<新たに開いた時間を紡いでいく、モンゴル牧畜民の気概のある女の物語>
1 「家族は誰も死なせない!」
中国共産党支配下の内モンゴル自治区西北部の草原のゲルに住む、トゥヤーの家族は相当数の羊の放牧で生計を立てている。
今、このゲルには、酔ってバイクで転倒した隣人のセンゲーが厄介になっている。
嫁に駆け落ちされたセンゲーは、あろうことか、トゥヤーを嫁と間違えて抱きついてくる始末だった。
「嫁は別れたいのよ。早く離婚した方がいい」
夫のバータルに語るトゥヤーの言葉である。
そんなとき、息子のザヤから「羊が3頭ないよ」と報告があり、一頭360元だから3頭分の損失を、ザヤに計算させる父・バータル。
その間、一日の疲労で寝入ってしまうトゥヤーの苦労が透けて見える。
「父さんが井戸掘りでケガして、家には男手がない。ザヤが頼りなんだよ」
このトゥヤーの言葉にあるように、井戸掘りの発破(はっぱ)で下半身不随になってしまった夫のバータルは、今や放牧の戦力になり得ないから、家族の生活の一切はトゥヤーの双肩にかかっているのだ。
ラクダを利用しての、毎日の水汲みのために、30キロの道のりを、息子のザヤと二往復するトゥヤーの負荷は常態化しているが故に、彼女の能力の限界近くにまで事態が切迫しているように見える。
「3年前、井戸を掘ったが・・・」とバータル。
「水が出る前に、脚を追ったわ」とトゥヤー。
「水を運ぶ男でも見つけろよ」
「あなたはどうするの?」
「姉と暮らす」
「旦那が早死にした上、子沢山でしょ。あんたまで無理よ」
淡々とした会話だが、その内実は深刻である。
「車と金があれば、俺を好きになるさ。男が稼ぎ、女が使う。それが人の世の常だ」
トゥヤーに大言壮語するセンゲーの言葉である。
嫁に逃げられても、そんなことを口にするセンゲーのふがいなさが垣間見えるが、厄介なことに、バイクから転倒しているのを発見したトゥヤーが救い出し、自らが軽傷を負ってしまう。
腰を痛めたトゥヤーは、踏んだり蹴ったりの状態だった。
バータルの姉から、トゥヤーの離婚話が出たのは、そのときだった。
「バータルと別れなさい。弟は私と暮らす。子供が6人だから、弟一人増えても、同じだよ。あんたが倒れて、一家4人抱えたら、私一人じゃ養い切れない」
「バータルは何て?」とトゥヤー。
「歩けるものなら砂漠に行って、死にたいって」
「私も歩けないなら、離婚しかない」
この深刻な状況下で、義理の姉の督促に従って、トゥヤーは夫を連れて裁判所に赴く。
「再婚相手と一緒に、バータルの面倒を。認めてくれた人と結婚します」
これが、トゥヤーの再婚の条件だった。
トゥヤーとバータル |
井戸掘りの事故で下半身不随になってしまった夫を見捨てる行為など、彼女にはとうてい受け入れられようがなかったのだ。
やがて、そんなトゥヤーの再婚条件を認めて、彼女のもとに次々に現れる男たち。
しかし、些かトゥヤーの再婚条件のハードルは高過ぎた。
「6人目の求婚者も断って来たわ」とトゥヤー。
「俺がイヤなんだろ」と。
「あなたを一人にしない。今日来た求婚者は本人かと思ったら、結婚相手は父親だって」
「いくつだ?」
「64歳。退職した先生。退職金もあって、家は3LDK。子供らに勉強させ、大学に行かせるって。どうしよう?」
「やめとけよ」
笑み含みの夫婦の会話はユーモアに満ちているが、その内容の深刻さは変わらない。
中学の同級生のボロルが乗用車に乗って、再婚の志願者として現れたのは、その直後だった。
「油田を探している。石油で飯喰ってるんだ」
今や、石油屋として各地を回っているボロルの言葉。
ナーダム |
ナーダム(モンゴルの夏の祭典)で、モンゴル相撲の人気者だったバータルを尊敬すると言うボロルは、トゥヤーに求婚する。
「君の離婚の話を聞き、慌てて駆けつけた。これを言うため、17年も待ったんだ」
即答は避けたが、生活苦で限界にきていたトゥヤーは、結局、別れた妻に今でも生活費を送っているというボロルの求婚を受け入れるに至る。
しかし、ボロルの求婚には、バータルを施設に預けるという条件が含まれていて、それを了承するバータル。
その施設は、公費で賄う政府機関の幹部らの公務員と、高額の私費で賄っているが故に条件が良く、富裕層の入所が多い特別な設備を有するスポットらしいが、バータルには居心地が悪かった。
「トゥヤーの再婚は、あんたを愛しているからだ」
駆け落ちした妻への未練が捨て切れないセンゲーが施設に見舞い、バータルを励ますが、だからこそと言うべきか、当のバータルには、止むを得ず離婚したトゥヤーと子供たちのことしか頭にないのである。
そんなバータルの思いが分るトゥヤーは、初夜の晩に、「バータルと一緒に暮らして」とボロルに要求するのだ。
「俺もひとかどの男だ。人の笑い物になる。それじゃ面子が立たない。一緒に住んだら、俺が辛い」
これがボロルの答え。
それでも、バータルを気にかけるトゥヤーの思いが変わらないと見るや、大きな家を建て、そこでバータルに介護付きの生活を提案するボロル。
「嫁を紹介してもいい。好きに暮らしてもらおう」
これも、ボロルの提案の一つだった。
「妹は父さんと、僕が母さんと暮らす。母さんを守るんだ」
これは、息子のザヤの言葉。
子供たちにとっても、思いも寄らない事態の展開に翻弄されているから、こんな親思いの言葉が出てくるのだ。
一方、寂しさを紛らすために、施設の部屋で酒を飲み続けるバータル。
そして、その酒瓶を割って、その破片で手首を切る自殺未遂を図ってしまうのである。
「死にたいの?生きるのが辛いと、死んで人を困らせ、脅すつもりなの!自殺したら偉いの?先に死んだら勝ちってわけ?飲まなきゃ、死ねないの?」
センゲーの連絡で、二人の子供を連れて急いで施設にやって来たトゥヤーの叫びが、バータルの病室で暴れ捲っていた。
子供たちも泣いている。
「家族は誰も死なせない!」
トゥヤーの思いが、この言葉に凝縮されていた。
ボロルとの再婚が、この一件で終焉したのは言うまでもない。
2 「狼は私が喰ってやる」
再び、トゥヤーの元の生活が復元した。
そんなトゥヤーに、息子のザヤが馬を駆動し、急報を伝えに来た。
「センゲーが家の前に井戸を!」
慌てて駆けつけて来たトゥヤーに、センゲーは、「バータルの許可を取って井戸を掘っている」と答えるのだ。
親切心で井戸を掘っていると信じるバータルに、トゥヤーの怒りが炸裂する。
「もし怪我をしたら、どうするつもりなの?二人の世話は無理よ!」
トゥヤーはセンゲーの人間性を疑っていないが、その能力に一貫して疑問を持っているのだ。
センゲーとトゥヤー |
「センゲーは何をしても失敗するわ。嫁に逃げられ、車まで失くし、人の家までかき乱す。叱りつけたいくらいよ」
「水が出たら、便利になる。まだ、水は出てない。そうだろう」とバータル。
この夫婦の会話は、当然の如く、トゥヤーの指摘通りになった。
それでも、発破で岩盤を掘削するが、この砂礫含みの大地で水を確保することは容易にいかないのだ。
そして、センゲーがこの危険な掘削によって意識を失う事故を惹起させる。
このセンゲーを最も心配するトゥヤーの厚い看病で意識を取り戻し、センゲーは意想外のことを言い出した。
「トゥヤー、俺と結婚してくれ。前から言いたかったけど、軽蔑されてた。あんたが好きで井戸を・・・」
トゥヤーの手を握り、本音を吐露するセンゲーの言葉を聞き流し、拒絶するトゥヤー。
「井戸なしじゃ、ここでは生きられない」
断られても、井戸掘りを諦めないと言い切るセンゲー。
「生死は天命。死んだら死んだ時さ。俺は運がいい。死にはしない。生きてりゃ、必ず井戸は掘り当てる」
そこまで言い切るのだ。
そして、本当にそれを実践するセンゲーを見るにつけ、トゥヤーの思いも固まっていく。
以下、井戸掘りの穴蔵に自ら降りて行き、そこにいるセンゲーとの会話。
「あの話、本気?」とトゥヤー。
「何の話だ」とセンゲー。
「嫁さんと別れられる?」
「もちろん」
「彼女が怖くないの?」
「怖くない」
「バータルは、どうする気?」
「俺が養う」
「別れたら、求婚して」
「分った」
これだけだった。
これだけだったが、本作で最も重要な会話になった。
その夜、トゥヤーはバータルに求婚したことを告げる。
「井戸掘りは求婚のためだ。分ってたよ」
バータルと息子のザヤ |
これがバータルの答え。
そのバータルからの報告で、息子のザヤが吹雪の日に帰って来ないという由々しき事態が出来した。
凍死を心配し、慌てて探しに行くトゥヤー。
「狼がいる」
猛烈な吹雪の中で、ようやく探したザヤの言葉である。
「狼は私が喰ってやる」
愛する息子をきつく抱擁しながら放った、力強いトゥヤーの反応である。
狼の脅威から羊を守るザヤもまた、母に似て力強かった。
母と息子が、ラクダに乗ってゲルに戻っていくのだ。
一頭のラクダが、母子の命を守っていることを提示するこのシーンは素晴らしい。
そして、嫁に会いに行くために行方を晦(くら)ましていたセンゲーが、突然、トゥヤーの前に現れた。
地平線が見通せる砂漠化した大地に、眩いまでの日光が照射する日だった。
この時点で、縁が切れない嫁を求めて消えたと決めつけていたが故に、トゥヤーは、かつて、再婚を求めてやって来た男との結婚を決意していたのである。
「女房と離婚した。これが離婚証明だ。離婚したから来た」
センゲーの言葉である。
彼は裏切らなかったのだ。
ラストシーン。
トゥヤーとセンゲーの結婚式が、モンゴル伝統の儀式の中で遂行されている。
再婚同士の結婚式であるが、それを祝福するバータルがそこにいる。
「トゥヤーに優しくしろよ。でなきゃ殴る」
すっかり酔ったバータルが、センゲーに文句をつける。
外では、息子のザヤも喧嘩をしている。
「親父が二人で悪いか!」
友達にバカにされて、取っ組み合いをしているのだ。
花嫁姿のトゥヤーが、子供同士の喧嘩を止めに入った。
「勝手におし!」
喧嘩を止めない子供たちを放置し、誰もいないゲルに入り、そこで嗚咽するトゥヤー。
外からセンゲーの声がかかるが、嗚咽を止められないトゥヤーの表情がラストカットになった。
明らかに、前途多難な人生の船出を思う、トゥヤーの心情を表現するラストカットであった。
新たな重荷が、トゥヤーの双肩にかかってくるのだ。
60発以上の発破を仕掛けても、井戸掘りに成功せず、前妻に翻弄され続けた男と、酒に憂さを紛らす男の二人と共存するという、未知のゾーンに入っていく女が、初めて自分のために流した涙の意味を、観る者だけが理解できているから、却って切ないのである。
それでも、「狼は私が喰ってやる」と言い放った力強い女だ。
だから、この難局をも乗り越えていくというメッセージを読み取れるが故に、ユーモア含みのヒューマン・ドラマの着地点は、観る者の残像に暗欝な印象を張り付けることがなかった。
この決定力のあるラストシーンこそ、本作を名画に仕立てた最大の理由であると私は思う。
モンゴル人牧畜民・トゥヤー |
ヒロインを演じた中国人女優・ユー・ナンは例外として、この種の映画の例に洩れず、ズブの素人を起用した演技力に不満が残ったが、とても良い映画だった。
3 「環境保全対策」という名の「生態移民政策」の由々しさ
パソコンや携帯電話などエレクトロニクス製品に不可避な材料である、レアアースの世界最大の鉱床として名高いバイユンオボ鉱床。
しばしば「戦略物質」として利用される、このレアアースの鉱床の所在地は、中華人民共和国の北沿に位置する内モンゴル自治区である。
そのバイユンオボ鉱床を懐ろに抱える内モンゴル自治区と隣接し、ここからモンゴル国にかけて、標高1000メートルを超える高原であるゴビ砂漠が広がっている。
世界有数の広さを持つゴビ砂漠は、米国ユタ州のブライスキャニオン国立公園のように大陸性気候であるが故に、高緯度であるにも拘らず、夏季の最高気温は40度を超える一方、寒風吹き荒む厳冬期にはマイナス40度にも及ぶ、80度以上の年較差を特徴づける乾燥した砂礫の大地である。
内モンゴル自治区 |
本作の舞台になった内モンゴル自治区は、清朝による征服以来、実質的に独立を失っていたが、辛亥革命(1911年)を機にモンゴルが独立を宣言し、中華民国からの内モンゴルの合併をも求めていく。
しかし、帝政ロシアの軍事介入によって、モンゴル人民の独立戦争が呆気なく頓挫するに至る。
内モンゴル自治区は、中国共産党に入党していたモンゴル族のウランフをリーダーにする勢力によって、1947年に成立する。
後に国家副主席にまで上り詰めるそのウランフは、文化大革命の狂乱の嵐の中で、数十万のモンゴル人の粛清(内モンゴル人民革命党粛清事件)によって失脚し、以降、内モンゴル独立運動に対する徹底的な取り締まりが強化され、中国共産党による支配が確立されるに至った。
その内モンゴル自治区において、中国共産党の「西部大開発政策」の一環として推進されたのが、「環境保全対策」という名の「生態移民政策」の実施だった。
漢民族の大量の移入による人口の拡大で乱開墾や過放牧が進み、草原の生態環境が破壊されたことで、内モンゴル自治区の砂漠化が急速に進み、砂嵐が激しく吹き上げ、視程の顕著な低下が起こるようになり、その被害は牧畜遊牧民の生活に留まらず、北京などの大都市にも及んでいく。
この破壊された草原を復元し、牧畜民たちの生活水準を向上させるため(貧困対策)に策定され、2000
年以降、実行に移されたのが「生態移民政策」である。
それは、牧畜民たちを移動させ、 彼らの営んで来た伝統的な牧畜業を実質的に放棄させることを意味する。
即ち、「禁牧」(一定期間の放牧禁止)・「休牧」(牧草が結実するまでの期間の放牧停止)である。
そして、モンゴル人牧畜民の都市への強制移住と相俟(あいま)って、移住後の生業として牧畜民たちに提案されたのは、内モンゴル自治区に存在する酪農会社に依拠した「酪農業」などへのシフトである。
以上が、「生態移民政策」の背景の簡単な内実だが、ここで重要なのは、本質的に貧困対策であるモンゴル人牧畜民の都市への強制移住によって、彼らの生活の安定が保障し得るか否かという問題以外の何ものでもないだろう。
牧畜文化を捨てたモンゴル人が、果たして、都市での定住に馴致(じゅんち)し、安定的で継続的な生活を送れるのか。
更に言えば、「禁牧」・「休牧」した後、かつてのモンゴル人牧畜民が元の放牧地に戻れる保証があるのだろうか。
この大胆な政策に対する、そのような危惧を指摘する声があることを書き添えておきたい。
4 新たに開いた時間を紡いでいく、モンゴル人牧畜民の気概のある女の物語
さて、「トゥヤーの結婚」のこと。
ここ50年もの間で、草原の面積が半分以下になってしまったと言われる、内モンゴルの砂礫を含む乾燥した大地に生きるトゥヤーの苦労は、映画を観る限り、壮絶な生活風景の日々を繋いでいる。
井戸掘りで下半身不随になってしまった夫のバータルが全く戦力にならず、天然放牧で家畜数を増加させることに依拠し、最低限の収入を確保することで、子供二人をも扶養する家族の生活の切り盛りは、トゥヤーの双肩にのみかかっているのだ。
だから、多くの牧畜民がそうであるように、児童期にある息子を戦力にする手立て以外になかった。
その息子と共に、30キロの道のりを二往復するトゥヤーに、そんな日常性を強いるのは、隣人のセンゲーのように、命懸けで井戸掘りを敢行せざるを得ない深刻な水不足の故である。
内モンゴルの牧畜民にとって、「水」の価値は、内モンゴル自治区に集中するレアアースよりも、貴重な「命の恵み」なのだ。
だから、「生態移民政策」を遂行する中央政府にとっても、水資源の管理が焦眉の課題となるのは必然的だった。
地下水を利用した灌漑農業の具現という環境政策の提示があるが、牧畜民にとって充分な経験を持ち得ないのみならず、地下資源の負荷が大きい問題が障壁になっているが故に、資源・環境の劣化と貧困問題という負の連鎖を断ち切る方法が、映画で描かれたように、「トゥヤーの戦略的再婚」に流れていく外になかったということである。
然るに、「トゥヤーの戦略的再婚」は頓挫する。
石油で儲けた金で目障りなバータルを施設に預け、自分はお目当てのトゥヤーとのセックスを享受するボロルの求婚戦略は、ある意味で当然過ぎる対応でもあった。
「トゥヤーの戦略的再婚」のハードルは高過ぎたのだ。
「家族は誰も死なせない!」
本作を通して最も重要な台詞であり、この言葉をトゥヤーに言わせるための映画だったとさえ思われるが、自殺未遂を図ってしまうバータルに向かって放ったトゥヤーの叫びは、あまりに悲痛である。
「トゥヤーの戦略的再婚」が頓挫し、トゥヤーの全人格を愛するセンゲーと再婚することで、「戦略的再婚」の悲哀が払拭されるが、前途多難な人生の船出を象徴するトゥヤーの嗚咽のうちに閉じていく映画に、暗欝なイメージを感じさせないのは、息子を守るためには「狼は私が喰ってやる」と言い切った女の強靭さが、画面全体を貫流していたからである。
前途多難だが、モンゴル人牧畜民の気概のある女の人生は、今、ここから、新たに開いた時間を紡いでいくだろう。
自分のために初めて流した涙は、その時間を紡ぐ熱量に変換されていくのだ。
【参考資料】 拙稿「人生論的映画評論・続 無言歌」 「 Adobe PDF 牧畜民から生態移民へ ―内モンゴル・シリーンゴル盟を事例として―」 「リベラル21 中国西部の生態大移民」
(2015年5月)
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