<煩悶する映画作家 ―― 妄想的に仮構した世界の達成的焼失点>
1 「底なしの沼に飛び込み、自分の魂の奥から、何かをさらい出す。魂を探る旅は苦痛を伴う旅だ」
コーエン兄弟の個性的な作品群の中から最高傑作を選ぶとするなら、私は躊躇なく、この「バートンフィンク」という稀有な逸品を選ぶだろう。
繰り返し観ても、構成・演出・演技ともに出色であり、何より、観る者に考えさせてくれる映像提示の連射は圧巻だった。
加えて言えば、ジョン・タトゥーロとジョン・グッドマンの圧倒的な演技力の凄み。
脱帽する。
以下、梗概。
―― 1941年のこと。
「この薄汚い街とは、もうお別れだ。数年ぶりで芽が覚めた。人生、眼を閉じると、太陽の光も夢となる。今度こそ、俺は眼ざめた」
ニューヨークの新進気鋭の社会派の劇作家・バートン・フィンクが、自らが脚本を書いたブロードウェイの演劇の中での台詞の一節である。
観客から喝采を受け、メディアから絶賛されても、「演劇の改革を目指す」という思いを捨てられない男にとって、それを素直に受け入れられないのは当然なのである。
それがバートン・フィンク(以下、バートン)だった。
ハリウッドのキャピトル映画が、バートンに高額な契約を持ちかけられても、「僕のルーツである小市民の生き方」を理想にする社会派の劇作家は、知人のガーランドの説得を受け、渋々、ハリウッドに行くことになった。
その仕事は、映画の脚本を書くこと。
そんな精神状況でやって来た、ロスのアール・ホテル。
バートンが滞在するホテルの名だが、暗鬱な雰囲気が漂っていて、まるで、特化されたその場所での、彼の仕事の艱難辛苦(かんなんしんく)を約束する「異界」の閉鎖的なスポットのようだった。
エレベーターボーイという印象とは程遠い老人に案内されたバートンが泊る部屋は、古びて埃っぽく、日差しが眩しいだけの6階の一室・621号室。
紅一点は、浜辺に憩う、水着を着た後姿の美女の絵。
その絵を凝視するバートンには、浜辺に寄せる波音が侵入してくる。
ベッドに横たわる男の視界に、天井の傷も侵入してくるのだ。
翌日、彼は自分を歓迎するキャピトル映画のユダヤ人、ジャック・リップニック社長と面接する。
マシンガントークで一方的に喋り続けるリップニックは、「映画はハートだよ」と言って、レスリング映画の脚本の執筆を押し付け、「映画はあまり観ていない」と言うバートンの片言など全く耳に入れる余地はなかった。
薄暗い部屋の一室でタイプを打つバートンの仕事が開かれるや、隣から聞こえてくる笑い声に神経をすり減らし、フロントに苦情の電話をかけた後、突然、現れたのは、チャーリー・メドウズという名の人懐っこい保険外交員だった。
相手がごく平凡な保険外交員と知って、そのような「市民感覚」の演劇を繋いで来たバートンのマシンガントークが炸裂する。
「同志」を得た思いが、閉じ込められていたバートンの情動の封印を解いたのである。
うだるような猛暑のため、バートンのベッドの壁紙が剥がれて、それを修復する男の不安が未だ深刻さを帯びていなかった。
そうかと思えば、ガイズラーという名のプロデュサーがやって来て、仕事が捗(はかど)らないと言うバートンに、訳の分らないことを言い放ち、早々と帰っていく始末。
何もかも想定外の展開が続き、バートンの神経がすり減っている時にホテルのトイレで出会ったのは、バートンが尊敬する「現代最高の作家」・メイヒューだった。
そのメイヒューの部屋を訪ねたバートンが見たものは、アルコール依存症になって、満足に小説も書けない「現代最高の作家」の裸形の姿だった。
その事実を、彼の女性秘書であり、愛人のオードリーから聞き及び、愕然とするバートンだったが、一目でオードリーに好意を抱き、二人だけのデートを申し込むが、色良い返事をもらえなかった。
「僕の仕事は、底なしの沼に飛び込み、自分の魂の奥から、何かをさらい出す。魂を探る旅には、道案内の地図がない。苦痛を伴う旅だ」
デートを断られても、唯一、「心の友」と信頼するチャーリーに語る孤独な日々を託(かこ)つバートンが、そこにいて、「魂を探る」が故に「苦痛を伴う旅」の心情を、止めどなく吐き出していく。
チャーリー |
チャーリーの存在は、バートンが悩むレスリング映画の参考のために、具体的な指導をするほどの「心の友」になっていくのだ。
文章を書く作業を「一種の逃避」と考え、そこに楽しみを見出すメイヒューと、「文章を書くのは苦痛」と考えるバートンは、憧れのオードリーと会食の場を設けるが、メイヒューのアルコール依存症の醜悪な姿を見て、オードリーへの同情が愛情に代わっていくのは時間の問題だった。
ガイズラーの命令でレスリング映画を観ることを勧められたバートンは、試写を観た後、煩悶の渦中に捕捉され、オードリーに助けを求めていくしかなかった。
メイヒューの著書の代筆をしていたことを告白するオードリーとの、たった一晩での交接で得た悦楽は、まさに、それだけが目当てな特別な時間のようだった。
しかし、覚醒したバートンを地獄の底に突き落とすほどの、信じ難い受難が襲ってくる。
ベッド上に、オードリーの死体が横たわっていたのである。
理性を失ったバートンが頼るのは、ニューヨークに戻ると言うチャーリー以外にいなかった。
「素知らぬ顔をして、今まで通りに振る舞うんだ」
チャーリーはそう言って、オードリーの死体を処理していく。
その翌日、キャピトル映画の社長・リップニックに、完成していないシナリオのアウトラインを求められたバートンは、「頭の中で構想はできていても、それをいい加減な言葉にしてしまうと、意味が微妙に違ってくる」と答え、それを受容するリップニック。
今や、絶体絶命の状況に追い込まれたバートンは、最も信頼できるチャーリーを失うことになり、途方に暮れる始末。
ニューヨークに戻るそのチャーリーから、「大事な物が色々入ってる」箱を預かるが、その中身については全く知らされることがない。
二人の大事な人物を失ったバートンは、ただ号泣するばかりだった。
神いわく“初めに光ありき”
この創世記の言葉に触れたバートンに、刑事が尋ねて来たのは、その直後だった。
「ショット・ガンで人を殺し、首を切り落とす」
刑事は、チャーリーの正体が“殺人鬼ムント”であることを知らせるのだ。
その直後のシーンは、チャーリーが預けていった箱を凝視し、何かが吹っ切れたようにシナリオの執筆に真剣に向かうバートンの解放し切った相貌だった。
「重要な作品だ。僕の、どの作品よりもね」
夜中にガーランドに電話するバートンが、それまでと全く違った表情を見せ、興奮状態で喋り続けるのだ。
そして遂に、シナリオを書き上げた。
「“大男”」
これが、レスリング映画のタイトルだった。
その喜びをダンスホールで弾けるバートンにとって、煩悶の果てに辿り着いた収束点だった。
そして、ホテルにやって来た二人の刑事の前に“殺人鬼ムント”が出現し、「精神の生命を見せてやる!」と叫び、ホテルを放火し、二人の刑事を射殺する。
「人生は残酷だ。俺が変人なら、皆、変人さ。俺はマトモだし、他の奴らを哀れに思う。かわいそうに。罠にかかって身動きできない。だから、解き放ってやったのさ・・・嘘をついた。あの箱は俺のものじゃない」
チャーリーはそう言って、炎の中の自室に消えていった。
かくて、呆然と立ち尽くしていたバートンは例の箱を持ち、リップニック社長に会いに行く。
第二次世界大戦が始まったことで、大佐として召集され、衣装部で調達した軍服を着るリップニックが待っていた。
「日本と戦争するって時だ。仕方ない」
1941年12月8日未明、「太平洋戦争」が開かれて、硝煙の臭気が身に迫る時代がにじり寄ってきたのである。
「残念だが、これはダメだ」とリップニック。
「僕は“自分の最高傑作だ”と・・・」
「君の意見が正しけりゃ、君が社長のはずだ。お客はレスリングとアクションを期待する。魂とのレスリングなど、誰が見たがる?クヨクヨ悩むだけの男を、客が見るか?見るもんか!君はうちの契約作家だ。台本は書かせるが、書くだけで製作はしない。“作家”が聞いて呆れるただの穀潰しだ。うぬぼれた偽善者め!その頭が考えることに、世界がひざまずくと思ってるのか!」
怒り心頭に発したリップニックは、バートンをロスに閉じ込め、飼い殺しにするつもりなのである。
「“大男”」という名のバートンの最高傑作は、アート性100パーセントのアンチ・ハリウッド系の、「魂とのレスリング」で埋め尽くされた「煩悶するレスラー」の物語だったのだ。
まさにハリウッドの要請で依頼されながらも、ハリウッド系の娯楽映画とは無縁の、「精神的葛藤」を描くこの作品の風景こそ、「映画作家」として煩悶するコーエン兄弟自身の内的世界の投影だったのである。
ラストシーン。
失意のバートンが、その脚で、ロスの浜辺を彷徨(さまよ)い歩いている。
そのバートンの眼前に、一人の美女が歩いて来た。
彼女を凝視するバートン。
彼女こそ、バートンの部屋の壁に掛かっていた女性のように見える。
「すてきな日ね」
彼女が話しかけた言葉だが、波音に消されて聞こえない。
もう一度、繰り返す美女。
「ああ、本当に」とバートン。
「箱の中は?」と美女。
「知らない」とバートン。
その美女が浜辺に座り、後ろ向きになった姿は、まさに、あの壁の絵と同じポーズだった。
言葉を失うほどの完璧なラストカットであった。
2 煩悶する映画作家 ―― 妄想的に仮構した世界の達成的焼失点
感情世界を言語化して伝えることの難しさ。
人間なら、誰しも経験するだろう。
私たちの感情世界は、ある程度、他者と共有することが可能な情報なら、感情を言語化することも容易ではない。
しかし、この世には、他者と共有することが難しい情報があまりに多いのだ。
例えば、自分の体験やある人物への思いを言語化し、説明することは可能だとしても、内面世界に広がる様々な視覚的イメージや、「質感」を伴った感情まで言語的に表現して伝え切るのは困難である。
ここで言う「質感」とは、「クオリア」という概念で説明される体験的感覚のこと。
ところが、「リンゴの赤さ」や、「空の青さ」の体験的感覚が、皆、それぞれ微妙に違っているから、「質感」=「クオリア」を伴った感情を正確に言語化したつもりでも、他者との共有を可能にすることは難しいのである。
他人と自分の脳の体感的記憶が微妙に違っているからである。
まして、一時(いっとき)でも妄想状態に捕捉された者の、自分でも説明し得ないな感情世界を言語化し、それを他者に伝えることなど殆ど不可能だと言える。
然るに、本当に伝え、相互理解し、共有したいと人間が欲するのは、寧(むし)ろ、そうした感情世界なのだ 。
つらつら考えてみるに、その非言語的な感情世界を表現するフィールドが、アートの世界に存在する。
それが、総合芸術としての「映画」である。
「映画」は、非言語的感情世界を表現する格好の武器となる。
本作の「バートン・フィンク」は、その典型的な映画であると言っていい。
このとき「映画」は、限りなく、アート性・作家性を持つ「映像」に変容する。
だから、コーエン兄弟の最高傑作とも言える、この映像の読解が困難であり、厄介なのだ。
なぜなら、主人公のバートンが、110分余の時間の中で表現した言語的、且つ、非言語的表現が、どこまで本人の頭の中で展開する妄想世界なのか、現実世界であるのか、最後まで不分明であるからだ。
要するに、解釈自在なのである。
この「映像」が魅力的なのは、その一点にあると私は考える。
どのようにでも解釈可能な振れ幅の大きい映像提示の中で、観る者はそれと対峙し、しばしば難しい思考を迫られる。
そこがいい。
少なくとも、これだけは言える。
自分が望みもしないシナリオを強いられる劇作家・バートンが、そこだけは恰も「異界」のように限定された閉鎖的なスポットで、彼の創作能力が停滞し、混沌化していくことで、いつしか累加された負の感情が煩悶を生み出し、それが極点に達した時に露わになった人間の不条理性。
その不条理性を、映像という絶好のツールを駆使して描き切ったのが、この「バートン・フィンク」だった。
この問題意識に則って、本作を考えたい。
その意味で、心理学的アプローチの濃厚な批評になる。
結論から言えば、彼の自我は明らかに妄想状態に支配されていた。
妄想とは、非合理な思い込みに捕捉された心的な疾病状態のこと。
彼が捕捉された心的状態は、「異界」のように限定された閉鎖的なスポットで煩悶の極点に達したことで、「現実機能」としての自我の緩み=「自我の機能不全」を惹起する。
ここで、自我の働きについて正確に把握しておきたい。
「自我境界」を維持する機能。
これが、自我の働きの中枢機能である。
ここで言う「自我境界」とは、自分と自分でないものを区別する心的な境界である。
つまり、自分が思っていること、理解していること、感じていることと、外界にある実際の現実、事実そのものとは違うという、その間の心的な境界のことである。
この境界は、自分が思っているに過ぎないのか、外界で実際に起こっているのか、という自我の「現実検討能力」(自己を客観的に分析する能力)によって守られ、維持されるものである。
しかし、極度の疲労やストレスなどから自我機能が低下すると、「自我境界」が緩んで、自分の内面で起こっていることと、外界で起こっている現実と区別する「現実検討能力」も必然的に低下する。
その「現実検討能力」の低下が極端に劣化していくと、「自我境界」が壊れて、自分の思い込みが外的現実そのものだと思ってしまうのだ。
それは精神疾患の現象であると言っていいが、バートンもまた、一過的でありながも、「自我境界」が緩み、それが半壊してしまっていたと私は考える。
推察するならば、彼の内部で妄想状態が生まれたのは、自我の再適応メカニズムとして防衛機制であると言える。
閉鎖的なスポットで煩悶の極点に達したバートンの、その「自我境界」を緩ませることで、厄介な状況に適応し、自死に振れていく危うさから解放される再適応メカニズムである。
だから、防衛的に自我を分裂させ、妄想状態に潜入していく。
「精神のディストレス状態」と「身体のディストレス状態」を浄化するために、バートンは少なくとも、自分に最近接する二人の人物を仮構した。
チャーリーとオードリーである。
その結果、彼の煩悶は一時(いっとき)の安寧(あんねい)を得る。
それによって、「魂を探る旅は苦痛を伴う旅だ」と言う彼の究極の表現世界へのモチーフは、自壊せずに何とか繋がっていくのだ。
しかし、二人の人物の仮構の存在は、どこまでも防衛機制としての役割でしかない。
「苦痛を伴う魂を探る旅」の完成形は、自らの能力の中からのみ生まれるから、二人の人物の存在は、「利用価値」がなくなったら消えてもらうしかないのである。
そして、何より重要なことは、「僕のルーツである小市民の生き方」を創作のテーマにすると豪語しながら、この「社会派の劇作家」は、「小市民の生き方」=「娯楽」である「レスリングを見たことがない」と言い放つのだ。
前述したように、「小市民の生き方」を理念とする創作活動を繋いできたバートンは、その理念を妄想的に仮構する分身を作り出す。
チャーリーである。
しかし、そのチャーリーの正体は、「小市民の生き方」を偽装した殺人鬼だった。
このチャーリーの「悪徳性」こそ、自分が勝手に理念化した「小市民」と対話することもしない、バートン自身の矛盾の顕現でもあったのだ。
ある意味で、そこにこそ、この「社会派の劇作家」が陥った最大の瑕疵がある。
それでも譲れないものを持つ男は、自らの理念を決して捨てなかった。
それを捨てたら、バートン自身のアイデンティティが崩されてしまうのだろう。
「俺が変人なら、皆、変人さ。俺はマトモだし、他の奴らを哀れに思う。罠にかかって身動きできない。だから、解き放ってやったのさ」
そう言い放って、炎の中の自室に消えていったチャーリーの叫びは、バートン自身の内的言語である。
チャーリーという分身を必要としなくなったが故に、彼を「解き放ってやった」のである。
「罠にかかって身動きできない」バートンは、もう、そこにいない。
そこにいるのは、「魂とのレスリング」という“自分の最高傑作” を完成させて、弾けまくる一人の男である。
思うに、バートンが妄想的に仮構して来た人物は、皆、消えていく「運命」を免れなかった。
要約すれば、こういうことである。
“殺人鬼ムント”に惨殺される「現代最高の作家」・メイヒューと、その女性秘書であり、愛人のオードリーの謎の死は無論のこと、バートンの「救済者」のチャーリーもまた、煩悶するバートンが妄想的に仮構した人物である。
バートンの危険な「身体のディストレス状態」を、ただ一度だが、その特殊な時間の中で、「質感」をもって味わった体験的感覚(夢精)を、一時(いっとき)浄化すれば消えていく「運命」を免れないのだ。
当然、“殺人鬼ムント”を追う二人の刑事も消えていく。
その“殺人鬼ムント”=チャーリーが、「ハイル・ヒトラー」と叫んだデスボイス(がなり声)は、「ユダヤ系のホテル」に閉じ込められたバートンの、身近に近づく「大規模な戦争」への予感であると思われる。
或いは、バートンを過剰に煩悶させた、「ユダヤ系のホテル」への復讐的行為であったと考えられなくもない。
即ち、自分を閉じ込めていたホテルを燃やすことで、妄想的に仮構してきた自己と決別し、解放に向かうバートン自身のイメージの投影でもあったのだ。
この文脈から言えば、キャピトル映画の関係者だけが現実で、ホテルのボーイのチェットや、エレベーター係の無表情な老人を含む「ユダヤ系のホテル」に集合する者の多くは、バートンの妄想の産物と言うよりも、「暗欝で閉鎖的なスポット」で息が詰まるストレスを貯留する彼の、ネガティブなイメージが生んだ人物だったという訳である。
更に、バートンが後生大事に持っていた箱の中身について、私なりの想像を巡らせたい。
「長い人生、歩いて来て、自分の大切な物が、あんな小さな箱に入っちまう」
これは、バートンに箱を預かってもらった時の、チャーリー自身の言葉。
この説明で想像できるのは、バートンの分身であるチャーリーが保有する「大切な物」の中身が、「長い人生で蓄積された重要な情報」=「創作活動のエッセンス」であると私は考える。
これまでのバートンの脳裏に刻まれている様々な情報群の貴重なる価値の宝庫 ―― それが小さな箱の中に詰まっているのではないか。
だからバートンは、壁の絵と同じポーズをした美女から中身を問われても、「知らない」としか答えられないのである。
「長い人生で蓄積された重要な情報」群が価値の宝庫であっても、それはバートンの内側に貯留されているものと同義だから、その箱の重量感は彼の体感的記憶のうちに刷り込まれてしまっているのだ。
それ故、その箱を開いて中身を確認する必要性がないのである。
稿の最後に、壁に掛かっていた美女の意味も考えてみたい。
それを一言で言えば、バートンの暗欝な部屋の中で、唯一、安寧をもたらすイメージの具現化であると思われる。
壁に掛かっていた美女が、浜辺を流離(さすら)うバートンの視界に捕捉されてとき、その美女に「質感」を付与させて閉じる映像の完璧な達成点。
それは、自分でも説明し得ない感情世界の「質感」を表現し得る、「映画」というの格好の武器をマキシマムに駆使した構図だった。
この完璧なラストカットに、言うべき何ものもない。
煩悶する映画作家 ―― 妄想的に仮構した世界の達成的焼失点。
ハリウッドとの距離感において、コーエン兄弟の自画像的部分も読み取れるという意味で、このサブタイトルが相応しいのではないか。
以上が、「バートンフィンク」という稀有な傑作に対する私のイメージである。
(2015年7月)
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