1 「非在」の形象的人物と同居しつつ、公園散策の美女を撮る若者の変動の振れ幅
黄葉が目に眩しい代々木公園で、「家族写真」を撮っている若者がいる。
カメラマン志望の大学生の光司である。
その光司のファインダーに、今、ベビーカーを引いている一人の美しい女性が収まっていた。
「何をやっているんだ」
突然、後ろから、一人の男から声をかけられ、自分の趣味を説明する光司。
「何をやっているんだ。とにかく、勝手に撮影するのは止めるんだな。近いうちに、また連絡する」
居丈高に、そう言い放って、男は去っていった。
「彼女を尾行して、写真を撮って欲しい。彼女は娘を連れて、あちこちの公園を散歩している」
一切の事情を説明しない初島の依頼を、渋々、光司が引き受けたのは、夜間、ゲイのマスターが営むカフェバーでバイトする光司にとって、報酬への魅力以上に、ベビーカーを引いている美女への関心があったからだろう。
しかし、美女に惹きつけられる心理を、この若者は分らない。
その光司は、依頼の美女を撮るために、自宅で同居しているヒロからデジカメを借りた。
一眼レフの望遠で写真を撮るよりも、デジカメの方が、相手に察知されにくいと考えたからである。
早速、光司の「仕事」が、お台場の潮風公園で始動した。
東京湾の潮風が吹きつける、公園の縁に座っている美女をデジカメで隠し撮りし、その画像を初島に送信した。
「猿江恩賜公園」
この江東区の公園に行くと言う美女、即ち、初島の妻・百合香から、夫にメールが入り、今度は、猿江恩賜公園での撮影を光司に連絡するに至る。
その風通しの良い相貌を、幼女を随伴した美女を隠し撮りする、光司の行動の総体を通して垣間見せてくれるのだ。
一方、光司と共存するヒロの存在が、既に、「非在」の形象的人物でしかないことが判然としてくる。
だから、光司の部屋にいて、神出鬼没の移動を可能にしたのである。
その事実は、かつて、そのヒロの恋人だった富永が、会食目的に、光司の部屋を訪問することで瞭然とする。
アルバイトの仕事仲間にレイプされそうになっても、撃退したほどの富永の物言いは直裁である。
「何か、理由がある訳じゃん。そこが腹立つのよ」
「理由って、理由なんて、ヒロにしか分んないじゃん。僕だって、何で見えるのか分んないし」
「見えて話もできるなら、生きてるときと変わんないじゃん。光司は大切な人が、いきなり目の前から消えちゃったことがないから、そんな簡単に言えんのよ」
その日、言いたいことを言った富永は泥酔し、光司の部屋に厄介になる始末。
光司の傍らにいて、光司を指図するヒロの存在が、富永にとって、「永遠の不在」=「非在」でしかないから、その形象性は、彼女の忘れ難い記憶のトラウマ以外ではなかったのである。
それでも、富永は、会食目的で光司の部屋を訪ねて来るが、その日は、ヒロの姿は消えていた。
「ゾンビの映画」を観ることを好む富永の心奥には、たとえ、「ゾンビ」であってもいいから、ヒロの顔を見たいという思いがある。
そのヒロもまた、幽霊としての「自分の居場所」の欠落感を、光司に吐露する。
「生きている奴は良いよな。どこにでも行けるんだから。どこにも行けない俺はどうすればいいんだ」
「お祓いでもしようか」
「俺は、お払い箱ってわけか。逆に俺は、お前と美優(富永の名)に思われていることに、寄っかかっているだけかも知れない」
「どういうことよ?」
「分んないけどさ・・・」
「僕はどうにか立ち直ったよ。けど、富永は・・・」
「時間が解決してくれるはずだよね。あんなに泣いてくれた美優だってさ。しかし、俺の死を巡って泣いていないのは俺だけって、なんか、皮肉すぎねぇ・・・なんか、きっかけになることがあるよ、きっと」
ヒロが幽霊となって、光司の家に住み着いている理由が、本人にも他の2人にも分らない。
ただ、富永がまだ立ち直っていないこと、2人が自分を思ってくれていること、そこに未練があって去ることができないのではないかと、ヒロは漠然と考えているのだ。
そして、この会話は、自分がいつの日か、消えていくことを暗示する重要な伏線描写になっていた。
2 充分な内的交流を経て、新たに構築していく時間が動き出していく
ここから、富永と共に、光司のバイト先の常連でもある、光司の義姉・美咲とのエピソードが濃密に語られていく。
伊豆大島に住む美咲の実母が倒れたという連絡を受け、光司と美咲は、フェリーで島に向かった。
美咲と光司の関係は、所謂、「ステップファミリー」(子連れ再婚家庭)なので、当然、血縁がない。
光司は、母を小2の時に喪っていて、今は、3年前から伊豆大島に移住した実父だけが、唯一の血を分けた親族である。
その大島で、二人っきりになった姉弟は、どうしても、相互の微妙な距離を埋められず、その空白の時間から、光司が「人妻」の写真を撮り続けている事情を話すに至る。
以下、美咲と光司の会話。
「その人妻のこと、好きになったの?」
「いや、そういうことじゃないじゃない、問題は」
「美優ちゃんのこと、どう思うの?」
「え?富永のこと?」
「そう」
「富永は・・・富永だよ。あいつとヒロの間には入れないね。永久に」
ここで、気まずい「間」ができる。
美咲の中で揺動する思いを、敢えて、彼女は不快感を露わにし、更に、気まずい「間」を広げてしまう。
美咲の、この会話でのポイントは、明らかに、義弟であるが故に血縁のない光司と、富永との男女関係の在りようを知りたい思いが容易に見透かされるが、その心理も光司には分らない。
映画は、姉弟の心理的距離の微妙な空洞感を描き出していく。
いつも明るく振る舞っているように見えた美咲の表情を目視し、光司は声を上げられないで、そこに立ち竦んでいるだけだった。
突沸(とっぷつ)のような美咲の嗚咽は、筆島という大自然が推進力となって、封印していた感情が生理的に噴き上げてしまったのである。
当然ながら、その心理も光司には理解できない。
美咲の心理の本質を、的確に説明したのは富永だった。
「美咲っちは、光司君のことを愛しています」
意想外のことを言われ、驚嘆する光司。
「やっぱ、全然、分ってなかったか」
嘆息する富永。
「だって、姉さんと僕は・・・」
「血の繋がらない他人だろ。何か問題でもあるんかい?」
「だって、9つも離れてるんだぞ」
「愛に年の差なんて、今どき」
「姉さんが言ったのか、そういう風に」
「光司、美咲さんをまっすぐ見詰めたことある?」
ここで、「間」ができる。
「まっすぐ見詰める・・・」
「まっすぐ見詰めれば分るよ。いつからか分らないけど、美咲さんは光司のことを愛している。でもね、それはダメだって、自分に言い聞かせている。美咲さんにとって、弟は守るべき存在で、そういう男をパートナーにはできないのよ、女は。・・・私はヒロがいなくなって思ったの。幸せになることって、チャンスを逃したら、とんでもなく困難なことになるんだなって」
富永の話に聞き入っていた光司は、バイト先のマスターに、姉のことを訊ねる。
「光司君の話をするときは、いつでも恋人のことを話すみたいに、感情を昂らせてたのね・・・カウンター越しに話す君たちを見て、僕は神に祈ったね・・・僕はクリスチャンでも何でもないんだけど、何か、特別なことがない限り、この二人は結ばれないだろう」
これが、マスターの答えだった。
ゲイであるマスターもまた、自分がゲイである事実を知りながら配偶者になった女性の、その「対象喪失」の悲嘆を引き摺って生きている人物だった。
だからこそ、同様に、実母の「対象喪失」の悲嘆を、今でも心奥で引き摺っている光司が「ステップファミリー」を結び、「姉弟」になった二人の関係の前途がイメージできるのだろう。
「あんたは、お母さんの懐ろに逃げ込んでいるのさ」
「母性への回帰」を求めて、人妻を撮り続ける光司への、この富永の一言は、決定的な「対象喪失」のトラウマを希釈させてきたと言う光司の内側に、なお、棲みつく母性愛を求める感情の現出であったことを意味する。
「一度、姉さんのことを、まっすぐ見てみたい」
愛用の一眼レフのカメラを手にした光司は、そう言うや、化粧をして来た美咲の姿を、あらゆる角度から撮り続ける。
それが、光司にとって、「まっすぐ見てみたい」という言葉の具現化だった。
今、二人の距離は最近接しつつあった。
敢えて、生身の身体を表現する美咲の変容は、物理的な近接から、明らかに心理的近接にシフトするのだ。
硬く封印してきた美咲の裸形の感情は、「姉」という役割名称を突き抜けて、「弟」という役割名称を破壊する空気を生み出していた。
ファインダー越しの「視線の交錯」が煮詰まって、自然裡に分娩された溶融感が生まれているのだ。
優しく抱擁し、キスし合う二人には、もう、「姉弟」という形式的な記号を突き抜けつつあった。
しかし、そこまでだった。
「姉さんが僕を初めて見た時、僕も姉さんを見たんだよ。仲間の一人が、“あの人、お前のこと見てるぞ”って。でも、もうその時、僕は姉さんを見ていた」
光司の告白であるが、それ以上、相手の裸形の身体に侵入し得ない、「バウンダリー」(心の境界線)が形成されているから、役割名称を繋いできた関係の安寧の基盤を壊すには至らない。
部屋を離れようとする美咲に、なお、言葉を繋ぐ光司。
「姉さんが姉さんで良かった」
「私も。光司が光司で良かった」
美咲の心は、今や、この簡単だが、深い感情を交錯させた会話の中で自己完結したのだ。
大島で病の床に伏している、実母のもとに身を寄せる美咲。
そして、人妻の撮影を断る光司。
この変化こそ、「虚像」を抜け、内的交流に辿り着いた姉弟が、自らを内視することで得た、それ以外にない収束点だった。
「何か、特別なことがない限り、この二人は結ばれないだろう」と指摘した、マスターの言う通りだった。
二人には、「何か、特別なこと」が起こらなかったのである。
「何か、特別なこと」を起こす、「毒素」・「劇薬」、或いは、カナダの精神科医・エリック・バーンの「交流分析」で言う、特段の「人生脚本の書き換え」も不要だったのである。
一方、この映画の主要な登場人物の中で、唯一、「対象喪失」を経験していない初島と、妻・百合香が、お互いに見詰め合うことで、それまでも何もなかったように、愛し合う夫婦の関係を復元させていくのは必至だった。
光司は、自分がフォローし続けた初島夫人・百合香が、渦巻き状に東京の公園を散歩している事実を、初島に説明したことで、全てが終焉したのである
共に、考古学のサークルに入っていた大学時代、恋人だった百合香への最初のプレゼントが、古生代から中生代までの螺旋型の貝類であるアンモナイトであったことを思い出した初島は、妻の「渦巻き状の東京公園の散歩」の意味を理解したのである。
妻への猜疑心を払拭し得た初島に、心の底からの笑みが滲み出ていた。
ラストシークエンス。
「前に、一部屋、開いているって言ったよね」
そう言って、大きなリュックを背負って、富永は光司の家に訪ねて来た。
光司の家で、共同生活するつもりなのである。
「ああ、これかな。ケジメってやつは」
「おい、ヒロがいたときと違うんだぞ」と光司。
「いないわけじゃないじゃない」と富永。
そのヒロがいた部屋に、躊躇なく入り込んでいく富永。
この時点で、ヒロの姿は映像から消えていく。
「自分の居場所」を、決定的に失ったからである。
ヒロを探す光司。
しかし、どこにも見えない。
そのヒロの部屋で、富永は、テーブルの上のゾンビ映画のDVDを、思い切り払いのけた後、嗚咽の中から、言葉を吐き出していく。
「光司、私さ・・・私、ずっと一人でやって来たし、これからも、何とかやって行かなきゃならないんだよ。でも、それ超しんどいんですけど。あのバカが死んだせいで、あいつがあたしのことなんか、本当はどうでも良かったなんて、分ってるよ。あたしだって、あんな奴、きっと、どうでも良かったんだよ。単なる思い込みだよ。けど、だからと言って、なくなるわけでもないじゃない。記憶とか、こんなゾンビ映画観て、いつでも覚悟とか、全部ごまかしですよ、所詮・・・だから、そこってさ、頼れるの、マジで、光司しかいないんだよ・・・だからさ、お願いだからさ、嫌がらないでよ・・・」
「当たり前じゃん、嫌がらないよ。いろよ、ここに」
「ありがとう、ごめんね」
ここで、天井から、涙の粒が、富永の肩に手を添える光司の手に落ちてきた。
「富永、泣いているのはヒロの部屋だ」
天井を見上げて、光司は優しく言葉を添えた。
「永遠の不在者」=「非在者」の象徴である「ヒロの部屋」に、「恐怖突入」を身体化した富永の、その存分な想いの現実を受け止めざるを得なかっただろう「非在者」が、今、決定的な別離を、その涙のうちに結んだのである。
富永もまた、封印していた自分の感情を吐き出し尽くしたことで、それを受容する光司との、新しい「共存」の生活が開かれていく。
「良かったじゃん」
光司に添えた富永の一言のうちに、物語は閉じていく。
壮年夫婦も、若きカップルも、充分な内的交流を経て、新たに構築していく時間が、もう、動き出していたのである。
3 「虚像」を抜け、内的交流に辿り着く青春の呼吸音 ―― まとめとして
三次元の立体物を二次元の平面に変換し、被写体をフレーミングして切り取り、レンズでデフォルメしてしまうが故に、「虚像」を写し取る技術である写真の世界で、「疑似リアリティ」を繋ぐ青春が彷徨(さまよ)っていた。
それが、カメラマン志望の大学生・光司の、紛う方なき「現在性」だった。
光司の「現在性」は、「虚像」に搦(から)め捕られていたと言っていい。
それは、彼が好んだ写し撮ってきた家族写真に滲み出ていたものだ。
だが、時として、高度な表現力を有する写真が被写体の本質を抉(えぐ)り出し、そこで記録される形状や質感のリアリティが、実像の感覚と寸分違わぬ精度を写し撮る事実を否定すべくもないが、それでも、写真が「虚像」であることには変わりがない。
その「虚像」に搦め捕られた光司が見るものは、大きな撮像素子(さつぞうそし/デジカメにとってフィルムの役割を果たすイメージセンサー)を持ち、高倍率ズームレンズを持ったデジカメが捕捉する被写体の画像を、デジタルデータとして記録するだけの「疑似リアリティ」の反復である。
光司の視界の枠に収まるのは、「永遠の不在」=「非在」との「共存者」であるヒロであり、「ゾンビ映画」を観ることで、そのヒロとの再会を願う心情を持つ富永の表層意識であり、そして何よりも、彼の「視線」の先の、生身の人間的感情を表出する美咲の嗚咽を目の当たりにして、立ち竦むだけの己が青春の呼吸音そのものだった。
そんな青春が、一方的に「見つめる」だけの行為の延長上に「視線の交錯」が成立し、そこに「視線の劇」(青山真治監督の言葉)を生み出していくには、光司の「現在性」が反転する以外になかった。
「僕は常に見つめ合う人たちを真正面から撮ってるんですよ」と言う、青山真治監督のこの映画は、「視線の交錯がドラマを動か」(青山真治監督の言葉)し、「青春映画」=「恋愛映画」を紡いでいくのだ。
その象徴が、光司と美咲の「視線の劇」であった。
物理的近接という環境が整備されても、「ウエスターマーク効果」(幼少期からの物理的共存は性的興味を希釈させる)に捕捉されなかった美咲が、光司との「視線の劇」の表層で生み出したのは、気まずい「間」であり、美咲の不快感の表出であり、その表情の激しい変化であった。
特化された私的時間を「共有」し得ない、この居心地が悪い空気を経由した果ての美咲の嗚咽が、看過できない警報音に変換されたとき、「虚像」に搦め捕られていた青春を囲繞する風景を大きく変容させていく。
濃密な「視線の交錯」が生まれ、そこに、意識の基層を掘り起こす「視線の劇」が立ち上げられるのだ。
思うに、これは、「非言語コミュニケーション」によって、物語を支配する典型的な映画であったと言えるだろう。
あまりに多くのものが包括されている、「非言語コミュニケーション」(ノンバーバルコミュニケーション)のメッセージ性の豊富さは、音楽や美術らの芸術文化表現にとどまらず、身近なところで言えば、身振り、手振りなどのジェスチャー、表情、顔色、沈黙、触れ合い、アイ・コンタクトと目つき、性別・年齢・体格などの身体的特徴、イントネーション・声色等々の周辺言語、更に、空間、時間、色彩などに至るまで、言語以外の様々な手段によって伝えられ、対人コミュニケーションが図られている現実を知れば、その包括力の大きさに驚きを禁じ得ないに違いない。
中でも、「視線」の出し入れこそ、ある意味で、そこだけは突出して、日本人らしく、典型的な「非言語コミュニケーション」の情感的交錯である。
相互の想いを繋ぐ「間」の中での、「非言語コミュニケーション」の繊細な出し入れが、光司と美咲の「視線の劇」のバックグラウンドになっているのだ。
光司と美咲が「虚像」を抜け、自他と向き合って、濃密な「視線の交錯」を経由した果てに、内的交流に辿り着く青春の呼吸音を分娩したが、美咲には、もう、それで充分だった。
光司にとって、美咲の存在は、強い性的感情の濃度を高める対象である以上に、濃密なる憧憬イメージの対象人格であったのだ。
それは、小学生と成人女性との鮮度の高い出会いによる、異性感情に関わる関係濃度の差異でもあった。
「ウエスターマーク効果」の形成強度の差異であると言い換えてもいい。
それでも、「虚像」を抜け、内的交流に辿り着く青春の呼吸音は、「姉弟」という役割呼称のスキームの中で、瑞々しく復元するに至ったのだ。
「虚像」に搦め捕られていたのは、瑞々しく復元し、自己完結していった「姉弟」ばかりではない。
だから、動いていかざるを得なかった。
封印していた自分の感情を吐き出し尽くした時、依頼されただけの「虚像」を写し撮ることを止め、一つの「虚像」を抜けたばかりの光司の懐ろに飛び込んでいったのだ。
何もかも動き、動いていったことで、「虚像」を抜け、内的交流に辿り着く青春の呼吸音が、そこから開かれていったのである。
ここで、私は勘考する。
澱みなく透明感があり、何もかも受容するかのような光司とは、一体、何者なのか。
そのことで想起するのは、終盤における初島の言葉である。
アンモナイトの一件で、妻への猜疑心を払拭し得た初島が、別れ際、「自分には才能がない」と吐露する光司に言った言葉が印象深かった。
彼は、こう表現したのだ。
「君には才能があると思う。君の写真は被写体をあったかく包んでる。まるで公園みたいだ。君と話していると、まあ、のんびりやってもいいかなって気がしてくる」
また、光司のバイト先のパーティーで出会った男が語った言葉は、更に印象深かった。
「東京の中心には、巨大な公園がある。東京はその公園を取り巻く、更に巨大な公園だ。憩い、騒ぎ、誰かと誰かが出会ったりもする。僕たちのための公園。それが、東京だ」
公園の存在が、巨大都市・東京のイメージを柔和にし、「憩いのスポット」=「浄化のスポット」であることを、端的に結んだ言葉だった。
美咲や富永の「軟着点」をも例外にすることなく、そこに身を預ければ、心地良い風を受け、心の安寧を得られる、多分に中性的な「浄化のスポット」 ―― それが、物語の主人公である光司の青春の呼吸音そのものだったのである。
【余稿】 東京の公園の美しさ
私は「思い出の風景」というブログを公開しているが、その中で、「東京の公園」の素晴らしさに何度も言及している。
当時、練馬区西大泉に住んでいた私は、物語の光司と同様に、愛用の一眼レフのカメラを持ち、西武池袋線に乗って都心に出て、そこから、都内各所にあるビュースポット巡りを繰り返していた。
そこだけは光司と違って、私の被写体は、季節の花々である。
そこだけは光司と違って、私の被写体は、季節の花々である。
そこで出会った風景は、私の知っている「喧騒の東京」というイメージと切れていて、そこだけは、自分の土地を愛する人々の息吹が感じられるような、特化されたスポットになっていて、まるで、タイムトラベルしたような気分を味わうことができた。
東京はこんなにも美しいのか。
正直、そう思った。
東京はこんなにも美しいのか。
正直、そう思った。
サトザクラが咲き揃う4月中旬の新宿御苑の素晴らしさは、息を呑むほどだった。
人混みでごった返している、ソメイヨシノが満開になる4月上旬の時期と違って、静かな環境の中で、新緑に萌える木々と共存するように、八重咲きのサトザクラの豪華な色彩に眺め入り、自分のイメージを仮託して、写真を撮り捲る。
至福の瞬間(とき)である。
それ以外のスポットでも、小石川植物園のソメイヨシノ、陽春の小金井公園など、四季の武蔵野の知られざる風景美と出会えて、一期一会の喜びに興奮を抑えられなかった。
残念ながら、映画では紹介されなかったが、私のお気に入りは、三宝寺池公園(石神井公園)である。
三宝寺池公園の四季の美しさは、他の都立公園とは異なった固有の風情、情緒を感じさせる魅力に満ちていた。
都市農業の伝統を今に継いで、都内トップの生産量を誇るキャベツ畑が点在する、長閑な練馬の閑静なエリアを横目に見ながら、自転車で走り切った先に待つ自然公園の存在感は、「ここがあるから、この地を離れたくない」と思わせる絶大な求心力があった。
「風景の変容」 ―― この言葉こそ、この公園に、私を運ばせた最大の理由である。
爛漫の陽春から季節を繋ぎ、猛暑の夏を経て、キンモクセイのオレンジが、街全体を甘くて強い香りで包み込む初秋をあっという間に駆け抜けて、紅黄葉の彩色眩しい晩秋の先に待つ、偏西風の蛇行による厳冬や、エルニーニョ現象による暖冬異変の風景の氾濫など、変化に富んだ日本の四季の多様な季節の循環の中で見せる、四季折々の自然の表現力は、去年もまたそうであったような彩りとは、どこかほんの少し違う何かがあって、その何かと出会うために、私は、この公園に通い続けていたような気がする。
風景が変容するときの、その蠱惑(こわく)的な美しさ。
四方を海に囲まれた中緯度の島国の風土が綾なす、寒暖の変動の大きさが作り出す風景の、芸術的な表現力の醍醐味と出会いたかったのだ。
それが、三宝寺池の四季にはある。
そんな勝手な思いを抱かせるに足る、三宝寺池の四季の最大の見せ場。
メガシティの東京には、これほどまでに人を惹きつけて止まない自然公園が存在するということ。
東京の公園は、こんなにも美しいのか。
私に、そう思わせる魅力の中枢に、三宝寺池公園があった。
(2015年3月)
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