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2016年4月26日火曜日

きみはいい子(‘14)   呉美保

<揚げパンを届けるために疾走する新米教師、或いは、トイレに隠れ込む母が負う荷が降ろされるとき>





酒井家のしあわせ」、「オカンの嫁入り」、「そこのみにて光輝く」、そして本作の「きみはいい子」と4作観てきたが、全て一級品である。

いつもながら、呉美保監督の抜きん出た演出力は、ここでも圧巻だった。

高良健吾、尾野真千子。共に素晴らしい。

特に高良健吾。彼の代表作の一本になるだろう。

「そこのみにて」に続いて、池脇千鶴は「全身プロフェッショナル」の女優の凄みを見せてくれた。

本作では、包括的に収斂されていくメッセージのうちに、その一つ一つが深刻なテーマを盛り込み過ぎた感を否めないが、私はそれを、観る者への問題提起として受け止めたいと考える。

以下、三つの話が同時進行しつつも、交叉しない物語の批評含みの梗概と、提示されたテーマへの私的見解。



1  交叉しない物語の批評含みの梗概




    揚げパンを届けるために疾走する新米教師


ピンポンダッシュで近所中に迷惑をかける生徒たちの後始末のために、岡野匡(ただし/以下、岡野)は走り回っていた。

各家庭を回り、謝罪し続けた直後のシーンは、今度は、一人の生徒(小野君)のお漏らしで生徒が騒ぎ、殆ど授業にならずに、終了のチャイムを迎えるに至る。

桜ヶ丘小学校4年2組を受け持つ岡野は、この一件によって、新任教師の無力感を味わわされるのだ。

お漏らしした生徒の母親から、抗議の電話を受けたからである。

「どうして保健室に連れて行ってくれなかったんですか」
「でも、もう4年生ですし…」
「4年生になって、おしっこ漏らす方が悪いって言いたいんですか!」

結局、学年主任に代わってもらい、自分で事態を処理できない惨めさを味わうばかりだった。

恋人のアパートに寄り、その恋人に愚痴を漏らすが、全く相手にされない始末。

お漏らしした小野君の母親の要請で、授業中にトイレに行ってもいいと教室で宣言したばかりに、他の生徒たちまでトイレに行きたいと言い出し、いったん許可をすると、次々に申し出が続出して収拾がつかなくなってしまった。

「嘘をつくな!」

岡野が生徒たちを強く諫(いさ)めると、煽動する中心人物である大熊君に向かって、小野君が怒りをぶちまけ、ランドセルを投げつけた。

それに対し、小野君への「謝れコール」が連呼され、クラス中が騒然とする。

あらん限りの大声で制止する岡野。

教師としての権威を持ち得ないで悩む若者のこの叫びが、何とか、生徒たちを静まらせるに至った。

まさに、学級崩壊の様相を呈しているのだ。

学級崩壊の渦中にあっても、騒ぎに入らない何人かの生徒たちがいた。

その一人が、いつも一人で、鉄棒にぶら下がっている神田君である。

「パチンコをやるか、寝ているだけ」(神田君の言葉)の生活を送る継父を持ち、その継父から、「5時まで帰って来るな」と言われているので、鉄棒にぶら下がって、児童期中期の「遊びの時間」を繋いでいるのである。

「僕が悪いんだ。ママもそう言うよ。ウチにはサンタさんが来ないんだ。僕が悪い子だから。どうしたら、いい子になれるのかな?」

返答しようもないその言葉を受けた岡野は、「先生になって良かったと思うのは、給食で揚げパンが食べられるからなんだ」と反応し、「僕も揚げパンが好き」という神田君の笑顔を上手に引き出した。

弾丸の雨の中で、神田君の笑みを引き出したことで、岡野は神田君を送っていくことになる。

しかし、神田君の家の前に継父が待っていて、その継父に向かって、「ゆうた君、ごはん食べてますか?」と口に出したことで、継父を激怒させ、その挙句、神田君は虐待の憂き目に遭う。

この少年もまた、児童虐待の日常的被害に遭っていたのである。

その虐待の日常を目の当たりにする新米教師。

明らかに、想像力の稜線を伸ばし切れない新米教師の判断ミスである。

「正義」の使い方を間違えると、時として、援助対象の傷口を広げてしまうのである。

しかし、このケースでは、パックリと開かれた傷口が決定的に広がっていく思春期に突入する前に、恐らく、今まで出会ったことがないであろう「大人」の存在に触れたことで、ほんの少しだが、この少年の中枢に、暖かい風が吹き込んで来たというイメージを想像させる何かがあった。

その神田君を保健室に呼び、虐待の有無を問う養護教諭に、神田君は小さく否定する。

学級崩壊・虐め・児童虐待が氾濫する教室の中で、決して、一線を越えない範疇で合理的に対処する先輩教諭と切れ、ここでも置き去りにされるのは岡野だけだった。

すっかり疲弊し切った岡野に、「命の息吹」を吹き込んだのは、岡野の甥だった。

「頑張って、頑張って」

岡野の姉に促された甥が、岡野の身体に抱きつき、繰り返し、そう言うのだ。

「私があの子に優しくすれば、あの子も他人に優しくしてくれるの。だから、子供を可愛がれば世界が平和になるわけ」

岡野の姉の言葉だが、明らかに、この映画の肝となるメッセージである。

だから、この日だけは違っていた。

いつものように、学級崩壊の惨状を呈する岡野の教室で、岡野は奇妙な宿題を出す。

「家族に抱きしめられてくること」

当然、生徒の反応は反発一色だった。

「絶対、やってきます!」

友達のいない神田君に岡野が尋ねたときに、きっぱりと言い切った神田君の反応である。

宿題報告の、その翌日がやってきた。

意外にも、学級崩壊の中心児童の大熊君が、母親に抱きしめられた事実がバレて、クラスの雰囲気は一気に明るくなった。

そして、揚げパンを食べている岡野の給食風景が映し出された後、岡野は大宮(陽子の夫)が担当する特別支援学級に顔を出し、そこで展開される明るい雰囲気を視認する。

そこには、毎朝、一人暮らしの老婆・佐々木あきこに挨拶をして登校する自閉症の弘也と、その息子を見守る母・和美がいた。

その脚で校庭に出て、鉄棒の付近を見つめる岡野。

そこに、神田君はいなかった。

学校の時計は5時を指していた。

揚げパンをカバンの中に入れた岡野にとって、その日、登校して来ない神田君のことが気になってならないのだ。

躊躇(ちゅうちょ)なく、岡野は走り出していった。

彼は最初から、登校して来ない神田君の家に行く意思を固めていたのである。

自分が出した宿題の重さに気づき、彼には今や、一人の児童のことしか脳裏にない。

だから、岡野は走り出した。

揚げパンを届けるという名目で。

桜吹雪の舞う中で、疾走し切って辿り着いた神田君のアパート。

粗い息を吐きながら、その息が途切れるまもなく、玄関の戸を叩く岡野。

情緒過多に流れ込まないで寸止めした、見事なラストカットである。



    トイレに隠れ込む母が負う荷が降ろされるとき


夫が海外に単身赴任中の水木雅美(以下、雅美)の一人娘・あやねが、雅美のママ友仲間の大宮陽子(以下、陽子)のベビーカーを押すことに興味を示し、その陽子の許可を得て、ベビーカーを押していたら、陽子の長男・ひかるが横から入って、取り合いになり、ベビーカーが倒れかかるが、乗っていた赤ちゃんが泣き出してしまった。

幸い、事故にならずに済んだが、その直後の映像は、自宅であやねを激しく折檻するシーン。

「何べん、同じこと言ったら分るのよ!」

泣きながら謝り続けるあやねの声を聞くたびに、かえって興奮し、繰り返される折檻は、明らかに児童虐待の本質を炙(あぶ)り出していた。

あやねの泣き声が止むや、部屋を出てトイレで泣き出すのは、今度は、リストカットの跡が残ると思われる左手を掴みながら嗚咽する母親だった。

雅美と陽子
いつも明朗な陽子との関係が深まり、2人の子を伸び伸びと育てる、その陽子の母子関係の闊達(かったつ)な雰囲気を目の当たりにする度に、不必要な緊張感を作ってしまう自らの子育てに嫌悪を覚え、トイレに隠れ込む雅美がいる。

印象深いエピソードがあった。

陽子があやねに、「ウチの子になる?」と冗談で誘った時、「やーだ!」と強く反応し、縋り付いたのだ。

ここでも感極まって、雅美はトイレに隠れ込む。

母を追うあやね。

「マーマ、大丈夫。マーマ。マーマ」

今にも泣きべそをかくような声で、そう言って、繰り返すのだ。

あやねのこの行為を、「母を慕う娘」の感動譚として見てはならない。

「見捨てられ不安」に常に怯(おび)える幼女の、その痛ましさこそ、あやねの行為の本質なのである。

それでも、娘への虐待を止められない雅美。

本作の最も重要なシーンの一つが、感情をコントロールし得ずに悩み、自家撞着(じかどうちゃく/自己矛盾)に陥っている雅美の心が、比較的に落ち着いている時に映像提示される。

その日、同じマンションに住む、陽子の部屋を訪れた雅美とあやねは、笑顔を絶やさない陽子の饒舌に包摂され、感情の安寧を保っていた。

しかし 、子供の遊びの渦中での、取るに足らない出来事が、一気に空気を変えていく。

陽子の長男とボール遊びしていたあやねが、誤って、雅美のカップを割ったのだ。

突然、あやねが号泣したのは、いつもの習慣で、雅美があやねを睨みつけた瞬間だった。

既に、この母子には、このような反応形成が作られているのだ。

この澱んだ空気を変えたのは、雅美の心情を読み取っていた陽子だった。

「親からひどいことされたよね。あたしもそうだったから」

雅美に後方から抱きつき、母娘の現実を察知している陽子が、静かに吐露した言葉である。

あやねの号泣が止まらない。

その間、ずっと雅美を抱擁する陽子。

ここで、雅美の左手に隠された虐待の記号が明らかにされる。

リストカットではなく、煙草の火で折檻されたトラウマこそ、家庭を持ってまで延長された、歴然とした児童虐待の記号として、彼女を苦しめている否定的自我のルーツだったのである。

「あたしは、ここ」

そう言って、自分のおでこの傷跡を雅美に見せる陽子。

「小学校の頃、顔に痣ができると、学校も行かせてもらえなかった。バレるからって。でも、近所に住んでたお婆ちゃんがね、あたしが家の外で殴られてたとき、抱いて庇ってくれたの。ウチの父親に“ばばあが口出しするな”って、怒鳴られているのにさ。そのお婆ちゃんちに、よく逃げ込ませてもらって…それがなかったら、あたし、耐えられなかったと思う。水木さんも辛かったよね。自分のこと、嫌いでしょ。そのお婆ちゃんがね、いっつも言ってくれたの。会うたんびに、“べっぴんさん”って。だから、あたしも言ってあげたいの。“べっぴんさん”って。あたしの勝手な気持ちでしかないけど、それでも言いたいの。水木さんだって、べっぴんさんなんだよ」

優しさに溢れた陽子の言葉が、雅美の中枢に入り込んできて、嗚咽が止まらない。
 
その雅美の体を、今度は前方から抱きかかえる陽子に、自分の身を預ける雅美にとって、この行為こそ、自分の親に求めていた愛情表現であることを、ワンカットで見せる映像の訴求力は決定的だった。




    “喜びの歌”を歌う児童を囲繞する風景の心地良さ


特別支援学級教諭・大宮拓也と弘也
フラッピング(自閉症=広汎性発達障害者特有の、手をパタパタする行動)しながら、桜ヶ丘小学校の特別支援学級に通う児童がいる。

児童の名は弘也。

いつも、一人暮らしの老婆・佐々木あきこ(以下、あきこ)に挨拶をする児童であるが、自閉症スペクトラムであるため、往々にして迷惑をかけ、担任教師・大宮の優しい保護を受けている。

その児童と挨拶を交わし、自分の話をすることを楽しみにするあきこが、知らずのうちに万引きをするが、スーパーの店員・櫻井和美(以下、和美)から注意を受け、認知症の不安を自覚する。

かつて、空襲で弟が死んだときのトラウマを引き摺る独居老人の空白感が、あきこの睡眠の時間に侵入し、しばしばうなされるのだ。

そんなあきこが、「鍵がない」と叫び、路上でパニックになっている自閉症スペクトラムの弘也のトラブルを目視し、少年を家に入れ、リラックスさせたことで、ようやく落ち着きを取り戻した。

少年の母・和美があきこの家を訪ねて来たのは、この時だった。

和美が、万引きをするあきこを注意したスーパーの店員であった偶然の出会いに、和美自身が恐縮し、謝罪するばかり。

「こんないい子は、いないと思うわ」

あきこのこの言葉に、思わず嗚咽する和美。

子供がいないあきこにとって、いつも挨拶をする習慣を欠かさない弘也の存在は、彼女のアイデンティティになっていたのだ。

「ずっと一緒にいると、可愛いと思えないときもあって…」

かつて経験したことがない優しい言葉に触れ、和美の嗚咽が止まらなかった。

あきこと和美
このエピソードが心理的推進力になって、特別支援学級の「お楽しみ会」に顔を出す和美の満面の笑みに結ばれるのだ。

そこでは、自分の息子が大きな声で“喜びの歌”を歌っていた。

和美の傍らに、あきこが寄り添っていたのは言うまでもない。

「弘也君、私ね、今とっても幸せよ」

そう言って、小高い丘の中腹に集合する家々の桜を見るあきこ。

彼女の認知症の発症は、この母子との関係の繋がりの中で延長されるだろう。




2  提示されたテーマへの私的見解 ―― その1 「教育現場の〈現在性〉」


教育心理学のフィールドで、「学級の諸特性」という研究がある。

「学級とはアナーキーな集合性である」

端的に言えば、この歴然たる事実に尽きる。

何より、学級とは、様々な複雑な環境因子の集団であることを押さえる必要がある。

その因子とは、「多様性」(子供たちの欲求がバラバラであること)であり、「同時性」(多くの事象が同時に起こる)であり、「即時性」(生徒の行動への対応がすぐ求められる)であり、「予測困難性」であり、「歴史性」(過去からずっと継続されること)であるという現実である。  

従って、この複合因子を統一させて、生徒を授業に参加させていくことが教師の最大のテーマとなる。  

お金を出した成人男女が、「○○教室」に通うのとは訳が違うのである。  

そこには、「静かにしなさい!」と怒鳴る大人の存在は不要である。  

特別な管理も必要ない。 

ところが、それでなくても、規範意識の緩んだ30人から35人の子供たちを、45分間集中させることは、「怒らない先生」、或いは、「特段に興味が掻き立てられるような授業」でなければ殆ど不可能である。  

教科教育の中で、「特段に興味が掻き立てられるような授業」など滅多にないし、仮にあっても、すべての生徒が、その授業に集中させ、参加させる行為を具現することは難しい。

教師には、この状態の渦中で「適正管理」が求められるのだ。  

それは威圧し過ぎないように、許容し過ぎないような管理である。

ここに、「適正管理」が求められても上手くいかない、一人の新任教師の悩みが吐露された一文がある。

「ちょっとした私の言動に腹を立て、教室から出ていく子どもたち。注意しても全く指導が入りません。学年の先生に相談しても『あなたの教室をうちのクラスの子どもに見せたくない!』と言われ、無視です。管理職からのアドバイスはなく、逆に私の責任を追及されます。どうしたものか自分でもわからなくなり、学校に行けなくなってしまいました。精神科に行くと適応障害という病気だと言われ、2ヶ月は自宅療養が必要とのことです。新任なので病休をとるのも申し訳ないと思いましたが、しばらく休んでこれからのことを  考えようと思いました」(「教えて!goo」より)

まさに、本作の主人公・岡野が直面した悩みである。

岡野の孤立無援の〈状況性〉
試行錯誤する岡野の孤立無援の〈状況性〉が頓挫したら、彼もまた、「適応障害」と診断された結果、「自宅療養」を余儀なくされ、出口なしの袋小路に迷い込み、転職に追い込まれたかも知れないのだ。

「個性教育」を大切にする熱心な教師であるほど、「教育現場の〈現在性〉」との落差に悩み、自己肯定感を高める授業を構築することの難しさを実感するだろう。

ここで、私は勘考する。

「学校は、もっと『個性教育』を進めるべきである」という「物語」を主張して止まない人が多いが、それは教育の現場を知らない理想主義者の物言いである。  

「個性教育」を、一人一人の性格や能力に合わせて、それぞれに長所を伸ばす教育であるという風に考えた場合、結論から言うと、学校の「個性教育」は殆ど不可能であるということだ。  

理想主義者の物言いは、必ず、「できもしない無理な要求」にまで膨れ上がってくるから、無視する外にない。

岡野の教室
何より、「アナーキーな集合性」である学級に、一定のルールを定着させる以外に有効な手立てはないのである。  

教師はここで、「同時性」と「予測困難性」を克服するのである。  

これは、子供の学習成果を最大限に高めるための合理的な教育実践である。  

即ち、ルールの定着こそ、学校倫理のコアであるということ ―― それに尽きると言い切れる。

なぜなら倫理とは、あらゆる選択肢の中から最善の方法を選ぶことであるからだ。

「今の子どもたちは、自分が一人前で、教師と対等だと思っている。だから教師の言うことを聞かなくてはいけない理由はないわけだ。騒いでいるA君に『静かにしなさい』と言うと、『何でおれだけ?』と言う。『お前の授業は面白くないんだよ。おれたち二人の会話の方が重要なんだ』と言い出す。これでは教育は成り立たない。
生活の仕方も身に付いていない。給食をぽとぽと落としながら食べる。ほうきでごみを掃けないし、五十分間、座っていられない。四、五歳の時に覚えるべきことができないでいる。子育てと教育のシステム全体が壊れている。


日本が豊かになり、子どもが我慢する必要がなくなったからだ。自由が最大限に重要視され、強制されるとキレる。経済的に豊かになったツケが教育に回ってきた。今までは『学校は学ぶ場で、生徒は教師の言うことを聞くものだ』という世論があった。それがなくなったから、古い学校システムが崩壊した。私は当然の 結果だと思う。


教師がしなくてはいけないことは、学校がどういう状況にあるのかを、もっと外に向かって発言することだ。保護者会でも正直に報告する。銀行と同じで、気が付いたらつぶれていたなんてひどい話だ。その前に現状を外に知らせるべきだ。


ただ、保護者から子どもたちにどう接していけばいいのか聞かれても、現場の教師である私には答えようがない。お父さんお母さん自身が、どう子どもを育てたいのかを考えてほしい」(中国新聞99.11.10)

「プロ教師の会」主宰者である、河上亮一(2012年10月より埼玉県鶴ケ島市教育委員会教育長)のインタビュー記事である。

この16年前の問題提起が、今なお、「教育現場の〈現在性〉」である現象それ自身に驚かされる。


学校としては、昔と変わらぬ普通の学校作りを目指しているだけなのだが、管理嫌いの過敏な生徒には、学校が彼らのストレスの温床になってしまうのである。  

かつての如き、地域共同体の支えを失った学校のごく普通の対応や要請が、ますます、突出した現象として印象付けられていくのだ。

「口うるさい先公」とか「サラリーマン教師」とか平気で蔑称しながら、無理難題を押し付けてくる家庭の身勝手さは問うまい。

学校を見殺しにした地域が悪いのではない。  

機能不全化した地域共同体も、見回りパトロールとか、夏の盆踊りとかの形式的行事によって「季節」を糊塗(こと)しつつ、上手に繋いでいかなければ、疑似共同体を仮構できないような状況なのである。  

本作の主人公が囲繞(いにょう)された〈状況性〉を考える時、まさに、アナーキーな「学級の諸特性」のドツボに嵌って、「何でおれだけ」コールの連射を被弾し、精神科行きにまで追い詰められてしまうのか。

豊かさはあらゆる共同体を、確実に内側から突き崩していく。  

それが、たまたま地域に及び、家庭に及び、学校に及んでいる光景を、私たちは身近に目撃しているだけなのである。  

このような時代状況下で、なお「地域」が生き残っている時代の中で、私たちが勝手に作った「夢教育」(3年B組金八先生)に関わる幾つかの「物語」を、学校の教師たちにのみ一方的に押し付けることが、どれほど乱暴で困難な課題であるかについて、もういい加減、私たちは学習すべきなのである。

他の教師たちが巧みに厄介な問題から目を逸(そ)らす中で、幾つかの鈍感さを露呈したとは言え、岡野匡の必死さを、誰が誹議(ひぎ)できようか。

数多(あまた)いる学校教師たちの一部のスキャンダルを大袈裟に取り上げ、その時だけは、「『聖職者』のくせに」などと論(あげつら)い、それを特化し、彼らへのメディアスクラムに暴走する行為は、もう、いい加減に止めたらどうか。

「現代の子供の過剰なまでの平等志向の壁」

この現実は、もう変えようがないのだ。

「子供の自由」に対する大人社会の、その拠って立つ倫理的混乱も極まってしまったのだ。

子供と大人の相違は、何よりも「自己決定権」を持ち得るか否かという点にあり、そこには、何ら情緒的な解釈など入り込む余地などないのである。

これが、私たち民主社会の、一つの毅然としたルールでなければならない。

子供と大人は享受する権利が異なるという厳然たる事実を認めない限り、子供の我が儘な暴走を制約する、一切の法的根拠が済し崩しにされてしまうのだ。

現代社会の混乱は、このあまりに当然過ぎる文脈の共有の顕著な劣化によって惹起されているのである。 



3 提示されたテーマへの私的見解 ―― その2 「人間の可塑性の高さと脆弱性」



児童虐待という深刻な問題に言及する上で、どうしても遺伝学・分子生物学に触れねばならないので、簡潔に書いていく。

「エピジェネティクス」という遺伝学・分子生物学の重要な概念がある。

ヒトゲノム(ヒトの遺伝情報を解析するプロジェクト)解読後の新しい理論であり、遺伝情報の変化を伴わずに、外部(環境)からの刺激により、必要な遺伝子のスイッチがオン・オフすることで遺伝子発現が制御される現象を言う。

それは、「DNAのメチル化」(遺伝子発現の抑制)とヒストンのメチル化、アセチル化(遺伝子発現の促進)などにより、同じゲノムを持つ細胞が性質の異なる細胞に変化することを可能にしている。

DNAメチル化の差によって尾の形状が異なる二匹のクローンマウス
このエピジェネティックな機構は、心の遺伝子に関わる事実が、生後まもないマウスの養育環境が、子マウスのストレス耐性の獲得に影響を及ぼすという実験結果によって明らかにされた。

グルーミング(毛繕い)など、面倒見のよい母親に育てられた子マウスは、ストレス応答(HPA系)で重要な働きをする「海馬」(記憶の中枢)内のグルココルチコイド受容体(GR=ストレスホルモン)を多く保有し、心配性にならずにストレスへの耐性を示すのである。

そして、成長しても海馬でのGRが多く、子に対しても面倒見のよい親となるが、反対に、そうでない母親に育てられた子マウスは、GRが少なく、ストレス耐性が低くなり、成長しても、子の面倒をあまり見ない親となる。

但し、マウスの場合、GRプロモーターは出産初日にメチル化するので、脱メチル化のためには、一週間の「臨界期」(生体の発達限界点)によく面倒を見てもらう必要がある。(プロモーターとは、DNA からRNAを合成する「転写」に関与する遺伝子の上流領域のこと)

この「臨界期」の養育環境次第で、生涯にわたるストレスに応答する遺伝子発現量が決定されてしまうのである。

このように、ストレスとエピジェネティックな機構は密接な関わりを持ち、発達期の環境要因の重要性が改めて確認できたという事実である。

以上の「エピジェネティクス」が、児童虐待に大きく関与すると考えられている。

マウスの実験結果や「臨界期」の問題は、人間の場合、長きにわたる成長・発達過程での可塑性の高さや個体差があることから、直ちに適応できない側面があるものの、脳の未発達な幼少期から児童期における親子関係や養育環境のあり方が、脳内の遺伝子発現に影響を及ぼすことは一般的に認められる。

脳内での海馬の位置。赤で示した部分が海馬
特に虐待の結果、「海馬」を委縮させ、生涯にわたってストレス耐性が欠如し、精神疾患の発症の可能性を高め、自殺率を増加させるというデータがある。

対人感情やスレスの状況で、ストレス回避の神経細胞である「扁桃体」(情動の中枢)の部位が、12%も委縮するというデータもある

そして由々しきことは、マウスの実験結果で明らかにされたように、児童虐待の「チェーン現象」(虐待の連鎖)が惹起するという現象である。

ここで、本作に言及する。

本作の基幹メッセージは、エピジェネティックな機構、即ち、外部(環境)からの刺激によって「チェーン現象」の惹起が食い止められるということである。

のキーワードは、「抱き締めること」。

「あの子に優しくすれば、あの子も他人に優しくしてくれる」

岡野の姉の言葉である。

「抱き締める」という行為が育児の肝になるのは、愛情を伝える直接的な表現であるからだ。

愛情が伝われば、子供の心理状態を安定させることができる。

逆に、親に大切にされない子供は、他人を思いやる心が育たない。

発達心理学の常識である。

だから、乳幼児期は子供を抱き締めること。

これに尽きる。

この事実は、「オキシトシン」の発見で裏付けられている。

まだ実験段階であるが、心地良きスキンシップによって、愛情ホルモンと言われる「オキシトシン」の分泌が活性化する現象が、乳幼児期において至要たる役割を果たす事実を示している。

更に、人間の精神発達の最大の特徴が可塑性(変化可能性)の高さである現実を忘れてはならないというのが教育心理学の答えである。

虐待を受けたり、ストレスを受けたりても、子供たちには、「レジリエンス」(復元力)ある。 

この「レジリエンス」が、「チェーン現象」の惹起食い止めるパワーになるのだ。

本作で、自分のおでこの傷跡を、雅美に見せる陽子のエピソードが決定的に重要なのは、外部(環境)からの刺激による可塑性(変化可能性)の高さを検証しているからである。

陽子とあやね
陽子が「チェーン現象」の罠に嵌らなかったのは、「近所のお婆ちゃん」というリトリート(避難所)があったからであり、且つ、包摂力のある、陽子の夫の存在が彼女の盾になる役割を果たしていたからだろう。

雅美の心の闇
雅美の体を抱きかかえる陽子の行為の意味は、左手の煙草の火の傷を隠すために、そこに大きな腕時計をはめ、カーディガンの袖を伸ばして覆う雅美の自己嫌悪を希釈化することで、彼女の「チェーン現象」の罠を解体する契機を作り出したこと。

この一点に尽きる。

「抱き締める」という行為が、人間を変えるパワーを持つのだ。

改めて、人間の可塑性の高さと同時に、人間の脆弱性を確認させてくれる映画であった。


【参考資料】 拙稿・人生論的映画評論・続 「先生を流産させる会

(2016年4月)


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