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2015年6月28日日曜日

罪の手ざわり(‘13)     ジャ・ジャンクー

<「ルールなき激しい生存競争」―― 「人治国家」という構造化された「負のシステム」>



1  虎の絵の布を巻いた猟銃を持ち、「ケダモノを撃つ」男  天に向かって「花火」を上げる男





鮮烈な冒頭シーン。

トマトを運ぶ大型トラックが横転し、路傍に大量のトマトが散乱している。

事故を目撃したのか、オートバイに跨(またが)る一人の男が、その無残な現場を眺めている。(トップ画像)

恐らく、警察に連絡し、その到着を待っているのだろう。

その幹線道路を、オートバイで疾走する、別の男が映像提示される。

そして、その男による殺人事件が、いきなり冒頭から展開されるのだ。

オートバイに乗った男が3人組の若者に停車させられ、「おっさん、金を置いていきな」と脅された挙句、全く反応することなく、その男は躊躇なく3人組を射殺する。

場所は、湖南省十八湾。

3人組を射殺した男は、大量のトマトが散乱する事故現場を一瞥しただけで、オートバイに跨(またが)る男の前を一気に通過していく。

因みに、ジャ・ジャンクー監督によれば、トマトの散乱シーンの意味は、以下の通り。

「あのシーンは私の故郷の山西省で撮っていますが、美術を勉強していた学生の頃に見た事故現場がショッキングで、強い陽射しの中、散らばった赤いトマトが血のように見えたのです」(ジャ・ジャンクー監督インタビューより)

赤いトマト=血のイメージは観ていれば誰でも分るが、この鮮烈な冒頭シーンは、本作を貫流するメタファーとなって、円環的に括られる物語を支配していくのだ。

ここから、この二人の男の物語が開かれる。

まず、最初の男。

山西省の「烏金山国家森林公園」という名で知られる、烏金山(ウージンシャン)に暮らす炭鉱夫。

その名はダーハイ。

共有の炭鉱を売って、その金で買ったアウディが村民共有の車であるのに、村長が私物化していることに不満を持っている。

ダーハイ
「村長とジャオを監獄にぶち込んでやる。村長は共有の資産を売り払い、賄賂を受け取った。20年は監獄入りだ。ジャオの奴も、やたら羽振りがいいだろ。環境汚染、事故の隠蔽。奴も終わりだ」

仲間に語る、怒りを抑えられないダーハイの言葉である。

ジャオとは、ダーハイのかつての同級生で、今は実業家として羽振りが良く、経済的に村を仕切っている男。

そのダーハイの所に村長がやって来て、湖南省十八湾で起こった殺人事件を報告し、皆を集めて協力を求めた。

協力を求められたダーハイは、炭鉱をジャオに売った時の配当金の約束の一件が気になり、「中央規律委員会」での弁明を促した。

「少しは場をわきまえろ。負け犬のくせに」

村長の反応である。

その直後の映像は、「負け犬」呼ばわりされたダーハイの意気衰えず、右手に書状を持って、仲間に宣戦布告の狼煙を上げるシーン。

「北京に告訴状を送るんだ。村長とジャオを訴えてやる」

その宛先は、北京中南海中央規律委員会。

歴とした、腐敗摘発を任務とする政府の部署である。

しかし、宛先のアドレスが書かれていないことで、その書状を受け付けない郵便局への怒りに抑えられないダーハイは、何某かの含みを抱懐し、自家用機で村に「凱旋」するジャオを迎えるバスに同乗し、その現場に立ち会うことになる。

ブラスバンドの演奏付きの盛大な出向かいの中で降りて来た、ジャオに近づいたダーハイは、いきなり宣戦布告を突き付けるのだ。

「北京にお前と村長を訴えに行く」

そのための経費を捻出してくれと吠えまくるダーハイ。

炭鉱の利益の4割を私物化すると信じるジャオへの怒りは、このような叫びに結ばれるのだ。

しかし、ここでもまた置き去りにされたダーハイが、まるで「ゴルフ」のように、ジャオの手下にシャベルで繰り返し殴られ、重傷を負う始末だった。

「憤怒により、剣を抜き」

頭に包帯を巻き、村に戻ったダーハイが、そこで聞いたのは、京劇の「水滸伝」で演じられる林冲(リン・チュウ)の、この台詞だった。

これが、累加された憤怒を噴き上げていくダーハイの「戦争」のシグナルとなった。

帰宅したダーハイは、虎の絵の布を巻いた猟銃を持ち、村の会計の責任者のリュウのもとに乗り込んで来て、村長への賄賂の金額を口述書にするための恫喝を加えるのだ。

リュウの妻が呼んだ警察のサイレンの音を聞き、突然、強気な態度に変容したリュウの挑発に対して、一発の銃丸を放って射殺し、近づいてきた妻をも撃ち殺すダーハイ。

その顔に返り血を浴び、殺気だったダーハイの炸裂は、もう止まらない。

「ケダモノを撃つ」

そう言い放ち、村の知人たちの前を通り過ぎて行くダーハイは村長を射殺した後、アウディの後部座席に乗り、そこで「腐敗の根源」と決めつけたジャオを待つ。

まもなく、そのジャオがアウディに乗り込んで来た。

有無を言わさず、射殺したのは言うまでもない。

全身に鮮血の赤が染め抜いて、会心の笑みを洩らすダーハイの、「正義」という名の「天誅」が終焉した瞬間である。

―― オムニバス形式の映画は、ここで、湖南省十八湾で3人の若者を射殺した冒頭の男に繋がっていく。

チョウ
その名はチョウ。

「三男が帰ってきたぞ!」

この村人の歓声の中で、故郷の重慶に戻って来たチョウを迎える妻子の冷淡な態度が印象的に映し出される。

出稼ぎから戻る大晦日に合わせた、チョウの母の70歳の誕生日祝いの日だった。

チョウの息子は父から逃げ、無理矢理、祖母にお辞儀させるのだ。

「送金を受け取った。全部で13万人民元。最後のは山西からだった」
「武漢で稼いで、山西から送った」
「もう、いらない」

夫婦の会話である。

既に、夫のチョウのリュックサックの中に銃の弾倉を視認している妻は、「出稼ぎ」という名の「犯罪」に関与している夫に、求めるように呟いた。

「この村にいたらいいじゃない」

即答できない「間」の中から、ミャンマーに行くと言う夫のチョウも呟くように吐き出した。

「つまらない」
「何がつまらないの?」
「銃声にすかっとするのさ」
「ミャンマーで何をするの?」
「性能のいい銃を買う」
「電話ができるように携帯を買って」
「ダメだ。危険過ぎる」

夫婦の異様な会話が閉じて、妻の希望を無視したチョウが起こした強盗殺人事件のシーンが、その直後に繋がっていく。

翌日のことだった。

場所は、富裕層が多く住む重慶市街の中枢のスポット。

銀行から預金を下ろした中年夫婦を、帽子を目深に被り、サングラスをかけ、黒いセーターで顔を覆ったチョウは、いきなり背後から二人を射殺し、夫人の持つブランドバッグを奪って逃走した。

「出稼ぎの仕事」が終焉し、天に向かって「花火」を上げる男がそこにいた。

天に向かって「花火」を上げるチョウ
それは、打ち上げ花火を見ていた自分の息子に、「花火を上げようか」と言って、天に向かって、矢庭に銃声を響かせた行為とトレースするものである。

「花火」の心地良き響きは、「重慶市でのつまらない村の暮らしで命を輝かすことができなかった」(ジャ・ジャンクー監督の言葉)男の心の空洞を埋めるに足る行為なのだろう。

もう後戻りができないほど、「すかっとする」男の非日常の生活風景は、派手な「花火」を打ち上げて、いつか必ずやって来る、「散り花」の妄想イメージの中でしか呼吸を繋げないようだった。

その直後、湖北省行きの夜行バスに乗ったチョウは、運転手を恫喝し、途中でバスを降りて闇に消えていく。



2  そこだけは決して譲れない自己の尊厳を守り抜いた女  孤立無援の深い絶望感の中で追い詰められゆく青年




先の夜行バスで、湖北省に到着した男がいる。

男が向かったのは、恋人が待つ一軒のカフェ。

男の名はヨウリャン。

シャオユーとヨウリャン
女の名はシャオユー。

ここから、三つ目の物語が開かれる。

「奥さんに話した?」
「ほのめかした」
「言わなかったのね」
「たぶん理解したよ。広州に来てくれ」
「何年も一緒なのに、まだ待つの?私は我慢できるけど、親に説明できない・・・子供が欲しいの」
「一緒に来てくれ」
「奥さんを取るなら、別れましょ。私を取るなら、奥さんと別れて。長引かせないで」

「間」を取りながら繋がれた二人の会話の重さは、人生の選択を迫る女と、人生の選択を迫られる男との、抜き差しならない状況を提示する。

湖北省に住み、風俗サウナの受付係をしているシャオユーが、不倫相手のヨウリャンの妻に乗り込まれ、随伴して来た男に暴力を振われたのは、この重苦しい会話の直後だった。

「他人の夫を誘惑するのが、あんたの人生?」

ヨウリャンの妻の叫びが、口から血を滲ませているシャオユーの心を打ち砕くのに充分だった。

そのシャオユーの風俗サウナに、二人の男がやって来た。

一人は、検問所を勝手に設けて、手下を使い、通行料をせしめていた男である。

その風俗店の一室で洗濯をしているシャオユーを、その男たちが「マッサージ」を要求してきたが、受付係であることを理由に断っても、男たちの執拗な要求に困惑するばかりのシャオユー。

「俺をなめるな」と男。
「金ははずむぞ」と別の男。
「出てって」とシャオユー。
「何だ、すかしやがって。金はあるんだ」
「できません!」
「サウナで働いてるんだろ?」
「娼婦じゃありません。帰って!」

そう叫んで、二人の男を部屋から追い出したが、右手に札束を抱えて、強引に部屋に入り込んで来た「検問所の男」に繰り返し平手打ちされるのだ。

「金はあるんだ!」
「買えません!」

この不毛な押し問答が、風俗サウナの小さなスポットで暴れ捲っていた。

札束で女を叩き続ける男の暴力は、それを厳として拒絶するシャオユーの態度の硬化が続くほど、より醜悪に尖り切っていくのだ。

「貴様なんか、金で俺の言いなりだ!」

この構図は、金で全てを買って優越感を満たす男の自尊心が揺らぐ心理を、端的に表現し切っている。

あくどい「仕事」で漸(ようや)く掴んだであろう、商品の価値尺度としての貨幣の価値が無化されたこと。

その貨幣があれば、何でも自分の思い通りになり、相手にもそう思わせたいという男のプライドライン(処世訓)が否定されたこと。

だから、「検問所の男」の行動は、より攻撃的にならざるを得なかった。

一方、娼婦と一線を画す女もまた、そこだけは決して譲れないプライドライン(尊厳)によって、徹底的に拒絶する以外の選択肢がなかった。

そのシャオユーが、札束で叩き続ける男を刺殺した行為もまた、自分の尊厳を守るための手段として回避できなかったのだろう。

なぜなら、脱出不能なこの密室での厄介な状況を鎮めるには、娼婦として男の餌食になるか、或いは、男の執拗な暴力を物理的に封殺する以外の選択肢が存在しなかったからである。

それだけの事件だった。

それだけの事件だったが、自ら携帯で警察に電話するシャオユーが失ったものの大きさは、女子刑務所から釈放された後の彼女の人生の風景の彩りをイメージさせなくもないが、意想外のラストシーンで、物の見事に回収されていく。

何より至要たる事実。

それは、貧困の家庭に育ったシャオユーが、娼婦として男の餌食になる行為に振れなかったことで、そこだけは決して譲れない自己の尊厳を守り抜いたことである。

―― そして、このオムニバス映画のラストを括るのは、広東省の青年の物語。

青年の名はシャオホイ。

シャオユーの恋人、ヨウリャンの縫製工場で働く湖南出身の青年である。

「性都」として有名な東莞(とうかん)市の虎門鎮(フーメン)に行くために、携帯で路線図を調べていたシャオホイが隣の従業員と雑談していたために、その従業員に大怪我をさせてしまった。

「仕事中の雑談は禁止されている。今日の事故はお前の責任だ。医療費は工場が支払うが、人件費はお前だ。奴の手が治るまでの二週間、お前の給料は奴に行く。お前は無給だ」

これが、工場長のヨウリャンが与えた、シャオホイへのペナルティである。

東莞市で働く友人を訪ねたシャオホイ縫製工場を辞め、その友人のアドバイスで、香港や台湾の客相手のナイトクラブ・「中華娯楽城」で働くに至った。

そこで働く、ホステスのリェンロンに恋をするシャオホイ。

東莞に向かう列車の中で、偶然、乗り合わせた女性である。

シャオホイリェンロン
「この仕事に愛はないの。私を分ってない。私、娘が一人いるの。3歳よ。育てなきゃ」

雨に咽ぶ車の中で告白するシャオホイは、彼女から意想外の返事を受け、ショックを隠せない。

シャオホイが「中華娯楽城」を辞めたのは、殆ど予想できる展開だった。

「どこにも行くところがないんだ」

東莞の友人に洩らしたこの一言の中に、人生に目的を持ち得ない青年の孤独が垣間見える。

まもなく、その友人の伝手(つてで、台湾に本社がある工場に再就職するシャオホイ。

しかし、一連の移動によって一文無しになったシャオホイは、給料が月末なので仕送りができない旨を母に携帯で伝えるが、納得できないシャオホイの母のデスボイス(がなり声)だけが虚しく響く。

「僕にも生活がある。強盗しろって言うの?」

このシャオホイの反応が受け入れられる術もなく、母と子の言語交通の途絶の中で、嗚咽を漏らしてしまうのだ。

更に、縫製工場で怪我をさせた男に連れ出され、鉄の棍棒を振り上げられて脅されるシャオホイ。

精神的・経済的に追い詰められたシャオホイは、孤立無援の深い絶望感の中で、社員寮のバルコニーから投身自殺するに至るのである

シャオホイ
ここでシャオホイの物語は終焉するが、呆気ないシークエンスという印象は拭えず、望むらくは、自殺に至る心情を補填するワンシーンが欲しかった。

その直後の映像は、山西省にあるジャオの工場の面接に赴くシャオユーの姿だった。

シャオユーの事件は、恐らく、防衛的な行動として情状酌量の余地が認められ、起訴猶予されたのだろう。

そして、面接に対応したのは、今や、ダーハイによって射殺された夫に代わり、社長に就任しているジャオ夫人である。

「これまでの職歴は?」とジャオ夫人。
「以前、広州の縫製工場に・・・」とシャオユー。
「広州?なぜ辞めたんですか?」
「環境を変えたくて」
「聞き覚えのある名前だわ。地元で何かあったの?」

この物言いは、シャオユーの事件が、中国版ツイッター・「微博」(ウェイボー)を通して、中国全土に広まっていたことをサゼッション(示唆)している。

「いいえ、何も・・・」

その一言を残して、すっかり髪型を変えたシャオユーは、工場を去っていく。

ラストシーン。

野外では、多くの観衆を前に、京劇が演じられていた。

「蘇三、自分の罪を認めるか?お前は自分の罪を認めるか?」

毒殺事件の罪を着せられた、名妓・玉堂春(蘇三/スーサン)の冤罪を晴らす京劇の台詞が、野外劇に見入っているシャオユーの心を突き刺してくるのだ。

同時に、この問いは、自分の罪を認めねばならない者たちが、シャオユーの依拠する一党独裁制国家に数え切れないほど存在することを暗示しているのだろう。



3  「ルールなき激しい生存競争」―― 「人治国家」という構造化された「負のシステム」



「我が国は長期にわたる社会主義の初期段階にある」

これが、有名な「中華人民共和国憲法の前文」の一節である。

しかし、「中華人民共和国国家発展改革委員会」という名のマクロ経済の司令塔が存在するが、 経済システムとして見る限り、改革開放路線を採用して以降、中国は既に毛沢東時代の計画経済を放棄していて、伝統的な意味での社会主義とは言いにくい。

社会主義市場経済システムを提唱した鄧小平(とうしょうへい)
市場経済を通じて社会主義を実現すると規定した中国の「社会主義市場経済システム」は、株式制度など現代的な企業制度の確立を目指すが、「ステート・キャピタリズム」(国家資本主義)とも呼べる経済体制という一点を除けば、今や、欧米や日本の資本主義との差異を見出すことは難しいのだ。

それでもなお、日米の経済体制との重要な差異があるとすれば、激しい市場競争でのルールの有無の問題であると言っていい。

中華人民共和国・労働契約法の形骸化や、戸籍制度の規制緩和によって移動に対する規制緩和を背景にした、都市に流れ込む中国の出稼ぎ労働者(農民工/約1億5000万人)の未払い賃金の問題などは、まさに、「ルールなき激しい生存競争」の象徴だろう。

庶民的な人物というイメージで人気があった温家宝ですら、一族のために数十億ドルの財産を蓄えたとするニューヨークタイムズの記事には驚かされたが、官僚や党支配層らの汚職・収賄・親戚縁者への利益誘導(縁故資本主義)などの由々しき現実を見る時、中国は相変わらず、「人治国家」(法ではなく人が治める国家)であって、とても「法治国家」とは言い切れない「負のシステム」が構造化されているように思われる

ルールの順守よりも、自らの生き残りを優先するという国民性があると指摘する声もあるくらいだ。

因みに、「西部大開発」の政策を不可避にするほど顕著な地域格差、都市・農村格差に象徴される中国の格差について言えば、ジニ係数(0を完全な平等として、1に近いほど格差が大きいこと)が危険水域(0.4が警戒ラインで、0.6を超える数値)に達していると指摘する専門家もいる。

サブサハラ(サハラ以南のアフリカ諸国)の水準を連想させる中国のジニ係数の数値は、2012年段階で0.47(国家統計局)だが、0.73(北京大学社会科学調査センター)という数値も指摘されているのだ。

これが、地方の暴動が常態化し、暴発寸前とも言われている背景にある。

そんな中で、農村の土地収用の補償金を引き上げ、都市に移住した人達への社会保障費を充当するためにも、財源の確保が必要になると同時に、乱開発によって膨張している負債の処理も求められる。

収入分配の構造を変える経済改革が進まなければ、格差の是正は不可能であり、まして、公平な社会保障制度を確立することなど、夢のまた夢である

そして、8000万人を超える中国共産党の一党独裁体制下にあって、既得権益集団である地方政府と、企業家らとの癒着ぶりも惨状を呈している。

例えば、農民の土地を収用し、開発業者に高値で転売することで財政収入を確保し、そこから得た資金で無謀な都市開発を進める者も多いと言われる。

要するに、先進国が「負担の配分」=「不利益の分配」という本質的なテーマを抱えているとすれば、「富の配分」=「利益の分配」という途上国特有のテーマが、いよいよ深刻化し、リアリティを増幅させてきているのだ。

―― これは、「大幅な貧富の格差に起因する人格の危機」(ジャ・ジャンクー監督の言葉)をテーマにした本作でも執拗に描かれていた。

「ケダモノを撃つ」と叫んで、炭鉱の利益を私物化する企業家へのダーハイの怒りは、彼をシリアルキラー(連続殺人犯)にしてしまった。

全身が鮮血の赤で染め抜かれたダーハイの、拠って立つ「正義」という名の「天誅」には、腐敗・汚職に鈍感になった村民たちからも置き去りにされた挙句、行為の是非の問題を抜きにすれば、「憤怒により、剣を抜き」という最後の手段に訴えた男の憤怒の爆轟(ばくごう)だった。

自家用機で、村に「凱旋」する企業家を迎えるバスに同乗するのは、企業家と癒着する小さな地方政府の官僚たち。

この異様な構図こそ、実話をベースにして構築した映画が突き付けた怒りのメッセージである。

チョウ(右)
また、村の暮らしが「つまらない」と口にする出稼ぎ労働者のチョウは、「銃声にすかっとするのさ」と妻に答えて、富裕層をターゲットにした強殺を繰り返すことで、存分の快楽を得るところまで堕ちていってしまうのだ。

「ピストルが鳴る、そのときが気持ちよかった」

そんなチョウの行動を、「生き生き暮らせない精神的な困難さ」という表現によって説明するジャ・ジャンクー監督は、極端なまでの社会の変動の中で、その人格を変容させてしまったチョウの心理の「苛立たしさ」を炙り出したのである。

そして、シャオユーの事件の背景にあるのは、「金で俺の言いなりだ!」と叫び、札束で叩き続ける男の暴力が、相手の人間の尊厳までも思い通りにすることができないという、当然過ぎる心の風景の様態だった。

「弱者は尊厳を守るために、最も安易で有効な方法として暴力という方法を選ぶ」

これもジャ・ジャンクー監督の言葉である

但し、そこだけは決して譲れないはずの尊厳を守る闘いに勝利したシャオユーが、ブルース・リーではあるまいし、何の鍛錬もなく、唐突に中国武術の「功夫(カンフー)のヒロイン」を立ち上げるシーンを見せつけれれて、正直、拍子抜けした。

野暮なことは言いたくないが、「格闘技コミック」の意図で作ったのではないだろう映画のこのシーン、明らかに、リアリズムの削り方が間違っていると、私は思う

また、第4話のシャオホイのエピソードの中で、親しくなったホステスのリェンロンが微博ウェイボーの情報で、こんな会話があった。

「東北の土地局長の家から、130個のヴィトン鞄だって」とリェンロン
「そんなに要るの?」とシャオホイ。
「女だから要るのよ。総額で200万元だって」(注)

この事実のコメントを求められたシャオホイは、「この野郎!」と書き込むのだ

明らかに、格差社会の現実を提示したワンカットだった。

「僕にも生活がある。強盗しろって言うの?」

これは、その途轍もない格差社会の現実を被弾するシャオホイが、仕送りができない状況に追い込まれ、それを伝えても、理解されない鬱憤母に吐き出した時の言葉である。

シャオホイリェンロン
「どこにも行くところがないんだ」と友人に洩らしたシャオホイのこの一言は、茫然と寮を眺め続ける青年の絶望感を映し出していた。

そんな青年に残された選択肢が自殺以外になかったとは思えないが、この括りを選択しジャ・ジャンクー監督の思いは、以下のインタビューの言葉を受け入れれば分らなくもない。

「4つめは、隠された暴力。工場やナイトクラブの給料はどうなっているのか、誰が家族の家計を支えているのか。直接的ではない、隠された側面がありました」

稿の最後に、全4話の中に象徴的に現れる、擬態化された動物たちの意味を考えたい。

ダーハイの事件の前後に提示される、持ち主によって、打擲(ちょうちゃく)され続ける「馬」。

チョウのオートバイの前を走行する、トラックの荷台に積み込まれた

不倫相手のヨウリャンの妻に同行した男に暴力を振われ、シャオユーが逃げた先にあった見世物小屋の「蛇」。(これは、自在に生きるカットと対比させていた

そして、シャオホイの片思いの相手・リェンロンが、「来世で罪を許されたくて」、善行のために放流すると言って、実行た鉢の中の「金魚」

これらの動物のメタファーの意味は、中国共産党の一党独裁体制下で唯々諾々(いいだくだく)と、上意下達の指示で動く中国の民衆の不自由な存在性をシンボリックに映像提示したと、私は考える。

これが、印象的なラストカットで強調されるのだ

そこで映し出されたのは、野外劇に見入っている多くの観衆の無言の表情だった。

何か、諦め切った中国民衆の相貌が、観る者に相当のインパクトを与えるのだ。

ジャ・ジャンクー監督チャオ・タオ夫妻 
現代中国をネガティブに捉える傾向を持つ、中国映画界の「第六世代」を代表する映画作家・ジャ・ジャンクー監督。

只者ではない映画監督である。


(注)1人民元は約15円程度だから、200万元なら約3000万円ということになる。


【参考資料】 「中国が抱える課題“格差拡大”は解決できるのか?」 NHK 解説委員室 視点・論点 「中国 既得権益に切り込めるのか」

(2015年6月)


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