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2015年2月12日木曜日

ツレがうつになりまして。(‘11)    佐々部清

<「頑張らないぞ」 ―― 鬱病対応の一つの理想的映像提示>



1  「僕、何もできない。死にたい」



「その食欲、羨ましいよ」

「ベニスに死す」で有名な、マーラーの交響曲第5番・「アダージェット」から開かれる物語は、ペットで飼っているイグアナの「イグ」の食欲を俯瞰しながら吐露する、会社に出勤する主人公・髙崎幹男の、気怠い早朝の風景だった。

髪の毛が立ったまま、出勤しようとする夫を、仕事の忙しさで寝坊していた妻が、いつものように送り出す。

携帯を忘れた「ツレ」(夫の愛称)を追って、表に出た妻・晴子が、そこで見た風景は、ゴミ集積所の前で立ち竦んでいる夫の姿だった。

「これって、皆、いらないものなんだよね」
「ゴミだからね」

それだけの会話だったが、自らが「ゴミ」であるという意識にまで下降する精神状態こそ、追い詰められた男の心境を露わにするシーンだった。

「ツレは、とても几帳面な人だ。毎朝、自分でお弁当を作り、曜日毎に決めたお気に入りのチーズを入れる。毎日、締めるネクタイも決めている。私の仕事は漫画を描くことだ。でも、プロの漫画家と呼ばれる人たちとは、少し違う。バリバリと描いて、バリバリと稼ぐ人たちだ」(晴子のナレーション)

そんな「プロの漫画家」に成り切る感情を持ち得ない晴子は、出版社から、連載の打ち切りを言い渡され、それを抵抗なく受容する。

一方、顧客からのクレームを受ける仕事を常態化している幹男は、今日も食欲がなく、自分が作った弁当を後輩に譲る始末。

翌朝のこと。

いよいよ、幹男の精神状態の悪化が顕在化する。

「僕、何もできない。死にたい」

調理用ナイフを手に持って、寝床にいる晴子に吐露する「ツレ」が、そこにいた。

「会社に行かなきゃ・・・」
「休んで、病院行った方がいいよ」
「休めないよ」
「じゃあ、病院だけでも」

晴子の言葉に促され、クリニックで診療を受ける「ツレ」。

「症状から見て、典型的な鬱病ですね。ご存じだと思いますが、鬱とは、気分が落ち込んだ状態を指します。普通は、気持ちを切り替えたり、割り切ったりして、落ち込んだ状態から脱する訳ですが、それを自力ではできなくなってしまっている状態のことを、鬱病と言います。鬱病には、身体的症状も現れます。鬱病は『心の風邪』とも言われる病気です。ですから、いたずらに不安がる必要はありません。投薬治療で症状を抑えて、原因となった問題を、少しずつ解決していきましょう」

ここまで院長の説明を聞いていた幹男は、恐々と問いなおす。

「薬を飲んだら、どれくらいで治るんでしょうか?」
「個人差がありますが、順調に治療が進んでも、元の状態に戻るまでに、半年から、1年半はかかります。」

「ツレ」からクリニックの診療結果を聞き、鬱病と知った晴子は困惑し、実家に相談の電話をかけても埒が明かなかった。

それでも晴子は、「ツレ」の精神状態が変化を及ぼしていた過去を回想しながら、全ての変調が鬱病に起因する事実を認知することで、今、「ツレ」との柔和な会話を繋いでいく。

「仕事が忙し過ぎたんだよ。この機会に、少しのんびりしたら?」
「鬱病なんかになって、ごめんね。でも、原因が分って、少しほっとしてるんだ」
「眠れないのも、腰が痛かったのも、そのせいだったんだね。気がつかなくて、ごめんね」
「鬱病は『心の風邪』で、誰でもかかるものなんだって・・・会社、リストラして、人も減ったし、僕が休むと大変なんだ」
「無理しないで」

晴子の温厚従順なストローク(働きかけ)に、頷きながら、蚊の泣くような声で言葉に結ぶ、

「自分の体は、自分が一番分っているから、心配しないで」

しかし、蚊の泣くような声が端的に語っているように、幹男は、翌朝、最寄りの駅から、いつもの通勤列車に乗車できなかった。

駅のトイレで、吐き下すばかり。

彼の鬱病は、まさに今、疾病の破壊力を顕在化するようだった。

吐き下した直後の映像は、幹男が上司に、自分の実情を告白するシーン。

「私、鬱病なんです」

驚く周囲の社員たち。

「こんなに忙しいと、皆、鬱病みたいなもんだよ。泣きごと言ってないで、リストラされた奴らの分まで頑張ってくれよ」

鬱病の破壊力を理解できないこの言葉で、幹男の告白は、灰燼(かいじん)に帰したのである。



2  「たかがガラス瓶だが、割れなかったから、今、ここにある」



晴子は、行きつけの骨董屋で、小さなガラス瓶を買っていた。

そのときの骨董屋の一言は、晴子の心の中枢に、直截(ちょくさい)に響くものがあった

「その瓶も、たかがガラス瓶だが、割れなかったから、今、ここにある」

この一言を反芻する晴子。

「割れなかったから、価値があるってことか…」

晴子が「ツレ」に、退職を促したのは、その夜だった。

「それはできない。皆、困るよ」
「皆なんて、関係ない。割れないであることに価値があるんだよ」

そこまで言った後、晴子は、厳しい表情で言い切った。

「会社を辞めないなら離婚する」

この一言で、一過的に風景が一変する。

難儀な引き継ぎの出勤が残っているだけで、会社の退職が決まったからである。

そんな「ツレ」の第一声は、冬の季節感を体一杯に感じた者の、この映画で初めて見せる〈生〉へのマニフェスト。

「何だか、すごく気分がいいんだ。薬が効いてきたみたい」

鬱病に関する本を読み漁った晴子の心遣いに、存分に感謝する「ツレ」の新しい日常は、まるで、鬱病の負の連鎖から解放された者の充実感に満ちていた。

この充実感の中でクリニックに通院する幹男は、「鬱病は油断禁物です」と言われ、日記を書くことを勧められる。

しかし、彼の鬱病は甘くない。

日記を書いても、気持ちが持続しないのだ。

それでも、日記を書くことを義務化するようなオブセッション(強迫観念)が気質的に張り付いているから、今度は、心に響くことのない、また別の義務的作業が加わってしまうこと ―― これが、何より厄介なのである。

例えば、「髙橋」(はしごだか)という苗字の誤読に対して、反応する幹男の過剰さは、殆ど「強迫性障害」の性格傾向をシンボライズしていた。

後述するように、鬱病は、各人各様の発症様態を現出するので、結局、その人の気質や性格傾向に合わせた治療が求められるのである。

ともあれ、難儀な引き継ぎを終え、幹男は会社を退職するに至った。

「頑張らないぞ」

「どんどん降れ。積って、電車が止まって、停電になって、皆、止まってしまえ」などと、雪が舞い降りる天に向かって言い放つ、「ツレ」を視認したときの晴子の言葉である。

「ハルマゲドン」の希求こそ、まさに、「メランコリア」の深い闇の世界に捕縛された者の心象風景だった。

「昼間から寝るなんて、世間様に申し訳ない」

退職しても不眠が続く「ツレ」に、「昼寝すれば」という晴子のアドバイスへの反応である。

「ツレ」の場合、この性格傾向が、鬱病のバックボーンにあることが判然とする。

「イグ」のように、自在に動き回るペットに同化したような晴子のメンタリティと完全に切れ、どうしても、自宅の空間を伸び伸びと占有できない「ツレ」の気質は、恐らく、変容する余地がないだろうから、彼の鬱病からの解放には、最も優れた「カウンセラー」である晴子の受容度が、決定的な因子になることが容易に読解できる。

「味が全然、分んないんだよ。段取りも上手くいかないし、こんなに汚すし、やっぱり、僕はダメなんだ」

「眠り病」にかかったように、不眠の地獄から解放された「ツレ」が、せめて、家事を自ら引き受けようとして、料理を作ったものの、自分のネガティブな思考に流れていく男の内的風景は変わらない。

それにも拘らず、「ツレ」の「眠り病」が、クリニックの患者・杉浦が言ったように、「眠剤の効果」の結果でもあるが、しかし、「眠り病」のゾーンを通過することで、「防衛体力」(病気にならない体力)を確保し得た「ホメオスタシス」(健康維持の恒常性の確保)であると説明することができるだろう。

このゾーンの通過によって辿り着いた世界こそ、虫の蠢動(しゅんどう)の如く、自然裡に、自らの身体での始動の時間を拓いたのである。

このように、自らの身体で動くことで、少しずつだが、改善の余地が見られるようになった。

しかし、この改善の余地が見られる行程こそが、鬱病者にとって、極めてリスキーな状態でもある。

それは、しばしば、「死ぬことすらも不可能である希望のなさ」である「絶望」の極点から、ほんの少し、時間が動き始めたことで、「希死念慮」の思いが身体化するに足るエネルギー自給し得たことを意味する。

今や、その本来の性格的な傾向から、有能な「カウンセラー」の能力を身につけていた晴子もまた、鬱病の深い闇の世界に近接しつつあった。

「私、最近思うんだ。ツレが鬱病になった原因じゃなくて、鬱病になった意味は何かって」

まさに、実母に語った、この晴子の言葉に収斂される環境形成こそが、「ツレ」の難儀なる時間の軟着点を予約させる何かだった。

言わずもがなのことだが、この軟着点の予約には、現実的な障害が立ち塞がっていた。

幹男の失業保険では、とうてい、生活費の保証は成り立たないのである。

「ツレが鬱になりまして、仕事を下さい」

これは、漫画の仕事で、生活費を補填しようとする晴子が、馴染みの担当編集者に懇願した言葉。

「ツレが鬱になりまして」と言い切った自分に、誇りを持てたこと。

それが大きかった。

なお、彼女の自我の底層に澱んでいた「偏見」から、一気に解放された実感を噛み締めるのである。

「ツレの鬱」は、晴子自身の「内部戦争」でもあったのだ。

かくて、この「勝負言辞」が功を奏し、晴子は、担当編集者から仕事を紹介してもらうに至る。

この辺りから、物語の風景が変容していく

以下、エピソードごとにフェードアウトしていく物語の、その収束点をフォローしていく。



3  「頑張らないぞ」 ―― 鬱病対応の一つの理想的映像提示



晴子の仕事が忙しくなり、束の間、夫婦関係に微妙な亀裂が入る。

「頑張らない」という時間を日常化した「ツレ」と、生活のために「頑張る」という時間を日常化しつつあった晴子との小さな物理的距離感が、看過し難い心理的距離感にまで一過的に侵入してしまったとき、それでなくとも、微細なことに拘泥する「ツレ」の気質がマキシマムに反応し、風呂場で自殺未遂を図ったのだ。

「晴さんがね、すごく遠くにいるように感じたんだよ。それなのに・・・晴さんにしつこくして・・・そんな自分がすごく嫌になって・・・僕なんかいなくても、誰も困らない・・・時々、ここにいることがたまらなく嫌になって・・・僕は、ここにいていいのかな・・・」

慌ててやって来た晴子を前にして、「ツレ」は嗚咽しながら、自分の思いを吐露するのである。

自分の居場所のなさ。

この心理は、自己の〈生〉が拠って立つ安寧の絶対基盤の喪失感であると言っていい。

「ツレ」には、晴子の存在だけが全てなのだ。

ゆっくりだが、鬱の回復過程で出来した事実が示すものは、〈生〉の熱量を自給する僅かな余地が、自殺未遂に向かうネガティブな時間を作り出したのである。

鬱は、「死に至る病」でもあるのだ。

そのことを認知せずとも、晴子の柔和な眼差しに象徴される抱擁力が事態を改善させる能力を、この夫婦は持ち得ているのである。

「ごめんね。ごめんね」

それは、「ツレ」の嗚咽を、優しく労わる晴子の嗚咽が吸収すれば、それで解決し得るレベルの事態であったことを証明して見せる。

「僕は、今まで心配かけていた、妻のために治したいと思ってたんです。でも今は、自分のために治りたいんです。他の誰かのためじゃなく」

これは、クリニックで知り合った杉浦に語った言葉。

この言葉に表現されているように、「晴れたり曇ったり、泣き笑いの人生」(晴子の言葉)の連続だが、幹夫は、「一歩でもいいから、前に進みたいんだ」と、妻にきっぱりと吐露する心境にまで進んでいる。

既に、発症から一年が経過したのである。

「健やかなときも、病めるときも、豊かなるときも、貧しきときも、この男性を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、この誓約の通りに、私たちは本当の夫婦になれた気がします」

同じ日に、同じ教会で結婚した者同士の同窓会での、晴子の言葉である。

拙いが、二つの心が溶融したスピーチの中で、存分に思いの丈を結んだことで、鬱病への理解が不足する聴き手の心を動かしたのだ。

それほど親密な関係を構築していない聴き手の心の中枢に、幹夫の思いの丈が届いたように見える、この至要たるエピソードは、幹夫の心と溶融した「善き伴侶」の思いが推進力と化し、二人を取り巻く風景を一変させていく。

まもなく、晴子が「自分の描きたい漫画」のテーマに選択したのは、鬱病の地獄に搦(から)め捕られた「ツレ」の一連の心的行程と、その行程に寄り添い、自らも煩悶しながら、「共生」の可能性を模索して来た晴子自身の非日常的な時間の総体だった。

その艱難(かんなん)な作業に、「ツレ」もまた、自分の日記を提供することで、積極的に協力する。

かくて、本作のモデルとなった漫画が完成するに至った。

ラストシーン。

完成した漫画を手に持った幹夫が、自らの意志で、「うつ病なんて怖くない」という講演会を開き、そこで、自分の体験を正直に吐露する簡単なスピーチを結ぶのだ。

「僕は完治した訳ではありません。これからも、この厄介な病気と上手に付き合っていくつもりでいます。そして多分、そうすることが、本当の自分に出会うための一番いい方法なんじゃないだろうかと。今は、そんな風に考えています」

スピーチのこの括りこそ、幹夫の切要な「アファーメーション」(自己肯定宣言)だったのだ。

その全てのケースに当て嵌まる訳ではないが、詰まる所、この物語は、幹夫自身が経験した鬱病の地獄の世界を突き抜けるには、どうしても、その疾病を正確に理解し、夫が抱えた膨大なストレスを浄化させていくに足る「善き伴侶」か、または、その役割を担う存在が不可避であるということ。

従って、この映画の表現的価値は、「『頑張らないぞ』 ―― 鬱病対応の一つの理想的映像提示」という一点にあると、私は考えている。



4  軽視してはならない鬱病の破壊力



鬱病とは、一体、何だろうか。

改めて、それを考えてみる。

まず、発症率が3~5%と言われるほどに高い、鬱病のメカニズムが、未だ、現在の医学では充分に解明されていないという現実を理解する必要があるということ ―― 残念ながら、私たちは、この事実を認知せねばならない。

鬱病者の脳内で、何かが起こっているらしいこと。

それは確からしいが、遺伝病でないことは、相当程度の確率で言えるということ。

当然の如く、環境因子と無縁でないだろうが、「気の病」でない事実を認知しておかないと、安直に、「性格の問題」に帰属させてしまい、二次障害としての「偏見」に晒されるリスクがつきまとうだろう。

「こいつ、もう、ちっちゃい頃から、細かいことを気にするタチでさ、だから、鬱病なんかになっちまうんだよ。まあ、牛乳でも何でも飲んで、晴子さんためにも、頑張って早く治さないとな。男ってのはさ、一家の大黒柱なんだよ。だからどんなに辛くても、家族のためだと考えたら、頑張れるもんなんだよ」

これは、髙崎幹夫(ツレ)の兄の言葉だが、鬱病の破壊力を理解できないこの類の偏見が、とかく、精神論に傾きがちなこの国で、広く行き渡っている現実を無視できないのである。

物語でも、「鬱病は『心の風邪』とも言われる病気です」というクリニックの院長の言葉が挿入されていたが、これは、「いたずらに不安がる必要はありません」という言葉の補完によって、クライエントである幹夫の恐怖心を払拭することで、受診のハードルを下げる意図があると、容易に解釈し得る。

その意味で、意義のある啓蒙的表現でもあるだろう。

しかし、この「風邪」という表現には、様々な誤解を生む危うさを否定できないのだ。

ロジカルエラーと言っていい。

鬱病は、本作の幹夫がそうであったように、少なくとも、半年から一年半という、長期にわたる治療期間を必要とする現実から考えれば、多くの場合、薬を飲めば簡単に治る「風邪」というよりも、「疲労骨折」に喩える指摘もあるくらいだ。

専門医の多くが、「治癒」という言葉を使用せずに、「寛解」(かんかい=一時的に軽減した状態)という専門的な概念を使用することで分るように、症状としては、鬱病の勢いが、単に、一時(いっとき)、衰えているに過ぎない状態を示すのである。

その事実は、鬱病という厄介な疾病が、再発の危険性の余地を残していることを意味する。

そして、「この厄介な病気と上手に付き合っていくつもりでいます」という幹夫の言葉が、「寛解」したラストシーンのスピーチで拾われていたが、「この厄介な病気」を特定するのもまた、決して容易ではないのだ。

大体、クリニックの院長が、主人公の鬱病を「心因性鬱病」と診断したが、「心因性」と「内因性」(精神疾患や、パーソナリティ障害など精神障害)の明瞭な分類や定義が曖昧なため、アメリカ精神医学会による、DSM-III」(精神障害の診断と統計の手引第3版)以降、不安障害との併発もあり、列記された複数の身体的・精神的症状の中で、どれほど自分の症状に該当するか否かによって疾病を特定する、「操作的診断基準」によって分類することが一般的になっている。

それは、伝統的診断法による、原因論での病気診断の困難さを反照しているが、無論、絶対的ではない。

診断基準のみで説明し切れないほどに、 クライエントの疾病の内実が、あまりに複雑な現出を見せるからである。

幹夫のケースでも、強迫性障害(強迫観念)という精神疾患の症状の他に、鬱病の身体的症状としては、食欲不振、不眠症の常態化、全身倦怠感や疲労感、嘔吐、関節痛、頭痛があったが、それ以外にも、消化器系の疾患などの特徴的な現象が多岐に見られ、幅広いのだ。

然るに、この事実は、「操作的診断基準」によって分類する鬱病が、「精神の病」に収斂されるばかりでなく、「身体の病」である事実を検証すると言っていい。

その辺りに、ストレスの過剰な累加によって脳内の神経細胞が傷ついてしまう、鬱病者の脳内異変との関連の根拠になっていて、鬱病が脳の疾病であるという、ほぼ決定的な仮説を裏付けてもいる。

更に、鬱病の精神症状として、気力や意欲の顕著な減退が「抑鬱気分」を惹起し、それが喜びの感情の喪失に結ばれ、死にたいと願う気持ちが生じる、所謂、「希死念慮」に振れていきやすくなる現実を認知しないと、適切な対応を誤ることになるに違いない。
 
「希死念慮」は、SOSの発信なのである。

だから、このSOSの受信と、それによる適切な対応こそ、鬱病者の善きサポートになると言えるが、その対応のポイントは、対話を通して相手の思いを汲み取っていく、カウンセラーの成功例をトレースしていく以外にないのだろう。

鬱病が発症する原因を考えるとき、生物学的仮説として最も有力なのは、セロトニンの枯渇による「セロトニン仮説」であるが、「セロトニン」をスムースに分泌させる目的で抗鬱剤を投与すれば、「鬱病が治る」というほど単純ではない事実を思えば、鬱病が心理学的成因仮説でも説明されるように、パーソナリティ障害との脈絡をも有する、複雑に入り組んだ因子の集合的疾病であると把握すべきなのである。

「死に至る病」のテールリスク(大きな損失をもたらすリスク)をも内包し得る、鬱病の破壊力を軽視してはならないのだ。

(2015年2月)

【参考資料】 拙稿・人生論的映画評論・続 メランコリア




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