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2013年10月23日水曜日

愛、アムール(‘12)      ミヒャエル・ハネケ



<「身体表現」と「視線」との化学反応の極点が、「安寧の境地への観念的跳躍」に変換していく究極の物語>



1  数多の映画監督を周回遅れにさせる現代最高峰の映像作家 



犬童一心監督の「ジョゼと虎と魚たち」(2003年製作)のように、完治なき障害を負っている者の、その日常性の現実の様態を全く描くことなく、まるで、「障害者の雄々しき自立」に振れていくような脳天気な映画(注1)と完全に切れて、ミヒャエル・ハネケ監督の本作には、重篤な疾病を患う者の日常性の様態を冷厳なリアリティのうち精緻に切り取ることで、それまで散々描かれていた「障害者映画」、「闘病映画」(例外的に、野村芳太郎監督の「震える舌」を最高傑作として評価)の欺瞞に満ちた物語を根柢から破壊してしまったこと ―― 何より、個人的には、これが最も評価すべき点であった。

私の場合もまた、洗髪する際に洗面台の下にタオルを挟むが、そんな目立たぬシーンを含めて、この映画のリアリティには、観る者の感傷を呆気なく砕いていく相当の凄みがある。

恐らく、このような状況に捕捉された者の煩悶を描き切ったカテゴリーの映画に限定すれば、本作を超える作品の現出は不可能に近いだろう。

全 てが完成形のハネケ映像の件の最新作には、一貫して、解決の困難な問題を綺麗事で片づけてしまう痼疾(こしつ)に罹患し、厚顔にも分ったようなことを垂れ 流す、数多の批評家連中の欺瞞的言辞の中枢を射抜き、置き去りにしてしまう腕力が漲(みなぎ)っているから実に爽快である。

「ハネケの作品は嫌いだが、この映画は別」といった類いのレビューや批評をよく眼にするが、私から言わせれば、それらの御仁は、ハネケ監督の作品を観てきたつもりでも、表層的に擦過してきたに均しいという思いを抱かざるを得ない。

「語りたいものに一番ふさわしい最適なフォーマットを見つける、ということが大切ではないでしょうか。今、世に出ている作品の中には、その点を考慮していないものもありますが、このストーリーを語るには、どういう語り方がよいかを見つけることが非常に大切だと思います」(映画.com 2013年3月7日更新)

これは、ハネケ監督の言葉。

ミヒャエル・ハネケ監督
他 の多くの映画作家がそうである以上に、ハネケ監督はテーマを決めたら、そのテーマを最も的確に表現する物語を作っていくが、肝要なのは、その物語が効果的 に表現し得るイメージを脳裡に焼き付け、それを観る者と「共有」(受け取る人とコミュニケートしたいという思い)するモチーフを包含しつつ、完璧な構成力 (「最適なフォーマット」)のうちに表現世界を切り拓いてきた稀有な映像作家である。

テーマが違えば、当然、描き方も違ってくる。

時には、デビュー作の「セブンス・コンチネント」(1989年製作)のように、心理描写を削り取ることで「テーマ性の最適化」を狙った作品もあるが、私が知っている限り、人間の心理の機微を軽視するハネケ映像と出会った試しがない。

あろうことか、自らが映画監督であるにも拘らず、映像と真摯に向き合う態度を擯斥(ひんせき)して、最後まで作品を観ることなく、審査員席から席を立ったと言われる、思い切りナイーブなヴィム・ヴェンダース監督の非礼な態度で話題になった「ファニーゲーム」 (1997年製作)ですら、クローズドサークル(出口なしの状況性)の時間の中で、反撃能力を失うほどの一撃を受けた夫婦が寄り添い、必死に助け合ってい く切迫した心情を、10分間に及ぶ長回しのうちに的確に描き出していて、それが深い感動を呼ぶ作品に仕上がっていた。(注2

要するに、ハネケ監督は、そのテーマの本質に最も肉薄する出色の能力を駆使して、常に完成形の映像構成(「最適なフォーマット」)を構築し得る監督なのである。

たまたま本作が、「自分が本当に愛している人の苦しみを、どういう風に周りの人が見守るか」というテーマであるが故に、彼の作品を忌避していた観客を引き寄せる効果を生んだだけであって、一貫して、「テーマ性の最適化」を具現していく能力の高さにおいて、本作もまた、ハネケ映像群のカテゴリーに含まれる一篇でしかないということなのである。

いつも書いていることだが、それでも敢えて書く。

内包するテーマごとに、例外なくベストの映像を構築するミヒャエル・ハネケ監督は、他の映画監督を常に周回遅れにさせるほどに、現代最高峰の映像作家である。
 

(注1)「障碍者の描き方の違和感」と題した、作品に言及したあるレビューを、以下に紹介する。

「ジョゼと虎と魚たち」より
「障碍者の描き方があまりにも無理解で、現実性のかけらも無く、侮辱的なため、とても後味の悪い映画と言わざるを得ません。(略)実際の障碍者が観たらどう感じるのか気になり、ジョゼと同じように両足が不自由な母に観てもらいました。母は55歳両足麻痺の重度障碍者で生まれも育ちも大阪です。普通学校でなく養護学校へ行ってたので、同じような障碍者の友達もたくさんいます。母の感想は・・・ やはり、相当立腹して不快感の山盛りで、観てもらって悪いことをしてしまったと思いました。

母の言い分を口述筆記します。 まず、ジョゼが背の高い椅子からドスンとジャンプする印象的な場面ですが、これがそもそも有り得ん。 障碍者は自分の残された器官を大切にする。健常者が自分自身の体について考えるよりも、より慎重に自分の体をいたわる。 唯でさえ不自由な体に、こんな乱暴なことをする障碍者は見たことが無い。そもそも何の病気かわからん設定やのに、脊髄が損傷しているせいかもしれへんのに、こんなことしてたら背骨ボロボロになるやんか!

(略)福祉からバリアフリーの改築にきたけど、あの福祉の人はどこを見とんねん? 流し台の下をちょっとくり抜いて、足が入れられて座って調理できるようにして、板張りしたら終わりかい?(略)どうしてもジョゼが、床の上を這う卓袱台の高さの生活をしたいと言うのであれば、流し台を低くしろ!そんなこともしないで内装だけこぎれいにして終わりなバリアフリーって、いったい何の役にたったん?」


(注2)以下、そのシーンを、些か長いが、拙稿の「人生論的映画評論 ・ファニーゲーム」から引用したい。


カーレースを放送するテレビ画面に大量の血が飛び散っていて、床には撃ち殺されたショルシ(最初に射殺された夫婦の一人息子の名)の遺体が横たわっている。

 ここから、二人が立ち去った後の映像は、10分間に及ぶ長廻しのシーンが描かれるのだ。

 下着姿で両手足を縛られたアナ(妻の名)が、何とか立ち上がり、ショルシの遺体に眼を向けることなく、腰を使ってテレビを消す。

 「行ったわ・・・行っちゃったわ」


「ファニーゲーム」より
足を骨折して横たわっている夫に、確認を求めるように言葉をかけた。

夫からの反応はない。

 この間、3分間。

 まるで静止画像のようだ。

 「ナイフを持って来る」

 そう言って、縛られた状態のまま、両脚飛びで移動するアナ。

 居間に一人残されたゲオルグ(夫の名)は、動かせない体を半身立ち上げるが、そこまでだった。

 号泣するゲオルグ。

 そこに、ナイフで紐を切り落し、自由になっていたアナが戻って来て、夫を抱きしめた。

 「落ち着いて。深呼吸して・・・お願い、あなた!いいわね。深く息をして」

 この間、6分間。

 「ここを出なくちゃ。戻って来るかも。支えたら、歩ける?」

 このアナの言葉が出るまでの間に、8分間が経過した。

 「やってみよう」

 粗い呼吸を続ける夫が言葉を発したのは、そのときだった。

 アナは渾身の力を込めて、痛みで苦しむ夫を担ぎ上げ、一歩ずつ移動していくのだ。

 

「ファニーゲーム」より
「アナ、見るな!」

 息子の遺体に一瞥した妻を、制止する夫。

 ここで、10分間に及ぶ長廻しのワンシーンが閉じたのである。

 凄まじいまでのリアリティに、観る者は圧倒されるだろう。

 継続的に暴力を受けた者の圧倒的な恐怖の現実が、そこにあった。

 このように救われようのない状況を、まるで記録映画のように冷徹なカメラが捕捉し、夫婦の恐怖感をマキシマムに表現していくのだ。

 殆ど死を覚悟している心境下にあって、いつ襲いかかってくるやも知れぬ恐怖に震えながらも、必死に助け合おうとする夫婦の振舞いを描く長廻しのシーンに、少なくとも、私は異様な感動を受けた。

 身動き取れない夫を、担ぎ上げて移動するシーンは、ハリウッドなら「スーパーウーマン」の馬力を描くことで簡潔に処理したはずだ。

 しかし、本作は違った。

 無様とも見えるような格好をして、苦労して担ぎ上げ、容易に移動できない描写を延々と繋ぐのだ。

 この何気なくスルしてしまうシーンを描き切った作り手の、その人間心理の洞察力と観察眼の鋭利さに、私は言葉を失った。

 
「ファニーゲーム」より
長廻しのシーンの直後、思わず吐き戻す妻を案じる夫に、なお気配りして笑みを送る妻の、人間の限界を超える辺りの行動を、ぎりぎりまで描き切った一連のシークエンスに、私は言葉を失ったのだ。


 何という完成度の高さなのか。

 これは、人間ドラマとしても一級品なのだ。

(以上、拙稿・「人生論的映画評論 ・ファニーゲーム」より)



2  縹渺たる風景を視界に収納するイメージの循環の向うに霞む冷厳なリアリティ



恐らく、このような性格の人が、このような状況に捕捉されたら、このような思いを吐露し、このような振る舞いに及ぶということを真に理解するには、自らが身体介護の経験をした人でも困難だろう。

ま してや、このような状況と無縁なゾーンで、心地良き幻想を繋いでいる人には、そこで描かれた物語の壮絶さに表層的なイメージを抱き、観念の世界で怯えて も、自らの総体を預け入れる安寧の生活圏への移動を果たしてしまったら、そこで不必要な情報を綺麗に浄化する者の如く、映像という名の虚構の世界と切れて いくに違いない。

それが普通であり、特段に茶々を入れる何ものもない。

自 らがそこを通過することによってしか、その縹渺(ひょうびょう)たる風景を視界に収納するイメージの循環が、内的に交叉する知覚の目立たぬ現象として惹起 し得ても、とどのつまり、その仕切りの向うに霞む冷厳なリアリティが、この世に鋭角的に存在する事態を認知することは、心念々に動きて、時として安からず の心境だろうが、それもまた、人間社会の実相であると言っていい。

それでも、これだけは言える。

他 者に対する絶対依存なしに生きていけないような人が、その現実を永久に受容することに対して耐え難い精神的苦痛を感じ、その苦痛がクリティカルポイントの 際(きわ)で継続的に騒いでいて、もう、その歪んだ風景を変容し切れないと括ってしまったら、物語のアンヌのように、切迫した心境に辿り着くしかないとい う辺りにまで持って行かれるはずである。

アンヌ
アンヌは言った。

「長生きしても無意味ね。症状は悪化する一方よ。先の苦労が眼に見えてる。あなたも私も」

知人の葬儀から帰って来た夫ジョルジュに、葬儀の話を求めた妻が、渋々ながら、葬儀のエピソードをユーモア含みで語る夫の話の渦中で、突然、アンヌは本音を吐露するのだ。

一瞬、「間」ができる。

「苦労とは思わん」とジョルジュ。
「嘘をつかないで、ジョルジュ」とアンヌ。

再び、長い「間」の中から、ジョルジュは言葉を繋ぐ。

「もし、逆の立場なら?私にも同じことが起こり得る」
「・・・そうだけど、想像と現実とはかなり違うものよ」
「日々、回復している」
「もう、いいの。あなたには感謝してるけど、もう終わりにしたい。自分自身のためよ」
「嘘だ。君の考えることは分る。自分が私の重荷だと。でも、逆の立場ならどうする?」
「さあ、そんなこと考えたくもない」

そんな会話の後にも、体の話をされるから、娘婿のジョフに来られたくないと、ジョルジュに語るアンヌ。

彼女の心は、もう、他者の訪問を受容し切れないほどに、自らが堅固に拠っていたプライドラインを、苦衷の相貌のうちに後退させていく以外に自己防衛の方略がなかったのである。

それでも、ベッドで仰向けに寝ながら、脚の上下運動をするアンヌ。

劣化した腕力で、PT(理学療法士)に代わって、必死にリハビリをサポートするジョルジュ。

洗面台に顔を乗せて、顎の下にタオルを敷いて、ジョルジュに洗髪してもらうアンヌ。

そんな努力の甲斐もなく、尿を洩らした屈辱で涙を見せたアンヌは、電動車椅子を操作し、思わずその場から離れていく。

「落ち着いて」

労わるジョルジュ。

それが、夫のジョルジュから、不自由な右半身を庇って、右手を駆使して読書する姿形を恥じるアンヌの、ぎりぎりのプライドラインの巡らせ方だった。

元はと言えば、頸動脈が動脈硬化で細くなる重篤な疾病である、頸動脈狭窄を患ったことに起因する。

成功率の高い手術が失敗に終わり、右半身麻痺になって退院したアンヌのために、電動ベッドが窓の近くに運ばれるや、年老いた彼女の未知なるゾーンでの生活が開かれるに至ったのである

「もう、入院だけはさせないで」

これが、アンヌの堅固な意志に結ばれ、ジョルジュとの「約束」になっていく。

入院の拒絶が意味する事象が、自宅を「終の棲家」にすることと同義であるのは、言うまでもなかった。



3  私とアンヌの心の風景の近接点と、その決定的差異



以上のアンヌの心の風景は、私自身が経験した現実を、ほぼトレースするものである。

私もまたアンヌであり、今でもなお、アンヌであり続けている。

そこだけは絶対に譲れないものを持つ、自我のプライドラインの巡らせ方において、殆ど同質の構造を成しているからである。

夫から深く愛されていることを認知しつつも、その夫に絶対依存する現実を全人格的に受容し切れないアンヌは、いよいよ劣化していく身体が累加してきた負の様態の冷厳なリアリティに対して、常に屈辱的自己像を拭い切れない厄介な存在の在りようを晒す以外になかった。

私の場合、アンヌがそうだったように、電動ベッドから転倒したら自力で這い上がれず、配偶者の助けを得て、正岡子規の如く、何とか、小さな体一つ分が収納し得る狭隘なる「病牀六尺」の、特化されたスポットのうちに潜り込んでいく。

転倒したら全てアウトという現実が突き付ける、切っ先鋭い悪魔の告知は、プライドラインを戦略的にどれほど後退させても、払拭し、浄化し切れない凄惨な自己像の風景そのものなのだ。

しかし、私はアンヌではない。

アンヌとジョルジュ
彼女のように、読書する能力をも持ち得なかった。

ガードレールクラッシュから13年を経てもなお、一秒たりとも、首から下の身体の組織は丸ごと麻痺していて、一冊の文庫本を持つ腕力すらもなかった。

辛うじて、このように、パソコンのキーボードを、麻痺の弱い人差し指で打っていく行為のうちに具現し得る、ほんの僅かなアイデンティティーだけが微かに生き残されていた。

当然、食事も自力で摂れない。

腰の傷みがあるため、アンヌのように、電動車椅子に座ることすら儘ならないのである。

だから、私仕様の車椅子は、狭い廊下の隅で、10年以上もの間、埃を被っている。

その程度なら我慢できるかも知れない。

アンヌがジョルジュの前で思わず泣いてしまったように、ベッドの中で洩らしてしまう屈辱は、「もう終わりにしたいわ」という言葉が含意する破壊力そのものであった。

私も何度、洩らしてしまっただろうか。

その度に、配偶者に下半身を洗浄してもらった上に、ベッドのシーツなどの取り換えを、情なく目視しているだけだった。

そして、私の屈辱的自己像の極点にあるのは、排便という極めて耐え難い日常である。

便意を催すことが難儀な私は、妻に毎朝欠かさず、肛門に指を突っ込んでもらって、便の有無を確かめてもらうのだ。

 便の量がどのくらいか、それが硬いか柔らかいかを瞬時に判定してもらって、私のその日のトイレ行きが決められる。

しばしば、便の量が肛門一杯に広がっていて、石化したように硬いことがある。

そんなとき、私は朝から、この手強い老廃物を排泄するための格闘に挑むのだ。

 トイレで座ること三十分。

  私の劣化した腹筋や肛門括約筋のパワーでは、基本的生命維持の作業に全く太刀打ちできない。

決まって私は、妻に助太刀を頼む。

肛門からの最初の硬い便を砕いてもら い、自力で排便できる程度まで掻き出してもらうのだ。

これを摘便と言う。

この摘便なくして、私の生命の保障はない。(注3

こうした強引な排便のため、私は常時、 痔に悩まされているが、そんなことは取るに足らないことだ。

 殆ど屈辱的なこの排便の後、私はブルーな気分にしばしば捕縛されるが、それはあまりに自分勝手な自我の迷走だ。

摘便を受ける私の屈辱は、摘便する相手の行為の献身性を一欠片でも生き残させないことになる。

それは摘便によって存在できたものが、その存在性そのものの拠って立つ何かを崩してしまうという危うさを抱えているのだ。

 私の自我を恐怖で呪縛した時間の重さは、自死のリアリティを凄惨に引き摺って、生存としての摘便の前に、ただ打ち震えるだけだった。

 摘便という行為の中に、私の現存在性の本質的な何かがある。

 乾燥した皮膚に囲繞された肛門から掻き出されてくる糞便の束は、観念としての自死を突き抜ける圧倒的な生命そのものである。

その生命の滾(たぎ)りは、捩(よじ)れ切った視界を覆蔵する、一人の障害者の屈辱感を、跡形もなく溶かしていかない限り、その者の崩れは内側から確実に液状化し、地盤の支持力が奪われていく。

崩れはいつでも内側か ら、深く静かに潜行していくのだ。

何より厄介なのは、これらの日常が、私の脳裏に正確に記憶させていることなのだ。

私は、頸の骨を3本も折る重度な脊髄損傷者であるが、幸いにも、ほんの少し骨の部所がずれていたために、四肢麻痺にならず、辛うじて〈生〉を繋いでいるが、全ては配偶者である妻の献身的介護のお陰である。

だから、安楽死を常に懇望しながらも、私の自我の拠って立つ安寧の絶対基盤になっている妻の屈託のない笑顔と出会う度、「いつかくる、その日」を先延ばしできる余裕が生まれる

そこが、私とアンヌの〈状況〉の決定的差異である。

決定的差異であるが、残念ながら先延ばしされただけで、本質的差異ではない。

然 るに、この差異の大きさは、自らが直接介護する意志を持ち得ない娘エヴァを含めて、介護という名の仕事のプロを自任する女性看護師の仕事のうちに、柔和な る風景を具現し得ない現実を目の当りにしたジョルジュが、看護師を馘首した結果、他者に代わり、老身を削って、自らが介護する決意のうちに結ばれていった 経緯の厳しさでもあった。


(注3)自力で摘便できないのは、両手の握力がゼロであり、全く役に立たない左手ばかりか、肝心の右手に負荷をかけられないから(痛みと折り合いをつけながら、1字ずつ丁寧に打つパソコンは私のリハビリ)、悔しいけれど、助太刀なしに私の日常は成立しない。



4  「身体表現」と「視線」との化学反応の極点が、「安寧の境地への観念的跳躍」に変換していく究極の物語    



単身介護を決意するジョルジュの行為の契機は、女性看護師の事務的作業への激しい苛立ちから開かれた。

「痛い、痛い」

介護を受ける度に発するアンヌの小さな叫びの連射は、単に、彼女の暗欝な心の風景を映し出しただけではない。

アンヌの全人格の総体が感受する集合的な負の文脈が、矢継ぎ早に連射されるこの言葉のうちに収斂されていくのだ。

また、二人目の女性看護師のケースでは、彼女に特段の悪意がないのだが、本人が嫌がるのを無理に、髪を梳かして、その顔を鏡で確認させようとする行為は、社会的弱者への心理的虐待を充分にイメージさせるものだった。

このときのアンヌの拒絶を、「疾病利得」を逆手に取った、厄介な老人の振舞いなどと見下してはならない。

確信的に言えるが、そこで脈打っている彼女の内面風景は、自我のプライドラインを後退させてもなお、集中的に侵入してくる特定他者に対する、それ以上譲れない者の尊厳性への拘泥感覚なのだ。

それは、冒頭でも言及したように、このような性格の人が、このような状況に捕捉されたら、このような思いを吐露し、このような振る舞いに及ぶという、その典型的検証なのである。

以降、アンヌの思いを汲み取ったジョルジュは、特定他者の訪問を頑なに拒絶する。

鳩を窓外放つジョルジュ
これは、鳩の闖入という分りやすいメタファーによって映像提示されていた。

ジョルジュの内側に張り付く、「外部闖入者の拒絶」の意志を支え切っていたのは、アンヌの尊厳性を守り切れるのは、年老いた自分以外にないという覚悟である。

この辺りに、この映画の奥行きの深さを読み取ることが可能である。

即 ち、私の見方では、舞台劇仕立てのこの映画は、隙間すらも洩れ出ないような、鍵によって施錠された閉鎖系の限定スポットで、妻アンヌの「身体表現」の切迫 した状況性を柔和に囲い込むことを、決して余命が長くない己が人生の定言命法にしているかの如き、夫ジョルジュの「視線」の主脈が伸び切っていて、いつか 襲来する「非常時」の極点に至るまで、時には炸裂する情動反応を包括しつつ、その「身体表現」と「視線」との化学反応が濃密に交叉し、もうこれ以上守り切 れない尊厳性を保持した延長線上に、「覚悟の道行き」を「安寧の境地への観念的跳躍」に変換させていく究極の物語であると考えている。

後述するが、それ故にこの映画は、ハネケ監督が言うように、「自分が本当に愛している人の苦しみを、どういう風に周りの人が見守るか」という、「テーマ性の最適化」を具現し得る問題意識によって構築されているので、それ以外にない〈状況〉に捕捉された老夫婦の、その「援助感情」の極点を描き切った物語のうちに収束されるのは必至だった。

ところで、ここに、この映画の中の最も重要なシーンの一つがあるので、それを再現する。

昼餉の食事を中断したアンヌが、ジョルジュにアルバムを取ってもらって、それを一枚一枚捲(めく)っていくシーンである。

このシーンの中で顕在化されたもの ―― それは、アンヌの「身体表現」とジョルジュの「視線」が、映像の中で初めて、印象的に化学反応を起こしていくシーンであるからだ。

「素晴らしい」とアンヌ。
「何が?」とジョルジュ。
「人生よ。かくも長い。長い人生」

ジョルジュの「視線」
ここで、アンヌを見詰めるジョルジュの「視線」が印象的に映し出された。

「じっと見ないで」とアンヌ。
「見てないよ」とジョルジュ。
「見てるわ。そこまで私もバカじゃない」

このシーンにおけるジョルジュの「視線」の振れ具合が、この物語のエッセンスを凝縮するものであり、本作の全てと言っていいかも知れない。

アンヌの「身体表現」を常に捕捉するこの「視線」の中で、ジョルジュは、閉鎖系の限定スポットで一貫して呼吸を繋いでいくからである。

ではこのとき、アンヌは、なぜ、アルバムを見ようとしたのだろうか。

それは、単にまだ、右半身に麻痺の残る重篤な患者の一人に過ぎなかったアンヌが、その重篤性を自ら経験する厄介なエピソードを、このシーンの前で露わにしていた事実と関係するだろう。

自力でベッドから動こうとしたアンヌが、ベッドから転倒したのである。

咄嗟に大声を上げた。

キッチンで食事しているジョルジュが慌てて駈け込んで来て、独りでもがいているアンヌをベッドに運び入れた。

唯一、機能し得るアンヌの左手がベッドを押さえ込んでいても、肝心の右脚が麻痺しているので、自力でベッドの中枢に潜り込めないのだ。

この屈辱感が、アンヌに、自分が負った障害の重篤性を、より鮮烈に認知させていた。

彼女は、自らの「身体表現」の決定的脆弱性を、ジョルジュの「視線」のうちに捕捉されてしまったのである。

そして昼餉のシーンにシフトするが、その間、先日訪れた弟子のピアニストから、アンヌは手紙を受け取っていた。

「心から回復を願ってます。貴方の愛弟子より」

この手紙を読むジョルジュの言葉に聞き入るアンヌ。

「CDを止めて」

アンヌの自己像
音楽家が贈ってきた、自分のピアノ演奏を録音したCDを止めさせるアンヌの心理を支配する感情は、二回の手術に失敗し、医師から治癒の見込みを断たれた事実を宣告されたに均しい状況下に置かれた者の、決定的な喪失感である。

それでも、弟子の訪問と手紙に刺激を受けない訳がなかった。

だから、昼餉の場で、アルバムを捲っていくアンヌがそこにいる。

「人生は素晴らしい」

こ のアンヌの言葉は、単にノスタルジーに浸っていく者の心情というよりも、治癒の見込みを断たれた現実を認知する心的状況の渦中で、唯一、機能し得る左手を 駆使し、眼鏡をかけ、アルバムを捲っていく能力、即ち、未だ全てを失っていないという存在性を、敢えて自己確認せざるを得ない反転的な感情が心理的推進力 になっていたとも考えられる。

従って、このときのジョルジュの「視線」は、「人生は素晴らしい」というアンヌの言葉に、当然ながら違和感を抱く者の本音の身体化であると言っていい。

「かくも長い。長い人生」

これが、アンヌの本音なのだ。

それが分っているからこそ、ジョルジュの「視線」が、より鋭角的になってしまったのである。

なぜなら、アンヌの転倒した夜、ジョルジュが「悪夢」を見ていた暗然たるシーンが想起されるからである。

ジョルジュの「悪夢」。

それは、玄関のチャイムが鳴って、歯磨きをしていたジョルジュが玄関に行っても、そこに誰もいなかった。

「誰かね?」

そう返事しても、何の反応もない。

「誰だ!」

そう叫ぶや、水浸しの中で、後方から何者かに口を塞がれて、叫びを上げる。

ジョルジュが眼を覚ましたのは、このときだった。

それは、アンヌを介護する行為によって、彼女を守り続けていくことの限界が、じわじわと、しかし確実に肥大していく現実の恐怖が、自我のコントロールし得ない世界で惹起したことを意味するのだ。

アルバムを捲っていくことで却って露わにされる、アンヌの反転的な感情を凝視するジョルジュの不安感は、その直後に出来したアンヌの「お漏らし」によって露呈されるに至るのである。

全ては、ここから開かれたのだ。

言語交通が困難になり、コミュニケーションの成立すらも覚束なくなっていく。

他人との接触を嫌悪するアンヌの内的風景を把握するジョルジュの「視線」は、アンヌを守り続けていくという硬質化した観念性が、しばしば情動の炸裂のうちに身体化されるのは必然的だったという訳である。

だから、ジョルジュの「視線」の主脈が捕捉する、アンヌの「身体表現」の状況性が劣化すればするほど、ジョルジュはアンヌの尊厳性を保持するために、いよいよ、「外部闖入者の拒絶」の意志を顕在化していく以外になかったのだ。

アンヌの二度目の発作があって、認知症の症状も顕在化し、もう、ホスピスしか行く場所がない状況を認知しているジョルジュは、入院を督促する娘に対して、アンヌとの「約束」を盾に拒絶する。

エヴァとジョルジュ
「お前と同じくらいママを愛している。父親をバカにするな。木偶の坊(でくのぼう)だと言うのか」
「今の方法が最善か、疑問に思うだけ」

ロンドンで暮らす娘のエヴァには、それ以上反応できない。

時を経て、アンヌの「身体表現」の劣化を捕捉するジョルジュの「視線」の主脈は、遂に、一人娘のエヴァをも排除していく。

「心配しても役に立たん。悪く思うな。非難しているんじゃない。気にしている暇がないだけだ。ママの容態は日に日に悪くなっている。まるで、無防備な子供のようだ。本人も悲しいし、屈辱的だ。誰にも見られたくないと言っている。それぞれの生活がある。放っておいてくれ」

この文脈総体が内包する風景の凄惨さを、観る者は、果たして共有し得るのか。

カント的な定言命法の形式性をも突き抜けるその集合的言辞の痛ましさは、最後まで客体化して観れなかった私の喉元に、切っ先鋭く突き刺さってきた器物の破壊力そのものだった。

今や、単身で介護するジョルジュが、「気にしている暇がないだけだ」という心境にまで追い詰められている。

アンヌの尊厳性の最終防衛ラインが、ぎりぎりのところで切れかかっているのだ。

「変よ。どうしたの?」

エヴァは狼狽するばかり。

「突然の訪問に驚いただけだ。急に現れて、偉そうなことを言うから頭にきた。そんなに偉いのか!」

ここまで難詰された娘は、反論する気力すら失って、その部屋を離れて行ってしまった。

しかし、その移動の振れ方には、病院に行くことを頑として拒絶する母と、その母を単身介護する父を説得することが不可能であるという現実を格好の口実にして、自らの両親への介護的サポートから一時逃避できる心情が隠し込まれていた。

「では、お前がママを引き取ってくれるのか」

エヴァ
そう言われてしまえば、もう、建前の便法に逃げ込めないのだ。

「覚悟の道行き」を「安寧の境地への観念的跳躍」に変換させていくこと。

ジョルジュの最後の砦が、いよいよ可視化されてきたのである。

子供の頃の思い出話を繋ぎながらの、ジョルジュによるアンヌへの窒息致死の遂行は、「覚悟の道行き」という未知のゾーンへの、暗然たるイメージラインの最終到達点だった。

しかし、それなしに解錠し得ない「安寧の境地への観念的跳躍」への重い扉であったが故に、全人格を乗せて抉(こ)じ開けねばならない苛酷なる所業だった。

思うに、この映画は、「身体表現」と「視線」との化学反応の極点が、「安寧の境地への観念的跳躍」に変換していく究極の物語だったのである。




5  尊厳死の問題の難しさと深淵さ




尊厳死。

この重量感のある概念の身体的変換をこそ、殆どロックドインされたアンヌが切望したものであるを信じて疑わないジョルジュにとって、もう、それ以外に流れ込めない境地の中で、一気にその時間の中枢を駆け抜けていった。

ここで、私は勘考する。

尊厳死(イメージ画像)
尊厳死とは、そもそも一体何なのか。

 一言で言えば、人間が人間としての尊厳を保って死に臨むことである。

 ここで言う尊厳とは、「人間らしさ」を保持している状態を意味する。

 では、「人間らしさ」とは何か。

 厄介な概念だが、私はそれを、「自我が精神的、身体的次元において、統御可能な範囲内にある様態」という風に考えている。

 例えば、耐え難いほどの肉体的苦痛が継続するとき、間違いなく自我は悲鳴を上げ、その苦痛の緩和を性急に求める。

しかし、その緩和が得られないとき、その自我は確実に抑制力を失い、破綻の危機を迎えるだろう。

 或いは、身体の四肢麻痺状態が、その身体の死に及ぶまで永久に続くことが回避できないとき、その患者は自分の身体の介助を他者に絶対依存しない限りその生存の保障はない。

 従って、その患者は、自らの身体の清拭を他者に依存するばかりか、排泄の全面的な介助をも求めざるを得ない。

 

 カテーテルによる排尿を世話してもらうばかりか、糞便の処理まで依存することになるのだ。

 

胃瘻チューブの挿入
口から食事の摂れない患者に対して、胃瘻(いろう=PEG)の処置も常態化するだろう。

た とえそこに、相手の善意を感じ取ることができたとしても、「絶対依存」とも言える、その現存在性を長きにわたり延長させてきて、疾(と)うに機能を失い、 殆ど別の物体と化した自己の身体性に一貫して馴染むことができず、更にその自我が、それ以前から堅持されてきた自己像との矛盾を克服できないとき、人はそ こに、自らの人格としての尊厳を受容することが可能だろうか。

「人間らしさ」の喪失とは、以上の例で明瞭である。

 即ちそれは、自我が自らの現存在性と折り合うことができない状態のことであり、まさに、その折り合いのレベルこそが人間の尊厳の度合いであると言っていい。

 私たちが人間の尊厳について定義するとき、どうしても、そこに抽象的なニュアンスが含まれてしまうのは、個々の尊厳観が微妙に異なり、極めて、その相対度が高いからである。

 そこにこそ、尊厳死の問題の難しさと深淵さがあるのだ。

 それにも拘らず、尊厳死の問題と重厚にリンクする事態を、安易に反故にし得ない現象がある。

 「耐え難き肉体的、精神的苦痛」の状態がそれである。

 なぜなら、人がその状態に置かれたとき、自我が、その状態を統御し得る限界を突き抜けてしまうからである。

本作の中にあって、アンヌが尊厳死を切望した現実を否定できるだろうか。

アンヌの「身体表現」を捕捉するジョルジュの「視線」が極点に達したとき、老妻の懇望するラインの際(きわ)で、老夫はそれを身体化したのである。



6  「援助感情」という「愛情」のコアになる感情の決定力    



た だ、私が言いたいのは、自分にとって、介護の問題が今回の一番大切なテーマだとは思っていません。この映画で社会問題を扱うつもりはなかったのです。私が 扱いたかったのは、自分が本当に愛している人の苦しみを、どういう風に周りの人が見守るか、そういうことを描きたかったのです」

「日本でこの作品が、どう批評されているのかは私にはわかりませんが、おそらく、そこで説明されているような映画ではないと思いますよ。つまり、病気であるとか、死であるとか、そういうものを描いた作品ではなく、これは愛について語られた映画なのです」(映画.com 2013年3月7日更新)

左からミヒャエル・ハネケ監督、エマニュエル・リバ、ジャン=ルイ・トランティニャン

「愛する人が苦しんでいのを、何もできずに見ている人がどうするのか。私の答えよりも、皆さんがどう考えるかです。でもこれは、病気や死ではなく、愛を描いた映画なのです」(ミヒャエル・ハネケ監督インタビュー/インタビュアーこはたあつこ)

ハネケ監督のこの言葉に、私は充分過ぎるほど合点がいく。

私は、愛の本質を「共存感情」よりも「援助感情」にあると考えているので、この映画の全ての描写が私の腑に落ちるのだ。

これは、「自分が本当に愛している人の苦しみを、どういう風に周りの人が見守るか」についての映画であって、そこに、老老介護の問題に矮小化されない限りでの介護」や、「尊厳死」といった副次的なテーマが絡み合っていると考えるのが順当であるだろう。

「援助感情」の振れ具合こそ、ジョルジュの全人格的な存在性の在りようを能弁に語っていたと言っていい。

繰り返し言及しているように、それは、ジョルジュの「視線」の主脈が捕捉する、アンヌの「身体表現」の状況性に鋭敏に反応する行為の総体のうちに集中的に表現されていた。

アンヌの尊厳性を守り抜くように努めるジョルジュの行為は、彼にとって、それ以外にない「援助感情」の振れ方だったのである。


―― ここから映画から離れて、「愛情」のコアになる感情が「援助感情」である、と考える私の持論について書いていきたい。

愛とは「共存感情」であり、「援助感情」であると喝破したのは、現代アメリカの心理学者のルヴィンであるが、彼はそのことを、度重なる心理実験によって確信を得るに至った。

私なりに長く、こ のテーマについて考えてきて、ルヴィンの愛情論の影響を受けた私の把握は単純なものである。

即ち、「愛情」のコアになる感情は、「援助感情」であると結論付けたのである。

 例えば、自分にとってかけがえのない存在に映る他者(A)がいるとする。

Aが元気で溌剌としているときは、こちらも何となくウキウキして、愉しい気分になる。

ところが、Aが深刻な悩みを抱えて悶々とする日々を送っていると、こちらも辛くなり、滅入ってくる。

辛そうなAに対して、何かをして上げざるを得ない感情に包まれる。

居ても立ってもいられなくなるのだ。

 そんな状況の中で、Aの消息が突然不明になったとする。

時間だけが過ぎていく。

こちらは全く何も手がつかず、異様な不安に襲われる。

そんな中で、私は自分ができることを懸命に模索する。

不安のヒットと打開策のリサーチ。

それだけが私の時間となるのだ。

それ以外の時間は、私にはない。

このときの私の内側を中心的に支配する感情 ―― それを私は、「特定他者を救うことが自らの自我を安定に導く感情」と把握した。

これを私は、「愛」と呼ぶことにしたのである。
 
 ルヴィンの言うように、私は愛を「援助感情」と捉えることにした。

そして、その感情は全ての愛の形を貫流する。

だが、ルヴィンの言う「共存感情」は、必ずしも愛の必須要件ではないと私は見ている。

遠くから見守る愛というのも存在するからだ。

そこで私は、対象人格の苦悩こそ、愛のリトマス紙であると考えたのである。
 
 Aの煩悶が空気を伝播して、私の胸を衝く。

私は別に改めて、Aの苦悩を引受けるのではない。

Aの煩悶が私を突き刺すのだ。

私は私の苦悩を苦悩するだけだ。

空気が届けたAの煩悶が、私の煩悶に加工される。

私は私の煩悶の時間に繋いでいくのである。

 煩悶の深さが愛の深さになる。

愛は煩悶によって測られてしまうのである。

私の時間の中で加工された特定他者の煩悶が私の煩悶となって、内側で感受する煩悶の深さが、私の愛の深さになる。

人は愛に包まれているとき、援助しなければならないから援助に走るわけではない。

援助せずにはいられなくなるから、自分にとって何よりも重要な存在である特定他者の援助に動くのだ。


内側から駆り立てて止まない感情が身体を突き動かし、煩悶を燻(いぶ)り出すのである。

 規範や倫理で駆り立てられた身体は、契約感覚でしか動かないし、また動けない。


無論、愛は契約ではない。

 愛する者への煩悶が、私の身体に乗り移ってくる。

 私の身体は空気を震わせながら、魂を焦がしていくのである。

私の中から煩悶が燻(いぶ)り出されてきて、その煩悶が空気を食(は)み、私という固有の総体を突き上げていくのである。

突き上げられた私の総体が、時間の向うを駆けていく。

その感情を自給する力が溢れ出ている間、私の愛は枯れてはいない。


感情の貧困は愛の貧困であり、関係の貧困であるからだ。

 

また、援助に向かう感情は、同時に援助を乞う感情でもある。

 それは自らを駆り立てる感情であり、駆り立てたものを受容する感情でもある。

この二つの感情が濃度を稀薄化せずに溶融するとき、関係が手に入れた達成幻想は、 心地良さの感情を大いに醸し出しているだろう。

煩悶の先に待つものへの恐怖心は、既に相対化されているのだ。

達成幻想のそこはかとない気分が、自我に付着する厄介な棘の何本かを抜き取っているからだ。
 
 果たして、援助なしに愛はどこまで可能なのか。

愛というものを、単に性的な側面や、その情緒的な共存感覚だけでイメージしてしまうと、その深みの形成の微妙な連動性が把握できないに違いない。

煩悶する人格への援助に引っ張られていくときに、連動する感情が自我に鮮明な記憶を刷り込んでいく。

これがプールされて、特定他者の特定的な思いを強化していく。

この特定的な思いが、愛という名の推進力でないわけがない。

 何を失っても、これだけは失いたくないと人々に思わせる何か。

それは、「愛のある心の中の風景」である。



7  愛のある心の中の風景 ――  「愛、アムール」という名の完璧な映像の軟着点   



物 語の風景を俯瞰するとき、ジョルジュの援助に向かう感情が、それを乞うアンヌの感情との間に、二人の本来的な均衡感を、ほぼ言語的、且つ、非言語的コミュ ニケーションによって保持し得る最終局面で確認し合ったと感受したとき、ジョルジュは、「安寧の境地への観念的跳躍」に変換させていく究極の行為に流れて いったことを確認せねばならないだろう。

「とても・・・たの・・・楽しかった」

ジョルジュとの最後の会話の中で、50秒ほどの時間を要して、その一言に辿り着いたアンヌは、なお機能する左手を移動させ、ジョルジュの手を包み込んだのである。

アンヌの柔和な「身体表現」に「視線」を落としたジョルジュは、その左手に自らの右手を被せていく。

明らかに、ジョルジュに対する「感謝」と「別離」のシグナルだった。

その瞬間(とき)こそが、アンヌの「身体表現」と、ジョルジュの「視線」との化学反応の極点だった。

ジョルジュの内側で、「覚悟の道行き」が観念的に固まっていったに違いない。

あとは、タイミングだけだった。

そして、その時がやってきた。


アンヌの「身体表現」が生きている際(きわ)で遂行された、「安寧の境地への観念的跳躍」。

子供の頃の話して、束の間、時間を繋いだ後、軽い眠りに就くアンヌの痩身の上に、目一杯、老いた自分の身体を乗せて、アンヌの呼吸を奪ったジョルジュは、ベッドの淵で粗い呼吸を吐き出していた。


その後、ジョルジュは、イギリスを中心にヨーロッパで人気のある白い菊の花を買って来て、その花を丹精込めて短く切って散らせていく。


ここで再び、中庭から侵入して来た鳩をブランケットで捉え、今度はそれを胸に抱き、優しく撫でた後、戸外に逃がすが、このメタファーの含意は、同様に、ブランケットで包むように窒息死させたアンヌへの慈愛の表現であり、そのアンヌの魂を解放系にアセンション(昇天)させたという意味だろう。 


一切を終えて、ベッドに横たわるジョルジュの耳に、キッチンの方から食器を洗う音が聞こえてきた。

ベッドから起き上がって、キッチンに行くと、元気な盛りのアンヌがいて皿を洗っていた。

「あと、もう少しよ。先に靴を履いてて」

アンヌの言葉に促されて、外出の準備をするジョルジュ。

アンヌにコートを着せてやるジョルジュ。

「ありがとう。あなたはコートを着ないの」

この二人の長きにわたる言語交通の習慣から、自然裡に出てくる短い会話の中に、穏和な関係を繋いできた夫婦のイメージラインが集中的に表現されていた。

コートを着て、アンヌと共に外出するジョルジュ。

ジョルジュの観念のとば口に元気横溢のアンヌがいて、二人で外出する幻想の世界が、今、そこに開かれていたのである。

死はどこまでも観念でしかないが故に、この跳躍もまた、観念の世界で遊泳するだけなのだ。

既に、アンヌの「身体表現」は、死という未知のゾーンに引き渡されていて、その未知のゾーンに引き渡した男もまた、妻が待機しているであろう世界に旅立っていったのである。

ラストシーン。

時を経て、「事件」が惹起した中枢スポットに、娘のエヴァが訪れる。

玄関の扉の鍵を解錠したエヴァの視界に収まった光景は、あれほど閉鎖系に仕切られていた部屋の扉の一切が開かれていて、まるで、舞台劇仕立ての物語のセットを垣間見せるような、全く異質な空間の広がりを見せるのだ。

穏やかな表情のエヴァは、今は亡き両親が、静かで温和なる時間を過ごした居間で、その余韻を味わうように、束の間、寛ぐのである。

その印象深い風景は、ようやく心の整理がついた娘が、再訪するのに必要な時間が経過していたことを暗示する。

ここで、かつてエヴァが、入院中の母を案じて、父に語った言葉が鮮明に想起される。

父ジョルジュが、医者嫌いのアンヌのことを考えて、看護師を頼むか、自ら介護するか迷っていることを、娘に吐露した際の短い会話である。

「夫婦で困難を乗り越えてきたが、また新たな局面だな」

父は、娘にそう言った。

このとき、娘のエヴァは、こう反応したのである。

「不思議ね。さっき急に、子供の頃を思い出したの。二人の愛し合う声を盗み聞きしていた。聞くと安心するの。両親の愛の絆を確認できるから」

それは、子供の頃のエヴァにとって、それを聞けば安心すると言わしめた、両親の絆を確認させるに充分な「愛のある心の中の風景」だった。

「愛、アムール」と題する、完璧な映像の軟着点が、そこに待機していたのである。


【参考資料】


(2013年10月)


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