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2026年3月17日火曜日

沖縄狂想曲('23)   「沖縄」とは何か  太田隆文


1  「銃剣とブルドーザー」 ―― 米軍の土地接収事業という暴力性

 

 

 

1450年代。琉球王国は他国と親密な関係を築き、世界の架け橋となって繁栄したと言われている。

 

1879年、日本が琉球(りゅうきゅう)を併合し、450年続いた琉球王国(成立は1429年)が消滅して沖縄県となった。



沖縄では14世紀に琉球王国が誕生し、中国や東南アジアなど周辺諸国と交易しながら、「大交易時代」と呼ばれる一時代を築いた。

 

1609年に薩摩藩の武力侵攻を受けて以降は、薩摩の支配下に置かれたが、諸外国との交易は続き、日本や中国の文化も吸収しながら、独自の琉球文化を形成していくことになる。

 

琉球文化には、(さん)(しん)(三味線の起源の一つ)の伴奏によって踊る沖縄民謡、盆踊りのエイサー、獅子舞などが知られている。 

三線(ウィキ)

エイサー

当時の王府があった首里城など県内の9か所の遺跡は、2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界文化遺産に登録され、当時の繁栄を現在に伝えている。(グスクとは城塞的遺構)
 

首里城跡

しかし、その琉球王国も、1879年に明治維新の余波を受けて幕を閉じ、沖縄県が誕生する。

 

1941年12月8日、日本軍が真珠湾を奇襲し、沖縄県民も徴収され、戦争に巻き込まれていくようになった。 


1944年10月10日、米軍による沖縄本島への空襲・1010(じゅうじゅう)空襲。

10・10空襲


1944年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。国民は「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず」と教えられていたため、多くの住民が集団自決するに至った。  

左には焼け焦げた死体がある

読谷村(よみたんそん)チビチリガマ。

 

米軍の残虐な仕打ちを怖れ、肉親同士が殺し合う。そこは、まさに地獄だった。

丸木位里(いり)、丸木俊(とし)の大作『沖縄戦の図』


この洞窟への避難者約140人のうち83人が非業の最期を遂げた、チビチリガマの集団自決。 

チビチリガマ

以下、「NHK チビチリガマの集団自決」からの引用です。

 

【Q:4月1日にアメリカ軍が上陸してきましたけれども。そのとき千代さんはどこにいましたか。

 

チビチリガマ(洞窟)にいました、4月。4月…私はもう最後でした、チビチリガマに。他の人たちはもう、チビチリガマとか、波平(なみひら)(地区)はシムクガマといって2つありますけど、大きな洞窟が、で、私たちはもう最後、死ぬつもりで出なかったですから、もう最後にこのチビチリガマから死に切れずに出たんです。

 

Q:死にきれないっていうのはどういうことですか。

 

弟が、3つ下の弟がいますけどね、これがもう、私は持ってる食糧全部食べて死ぬつもり、着替えて、もう家族輪になって死のうと言ってやっているのを、3つ下の弟が、「お父さんもお兄さんも帰ってきたらどうするか、私が死んだら兄さんたちはどうするか、誰もいないとどうするか、出よう」と言って、この一言で「そうだね」、と言って、そして母が、もう男はいないから母が先頭になって皆この、腰のひもを捕まえて、一人一人出てきたんですよ。もうそのころは火を焚(た)いて窒息死ですよ。あの、看護婦してる人が2人いましたけどね、部落の人が、で、この人たちはもう注射なんか持っていましたから、先に死んで、この家族は、他の家族の人たちはもう死に切れないで、そこで布団とか衣類なんか全部焚(た)いて、その煙が中に入っていたんですよ、ガマの、洞窟の中に入って行って、その、窒息死です。で、私も一週間くらいは黒いつばが出ましたよ。窒息。で、私たちは死に切れないで、この、弟のその一言で一人一人皆やってきたら、皆こっちも真っ暗だからあっちこっちにあの、痛めて、血も出ていましたよ。

 

そして、あのころ、姉の子供が2歳でしたかね、まだ赤ちゃん抱いてましたから、姉もちょっと体弱いから、母が、母はまた気丈な人でしたから、母が抱っこして上に出てきたら、アメリカさんがいっぱいいて、どうも、アメリカさんは非常に親切でしたよ、あのころ。どうもしない、出てこい出てこいして、上まで出て行ったらチョコレートあげようとしたけど、私はもう毒が入ってるから食べるなよと言って、食べなかったですが、アメリカさんはまた自分たちで食べてみて大丈夫大丈夫と言って食べたんですけどね、そしてトラックに乗せられて、あの、とうや(都屋)の収容所と言いますかね、そこに行かれて、その途中、もう私は海に捨てられに行くんだともう覚悟してましたけど、アメリカさん非常に親切で、あの、皆がいるところに連れていかれて、これが捕虜です。チビチリガマの、死に切れないで出てきた人も60名くらいいますよ。死んだ人も半分半分くらいは死んでます、向こうで。

あの、チビチリガマで。2つ、波平という部落は非常に、村でいちばん大きな部落ですけど、あの、ガマが2つあるんです。シムクガマというのとチビチリガマというのと。して、シムクガマはいっぱいして入れないで、私たちはあの、年寄り、80歳くらいなるおばあさんがいましたから、このおばあさんを担いで、あの、私と2つ上の兄と2人で、モッコ(運ぶ道具)にかついで避難なんかしたんですね。で、それであの、山原(やんばる・本島北部)なんかにも行けないで、チビチリ行こうとしたんだがもう行けないで、チビチリガマに戻ってきたんです。

 

Q:千代さんね、半分ぐらいは生き残ったって言ったんですけれど。半分ぐらいは何で死んだんですか。

 

半分、もう、自決です、本当に。もう戦争、皆戦ってますよ。あの、大人たちは。もう、竹やり持って、死ぬつもりで、皆出来る人は出なさいよーして、あれは誰か、命令があったのかわかりませんけどね、皆竹やりを持って突撃して行ったらバラバラバラバラーとやられたんです。出ると。出ると同時に。そしてもう、出られないでどんどんどんどん追い込められて、もう年寄りと子供たちは逃げきれなくて追い詰められたんですよ。そして死に切れないで、年寄りもたくさん出ていましたね、死に切れない年寄りたちが。

 

Q:そのとき怖かったですか。

 

ああもう、死ぬと思ってましたから、怖かったとかそういうことを考える…もう海に投げられるしか考えてませんでしたからね、トラックに乗せられて、出てきたらそんなに怖かったかな…。とにかくもう、戦争は大変でした。戦争は。もう、父も、父なんかもう最後の防衛隊ですよ。47歳で、馬と馬車を持って、最後の防衛隊。そして弾薬輸送、はこばー(運搬係)だったそうです父なんかは。兄なんかはもう、普通の召集、兵隊で行ったんですけどね。身内2人あっちに、(いしじ)(平和の礎・糸満市摩(いとまんしま)()(にある沖縄戦の犠牲者の名を刻んだ石碑)にいます。もう二度と、本当に二度と戦争はもう、やりたくないですね。本当に。もう、でも、体験者はもう私たちが最後じゃないですかね。もう皆いなくなって、私が6年生とか、高等1年生ですからね。私がいちばんもう、2、3歳ぐらい上までいますかね、そんなですね。60何名かはチビチリガマから出ています。

 

Q:同じ60何名(チビチリガマの死者は83人と言われてる)の人がガマで亡くなったんですか。

 

亡くなって、私は足、踏んで出てきていますよ。もう、息も絶えて、あの、たくさん煙を飲んだ人たちはもう息もできなくなってうなってました。それを今度は足で踏んで、ずっと奥に奥に逃げて行きましたから、足で踏んで、一人ずつ腰のひもを捕まえて、あの、倒れてる人を足で踏んで出てきました。

 

Q:その感触は覚えていますか。

 

覚えてますよ。もう、集まって、家族集まって輪になって、食糧も全部食べて、「死のうねー」と言ってやりましたからね。これはもう、はっきり覚えてます。

 

かわいそうでした、本当に。私もやがて、やがてでしたよ。一週間くらいたんがでて、黒いたんが出て、あのときは忘れられませんね。だから生き残りの人たちもこの、亡くなった人たちに対して、済まないという気持ちで皆結束して、これはもうあの人たちに対して済まないから言わないでおこうねと言って、皆口を閉ざしてなかなか言わなかったですよ。生き残りの人たち。だけども、そういう先輩の方々も皆亡くなっていますからね。あんまり分からないはずです。私の年代がもういちばん若い。年が上で。もう、あのころ、勉強もあまりしないで、もう、あの、何運んだかね、木の皮削りに行ったり、あんなでしたからね、沖縄は。学校も勉強もしないで、だからできないようになったかなーと思いますよ/証言者は大湾千代さん。読谷村(よみたんそん)に生まれ、読谷村のチビチリガマでの集団自決で生き残った】(「NHK チビチリガマの集団自決」) 

大湾千代(おおわんちよ)さん

チビチリガマ

【3か月間に及んだ地上戦で20万人を超す死者を出した「沖縄戦」。そのうち9万4千人は、沖縄の住民だったとされています。

 

大湾千代さんは、米軍の上陸地点となった沖縄本島中部・読谷村に住んでいました。当時、読谷村には住民総動員で作られた陸軍の北飛行場がありました。大湾さんは、およそ140人の地元住民とともに洞窟、「チビチリガマ」に潜んでいましたが、米軍につかまれば残酷な方法で殺されると言われていたことから集団死が発生しました。家族の手によって殺されるという悲劇で、幼い子供を中心に83人が命を落としました。

 

大湾さんはかろうじて集団死を逃れることができましたが、防衛隊に参加させられた47歳の父と兄そして、姉を沖縄戦で失いました。

 

戦後、読谷村の大部分は米軍に土地を奪われ、村の面積の95%が米軍施設となり、生きるために八重山に開拓民として移り住んだ人もいました。また、村内では、不発弾処理がひんぱんに行われた上に、演習による死亡事故が起こり、人々を苦しめました。いまも、村土の半分が米軍施設という状況が続き、生まれ育った土地に住むことのできない人々が少なくありません。

 

大湾さんは、戦争の記憶と家族を失ったこと、チビチリガマで多くの人が亡くなったことにいまも苦しんでいます。また、飛び交う米軍機を見たり、その轟音を聞いたりすると、昭和19年10月の「十・十空襲」を思い出すと言います】(「NHK 沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~」)

 

沖縄決戦と呼ばれ、沖縄での組織的戦闘を行った大本営直轄の第32軍(沖縄守備軍)の使命は勝つことではなく、米軍を消耗させることだった。 

第32軍の指揮官たち

大本営は本土決戦の準備の時間稼ぎのために、沖縄を捨て石にしたのである。 


【第32軍は、1944年3月22日に、大本営直轄の沖縄守備軍として創設された】

 

松代(長野県)にある「松代(まつしろ)象山(ぞうざん)地下壕」に大本営を移し、本土防衛体制を構築して米軍を迎え撃つこと。これが32軍の使命だった。 

松代象山地下壕

主要政府機関や皇居を移すため、海から離れ、山が固いという理由で選ばれた松代の地下壕造営には、1万人の日本人、沖縄人、朝鮮人が駆り出された。 

松代象山地下壕

「沖縄戦の位置づけというのは、大本営ができて天皇を守る体制、国を守る体制、本土を守る体制ができるまでの時間稼ぎのために沖縄を使った。その流れの中で、『32軍よくやった』という打電を受け、牛島満(中将)は自決した」 

下地輝明・沖縄平和ネットワーク


沖縄戦は、本土を守る体制ができるまでの時間稼ぎのための戦争だったのだ。

 

1945年6月23日、第32軍司令官・牛島(みつる)の自決によって、沖縄での組織的戦闘は終結する。

牛島満(ウィキ)

 

生き延びた生存者は収容所へ移送される。

 

壊れた家を修復する。


拾ってきた物で新しい家を建てる。

 

新しい生活が始まったのだ。


しかし1950年2月、「沖縄に恒久的基地建設を始める」とGHQは発表し、住民の強制的土地接収を遂行していく。

 

それは、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれるほど暴力的なものだった。


 

1954年1月、米大統領は「沖縄を無期限管理」と明言する。

 

「自分たちの土地で、自分たちの沖縄県なのに、自分たちの物じゃないなと。その米軍基地というもの。戦争の道具・装置というものが、これはちょっと違うなと…」


「強制収用というものは軍事基地ですよね…我々の仲間の血を流して獲得した土地である。占領地だという意識ですね」


また、先祖の墓が基地内にあるというのに強制収用があった、と証言する僧侶。 


1952年2月、読谷村(よみたんそん)で強制的土地接収が始まり、そこでソ連と米国の冷戦時代に世界中に造られたのが、あらゆる軍事通信の傍受・分析を担う(ぞう)(おり)」だった。 

象の檻

「トリイステーション」(トリイ通信施設/沖縄県読谷村にあるアメリカ陸軍の基地)となる場所は、「反戦地主」として知られる知花ちばな昌一しょういちさんたちが代々受け継がれてきた土地だった。

 

この土地の返還を求めて家族と共に明け渡し訴訟を起こしたが、日本政府は1997年4月、「米軍用地特別措置法」を改正し、使用期限を事実上、半永久的に延長可能とした。

 

「僕は国会にまで行って抗議をして、そこでパクられたんですよ」 


Wikipediaによると、知花昌一さんは、不法占拠状態に対して国に国家賠償訴訟を提起していたが、国が供託金を既に払っていることを理由に請求を棄却する判決が2003年11月に確定した】

 

【「銃剣とブルドーザー」とは、沖縄戦後から米軍が基地を拡大するために武装兵を送り込み、ブルドーザーで沖縄住民の家屋や土地を破壊し、暴力的に実施された土地接収事業のこと。住民は収容所に送られ、広大な土地が接収されて基地建設が進められた。/「象の檻」は、沖縄に集中する米軍基地問題の象徴の一つでもあり、住民の日常生活の傍に巨大な諜報施設が存在する異様な光景は、沖縄の抱える重圧を物語っている】

 

アメリカの文化や米軍兵のデザートに憧れていたという人や、服をもらって喜ぶ人、アメリカ人に親近感を抱くなどという沖縄の人も多くいたにも拘らず、やっぱり「基地の問題は…」というところに落ち着くのである。

 

年間で4万回以上の離発着が行われている嘉手納かでな飛行場。

 

「嘉手納飛行場の訓練で、本当に低空で飛んできて、何回も夜中から。夜は飛ばさないと、そういう嘘を言う。日本政府と約束しても守らないですね。それを守らないのは日本政府が弱腰じゃないかと思う」  



タッチアンドゴー(離着陸訓練)などによる基地周辺の騒音は、大きい時で100デシベルを越える。電車が通る時のガード下の音量、即ち、隣同士で話しても聞こえないレベルの騒音である。


【アメリカ空軍が運営する嘉手納飛行場(嘉手納基地)は、4000m級の滑走路2本を有し、100機以上の軍用機が常駐する極東最大の米軍基地である。軍人・家族、軍属、日本人従業員を含め人員2万人以上に上る。面積においても品川区とほぼ同等の20平方km(東京ドーム約420個分)、日本最大の空港である東京国際空港(羽田空港)の約2倍である/ウィキ】 

嘉手納飛行場(ウィキ)

1960年代後半、コザの街は米軍兵で賑わっていた。

 

彼らの多くは貧しい家庭で生まれ育っており、金を稼ぐために入隊した者が多かった。

 

でもベトナムへ行って命を失うことになれば、貰った金も意味がなくなる。

 

ベトナムに派兵される、その前の日に、有り金を全て使ってしまう者が数多くいた。

 

もう生きてアメリカに帰ることはできないかも知れない。そんな思いを抱えながら、兵士たちが酒を飲み続けたのが、この街である。 


1959年、米軍戦闘機 うるま市に墜落 17人が死亡、210人が重軽傷

2004年8月 米海兵隊のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落・炎上

2016年12月 名護なご市にオスプレイが墜落

2023年8月 オーストラリア沖でオスプレイが墜落 3人死亡  


オスプレイ(V-22)はアメリカ海兵隊の輸送機で、飛行機とヘリコプターの両方の特性を兼備し、飛行機のように速く、ヘリコプターのようにホバリング(空中停止)が可能。日本には、陸上自衛隊が17機を配備している。またオスプレイの事故は、プロペラとエンジンを繋ぐクラッチが離れ、それが再結合する際に衝撃が発生する現象(ハード・クラッチ・エンゲージメント)によって発生する】

 

米軍兵による事故・犯罪が多発するという沖縄特有の厄介な問題があり、沖縄県民でないと分からない問題が多々ある。 

 

「沖縄以外に住んでいても大きな事件は報道されるんですけれども、こちらに来ると、それ以上に、もう毎日毎日、事件や事故のことが米軍関係で報道されていて、自分も通勤で車で走っていると、米軍車両が事故を起こしたりするのを見て、自分たちが報道で知ることのない事件や事故が如何に多いかということに本当に驚きました」  


「本土」では理解に及ばず、沖縄県民でないと実感できない問題が並はずれて多いのだ。

 

「本土」で沖縄の印象を聞くと、以下の通り。

 

「沖縄、好きですよ。青い海と温暖な気候。また行きたいな!」(OL)

「毎年、サーフィンに行っています。海の色、違うでしょう」(大学生)

「行ったことないんですよ。奇麗な海見て、仕事のこと忘れたいよ」(会社員)

「え、基地問題?よく分かんない。まあ、仕方ないんじゃない」(OL)

「台湾有事が叫ばれている今、やはり沖縄の米軍がいないとね」(会社員)


「基地問題?関係ないんじゃない?沖縄、あ、毎年行きます。ゴーヤチャンプルー、好きですよ」(会社員)
 


【「本土」とは、「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」(沖特法)によると、沖縄以外の日本の地域を「本土」と定義している。要するに、「本土」の概念は、離島・属国・植民地などとの対比で使われるのである】

 

 

 

2  日本はアメリカの防波堤である

 

 

 

1970年12月20日未明、米軍車両が起こした沖縄への交通事故をきっかけに、沖縄人は米国軍人に対する不満が爆発する。

 

バイクを含む82台の米軍車両が群衆によって焼き討ちされた(コザ騒動)。

 

コザ騒動からコザ蜂起(コザ暴動)への飛躍は、アメリカ施政権下にあった沖縄のコザ市(現在の沖縄市)で、それまで累加された米軍の人権侵害に対する怒りが沸点に達した沖縄住民の極北的な叛乱だった。 

暴動後、燃やされた車の近くに立つアメリカ軍兵士(ウィキ)

刑事裁判権のない沖縄の人々にとって、ベトナム戦争の最前線の沖縄という広大なエリアで起こった、殺人・強盗・強姦などの凶悪犯罪を犯し、薬物に溺れたた米兵が裁かれない理不尽さに耐える臨界点を超えていたのだ。

 

1970年時点で、軍人・軍属家族らによる沖縄住民への犯罪行為は、コザ市のみで300件以上に膨張していたのである。

 

交通事故のみで年間1000件を超えていたという統計に言葉を失う。

 

人権を侵害されても泣き寝入りを強いられる沖縄住民。

 

米軍は「知花弾薬庫」(嘉手納弾薬庫地区)などに毒ガスを秘密裏に備蓄していたが、毒ガス漏洩事故が発覚し、軍関係者が中毒症で病院に収容された報道もあり、周辺住民は事故の再発に怯えて、島ぐるみの撤去要求運動が起ったのは必至だった。 

毒ガス即時撤去要求、アメリカのカンボジア侵略反対県民総決起大会 1970年5月23日

知花弾薬庫にある毒ガスを移送するトラック 1971年1月


コザ暴動は、それ以外にない沖縄の怒りが爆発した蜂起だったのだ。  


コザ暴動

群衆によって火をつけられた米軍関係者の車両


「黒人たちはオキナワ人と同じ状況を体験してきました。黒人の斗争は400年以上、そして今なお続いているのです。黒人はアメリカでは少数民族にもかかわらず、多く海外に派兵されています。私たちは抑圧されているのです。ある意味で、オキナワよりもひどく。黒人兵は、抑圧されてきた人々が連携してより良い関係を作るために、喜んでオキナワ人と話し合いたいと思っています。私たちは共通点を多く持っているのですから。共に集まり、問題をぶち壊すために、解決法を見つけようではありませんか。黒人は暴動が起きるに至った状況をよく知っています。暴動は正当な動きであったし、それ以外にヤツらをやっつける方法はないのです」(基地内の黒人から沖縄の人びとへのアピール) 


「日本は植民地ですよ。アメリカの言いなりです」(VOICE/声)

「アメリカは力でもって押さえつける」(VOICE/声)

「沖縄と本土の温度差があるとしたら、それは傍観者と当事者の違いです。国民の中に当事者意識がないんですよ」(VOICE/声) 

前泊博盛(まえどまりひろもり/沖縄国際大学大学院教授)

「何ですか、これは。どこまで沖縄の人は我慢すればいいのですか」 


大田昌秀の叫びである。

 

19歳の時、鉄血勤皇隊に動員され、沖縄戦で九死に一生を得るが多くの学友を失った。 

「沖縄戦を戦った16歳の鉄血勤皇隊、家族思い『涙ぽろぽろ』」より

1990年、革新統一候補として県知事選に立候補し、現職を破り、知事となった。

 

初の女性副知事の登用、女性総合センターの創設にも取り組み、1998年まで2期8年間の任期を務めた。

 

この間、糸満市仁(まぶに)に平和のいしじ建立 


国籍を問わず、軍人や民間人を区別せず沖縄戦などの戦没者を刻銘(戦没者の氏名を刻むこと)した。 

沖縄愛楽園

【1995年6月に建設された「平和の礎」にハンセン病者の刻銘が許されたのは、ハンセン病国賠訴訟で元患者らが熊本地裁判決で全面勝訴を勝ち取った2004年以降のことで、それまで、沖縄におけるハンセン病療養所設置は県議会をはじめ、各地で猛反対に遭っていて患者は放置されていた。差別される沖縄でも、自分より劣っていると見做(みな)されるハンセン病者は差別の対象になっていた。これを「下方比較」(かほうひかく)と言う。精神病者を閉じ込める「私宅監置」も米軍統治下の沖縄では残っていた。私たちはこういう現実を知らねばならない、と切に思う。/画像は国立療養所・沖縄愛楽園】


「自分の痛みを他所よそに移さない」 


これが大田知事の口癖だった。

 

沖縄の基地を本土に移して欲しいとは一言も言っていないのだ。

 

因みに、ある米軍基地で聞いた給与順位は、1アメリカ人 2フィリピン人 3内地の日本人 4沖縄の人。この優劣さが、米軍が沖縄の人々に向ける視線であることが分かるだろう。

 

『沖縄戦の図』として知られる、丸木夫妻による絵画が佐喜(さき)()美術館(宜野湾(ぎのわん)市)に常設されている。 


「基地というのは日本国民の問題でありながら、それを『沖縄問題』」に矮小化しているのは日本国民の弱さです」 

右は太田隆文監督

そして、「横田ラプコン」という問題の深刻さ。

 

在日米軍が設定したレーダー進入管制空域のことで、アメリカが一方的に制空権を掌握している広大なエリアである。

 

首都圏が外国軍隊によって押さえられているのは日本のみ。

 

これが羽田の離発着に影響を与えている。

 

羽田を発った飛行機はこのラプコンによって、急上昇して乗り越えていくか、迂回していく他にない。

 

大阪国際空港(伊丹空港)まで行くのに50分要しているが、20分程度ロスしてしまっているのだ。  


更に、「空の主権」を占有する「嘉手納ラプコン」(沖縄進入管制業務)、オスプレイが被爆地・広島を飛び回る「岩国ラプコン」など、日本の主権が米軍に譲歩を迫られている現実が、ここにある。

 

それは、講和条約と一緒に日米安保条約がセットとして結ばれてしまった歴史的事実を無視できないことを意味する。

 

後者の場合、「中身もよく知らされないまま、講和(条約)を結ぶなら安保(条約)も一緒でなければダメだということで、吉田茂は当日に全文(安保条約の条文)を渡されて、吟味もしないままに安保条約を結ばされてしまった」(専門家)ということである。 

安保条約に署名する吉田茂首席全権

以下、安保条約第一条。


【安保条約第一条「平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によって引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じようを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる」】


その駐留軍の決まりが、在日米軍の地位と権利を決めた「日米地位協定」である。


2004年8月、米軍のヘリコプターが後者に激突し、墜落・炎上する事故(沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事件)が起こったが、米軍が何人もの立ち入りを禁止したのは、その時、飛び散ったのがストロンチウム90という放射性物質だったからである。 

沖縄国際大学米軍ヘリコプター墜落事件/墜落現場となった沖縄国際大学1号館(ウィキ)

日本側に知らせることなく処理しようとしたのだ。

 

また、米軍は欲しいだけの場所、欲しいだけの期間、欲しいだけの権利を日本から与えられていることが、地位協定2条に書かれている。

 

以下、地位協定2条。

 

「1(a)合衆国は、相互協力及び安全保障条約第六条の規定に基づき、日本国内の施設及び区域の使用を許される。個個の施設及び区域に関する協定は、第二十五条に定める合同委員会を通じて両政府が締結しなければならない。「施設及び区域」には、当該施設及び区域の運営に必要な現存の設備、備品及び定着物を含む」

 

【安全保障条約第六条とは、「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」】

 

この地位協定2条は、安倍首相とプーチンの交渉によって明らかにされている。

 

具体的に言えば、北方領土を返還した後、ロシア側が米国の基地を置かないことを求めたら、日本側の代表は「それは約束できません」と答えたのだ。

 

なぜなら、地位協定上、日本はアメリカ側にNOと言う権利がないからである。 


これで北方領土の返還の交渉は打ち切られてしまったのである。

 

一切アメリカに依存し、アメリカの権利を認めるという軍事条約の片務(へんむ)性は、独、イタリアと米国が結ぶ軍事条約にはなく、ただ日本のみが負っている義務なのだ。

 

国民の無知と無関心、政治家の無責任、官僚の無能力。 


この3点が地位協定の研究者たちから指摘されている。

 

恥ずべきことである。

 

思うに、独、イタリア、更に準戦時国家の韓国でさえも地位協定を改訂しているということを考えれば、日本のみが一度も地位協定を改訂していないという現実の重みは、日本はアメリカの属国と化しているリアルを本質的に示している。

 

アメリカの防衛ラインは「第一列島戦」。

 

中国を含めた攻撃に対して防衛ラインは、1 日本列島と南西諸島  2 グアム、サイパン、テニアン  3 ハワイ 


以上のことから考えると、アメリカ・ファーストのアメリカは、日本はアメリカの防波堤であることを認識すべき。

 

次に、普天間基地の返還について、専門家は、普天間では新しい軍事施設が作られているので普天間基地は返還されないと言い切っている。

 

「普天間を返せる力を持った政治家は、日本には存在しない」とまで言い切っているのだ。 


そのことと関連すると思えるのは、直近(2026・2・17)に報道で気になるニュースがあった。

 

ペンタゴン(アメリカ国防総省)は普天間基地の移設計画を巡り、長い滑走路が確保されない限り代替施設が完成したとしても普天間基地は返還されないとする見解を示していたことが分かった。

 

今後の展開を注視していこう。

 

加えて書くと、普天間基地の問題は「普天間撤去問題」であったにも拘らず、この「撤去」が「返還」になって、今は「普天間移設問題」とメディアが伝えることで、「普天間撤去問題」が「普天間移設問題」という風に変わってしまっている。

 

そして、移設先の()()()も「辺野古移設問題」になってしまった。

 

元々、辺野古に基地があるので、その基地を拡張させて新しい基地=ヘリコプター基地にするということ。

 

地元では「辺野古新基地問題」と言っているのに、「辺野古移設問題」という用語で報道されている。 


ここで、元鳩山由紀夫首相に、「最低でも県外」と発言した真意を聞く。 


元首相の説明によると、政権を執る前から沖縄に足を運んでいて、基地の問題を住民から訴えられていた渦中で、いざ政権を執ってみたら、民主党内で「簡単じゃない」という声が上がった。

 

そんな状況下にあった時、元首相は当時の思いを語る。

 

「一国の領土の中に他国の軍隊が存在しているということは、歴史的にも極めて異常なことなんだという話ですよね。一国の平和と安全というものは、本来ならば自国民でしっかりと築かないといけないことなのに、米軍によって(あたか)も守られているかのように見えるということでいいのかと。

 

そんなことを考えた時に、私は戦後100年の時に、まだ米軍基地があるのかよって話ですよね。その位の時までには、日本からもう米軍は存在しないと。それもポツダム宣言の時には決めていた話ですから、安定したら米軍はいなくなるよと言っていた訳で、その状況に私はしなきゃいけない。にも拘らず、沖縄の戦後は、益々基地が集中して、今でも7割(は)沖縄にある。これは異常ではないかと。そのことで何か…この本土の人たちというのは、米軍のお陰で潤っているんじゃないかみたいな誤解を振り撒く人たちが結構いるんですけど、よく聞くと全然そんなことじゃないと、大半はそんなことじゃない。もっと平和で基地のない沖縄に戻してもらいたいという気持ちが強いんです。

 

ですから、そのことを私は選挙の時に申し上げて、選挙終わった後、総理になっても、ある番組で一番、私としてはやり遂げたかったことなんです。ところが、残念ながら、自分の力が及ばなくて、また色んな…外務省その他、アメリカの(ほう)とべったりになってますから、アメリカの意思によって、結局、私自身の考えが通らずに、当時の大臣たちも官僚の方向に流れてしまってですね、ある意味で私は孤立するような形になって、最終的には事実でない文書(外務省ニセ文書疑惑)などが出て、65海里問題、「拠点から訓練地までの距離は65海里(120Km)以内」じゃないと新しい訓練地は見つからないよということで、そうなったら沖縄から出れないよということで、沖縄の中で育つとすれば辺野古だねということになってしまった。自分自身が、外務省が作ったニセの文書を信じた人間が悪いと言えばそうなんですけど、そのような様々な圧力と、それから自分自身の、「それでもやるぞ」という、そういうパワーが欠如していたために、沖縄の方々に大変迷惑をかけてしまった。(ニセ文書は)アメリカの意図があると言うよりも、それを忖度(そんたく)をしてというよりか、アメリカはこう考えてるに違いないと、しかも、自分たちとしても、あれだけ苦労して辺野古という所に決めたのを勝手に覆されたら困るよということで、もう最初の頃から外務省や防衛省の役人は、アメリカの方に鳩山の言うことを聞かなくてもいいよというメッセージを送ってますよ。だから我々は政権(を)執る時に、政・官・業の癒着を如何にして崩すかということを主眼として政権交代したつもりだったんですけど、まさに今、政・官・業の癒着、こういった大きな基地問題は、その縮図みたいな話ですよね」 


元首相の話が、ナレーションを経由して続く。

 

「『2010年4月、普天間基地の一部機能を県外に移設する案について、鳩山総理は官僚と秘密裏に話し合った』(ナレーション)が、翌日の新聞に出てるんですよね。これで誰を信じていいのかと。完全に裏切られた訳ですよね。ですから、私の方へ向いていない何か大きなパワーが…もう最初からですから、私をそうという、潰すためにはこういうことをリークした方がいいんだとことでやったんでしょう」

 

【「外務省ニセ文書疑惑」とは、鳩山首相(当時)が普天間基地の「県外移設」を断念させるために、外務官僚から示された「極秘文書」のことで、そこに「虚偽」ではないかと疑われる内容が記されていたとされる。文書には、沖縄から徳之島(「県外移設」の候補だったが、地元3町議会が反対決議を可決)までの距離が遠く、「恒常的に訓練を行なうための拠点との間の距離に関する基準」として「米軍のマニュアルに明記されている」という「65海里(120Km)」を大きく超えるものという記載がある。

文書に押された「極秘」のスタンプ

鳩山元首相の事務所に保管されていた「普天間移設問題に関する米側からの説明」と題された文書。「極秘」のスタンプが押されている


この後、元首相は「日米合同委員会」に言及するが、その要点は、「日米合同委員会」が憲法より上位にある組織であることを、総理を辞めた後、自ら調べたら「その通りだった」と語ったのである。

 

その問題の「日米合同委員会」。

 

日米合同委員会の設置とその任務について定めている地位協定25条(日米地位協定の実施に関する協議機関)に基づき、日本の官僚(外務省北米局長他)と在日米軍の幹部が密談して、「横田ラプコン」などを決めた「日米合同委員会」の存在の大きさは、アメリカの要件を日本が丸のみする重要な協議機関である。

 

この機関が複数の密約を生んできたのは、よく指摘されることである。

 

これを国会で問題化したのは、れいわ新選組の山本太郎代表。

 

国会での質疑応答の中で、山本代表が開催回数を外務官僚に尋ねた録画が可視化される。 


「1960以来、1000回以上です」


「不透明。ブラックボックス。憲法より上の存在」

 

そう言い切ったのだ。

 

ここで鳩山発言と被った言辞が出るが、元首相は言い添える。

 

「『日米合同委員会』で決めたことは総理大臣の耳にも入らない。密約という話なんですけど」



ここから屋良朝博(やらともひろ/中道改革の衆議院議員)氏の解釈・説明に繋がっていくが、際立つのは米軍再編に言及した以下の話。

 

グアム、ハワイ、オーストラリアに沖縄の海兵隊を移すことで、「沖縄に残る800人の海兵隊」の役割が、災害救援・人道支援活動・民間人救出作戦の3点にあり、これを「紛争未満」の事態への活動とされている。 


「敵対国に思い留まらせる存在」であって、特段に沖縄に常駐させる存在ではないと言うのである。

 

米軍にとって、基地としての沖縄の存在価値は軽減しているようだ。

 

【2025年度中に、グアムへの100人の移転が完了している】

 

6月23日 慰霊の日。 


沖縄戦の犠牲者を弔う。

 

「私たちは今回の旅で実感した。米軍にとっての沖縄は基地としての役割を終えている。政府と企業が無理矢理、彼らを引き留めているだけだ。その後、沖縄が進むべき道はアジアの中心的役割。アジアの国々が手を取り合って世界を牽引していく時代が訪れるだろう。東京、大阪ではなく、沖縄こそが日本の中心となり、活躍する時代となるはずだ。アジアに希望を届けてくれるのは、この島に違いない」 


本作の括りとなるラストのナレーションである。

 

 

 

3  沖縄とは何か

 

 

 

ラストのナレーションは素晴らしいが、あくまで理想論であって、そうなって欲しいと渇望(かつぼう)するのみである。

 

北朝鮮や中国が自らそう言って、行動することを願うが、香港がそうであったように、中国が台湾侵攻を諦める日と、拉致被害者の問題の一切を無視する国が変わる日がくるとは、とうてい思えないのだ。

 

映画としては良かった。

 

同時に、共感できた。

 

「基地というのは日本国民の問題でありながら、それを『沖縄問題』」に矮小化しているのは日本国民の弱さです」 


丸木位里・俊さんの名画「沖縄戦の図」を常設展示している、佐喜眞美術館の館長の佐喜眞道夫(さきまみちお)さんの熱弁である。

 

全く異論がない。

 

映画では本土の人たちの声も拾っているが、その全て(意識的に拾っているので分かりやすい)は「青い海と温暖な気候」という言葉に集約されていたが、これが本土の人たちの沖縄に対するシンプルなイメージであるのは否定できないだろう。

 

沖縄戦という凄惨な過去と、基地問題を抱え続ける沖縄に対する深い理解に及ぶには、相当の問題意識が求められる。

 

ここでは、前泊博盛(まえどまりひろもり/沖縄国際大学大学院教授)さんの指摘に耳を傾けてみたい。

 

沖縄と本土の温度差があるとしたら、それは傍観者と当事者の違いです。国民の中に当事者意識がないんですよ」 

前泊博盛さん

この「傍観者と当事者の違い」という一節こそ、「沖縄と本土の温度差」の本質を言い当てる表現となっている。

 

本土の人間は、どこまでも「傍観者」であって、「当事者」としての沖縄人が被る(こうむ)差別とは切れているが、「傍観者」である「本土」が被る差別と全く無縁ではない。

 

沖縄人が被る差別の場合、その理不尽さに対して得も言われぬ憤りの感情が込み上げることで、その処理・解消に動き、問題意識が生まれてくる。

 

しかし、そこで生まれた問題意識が空転し、認知的不協和(自らの認識・行動に矛盾を感じた時のストレス)の状態に陥ったら、その状態を放置することへの危惧が生まれ、より強固な問題意識が形成されるだろう。

 

これが「当事者意識」の所産である。

 

ところが、「本土」の人々には、「横田ラプコン」という厄介な問題に対して在日米軍から受ける差別意識がないから、問題意識の形成は見られず、当然、認知的不協和の状態に陥ることもない。

 

これは、首都圏における在日米軍所属のヘリコプターによる低空飛行の騒音問題にも言える。

 

東京での生活者の殆どの人は、在日米軍から受ける差別について無頓着であるばかりか、無関心ですらあるだろう。

 

だから、そこに「当事者意識」が生まれず、どこまでも「傍観者」であり続けることができるのだ。

 

【在日米軍所属のヘリコプターが、日本の航空法違反にあたる高度300m以下、しばしば、在日米軍所属のヘリコプターが、日米合意(それ自体が問題)で定めたはずの150m以下の超低空飛行を繰り返している現実がある】 

東京・新宿駅から約500メートル離れた場所にある「NTTドコモ代々木ビル」(高さ約270メートル)の手前を低空で通過するブラックホーク



更に、前泊さんは説いている。 


「沖縄は、この国にとって一番分かりやすい、問題が表面化しやすい場所だと思います。戦争、差別、基地、財政・貧困の問題があります。沖縄というのは、日本のカナリアだと思っています。だから、この沖縄が生きていけなくなったら、日本も息が止まる時だと思っています」

 


沖縄は、特殊な呼吸器を持つが故に、「毒ガス検知器」として使用されるカナリアそのものだと説明しているのだ。 

カナリア(ウィキ)

沖縄」という「毒ガス検知器」が反応する時、「本土」である「日本」もまた毒ガスを検知するから、沖縄が抱える問題は日本本土の問題と同義になる。

 

沖縄と日本本土を切り離すことなどできようがないのである。

 

アメリカの属国となった日本本土の中にあって、その属国性が明瞭に可視化できる沖縄と違って、本国は単にその属国性を見えにくい形にしているだけである。

 

しかし、基本的に沖縄が抱える複数の痛みは、本国と全く無縁な形で突き出しているわけではないにも拘らず、前述した低空飛行の問題に関わるように、「当事者」と「傍観者」に分けられることなどできないのだ。

 

前泊さんが言うように、「沖縄が生きていけなくなったら、日本も息が止まる時」なのである。

 

沖縄とは日本のカナリアである。

 

これが、「沖縄とは何か」についての、私の答えである。 


 

【参照・引用資料】

沖縄まるわかり 琉球王国から始まる沖縄の歴史」  「NHK チビチリガマの集団自決」  「NHK 沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~」 


(2026年2月) 

 

 

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