1 「夫を一人前の包丁侍にするべく、春は頑張ります」
全く厭味なく言えば、分りやすい映画の分りやす過ぎる着地点に流れ込むヒューマンな娯楽映画であるが、舟木家と、それをサポートする春の人物造形の成功と、一貫して安定した構成力により、極めて良質な作品に仕上がっていて、率直に感動した。
―― 以下、梗概。
江戸時代中期の加賀藩に、舟木伝内という名の男がいた。
息子と共に、加賀料理の優れたレシピ集・「料理無言抄」を著した「料理アーティスト」である。
足軽より低い下位の身分ながら、自らが仕える加賀藩の主君と、その家族の食事を賄うことで 、「包丁侍」と揶揄されつつも、親しみを持たれていたが、本人には、その才能の極点の表現スポットである、他藩の大名家の人々を持て成す豪華な「饗応料理」を仕切る仕事に最高の矜持(きょうじ)を有しているが故に、「料理一筋」の人生を全うすることができたのである。
「中期藩政改革」と呼称される財政改革と矛盾しつつも、この「饗応料理」こそ、藩の威信を示する特別なゾーンなのだ。
そんな男が、奇跡的な出会いを果たす。
実は春には、加賀藩から商家に嫁に出したものの、1年も経たぬうちに離縁された過去がある出戻り女中だが、生来の気丈さから、相当程度の打たれ強さがあるから、御前での能の舞いの場で、空腹感のためお腹を鳴らして嘲弄(ちょうろう)されても、決定的ダメージにはならないのだ。
舟木伝内が春に会ったのは、その能の舞いの場だった。
御前での能を舞った大槻伝蔵の「余興」として、舟木伝内の料理が藩主に提供されたのが事の発端であった。
そこで最初に出された、「鶴もどき」の汁の美味に関心を示した藩主は、この汁の「正体」(具材)を当てた者に褒美を出すという「余興」で、女中の春が物の見事に当てたのである。
「怖れながら、鶴はブリを乾かし、削って酒で戻したもの。出汁は蝦夷の昆布出汁に少々のみりん。醤油は恐らく、龍野の薄口醤油かと」(注)
見事に当てられ、言葉を失う舟木伝内。
その伝内が、春に息子の嫁に来て欲しいと申し込んだのは、この直後だった
息子の名は安信。
国元で「台所役」を務め、年は23と聞き、4歳年上の春は驚き、拒絶する。
伝内と春 |
この間、お互いの境遇を話し合い、意気が通じるに至った。
中でも、伝内が最も頼りにしていた長男を流行り病で喪った事実を、真剣に語る男の熱意に心を打たれたことが大きかった。
「春殿のお力で、あのできそこないを、一人前の包丁侍に仕立ててはいただきませぬか」
土下座してまで、春の嫁入りを求める武家の伝内にここまで言われたら、意志の強い春でも、拒絶するという選択肢がなかったとも言える。
言うまでもなく、「できそこない」とは、包丁侍の家に生まれながら、剣術にばかり熱心な23歳の安信のこと。
かくて、加賀の舟木家に嫁ぐ春。
これが、殆ど諦めの心情で春を嫁に迎えた安信の、手厳しい挨拶だった。
しかし、全くめげることがないばかりか、どこの土地でも順応してしまうようなオープンな性格の春の真骨頂が、北陸の大地でも眩いばかりに輝いていた。
そんな春が、お節介ながらも、夫の安信を料理の腕でサポートするエピソードがあった。
親戚が集まる「饗(あえ)の会」という名の会食の席で、安信の作った料理があまりに不味いために、「居酒屋にも劣る」などと、親戚から嘲罵(ちょうば)を浴びせられる夫を見て、急遽、春が手を加えた汁物に対し、異口同音に「美味い」と言って、舌鼓(したつづみ)を打つ親戚一同。
すっかり「包丁侍」としての面目を潰された安信が、春に遣り場のない怒りを炸裂させたのは必至だった。
「余計なことをするな。この古狸め!」
ひたすら謝罪する春に対する、安信の怒りは止まらない。
「妻女から自分の仕事に手を出されるとはな。所詮、料理など女子供の仕事、何とつまらぬ役目だ、包丁侍とは」
さすがに、ここまで言われれば、気丈な春も黙っていられない。
「ご自分のお役目を、そんな風に申されるのは聞き捨てなりません。つまらないお役目だと思っているから、つまらない料理しか作れないのではありませんか」
料理に関して特別な思いを持つが故に、「料理など女子供の仕事」などと罵倒されれば、そこだけは、女中の春の「プライドライン」を侵蝕せざるを得なかった。
もっとも、この春の反応は、「一人前の包丁侍に仕立てて欲しい」という伝内のたっての頼みを受容した春の、彼女なりの実践躬行(じっせんきゅうこう)の具現化だった。
かくて、「包丁の腕比べ」を提案する春。
「負けた時には、この古狸の料理指南を受けてもらいます」
「生意気な!よし、俺が勝てば、お前とは離縁だ。即刻、舟木家から出ていけ!」
相互の条件を呑んだ二人の勝負が、春の勝利に帰結したことは言うまでもない。
以下、「鮒(ふな)の刺身」の包丁捌(さば)きを競う勝負に勝った、舟木家の新妻・春の言葉。
「あなたは身を引く時の包丁が遅いのです。だから刺身の身が崩れ、醤油が余計に沁みる。魚の風味が損なわれてしまう」
米の研ぎ方から始まり、春が魚の絵を何枚も描いて、安信が、その絵に串刺す練習を繰り返していくのだ。
文字通りに、手取り足取りの厳しくも、愛情のこもった指南である。
「上達も早く、血は争えぬとはこのことでしょうか。その夫は、私を古狸と呼びます。しかし、何のこれしき、夫を一人前の包丁侍にするべく、春は頑張ります」(お貞の方への春の手紙)
まもなく、昇進を懸け、料理の出来を競う「すだれ麩(ふ)の治部煮(じぶに)」によって認知され、安信の出世が約束されるのだ。
言うまでもなく、「古狸の料理指南」の一つの結晶点だった。
ここまでは、分りやすい映画の分りやすいコメディラインで引っ張ってきた物語が、少しずつ、その風景を変えていく。
妻を「古狸」と呼び捨てる無骨な安信にも、春に言えないトラウマがあった事実が判然とするのである。
同年齢で、幼少時より、互いに好意を持っていた今井佐代という、剣術道場・「養心館」の跡取り娘がいて、道場一の腕前を誇っていた安信が、当然、養子入りするものと誰もが考えていた。
ところが、伝内の長男の死で舟木家を継ぐことになり、更に、道場一を決める試合で、気持ちが萎えていた心理もあって、ライバルであり親友の定之進(さだのしん)に敗北し、養子入りの一件は潰(つい)えたのである。
定之進に敗北することで、養子入りを諦めるつもりだったとも考えられる。
その話を、安信の母に聞かされた春の心の中枢に、何かと攻撃的な反応を見せた夫・安信の心の風景が捕捉されたのである。
江戸詰めの勤めから伝内が加賀に戻って来たのは、その頃だった。
以下、跡取りができて、隠居を決めた伝内の言葉。
「わしは、加賀の料理を集大成し、書にまとめようと思っている。加賀の料理の多士済々、百姓、町人の日々の食事から、唐の影響を受け、京のそれにも勝る懐石料理。その極みとしての饗応料理まで、それらの全てをな」
その饗応料理について、春に説明する伝内の心が安らいでいた。
しかし、その頃、肝心の安信は、「加賀騒動」の陰謀にインボルブされていた。
ここから瞬く間に、物語の風景が一変していくのだ。
(注)「西廻り航路」と呼称された「北前船」(きたまえぶね)の生みの親は加賀藩三代藩主・前田利常で、以降、蝦夷との交易が活発に行われていた。北海道の昆布出汁は今も特産品(日高昆布出汁)として有名である。龍野(現在のたつの市)の薄口醤油は、今でも指折りの特産品。
2 「料理アーティスト」のDNAを繋いでいく女の「男前」、その颯爽感
「加賀騒動」という血生臭いお家騒動が、一人前の「包丁侍」への自立と、それを強力にサポートする女の物語に入り込んできて、剣術好きな安信の本来の姿が目立ってくる。
「我らの改革も、いよいよ大詰めとなる。志を一つにして、皆、努力して欲しい!」
その藩士たちの中に安信が含まれていたので、厄介な事態になっていく。
「凄い料理人なのですね、あなたの父上は」
その夜、深刻な表情を見せる安信に、この春の言葉は全く通じない。
「所詮、包丁侍だ」
この一言で、夫婦の会話は繋がらず、その関係も遠ざかっていくばかりだった。
そして、大槻伝蔵を重用していた六代藩主・前田吉徳の死。
持病の心臓脚気により急逝したのである。
享年56歳だった。
足軽出身の大槻伝蔵を重用して改革を行なってきた、その後ろ盾の死によって開かれたのが、世に言う「加賀騒動」である。
「改革派と対立する加賀八家の先鋒・前田土佐守直躬(なおみ)は、新藩主となった前田宗辰(むねとき)に大槻伝蔵の弾劾を直訴する。後ろ盾を失った大槻に、抗う術はなかった。忽ちのうちに藩政を混乱させた罪に問われ、遂には、藩の南東部・富山藩と境を接する五箇山山中の御縮小屋(おしまりごや)へ禁固の身となった。家中の改革派を一掃せよという命は、下級の藩士らにも及び・・・」(ナレーション)
「御縮小屋」(おしまりごや)とは、加賀藩の流刑地の一つの名。
その「下級の藩士」である定之進と佐代夫妻は、再起を誓い、安信に別れを告げて去っていった。
「お前の家がお取り潰しなのに、俺には何の沙汰もない。これほど包丁侍の身分を恥ずかしく思ったことはない」
「このままでは終わらせん。俺はそのために身を隠すのだ」
このときの安信と定之進の会話である。
「大槻派粛清の後も、加賀藩政の混乱は続き、宗辰がまたも病死。弟・重煕(しげひろ)が幼くして8代藩主となるが、その直後、江戸邸で重煕の毒殺未遂という事件が起きる。土佐守前田直躬は早速事件の調査に乗り出し、容疑は吉徳の死後、尼寺でひっそりと暮らしていた真如院こと、お貞の方にかけられ、捕縛された」(ナレーション)
お貞の方の捕縛は、大槻伝蔵との「不義密通」の疑いをかけられたとされているが、それらはどこまでも、勝ち残った守旧派の中心人物・前田直躬らによって残された「藩史」であるが故に、客観的事実を示す証拠が乏しく、今でも、歌舞伎・人形浄瑠璃の演目として脚色化され、上演されている。
当然の如く、以下のナレーションも、この文脈で読み取らなければならないだろう。
ともあれ、お貞の方に寵愛されていた春が、安信の便宜によって再会を果たし、お貞の方の膝の上に伏して泣きじゃくるのだ。
「私は充分幸せな一生を送ったと思っている。だが、一つだけ悔いを残すとすれば、愛する男と夫婦(めおと)になれなかったこと。たとえどんな苦労があろうと、私は安信殿と夫婦となれたお前が、羨ましく思う」
このお貞の方の含みのない言葉は、春の心を直撃する。
なぜなら、春の夫・安信こそが、「愛する女性」であった佐代と、夫婦(めおと)になれなかった張本人だからである。
「くり抜いたユズに、果肉と粉を詰めて蒸し、冬の間、軒に吊るすのだ。冬の冷たい風に晒され、柔らかな陽に温められ、春になるまで、ゆっくりゆっくり熟していく。お前たち夫婦も、そんな風になれば良いな」
春が持ってきた能登の名産の「ゆべし」を見て、「罪人」のお貞の方を感激させ、なおも、春と安信の夫婦の安泰を望まれるのである。
この辺りの描写は、その後の春の人生に影響を与える伏線になっていく。
「大槻伝蔵は、まもなく五箇山の御縮小屋にて自害。真如院も、ここ金谷御殿で、その後を追い、この世を去った」(ナレーション)
第7代藩主・前田重煕が江戸から加賀に帰って来て、その着任祝いとして、近隣諸国の大名家の人々を持て成す豪華な饗応料理が催されることになったのは、この直後であった。
そして、この饗応料理をし切るのは舟木伝内その人である。
「舟木伝内、一生の大仕事」の補佐を、安信が任されるに至るのだ。
「私は、やりたくありません」
この安信の言葉は、自分の敵であった前田直躬に対する拒絶の意思表示である。
「武士の仕事に私情を持ち込むことは、あいならん!」
父の命に逆らう安信の心情には、身分の低さの故、「自分だけが助かった」という後ろめたさが張り付いている。
しかし、その安信の傍らで、舟木伝内は安信の上司・景山多聞に、今回の饗応料理の目的について、自分の心情をきっぱりと表現する。
「此度の宴に必要なのは、小手先の宴会料理ではございません。国が一つとなった証となる、何と申せばよいか、滋味に溢れ、加賀の国の底力を感じられるような料理を作りとう存じます」
本作の基幹メッセージである。
「能登の奥深い山の幸、海の幸、能登にはまだ、我々の知らぬ味が、雪深い厳しい暮らしに負けぬ料理が必ずあるはず。それを見つけとう存じます」
凛とした態度で、舟木伝内は景山多聞に説明し、快諾されるに至った。
安信が春への離縁状を書いてまで、定之進と共に、前田土佐守直躬の暗殺を企てたのは、そんな折だった。
安信の自我に潜む、「剣」と「包丁」との矛盾・葛藤が、この時期に及んでまで克服できずに煩悶しているのだ。
それが今、親友・定之進の置かれた状況の苛酷さを目の当たりにし、「剣」の世界に振れてしまうのである。
そして、決行の日。
その日のために研ぎ澄ました刀を、春が持って逃げたことで、一切は終焉する。
定之進らは暗殺に頓挫し、全員、討ち死にするに至ったからである。
ここでも、一人だけ置き去りにされた安信が、その許し難い感情を春に吐き出し、覚悟を決めた春を手討ちにしようとするのは、「剣」の世界に振れてしまった男にとって、それ以外にない選択肢だったのだろう。
「私は、あなたが生きていてくれれば、それで・・・」
この春の言葉を受け、元々、強い殺意に結ばれていない安信の心に隙ができてしまえば、その攻撃力の突沸(とっぷつ)を支える「意地」の継続力が萎えていくのも必至だった。
「バカ者!兄に続いて、お前まであたしを置いていくつもりか!この親不孝者め!」
この母の叫びと号泣で、春を手討ちにし、自らも自害しようと考えていたに違いない安信の激発は削り取られてしまったのである。
舟木伝内が心臓病で倒れたのは、この直後だった。
「国を思うならば、一体、何を為すべきか。剣を持ってして、血を流すことが、武士の大事か。いいや、我ら包丁侍の為すべきは、饗応の宴をもって、加賀に、かつての晴朗な気風を取り戻すこと。わしは、そう信じる」
繰り返される本作のメッセージだが、舟木伝内の言葉には力があった。
だから、観る者の心に響いてくるのだ。
かくて、伝内に代わって、春を随伴した安信の、食材探しの能登路の旅が開かれていく。
春の足袋には、マメのために鮮血の赤が滲んでいて、能登路の旅の厳しさが、観る者にひしと伝わってくる。
その旅の実り多く、艱難辛苦を乗り越えて帰郷した二人に待っていたのは、意想外の出来事だった。
大槻派への恩赦があり、夫と子供を喪った佐代が遠縁の養女に迎えられた事実を知り、動揺する安信と、そんな夫を目視する春の複雑な表情だった。
父・伝内の見守る中、台所方の中枢として目覚ましく動く安信の指図で、「包丁侍」たちが、全身全霊を傾けて、最高級の料理を作り、それを諸大名に次々に配膳していく。
一の膳、二の膳、三の膳、四の膳、五の膳・・・と続き、「包丁侍」という名のプロの料理人の完璧な仕事が、てきぱきと実行されていくのだ。
大成功だった。
「もう、終いにせねばならん。こんなことは」
舟木父子の前で語った、この土佐守直躬の言葉には、血生臭い権力闘争を自省する含意がある。
「料理アーティスト」の能力の発現の結晶である、「美食」を存分に経験した男の述懐は、人の心を柔和にさせた饗応料理の到達点だったのか。
少なくとも、それは舟木伝内の思いが成就した瞬間でもあった。
しかしそれは、春が自分の使命を果たし終えた時の、お役御免のシグナルとなっていく。
「永らくお世話になりました。舟木家の春の務めは、饗応の宴の日、本日を持って終わりました。どうぞ、私の代わりに武家に相応しい、安信様が心よりお望みになる方を、お内儀にお迎え下さい」(春の別れの手紙)
この直後の映像は、北陸の漁村で、村の海女たちの「料理人」になっていた春が、持ち前の適応能力で元気に振る舞う絵柄だった。
そこに訪ねて来た一人の男がいた。
安信である。
かつて、夫婦になりたいと願っていた佐代に贈った簪(かんざし)を春に見せ、今はもう、春以外に「妻」となる女性は存在しないことをきっぱりと語るのだ。
その簪を焼却する安信。
「俺と一生を共にしてくれ!」
この一言で全てが決まった。
安信の想いを受容する春の心情も、もう封印し得えなくなった。
安信に自らの体を預け、安信もまた、春の想いの総体を受け止めるのだ。
若き二人が、本物の夫婦になった瞬間である。
帰路、子宝祈願の思いを託し、路傍のお地蔵さまに合掌する安信と春。
「後に舟木安信は、父・伝内も届かなかったお料理頭となった。舟木家は明治に至る加賀藩の最後まで6代にわたり、御台所御用を務めることになる」
ラストナレーションである。
―― エンディングのポップな挿入歌に大いに違和感を覚えたが、ヒューマンな娯楽映画の佳作として評価し得る一篇というのが、私の率直な感懐。
3 舟木伝内 ―― 「包丁侍」の真骨頂の凄み
「硬直した階級社会」と決めつけられる江戸時代にあって、能力主義が導入され、身分の低い幕臣でも有能であれば、昇進することを可能にする画期的な制度が導入されていた。
江戸時代、8代将軍吉宗が導入した足高(たしだか)制が、それである。
1723 年(享保8年)のことである。
諸藩も、この足高制を採用し、能力主義・業績主義の人事評価による人材登用が実践されていく。
映画で描かれていたように、100万石を領する加賀藩でも、この「享保の改革」の影響下で、大槻伝蔵の財政改革に象徴される、「中期藩政改革」と呼ばれる改革を実践した。
加賀藩の歴史に名を残すこの大槻伝蔵もまた、元々の身分が足軽の三男に過ぎなかったにも拘わらず、能力主義による人材登用の結果、6代藩主・前田吉徳に重用され、厳しい倹約令や新税の制定などの尽力によって、財政再建に一定程度の実績を残したと言われている。
有能な下級武士を抜擢する能力主義が機能していたからである。
閑話休題。
そこだけは決して譲れない、特段の技能を身に付けて昇進するというシステム。
能力主義に基づく競争的な昇進システムが保証されていたのである。
保証されているから、心置きなく大好きな「仕事」に邁進し、益々、持ち前の才能を発揮していく。
その舟木伝内について詳細に書いた陶智子(すえともこ/歴史家)の著書をもとに、以下、伝内の誠実な人となりを紹介したい。
加賀藩の料理人の組織である台所奉行の管轄で、「御料理頭」が置かれたのが1697年(元禄10年)。
「御料理頭」とは、料理方の最高地位のこと。
御膳奉行から料理頭・大工頭までを網羅する歴史である「諸頭系譜」によると、「御料理頭」に任じられた者は33名。
そして、その下位の「御料理頭並」に3名。
その3名の「御料理頭並」の中に、舟木伝内がいた。
初代の「御料理頭」を務めた「長谷川家」以外に常連といえる家はなく、この昇進システムが世襲的な役職ではなかったことが窺える。
一切は能力主義次第なのだ。
また、この舟木伝内包草(かねはや/正式名)が、常々、安信に対して、「人に聞くこと」の大切を説いていたエピソードがある。
とても大切な人生訓である。
「謙虚」な態度を示す人生訓だが、そこには、自分の「情報量の多寡」だけに拘泥する「愚」を戒め、「情報の質」を重んじ、なお、真摯に精進しようとする努力家精神が垣間見えるのである。
現に映画でも、舟木伝内が、市で手に入れた菜(「明日葉(あしたば)」)の名称と、その作り方を春に聞きに行くシーンがあり、真剣に聞く伝内の表情が印象に残っている。
「恥ずかしながら、春どのに教えを乞いたいんだが…」
伝内は、そう言ったのだ。
それが「安信の嫁」と見込んだ行為であったとしても、それを含めて、相手が女中であるか否かなど、全く関心の埒外にあるということ。
伝内とは、そういう男なのである。
ひたすら、「料理アーティスト」としての本人の精進の風景が、そこに眩く照射されるのだ。
「書物を見た人に尋ねるべき事である。われ知り顔に途中をくくって済ましてしまうと、思ってもいない間違いが多く、恥をかくことが多い。人にものを問うことを恥と思う人がいる。それは間違いである。問うて一度の恥である。問わないのは末代までの恥という通りである。」(「舟木伝内随筆」)
まさに、「聞くは一時の恥 聞かぬは一生の恥(損)」なのだ。
この伝内の言葉には、経験に裏打ちされたスキーマ(心理の枠組み)が読み取れるから、彼の人生訓の重量感がひしと伝わってくるものがある。
「料理役は、こころが卑しくては、やっていけない役職である。心が卑しいとき、人はすべてが卑しくなる」
これも伝内の言葉だが、説教臭さを感じることが全くない。
常に「人格化された料理」を意識して、それを食する相手に合わせて料理を作る男のメンタリティに、努力一筋の「日本人」の一つの範型を見たとしても、それを厭味なく受容し得るのは、「恥ずかしながら」と言って、女中の「春どの」に教えを乞わんとする「包丁侍」の真骨頂の凄みを感じるからであろう。
舟木伝内。
江戸幕藩体制の能力主義・業績主義の人事評価が生んだ、何とも懐の深い「料理アーティスト」であることか。
【参考資料】 「包丁侍 舟木伝内」(陶智子著 平凡社)
(2015年6月)
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