1 テヘランに「帰郷」した男と、その男を迎える女の複雑な事情
パリの空港にやって来た男が、自分を待つ女を苦労の末、視認するが、ガラス戸越しで会話しても、その会話の内容は、本人たちにも充分な意思疎通が取れているように思えない。
当然、観る者には、二人の声がガラス戸によって消されているので、会話の内容など分りようがない。
だから、ジェスチャーで男を指示する女の非言語コミュニケーションによって 男が動き、土砂降りの雨の中を、恋人から借用した女の車に乗り込んでいく映像をフォローするだけとなる。
この印象的なファーストシーンンは、物語の登場人物たちの言語交通が円滑に機能しない関係の構造性を隠喩していて、観る者を一気に惹きつけるのに充分な導入だった。
女の名はマリー。
男の名はアーマド。
マリー |
如何にも子供好きなアーマドが、マリーの自宅で出会った二人の児童。
一人は、リュシーの妹のレア。
もう一人は、アーマドと初対面のフアッド。
その二人の子供と対面し、言葉を交わすアーマドが、母国のイランからフランスに来た目的が、かつての妻であるマリーの要請で、家裁での正式な離婚手続きをするためであることが、まもなく判明する。
それは、現在、別の男と同棲中のマリーにとって、どうしても回避できない手続きだった。
マリーの自宅に来て、アーマドがいきなり見せつけられた風景は、ペンキを零して部屋を汚したフアッドをしかり、外に逃げる少年を追い駆け、その激しい抵抗を押さえ込み、捕捉して部屋に監禁するマリーの異様な行動だった。
「家に帰る!ママでもないくせに!」
激しくドアを蹴って抵抗するフアッドの叫びである。
この時点で、フアッド少年が、マリーと同棲中の男の連れ子であることが判然とする。
一方、マリーは、同棲相手の男が、パリ市街で経営するクリーニング店に会いに行き、アーマドが到着したことを告げ、車の免許証を戻した。
同棲相手の男の名はサミール。
マリーに頼まれたアーマドが、帰宅して来た娘のリュシーと話したのは、その夜だった。
「あのバカの顔を見たくないだけ」
リュシーから発せられた最初の言葉である。
「悪い男なのか?」
「別に・・・子供もいるし、妻は植物状態よ」
「フアッドのママか?」
頷(うなず)くリュシー。
「相手が他の男だったらいいのか?」
「同じよ。私が生まれてから、ママの夫は3人目。どの夫も同じ。出会って、数年暮すと出ていく」
途中でマリーが帰宅したので、この会話は中断されたが、ここで重要なことが明らかにされる。
母へのリュシーの反発が、植物状態になっている妻・セリーヌを持ちながら、マリーと同棲するサミールへの反発と重なっていること。
更に、アーマドがマリーの二番目の夫であり、何某かの事情で離婚し、母国イランに戻ってしまったという事実である。
「君の再婚を喜べなんて、僕にはとても言えない。再婚を決める前に、あの子を説得した方がいい」
リュシーとの話の一部を、マリーに説明したときのアーマドの言葉である。
「あの子の考えが知りたいだけ。もう決めたの」
サミールの子を妊娠しているマリーの反応である。
まもなく、家裁において、二人の離婚は成立するが、あとは判事の裁可を得るだけの状況になった。
そして、この一連の〈状況性〉の映像提示の中で判然としたのは、フランスでの生活に適応し得なかったアーマドが自殺を考えるほど煩悶し、テヘランに「帰郷」してしまったと想定できる現実である。
2 「物言わぬ女」が動かす物語で曝された裸形の相貌性
「自殺未遂」
サミールの妻・セリーヌが植物状態になった原因を、リュシーは一言で答えた。
「鬱病のせいで?」
アーマドの質問に、突然泣き出すリュシーは、アーマドの友人・シャーリヤルの店の控え室で、静かに吐露する。
「なぜ、自殺を内緒にするか分る?ママは怖いの。自分が自殺の原因だから・・・だから、一緒になって欲しくない。二人が再婚したら、あの家に二度と戻らない」
嗚咽の中で語っていくリュシーが、母の妊娠をアーマドから知らされ、その衝撃を抑えられないのだ。
「あの男が好きなのは、あなたに似ているからよ」
別れ際、リュシーがアーマドに放った言葉である。
置き去りにされたアーマドに、マリーはセリーヌの状況を説明する。
「奥さん、ずっと鬱だった。お店に行くたびに鬱が進んでて・・・」
「なぜ鬱に?君を見て悪化したのかも。5歳の子の母親が、鬱だからと自殺するかな」
この言葉に反発するマリー。
「よく言うわ。自分のこと、忘れた?奥さん、子供が9カ月のときにも自殺未遂を。鬱は出産直後に始まったの」
リュシーの言葉に重なるようなこの会話の中で、マリーとアーマドとの離婚に至る心理的風景が垣間見えるが、一切は不分明である。
「まだ、終わってないように見えるが」
アーマドへのサミールの言葉である。
「なぜ、そう思う?」とアーマド。
「4年経っても喧嘩するんだ。まだ終わってないさ」とサミール。
それを否定するアーマド。
「俺の子を妊娠ているのに、ストレスで煙草ばかり・・・」
サミールの鋭い指摘に対して、アーマドは本音を吐露する。
「それは僕も心配だ。前は吸わなかった」
そう言った後、アーマドは、サミールの妻・セリーヌの問題に触れていく。
「奥さんの自殺の原因を憶測した」
「自分の母親の浮気が原因と?」
「そうだ」
「勘違いだな。お客とバカな事件を起こしたからだ」
「鬱病では?」
「鬱じゃなければ、あんなことで自殺しないさ」
これだけの会話だが、観る者を心理ミステリーの世界に引き込んでいく物語の展開は、益々、冥闇(めいあん)の森に踏み込んでいくようだった。
その日、リュシーの帰宅が遅れ、心配する3人の大人たち。
結局、先の店主・シャーリヤルの所にリュシーが居たことが判明し、シャーリヤルの自宅に連れ帰ったということだった。
このリュシーの撒いた種が、3人の大人たちを混乱させるのだ。
とりわけ、セリーヌの自殺未遂の原因が自分にあるという空気に対して、激しく感情的に反発するマリーは、殆どヒステリックになっていた。
シャーリヤルの自宅に赴いたのは、アーマド以外にいなかった。
今夜は帰らないと言うリュシーの話し相手になったのも、当然、アーマドである。
「奥さんがご主人の店に行って、子供の前で洗剤を飲むって何?ただ、死にたいからって、ベッドで薬を飲めば済むのに・・・」
その話を聞き、憶測で判断することを回避しようとして、アーマドは、直接店に行って、サミールの店の従業員・ナイマの話を聞きに行くことにした。
サミールの店。
リュシーを随伴したアーマドは、ナイマの話を聞いていく。
その話の要諦(ようてい)は、服についた染みの一件で、セリーヌがお客と喧嘩になったという、サミールの説明と重なるものだった。
警察沙汰になることを怖れる不法労働者・ナイマの話を確認することで、少なくとも、サミールとマリーとの不倫関係との疑惑とは無縁な印象をリュシーが持ったことは事実である。
「これが自殺の原因さ。悩む必要はなかった」
俯(うつむ)くだけのリュシーに、アーマドは話しかけるが、リュシーも「真実」を打ち明ける。
「自殺未遂の前日、ママとサミールのメールを奥さんに送ったの・・・」
封印していた事実を打ち明けるリュシー。
ナイマの話が、少女の内面を突き刺していくのだ。
ナイマの話が、少女の内面を突き刺していくのだ。
「私のせいで、奥さんが死んだ人とは住めない」
自殺未遂の事情はどうであれ、自分が送ったメールが原因で、一人の女性を植物状態にした現実を受け止めるには、このような贖罪的行動に振れるしかなかったのだろう。
少女を説得し、その事実を母とサミールに説明することの重要性を迫るアーマド。
その結果、母・マリーが書いたメールを読み、それをリュシーがセリーヌに転送した事実を知ったマリーは激昂し、「家を出て行って!」とまで娘に吐き捨てるのだ。
必死に宥(なだ)めるアーマドに不満をぶちまけるマリーは、今度は、「元夫婦」の間で激しい口論が惹起される。
アーマドの言葉によれば、マリーがこの厄介な時期に、敢えて自分をイランから呼び出したのは、自分を捨てた「復讐」であるということ。
一方、リュシーは、別れた実父が住むブリュッセルに帰ろうとするが、冷静になったマリーが止め、家に戻した。
事実を告げに行くためである。
しかし、クリーニング店を兼用した自宅で、マリーが見たものは、病院にいるセリーヌが使用していた香水を届けにいく準備をするサミールの姿だった。
「まだ奥さんを?」
「今頃、分ったのか」
「いいえ。ずっと前から」
「いつから?」
「前から感じていたけど、言えなかった。自信がなくて」
「何を感じてた」
「私が奥さんの穴埋めみたいな」
「なら、俺は誰の穴埋めだ?」
「誰も」
「本当か?失敗した結婚を立て直すためでは?」
「だったら妊娠しない」
「あれは事故だ」
「まだ中絶も」
「あの男が忘れられず、新しい人生を始めて、うやむやにしたいんだろ。だから、奴を家に泊めた。俺が気づかないと思うか?奴を見るお前の目!」
「奥さんの自殺の原因は・・・私たちの関係を・・・」
「よせ。お前の娘の嘘だ!疑いがあれば、女房は俺に聞く・・・俺は疑って欲しかったね。他にも女がいると」
本作の中で、最も重要な会話である。
結局、お互いの感情の空洞感の在り処を確認する虚しい言語交通は終焉するが、セリーヌの自殺未遂に拘泥するマリーは、帰りかけた脚を止め、サミールのところに戻っていく。
「リュシーがメールを奥さんに」
マリーは、それまでリュシーが隠し込んできた最も重要な情報を、サミールに報告する。
直接、その事実を確かめて欲しいと求めて、マリーは帰宅していく。
サミールの店。
そこで明らかになったのは、リュシーが送ったセリーヌへのメールアドレスは、クリーニング店への電話によって直接聞いたとしている「真実」(主観が含まれる)が、「事実」と相容れないことだった。
なぜなら、その日、セリーヌが店に出ていなかったのだ。
真相は、自分が不法労働者であるにも拘わらず、店主であるサミールに厚遇されているという主観的決めつけによって、サミールとの不倫関係を疑われ、そのことで嫌われていると信じ込んだ従業員のナイマが、セリーヌの振りをして、リュシーにメールアドレスを教えたということだった。
ナイマから告白され、それを知ったサミールは、ナイマを平手打ちし、即座に馘首する。
この行為は、サミールとの不倫関係の相手と決めつけられたナイマの、それ以外にない自己防衛的行為であるとも言える。
「メールは読んでません。なぜ、私の前で洗剤を飲んだと?読んでたら、薬局で死ぬわ」
馘首されたナイマのこの捨て台詞が意味するのは、たった一人の植物状態になった女性によって動かされてきた物語の中心的テーマ、即ち、「なぜ、セリーヌが洗剤を飲んだのか」という、これまでの顛末を根柢的に破壊するのに充分な情報だった。
結局、肝心な情報は何も分らないまま、物語は推移していく。
「もう、過去は振り返らない。忘れて」
全てが終焉し、帰国の前に、自分がイランに一方的に戻ってしまった過去の理由を話そうとするアーマドに対して、マリーはこう言い切った。
彼女にとって、「捨てられた者」の空洞感・寂寥感を癒すためにか、サミールとの不倫関係を繋いだとも思える出来事は、今や、単に一つの「過去」でしかないのだろう。
必要以上に「過去」に拘泥し、引き摺っているように見えるアーマドとのこの距離感こそが、むしろ、彼の一方的な「帰郷」の心理的背景にあるように見える。
アーマドの帰国する日。
子供たちに笑顔が戻ってきた。
あれほど反抗し、傷つき、悩み、嗚咽の日々を繋いだリュシーにも笑顔が戻っている。
母・マリーとの和解のイメージが、既に映像提示されていた。
ラストシーン。
「残念ですが、無反応でした」
セリーヌの担当医の言葉である。
病院に見舞いに来たサミールは、妻の植物状態の現状に何の変化も見えない事実を知らされる。
彼は持参した複数の香水の瓶の箱を抱え、病室をあとにした。
しかし、その瓶の箱を抱えたまま、再び、妻の病室に戻っていく。
動かない妻がそこにいる。
「匂いがしたら、手を握ってくれ」
固定カメラは、夫の手を握っているように見える、妻セリーヌ・の真っ白な手を映し出した。
「物言わぬ女」が動かす物語のラストカットである。
―― 誰が何を言おうと、私はこの作品のラストシーンを、チープで感傷的な括りであるとは考えない。
なぜなら、このシーンの伏線が、既にマリーとの会話の中で張られていて、サミールの心理も理解できる。
そして、脳死と植物状態の違いという問題とは無縁に、何より、「生と死の狭間というテーマについて掘り下げたかった」と語る作り手の問題意識が強く反映されていると考えるからである。
3 事態が惹起した「過去」の重みの記憶に翻弄される者たちが刻む風景
非日常の厄介な事態が惹起する。
その事態に関与する者たちは、事態が惹起した「過去」の重みの記憶に引き摺られ、それが彼らの「現在」を動かし、翻弄する。
翻弄する者の中に子供がいるから、余りにも見るに忍びない。
サミールとフアッド |
更に言えば、その事態に関与する者たちの「過去」の重みの記憶が曖昧であるが故に、自分の都合のいいように「記憶の再構成的想起」が相互に交錯し、そこでの感情動向が、彼らの行動を規定し、それぞれに異なる微妙な差異を隠し込んだ〈状況性〉のうちにインボルブされていくのである。
だから、コミュニケーションも円滑に機能しない。
円滑に機能しないから、意思疎通が取れにくくなる。
意思疎通が取れにくくなれば、顕著な利便性をもたらしたテクノロジーの発達の所産である、「我つながる故に我あり」 という時代環境下にあって、「近すぎず・遠すぎず」という適切な関係の保持(ゴルディロックス効果)が困難になる。
この困難さは、ある意味で、情報の「共有」の困難さであると言っていい。
「近すぎず・遠すぎず」という適切な関係の保持を継続できなくなれば、かえって孤独を深めてしまうのである。
テクノロジー(映画ではメールに象徴)の加速的で顕著な発達は、「我つながるが故に我あり」 という時代環境の中で呼吸を繋ぐ私たちの自我が、孤独に耐える能力を培ってきていないからである。
孤独に耐える能力を培ってきていないと、相手の末梢的なメッセージに拘泥してしまい、相手の〈状況〉を充分に理解した上でのコミュニケーションの成立は難儀するだろう。
例えば、フェイスブックでの交流を深めたり、ツイッターのフォロワーを増やすことに専心する行為に馴致(じゅんち)してしまう日常性の中で、それらのツールでの減速傾向を感じてしまうと、「誰も聞いてくれない感情」が沸騰し、自らが置かれた〈状況〉を客観的に理解し得ずに、一層、孤独を深めてしまうに違いない。
人間とは、実に厄介な生物体である。
まして、そんな人間が形成する人間関係が、非日常の厄介な事態にインボルブされてしまったら、もう、相互の交錯が入り乱れ、〈状況〉での防衛的、乃至(ないし)、自己基準的な振る舞いの渦中で、行動と感情を乖離させる表現を、時として露呈するのだ。
当然ながら、行動と感情は、必ずしも一致するとは限らない。
一つの行動の中に、人間の持つ感情世界が、すべて投影し切れないからだ。
映画で言えば、マリーとサミールの関係の様態が、まさに、この行動と感情の不均衡性として表現されていた。
彼ら(とりわけ男の場合)は、自らの〈現在性〉を覆う空洞感を癒すために相手を求め、そのあげく、本意ではない妊娠という、「絶対に逃げられない状況」の渦中にインボルブされたが故に、束の間だったが、殆ど形式的とも思える、「再婚」という決定的事態のうちに封じ込められてしまうのだ。
「まだ奥さんを?」
「今頃、分ったのか」
「私が奥さんの穴埋めみたいな」
「なら、俺は誰の穴埋めだ?」
「あの男が忘れられず、新しい人生を始めて、うやむやにしたいんだろ。だから、奴を家に泊めた。俺が気づかないと思うか?奴を見るお前の目!」
それ自体、驚きを隠せないが、人間とはそういうものなのだ。
本質的な情感交通を回避したい心理の根柢に、本質的な情感交通・言語交通に踏み込むことで、自らが被弾するダメージを極力受けないような意識が自我に張り付き、それが行動に結ばれてしまうのである。
本質的な情感交通・言語交通への踏み込みによって、孤独を深めてしまう感情の膨張に耐えられないのである。
「本物の会話」の不足。
これが、二人の間に横臥(おうが)していたのである。
ここで注目したいのは、「俺が気づかないと思うか?奴を見るお前の目!」というサミールの声高な誹議(ひぎ)に対し、マリーはセリーヌの自殺未遂の問題に話を逸らして答えなかったことである。
なぜなのか。
本当に、サミールの言うように、「あの男が忘れられ」ないのか。
正確に言えば、少し違うと思う。
ではなぜ、5年も経って、委任状を持参した弁護士でもいいのに、イランに帰国したアーマド本人をマリーは呼び寄せたのか。
アーマド本人は、「円満に別れたい」と言うが、それはどこまでもアーマド自身の問題である。
ここでは、マリー自身の行動動機である。
こういうことだろう。
思春期になって、3人目の「父」を迎えることに激しく反発するリュシーとの関係が、今にも家出しかねないほどに最悪の状態を呈していて、それでなくとも、薬剤師としてのキャリアウーマンであるマリーを囲繞する〈状況〉の負荷は、彼女の能力の限界を超えていた。
そして、マリーは、3人目の「夫」になるサミールとの間に胎児を身ごもっているから、新たな生活設計を喫緊の課題とする負荷がかかっている。
加えて、そのマリーの自宅には、同棲中のサミールと、自殺未遂で植物状態にあるセリーヌとの間に産まれた子・フアッドを預かっているのだ。
部屋を平気で汚すフアッドへの養育環境の劣化を目の当たりにして、マリーのディストレス状態(ストレス処理が困難な精神状態)は、抑制し得ないほどに感情の炸裂が露わになっていた。
要するに、自らの能力の限界を超える〈状況〉に搦(から)め捕られていたマリーは、援助行動を切に求める心境に達していたのである。
マリーへの援助行動を具現する格好の人物こそが、子供に懐かれる温和な性格を有するアーマド以外に存在しなかった。
だから、アーマドをイランから呼び寄せたのである。
感情の起伏が激しいように見えるマリーと、何事にも生真面目なアーマドとの性格の違いは、5年ぶりの再会の直後に、ホテルの予約の一件での噛み合わない会話の中で露呈されるが、約束を守ってフランスに戻って来たアーマドとの出会いで見せたマリーの笑みには嘘がなかった。
そこには打算がない。
異性感情もない。
過去に執着しないのだ。
過去に執着しない女は、恐らく鬱病の発作で洗剤を飲み、植物状態になった妻への未練が断ち切れない男の心の風景を見てしまう。
その男・サミールは、もう、女のフェロモンの臭気に吸引されなくなっているように見える。
その女・マリーには、男との〈共存〉の継続力を担保する能力が不足しているように見える。
それは、男の心を安寧に導く何か、例えば、社会心理学で言う「対人魅力」が脆弱なのかも知れない。
マリーのパーソナリティ、即ち、彼女の「個人的特性」や「態度の非類似性」による違和感が、恋愛関係にある異性との〈共存〉の継続力を保証し得ないのか。
一切は不分明である。
不分明であるが、そのように考えない限り、行動と感情の不一致を累加させてきた男と女の心の風景が理解し得ないのである。
そんな男と女が垣間見せる、大人の関係の様態を目の当たりにした思春期の少女の、その心の風景はあまりに痛々しかった。
マリーの長女・リュシーである。
ふしだらな家庭作りに我慢できないのは、思春期の少女の視線から見れば当然の反応であると言っていい。
まして、マリーの3人目の「父」になる男の妻は、自殺未遂によって植物状態になっていて、その原因が母のふしだらな振る舞いに起因すると信じるから、とうてい認知できようがなかった。
「二人が再婚したら、あの家に二度と戻らない」
リュシーは、そう言い切った。
それでも、リュシーの嗚咽は止まらなかった。
そこには、母に対する反発の感情のみでなく、その時点で、アーマドに告白できない罪の意識が媒介されているのだ。
後に救済されるに至るが、自分が送ったメールがセリーヌの自殺未遂の原因であると信じ切っていたから、余計に辛いのである。
セリーヌの自殺未遂という厄介な事態は、16歳の少女をここまで追い詰めていく。
しかし、母の妊娠を知って、遂に外泊してしまう少女の心の振れ幅は大きく、見るに忍びなかった。
そして、メールの一件をアーマドに告白し、少女の嗚咽は煩悶の極点に達する。
このシーンの切なさに、観ていて震えが走る。
その辺りを精緻に描く人物描写は出色である。
サミールの心理の振れ幅にも簡単に言及したい。
セリーヌの鬱病が出産直後に始まったという事実の重みは、彼女の子供(フアッド)が9カ月のときにも自殺未遂をしたという事実によって、より、彼女の病理の現実の蓋然性(「確からしさ」)が増すだろう。
この事実は、セリーヌに抗鬱剤を処方していたマリーが最も知悉する事柄だった。
恐らく、セリーヌの自殺未遂には、物語の中で翻弄され、動かされた人物たちが、それぞれ自己防衛的な憶測で語り、振る舞う行為とは無縁であったのだ。
思うに、鬱状態で苦しんだであろうアーマドの帰国が、前述したように、マリーの「対人魅力」の脆弱性、とりわけ、彼女の「個人的特性」や「態度の非類似性」に対する違和感に起因する可能性を否定できないが、それでも、このアーマドの鬱病が、帰国という自己救済の手立てを選択するに足るエネルギーが残されていたと思える予測には、相当の「確からしさ」があると、私は考える。
然るに、エビデンスの正確性に欠けていると言えるが、最後まで曖昧になって閉じていく物語の中で、同様に曖昧さを残しつつも、セリーヌの自殺未遂が、鬱状態が極点に達した時に僅かに残されたエネルギーによって発作に及び、洗剤を飲んだと推測するには無理がないのである。
精神生物学(サイコバイオロジー)的に言えば、セリーヌの鬱病には、ストレス
耐性が脆弱な「セロトニントランスポーターSS型」(不安遺伝子)という概念で説明できるだろうが、こんな無粋な解釈は、徹頭徹尾、非日常の厄介な事態の惹起によって、人間の心理の振れ幅の大きさで翻弄される者たちの、情感交通・言語交通の困難さを描いた究極の映像宇宙を語ることの愚を晒すだけだろう。
然るに、セリーヌの鬱病の心理的背景を考える時、サミールとの関係性が全く影響しなかったとは、とうてい思えないのだ。
セリーヌの神経過敏な精神世界と十全に溶融し得なかったサミールが、地縁の近接度もあって知り合ったマリーと不倫関係を結んだとしても、特段に驚くべきことではない。
その事実を知る由もないセリーヌの、狭隘で閉塞的な精神世界と切て不倫関係を延長させた結果、求めもしない妊娠を「事故」とさえ言い切るるサミールにとって、マリーの存在価値は、彼の〈生〉の絶対的なアイデンティティを保証する何かではなかった。
そのことは、セリーヌの自殺未遂によって、いよいよ顕在化されていく。
複数の香水の臭気で、セリーヌの記憶を復元させようとするサミールの努力には、明らかに贖罪的観念が張り付いているが、そんな彼の心情が、その観念に収斂される以上の感情に補完されていると見るのは、決して誤読ではない。
マリーの妊娠を「なかったことにしてくれ」とも言い切ったサミールの〈状況〉のうちに、もう、マリーという異性が「特別な何者か」として掬い取れなくなった心的風景の象徴こそが、ラストシーンの意味だったと私は考えている。
アスガー・ファルハディ監督 |
【参考資料】 シェリー・タークル 「つながっていても孤独?」 アスガー・ファルハディ監督インタビュー
(2015年6月)
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