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2015年3月22日日曜日

そこのみにて光輝く(‘13)      呉美保

<「人生」の「どん底」のゾーンで動けない女の中枢を、男のストロークが移動させていく縁(よすが)の物語>



1  「どん底」の生活に縛られ続けている女と、心的外傷を負った男の曲線的交錯



突き詰めて選(え)りすぐった、カットの集積が構築した映像のパワーの凄み。 

プロの俳優の圧巻の演技力が、殆ど完璧に、水底に接するぎりぎりの底層に呼吸を繋ぐ女と、その女へのストロークに一切を懸けることで、自己救済を果たす男の物語を支え切っていた。

邦画のフィールドに、突然変異のように出現した映画の訴求力の強度は、観る者に与える情感濃度をマキシマムに高めるのに充分過ぎるものだった。

俳優たちの的確な感情表現に脱帽する。

綾野剛、池脇千鶴、菅田将暉。

全て良い。

彼らの的確な感情表現を演出した、呉美保監督の腕力の凄み。

絶賛したい。

―― 以下、詳細な梗概。

盛夏の函館の街。

達夫拓児
両親の墓を買いたいと言う妹の手紙を受け取っても、特段の反応をしない達夫が、バラックと化した部落の一角に住む千夏と知り合ったのは、行きつけのパチンコ屋で、拓児という初見の若者に、100円ライターを与えたことが契機だった。

「刑務所の友達?お前の連れて来るもんは、ろくな奴じゃねえ」

これは、「お邪魔してます」という達夫の挨拶を無視し、仮釈放中の息子・拓児に悪態をつく母・かずこ。

部屋の奥から、脳梗塞で、寝たきりの父親の呼ぶ声がかかって、世話をしに行く母親と入れ替わるように現れたのが千夏だった。

扇風機を一人占めにした弟の拓児を目視し、達夫の前に団扇を投げ出す千夏は、二人にチャーハンを作って、彼女なりの対応をする。

「上手いです」

チャーハンを食べながら、小声でお礼を言う達夫。

「何する人?」
「特に、なんも」
「奥さんは?」
「いないです」

初めて交わした、達夫と千夏の会話であるが、既に、お互いを意識する初発的な感情が、そこに読み取れる。

「色気違いや」

父親の良がり声が聞こえてきて、不快感を露骨に口に出す拓児。

恐らく、いつものような、「母の介護」の一端を垣間見せる僅かなシーンのみで、千夏の家族の生活風景が観る者に印象づける。

ふらっと立ち寄っただけの男の心と、それを傍観する家族の心が、未だ大きな距離を持つ物語の素晴らしい導入シーンである。

そんな中で、達夫と千夏が、二人の距離に相応な間隔を取って、家の近くの浜辺を歩いている。

「性欲を抑える薬もあるんだけどね、でも、それ使うと、脳味噌が早くダメになるんだって。驚いた?」
「いや」

それだけの会話だったが、達夫の寡黙さが際立っている。

そして、達夫と千夏の3度目の会話は、最悪の状況下で出来した。

たまたま、達夫が、泥酔状態で入り込んだバーが、売春を斡旋する店であることを知らず、そこで売春婦として働く千夏を見て、バツの悪い二人は、バツの悪い会話に振れていく。

「こういうとこ、来るんだ」
「いや」
「どうすんの?」
「幾ら?」
「8000円」

ここで、泥酔状態の中で、嘲笑とも思えるような反応をする達夫。

その達夫の頬を、繰り返し、平手打ちする千夏。

ここでもまた、二人の距離は、事情を知らない者同士の落差を生み出していた。

思いがけない場所で、思いがけない女と出会って、思いがけない会話の可笑しさを表現しただけの男と、男の表現を下衆(げす)と受け取る女の感情的落差である。

それは同時に、「夜の仕事」のみならず、昼は週3日の塩辛工場の勤務をしながらも、家族の生活費を稼ぐために働く女の、仕事もせずに飲んだくれている男に対する感情的反発でもあった。

しかし、この一件を契機に、二人の距離は急速に近接していく。

無気力ながらも、男の誠実さが関係を動かしていくのだ。

謝罪に行く達夫の訪問を拒絶しながら、共に泳ぎに行くことを受容したのは、千夏の心が、達夫への決定的拒絶にまで膨らんでいなかったからである。

「何の仕事してたの?」
「山で石を割ってた」
「石?」
「道路なんかに使う石・・・拓児は、刑務所にいたのか?」
「酔って、喧嘩して、人刺したんさ・・・今は、仮釈放中で、働く所ががないと釈放できないって言われたから、あたしの知り合いがやってる植木畑で働かせてもらってんの」
「それ、あんたの男?」
「腐れ縁みたいなもんで・・・なして、石の仕事辞めたの?」
「山より、海の方がいいべ」

達夫はそう言ってはぐらかし、千夏もまた、既に、映像提示されている中島の存在を、「腐れ縁」と答えて、話題を変えていく。

この辺りが、現時点での二人の距離の様態だが、裸になって泳ぐことで、北の海の開放系の包摂力が推進力と化して、男女関係の距離感だけは、一気に縮小していく。

男と女の肉感的な出し入れには、時として、関係性の緩やかな階梯を無化してしまう力がある。

北の海での二人の愛情交換が、達夫の部屋での交接に結ばれていくのは必至だった。

殆ど片手間のような、拓児の仕事を世話することで千夏との関係を繋いでいた中島に対して、柔らかだが、千夏がきっぱりと自分の気持ちを表現したのは、その直後だった。


「もう、やめよう。電話しても出ないから・・・」

達夫と千夏の関係に激しく嫉妬する中島の想いが強いのは、この千夏の拒絶の前で、ただ、頭を上げられず、反応する何ものもない態度のうちに表れていた。

昼間の勤務を終えた千夏の前に、なお未練を残して出現する中島を、相手にせずに去っていく女の心の中枢には、人生に目的がないような謎の男・達夫の存在が張り付いているようにも見える。

一方、その達夫が、かつて勤めていた鉱山の採掘会社の上司の松本が現れ、無一文の拓児と共に、ジンギスカン料理を振る舞っていた。

左から達夫、松本拓児
「達夫、そろそろ入るぞ。お前も来い。もう、充分休んだべ。皆、待ってる。達夫も本当は、戻りたくてたまんねぇんだべ」

この松本の誘いに対して、明確に反応しない達夫の事情は、この時点で、未だ明かされることがない。

「おめえは、街でやってけねぇよ」

誘いを遮るように、店を出る達夫に放った松本の言葉である。

いつものように、アルコール漬けになって、アパートの自室で転がっているだけの達夫の傍らで、一緒に鉱山に行くことを望む拓児が、一人で陽気に振る舞っている風景は、二人の若い男の自我が抱える、人生の重量感覚の乖離を鮮烈に印象づけていた。

「人の身内に、タダ乗りしやがって。最低だな」

鉱山に行くことを拒む、達夫への不満を洩らす拓児の本音である。

この物言いに切れた達夫の憤怒が炸裂し、その拓児を部屋から追い出してしまう。

達夫のフラッシュバックが現出したのは、この直後だっ

鉱山で惹起した事故 ―― それは、後輩に発破(はっぱ)を急がせた達夫の指示によって、採石場の爆発が起こり、その後輩が石の下敷きになって、若い命を散らせてしまった事故のこと。

決して達夫の責任ではなかったものの、死体を目の当たりにした達夫にとって癒し難いトラウマとなっていた。

その事故は、PTSDに罹患した者の、心の傷を引き摺って生きる男の人生を約束させてしまったのである。

そんな男にとって、未だほんの僅かだが、自分の〈生〉の継続力を保証するのは、千夏以外に存在しなかった。

その千夏が「夜の仕事」に出るのを待って、それを止めようとする男が、今、そこにいる。

「何?怖いんだけど。私、稼がなきゃなんないの。分るよね?」

そう言って、自分の前に立ち塞がる男を睨みつけ、「夜の仕事」に出ようとする女。

しかし、女の移動を力尽くで押さえ、路傍に倒す男。

「切れねぇのか、腐れ縁。切りたくねぇのか?」

路傍に倒れている女に、男が言い放った言葉である。

「あんたさ、私と結婚でもしたいの?」

男の覚悟を問う女の言葉に、もう、男は何も反応できない。

「バカだと思われるよ」

女の捨て台詞である。

置き去りにされる男。

そこには、女との交接を経て、内側に噴き溜まっている負の感情を、ほんの少しばかり浄化できた内的行程に、何とか継続性を持たせることで、〈生〉と〈死〉の際どいラインの攻防の中で蠢(うごめ)いている自我が、まるで蜘蛛の糸に縋りつくような煩悶のうちに、遂に、意識の表層に突沸(とっぷつ)してしまったような風景が垣間見えるのだ。

だから男は、「夜の仕事」で働く女の店に行く。

「帰れば」

長い沈黙を自ら遮断し、男を拒絶する女。

「山で、一人・・・死なせたんだ・・・」

更に、長い「間」の中から、男もまた、PTSDの核心に迫る、それ以外にない言葉を吐き出したことで、ようやく会話が繋がった。

「俺、そいつに“急げや”って言ったんだ」
「だから、私みたいな女でいいんだ」
「違う」
「違わないね」
「もう、こんな仕事やめれや!やめれって」
「分んないんだよね、私には。毎日会社に行って、仕事終わりに飲みに行って、いるとこないんだよね、私には。そういうの、分んないっしょ?」

柔和に交叉しない会話が閉じて、男は函館の夜の街を、缶ビールを飲みながら彷徨っていた。

ここで、男の彷徨の心理的風景を考えてみたい。

そのキーワードは、「そういうの、分んないっしょ?」という千夏の言葉にある。

それは、この映画の中で、最も重要な台詞の一つであると言っていい。

なぜなら、「普通の職場」で働いても、土地の仲間の「差別視線」に囲繞されることで、「居場所」を確保できないほどの、「どん底」の生活を繋いでいる千夏が背負う苛酷な負荷を理解するには、千夏の生活のコアにまで下降していかない限り困難であるからだ。


二人が背負っている負荷の違いが、そこに垣間見える。

「どん底」の生活に縛られ続けている女と、心的外傷を負った男の負荷の違いである。

思うに、千夏から、唐突に「結婚」という言葉を口にされ、将来の見通しなど考えることも為し得ない、殆ど「死に体」と化していた達夫は、「今、ここ」から、人生をリスタートする覚悟を、事故後、初めて突き付けられ、そこから何かが開いていくような、覚醒の心境に変容していくのである。

達夫の変容は、生きる目的を持ち得ない男の、心理的トラウマの克服をも含む自己救済であったのだ。



2  突き詰めて選(え)りすぐった、カットの集積が構築した映像のパワーの凄み



千夏を諦められない達夫は、拓児の案内で、中島に会いに行ったが、当然の如く、千夏に執着する中島の暴力の餌食になる。

殴られても全く抵抗しない達夫にとって、山で死なせた後輩の無残な死は、攻撃的暴力を封印する自我を形成してしまっているのか。

この一件で、植木の仕事を失った拓児が、達夫と共に採石場に入る見込みが出てきて、その喜びで、アルコール漬けになった拓児を自転車に乗せ、達夫は拓児の粗末な家まで送り届けた。

拓児の家で見た信じ難き光景は、達夫の心身を硬直させるものだった。

あろうことか、母の代わりに、寝たきりの父の性欲の処理をする千夏の姿が、達夫の視界に侵入してきたのだ。

晩夏になっても、色褪せた紫の花を咲かせているアジサイを、思わず、むしり取る達夫の前で、言葉に結べずに、嗚咽に咽ぶ千夏が立ち竦んでいた。

これが、千夏の裸形の日常性の一端であったのか。

「そういうの、分んないっしょ?」と言った千夏の、その生活の裸形の様態を視認した男の心の震えは止まらない。

物言わぬ達夫には、もう、反応すべき何ものもなかった。

達夫が山に入る決意をしたのは、その直後である。

「金欲しいだけだ」

達夫を迎えに来た、松本への言葉である。

「女か?」
「家族持ちたくなったんだ」
「バカか。俺を見れ。誰もいない」
「俺は、あんたとは違う」

達夫にとって、今や、千夏の生活の負荷の解放だけが全てだった。

それは、初めて生きる目的を見つけた男の、それ以外にない縁(よすが)であったからである。

インセストの忌まわしき世界に捕縛されている、千夏の「どん底」の生活を目視してしまい、その悲しみを涙で表現する女への救済なしに済まない心境に達したことで、達夫は「結婚」の意志を決定的に固めるに至ったのだ。

千夏への愛の深さを感受する男に、女もまた、自分の愛の深さを投げ入れる。

「山行く前にさ、亡くなった人の墓参りいこう」

既に、達夫の煩悶を知る千夏の言葉である。

「ありがとう」

そう言って、泣きながら千夏に縋り付き、愛を確かめ合う二人。

この一連のシークエンスは素晴らしい。

信じ難き光景を視界に収めた達夫は、外に出て、色褪せたアジサイを無意識にむしり取るが、ハッと我に返って、そのアジサイから手を離す。

ここには、明らかにメタファーが提示されている。

「季節遅れの色褪せたアジサイ」=「時代の変化に取り残された貧困」というメタファーである。

だから、握り潰したアジサイから手を離すのだ。

そこには、本気で、千夏との結婚への振れ具合を示す転換点になっていくという含みがある。

どこにも「居場所」の持てない女が、自分との結婚を決意した男の深い愛を受け入れた時、二人の心理的交接の昇華は、肉感的交接のうちに溶融したのである。

千夏中島
そのことは、中島との「腐れ縁」を断ち切るという、千夏の強い思いを必至にする。

その中島が、達夫と別れた千夏を待っていたのは、その直後のシーンである。

「俺はよ、おめえいねぇと、やっていけねぇんだって」

拓児の仮釈の取り消しという恫喝を散らつかせて、千夏を車に乗せ、強引にセックスに及び、車内で叫び、拒絶する千夏を、容赦なく殴りつける男の心の風景は爛れ切っていた。

いつまでも、夕日に染まった函館の海を眺め続ける千夏の、憎悪と屈辱に震えるカットが挿入されたのは、このシーンの直後である。

函館の夏祭り。

姉の千夏が中島から甚振(いたぶ)られた現実を知った拓児が、その中島を殺傷する事件を起こすに至った。

この行為に至るまでの、拓児の情動の炸裂を描くシーンのリアリティは圧巻である。

拓児の情動の炸裂
衝動的な情動の振れ具合で、一気に畳み込んでいくような突沸(とっぷつ)ではなく、攻撃的な感情をぎりぎりに抑え込んだ心理が、相手の侮辱的な言辞を受け、遂に爆発するという行為のリアリティは、人間の心理の変化を的確に表現する演出の達成点の一つであった。

閑話休題。

事件を起こして逃げている拓児を、必死に探す達夫は、北国の夏祭りの賑わいとは無縁に、当て所なく、夜の街を彷徨する。

「達夫、煙草くれ」

自分の部屋の前で、彷徨の果てに見つけた拓児の言葉である。

誤魔化し笑いをする拓児に、容赦なく鉄拳を浴びせる達夫。

彼が、この映画で初めて見せた暴力という身体表現は、拓児の起こした事件によって、一切のものが灰燼(かいじん)に帰す事態への、どうしようもない怒りの表現だった。

「俺、もう山行けねぇな。母ちゃんや、父ちゃん、姉ちゃん、喜ばしたかったんだけど・・・」

激しい嗚咽の中で、拓児は自分の無念を吐き出していく。

拓児達夫
その拓児を抱擁する達夫には、拓児の思いが理解できるが故に、達夫の暴力が殺気に満ちた攻撃性を持ちようがなかったのだ。

拓児を随伴し、自首させた達夫は、久しぶりに、妹からの手紙を受け取った。

「お兄ちゃんから返事が来たのは、ほんと久し振りだから、すごくうれしかった。同級生の友達を紹介したいと思ってたけど、お兄ちゃんにも、そんな人がいるなんて、安心しました・・・」

妹の声のボイスオーバーの中で、達夫の自転車は、千夏の家に向かっていく。

家の前に、千夏の母・かずこがしゃがみ込んでいる姿を見て、達夫に不安がよぎった。

今日もまた、父親の性欲の相手をする千夏の遣り切れなさを想像し、玄関で立ち竦んでしまうのだ。

しかし、そこで耳にする声は、がり声とは違っていた。

苦痛に喘ぐ千夏の父親の声を耳にして、急いで家内に入った達夫がそこで見たものは、父親の首を締める千夏の絶望的な行為だった。

その行為を断ち切った達夫は、「ち・・・な・・・つ」と呼ぶ父親の声を耳にして、号泣しながら、外に走っていく千夏を追っていく。

走り疲れた千夏は、浜辺で止まる。

後ろから近づいて来る達夫の想いに、自分の想いを重ねたかったからだ。

振り向く女に、笑みを送る男。

女と男の笑みが溶融する。

ラストカットである。

言外の情趣を観る者に残しつつ、水底に接するぎりぎりの底層に呼吸を繋ぐ女と、その女へのストロークに一切を懸けることで、自己救済を果たす男の愛の深さが、未だ小さくも、確かな希望に架橋し得る時間の遷移をイメージさせて閉じていく物語は、最後まで不要な描写を削り取り、突き詰めて選(え)りすぐった、カットの集積が構築した映像のパワーの凄みを開き切っていて、蓋(けだ)し圧巻だった。



3  「人生」の「どん底」のゾーンで動けない女の中枢を、男のストロークが移動させていく縁(よすが)の物語



仏教用語由来の表現の中では、「どん底」と「奈落の底」という概念が峻別されている。

「どん底」の「底」=「この世」における最低の底とされているが、私流に解釈すれば、ここで言う「どん底」とは、「人生」の「どん底」である。

辞書には、分りやすく、「物事の最悪・最低の状態を指す」と書かれているが、更に私流に解釈すれば、「人生」の「どん底」とは、容易ではないものの、環境因子等の強力なアウトリーチによって這い上がることが可能なゾーンを意味する。

少なくとも、可能性としては、「ゼロ・チャンス」ではないという僅かな救いが、そこにはある。

この「人生」の「どん底」のゾーンを、敢えて定義すれば、様々な相貌性を開きつつも、〈生〉と〈性〉への繋がりが未だ切れていない心象風景の様態であると考える。

だからこそ、この〈生〉と〈性〉の繋がりの不如意によって、己の〈生〉を恨むだろうし、その幸薄き「人生」を呪うかも知れない。

然るに、この感情の在り処(ありか)への問いこそが、〈生〉と〈性〉との繋がりを捨てられない、「人生」の「どん底」に呼吸する者の情動世界の証左でもある。

ところが、ここで言う、〈生〉と〈性〉への繋がりに固執せずに呼吸を繋ぐゾーンが、この世にある。

無論、その世界の住人は、「聖人」でも「仙人」でもない。

この世界こそ、「人生」の「どん底」より下の世界、即ち、「奈落の底」である。

仏教では、「奈落の底」の「底」は、この世の遥か下方にある「地獄」の底、要するに、「人生」の「どん底」よりも下方の「最低の底」を指すが、ここも私流に解釈すれば、限りなく、「ゼロ・チャンス」に呑み込まれた、救われようのない世界であるが故に、「奈落の底」であるということになる。

この「奈落の底」のゾーンでは、〈生〉と〈性〉への欲望系の繋がりに対する、人間的な感情が削り取られてしまっているのだ。

そこでは、「死に神」の供給源としての「奈落の底」にすっかり搦(から)め捕られていて、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する世界を漂動し、どこまでも、〈生〉と〈性〉を削り取られた者の軽量の「身体」を喰い潰し、「心」を食(は)み、人間的な事象の一切が無能化されている。

そんな世界に捕捉されてしまったら、固有の軌跡をすっかり剥ぎ取られ、負の行程を偏流するだけの、心身を腑分けされたその者は、いつしか、「死に神」の誘いに乗って、非日常の極点である〈死〉の世界に押し込められるように捌(さば)かれ、機械的に処理されていくに違いない。

従って、「奈落の底」に搦(から)め捕られた者への一定の援助が可能であっても、救済の望みは、殆ど不可能であると言っていい。

「奈落の底」のゾーンで呼吸を繋ぐ者の救済の不可能性 ―― これが、の問題意識の中枢にある。

以上、勝手な想像力を弄(いじ)くり回して、既成の観念系を壊すような、極めていい加減な物言いをしてきたが、ここでは、がイメージする映画について言及したかったからである。

その映画の名は、マイク・フィギス監督の「リービング・ラスベガス」(1995年制作)。

「リービング・ラスベガス」より
ラスベガスを舞台にした、アルコール依存症の男(ニコラス・ケイジ)と娼婦(エリザベス・シュー)による、壮絶なラブストーリーである。

共に寄り添いながらベガスの一角で生きているが、「人生」の「どん底」で生命を結んでいた女の援助によっても、飲み続けた果てに死んでいくと括った男を、〈生〉と〈性〉の日常性に復元させることが叶わず、結局、女は男の死を看取るだけで精一杯だった。

「人生」の「どん底」の見えないラインと、首の皮一枚で繋がっていながらも、女と出会う前から「奈落の底」の世界に搦(から)め捕られていた男を、一人の娼婦が、自らが呼吸を繋ぐ「人生」の「どん底」の世界に、男を引っ張り上げていく能力など、とうてい持ち得なかったのだ。

ここから、「そこのみにて光輝く」の男と女の自我を束縛していた世界を考えてみたい。

まず、池脇千鶴演じる千夏が、「リービング・ラスベガス」のエリザベス・シューと同様に、「人生」の「どん底」のゾーンに搦め捕られていた事実は否定しようがない。

「仕事終わりに飲みに行って、いるとこないんだよね」

この千夏の言葉が意味するのは、上昇志向をとうに捨てた女の諦念が、彼女の自我を固めてしまっているというシビアな現実である。

中島との「腐れ縁」を延長させていても、「結婚」という観念が、千夏の自我に入り込む余地など全くないのだ。

千夏の「人生」の「どん底」のゾーンは、他人からのストロークを放棄している者の、「時間の構造化」(交流分析理論)が固定していて、動かないようだった。

それ故に、前述したように、〈生〉と〈性〉の繋がりの不如意によって、己の〈生〉を恨むだろうし、その幸薄き「人生」を呪うかも知れないが、決して、〈生〉と〈性〉との繋がりを簡単に捨てることはないだろう。

「人生」の「どん底」に馴致した者の生活風景は変化しにくいのだ。

そんな女に、繰り返しストロークを出す男がいた。

綾野剛演じる達夫である。

その決定的な契機は、北の海での二人の愛情交換であった。

解放を求めるかのような女の感情を、男の皮膚感覚が反応し、交接に結ばれていく。

然るに、その達夫の棲む世界は、「人生」の「どん底」のゾーンと言うよりは、ニコラス・ケイジの人格の総体を絡め取っていた、「奈落の底」の世界への下降の誘(いざな)の危うさと地続きだった。

〈生〉と〈性〉への欲望系の繋がりに対する、人間的な感情がズタズタに削り取られていなかった分だけ、救済の望みが捨てられていなかったに過ぎないとも言える。

PTSDに罹患した者の、心的外傷を引き摺って生きる者の人生の苛酷さとは、非日常の極点である〈死〉の世界に、限りなく近接している恐怖にこそある。

人生に目的を持ち得ないが故に、漸次、身を持ち崩し、アルコール依存症の破壊力によって、自死に振れていく危険性を高めていくだけだろう。

断酒以外の治療選択肢がないが故に、アルコール飲料を繰り返し摂取する者が断酒しても、感受性が亢進しているから、少量の飲酒のみで依存症の症状が再燃する「逆耐性現象」が起こり、「死に至る病」の恐怖に最近接してしまうのである。

それが、PTSDの底知れない破壊力なのだ。

しかし、綾野剛演じる達夫は、ニコラス・ケイジと切れていた。

「リービング・ラスベガス」のニコラス・ケイジは、女と出会うことで、「人生」の「どん底」の見えないラインと、首の皮一枚で繋がっているだけで、基本的に、飲み続けた果てに死んでいく「人生」を生きているので、「奈落の底」の世界にどっぷり漬かっていて、そこからの解放の望みなど全くなかった。

「そこのみにて光輝く」の男と女のケースは、その辺が決定的に違うのだ。

達夫が千夏を求めるのは、そこに自己救済の手立てを見つけたからである。

千夏の存在それ自身が、生きる縁(よすが)であったのだ。

そんな男に、女は根源的テーマを突き付ける。

「あんたさ、私と結婚でもしたいの?バカだと思われるよ」

それは、達夫にとって、〈生〉と〈死〉の分岐点だった。

この観念の途轍もない重石を全人格的に引き受けて、達夫は分岐点を超えていく。

それは、生きる縁(よすが)となった女との、「共存」と「共有」の世界に踏み込んでいく男の人生の在りようだった。

だから、もう迷わない。

そこに、様々な障壁が立ち塞がっても、男はもう迷わない。

エリザベス・シューがニコラス・ケージに求めて止まなかった、「共存」と「共有」の世界に踏み込んでいく達夫の内的行程が失速しなかったが故に、一縷(いちる)の希望の含みを提示したラストシーンに繋がったのだ。

ラストシーン
これは、「奈落の底」の危うさと地続きだった男のストロークが、他人からのストロークを放棄し、「人生」の「どん底」のゾーンで動けない女の中枢を、「そこのみにて光輝く」世界への希望の縁(へり)に移動させていく愛の物語であった。

【参考資料】 拙稿・人生論的映画評論・続 「リービング・ラスベガス


(2015年3月)

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