1 「一緒に行こう!上に行けば命がある」
「大晦日、ニューヨークからアテネへ向け、航海中のポセイドン号が沈没。生存者は僅かだった。これは、その一握りの人々の物語である」
このキャプションから開かれた物語の面白さは、如何にも、「ニューシネマ」時代の臭気が立ち込めていて、紛れもなく、「パニック映画」の頂点を極めるエンタメムービーであると言っていい。
以下、梗概。
「バラストを増やす。船底が軽すぎる」
これは、ポセイドン号の船長が、傍らにいる船主代理人に指摘した言葉だが、嵐に遭遇し、船体が大きく揺さぶられ、船内に小さなパニックが起こっている時だった。
船長と船主代理人 |
しかし、その日のうちに、船長が抱いていた危惧の念が現実になる。
地震観測所から、クレタ島北西209キロを震源地とする、海底地震の発生を告げる電報が入ったからである。
「水の壁」(船長の言葉)と称する大津波が押し寄せて来たのは、大食堂で、船客たちが新年を祝うパーティの最中だった。
一瞬にして転覆したポセイドン号。
ポセイドン号の船体の上部が海底に没したことで、船体の上下が変換してしまったのである。
大混乱の中で、多くの船客たちの生命を喪うに至った。
それは、この大惨事から、辛うじて命を繋ぐことができた船客たちの、苛酷な戦いが開かれた瞬間だった。
「本船の隔壁は完全防水です。皆さん、冷静に。救助を待って下さい」
生き残ったパーサー(客船事務長)の言葉である。
〈生〉と〈死〉を分けた大惨事のスポットが、一瞬、不気味な静寂を保持している渦中に投げ入れられたのだ。
ここから、多分に自信過剰な面があるが、一人の男の合理的な判断力による救助劇が切り拓かれていく。
その男の名は、スコット牧師。
「ひざまずいて、神に祈っても、全て上手くいくとは限らない。祈っても、真冬のボロ家が暖かくはならん。寒い時は、家具でも家でも燃やせ。教会も祈りだけの場所ではない」
そんな型破りな合理的思考を持つが故に、司教から聖職の特権を奪われ、アフリカにまで左遷されていて、現在、懲罰を受けている男・スコット牧師の言葉である。
「苦しい時に、神に祈るな。勇気を持って、勝つ努力をせよ。神は努力する者を愛す。自力でやることだ。『内なる神』も、一緒に戦ってくれる」
船のデッキで、多くの船客たちに、そんな説教をする男なのだ。
その男がリードする救助劇は、船底が海面に現われているので、海面の下にいる現在位置から、船底に向けて登っていく移動が始まった。
「自殺行為だ!」
こんな反論を唱える船客は、「動かず、救助を待った方がいい」と言う、パーサーの説得に従ったのである。
「助けてもらえる所まで行かなきゃ!上に行けば命がある」
そう言って、スコット牧師らは、足を負傷していたエイカーズ(船のボーイ)がいる、転覆したポセイドン号の上部に向おうとする。
船底に近い上部に進んでいくスコット牧師と、9人の船客たち。
巨大なクリスマス・ツリーを上部に立てかけ、それをよじ登っていくのだ。
それでも、動かず、救助を待つ多くの船客たちがいる。
「ブリッジにいた者は、皆死んだ。彼らは水の中だ!助かりたいなら、力を合わせるんだ。一緒に行こう!船は沈む一方だ!そこにいれば、確実に死ぬ!」
スコット牧師は、こう叫んで、行動を共にすることを呼びかけたが、「牧師は船のことを知らん!」と叫び返し、彼らは、「動かない」という消極的な行為を選択したのである。
この二つの選択の成否は、まもなく、悲惨な結果として現出する。
キッチンボイラーが爆発して、あっという間に、「動かない」という行為を選択をした人々の命を奪ってしまったのである。
2 「私たちは、神に頼らず、自力でここまで来た!だから邪魔するな!」
エイカーズがいることで、船内の位置の特定が容易になったことは幸いだった。
船底に向かって進む、10人の先頭に立つスコット牧師は、狭い換気塔を経由し、“ブロードウェイ”と呼ばれる従業員通路を通り、未知のゾーンでの苦労を重ねつつ、エンジンルーム(機関室)に辿り着くための、言語を絶する闘いに挑んでいく。
下から猛烈な勢いで押し寄せて来る水流との、一刻を争う、「命を繋ぐ」ための闘いを強いられるのだ。
突然の爆裂音で、エイカーズが換気塔に落ち、激しい水流に呑み込まれていった。
一行の、最初の犠牲者になったのは、「脱出行」の「戦力」として貴重なエイカーズだった。
そのエイカーズを救うために、自ら水流の中に潜っていったニューヨークの刑事・ロゴの自分勝手な行動を非難する、スコットとの対立が一気に表面化し、激しい口論が炸裂する。
それは、”ブロードウェイ”に辿り着いたとき、自分たち以外に生きている船客たちと出会ったスコットが、船首に向かって進む行動を制止させようとしたことで、ロゴとの確執を生んだもの。
「なぜ分る?見て来たのか。何でも独断だ!あれだけの人数が行くんだ。正解かも知れん!」
「20人が死のうと言えば、死ぬのか!おめでたいよ!」
「時間は15分だ。戻らなかったら船首に行く」
ロゴとの約束を了承したスコットは、船尾の方に向かっていくが、15分を経過してもスコットが戻って来ないので、約束通り、船首に行こうとしたロゴたちの前に現れたスコット。
「あったぞ!見つけた!機関室を見て来た。道も分った!」
この時点で、姉のスーザンと共に、欧州へ遊びに行く予定だったロビン少年の行方が分らなかったが、水流に呑まれた少年を救済したスコットのエピソードを経由して、このスコットの一言で、一行は船尾に向かっていく。
ハッチ(船室へ通じる昇降口)に辿り着き、機関室に向かう一行に待ち受けていた次の受難は、10メートルほどある浸水の中を通過することだった。
ロープを張るために、スコットが先頭になって浸水に飛び込むが、途中、鉄板が障害になり、そこを抜けられず、命の危機に遭遇するに至った。
そんなスコットを救助したのは、学生時代に潜水大会で優勝したことがあると自負する、ベルだった。
しかし、肥満体で心臓疾患を持つ彼女は、スコットを救助した直後、心臓発作を起こして息を引き取ってしまう。
その事実を、ロゴの苦渋な表情で察知したローゼンは、矢も盾もたまらず、浸水の中に飛び込み、愛妻の死を目の当たりに見て、深い悲嘆に暮れるが、一行には、今や、哀悼の意を表現している時間などなかった。
ポセイドン号の転覆事故で、兄を亡くした絶望感の中で、雑貨商のジェームズに励まされながら、浸水の中を恐々と突き抜けんとする、金槌の女性歌手・ノニーを含めて、一行はロープ伝いに、浸水を通り抜けていく。
浸水を通り抜けた一行は、プロペラ・シャフト(エンジンの駆動力をプロペラに伝達する重要部品)室に最近接しながら、突然の爆発で、ロゴの愛妻・リンダ(元娼婦)が、燃え盛る火炎の中に落下し、命を落としてしまう。
三人目の犠牲者である。
愛妻の死の衝撃で、辛うじて繋ぎ止めていた理性を失ったロゴは、スコットを難詰し、喚き散らすだけだった。
その思いを誰よりも受容するスコットは、自らが拠って立つ、「神」への「プロテスト」の言葉を結ぶのだ。
「まだ足りないのか!私たちは、神に頼らず、自力でここまで来た!助けは請わない。だから邪魔するな!何人、生贄が欲しいんだ!」
スチーム・パイプ(蒸気管)の破裂で、辺り一面に蒸気が蔓延し、殆ど〈生〉と〈死〉のボーダーが見えない極限状況下で、激しい情動を炸裂させる一人の牧師が、そこにいる。
スチームパイプのバルブに全身を預け、必死に蒸気を止めるのだ。
それを見守る生存者たち。
スコットの人格に心酔し、尊敬してきたスーザンは、泣き叫びながら、自ら救助に向かおうとするが、もう手遅れだった。
「何をする!止めろ!あの人は死んだんだ!」
雑貨商のジェームズが、必死に止める。
そのジェームズは、その気迫で、意気消沈しているロゴに向かって難詰する。
「警察官のくせに、初めから文句ばかり、やたらに怒鳴りちらして!たまには、役に立って下さい!諦めて泣くだけですか!だらしがない人だ!」
ここまで言われてしまえば、ロゴが動かない訳がない。
男のプライドラインに振れた雑貨商の難詰に、ロゴは、一言、毅然と言い放った。
「分った。もう言うな」
かくて、スコットに代わった新しいリーダーが、今や、6人になってしまった生存者の先頭に立ち、艱難な歩みを結んでいく。
遂に、一行はプロペラシャフトを抜け、船底に辿り着く。
船尾軸路だから鉄板が薄いので、ここが、船の最後尾にあたるのだ。
「2センチ少々です」
ポセイドン号の構造に詳しい、ロビン少年の言葉である。
船外から、船の鉄板を叩く音が聞こえたのは、この時だった。
ロゴは、船底の鉄板を、繰り返し叩き続ける。
諦めずに叩き続けた結果、船外から、明らかに、呼応する機械音が聞こえた。
「牧師の言う通りだった。あの野郎の」
彼らの命が繋がり得る反応に笑みを見せる、ロゴの言葉である。
船底の鉄板が、ガスバーナーで焼き切られていく状況を目の当たりにして、6人の生存者の表情から、言葉にならない喜びと、そして、大切なパートナーを喪った思いが交叉する複雑な感情が滲み出ていた。
ラストシーン。
艱難辛苦(かんなんしんく)の果てに辿り着き、今、僅か6人の生還者たちは、ヘリコプターで救助され、大空へと舞い上がっていく。
喪ってはならない者を喪った悲嘆によって、その後、「サバイバーズギルト」(生存者罪責感)のトラウマ反応に捕縛されるかも知れないが、運良く生還し得た一行の、命を繋ぐためのサバイバルの闘いは終焉したのである。
3 「ニューシネマ」の臭気が立ち込めた「パニック映画」の頂点を極めるエンタメムービー
噴煙を上げる御嶽山(ウィキ) |
そして、運良く命を拾った者たちが、なお、命を繋いでいく可能性もまた、「運・不運」の問題に委ねざるを得ないということ。
この把握が、私の問題意識のコアにある。
しかし、そればかりではない。
命を拾った者たちが、刻々と迫ってくる死のリスクの高まりの渦中にあって、そのリスクを軽減させる余地があったということ ―― これが決定的に重要だった。
そこに、人間の能力の介入の余地が拾えるからである。
自分たちが置かれた極限状況下で、合理的に判断し、その判断に基づいて果敢に行動するという、自助努力の可能性が残されていたこと ―― これが、何より大きかった。
彼らの果敢な行動を保証するのは、「絶対に命を繋ぐ」という気力の一点である。
この気力に加えて、より、体力に勝る者が有利に働くだろう。
「子供よりも大人」、「女性よりも男性」、そして、「高齢者よりも壮年・若者」である。
しかし、そこにもまた、「運・不運」の問題が介在するから厄介だった。
何が起こるか分らないのだ。
彼らは、丸ごと、未知のゾーンにインボルブされてしまったからである。
然るに、その男・スコット牧師は、「スーパーマンもどき」であっても、残念ながら、「全身スーパーマン」ではなかった。
「全身スーパーマン」は死なないが、「スーパーマンもどき」は死ぬのである。
人間であるからだ。
だから、スコット牧師は死んだ。
それだけである。
それだけであるが、その死は殉教だった。
人間には、「スーパーマンもどき」に化け得る、「英雄物語」への侵入の余地が残されているのだ。
だから、幾人かの「恐怖支配力」という胆力を占有する者だけが、覚悟を括って、恐怖の前線に自己投入するのである。
スコット牧師もまた、そんな男の一人だったという訳だ。
ここで簡単に、そのスコット牧師の行動規範を成す精神的バックボーンを要約すると、以下の文脈に収斂し得るだろう。
即ち、リベラルな「自由主義神学」(信仰的自由主義)や「福音派左派」と切れて、「聖書中心主義」と言っていいほど、聖書の一言一句を重んじる「聖書信仰派」である保守的な福音派が、1980年代前後に一気に台頭し、アメリカのキリスト教運動(宗教右派運動)の重要なポジションを占有しているが、この映画でのスコット牧師の位置づけは、それ以前のベトナム戦争の「悪夢」で、精神的に被弾した「神への絶対信仰」の崩壊に睦み合うような、「異端性」の臭気を、凛として放つ説教に顕在化しているように、アメリカのプロテスタントの建国精神である、「人生は自ら切り拓け」という能動的メンタリティを体現する人格像であると言っていい。
「自助努力」なしに、安直に、神を頼るな。
何もかも、神に委ねるな。
従って、「福音伝道の実践」・「聖書中心主義」・「キリストの恩恵への十字架中心主義」などという、福音派の正統派と識別されるテーゼとも無縁であった。
ただ単に、この男は、「神への絶対信仰」という幻想体系に、丸ごと自己投入する、非合理的な行動規範と完全に切れた、能動的メンタリティの身体表現を行動規範にする、精神的バックボーンを開示しただけなのだ。
その能動的メンタリティこそ、ある意味で、この国のプロテスタントの建国精神を等閑(なおざり)にしてきたメンタリティの復元であった。
ここで、本作の肝でもある、スコット牧師の、神への「プロテスト」のシーンの意味を、改めて考えてみたい。
まず、あの極限状況下で、事態を打開する方法は、ただ一つ。
それは、一行の行く手を阻む蒸気の噴出を止めること。
その行為は、物理的に生還できないことを意味する。
しかし、それを遂行しなければ、生存者の命を、なお、繋ぐ可能性が断たれてしまうのだ。
そのことを、誰よりも理解していた男が、自らを人身御供(ひとみごくう)にして、この苛酷な行為に自己投入する以外になかった。
スコットはそのとき、瞬時に判断し、実行する。
「牧師である自分の命と引き換えに、これ以上、一人たりとも、犠牲者を出さないでくれ」
そのとき、彼が叫んだ神への「プロテスト」の言葉の本質は、ここにある。
だから、この神への「プロテスト」は、殉教を選択した牧師として、神への最終的な帰依の表現と考えたい。
「神への絶対信仰」という幻想体系に、どっぷり漬かっていなくとも、彼は神を呪った訳でもないし、否定した訳でもないのだ。
だから、多分に、ニューシネマの影響が色濃い時代での「パニック映画」の出現が、多くのアメリカ人たちによって受容されたのだろう。
存分に綺麗事に流れない物語の構成力が、この映画の魅力であり、時代が変わっても色褪せない、求心力の強度を高めている。
この映画は、「絶対死なない『全身スーパーマン』が奇跡を起こし、『善き者』を救済する」という、旧来のハリウッド文法を、一見、トレースしているように見えるが、極限状況にインボルブされた者の命の保証と、運良く命を拾った者たちが、なお、命を繋いでいく可能性もまた、「運・不運」の問題に委ねざるを得ないという要素を挿入したことで、旧来のハリウッド文法から相対的に解放されているのだ。
ニュー・シネマの眩い輝きが、この映画にも、脈々と受け継がれていたのである。
言うまでもなく、果敢な行動を繋ぐ者たちに、不断に襲来する危機の渦中にあって、彼らが「状況突破」の可能性を拓き続けるとき、もう、そこには、「人柄」、「社会的地位の高さ」、「財産の多寡」などと言った末梢的問題などは、一切、係合し得る何ものもない。
誰が生還するかという問題に、いつでも、根柢的に関わってくるのは、「運・不運」の問題であるからだ。
その辺りを、些か暑苦しいが、人間ドラマの要素を包含させつつ、構築し得た映画のリアリズムこそ、この映画の生命線だった。
(2015年2月)
こちらの解説を読み、子供の頃に見た「ポセイドン・アドベンチャー」は、こんな深い話だったのかと感銘を受け、昨晩夜中に鑑賞してしまいました。
返信削除確かに、ジーン・ハックマン演じる牧師の言葉が重要ですね。
また、驚いたのは、「タワーリング・インフェルノ」に並び私の中では、超有名な映画なのに、はじめのレストランの災害シーン以外は非常に地味な作りだったという事でした。メイキングで話していたように、当時としては大きな映画だったのかもしれませんが、私の感覚では、やはり小品という感じがしました。
そういう時代だったのでしょうか。
それから、レスリー・ニールセンがあんなかっこいい役で出ているとは・・・裸でなくて良かったですね。
また、フライトナイトのおじさんも名優だったという事が分かりうれしくなりました。
何と言っても、ジーン・ハックマンですが、引退してずいぶん立つのが惜しいですね。ではでは。
いつもコメントをありがとうございます。
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