじゃない。学園高校も受かってるんだし”」
「“そうだ。お母さん、パートしてみようと思うの。このあいだ、スーパーで募集してたの”」
「“無理でしょ“」
「“大丈夫よ”」
「“何が大丈夫なんだよ!客に何か言われても、きこえないでしょ。迷惑かけるだけだよ…いじめられるに決まってる。何も相談に乗ってくれなかったくせに。無責任なんだよ”」
だんだん感情的になってきた大は、手話と共に声を出して怒りをぶつける。
「“俺、こんな家、生まれてきたくなかったよ。全部、お母さんのせいだよ!障害者の家に生まれて、こんな苦労して、バカみたいだよ!”」
悲しそうに大を見つめる明子を置いて、大は2階へ駆け上がっていく。
明子は造船所の前まで陽介を迎えに行き、一緒に歩いて帰る。
「“障害者の家に生まれたくなかったって。さすがにきついね“」
「“まあでも、どんな家もそれぞれ悩みがあると思うよ。たぶんね。大は大丈夫だよ“」
大の思春期反抗期の収束を信じる陽介の大きさが明子にとって生命線だった。
3 「“人が沢山いるのに、手話で話してくれたでしょ。お母さん、嬉しかった。ありがとう”」
20歳になった長髪の大は、東京で5件目の俳優採用の面接を受けるが、台詞もちゃんと覚えておらず、志望動機も答えられず、あえなく夜行バスで実家に戻る。
康雄は既に鬼籍(きせき)に入り、食卓で造船会社の減給について、生活がやっていけないと陽介と明子が話し合っている後ろ姿が目に入った。
大はパチンコ屋へ行くと、陽介もいて、二人は海岸通りを歩いて帰っていく。
「“次、東京行ったら、新宿のフルーツパーラー行けよ”」
「“どこそれ?”」
「“母さんと行ったんだよ”」
「“東京行ったことあんの?”」
「“逃げたんだよ、二人で”」
「“俺たち、ろう学校で出会って、付き合い始めて結婚したんだけど、みんなに反対されたんだ。耳のきこえない同士だから、親巻き込んで揉(も)めちゃってさ。二人で東京に逃げたんだよ”」
「“ドラマじゃん”」
「“東京行けよ”」
結局、新宿で世話をしてくれるはずの知り合いが5時間待っても現れず、仕方なくパフェを食べたら、それが本当にうまかったと話す陽介。
「“大も一度は食った方がいいぞ”」と東京行きを勧める陽介だが、大は乗り気になれない。
「“東京はもういいかな。東京に行くと、普通の人になれるんだけどね”」
「“普通の人?”」
「“きこえない親を持った、かわいそうな子って、誰にも思われないから”」
「“お前、かわいそうなの?役者は?”」
「“そもそも本気でやりたいわけじゃないし、見返してやりたかっただけなんだよね。俺、こっちで働くよ。お金入れたら、少しは楽になるでしょ”」
「“東京行けよ”」
「“だから、もう行かないし”」
「“いいから、行け”」
結局、大は東京へ行き、パチンコ店に勤め始めた。
| ろう者の智子と手話で話す大 |
| 智子 |
アパートで弁当を食べていると、広子から携帯に電話が入り、先日の無言電話は明子がかけたものだと話す。
「あんたの声、きこえんでねぇかと思って、ずっとかけてたんだって」
「なんかあったら、こっちからかけるよ」
電話を切ろうとしたところで、大は明子に代わってもらうように言う。
「(大ちゃん、大ちゃん)」という微かに漏れる声がして、大は大声で「お母さん!きこえる!?」と呼びかけるが、明子は一方的に声を漏らすだけ。
「(大ちゃん、お仕事がんばってね)」
「大丈夫だから!心配しないで!」
大が大声で言い終わる前に、通話が切られた。
短く切った22歳の大は今、就職活動を始め、編集の仕事に就こうと出版社に面接に行くが、すんなりと決まらなかった。
一方、以前、パチンコに来ていた聾唖者の女性・智子(ともこ)を手話で助けたことを契機に紹介され、聞こえる人も聞こえない人も関係なく交流する手話の勉強会に大も参加することになり、そこで、大に声を掛けてきた彩月(さつき)という女性に、自分がコーダであることを教えてもらう。
「“コーダも大変だよね。親の通訳したり”」
| 彩月 |
「“『コーダ』?”」
「“知らない?”きこえない親に育てられた、きこえる子のこと。『コーダ』って言うんだよ…日本に2万何千人かいるらしいよ“」
驚いた表情をする大。
23歳の大は、ある編集プロダクションの面接で、パチンコ屋に勤めている大が、自分じゃ打たないのかと担当の河合に訊かれ、地元では朝から晩まで打っていたと話す。
「うちのじいちゃん、元ヤクザでバクチ打ちなんですけど、自分で自分のこと“蛇(じゃ)の目のヤス”とか言ってて、ああなったら終わりだなと思って、そういうの全部やめました」
「蛇の目のヤス?なんか、やばいね。元気なの?蛇の目のヤス」
「いや、死にました。じいちゃん、ばあちゃんの宗教、大嫌いだったんですけど、今じゃ、仏壇に遺影置かれて、朝晩お経聞かされてます」
「なんか、最高じゃん!今から働ける?」
即刻、大の採用が決まった。
数日後には、原稿の校正をし、次に、“世界が震撼!ビックリ仰天 少年犯罪ベスト10”というテーマで執筆を任される。
「書いてみ…全部1人でやるんだよ」と河合。
「いや…でも少年犯罪とか、全然分かんないですけど」
「あのね。仕事ってのは、必ず実力より高めのが来る。でも、それはチャンスなんだから。絶対、逃げちゃダメ」
【この名セリフの発信者がタモリであることを、のちに上条(かみじょう)から知らされる】
自宅アパートで沢山の資料を広げ、深夜遅くまで原稿を書く大。
25歳になった大は、結婚した彩月と彼女のろう学校時代の幼馴染との飲み会に呼ばれ、2年ぶりに再会する。
彩月たちの手話で交わす会話は大いに盛り上がり、大は自然と皆の注文を取ってオーダーするが、それに対して彩月から指摘を受ける。
「“私たちの代わりに色々してくれてありがとう”」
「“いや、全然”」
「“でもね、取り上げないで欲しいの。注文するときは手を挙げるし、料理の説明は、紙に書いてもらうし。それくらい、できるから”」
「“ごめん”」
「“すぐ謝る”」
大が出社すると、「飛んじゃったよ、河合さん」と、スタッフの佐藤が机を叩きながら声を荒げる。
同じくスタッフの上条が大に、河合の「大変申し訳ございません」と書かれたメモを見せる。
上条(左) |
驚く大は、電話対応に追われながら、上条に自分が行けなくなった取材を依頼される。
その上条も、自分の机を片付けて、そそくさと退社してしまった。
ライターと編集の仕事を続ける28歳の大が、義肢の製作所に訪問して取材を終え外に出ると、陽介が倒れて入院したとの知らせを受け、急遽、病院へ向かった。
廊下で力なく座る明子の顔を覗き込み、隣に座る。
明子は安堵した表情を浮かべ、「“くも膜下出血だって”」と大に告げた。
手術を終えた医師から、破裂した静脈瘤をクリップで止血したと聞かされ、大が「“大丈夫だって”」と明子に教える。
それを聞いた明子は、肩を震わせ、声を上げて泣き出す。
翌朝、大はかつての通学路を通って、実家に帰った。
玄関を開けて入るなり、「大!」と佐知子が声をかけてきた。
「あんた、8年も何してたの、東京で。帰(けえ)る時間もねぇくらい働いてたの?」
| 佐知子 |
大は笑顔で応える。
介護ベッドで眠っていた広子が起きて、佐知子と一緒に陽介が倒れた時の様子を大に説明する。
「明子がなぁ、うわぁ!って、きいたことねぇ声出しちゃってな」
そう言い終わると、広子がベッドから起き上がり、一人で杖をついてトイレへ行った。
「大ちゃん、おばさん、いつか言おうと思ってたこと」
「何?」
「あんたが、おなかにできた時、おじいちゃんとおばあちゃん、大反対したの。きこえねぇ同士の子供なんて、とんでもねぇって。そんでも、明子は産んだの。あんたを」
佐知子を見つめる大。
入院中の陽介に、大が半年前に買って、全然使っていない陽介のスマホの設定をして渡す。
「“仕事は順調か?”」と陽介。
「“まあね”」
「“やれること、やれてるなら、それが一番”」と明子。
キッチンで料理をしている明子の後姿を、食卓のテーブルでスマホをいじっている大が、チラチラと見る。
立ち上がって明子の隣に立ち、「“俺、帰ってこようか?”」と話すと、明子は不思議そうな顔をする。
「“ほら、ばあちゃんも歳だし、二人だけだと大変でしょ”」
「“おばあちゃんに、何か言われた?”」
「“言われてないよ”」
「“大丈夫だよ”」
明子はそのまま料理を続ける。
再び大が、明子に手をかざして振り向かせ、唐突に「“ごめん”」と謝る。
「“何が?”」
「“いろいろ”」
「“何の話?”」
大はふふっと笑って、またテーブルに戻った。
東京へ戻る大を、明子がホームまで見送りについてきた。
二人は並んで立って、電車を待つ。
踏切の音がして、その先を見る大は、20歳の頃、同じプラットホームで先を歩く明子の後ろ姿を回想する。
東京へ行くと決めた大は、怪訝(けげん)そうな顔をする明子に、「“自分が何をしたいのか、考える。東京で”」と説明した。
「“だったら、ここでもいいじゃない”」
それに答えず立ち去ろうとする大を、座卓を叩いて呼び止め、「“背広!”」と嬉しそうに言葉にする。
明子は大を紳士服店へ連れて行き、楽しそうに大が似合う背広を探す。
その帰りにイタリアンレストランで食事をしながら、大は陽介から聞いた東京でパフェを食べた話をすると、驚いた表情をする。
「“駆け落ち”」と大が言うと、「“お父さん、そんな話したの?恥ずかしい”」と明子。
「“俺は、あの時食べたイチゴパフェが、美味しかったけどね”」
ところが、大が小学校3年の時に、明子が喫茶店で食べさせたパフェのことは思い出せなかった。
拍子抜けした表情の大。
どれほど親しくても、記憶を共有できないことのリアルは普通にあることなのだ。
スーツの買い物帰りの電車の中で、並んで座った明子と大は、ずっと手話でおしゃべりをし、冗談を言って声を上げて笑う。
電車から降りたところで、明子が大に「“大ちゃん、ありがとう”」と笑顔で礼を言う。
不思議そうな表情の大に、明子は続けた。
「“人が沢山いるのに、手話で話してくれたでしょ。お母さん、嬉しかった。ありがとう”」
ホームで立ち止まった大は、明子の後ろ姿を見ながら、子供の頃から見つめてきた明子の表情を思い出す。
悲しそうに大を見つめる明子の表情。
笑ったり、怒ったり、様々な表情で、真っすぐ大を見つめ、一生懸命手話で話しかける明子の顔が次々に思い浮かんでくる。
大がついて来ないことに気づかないまま、ホームの先まで遠ざかってしまった明子の後姿を見つめながら、大は溢れる涙を止めることができなかった。
警笛を鳴らし、トンネルを抜けた列車の車窓風景を見つめる、28歳の大。
リュックからノートパソコンを出し、キーボードを打ち始めた。
画面に映し出される、「ぼくが生きてる、ふたつの世界」の文字が背景に消える。
4 青春の余韻が騒いでいる
呉美保監督の映画が観れなくなって寂しい限りだった。
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| 呉美保監督 |
監督の作品は皆、好きだ。
素晴らしいデビュー作「酒井家のしあわせ」、「日常に喰い込んだ非日常の刺」の痛々しさが、丁寧に描かれていた「オカンの嫁入り」、「人生」の「どん底」のゾーンで動けない女の中枢を、男のストロークが移動させていく縁(よすが)の物語「そこのみにて光輝く」、そして、揚げパンを届けるために疾走する新米教師の苦闘を描いた「きみはいい子」。
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| 「酒井家のしあわせ」 |
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| 「オカンの嫁入り」 |
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| 「そこのみにて光輝く」 |
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| 「そこのみにて光輝く」 |
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| 「きみはいい子」 |
全て一級品である。
以来、9年間、待ちに待った呉美保監督の作品、「ぼくが生きてる、ふたつの世界」。

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いつものようにヒューマニズム全開のコーダの映画。
コーダと言えば、手話を交えて「青春の光と影」を歌い切るルビーと、その家族の絆の強さを描いた秀作「コーダ あいのうた」の感動は、生涯忘れない。
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「ぼくが生きてる、ふたつの世界」はBGMを不要にした徹底的なリアリティで描き切った傑作で、この感動も生涯忘れない。


何より、乳児期⇒幼児期⇒思春期⇒青年期まで、その容姿が変わらない描写のリアリズムには驚かされた。
この映画にはこの4期が描かれているが、母に対する明瞭な反抗期が1(中間反抗期=児童期反抗期)と2(典型的な思春期反抗期)で象徴的に描かれていた。
まず1の中間反抗期=児童期反抗期。
市場内での買い物で、手話の返事もしない大の行動。
なぜ母が日本語が話せないのかについて、真顔で祖父に尋ねるのだ。
今まで素朴に思っていた疑問が直截に言語化されたのである。
この観念の延長上に、大は学校で受け取った授業参観の案内を破り捨ててしまう行為に振れていく。
これらの行為が、「“お母さんのこと、恥ずかしい?」と率直に問う母・明子の煩悶を生み、最終的に、プランターを散乱した悪童にされて、明子を巻き込む小さな騒動によって、児童期自我が大きく傷つけられる一件に結ばれるのである。
次に、2の典型的な思春期反抗期。
これは厄介だった。
帰宅するや、「あした弁当いらねぇから」と口話で吐き捨てる大に対して、「“なんて?”」と尋ねる母・明子への反応があまりに毒気に満ちていた。
「なんで俺が何回も話さなきゃなんねぇんだよ。なんで俺が、そっち側に譲歩しなきゃなんねぇんだよ」
そう返したのだ。
思うに、「そっち側」と「こっち側」に分けてしまう発想は、口話ができない聴覚障害者に対して、如何なる状況下にあっても、手話でコミュニケーションをとる健常者が一方的にサポートするという不合理への苛立ちが潜んでいる。
障害者に対する全面的譲歩を常に強いられる「こっち側」の立場の理不尽さが、必要以上に強調されているのだ。
「こっち側」の立場に置かれている者(コーダ)が身近にいないため、いつしか、中間反抗期でストレスを蓄積させていった大の苛立ちの根柢には、自分だけが「犠牲者」という観念がある。
大体、明子の両親が手話を学んでいないのだ。
それは、ある意味でろう者への差別意識が希薄であることを示している。
だから明子の性格の優しさと明るさが保持できたのだろう。
然るに、大が産まれ、明子が幼児期になるまで陽介のみを頼りにしてきたとも言える。
その苦労は推して知るべし。
常に明子の傍にいる大が、幼児期から自然に手話を覚えてしまったという経緯には、母子の情緒的形成の所産の賜物(たまもの)であって、それ以外ではなかった。
その母子関係の断続性が幼児期後半から現出して、思春期反抗期に至ってエクストリーム(過激)の様相を顕在化していくのである。
従って、大が旅行に行かなかったのは思春期反抗期の途上にあるからで、また三者面談でも手話を拒否する行為も同じ理由。
| 手話を拒否する大 |
そして遂に、「“障害者の家に生まれて、こんな苦労して、バカみたいだよ!“」という禁断の攻撃的言辞が開かれてしまうのだ。
この言辞を受けた慈母の如き明子の自我は当然のように傷つき、「“障害者の家に生まれたくなかったって。さすがにきついね“」と陽介に吐露する。
「“大は大丈夫だよ“」
前述したように、こう反応する陽介の存在の大きさが明子にとって生命線だったことが理解できる。
大の禁断の攻撃的言辞をピークに、彼の自我も少しずつ変容していく。
その過程で無視できないのは、ここでも陽介の存在の大きさである。
陽介は自分が障害者であるという劣等感が殆どなく、卑屈に生きている様子が全くないこと。
何より、これが大きかった。
ついでに言えば、彼の義父母(康雄と広子)にも卑屈さが見られないので、実娘の明子の優しい性格に結晶したと思えるのである。
両親の「駆け落ち」の話を聞いて驚く大に、繰り返し「“東京行けよ”」と促す陽介には、「外部世界」に踏み込んでいくことで、大が大きく成長することを信じているのだろう。
【「コーダ あいのうた」にもインサートされていたが、「私は家族を守るわ」と言い切ったルビーが合唱部のコンサートを前に、バークレー大学に進学したいと両親に訴えたものの、〈お前も大事な一員だ〉(父フランク)〈事業を始めたのよ。あなたがいなくちゃ。時期が悪い〉(母ジャッキー)と反対されるシーンが印象づけられる。その時、ルビーは今まで封印してきた感情を手話を使って全身で訴えるのだ。〈いい時期なんてないわ。一生家族とはいられないわ…生まれてずっと通訳の役目を。もう疲れたわ。私は歌うのが好き。生きがいなの〉。また、体を当てられたばかりか酒をかけられたレオ(ルビーの兄)が男に手話で怒りをぶつけると、「失せろ。消えな、化け物」と相手にされず、殴り合いとなるエピソードがインサートされ、聴覚障害者に対する差別が可視化されていた】
| 「コーダ あいのうた」 |
| 「コーダ あいのうた」のレオ |
「“きこえない親を持った、かわいそうな子って、誰にも思われないから”」
陽介に話した、大が東京に行くことの理由である。
図らずも、「外部世界」に踏み込んでいった大が出会ったのは、パチンコに来ていたろう者の女性・智子(ともこ)を手話で助けたことを契機に紹介され、聞こえる人も聞こえない人も関係なく交流する手話の勉強会。
しかし、この手話の勉強会には「かわいそうな子」と思われることを怖れるろう者など一人もいなかった。
そればかりか、そこで知り合った彩月(さつき)や彼女のろう学校時代の幼馴染との飲み会に呼ばれ、大いに盛り上がった彼女らの手話の会話の場で、大が皆の注文を取ってオーダーする役割を担ったが、当の彩月から思わぬ批判を受ける。
「“私たちの代わりに色々してくれてありがとう。でもね、取り上げないで欲しいの。注文するときは手を挙げるし、料理の説明は、紙に書いてもらうし。それくらい、できるから”」
手話の会話にアイデンティティを持つ彩月の柔和な一撃は、大が煩悶してきた因子の中核を衝き、「きこえない親を持った、かわいそうな子」という観念の狭隘さを瓦解させていく。
また、智子が交通事故に巻き込まれ怪我をしたことを、二人のコーダの息子に事故の話をしなかったことを彩月に問われた際の智子の反応が心に残っている。
智子はこう言ったのだ。
「“言うわけないでしょ。母親が車のクラクションきこえなくて、はねられたなんて、知りたくないでしょ。ろうだからって、同情も心配もされたくない。これも人生なんだわ”」
「(事故に遭うのも)人生なんだわ」と考える智子を支えるのは、健常者と障害者という類型的、且つ固定的な評価と決めつけに対する反発であり、その思考を貫く覚悟である。
こういう次元が違う話を手話で聞かされる大の観念の狭隘さが炙り出されて、完全に相対化され、客体化されてしまうのである。
メタ認知がフル稼働するのだ。
東京に出て、母・明子とのことを繰り返し思い起こし、真摯に向き合う青春がそこにあった。
「(大ちゃん、大ちゃん)」という微かに漏れる声がして、大は大声で「お母さん!きこえる!?」と呼びかけるが、明子は一方的に声を漏らすだけ。
「(大ちゃん、お仕事がんばってね)」
「大丈夫だから!心配しないで!」
大が大声で言い終わる前に、通話が切られてしまった。
大の声を聴きたいが故に、必死に携帯に噛り付く母。
大も大声で反応する。
漏らした声と、それを拾わんとする声。
手話から振り絞った声と、口話で轟々(ごうごう)たる響きを上げる声。
二つの声が重なったとき、人間の普遍的な情愛溢れる時間が緩やかに流れゆく。
思えば東京に立つ日が近づき、電車内で周囲の空気に物怖じせず、手話で会話する母と子。
「“人が沢山いるのに、手話で話してくれたでしょ。お母さん、嬉しかった。ありがとう”」
母の言葉に感動して、立ち去れず、嗚咽を漏らす青春の振動と響き。
青春の余韻が騒いでいるのだ。
いつものように、いい映画だった。
―― 最後に編集の仕事を通じて、そこで溜めたストレスを大が先輩スタッフの前で吐き出すシーンがある。
「原稿落とすわ。内容ぺらっぺらだわ。あのウンコ野郎。どんぶりでブン殴ってやろうかよと思いましたよ」
「結局あんたの会社、ネズミ講じゃねえかよって言ってやろうかよと思いましたが我慢しました」
主人公の生き方を美化しない描写に共感した。
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| 右から呉美保監督、吉沢亮、忍足亜希子(おしだりあきこ) |
―― 以下、参考までに「デフリンピック」について
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| デフリンピック |
【聴覚障害者の国際スポーツ大会「デフリンピック」があす、東京などで始まる。「ろう者のオリンピック」とも呼ばれ、100年余の歴史がある。日本で開かれるのは初めてだ。
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| 東京2025デフリンピック |
世界80カ国・地域から約3000人が出場する。21競技すべてをチケットなしで無料観戦できる。日本は前回2022年ブラジル大会で過去最多となる30個のメダルを獲得している。
競技のルールは健常者とほぼ同じだが、障害者スポーツならではの特性や戦略もある。卓球の場合、聴覚障害者は球の回転や速度の見極めに重要な打球音が聞こえないため、相手の動きや力の入れ具合を徹底的に観察してカバーする。それを逆手に取り、体の向きや表情などで惑わせるといった駆け引きもある。
バスケットボールの日本代表チームは、指の動きや形で意図を伝える独自のサインを決めている。障害の程度は選手によって違い、普段のコミュニケーションの手段も異なる。全員が声を使わず瞬時に意思疎通を図るための工夫だ】
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| 無音の世界で活躍するデフアスリートの世界大会 |
(毎日新聞社説 11月14日)
(2025年11月)















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