<「人生脚本」を書き換えられない女の予約された着地点>
1 「知りたくないと思ったら、見ぬ振りする」女の厄介な感情ライン
これは、殆ど心理学の世界である。
それも、ほぼ完璧な構築力で、シビアなドラマを描き切った心理学の世界である。
だから、心理学的アプローチなしに書き逃げできない評論となった。
それが、ウディ・アレン監督の最高傑作と評価され得る、本作に対する私の基本的スタンスである。
想像以上に深く、且つ、人間の〈生〉に関わる根源的な問題を突き付けられ、様々に思いを巡らし、思考の稜線を限りなく伸ばされるに至った時間に感謝する思いで一杯である。
―― 以下、「『人生脚本』を書き換えられない女の予約された着地点」と銘打ったサブタイトルの映画を、テーマの本質に関わる問題意識の下、その梗概をフォローしていく。
ニューヨークからサンフランシスコへ向かう飛行機の中で、その女は、偶(たま)さか、隣り合わせただけの老婦人相手に、一人で喋り続けていた。
9歳年上の夫・ハルという男に見染められ、「人類学者」を諦め、ボストン大学を中退して、結婚したこと。
「出会った頃には、前よりリッチに。何もかもダイナミック。彼に教わったセックスもよ」
その夫との生活の一端を吐露した後は、「6種類の抗鬱剤をミックスで飲み、でも効くのは、ウォッカ・マティーニだけ」
更に、里子の姉妹ゆえ、血縁のないシングルマザーの妹の住むシスコに行くということ。
DV夫に耐えた末、離婚したその妹のもとで、「過去は忘れて新しい人生。“西へ行け”よ」という決意でいる心境などを、滔々(とうとう)と話すのだ。
シャネルのジャケット、ヴィトンのラゲージ(旅行用の鞄)、エルメスのバッグという定番の高級ブランドで自己顕示して、シスコにやって来た、その女の名はジャスミン(ジャネット)。
因みに、「ジャスミン」への改名も、「全身セレブ」のイメージをトレースしたもの。
ジャスミンとジンジャー |
そのジャスミンの、妹の名はジンジャー。
「私には、ここしかないの。一文無しで家賃も払えない。あの豪邸から、ブルックリンのアパート暮らしよ。全財産を国税庁に取られた。裁判で弁護士にも」
妹・ジンジャーに語る、ジャスミンの慨嘆である。
この時点で、彼女のシスコ暮らしには、刑事事件に関与した果ての、シビアな生活の極端な変化が予想されるが、未だ、その内実は分らない。
厳しい現実を想起させるジャスミンが、見栄を張って、ファーストクラスの旅客機でシスコに来たという事実を見る限り、ジャスミンの性格が目立った虚栄心に捕捉されていることが容易に了解されるだろう。
然るに、姉の心理を見透かす妹の前では、口から出任せのブラフが有効でない事実を認知しているから、「莫大な借金を背負ってる」という本音を吐露するのである。
「ジャスミンは、知りたくないと思ったら、見ぬ振りする人よ」
これは、20万ドルの宝くじを当て、当時の夫・オーギーと共に、NYにジャスミンを訪ねたときのジンジャーの言葉。
ジャスミンが惚れ抜いて結婚したハルに愛人がいることを、たまたま目視したジンジャーが、元夫のオーギーに吐露したもの。
ジンジャーは、血縁関係がないものの、里子の姉妹として、同じ両親から共に養育された環境下で、既に、性格の全く異なるジャスミンを知り尽くしているが故に、たった一言で、彼女の本質を言い当てることができるのだろう。
そんなジャスミンがサンフランシスコにやって来ても、極端なまでに、「狭隘なプライド」を体現してしまう自己愛的な性格は全く変わらない。
だから、自分の妹のジンジャーを含めて、平気で人を見下すような差別的な視線が、いつしか、生理的に変えられない彼女の偏頗(へんぱ)な自己像を形成させてしまっていた。
「知りたくないと思ったら、見ぬ振りする」という風に、ジャスミンの本質を見抜いたジンジャーの指摘は間違っていないのである。
左からチリ、ジンジャー、ジャスミン、エディ |
サンフランシスコでのジャスミンの不満は、表面的には、NY時代で存分に刷り込まれたセレブの生活環境との「快楽の落差」がもたらしたもの。
しかし、ジャスミンの心理の内側に張り付く厄介な感情ラインが、ジンジャーを取り巻く世俗的な人間関係と生活風景との折り合いを悪化させるばかりだった。
「エディが話してた歯医者の受付、どう?」
仕事先の心配するジンジャーの誘いに対して、ジャスミンは激しく捲し立てる。
「そんな雑用係!頭がどうかなりそう!学校へ戻りたいの。学位を取って、やりがいのある仕事に就く。二度と下働きは嫌。マディソン街の靴店で働かされたのよ。あの屈辱ったら、うちのパーティに来てた友達連中が買い物に来て、その耐えがたさ、分る?」
こんな愚痴を妹の前で吐き出す女が、極めて、庶民的な西海岸での生活に適応できる訳がない。
「あなた、センスがいいから、ファッション関係の仕事に向いているかも。デザインとか・・・」
姉を同居させている妹のジンジャーの方が、常に、ジャスミンの機嫌を取る始末。
「インテリア・コーディネーターがいい」
妹のこの一言で、本来の自分の能力の発現の場を思い出したかのように、突然、元気を出すジャスミン。
ネットでインテリアの勉強をするために、パソコンの操作を覚えようとするのだ。
結局、無一文の状態から脱するために、パソコンの講座を受けつつ、歯医者の受付から始動するジャスミン。
このエピソード一つとっても、彼女の「現実検討能力」(自己を客観的に把握し、その分析ができる能力で、所謂、「大人の思考」のこと)の欠如、そして、感情の起伏の激しさと、「気分変調症」的な性格傾向が容易に見てとれる。
それでも、抗鬱剤を飲みながら、深呼吸しつつ、彼女の能力を超える複数の課題に挑戦するが、どだい無理な相談だった。
歯医者の受付の仕事が頓挫したのは、ジャスミンのセクシーさに惹かれた歯科医の邪心が露わになったこと。
そんなジャスミンが、パソコン講座の友人・シャロンに、自分に合った「マジメな人」を紹介してもらうために、「大きなパーティ」(シャロンの言葉)に参加するが、以下の稿では、時間軸を遡って、NY時代に惹起した事件に言及する。
2 「人生脚本」を書き換えられない女の予約された着地点
ハル |
NY時代に、ジャスミンに起こった事件は、夫のハルの浮気と、それを追求する彼女の憤怒から始まった。
「浮気が事実なら私、キレるわ」
「違うからキレるな。悪い癖だ」
「愛してるから妬いてるの。他の女が惚れるのは仕方がない。でも、御気の毒。あなたは私のものよ」
そう言って、夫・ハルの否認を引き出すことで、自分の中にある、ほぼ確信的な疑惑の感情を安寧にさせるジャスミン。
思うに、ジャスミンにとって、セレブな社会的地位を保持し、その階層に属する人間として、特定的に選んでくれたと信じるハルの存在は、彼女の自尊心を十全に満たすに足る、「人生の救世主」であると同時に、絶対に失ってはならない、極度に依存的な対象人格であった。
然るに、彼女はその極度な依存性の濃度と同等に、ハルの方も自分に依存していると思い込むことで、自我の安寧を図っていた。
彼女なりの防衛機制である。
それ故に、「火遊び」程度なら看過できるが、その自我の安寧を破壊する夫の裏切りなど、とうてい受容できようがない。
しかし、夫・ハルは、ジャスミンを裏切った。
それも、決定的に裏切った。
「だが、今度は違う。軽い火遊びは何度かしてきた」
10代の女の子との真剣な結婚を考えている夫・ハルの、信じ難き言葉に取り乱し、狼狽(うろた)え、「じゃあ、私はどうなの?」と叫びを上げるジャスミンの心的状況は、一気にクリティカルポイントに達していた。
「こんな屈辱ないわ!皆に知られているだけでも恥なのに、小娘のために捨てられるなんて!」
決定的な裏切りに被弾したジャスミンの興奮は、当然の如く収まらない。
「息が苦しい。私、何してるのかしら。絶対に許せない。あなたが私を捨てるなんて、許せない!」
パニック障害を発症したジャスミンは、完全に自己を失い、自我機能の破綻を露わにしている。
もう、夫が何を言っても、彼女の耳に入ってくる何ものもない。
この異様な状況の中で、「大人の話し合い」など望むべくもなく、ハルは部屋を去っていく。
不安神経症に起因するとも思われるパニック障害で自己を失ったジャスミンが、夫の犯罪をFBIに通報したのは、その直後だった。
夫・ハルのアンモラルな行為が、自分を決定的に裏切った対象人格への爆発的な憎悪に変換され、詐欺犯罪で不正蓄財する夫を、一欠片(ひとかけら)の理性の入り込む余地のない心理的錯乱の中で、司法省の警察機関に通報するという行為に振れたのである。
それは、夫もろとも破壊する、究極の自殺行為と言ってよかった。
そして、夫・ハルの逮捕と、刑務所での自殺。
更に、義理の息子・ダニーのハーバード大学中退と家出。
「虚構の砦」である家族が、一瞬にして崩壊し去ったのである。
ここから、絶対に失ってはならないものを失った女の、「過去は忘れて新しい人生“西へ行け”よ」という決意のうちに、「セレブへの復元」への艱難(かんなん)な旅が開かれていく。
言わずもがな、NY時代で存分に刷り込まれた、セレブの生活環境との「快楽の落差」を埋めるのは容易ではない。
カナダの精神科医・エリック・バーンの交流分析の重要な概念である、「人生脚本」(自分で描いた人生のシナリオ)を書き換えることが如何に難しいことか、それが、彼女のシスコ時代の生活環境の中で検証されていくのだ。
そのジャスミンは今、サンフランシスコでの「大きなパーティ」の一角で、ハルの浮気の過去を思い出し、赤の他人の前で独言している。
「浮気が事実なら私、キレるわ。本当よ。バカにしないで。ハル、分った?」
ジャスミンの内面は、彼女の自我を食い潰した過去の記憶が、「侵入的想起」を体現しているのだ。
そんな彼女が、このパーティで、ドワイト・ウェストレイクと名乗る男と知りあう。
「シャネルにエルメス」を身にまとい、外見的な美貌を誇るジャスミンに、外交官のドワイトが一目惚れするのは予想できる展開である。
ジャスミンとドワイト |
妻を失くしたばかりのドワイトに、「セレブへの復元」の可能性を見出したジャスミンは、インテリアデザイナーである自分もまた、「外科医」の夫を失くしたことを契機に、西海岸に移動した辛い思いを語るのだ。
「湾が一望できる夢の家」
ドワイトが語るこの言葉が、ジャスミンの心を捉えたのは言うまでもない。
一方、チリという婚約者がいるジンジャーの浮気が生じたのも、この「大きなパーティ」の中であった。
アルと名乗る男と、その日のうちに男女関係を結ぶジンジャーのモラルも、相当程度、脆弱になっていることが判然とする。
しかし、姉妹の行動傾向と心理過程を対比的に描くこの物語は、単に、おおらかに状況に適応し、感情を素直に表出するだけのジンジャーと、常に、状況に対して適応する事態にストレスを感じてしまうほど、「心の構え」を形成しているジャスミンとの心理的乖離は明瞭である。
関係の主脈について言えば、前者は「感情」から入り、後者は「肩書」から入っていくのだ。
共存しているそんな二人が、感情的に衝突するのは必至であった。
「そりゃ、脚色もしたし、都合の悪い事情も隠したけど、感情や考え方やユーモア、それこそが私でしょ?」
ドワイトからの約束の連絡が来ないことで苛立つジャスミンに、「ウソがバレたのかも」というジンジャーの素朴な指摘に、このように感情を炸裂させてしまうジャスミンが、そこにいる。
そのドワイトからの連絡を待つ間に、アルとの浮気がばれたジンジャーに怒ったチリが現れ、電話のコードを切って、電話ごと投棄してしまうほどの暴れようだった。
ジンジャーとアル |
それでも、アルとの浮気を止めないジンジャーの「欲望自然主義」は、彼女のバイタリティの本質を垣間見せるもの。
チリの暴れようは異様であったものの、ジンジャーの前夫・オーギーと、そこだけは違って、ジンジャーへのDVに振れることがない。
ジンジャーを愛する想いが強いが故に、一時(いっとき)の嫉妬心で、感情を炸裂させてしまっただけなのだ。
だから、ジンジャーの束の間の「不倫と言う名のハネムーン」は、愛する男に女房がいることを知らされて、呆気なく頓挫するが、それは殆ど、予約された破綻だったと言っていい。
そのジンジャーと切れて、ドワイトからの連絡があり、二人で、「湾が一望できる夢の家」で睦み合うジャスミンは、「彼と出会って、生まれ変わった」と言わしめるに充分な至福の時間を過ごしていく。
しかし、ジャスミンの「ハネムーン」は継続力を持ち得なかった。
NYを訪ねた時のジンジャーとオーギー |
ジャスミンの前夫・ハルの詐欺事件によって奪われたオーギー(ジンジャーの前夫)との偶然の出会いが、彼女の「夢の家」での予約された至福の時間を奪っていくのだ。
「そう簡単に、過去の恨みを忘れない奴もいるんだぜ」
オーギーの捨て台詞である。
かくて、嘘で塗り固めたジャスミンの過去が暴かれ、ドワイトとの「ハネムーン」が呆気なく崩壊する。
「何もかも私が悪いの。いつもそう。いつもそう」
このように、極端から極端に振れるような、自罰的な感情が噴き上がるジャスミンの性癖には、だからこそ、抗鬱剤を必要とせざるを得ない心理傾向が張り付いているのだ。
何某かの精神疾患を疑わせるに足るものである。
今や、何もかも失った喪失感の中で、ジャスミンは、楽器店で働いている義理の息子・ダニーを訪ねていく。
「一部始終を知ったんだ。だから、驚いた顔はするな」
これは、突然、姿を消したダニーの、その理由を尋ねるジャスミンへの答え。
ダニーから拒絶されたジャスミンが、ジンジャーのアパートに戻って来た時、そこには、チリとのヨリを戻したジンジャーがソファで寛いでいた。
決定的喪失感の中で帰宅したジャスミンは、二人の前で、悪口雑言を連射する。
「負け犬を選ぶのは、性格が卑屈だからよ。だから、こんな暮らしから抜け出せないのよ」
チリを「負け犬」と決めつけ、その「負け犬」と共存する妹の「卑屈さ」を、一方的に愚弄し、ここでもまた、いつものような姉妹喧嘩が始まったが、今度ばかりは、ジンジャーの的確な反駁が、今や、中枢を持ち得ない姉の自我を突き抜いていく。
「あんたが世紀の負け犬と結婚。人の苦労も知らないで、這い上がるための一世一代のチャンスを潰したからよ」
この妹の言葉に切れて、ジャスミンは、西海岸での生活の拠点をも遺棄してしまうのだ。
「今日、ここを出て行くわ。望み通り、ドワイトが一緒に住もうと。新居の内装が済んだら、結婚して一緒に住むわ」
相変わらず、虚言を置き去りにし、ファーストシーンと同様に、シャネルのジャケットに身を包み、ジンジャーの庶民的な生活臭と縁を切ったジャスミンが、行く当てのない街を彷徨した果てに、ベンチに腰を下ろした。
「世の中、危険だらけだわ。人はゴシップが大好き。ダニーと会ったわ。その話、したわね。結婚するのよ・・・そうね、あの黒いドレス。ハルはジュエリーのサプライズを。ゴージャスな品ばかり・・・避暑地で演奏してた曲。“ブルームーン”よ。昔は歌詞を覚えていたのに・・・何もかも、ゴチャゴチャ・・・」(注)
ジャスミンの独言が続く。
隣に座っていた女性は、薄気味悪そうに消えていく。
寄る辺なき何ものもないラストシーン |
これが、全てを失って、もう、寄る辺なき何ものもない状況に絡みつかれた果ての、一人の女の物語のラストカットになっていった。
その心理的風景は、「『人生脚本』を書き換えられない女の予約された着地点」と言う外になかった。
(注)因みに、「『ブルームーン』はジャスミンがハルと出会った時に流れていた思い出の曲で、過去にすがる彼女の脳裏から消えることのないメロディとして使用している」(ウディ・アレン監督の言葉)とのこと。
3 虚栄心・快楽の落差・自我形成のルーツ ―― ジャスミンの心の風景
「ジャスミンは自分の才能にわずかな自信しかなかった。だから本来の自分以上に見せる演出を常にしないといけなくて、直感で口から出た言葉を真実にするために進んでしまったの。真実は時に恐ろしい物よ。特に人生を丸ごとフィクションのなかで過ごしているときはね」(【最新シネマ批評】映画ライター斎藤
香 (c) Pouch)
物語のヒロインを演じた女優のこの的確な分析に、正直、驚きを隠せなかった。
この分析の核心的なポイントは、現実の認知の受容を拒絶する、「否認」という防衛機制のうちに自我の安寧を図っていたヒロインの心理的事象を言い当てていることである。
「本来の自分以上に見せる演出」を常態化することで、自己像の「理想化」を虚構し、「否認」の強化を図っていく。
この際限がない内的風景は、「人生を丸ごとフィクションのなかで過ごしている」心的状況の危うさを内包するが故に、それが破綻した時に被弾する自我の崩壊のイメージが、時として、現実味を帯びるのである。
極度なストレスの発現である、過去の記憶の再生としての、ラストシーンでのジャスミンの独言は、この危うさのイメージを、否が応でも感受してしまうものだった。
思うに、チリの存在自体が不安と緊張を増幅させるジャスミンの心的状況下で、チリとの結婚を選択するであろうジンジャーが、それまでのような、ジャスミンへの援助行動に振れていく可能性が低いことを想起すれば、ストレス耐性の極端な欠如を顕在化するジャスミンを救う手立ては、認知行動療法(CBT)等による治療の介在なしに困難であるだろう。
もし、そのような手立てが介在しなければ、恐らく、あの行く当てのない彷徨を繋いでいった果てに、相当程度の確率で自死に振れていくのではないか。
だから、この映画は、徹頭徹尾、「『人生脚本』を書き換えられない女の予約された着地点」に収束される、残酷極まるシリアスドラマとして受容せざるを得ないのである。
この残酷極まるシリアスドラマを心理学的アプローチで批評するに当たって、私は3つの視座で把握したいと考えている。
それを考えてみたい。
その1。
虚栄心の問題である。
以下、虚栄心についての私の定義である。
まず、それは、常に、自己を等身大以上のものに見せようという感情ではないということだ。
虚栄心とは、自己を等身大以上のものに見せようとするほどに、自己の内側を他者に見透かされることを恐れる感情である。
虚栄心とは、見透かされることへの恐れの感情なのである。
「本来の自分以上に見せる演出」を常態化していた、ジャスミンの防衛的自我を想起する時、まさに彼女は、「見透かされることへの恐れの感情」の渦の中で動き、翻弄され、自壊していった。
「本来の自分以上に見せる演出」を常態化していた、ジャスミンの防衛的自我を想起する時、まさに彼女は、「見透かされることへの恐れの感情」の渦の中で動き、翻弄され、自壊していった。
NY時代のジャスミン |
この虚栄心が、自己防衛的な虚言によって膨張する自我を常態化してしまう時、既に、「現実検討能力」を阻害するパーソナリティ傾向が形成されているが故に、「知りたくないと思ったら、見ぬ振りする」という心的状況が、ジャスミンの防衛的自我を覆い尽くしてしまっている。
「知りたくないと思ったら、見ぬ振りする」ジャスミンの防衛的自我は、「現実検討能力」を阻害していく性癖を仮構し、いつまでたっても、この「虚像」を抜けることなく、彼女の心の構えは、虚栄心という名の、「見透かされることへの恐れの感情」のドツボに嵌って、その防衛的自我の要塞をも喰い尽くしていくのだ。
「知りたくないと思ったら、見ぬ振りする」ジャスミンの防衛的自我は、「現実検討能力」を阻害していく性癖を仮構し、いつまでたっても、この「虚像」を抜けることなく、彼女の心の構えは、虚栄心という名の、「見透かされることへの恐れの感情」のドツボに嵌って、その防衛的自我の要塞をも喰い尽くしていくのだ。
その2
「快楽の落差」の問題である。
「快楽の落差」という中枢的観念に集合する感情の歪みの底知れぬ牽引力の凄みが、残酷極まるシリアスドラマを支配しているのである。
このようなタイプの女が、自分が見下している生活環境に下降し、その生活に馴致するのは、極めて難儀なことなのだ。
なぜなら、「なぜ、自分だけが不幸を感受せねばならないのか」と思わせるような「快楽の落差」の認知と、その「快楽の落差」への不満・不快感情が、ジャスミンの歪んだ自我に張りついているからである。
この不満・不快感情は、「自分はもっと、多くの幸福を手に入れるべきなのだ」という、「現実検討能力」を阻害するパーソナリティ傾向の形成のうちに分娩し、自らを縛っていくのである。
不幸を一時(いっとき)、堪(こら)える力が、それを時間の中で中和させていくという意識が脆弱だから、ジャスミンは、NY時代の至福の過去の記憶に戻され、そこで存分に味わった快楽を再生するのである。
詰まる所、ジャスミンは、精神科医・エリック・バーンによって提唱された、「交流分析」で言うところの、「人生脚本」(自分で描いた人生のシナリオ)を、物語の総体の中で書き換えることができなかったのだ。
その3
自我形成のルーツである。
姉妹の児童期について簡単に言及したジンジャーによると、見た目も頭脳も優れたジャスミンへの里親の偏愛によって、不満を持ったジンジャーが家出したという顛末に象徴されるように、姉妹に対する里親の偏愛が、ジャスミンの児童期自我に大きな影響を及ぼしたであろうことが容易に推測し得る。
恐らく、里親の偏愛によって作られたジャスミンの児童期自我は、常に、里親の愛情を確保するために、その期待に応えようとする強迫観念が、不安神経症とも思しき心的状況を常態化させていたに違いない。
そればかりでないだろう。
そこには、里子に出される前の養育環境の問題も関与しているはずである。
死別か育児放棄か、不分明だが、いずれにしても、乳幼児期における養育者からの無条件の愛情・信頼関係が得られなかったことで、ありのままの自分を曝け出すことができず、自己愛が未成熟なまま、状況や人間関係に適応しづらい自我を形成していった可能性がある。
常に、何某かの社会的価値を身につけることによってしか、自他ともに存在の認知を得られないという観念に捉われ、強迫的行動を繰り返してきたということ。
そういうことではないだろうか。
ここで、最も重要な問題を考えてみよう。
なぜ、ジャスミンは「人生脚本」を書き換えられなかったのか。
何より、彼女自身が「人生脚本」を書き直して、人生を再出発するには、現在の自分の置かれた状況と向き合い、自己と対峙し、「自分とは何か」・「自分は何を求めているのか」という、人生の根源的テーマについて自問する必要がある。
「現実検討能力」の駆使による、その内的行程を経ることなしに、現在の無一文で放り出された転落人生が、自分自身によって惹起された結果でもあると気づく術など不可能である。
彼女自身が、夫の二重の裏切りの被害者である面も否定すべくもないが、それでもなお、自分の都合の悪いことは全て否認し、人生を丸ごと依存させてきた不作為の責任は免れ得ないのだ。
しかし残念ながら、ジャスミンには、「現実検討能力」を阻害するパーソナリティの未熟性・歪みという、自我の脆弱性の問題が濃密に絡んでいて、これが、彼女の「人生脚本」の書き換えの由々しき障壁になっていること ―― この把握を捨象し切れないのである。
「現実検討能力」の駆使による、その内的行程との根源的対峙など、もう、望むべきもないのだ。
それ故にこそ、この転落人生で被弾した精神的ダメージから復元することを、決定的に困難にさせてしまったと言える。
つまり、彼女にとって、現在の自分の置かれた状況と向き合い、同時に、自分の抱えている自我の脆弱性を克服するには、彼女のパーソナリティを理解し、ありのままの自分を、自他ともに受け入れられる、長期間にわたる治療的環境に支えられる必要があるということ。
それ以外に、彼女の「人生脚本」の書き換えの可能性は困難であると言っていい。
「何がしたいか分らなかったの。それに、夫のハルに惚れ抜いていたし・・・本当は何か仕事をしたかった。エネルギーはあったの。慈善活動もした。美術館や学校の寄付金集めも。富には責任が伴うのよ」
これはジャスミンの言葉だが、無論、独言ではない。
二人の甥(ジンジャーの息子)に語った、映画の中のジャスミンの本音の開陳である。
だからこそ、この重要な語りを無視できないのだ。
自分相応の「人生脚本」を構築し得なかった、若き日の彼女の迷いが、セレブ生活に入っても、「富には責任が伴う」という思いの中で、なお中枢を射抜くことができない日々が存在した事実を無視できないのである。
しかし、希代の詐話師(さわし)の「プロ」の話術や、愛情表現の出し入れの超絶的テクニックに搦(から)め捕られ、もう、後戻りできない辺りにまで人格を変容させられた風景をイメージする時、すっかり液状化したセレブの環境に、ズブズブに浸かった日常性からの脱却の可能性は困難であるだろう。
人間は脆弱なのだ。
まして、複雑な養育環境の中で、自律的で、十全な社会適応能力を有する自我を形成し得なかったジャスミンの人格像を思う時、彼女の曲折的な人生行路の総体に対して、どうしようもない切なさを感受してしまうのである。
そんな彼女が、決定的な被弾を受けて、シスコにやって来た時、彼女なりに、人生を前向きに、再出発させようという意図を抱懐していたことに疑う余地がない。
「我々は西へ向かう。小さな町に辿り着く。なぜ、彼らはこの地に来たのか。皆、よそから逃れてきたのだ。人生をやり直すためにだ」
この言葉は、スパイク・リー監督の「25時」(2002年製作)の「幻想のラストシーン」で、収監への遣り切れない旅を繋ぐ主人公・モンティ(エドワード・ノートン)の父が、息子に語った印象深い台詞である。
思えば、アメリカ人にとって、 “西へ行く”という行為は、「人生の再出発」を意味している。
機上の人となっていたジャスミンまた、ファーストシーンの機内で、隣り合わせた老婦人相手に、「過去は忘れて新しい人生。“西へ行け”よ」と語っていた。
彼女もまた、「人生の再出発」を懸けて、“西へ行く” という行為に振れていく。
しかし、彼女の自我の中枢に液状的に沁み込んだセレブ生活との親和的価値観は、現実の生活への適応を著しく阻害し、極度のストレスから、かつて、そのセレブ生活の主役だった頃の記憶の「侵入的想起」に逃げ込むしかなかったのだ。
「失敗のリピーター」を繋ぐほど虚しくなる、ジャスミンの内的風景に近接する時、私は彼女の残酷極まる着地点に深い同情を禁じ得ないのである。
【参考資料】 拙稿・心の風景「虚栄の心理学」
(2015年3月)
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