1 「ムショは、もういやだ。あの服役で懲りた」
とかく暴走しやすい主題を、一人の黒人の生活風景のうちにシンプルに特化した構成力によって均衡を保持した、インディーズムービーの傑作。
―― 以下、梗概。
フルートベール駅。
2009年元旦に、その事件は起こった。
カリフォルニア州オークランドでのこと。
「警察の暴力だ!」
騒動の中で、そんな叫びが拾われていた。
誰かが投稿した動画の実写である。
一発の銃声音が聞こえた瞬間、その動画が切れてしまうのだ。
ここから、アメリカ社会を震撼させた事件を描く物語が開かれる。
カリフォルニア州ヘイワード。
かつて、19世紀半ばに起こったゴールドラッシュの波に乗り、ホテル経営で成功した東部の靴職人の名に由来するサンフランシスコ湾東岸に位置する街である。
その街に在住する一人の黒人男性が、黒人女性に言い寄っていた。
黒人男性の名はオスカー・グラント。
失業中の22歳の青年である。
「触られると、あんたの浮気を思い出すの」
そう言って、オスカーを拒んだ黒人女性の名はソフィーナ。
だから、「永遠に好きだ」と言われれば、ソフィーナもオスカーを受け入れるのだ。
そこに、「眠れないの」と言って、二人の部屋に娘のタチアナが入って来た。
娘の声を聞いた途端に、ドラッグを隠し込むオスカーはタチアナを受け入れ、3人で添い寝する。
それが、2008年・大晦日を迎えたばかりの若き黒人一家の、「最後の特別の夜」の風景の一端だった。
娘のタチアナを保育園に、妻のソフィーナを仕事場に送り届けたオスカーは、この日が誕生日の母親・ワンダに、「おめでとう」と携帯で連絡する。
「40時間働いても、給料は20時間分でいいんだ」
解雇されたスーパーの店長に、再度、雇用を求めるオスカーの直談判のシーンが、その直後に映像提示されていく。
「別の者を雇った」
店長のこの一言で、新年を迎えるオスカーの失職中の侘しさが描かれるが、「遅刻の常習犯」であったオスカーの怠惰ぶりが全てだった。
それでも、家族を持つ本人の意識としては、「真面目に働く」思いがあるようだった。
しかし、家賃代を払えない妹からの借金の申し出を引き受けたオスカーが、隠し込んだドラッグの売人になることで、その金銭を用立てるという安直な手段に逃げ込む軽薄さが露呈されるのだ。
路上で轢かれたピットブル犬(闘犬として有名。ここでは黒人のメタファー)を必死になって助けようとする優しさと、少しのことでも切れてしまうほど喧嘩早くて、ドラッグの売人になって刑務所に入獄する愚かさが同居するオスカー。
人間とは、そんな矛盾を、一つの人格のうちに抱え込んでいる厄介な生き物である。
「白豚野郎!」
ちょうど一年前に、入獄していた刑務所で、面会に来た母親の前で、自分をバカにする白人の囚人に放った言葉である。
その母親を嘆かせたことを思い出し、後悔する人柄のオスカーだが、思春期までに作られた性格は簡単に変わらないのだ。
「金はいらないよ」
そう言って、オスカーがアジア系の男に隠し込んだマリファナを譲渡する。
マリファナを吸えよと言われても、拒絶するオスカー。
そこで、刑務所に面会に来た母・ワンダの嘆息を想起し、少しは自分の人生を真剣に考えるに至ったことが大きかったのだろう。
しかし、スーパーを解雇されていた事実を話さなかったことを、ソフィーナから難詰(なんきつ)される。
「社会を甘く見てるわ。クビにされて復職ですって?この先、どうやって暮らすの?私をダマしといて、娘にもウソを言ったわ」
ここまで言われてしまえば、オスカーも怒りをダイレクトに表現するしかなかった。
「俺だって苦労してるんだぜ!」
くすんだ風景の中の夫婦喧嘩が沈黙を生んだ時、オスカーは、どうしてもそこだけは言いたい思いを口に出す。
「疲れた。クサは捨てた。それが言いたかった。やり直そうとしたけど、うまくいかなくて・・・ムショは、もういやだ。あの服役で懲りた」
真剣な表情で語る、この夫の思いをソフィーナは受容する。
ソフィーナの実家でのエピソードだった。
母親の誕生日パーティーを皆で祝った後、オスカーはシスコの町に出て行く予定を立てていた。
花火を見るためである。
以下、娘・タチアナをソフィーナの姉に預けた際の短い会話。
「夜明け前には戻る」とオスカー。
「ダメ。行っちゃイヤ。怖いの」とタチアナ。
「何がだ?」
「鉄砲の音がする」
「タチアナ。あれは爆竹の音だ。ここにいれば大丈夫」
「パパも大丈夫?」
「勿論だ」
2 「撃たれた。娘がいるのに・・・」
駅で待ち合わせた仲間に加わったオスカーとソフィーナは、新年のカウントダウンの花火を見に行くために電車に乗った。
禁煙なのに、平気で喫煙する黒人の仲間たち。
「次はウエストオークランド。少し遅れています」
車内放送である。
このとき、午後11時55分。
カウントダウンの花火に間に合わないことを心配するソフィーナ。
間に合わないので、車内でカウントダウンのパーティーを始めるオスカーたち。
音楽をかけ、陽気に踊り出す黒人の仲間たち。
車内で新年を迎えるのだ。
車外では、打ち上げ花火が様々な色彩の炎を放出し、澄み切った冬の夜空を焦していた。
車外に出た連中の中で、二人の女は、閉店した白人の店のトイレを借用する。
再び電車に乗った連中は、「次はフルートベール」という車内放送を耳にする。
散々、騒ぎ捲った反動で、彼らの表情に疲労感が漂っている。
開いた席に、ソフィーナが座っている。
オスカーも、開いた席に座ろうとしたときだった。
昨日、スーパーで知り合ったケイティーが、オスカーに声をかけてきた。
その「オスカー」という名前に、頑健な白人の男が因縁をつけてきた。
「”パーマシーア”のタトゥー男」
男はそう言ったのだ。
その意味は、「背中に刺青を彫っているオスカー」というところか。
聞き覚えのある声とその言葉で、オスカーは相手を特定できていた。
サン・クエンティン州立刑務所(ウィキ) |
険悪な仲だったのだろう。
「何、話してる?」と男。
「ここは電車の中だ」とオスカー。
「関係ねえ。覚悟しろよ」
そう言うなり、その男は、いきなりオスカーに殴りかかってきた。
一瞬にして、車内は、多くの乗客を巻き込んだ乱闘状態になった。
「乱闘が起きました。警官が来ますので、皆さん冷静に。」
車内放送である。
ここで、オスカーたちは下車し、プラットホームを歩いていく。
眼前に鉄道警察官たちの姿が見えた。
ソフィーナが、再び電車に乗ることを促し、一斉に乗車する
しかし、乗車していない3人の仲間は、上司の警官・カルーソ(以下、カルーソ警官)から、「上着を脱げ。壁の方に向け」と一方的に命令される。
警官に事情を説明しても、全く取り合ってくれないのだ。
「これが警官かよ」
仲間たちに別行動を指示したオスカーは、「騒ぎを起こした者は降りて来い!」と叫ぶカルーソ警官の声に迷いを見せるや、そのカルーソ警官に乗り込まれ、車外に引き摺り出されてしまう。
「何もしてないのに逮捕か?」
ホームの壁に座らせられたオスカーは抗議する。
他の黒人仲間からの抗議めいた一言を聞くや、いきなり蹴り飛ばすカルーソ警官の行動は、「権力関係」で対峙する「不良黒人」への暴力的恫喝以外の何ものでもなかった。
立ち上がったその黒人を、首から叩き落とす警官。
オスカーらの抗議が声高になっていく。
警官たちの暴力が、一気にヒートアップするのだ。
オスカーを含む4人を座らせた後、拳銃を持って恫喝するカルーソ警官。
カルーソ警官が若い警官・メーサラル(以下、メーサラル警官)に、「静かにさせておけ」と命じたのはそのときだった。
今度は、拳銃を持って恫喝するのは、そのメーサラル警官だった。
そこにソフィーナから携帯の電話が入り、「警官から暴行を受けている」と説明するオスカー。
「切れ!」
メーサラル警官がオスカーに命じる。
その命令に従うオスカーは、「家に帰らせてやるぞ」と仲間に呼びかけ、警官に「話がある」と言って立ち上がるや、有無を言わさず、カルーソ警官から蹴られたばかりか、他の警官からの暴行を受けるのだ。
「何もしてないんだから、逮捕できねえさ」
カルーソ警官の命令一下、容疑も定まらないまま、手錠をかけられていく黒人たち。
このとき、「クズ!」とまで言われたオスカーが、「本当のクズは誰だ!」と反論したことで、警官たちの暴走が加速する。
後ろ手に手錠をかけられたオスカーは、無機質なホームに顔を押し付けられ、完全に抵抗力を奪われてしまうのだ。
メーサラル警官の拳銃の銃声が炸裂したのは、この時だった。
撃たれたのはオスカー。
「撃ったな。俺には娘がいる・・・」
絞り出すように、オスカーは無念の言葉を漏らす。
「撃たれた。娘がいるのに・・・」
オスカーが、この世に残した最期の言葉である。
「オークランド射殺事件」(「フルートベール事件」)と呼ばれる、世論を震撼させた事件の中枢点が終焉した瞬間だった。
直ちに救急車に運ばれていくオスカー。
その事実を知ったソフィーナは錯乱し、オスカーの母・ワンダに携帯で知らせ、共に救急病院に駈けつけていく。
「きっと助かる。皆で祈りましょ。動揺していると思うけど、心を一つにするの」
そこに、手術の結果を知らせる担当医がやって来た。
「内出血がひどく、右肺を摘出しました。人工呼吸器で呼吸は安定しています。問題は内出血です。出血を止めるのが、かなり困難な状況です」
この言葉に動揺するオスカーの友人たちは声を荒げるが、ここでも、冷静なワンダの対応が澱んだ空気を鎮静化する。
長い手術の結果、夜が明けた。
祈りを続けるワンダたち。
しかし、オスカーの命は蘇生しなかった。
出血多量死だった。
「会いたいわ。顔を見たい」とワンダ。
部屋に入って触れることが禁止される条件下で、ワンダは一人で、既に絶命している息子の顔を見にいく。
「私が“電車で”って、電車を勧めたの。それで死ぬなんて。車で行かせれば良かった。でも心配だったの」
初めて嗚咽するワンダがそこにいて、彼女が洩らす言葉の切なさが観る者に突き刺さってくる。
「パパはどこ?」
姉に預けた娘・タチアナを起こし、帰宅してシャワーを浴びている母・ソフィーナへのタチアナの、この一言が、理不尽な死を遂げた物語のラストカットになった。
「数名が駅での出来事を記録していた。ビデオカメラや携帯電話を使って、その映像が抗議や暴動を引き起こした。警官による発砲事件のあと、警察と鉄道の幹部が辞職し、撃った警官は、殺人罪で起訴された。だが、“テーザー銃と間違えた”との主張で、陪審員は、過失致死罪であると認め、懲役2年となったが、11ヶ月で釈放された」
3 「犯罪の臭気」を漂動させている「少なくない黒人」への「権力的構え」の暴走
「差別をしてはならない」
教育現場でよく聞く言葉である。
異論はないが、疑問も湧く言葉である。
ここで言う「差別」とは、一体、何を指しているのか。
常識的に考えれば、特定他者に対する嫌がらせ・無視・誹謗中傷・虐めなどの「行為」を指していると言っていい。
しかし、「差別」という概念が、「行為」に限定できないから厄介なのである。
「差別」という概念のうちに、「意識」を含めている人が少なくないからである。
言わずもがな、「意識」と「行為」は同義ではない。
私たちは、まず、この視座を認知せねばならない。
「行為」の修正は可能だが、「意識」の修正は容易ではないのだ。
不可能ではないが、青春期までに形成された「意識」の修正は、あまりに困難なテーマである。
それにも拘わらず、「意識」の根柢的修正なしに、その「意識」を「行為」に変換させる能力が、私たちにはある。
「意識」を「行為」に変換させずに、それを制御し、目立たせることなく封印させる能力があるのだ。
それが、私たちの自我機能の本来的な内的作業である。
その把握こそが、何より重要なのである。
思うに、自我によって生きる人間は、森羅万象に優劣の価値づけを措定して生きていかない限り、自分が守るべき文化的・経済的・物理的、そして何よりも、自分の拠って立つ精神世界を維持して生きていけないのである。
私たちは、その人格的なるもの、内面的なものにまで眼に見えない商品価値性を被せて、その日常性を繋いでいるということ。
要は、そのような優劣意識が、偏見や狭隘な信仰、イデオロギー的感情等と結びついて膨れ上がってしまうと、それが明らかな「差別意識」となって、身体表現としての「差別行為」に繋がる危険性を大いに孕(はら)んでしまうということだ。
人は皆、それぞれの「意識」の個人差があっても、何らかの形で「差別意識」を持ってしまう事実を認めざるを得ないのである。
ただそれが、過剰なほど膨張しているか、或いは、理性的に抑制されているかによって、そこに決定的な分岐点が発生するということなのである。
特定他者に対して、「差別意識」を抱懐(ほうかい)してしまうのは、殆ど人間の性(さが)であると言っていい。
特定他者に対する「差別意識」から、全く無縁に自我を作り得るほど、私たち人間は気高くないのである。
繰り返すが、その「差別意識」を「差別行為」に変換させずに、それを制御し、目立たせることなく封印させる能力が、私たちにはある。
そこに救いがある。
私たちは愚かだが、決して「丸ごと愚かなる者」ばかりではないのだ。
―― ここから、黒人差別として喧伝(けんでん)された本作の事件の背景に言及したい。
「あんたみたいな女に、有能な白人の男たちが職を奪われてるんだ。親父が不憫だ。清掃員として働いた金で会社を始めた。23人の従業員は全員黒人で、平等に給料を払ってた。30年間、彼らと一緒にゴミを運んでいたんだ。だが、少数民族の雇用主を優先する法律ができて、一夜にして全てを失った。会社も家も妻も。だが、恨み事は言わない。あんたたちの利益のために全てを失った男に、ほんの少し手心を加えてくれるだけでいい」
「アファーマティブ・アクション」という「善き制度」(注)によって、全てを失ったと決めつける意識が膨張し、黒人に対するライアン警官の「差別意識」が、「差別行為」に変換させずにいられない状況が常態化しているのだ。
ライアンのケースは、「ホワイト・バックラッシュ」(逆差別論議の中で起こった白人たちの反動的行為)の典型例と言っていい。
彼らは、常にこんな風に考えている。
「少なくない黒人」が、「アファーマティブ・アクション」(差別されてきたマイノリティに対する米国の特別優遇政策)によって救われているにも拘らず、福祉に完全依存し、熱心に働くこともせず、非健康的な日常性を繋いでいる。
何より許し難いのは、「少なくない黒人」は、ドラッグに手を出し、その売人になり、常に、その周囲に「犯罪の臭気」を漂動(ひょうどう)させていることである。
だから、「犯罪の臭気」を漂動させている「少なくない黒人」とは、物理的・心理的に最近接しないような充分な距離を保持し、「触らぬ神に祟りなし」という方略の方が正解なのだ。
以上のような「差別意識」が、「少なくない白人」の身体にべったりと染み付いているが故に、いつしか、「少なくない黒人」との交叉に対する防衛的反応が先行し、「犯罪の臭気」を不必要なまでに感受してしまっている。
「犯罪の臭気」を漂動させている「少なくない黒人」の図体が大きく、大柄であればあるほど、「少なくない白人」の不安感情を増幅させるだろう。
「少なくない白人」の「認知的構え」(最悪の事態を想定し、追体験することで冷静な状態を保持)の捩(ねじ)れ切ったスキーマによって、ヘイトクライム(憎悪犯罪)に下降する厄介な事態とは無縁に、彼ら自身でも気付かないような「差別意識」が、何か一つの喧嘩や騒動にインボルブされてしまうと、その不安や恐怖の感情が突沸(とっぷつ)し、しばしば、権力を笠に着た暴力行為などに振れてしまうのである。
要するに、彼らは怖れているのだ。
この国の「人種のサラダボウル」の中で、「家畜」でしかなかった「意識を持つ動物」=黒人奴隷を「飼育」してきた、奴隷制度の長くて深い、瞑闇(めいあん)なる負の歴史の累加の中で沁み付いた「差別意識」が、一気に「差別行為」としての暴力に変換されてしまうのは考えられないことではない。
それほどまでに、根が深い問題であるということだ。
「少なくない白人」の脳裏に深々と染み付いている、負の感情を浄化するのは容易でないが故に遣り切れないのである。
―― 以下、映画で提示された情報を前提とした上で考えてみたい。
混雑している車両内で、オスカーは、刑務所で険悪な仲だった男に因縁をつけられ、一方的に喧嘩を売られ、有無を言わさず殴られ、殴り返すことで、「乱闘事件」として扱われに至った。
瞬く間に、婦警を含む複数の鉄道警察官がやって来て、あろうことか、全く相手にするつもりのないオスカーら黒人の仲間だけが捕捉される。
一切の問題は、このときの警官たちの行動に尽きる。
オスカーらに何の落ち度もないことが明瞭だから、ここでは、警官たちのサイドから彼らの行動を考えてみたい。
オスカーを引き摺り出すカルーソ警官 |
しかし、カルーソ警官は、今までもそうであったような経験則に則って、オスカーら黒人の連中を逮捕し、警察署に連行していくことで、一つの頻発度の高い「乱闘事件」を処理し、「一件落着」するつもりだったに違いない。
拳銃をオスカーらに向けていても、それはどこまでも、「乱闘事件」の合理的処理の手段でしかなかったと思われる。
ところが、この警官たちの中に、経験の浅い若い警官が含まれていたこと。
メーサラル警官である。
これが、合理的処理による「乱闘事件」の「一件落着」の流れを変えてしまった。
既に、プラットホームの地べたにうつ伏せの状態で押さえつけ、全く抵抗する余力を持ち得ないオスカーの行動監視を任せられたメーサラル警官にとって、「乱闘事件」の「当事者」であり、「火付け役」であると無前提に信じるほどに、「犯罪の臭気」を漂動させている黒人たちに対する、不必要なまでの「権力的構え」があった。
ここでは、黒人が集団であったこと。
この把握が重要である。
黒人集団の「集団凝集性」(集団内の求心力)の高さを感じたことで、カルーソ警官の指示に従う、婦警を含む複数の警察官に、より強度な「権力的構え」を作らせてしまったのである。
「本当のクズは誰だ!」と反駁するオスカーの叫びは、監視を任せられていたにも拘らず、静かにさせることができないた若いメーサラル警官の肝を直撃し、経験の浅い彼の情動を瞬時に引き出してしまったのではないか。
そして何より、上司であるカルーソ警官の方が「クズ」と言い切ったオスカーの反駁を受けたことで、非日常下での突発的事件に対応する警官たちの「集団規範」が過剰に反応したという点を見過ごすことができないだろう。
メーサラル警官の拳銃の銃声が炸裂したのは、この時だった。
「なぜだ」
意想外の事態の出来に、カルーソ警官は、部下であるメーサラル警官の行為を難詰(なんきつ)した。
我を失い、茫然自失する一人の若き警官・メーサラル。
然るに、事の顛末(てんまつ)の一切が、オスカーらへのカルーソ警官の暴力的対応にあるのは自明である。
カルーソ警官が支配する〈状況〉の影響下で、婦警を含む複数の警官たちの自己コントロール能力の、その脆弱性が露わになってしまうからである。
彼らは、上司の警官・カルーソの経験則を、未だ学習し切っていなかったのだ。
「刑務所と地続きに生きる、怠惰な黒人に舐められたら治安は守れない。だから、暴力的に恫喝する」
これが、カルーソ警官の経験則であるだろう。
本作の発砲警官・メーサラルも、前述した「クラッシュ」で描かれたハンセン警官のように、観念的に「アファーマティブ・アクション」の「正義」を信じるヒューマンな若者だったのかも知れない。
それとも、カルーソ警官の経験則を言語的に吸収することと、「正義」の具現を目指す理念とのすり合わせに苦労していたと考えられないこともない。
何もかも不分明である。
「拳銃はどこまでも恫喝の道具であって、それを使ったら厄介な事態になるぞ」
或いは、メーサラル警官は、こんな含みを持つカルーソ警官の経験則を学習内化するほどの時間もなく出来した、この由々しき事件に遭遇しただけなのかも知れないのだ。
いずれにしても、情動の炸裂をコントロールし得ず、取り返しのつかない事態を招来するに至る彼の未熟性は、苛酷な任務に就く警官として不適格だったと言えるだろう。
問題の根源は、「差別意識」が「差別行為」に下降していく時のハードルの極端な低さが、〈状況〉を仕切るカルーソ警官の人格にべったりと染み付いていたこと。
これ以外ではない。
そして、彼はこれまでも、このような事態に対して、彼の経験則によって処理し、「一件落着」をリピートしてきたのだろう。
そこに、「行動随伴性」(良い結果は繰り返される)によって強化された、カルーソ警官の経験則の頑(かたく)なさを見ることが可能である。
今回のように、鉄道構内で「乱闘事件」が発生し、そこに黒人グループが関与していて、仮に、相当程度の確率で、その黒人グループの「無法性」が「確認」できていたら、それが彼の経験則のうちに確信的に固着されていたと考えられることである。
厄介なのは、その確信的な経験則が、彼の人格に染み付いている「差別意識」に淵源(えんげん)している現実に無頓着であったことではないか。
その無頓着さこそ、「差別の前線」で、最も尖り切った事態に突沸(とっぷつ)してしまうが故に厄介なのだ。
カルーソ警官の行動には、この風景が見え隠れするのである。
その意味で、一見、抑制機能を失っているように見えても、カルーソ警官は、彼なりの冷静さを保持していたと言っていい。
彼は、一貫して確信犯だったのだ。
それでも、シナリオ通りに軟着し得ず、予期し得ない事態を惹起させてしまうのが、私たち人間のどうしようもない性(さが)なのである。
カルーソ警官は、「行動随伴性」による報酬を得ることがなく、逆に「差別意識」に淵源する彼の経験則の危うさを浮き彫りにしてしまったのだ。
だから、カルーソ警官が被弾した「テールリスク」(大きな損失を発生させる想定外のリスク)は、単なる偶然性の問題ではなかったということである。
―― 本稿の最後に、これだけは書いておこう。
「それでも夜は明ける」より |
奴隷制度時代に使用されていた、「ワン・ドロップ・ルール」(一滴でも黒人の血が混じっていると黒人とみなされる)という嫌な表現が、現在でも生き残っていること。
残念ながら、これが現実なのだ。
「教会銃乱射事件」より |
(注)例えば、ハーバード大学では、マイノリティに対する教育上の優遇が顕著であり、「アファーマティブ・アクション」への「ホワイト・バックラッシュ」を生む土壌になっている。
ジョンソン政権下で成立した1964年の「公民権法」において、人種に関わらず、すべての学生を公平に扱わなければならないと定めているが、その実態は、以下の通り。
アジア系アメリカ人が合格するには、全米の殆どで義務付けられているSAT(大学進学適性試験)で、白人よりも140ポイント、ヒスパニックよりも450ポイント、アフリカ系アメリカ人よりも450ポイントの高いスコアを取得しなければならないのだ。
アフリカ系アメリカ人⇒ヒスパニック⇒白人⇒アジア系アメリカ人という順に、入学可能の極端なプライオリティー(優先順位)が、「アメリカ最古の高等教育機関であり、世界を幅広い分野でリードする」(ウィキ)天下のハーバード大学で実施されているのである。
「人種的多様性」を確保することでマイノリティにチャンスを与え、より刺激的な学習環境を確保できるという考え方は理解できるが、結果的に、多数派の白人が締め出されたという現実がある。
明らかに「公民権法」違反であると言っていい。
【参考資料】 「ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト/ハーバード大学が『アジア人お断り』」 拙稿・人生論的映画評論・続「クラッシュ」(2004年製作)
(2015年7月)
〈特定他者に対して、「差別意識」を抱懐(ほうかい)してしまうのは、殆ど人間の性(さが)であると言っていい。
返信削除特定他者に対する「差別意識」から、全く無縁に自我を作り得るほど、私たち人間は気高くないのである。
繰り返すが、その「差別意識」を「差別行為」に変換させずに、それを制御し、目立たせることなく封印させる能力が、私たちにはある。
そこに救いがある。〉
〈「行為」の修正は可能だが、「意識」の修正は容易ではないのだ。〉
私は自分を良い人間だと思っています。
出来るだけ人には優しくしてきたつもりです。
車に轢かれて死んでいる猫を見た時は、その猫が転生して乳を吸っているビジョンを心に浮かべる事を必ず行わないとならないと自己脅迫してしまうくらいの人間です。
しかしながら、私の中にもどうしようもない「差別意識」というものが存在するのも実感としてある。
人間の性であると同時に、自分でも知らないうちに意識下に入り込んでいて、自分で修正する事は出来ない。
当然、一般の市民であろうとする私は、差別意識を差別行為には変換せずに生きて来た訳だが、最近はその差別意識ともうまくつき合おうと思っている。
詳しく書く気には到底ならないが、案外差別意識の表出を適度に抑え、軽い変換程度に押さえてくれる機能が夫婦生活にあったりするのではないだろうかとも思う。
何が言いたいのかよく分からない感想で申し訳ありませんが、今回の評論も大変勉強になりました。ふりがなが多くなっていたのがうれしかったです。ありがとうございます。「ビルマの竪琴」の評論に鳥肌が立ち、近いうちに再見したいと思っております。