1 「私たちは“思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと」
「抑留キャンプから逃げた時、褒めてくれたわね。多くはキャンプで夫を待ち続けて、逃げそびれた。すぐに助かるって、希望を持ってたわ。だけど待ちくたびれて、女たちは無頓着になり、体も洗わず、ただ寝転がっていた。私は励ましたわ。厳しく、優しくね。だけど、或る晩、雨でワラ布団がボロボロになった。突然、心が折れて、疲れてしまった。疲れ果てて、気力を失った。だから、この世を去ろうかと。その時よ、あなたが浮かんだ。私を探すはず。死ねない」
これは、アドルフ・アイヒマンが、南米で「モサド」(イスラエルの対外諜報機関)によって逮捕され、イスラエルで裁判が開かれることを知った時、亡命先のアメリカで、夫・ハインリッヒと睦まじい生活をしていたユダヤ系ドイツ人・ハンナ・アーレントが、「アイヒマン裁判」の傍聴に行く心理的背景を、かつてのホロコースト時代の恐怖の体験に被せて、切々と訴える本作の序盤のシーンである。
既に、「全体主義の起源」の著者として名を馳せていて、今や、アメリカの大学教授に就任しているハンナ・アーレントが、かって、スパルタクス団を母体とするドイツ共産党の活動家であるが故に、「暗い時代」に戻ることを怖れる夫を説得するには、夫と共有し切れなかったホロコースト時代の恐怖の体験を語るしかなかったのだろう。
要するに、強制収容所へのユダヤ人移送の最高責任者であった、アイヒマンという人格の総体を、自分の眼と耳で確かめ、その実像に肉薄したいのだ。
そればかりではない。
哲学者でもある、自分自身の深い関心領域での知的好奇心もまた、彼女を動かす推進力になっていた。
しかし、「行くのが怖いの」という、彼女の心情に張り付くトラウマこそが、この行為が「恐怖突入」であることを検証するものになっていた。
かくて、「ザ・ニューヨーカー」誌の特派員として、「アイヒマン裁判」を傍聴するハンナ。
1961年のことである。
「私は命令に従ったまでです。殺害するか否かは、全て命令次第です。事務的に処理しただけです。私は一端を担ったに過ぎません。ユダヤ人輸送に必要なその他の業務は、様々な部署が担当しました。私は手を下していません」
このアイヒマンの弁明を傍聴したハンナは、「彼は凶悪とは違う。不気味とは程遠い。平凡な人よ。彼はメフィストとは違う」という、信じ難い印象を持つに至った。
同時に、アイヒマン自身の犯罪とは無縁な証言に違和感を覚え、「アイヒマン裁判」それ事態の在り方に疑問を抱懐する。
「義務と良心の間で、迷ったことは?」
「両極に分れてました。義務感と良心の間を行ったり来たりで・・・」
「個人の良心を、やむなく捨てたと?」
「そう言えます」
「“市民の勇気”があれば、違ったのでは?」
「その勇気が、ヒエラルキー内に組み込まれていたらね」
「では虐殺は、避けられない運命ではなく、人間の行動が招いたものだと?」
「その通りです。何しろ、戦時中の混乱期でしたから。皆、思いました。“上に逆らったって、状況は変わらない”仕方なかったんです。そういう時代でした。皆、そんな世界観で教育されていたんです」
以上の陳腐な傍聴の中で、ハンナは、「アイヒマンは反ユダヤ主義ではない。貨車が発車したら、任務終了。彼は役人なのよ」と、旧友のシオニズム指導者・クルトに言い切ったのだ。
「想像を絶する残虐行為と、彼の平凡さは同列に語れないの」
クルトに、ここまで言い切った後、ハンナは、ハインリッヒの待つ米国に帰国する。
「強制収容所とは、いかなる行為も感情も、その意味を失うということです。無意味が生れることとも言えます。全体主義の最終段階で、絶対的な悪が現れる。人間的な動機とは、もはや無関係。だとすると、次も真実です。もし全体主義がなかったら、我々は根源的な悪など絶対に経験しなかった」
これは、「全体主義の起源」の把握の中で、強制収容所について、ハンナが大学でレクチャーした一節である。
夫の看護の間、アイヒマンの絞首刑の判決が下り、ハンナもまた、傍聴で目の当たりにした男についての思索を巡らし、それを「ザ・ニューヨーカー」誌に発表する準備を進めていた。
「情熱と思考」
これは、若き日にハンナが師事し、愛人だったハイデッガーの言葉。
この言葉に驚きと感銘を持った頃の、ハンナの回想シーンである。
ところが、SA(突撃隊)の理念に共感し、ナチス革命を賞賛したばかりか、ナチス式敬礼を非党員にも強要し、ナチス党員でもあったハイデッガーとの心理的距離は、「一つの民族、一つの国、一人の指導者」というスローガンの下、「社会全体の均質化」を目指した、ナチス・ドイツの根本政策・「強制的同一化」を推進する、フライブルク大学での「改革」の担い手になっていた時点で、ドイツ系ユダヤ人のハンナとの心理的距離は、その絶望感から、ハンナの亡命決意のモチーフになったとも言われる。
それでも、後に、「潜在的殺人者」(ヤスパースとの往復書簡)とまで書いたハンナの、ハイデッガーとの距離感には、「ドイツの稀有な哲学者」の学識の深さへの崇拝の念や、短期間ながらも、愛人関係を持っていた頃の複雑な感情がアンビバレンツとなって尾を引いていたようにも思われるが、実際の所、よく分らないし、映画のテーマとも基本的に脈絡しないので、これ以上の言及は避けよう。
そんなハンナが、今、「アイヒマン裁判」に関する原稿を完成させた。
「“彼は思考不能だった。これは愚鈍とは違う。彼が20世紀最悪の犯罪者になったのは、思考不能だったからだ”」
ハンナの原稿を読む、「ザ・ニューヨーカー」誌の男性編集者。
「“ユダヤ人居住地には指導者がいた。彼らは、ほぼ例外なく、何らかの形でナチに協力していた”これは挑発よ。確証を得ないと、身に危険が及ぶわ。彼女にも、我々にも」
これは、ハンナの原稿を読む、女性編集者の批判的言辞。
女性編集者は、既に、最初の10ページに書かれている原稿を「挑発」と把握するのだ。
それでも、「ザ・ニューヨーカー」誌の編集長は、ハンナの原稿に理解を示すが、一か所だけ、看過し難い問題点を、ハンナ自身に対して、直截に指摘する。
それは、「ナチに協力したユダヤ人」の問題だった。
「“ユダヤ人にとって、同胞の破滅に指導者が果たした役割は、暗黒の物語における最も暗い一章だ”」
この指摘に、全く折れることのないハンナの記事を受容せざるを得なかった、「ザ・ニューヨーカー」誌の連載が始まった。
「1ページにつき、苦情が100件ね」(女性編集者の言葉)と言われるほど、想像を絶するクレームが、「ザ・ニューヨーカー」誌に殺到する。
イスラエル当局からの出版停止の恫喝があっても、映像は、ひたすら「思考するハンナ」をフォローしていく。
それでも、イスラエルで、病の床に伏している親友のクルトの下に赴くハンナが、そのクルトから、「イスラエルへの愛はないのか?もう、君とは笑えない」と批判の刃を向けられた時、ハンナは、そこだけは明瞭に言い切った。
「一つの民族を愛したことはないわ。私が愛するのは友人。それが唯一の愛情よ」
彼女には、「愛する友人」を失うことになっても、その友人への愛は、「一つの民族への愛」よりも大切な何かだったのだ。
映画の重要なテーマの一つが、ここにある。
これは、偏狭な民族主義への警鐘であるということだろう。
ラストシークエンス。
学生たちを前にしての、ハンナのスピーチが開かれていく。
「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない、人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は『悪の凡庸さ』と名づけました。(略)私はアイヒマンの弁護などしていません。彼の凡庸さと、残虐行為を結びつけて考えましたが、理解することと許すことは別の問題です。ソクラテスやプラトン以来、私たちは“思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで、人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」
広い教室の隅に残っていたハンス・ヨナスに気づいて、ハンナは近寄っていく。
しかし、ハンナと共にハイデッガーの元で、哲学を研究した学徒であったハンスから返ってきた言葉は、意想外のものだった。
「君は変わっていない。君は傲慢な人だ。ユダヤのことを何も分かっていない。だから、裁判も哲学論文にしてしまう。我々を見下す傲慢なドイツ人と同じだ。我々は大虐殺の共犯者なのか?」
彼女が大切にする友人を、ここでもまた、失ってしまった。
2 「アーリア人の勝利か、しからずんば、その絶滅とユダヤ人の勝利か」
「思考停止」。
レビューに氾濫するこの言葉に、私は些か違和感を覚えた。
それが、間違っていると言うのではない。
短絡的すぎるような気がしたからだ。
今では、左右両翼から、相手の無能を嘲罵する、「上から目線」のラベリングとして、ネット上で氾濫していることも手伝って、その定義を曖昧にした短絡性に違和感を覚えるのである。
大体、「思考停止」の思考とは何か。
元より、思考とは、人間の知的作用を総称する概念である。
しかし、思考という概念を、経済・社会、自然現象、神経、細胞など生物学分野を含む複雑系や、心理学分野の考察・研究をも包括することで、人間の複雑な感情を包括する心的行程であると把握しない限り、様々な欲望や、その時々の気分、意識、身体状況などが複層的に絡み合っている、私たち人間の心の「分りにくさ」を説明することなど困難であるだろう。
「思考停止」とは、狭義に言えば、既成の判断・価値観に対する無条件な受容による情報の処理であるが、以上の複雑系や心理学分野を包括することで、人間の心の中枢にまで架橋し得る可能性が見えるのではないか。
それ故、アドルフ・アイヒマンの心の問題を説明する時、単に、「思考停止」の瑕疵の問題という把握のうちに封じ込める危うさを感受するのである。
アイヒマンの問題が、「思考停止」の瑕疵の問題であるとするならば、私たちは、彼の心の中枢にまで肉薄し得る、その内実を包括的に把握しなければならない。
なぜ、「悪の凡庸さ」と言われるアイヒマンが生れたのか。
以下、この問題意識で、考えてみたい。
経済・社会という視座で考えてみる時、どうしても、時のローマ教皇(ベネディクトゥス15世)が示していた認識と言われる、「ドイツへの復讐の産物」としての「ベルサイユ条約の屈辱」の問題をスルーする訳にはいかないだろう。
人類史上、最初の世界大戦である第一次世界大戦の破壊力の甚大さは、第二次世界大戦と地続きであったが故に看過しがたいのである。
複雑な同盟・対立関係の中にあった、当時のヨーロッパ列強の、19世紀末から20世紀初めにかけての帝国主義の時代下にあって、各国政府の戦争計画の連鎖的発動が、第一次世界大戦の勃発を必至にした。
「塹壕戦」が主流となったことで戦線は膠着し、戦争が長期化した時、それまでの常識を遥かに超える物的・人的被害をもたらす、第一次世界大戦の破壊力の甚大さが約束されたと言っていい。
その結果、連合国とドイツの間で締結された講和条約がベルサイユ条約だった。
「ベルサイユ条約反対!不公平な講和だ!ドイツをドイツ人に!国土を取り返そう!」
「・・・ベルサイユ条約で、アルザス地方をフランスへ。シレジアをポーランドに。陸軍の規模は10万人に縮小。フランスはライン地方を15年間占領し、ドイツの賠償額は2000万マルク・・・更に、ドイツは戦争犯罪の条項にサインをして、戦争の責任を一国で負うことになった」(「アドルフの画集」より)
これも同様だが、怒りの主は、ユダヤ人の富豪であり、若き画商として成功を収めている、「アドルフの画集」の主人公・ジョン・キューザック演じるマックスの父の言葉。
マックスの家族はユダヤ人である以上に、ドイツ国民であったからだ。
「国民であることが恥だ・・・」とまで言ったマックスの父の心情は、当時、ドイツ首席全権として条約に調印したマティアス・エルツベルガーに、「悪魔の仕業」とまで呼ばせた憤怒に重なるものだった。
1919年、フランスのベルサイユ宮殿で調印された、第一次大戦の講和条約であるこの条約によって、ドイツは領土の割譲と多額の賠償金の支払いを義務付けられて、その不満からナチスの台頭を招来したと言われるほど苛酷な内容だったのである。
その意味で、ナチスの台頭は、ドイツ国民の「憎悪の共同体」のマキシマムな負の収束点だった。
思うに、自分がある人間・集団・組織・民族を嫌うには、当然の如く、嫌うに足る充分な根拠があると確信し、その確信を他者と共有することで、特定他者・集団・民族に対する意識の包囲網を形成せずにはいられないようだ。
この意識の包囲網を、私は「憎悪の共同体」と呼ぶ。
人々の憎悪が集合することは、個人の確信を一段と強化させるから、仮想敵に対する攻撃のリアリティを増幅させていく。
人々の憎悪が集合することは、個人の確信を一段と強化させるから、仮想敵に対する攻撃のリアリティを増幅させていく。
そこに集合した憎悪は何倍ものエネルギーとなって、大挙して、仮想敵に襲いかかるのだ。
しかし、憎悪という個人的感情を、他者の類似した感情と繋いでいこうとは決して考えてはならない。
感情を束ねていくことが最も危険なことなのだ。
憎悪を組織した集団が、一番厄介なのである。
こうした集団が、ドイツの沸騰し切っている風潮の中で生まれてきたのが、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)である。
ナチス政権時のベルサイユ条約の破棄と、再軍備の宣言に象徴されるように、まさに、第一次世界大戦と第二次世界大戦が地続きであったという事実が検証されるだろう。
第一次世界大戦の敗北と共に惹起した、ドイツ革命によってドイツ帝国が崩壊し、ワイマール共和政が成立する。
一方、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクの惨殺(スパルタクス団蜂起の鎮圧)と、ドイツ革命の挫折(社会主義政権のレーテ共和国の消滅)。
更に、ワイマール体制の脆弱(既存政党の議会政治の未熟と民主主義への失望、巨額の賠償金支払い等々)さは、ミュンヘン一揆の頓挫を経て復活したナチ党の飛躍的躍進の推進力となって、シュライヒャー内閣(シュライヒャーは「長いナイフの夜」で、SSによって殺害)を打倒し、一気に権力掌握に至る。
ハンナ・アーレントが亡命を果たす、1933年のことだった。
ドイツ民衆の憎悪を巧みに吸収することで、ナチスは権力基盤の強化を図り、内部に仮想敵を作り出し、それを徹底的に破壊する。
エルンスト・テールマン(ナチス政権の誕生後に強制収容所で殺害)率いるドイツ共産党の軍事組織・「赤色戦線戦士同盟」と私闘を繰り広げていた、SA(突撃隊)の参謀長レームや、党内左派のグレゴール・シュトラッサーなど、党内外の敵を粛清した「長いナイフの夜」(1934年)の事件によって、ヒトラーの主導権が確立されるに至る。
この事件で、ハインリッヒ・ヒムラーを指導者にする、突撃隊の傘下にあった親衛隊(SS)の権力が確立され、軍事組織の保有が許可されるに至り、ヒトラーの独裁体制を補完する重大な役割を担っていく。
国会議事堂放火事件(オランダ共産党員・ルッベの単独犯行とされるが、ゲーリングはドイツ共産党の犯行と決めつけ、弾圧)によって、最も民主的な憲法と称されたワイマール共和国憲法は死文化され、その直後の国会議員選挙において、ナチ党は300にも届かんとする議席を得た。
国会が行政府に立法権を委譲した全権委任法の制定と、最初の強制収容所であるダッハウ強制収容所が設立されたのも、この年、1933年(3月)だった。
ユダヤ人から公民権を奪い取ったニュルンベルク法の制定は、1935年9月。
既に、再軍備宣言を経由していたナチス・ドイツは、ラインラント進駐(1936年)から「アンシュルス」(多民族国家であるオーストリアを併合)を断行し、ズデーテン地方を獲得(チェコスロバキア)するに至る。
1938年のことだが、この時点で、ドイツ民衆の憎悪の吸収によって支えられたナチス・ドイツの露骨な暴力性は、「内なる敵」である反ユダヤ主義へと向かっていく。
「反ユダヤ」・「反共産」・「アーリア人至上」(ゲルマン至上主義)のイデオロギーで貫流する「我が闘争」が、新婚夫婦に贈呈され、ナチスの聖典・国民のバイブルになっていき、ドイツ国内でも、約1000万部が出版されていた背景の中で、反ユダヤ主義の暴力的炸裂を顕在化させていくのだ。
「背後の一突き」と呼ばれる有名な言葉がある。
右翼勢力が、コミュニズム・リベラリズムや、ワイマール共和政を批判する際の、格好のプロパガンダとして多用された言辞である。
そして今や、この言辞の矛先が、ドイツ国内に在住するユダヤ人に向けられた時、「背後の一突き」という、「内なる敵」への暴力的炸裂を身体化するに至る。
「ナチスによるユダヤ人大虐殺」、即ち、世に言うホロコーストへの転換点の一つとなった、「水晶の夜事件」がそれである。
当然ながら、この事件を契機に、国外亡命するユダヤ人が急増したが、日常の意識を拡張心理に捕捉される「正常性バイアス」によって、危機が迫っても、「自分だけは大丈夫」という「防衛機制」が働き、何も行動しないユダヤ人が存在したのは事実である。
しかし、徐々に「正常性バイアス」という「防衛機制」が無化されていく。
既に、経済相に就任したゲーリングでの圧力の下で、1937年の「アーリア化」によって、経済分野における「非ユダヤ人化」(「経済の脱ユダヤ化」)が開始されていた事実に注目すべきである。
「アーリア人の勝利か、しからずんば、その絶滅とユダヤ人の勝利か」
「アーリア人至上主義」=「反ユダヤ主義」の極点が、ここにある。
この間、独ソ不可侵条約締結(1939年8月)⇒ポーランド侵攻による第二次世界大戦勃発(1939年9月)⇒ナチス・ドイツのフランス侵攻によって、フランス北部の占領と、フランス南部の傀儡政権化(ヴィシー政権)⇒ソ連に侵攻(独ソ戦/1941年6月)という風に推移していくが、「反ユダヤ主義」の極点=絶滅収容所での大量殺戮の具現化が始動したのが、ヴァンゼー会議(1942年1月)による「ユダヤ人問題の最終的解決」についての討議だった。
この会議で、ユダヤ人絶滅が決定されたという根拠を不十分とする懐疑派の立場が存在するが、ユダヤ人の絶滅収容所への大量移送の方針のベースが、このヴァンゼー会議にあったという見方は、今や、定説になっていると言っていい。
ヴァンゼー会議の議長は、親衛隊大将であり、「ユダヤ人問題の最終的解決」を任務とする国家保安本部の長官であった、「金髪の野獣」こと、ラインハルト・ハイドリッヒ(ヒムラーの腹心)であり、この会議の議事録(「ヴァンゼー文書」)を作成したのが、当時、親衛隊中佐であったアドルフ・アイヒマン。
会議の席上で、一言も発言することがなかったアイヒマンの議事録によると、占領地域のユダヤ人を東方に送って労働させ、労働不能な者はテレジエンシュタット(テレジン収容所)に移送するというものであった。
ヴァンゼー会議の開かれた別荘の食堂・ウィキ |
既に、この時点で、36歳の壮年期にある、アドルフ・アイヒマンの立場の重要性が垣間見える。
以下、乏しい資料の中から、でき得る限り、アドルフ・アイヒマンの人物像に近接してみたい。
3 「私の罪は従順だったことだ」
典型的なプロテスタントの中産階級の家庭で生まれ育ったアイヒマンにとって、ミヒャエル・ハネケ監督の「白いリボン」(2009年製作)で描かれたように、厳格で絶対的な権威であった父の存在は、当然の如く、逆らうべき何者でもなかった。
実母の病死によって再婚した父の相手、即ち、アイヒマンの義母は穏やかで、極めて良心的なプロテスタントの女性であったと言う。
だから、父の仕事の関係で、オーストリア=ハンガリー帝国のリンツで少年時代を過ごしたアイヒマンの自我が、極端に歪み、屈折していたという印象は全くない。
しかし、ウィーンを中心に反ユダヤ主義が日常的に蔓延していたオーストリアの澱んだ空気の渦中で、「ユダヤ人」と嘲笑されていた少年時代のアイヒマンの自我が、反ユダヤ人感情と全く無縁であったとは、私にはとうてい思えない。
時期がずれるが、共に「国立実科学校」に通い、成績不良で退学しているアドルフ・ヒトラーもまた、同様に言えるだろう。
憎悪は自己を正当化させ、免罪符にしてくれるのだ。
だから、アイヒマンが、他の一般のドイツ人と同様に、ユダヤ人を「背後の一突き」という視線で捕捉していたと同じレベルにおいて、反ユダヤ人感情を、ごく普通に抱懐していたと考える。
そんなアイヒマンが、ナチス親衛隊に入隊したのは25歳の時である。
アイヒマンのイデオロギーの濃度は低いが、反ユダヤ人感情を浄化し得るものではないと言えるだろう。
「軍務の単調さが耐えられなかった。毎日毎日が全く同じで、くりかえしくりかえし同じことをさせられる」(「イェルサレムのアイヒマン」)
これは、アイヒマンが軍事訓練を受けていた時の言葉。
当時、親衛隊伍長であったアイヒマンは、親衛隊情報部 (SD)に転職するが、数か月で人事異動となり、「ユダヤ人担当課」に異動するに至り、爾来、彼はユダヤ人問題に挺身する。
親衛隊少尉にまで昇進していたアイヒマンが、「ユダヤ人問題の専門家」として、ウィーンに派遣されたのは、「アンシュルス」(オーストリア併合)後の1938年3月のこと。
そのウィーンで、ユダヤ人財閥の没収した邸宅を親衛隊の建物にして、その邸宅の一室を占有したアイヒマンは、「ユダヤ人移民局」を設立する。
アイヒマンが自らの地位を利用し、ユダヤ人の移住政策をビジネスに仕立てることで、欲望のコントロールが不全化されていくのは必至だった。
その結果、ユダヤ人の移住が急増していく。
ウィーンでの、ユダヤ人移住の仕事を、ハイドリッヒから高く評価されたアイヒマンが、親衛隊内で、ユダヤ人移住の権威として瞠目されたことで、アイヒマンの心理に「行動随伴性」(良いことがあると繰り返される)が生れていく。
これは、アメリカの心理学者・スキナーの言う、「オペラント条件づけ」であると言っていい。
刺激の出現に応じて、その後に、その行動が生じる頻度が変化する行動である。
「行動随伴性」の心理によって、いよいよ、アイヒマンのユダヤ人移住の仕事が活発になっていく。
高級リムジンを乗り回し、生活の贅沢度が増していく。
欲望の稜線が一気に伸ばされていくのだ。
かくて、アイヒマンの地位も上がり、各地のユダヤ人移住局を統括する立場にまでなっていく。
この時代を、「ウィーンの快楽」と呼ぶことができるだろう。
「ウィーンの快楽」の経験によって、アイヒマンの「承認欲求」が存分に満たされていくのだ。
パブロフの条件反射をトレースするように、オペラント行動の自発頻度が増していく(強化)ことで、アイヒマンの「承認欲求」の心理の充足は、彼の昇進によって、いよいよ盤石になっていく
思うに、成績不振で国立実科学校を卒業することができなかった息子に不満だったに違いない、上昇志向の強い父への「承認欲求」の思いは、インフェリオリティコンプレックス
(アドラーの言う「劣等コンプレックス」)を抱えていたであろうアイヒマンにとって、親衛隊大尉のポジションを駆使し、ユダヤ人移住局を統括する仕事から得た快楽こそ、格好の「代償行動」であったと思われる。
そのアイヒマンが、1941年に、親衛隊中佐(彼の最終的階級)にまで昇進していく行程で果たした仕事の収束点は、ヴァンゼー会議において、ユダヤ人を「絶滅収容所」へ移送し、絶滅させるための「ユダヤ人問題の最終解決」政策の議事録を作成し、その任務を命令一下、いつものように、粛々と仕事をすることだった。
粛々と仕事をした男が、結論ありきの裁判で、結論ありきの絞首刑によって、「正義」の名の下に執行されていった。
ただそれだけのことだったが、「私の罪は従順だったことだ」(「ヒトラーの共犯者〈下〉―12人の側近たち」)と語った男にとって、「命令に従う責任」(「アイヒマン調書―イスラエル警察尋問録音記録」)のもと、「従順の罪」で裁かれることの矛盾を弾劾したくとも、それを受容する何ものもなかった。
原爆投下が、「人道に対する罪」という「デュー・プロセス・オブ・ロー」(罪刑法定主義)違反である無念を抱懐していても、同様に、「人道に対する罪」等々の罪状で裁かれた男に同情し得る何ものもないが、少なくとも、男の主観の中枢では、男の運命が、男にとって、自らの能力をマキシマムに発揮し得るポストを得て、それを遂行した行為の結果であるが故の、結論ありきの絞首刑の宿命に対して、「法の前ではなく神の前で有罪だと感じている」(「イェルサレムのアイヒマン」)と、男の弁護士が代弁したとされる言葉のうちに、「正義」の名を被した事後法に、最期の瞬間まで抵抗せざるを得なかったのだろうか。
4 「法」(正義)と「モラル」(道徳的感情)を峻別し、真実に向き合う一人の女性の、その凜とした生き方
ここで、映画のテーマに戻る。
ハンナが書いたり、考えたり、論議したりして、多くの人生経験を積んだ重要な4年間に凝縮したと語る、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督が構築した物語は、「思考するアンナ」と「思考しないアイヒマン」という対比効果による、前者の人物像と、その人物像が堅固に抱懐する、「折れない自我」を鮮烈に浮き彫りにすることだった。
ここで映像提示された映画の基幹テーマを考えるとき、一体、「思考しないアイヒマン」とは、何なのか?
何より、容易にスルーし得ないこの一点が、私の意識の底層を覆い尽くしている。
「思考停止」という風に容易に処理してしまうが、本当に、アイヒマンは思考しなかったのか。
この分りやすい対比の構造を、改めて考えてみたい。
アイヒマンが、「思考停止」の「心的状況」を形成していたのは間違いない。
では、アイヒマンは、どのような「思考停止」をしていたのか。
彼は、映画の中で紹介された裁判の中で、繰り返し、「私は命令に従ったまでです」という弁明を繋いでいた。
それは、彼の自己保身のための防衛戦略であると言えるが、しかし、その言葉を全否定することはできないだろう。
これは、有名な「アイヒマン実験」でも証明されていることである。
言うまでもなく、映画の中での、二人の思考に関するスタンスには明瞭な差異があるということ。
この問題意識が、私の中枢にある。
ハンナの場合は、どのような事態・状況においても、思索する作業を止めない人間として、何かそこだけは、特化されて描かれていた。
今後も、彼女は、自分の思索を止めることはないだろう。
なぜなら、一切の哲学的議論は仮説でしかないので、その仮説を、より確かなものにするために努力することを止めないからである。
そこでの、彼女の思索のキーワードは、「心の中の静かな対話」であった。
ところが、アイヒマンの場合は、その辺りで、ハンナと決定的に乖離すると言っていい。
即ち、彼は、「心の中の静かな対話」を停止したのである。
その意味で、アイヒマンの「思考停止」という指摘は間違ってはいない。
但し、彼が丸ごと「思考停止」の人間だと指摘し得ても、「思考停止」したが故に「人道犯罪」を防げなかったということではないのだ。
アイヒマンが「思考停止」したのは、「義務感と良心の間を行ったり来たり」する葛藤を深めるという内面的作業という、ほぼ完璧に見えるシステムに吸収されている中での、極めて困難なフィールドにおいてである。
その時点で、他の多くの事務官僚がそうであったように、彼もまた、上意下達(じょういかたつ)されてくる厄介な事態に対して、主体的・自立的にコミットメントする態度を放棄したのである。
それは、20世紀最大級の「人道犯罪」に関わる人間たちに共通する人生態度だった。
そして、その拠って立つ国家の政策を遂行する、最高責任の一翼を担っている「根源的な」事実と対峙する思考を、アイヒマンは停止したということ ―― これに尽きるのだ。
このことで、彼は「防衛的自我」を構築し切ったのである。
逆に言えば、そうすることによってしか、彼には、任務を遂行し続けることは不可能だったと言える。
彼の行動を正当化する理由は、幾らでも挙げられるだろう。
一つは、前述したように、時代状況の澱んだ空気の中で、本人の自己弁明やハンナアーレントの指摘とは裏腹に、反ユダヤ主義に対する疑念が生じていなかったこと。
第二に、自ら、殺戮に手を下していなかったこと。
これは大きかった。
ハイドリッヒの命令で、ユダヤ人虐殺活動を視察することを命じられたアイヒマンが、トレブリンカでガス殺を行う建物を視察したときのこと。
アイヒマンは、これらの視察について、「強いショックを受けたこと」や「正視できなかったこと」を強調しているのである(イスラエル警察からの尋問)。
また、銃撃による大量殺害が、親衛隊員に過重な精神的負担を負わせることとなった事例を挙げれば、8000人のユダヤ人の銃殺を検分したヒムラーやアイヒマンが、居た堪れずに、気分を悪くしたということも起きている。
おどろおどろしい事実だが、これによって、親衛隊兵士たちが重圧から解放されたと証言しているのである。
このことは、「見える残酷」の矢面に立たされなかったことで、「良心」の呵責への落ち込みを「感覚鈍磨」させる「防衛機制」に成就し、相当程度、希釈されたと言えるだろう。
これらの事例を見る限り、アイヒマンは、自分の「良心」を決定的に傷つけるものにはならなかったと考えられる。
彼の「良心」は、二つの原爆投下に関与したことクロード・イーザリー少佐と切れて、深刻な心的外傷に捕捉されず、ギリギリに守られたのである。
そして第三に、これが最も重要な点だが、アイヒマン本人が繰り返し語っているように、命令・服従という絶対的な権力関係のシステムに完璧に組み込まれていたということ。
「私は命令に従ったまでです」というアイヒマンの弁明には、その一点について言えば、全く嘘がないのだ。
従って、この三つの文脈から得られる結論は、要するに、アイヒマンのような「凡庸な悪」でも、このような忌まわしき「人道犯罪」に加担することができるという、極端なまでにハードルの低下が存在したという驚嘆すべき現実である。
ホロコーストのハードルが極端に低下することで、まるで、天職のような「有能な事務官僚」(この事実を認知せざるを得ない)であったアイヒマンでも、忌まわしき「人道犯罪」に加担するシステムに容易に吸収されてしまったのである。
ここで、私は思う。
ハンナが言う「悪の凡庸さ」とは、一体、何を指しているのか。
「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪」と彼女が言う時の、「平凡な人間」とは何者なのか。
「平凡さ」の反意語が「非凡さ」と言う時、その二つを分けるものは、一体、どこにあるのか。
「凡庸な悪」と「根源的な悪」の違いを、彼女は「深さ」と「極端さ」というフラットな言葉によって分けたが、これもよく分らない。
大体、「悪」という相対性の高い概念に、「平凡さ」という用語を用いるのは、言葉の真の意味で相応しくないのではないか。
恐らく、レーニンは違うと思われなくもないが、愛情の縺れから、姪のゲリ・ラウバルの自殺(1931年)に大きな衝撃を受け、政治家を辞めようとしたと言われるヒトラーを筆頭に、スターリンもポルポトも、ある意味で、「凡庸な悪」という概念に収斂されるのではないか。
結局、「平凡な人間の悪」ではなく、一切は、「完璧」なシステムに吸収し、吸収されていく時の「人間の悪」という風に言えるのではないか。
残念ながら、そんな、ほぼ「完璧」に見えるシステムを構築してしまう能力が、私たち人間に存在するということである。
ハンナは、両者の違いを「思考する能力」・「善悪を区別する能力」・「美醜を見分ける力」と言うが、それらは、私にとって、あまりに抽象的であり、そのボーダーの中枢を特定するのは、あまりに困難なように見えるのだ。
「心の中の静かな対話」を停止するな。
ハンナの長広舌は、この一言を放つためのスピーチだったようにも思えるのである。
正直に言えば、彼女の長広舌は抽象度が高過ぎて、心の芯に深く届き得る何ものもなかった。
ハンナ・アーレントは「強い女性」であり、そして何より、「堅固な哲学者」であったが故に、普通に狡猾で、「防衛的自我」に潜入して呼吸を繋ぐ「小役人」(実際は優秀な事務官僚)であるアイヒマンの内面への、心理学的アプローチを軽視するという印象を拭えないのである。
このことは、「イェルサレムのアイヒマン」で、僅かにフロイト心理学に触れているにも拘わらず、心理学的アプローチによって、「法」(正義)の執行の希釈化を憂慮していたとも考えられるが、それ以上に、時代限定性の中での、哲学的思弁の優位性の意識が垣間見える。
と言うよりも、彼女にとって、「法」(正義)の執行の根拠となる「事実」のみが緊要だったのだ。
だから、「法」(正義)に背馳(はいち)する、ゲットーを運営し、余得に与(あずか)る者もいた、「ユダヤ人評議会」等の「仲間」を批判したのである。
それ故にと言うべきか、私がこの映画を高く評価するのは、ハンナの思考を通して、ホロコーストという、おぞましい歴史的犯罪に関わる全ての要因について、一貫して公平な目で価値判断し、その文脈の延長線上に、アイヒマンの「人道犯罪」の行為を位置づけ、最後まで、「法」(正義)と「モラル」(道徳的感情)を峻別し、真実に向き合う一人の女性の、その凜とした生き方を映像提示した点である。
―― 稿の最後に、ミルグラム教授によって実施された、イェール大学での「アイヒマン実験」に言及する。
この実験から、私たちが手に入れた結論は、以下の点に尽きるだろう。
私たちが「理性」とか、「良心」と呼んでいるものの、そのあまりの脆弱さである。
「理性」と「良心」の正体は自我である。
「理性」と「良心」の正体は自我である。
「アイヒマン実験」・実験者Eの指示で、「教師」Tが「生徒」Lに電気ショック
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とりわけ、自我がシステマチックな環境に置かれたとき、その中での序列的な関係に呪縛され、支配されやすいということ。
私たちの歴史上の誤りは、殆ど、この冷厳なる現実に関係すると思われる。
人間の自我の自律性は、どこまでも社会的な関係によって規定されてしまうということ、
それが問題なのだ。
従って、劣化したシステムの下では、自我もまた、そのシステムに合わせて劣化してしまうのである。
だから、人間にとって最大の問題は、それぞれの自我の自律的展開に大きく関与する環境や、それを支えるシステムの出来不出来に依拠しているということなのだ。
システムの中で、私たちは、自分たちが作り出した過剰なまでに便利で、しばしば厄介な道具を、いつも、万全に使いこなすことができずに狼狽(うろた)えるのである。
「権力関係」が自我を支配するとき、その自我の自律性は、システムが作った物語の内に従属し、融合する。
従って、劣化したシステムの下では、自我もまた、そのシステムに合わせて劣化してしまうのである。
だから、人間にとって最大の問題は、それぞれの自我の自律的展開に大きく関与する環境や、それを支えるシステムの出来不出来に依拠しているということなのだ。
システムの中で、私たちは、自分たちが作り出した過剰なまでに便利で、しばしば厄介な道具を、いつも、万全に使いこなすことができずに狼狽(うろた)えるのである。
「権力関係」が自我を支配するとき、その自我の自律性は、システムが作った物語の内に従属し、融合する。
遺伝情報の継承と発現を担うDNAを媒体とし、その塩基配列にコードされている生物の遺伝子は、「環境適応機能」を発現しようと発現するが故に、私たち人間の自我が、システムの価値観に収斂されるのは避けられないのだろうか。
そのとき、人間の自我の脆弱さが、情けないまでに炙り出されてくるのである。
「アイヒマン実験」において、65%の者がそれを加えれば死ぬかも知れない電圧のスイッチを押したということは、やはり、由々しき事態と言うより外はないのだ。
人間はこれほどまで簡単に、「理性」とか「良心」を稀薄化させることができる存在なのである。
それ以外の選択肢がないという、閉鎖的で、退路が剥奪された苛酷な状況に人間を置かないこと。
少なくとも、それだけは、人間学についての学習的な真理の一つであることは間違いないであろう。
人間はこれほどまで簡単に、「理性」とか「良心」を稀薄化させることができる存在なのである。
それ以外の選択肢がないという、閉鎖的で、退路が剥奪された苛酷な状況に人間を置かないこと。
少なくとも、それだけは、人間学についての学習的な真理の一つであることは間違いないであろう。
【参照資料】
「イェルサレムのアイヒマン」(ハンナ・アーレント著/みすず書房) 拙稿・人生論的映画評論「アドルフの画集」「es [エス]」 その他、各種サイト
(2015年3月)
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