<「俺の音楽」に拘泥する男の予約された人生行程>
1 プライドラインの絶対的城塞を手放さない男の流離いの旅
近すぎず遠すぎず、登場人物との適正な距離を保持しながら、緻密な構成力によって、コメディという衣裳を被せつつ構築し切った人間ドラマの傑作。
心の底から感動した。
さすが、コーエン兄弟である。
―― 以下、梗概。
ガスライト・カフェ。
ニュー・ヨーク市・マンハッタンのグリニッチ・ヴィレッジにあるカフェの名である。
1961年のこと。
ギターの弾き語りで、一人の男が自作のフォークを歌っている。
男の名はルーウィン。
疎らな拍手が歓声混じりの拍手に代わり、歌い終わったルーウィンは観客に向かって発信する。
「古くて新しけりゃ、フォークソングだ」
歌い終わり、呼び出された「スーツ姿の男」によって因縁をつけられ、いきなり顔面にパンチを食らわされた。
「昨夜、客席からヤジを飛ばしたな」と男。
「それがショーってもんだ」とルーウィン。
これが、「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」と称される映画の主人公・ルーウィン・デイヴィスを描くファーストシーンだった。
「昨夜はすみません。我ながら情けないです」
ルーウィンのメモ書きであるが、このファーストシーンの意味はラストで回収される。
ゴーファインという名の知人の大学教授のマンションに厄介になったルーウィンは、その教授の飼い猫が飛び出してしまって、まるでルーウィンの人生のように、自在気ままに行動するその猫を抱えて移動することになった。
以降、この猫を抱える男の奇妙だが、決して誇りだけは捨てず、自分に見合った最適な〈居場所〉を求めて流離(さすら)う旅が開かれる。
彼を雇った事務所のマネージャーと喧嘩し、辛うじて40ドルのギャラを受け取って、友人・知人宅を泊まり歩く男の生活風景が映像提示されていく。
歌手仲間のジーンとジムのアパートを訪ねたルーウィンは、ジムのいない部屋にはトロイと名乗る「先客」の現役軍人の歌手がいて、唯一の寝床であるソファを確保できず、床に寝ることになる。
そればかりではない。
寝床を共にしたジーンの妊娠を知らされ、トロイのギグ(小さな会場でのライブコンサート)で、ジムに中絶費用を求める始末。
ギグでは、特別のゲストとして、隣に座る「ジム&ジーン」がステージに呼ばれ、軽やかにフォークソングを歌っている。
ピーター・ポール&マリーをイメージさせつつ歌うのは、フォークの名曲「500マイル」。
私を乗せて列車は出る
それが あなたへの別れ
汽笛が聞こえるでしょう
100マイルの 彼方から
ジム&ジーン |
自分が呼ばれると思ったルーウィンは、ここでも置き去りにされるのだ。
「あんたが触ったものは全部、クソ!」
妊娠したジーンから一撃を食らうルーウィンは、ジムには内緒で中絶費用を捻出するリスクを負うに至った。
姉のジョーイに無心をするが、それも儘ならなかったルーウィンにチャンスが巡ってきた。
ジムの紹介でコロンビア社の録音の代役を無事にこなし、印税を放棄し、200ドルのギャラを現金化したルーウィンは、そのときのパートナーとなったアルという男のソファを借用し、この日も、辛うじて寝床を確保することに成功する。
これが、その日暮らしの男の生活の一端である。
以下、そんな男の生活を厳しく非難するジーンとの会話。
「将来のことって考える?」とジーン。
「将来?空飛ぶ自動車?月の上のホテル?粉ジュース?」とルーウィン。
「ダメな男」
「君こそダメだ。将来の設計図を描いてる。ジムと郊外に住んで子育て」
「悪い?」
「もし、そのための音楽なら、君は出世主義者で、少し退屈な人間。哀しいよ」
「私が?成功する気すらないくせに何よ。私とジムは努力している。あんたは家もない」
「グサっと来た」
「負け犬だから、地べたを這い回ってる。自業自得よ。それと、あんたはゲス野郎の間男よ。それも忘れないで!」
ルーウィンとジーン |
ここまで言われても、相手の暴言を無視できるのは、ルーウィンのマイペース人生が貫徹されていることもあるだろうが、それ以上に中絶を強いる男に弱みがあるからに違いない。
しかし、打たれ強いルーウィンのストレスは、今や、封印できない辺りにまで累加されているようにも思われる。
だから、このストレスが噴き上げてしまうのは必至だった。
音楽好きな大学教授・ゴーファインの元に、逃げた猫を見つけて、教授の家を訪ねた時だった。
そのゴーファイン教授に、たまたま居合わせた婦人客のために歌うように懇願され、ギターを渡されるルーウィンは、気乗りしないまま弾き語っていく。
ところが、ルーウィンの弾き語りが、ゴーファイン教授宅の婦人客にハモられてしまうことで、ルーウィンはもう、ダメになった。
「悪いが、もうやめるよ。俺は生活のために歌っている、遊びじゃない」
そう言い放つや、とうとう、ルーウィンの怒りが炸裂する。
この炸裂には、投身自殺したパートナーのマイクの非在性によるトラウマが、ルーウィンの自我に張り付いていることと無縁でないだろう。
彼にとって、忘れ得ぬパートナーの領域を冒される事態は、決してあってはならないことだったのか。
まもなく、アルからのシカゴでの仕事の誘いに乗ったルーウィンは、ガソリン代を節約するために、アルの友人の肥満の男の車に同乗する。
シカゴへの旅 |
ジャズ・ミュージシャンと思しき肥満の男の名はローランド。
ジョニーという名の付き人も付き、彼が運転するシカゴへの車の旅は、ローランドの一方的な饒舌に辟易したばかりか、途中のドライブインのトイレで倒れ、挙句の果てに、運転手である前科持ちのジョニーが巡回パトカーの警官に逆らい、連行されてしまう始末。
ローランドを乗せた車に残されたルーウィンは、飼い猫を置き去りにし、何とかヒッチハイクなどを繋いでシカゴにやって来た。
「ゲイト・オブ・ホーン」
シカゴのクラブの名前である。
ここのプロデューサーであるグロスマンと会えたルーウィンは、オーディションを受けるに至る。
「金の匂いがせんな」
観る者の心を揺さぶるようなルーウィンのフォークの弾き語りが冴えわたるが、グロスマンのこの一言は、自分の音楽に誇りを持つ男の気概を萎えさせた。
「分った。それだけか?」とルーウィン。
「君は決してヘタじゃない」
「トロイ・ネルソンの才能はない?」
「知ってるのか?」
「トロイはいいものを持ってる」
「ああ。人の心に響く。実は今、トリオを考えてる。男二人と女一人だ。君はフロント向きじゃないが、髭を剃り、身ぎれいにしたら、声の相性を見てもいい。ハモれるか?」
「ダメだ。できれば、やりたくない。相棒がいた」
「それで分った。助言だ。ヨリを戻せ」
「良い助言です。ありがとう」
本作の中で、最も重要な会話である。
ルーウィンとグロスマン |
「金の匂い」を発現させるために、「商品価値」を高めようとするグロスマンの言辞に反発したばかりか、マイクの代替を拒絶するルーウィンの心情がここでも想起され、敢えて自ら、「金の匂い」と縁遠い「俺の音楽」の世界に復元していくのだ。
この「俺の音楽」こそ、決して譲れない男の、そのプライドラインの絶対的城塞なのである。
プライドラインの絶対的城塞を手放さない男の、予約された人生行程のイメージが、そこにもう垣間見えるのだ。
2 「羽ばたいていけない者」、或いは、「羽ばたいていかない者」の変わらぬ日常性を暗示したメッセージ
ヒッチハイクで拾った車の男に、「NYまで運転してってくれ」と頼まれ、ルーウィンが運転する長いドライブが開かれていく。
途中、猫が横切って、危うく轢断(れきだん)するのを避け、咄嗟にブレーキをかけ停車するが、その猫の行方は分らなかった。
そして、到着したNYの町。
NYの町に戻っても変わらないルーウィンは、糊口(ここう)を凌ぐために、船員になろうとするが、未納分の故に登録が抹消され、持ち金をはたいて、何とか再登録することができた。
船に乗る前に施設にいる認知症の父に会いに行き、そこで、恐らく船員だった父の好きな歌を歌い上げるルーウィン。
ところが、息子の歌を聴いて感極まったのか、排泄してしまう父。
「俺の末路を見たよ。よく分った。数年は楽しんでも、最後には安息の日々。メシも運ばれ、クソも垂れ流し」
姉を訪ねた時のルーウィンの言葉だ。
こんな悪態をつくルーウィンだが、姉が航海士の免許証の入った箱を捨てたことを知り、もう万事休す。
「俺はクズだ」
その一言を残して、ルーウィンはまたしても、ジーンのアパートに訪ねて行く。
無論、宿泊のためである。
以下、その時の会話。
「明日、パッピが歌わせてくれるわ」
「ダメだ。出たばかりさ」
「平気よ。私が頼んだの」
「ありがとう。うれしいけど、歌は止める。終わりだ。商船隊に」
「良いの?明日は何かあるかもよ」
「400回目の出演で、投げ銭をもらって?」
「もう一組出る。でも、NYタイムズ紙が」
「君の気持は嬉しいけど、どうにもならない。疲れたんだ。もうヘトヘトだ。一晩寝れば治ると思ったが、そういうんじゃない。でも、ありがとう。俺のために」
それでも、船に乗ることを諦めないルーウィンは船員組合会館に行くが、免許証の再発行に金がかかると知り、結局、喧嘩別れして、唯一の「パン代」の望みを断たれてしまうに至る。
ディストレス状態が沸点に達していたルーウィンが、「ガスライト」でのライブ中の中年女性シンガーに、「フォークなんか大嫌いだ!」などとヤジを飛ばし、オーナーのパッピに店を追い出される始末だった。
追い出されたルーウィンが行く場所は、ゴーファイン教授のマンション以外になかった。
そこに、ルーウィンが遺棄したと信じる猫がいた。
その猫の名は「ユリシーズ」。
まさしく、ゴーファイン教授の飼い猫である。
ルーウィンが遺棄した猫は、別の猫だったのである
更に、ルーウィンの演奏に勝手にハモり、彼の逆鱗に触れた婦人もいて、自ら謝罪してくるのだ。
彼女は、自分が犯した誤りを認知したからこそ、謝罪に及んだのである。
それは、人の心が分る教養ある人間の証左でもある。
目立たないが、このシーンはとても良い。
その数は少ないが、ルーウィンの音楽を曇りのない視線で受容し、素直に愛し、支えているこのような人たちがいるからこそ、ルーウィンの音楽を破滅に追い込まないイメージを映像提示する、一連のゴーファイン教授宅でのシーンには相当の含みがある。
ルーウィンの音楽を柔和に受容するゴーファイン教授の眼差しこそ、作り手であるコーエン兄弟の眼差しであることが判然とするからである。
元々、攻撃的な性格の持ち主ではないルーウィンの心が、ゴーファイン教授らによって浄化され、その感情ラインの延長上に、翌日の「ガスライト」でのライブを心地良く弾き語る男がそこにいた。
もし僕に翼があれば
ノアの鳩のように
川を超えていく
愛する人のもとへ
さらば
愛しい人よ
これが最後の別れ
そぼ降る雨の
ある早い朝
僕の心は 痛みにうずいた
絶対に喪ってはならなかったに違いない、今は亡きパートナーのマイクと歌ったフォークソングである。
魂のこもった男の歌が終焉し、代わってライブを占有するのは、ボブ・ディランと思しき若者の弾き語りであった。
音楽シーンでの時代の変容を告げるカットの挿入によって、「名もなき男」の物語は、「大きく羽ばたいていく者」と、留鳥の如く「羽ばたいていけない者」、或いは、「羽ばたいていかない者」との乖離感を映し出して、ラストシーンに流れていく。
真っ向勝負のリアリズムを蹴飛ばした、頗(すこぶ)る個性的な映画は、このシーンの直後、「スーツの男」によって殴られたファーストシーンに円環させていく。
「スーツの男」とは、ルーウィンの下品なヤジによって傷つけられた、昨夜の中年女性シンガーの夫だった。
結局、この円環的な映画の構成の意味は、留鳥の如く「羽ばたいていけない者」、或いは、「羽ばたいていかない者」の変わらぬ日常性を暗示したメッセージであったという訳だ。
このコーエン兄弟の稀代の傑作は、売れないミュージシャンの変わらない現実をイメージさせつつも、それでも「名もなき男」が、このような場末の一角で、マキシマムな自己表現を繋いでいくメッセージの含みのうちに、言外の情趣を乗せてフェードアウトしていく。
良い映画だった。
3 「俺の音楽」に拘泥する男の予約された人生行程
ルーウィンとジム |
才能のあるミュージシャンが数多いても、そこで成功するミュージシャンが稀であるからこそ、そこに熾烈な売り込み競争が生まれ、セルフプロモーションの能力の差と「運・不運の問題」が、その成否を分けることになる。
「商品価値」の高低の差を重視する、自由主義社会のリアルな風景の一面である。
ところが、セルフプロモーションの能力が不足する者、或いは、それを苦手にする者が成功するとしたら、もう、「運・不運の問題」に委ねるしかないと言っていい。
そこで運良く成功した者もいれば、その運に見放され、別の人生を歩む若者も、少なからず存在するに違いない。
と言うより、「自分の時間を意のままに駆使し得る利得」を有する、「たった一人の成功者」の裏には、「圧倒的な敗退者」が群れを成すだろう。
彼らは、彼らの音楽を、何とか市場に乗せるべく、彼らなりに悪戦苦闘した連中であるだろうが、「結果が全て」のアートの世界のリアリズムを受け入れる外にない。
然るに、「俺の音楽」に執拗に拘泥し、それを安売りすることを拒むミュージシャンがいても何ら不思議ではない。
件の者は、均しく、「名もなき男」の現実が、なお延長されるに違いない、ほんの一握りのミュージシャンである。
本作の主人公・ルーウィン・デイヴィスは、その典型だった。
航海士の資格を持つことで、「俺の音楽」の退路を閉ざされた時の「保険」があったとしても、「俺の音楽」への執着度の強度の故に、彼にとって、船員生活に身を預けることは、どこまでも糊口を凌ぐ手段でしかなかった。
その航海士の免許を失い、船員になる唯一の「パン代」の望みを断たれてしまうルーウィンが荒れ狂うのは自業自得であるが、セルフプロモーションの能力の不足と、そこに関与する「運・不運の問題」に見放されていく運命もまた、詰まる所、「俺の音楽」への執着度の強度の故である。
そんな男でも、市場に乗せるべく、彼なりに悪戦苦闘する。
だから、「ユリシーズ」というネーミングにシンボライズされているように、幾つもの「障害」を乗り越えていく「オデュッセウス」の艱難(かんなん)な冒険・帰国譚にも似せて、NYからシカゴへの移動の旅に打って出るが、そこでも、「俺の音楽」への執着度の強度の故に、確信犯的に僅かなチャンスすらも放擲してしまうのだ。(因みに、「オデュッセウス」のメタファーの挿入の意味は、どこまでも、主人公の艱難な移動の旅を表現するものであって、単なる構成上の色付けに過ぎないと私は考えている)
そんな訳で、今や、「運・不運の問題」に委ねるしかない男にとって、拙い売り込みの旅が成就する可能性が低いのは必至だった。
「金の匂いがせんな」
この一言でダメになった。
決して、失敗願望を隠し込んだ「不成功防衛」という心理学の世界ではない。
成功を求めても、そこだけは、どうしても守りたいと思っている意識の防衛網が、常に、ルーウィンの跳躍への障壁になってしまうのだ。
「プライド防衛ライン」という、自らが仮構する自我の防衛ラインが、他者によって値踏みされ、支配されることを拒絶する一筋縄で行かないメンタリティー。
それは、自分の「商品価値」を過剰にセールスすることを嫌う自己像だから、如何ともし難いのである。
それを失ったら、ルーウィン・デイヴィスのアイデンティティが崩されてしまうからである。
「俺の音楽」ではなくなってしまうのだ。
「俺の音楽」への執着度の強度の故に、ルーウィン・デイヴィスという男の、極めて放埒(ほうらつ)だが、しかし、そこだけは、どうしても守りたいと思っている人生の心棒だけは決して安売りできない。
「圧倒的な敗退者」の群れに押し込まれたとしても、それでもいいのだ。
決して、「市場での淘汰」を悪罵することはしない。
「住みにくい時代・社会」の問題ではないからだ。
だから殊更、そんなルーウィンの社会的適応能力や「現実検討能力」(「大人の思考」のこと)の欠如を、今さら指摘しても詮無いことである。
寧ろ、表層的なセルフプロモーションの能力を養って、ボブ・ディランのように、彼が大きく化けることの方が違和感を感じさせるほどに、ルーウィン・デイヴィスという男は、「ガスライト」でのライブ生活に馴致(じゅんち)してしまっているのだ。
それは、「俺の音楽」に拘泥する男の予約された人生行程であると言っていい。
そこに、何の問題もない。
ある訳がないのだ。
観る者が感動するのは、「ガスライト」でのライブ生活に馴致する男が、一見、脆弱な印象を与えつつも、決して「俺の音楽」への誇りを捨てず、そこだけは守りたいと思っている「何者か」である人生を貫徹しているように見えるからである。
ルーウィン・デイヴィスは、「ガスライト」で魂の歌を全身全霊で表現する、他の誰にも代え難い「何者か」なのだ。
その「何者か」を描き切った映画に、私は心底身震いし、深い感動を覚えたのである。
(2015年5月)
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